金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 天橋嶺の吹雪


 われわれが遠征隊の軍事的・政治的任務を遂行し帰路についたのは、1935年1月下旬であった。

 汪清の対頭拉子を発つとき170人を数えた部隊は5、60人に減っていた。遠征初期、延吉中隊を東満州に帰したわたしは、琿春中隊も寧安から撤収させた。敵の囲攻作戦から革命の策源地を防衛すべき急迫した情勢がかもしだされていたからである。3か月間のあいつぐ戦闘で、われわれはかなりの死傷者を出し、負傷者もみな安全地帯に送ったので、隊員数は3分の1に減少してしまった。

 しかし、部隊を補強することはできなかった。遠征隊がとどまった村では、入隊志願者がかなりいたが、彼らはみな周保中部隊に送った。周保中は、われわれの帰路をたいへん気遣った。

 「情報によれば、敵は金日成部隊の行方を血眼になって探している。ただでは帰さんという心算らしい。この冬、彼らはさんざんな目にあったのだからね。正直にいって、君の身辺が心配だよ」

 わたしの顔にそそがれた彼の視線には、不安な色がただよっていた。

 「ありがとう。今度も老爺嶺の吹雪がわれわれをかくしてくれるだろうから、そんなに心配することはないよ。なんとか無事に帰れるだろうから」

 わたしを気遣う彼の友情はありがたかったが、わたしはこともなげにいった。

 「死地におもむくというのに、こんなにのんきなんだから、金司令はあいかわらずの楽天家だ」

 周保中は帰路についたわれわれのために、もっとも安全なコースを選定したうえ、100余人の反日兵士をつけてくれた。そのコースは、われわれが北満州に向かったときの対頭拉子−老爺嶺−八道河子の正常コースとはまるで異なる、天橋嶺−老爺嶺−八人溝の迂回コースであった。それは、敵の配置地から遠く離れた山道であった。彼の話では、敵の意表をついたコースである。

 このコースには、周保中よりも平南洋がくわしかった。彼はわたしの肘をたたいていった。

 「天橋嶺の方に抜けるのがどう見ても無難です。そっちの伐採場には食糧がたくさんあるし、討伐隊も天橋嶺の方にはめったに現れません。それは、わたしが受け合います」

 天橋嶺は文字どおり、山容が天にかけた橋のように見える峻険な高山であった。わたしは北満州の同志たちが勧めるとおり、天橋嶺−老爺嶺−八人溝の迂回コースをとって間島に帰ることにした。老爺嶺を越えるほかの2、3のコースは、すでに敵が封鎖していた。

 われわれは北満州の戦友たちに見送られて、周保中の山小屋を出発した。凍った土に枕もなく横たわっている李成林など多くの戦没者の墓に土を盛ることも墓碑を立てることもできずに、間島に帰るわれわれの胸は引き裂かれんばかりに痛んだ。さらば、戦友たちよ!

 国が独立すればあらためて訪ねてくる。いまは遠い他郷の凍った土に君たちを置いてゆくが、解放の日を迎えたら故郷の山に背負っていこう。君たちの霊前に墓碑を立て、祭壇を置き、まわりに花木を植えて毎年墓参もしよう。戦友たちよ、その日までさようなら。わたしは、北満州の荒野に倒れた戦友の冥福を祈り脱帽して3分間黙祷するよう、全隊に命じた。

 寧安の名も知れない峰や谷に、着たきりの軍服に包まれて横たわっている戦友たちに安らぎを与えようとでもするのか、北満州の空は、その日も大雪を降らせた。それは、われわれの足跡を消してくれた。行方をかくしながら行軍するにはうってつけの天気だった。

 しかし、天の思いやりも、鷹の目のように鋭い敵の監視を曇らせることはできなかった。遠征隊が海抜700メートルほどの尾根で、北満州の同志たちから贈られた心づくしの昼食を食べてしばらく休息しているとき、敵の討伐隊が遠くに現れた。平南洋が名誉をかけて安全を保障したこの千古の密林地帯で、ひそかに追撃してくる敵軍を発見したのは、まったく思いがけないことであった。遠征隊員は、目を丸くして、なんということだ、道に迷ったのではないか、せめて帰り道だけでものんびりしようとしたのに、あんなに追撃してくるようでは休むどころか、うるさくてやりきれなくなった、とこぼした。そんな気構えでは、部隊がうまく帰路を切り開けそうではなかった。

 わたしは、出発そうそう弱気になったり、気をゆるめたりしないよう、隊員をいましめるべきだと思った。

 「諸君、われわれはここ数年ずっと敵の包囲の中ですごした。前後左右に敵がいたし、空にも敵がいた。パルチザンのいるところには、どこにも敵がいた。行軍中、敵の追撃を受けたことのない者がいるなら、そういってくれ。われわれの抗日戦史に、銃声も白兵戦もなかった安全な行軍がはたして何回あっただろうか。戦友諸君、だからわれわれは、この行軍でも戦う覚悟をしなければならない。戦うこと、これは、われわれが包囲を突破して間島に帰る唯一の活路だ」

 遠征隊員たちは、わたしの話を聞いて心を引き締めた。

 わたしは、追撃してくる敵の実情を確かめるために偵察班を送り出した。彼らは、敵の尖兵を襲って二人を捕虜にしてきた。彼らは陳述のなかで、われわれとの相つぐ戦いで惨敗を重ねた靖安軍部隊長美崎の名をたびたび口にした。遠征隊にひどい目に合った美崎は、敗戦の恥をそそごうと重ねて兵力を増強した。その部隊が、われわれを追撃している討伐隊であった。

 9.18事変直後、関東軍参謀小松少佐の指揮下に関東軍に協力する特別独立軍の名目で組織された靖安遊撃隊は、靖安軍の前身で日満一体の混成部隊であった。

 1932年11月、満州国軍の建軍とともにこれに編入された靖安軍は、司令官藤井重郎少将以下指揮官の3分の2が日本人であった。靖安軍には候補生隊というのがあったが、その大半は17、8歳で日本本土出身の中学卒業生であった。靖安軍は、兵器、被服類を関東軍から支給された。袖に赤い布を巻いたので「紅袖隊」ともいったが、「常在戦場」、つまりつねに戦場にのぞんでいるという精神で教育し、「大和魂」に加えて悪質な「靖安魂」を鼓吹した。

 この部隊の中国人は、大半が有産階級の子弟で日本語が巧みであった。日本に忠実な者たちで組織された靖安軍は、共産主義者の遊撃戦に遊撃戦で対抗するつもりであった。これは、靖安軍の主な活動目標が、わが遊撃隊の掃滅に向けられていることを示していた。

 当初、靖安遊撃隊の兵力は、日本軍の1個連隊を多少上回る3000人程度であった。美崎は、靖安軍歩兵第1連隊の連隊長であった。彼の部隊は、靖安軍のなかでももっとも悪質であった。この部隊の討伐にあえばどんな強兵でも多くの犠牲を出す覚悟をしなければならなかった。彼は管下の部隊が掃滅されると、ただちに、ほかの部隊を補充した。彼には、人民革命軍遠征部隊に連続攻撃を加える十分な予備兵力があったのである。

 しかし、われわれには、犠牲者に代わって隊伍を補充できる予備がなかった。われわれは、追撃してくる敵と、日に4回も5回も銃撃戦をくりひろげなければならなかった。われわれが行軍すれば敵も行軍し、われわれが宿営すると敵も宿営した。彼らは、こちらがねをあげるまで追跡をやめない執念深い部隊であった。

 周保中がいったように、靖安軍は、われわれが金日成部隊だということ、兵力がどれほどでどんな戦術を使うかということ、天橋嶺一帯とその近くにはわれわれを支援しうる共産軍兵力がないということまで熟知していた。日本軍は、諜報活動にたけていた。われわれは、手のうちを見すかされていたようなものである。

 敵は、「われわれが100人倒れても、共産軍を1人倒せればたいへんな利益だ。われわれは100人を補充できるが遊撃隊は1人も補充できない」とうそぶき、たえず新手を繰り出した。彼らは兵力の予備が多かったので、押しも強かった。靖安軍の思惑は、1000人の犠牲を払っても間島からの遠征隊を全滅させることであった。そうすれば、金日成の運命もつき、金日成がいなくなれば、朝鮮共産軍も反満抗日もそれまでだというのである。

 靖安軍がこのように執拗で悪辣なうえに、その年は吹雪が例年になく荒れて、彼我の見分けがつかないほどであった。どちらかが声を出すとはじめて敵と味方の見分けがつき、戦闘が開始されるのである。

 われわれと同行した反日部隊の兵士は、試練をのりこえることができず、立ち去ってしまった。犠牲精神の乏しい彼らは、うむことを知らない靖安軍の追撃と情け容赦のない酷寒に耐えられなかったのである。彼らがわれわれを保護したのではなく、われわれが最後まで彼らを保護したようなものであった。

 平南洋が持たせてくれた食糧も、まもなく切れた。われわれは何日も食事の代わりに雪をほおばらなければならなかった。まったく人気のない荒涼とした冷酷な大地で、われわれが労せず求めることのできる唯一の食糧は雪であった。決死隊を組んで、たびたび敵の宿営地を襲撃したが、ろ獲した食糧だけでは隊伍を維持できなかった。敵も出陣するときは食糧をあまり持ち歩かなかった。

 どのような困難をのりこえても天橋嶺の伐採場にたどりつこう。そこには、食糧がたくさんあると平南洋もいったではないか。われわれは、このような希望をいだいて、励まし合い支え合って行軍をつづけた。わたしは、食べ物が少しでも手に入ると隊員たちに譲った。一升のトウモロコシをみんなで分け合って食べた日もある。そんなとき、わたしはいつも、わたしの分を幼い隊員たちに与え、雪で飢えをしのいだ。雪を食べたところで力が湧くはずはなかったが、気力をふりしぼり、吹雪をついて山腹をよじ登った。

 韓興権は、雪にも栄養素があると言い出して、みんなの好奇心をそそった。わたしは、その主張にみんなが論駁するだろうと思った。ところが意外にも、ばかげたことをいうなと一蹴する戦友はあまりいなかった。ほとんどの隊員が、水にも栄養素が多いかも知れないといって、韓興権の新説を上回る仮説を持ち出した。わたしも彼の仮説を支持するほうにまわった。それをばかげているとか、無知なことをいうなとか決めつけてしまえば、荒唐無稽な仮説を持ち出して、弁論に熱中することで空腹を忘れようとしている隊伍の雰囲気に水をさすことになるからだった。飯やパンではなく、雪に栄養素があるという仮説を立て、その正否の論争で苦痛をまぎらしている遠征隊員たちの様子はじつに健気で涙ぐましかった。

 2万5000里長征のさい、中国の同志たちは革のベルトを煮て食べたという。われわれも、それが食糧代わりになることを知っていた。しかし、革のベルトを鍋に入れて沸かすだけの時間のゆとりがなかった。苦しい行軍にうちかとうと、吉林時代に読んだ長編小説『鉄の流れ』の場面を思い出し、力を奮い起こしたこともあった。

 わたしは毎夜、隊員と同じように歩哨に立った。危機状況のなかでは、隊長だからとかまえてはいられなかったのである。

 ところが、部隊を動かす指揮官の手腕と統率力がいつにもまして要求されているときに、遠征隊員たちは重ねて打撃を受けることになった。わたしが、天橋嶺近くで傷寒(高熱をともなう急性疾患)に襲われたのである。食事も睡眠も休息もできなかったので病魔にたやすく冒されたのであろう。体がかっかと燃えるような高熱と悪寒のために、わたしは雪の上に倒れてしまった。ひどく寒気がしたとき、たき火にあたっていたらよかったのだが、戦友に心配をかけまいと我慢したのがいけなかった。手足がこわばり、やがて昏睡状態に陥った。戦友たちが手足をもんでくれて、わたしはやっと正気づいた。蜂蜜をとかした湯を飲み、暖かいオンドル部屋で汗を出せば傷寒は治るといわれているが、海抜1000余メートルの無人の境では、そんなことは望めなかった。

 韓興権は、隊員と一緒にそりをつくった。戦友たちはそこにわたしを座らせ、布団と鹿皮をわたしの体にかけ、交替でそりを引いた。戦友たちは、敵が追撃を止めるよう神にでも祈りたい気持でわたしの身を気遣ったが、討伐軍にそれが通ずるはずがなかった。追いすがる敵を牽制しながら、病気のわたしを乗せたそりを引いて険しい嶺を越えるのは、身も心もつきはてる苦役であった。

 美崎はわれわれを追撃する討伐軍に、「討伐王」と呼ばれた工藤中隊を編入した。工藤は、満州で立てた戦功により死後、「軍神」に祭りあげられた男であった。「軍神」の遺骨は靖国神社に祭られるという。工藤は、天橋嶺界線に現れて、部下に命令した。金日成は重病にかかって指揮能力を失った、だから、ことさらに戦いをしかけるまでもない、戦闘はひかえ、共産軍があごを出すまで追撃しろ、そして、一人ずつ撃ち倒してゆけば1か月ほどで共産軍は全滅する。工藤はそのようなもくろみで、何人もの遠征隊員を戦闘隊列から除去した。彼らの射撃は、命中率がきわめて高かった。

 わたしが昏睡状態から覚めたとき、まわりには16人の隊員しかいなかった。懸命に目をこらして見まわしても、わたしを取り巻いているのは16人だけだった。みんなどこへ行き、これしかいないのだ、貴重な戦友がみな天橋嶺の雪に埋もれてしまったというのか、こんな考えが頭をよぎった。

 「王大興はどこへ行ったのだ?」

 喉が渇いて口がきけなかったので、わたしは布団の下にあったモーゼル拳銃の柄で、雪の上に字を書いた。そして、韓興権中隊長の顔をぼんやり見あげた。韓興権は、返事のかわりに頭を深く垂れた。不精ひげの伸びたあごの下で喉仏が引きつった。

 「政治指導員同志は戦死しました」

 わたしが十里坪で発疹チフスで倒れたとき、看護のために苦労した金択根小隊長が涙声で答えた。彼の顔もひげが伸び放題であった。目からは大粒の涙がこぼれ落ちている。

 部隊が敵の包囲に陥ると、中隊政治指導員王大興は、金択根など数人の隊員で決死隊を組み、包囲を突破するために白兵戦をくりひろげた。王大興は銃剣と銃床で5人の靖安軍を倒したが、彼も雪の上に倒れて二度と起きあがれなかった。

 王大興は、わたしがもっとも愛した軍事・政治活動家の一人で、みんなから尊敬された精悍な軍人であった。王大興という名前と母国語に劣らず自由に話せる中国語のため、彼は中国人と思われがちだったが、じつはきっすいの朝鮮人であった。北満州の軍隊と人民を支援する活動で、彼は自分の役目をりっぱにはたした。中国語の巧みな彼は、どこでも中国人から歓迎された。周保中が彼をほしがったのも、いわれのないことではなかった。

 周保中がほしいといったとき、残してくるんだった… わたしは断腸の思いで亡き戦友をしのんだ。

 「状況が急迫していたので、政治指導員同志の亡きがらは葬ることができませんでした」
 悲憤と悔悟に震える金択根小隊長の声が、またわたしの耳朶を打った。

 「この北満州には、雪がいくらでもあるではないか。せめて雪でもかぶせてやればよかったのに」

 わたしは危うく、そうとがめるところだった。幸いに理性がその言葉を抑えた。金択根にそんな判断力がなかったはずはない。この人情の厚い男が、そのまま去らなければならないほど、危急な状況だったのだろう。

 わたしはまた、拳銃の柄で雪の上に字を書いた。

 「王大興が戦死した谷をきちんと覚えているだろうね」

 「はい、それは大丈夫です」

 金択根の返答だった。

 「それならいい。凍った土が解けたらもどってきて、葬ることにしよう」

 隊員たちは、わたしが雪の上に字を書くとき、文字が重ならないようそりを少しずつ前へ動かした。しかし、われわれはその後、二度と王大興のもとにもどることができなかった。

 天橋嶺には、王大興ばかりでなく、われわれが埋葬できなかった戦友の亡きがらが何体もある。いまもそれを思うと、胸がうずいてならない。永遠に返すことのできない負債を背負いこんだような思いである。この悔悟の念をどう言い表せよう。

 解放後、趙基天は、長編叙事詩『白頭山』を脱稿すると、原稿を持ってわたしを訪ねた。わたしは最初の読者になって、彼の朗唱する叙事詩を鑑賞したが、珠玉のような詩句もさることながら、その内容にまったく魅了された。叙事詩には心の琴線に触れるくだりが多かった。

  …
  この地の木こりよ
  心して 木を伐れ
  烈士の霊
  その木の下に 寝てないと だれがいい得よう!
  心して 路の辺の石を蹴れ
  烈士のどくろ
  その石の辺に 埋もれてないと だれが知り得よう!

 これは国内工作の任務を受けて鴨緑江を渡った哲鎬が、敵の凶弾に倒れた永男を葬ったときの心境を詠んだものである。このくだりを朗唱したとき、趙基天も泣き、わたしも泣いた。

 わたしは、このくだりを聞きながら、北満州に墓もつくってやれなかった王大興など多くの戦没者や天橋嶺などの戦場を回想した。満州の山野や川辺には、われわれの先達と戦友の亡きがらが数多く埋もれている。

 わたしは以前、内閣首相をしていたとき、教育省の一幹部からこんな話を聞いたことがある。

 金日成総合大学歴史学部の教授の家に、ある日、彼の戦友が訪ねてきた。2人は過日を懐かしく語り合った。教授には、幼稚園に通う一人息子がいた。客は、その子ともすぐ親しくなった。客の膝に座って、洋服の襟やボタン、略章などをもてあそんでいた子が、ふと客の手にさわって驚き、父の顔を見あげた。血の気も体温もない冷たい義手だったのである。子どもは義手を握って、客に尋ねた。

 「おじちゃん、この手、どうしてこんなになったの?」

 「戦争でヤンキーと戦って、こうなったんだよ」

 「人民軍隊も負傷するの?」

 「そうだよ、死ぬことだってあるんだよ」

 教授の子は、それを聞いて口惜しがった。人民軍が負傷したり、死んだりするとは、とても信じられなかったのである。客の話は、人民軍は死にもせず負傷もしないとかたく信じていた子どもの考えをくつがえしてしまった。

 そのころにしても、絵本や児童映画には、敵兵が死ぬ場面は多かったが、人民軍将兵が死ぬ場面は少なかった。それで、子どもたちは人民軍や抗日遊撃隊は死にもせず、負傷もしないと考えるようになったのである。教育者や作家は、米日帝国主義者にたいする革命戦争の勝利が、いかに大きな犠牲をともなったものであるかを、次の世代にありのままに教えていない。われわれは、形容しがたい苦悩と屍のはしごをよじ登って、抗日大戦の勝利という高く険しい峰に登りつめたのである。訴えにも、請願にも、テロにも動じない帝国主義強敵を打ち破る戦いで、どうして犠牲がともなわないことがあろうか。死は敵と味方を選ばず、正義と不正義も選ばない。ただ、その死が異なる様相を呈するにすぎない。1人の死が10人を生かし、10人の死が100人を生かし、100人の死が1000人を生かすのが革命軍の死である。

 王大興が死んだと知ってまもなく、わたしはまた意識を失った。全身を焼きつくすような高熱にうなされ、脳裏には幻想なのか夢なのか、もうろうとした光景がくりひろげられた。わたしは、王大興と一緒に担架を持って五佳山嶺を越えていた。担架には、車光秀と周保中が腕枕をして並んで横たわっていた。ところが、なんと車光秀も王大興も生きていて、生者と死者が混然一体になるのだが、それがなんの違和感もないのが不思議だった。陽光がはげしく降りそそぐ夏の日で、遠く険しい峰をよじ登りながら、われわれは喉の渇きとうだるような暑さにあえいだ。峠が高くなるほどに、喉の渇きは、いよいよひどくなっていく。わたしはこらえきれず、道ばたの小さな水溜りに走っていって水を飲もうとした。すると、どこからともなく「だめよ」という耳慣れた声がした。喪服をまとった母が、弟の英柱と一緒に峠の上でわたしに手を振っていた。

 「だめっ、その水には毒がある。飲んではいけません」

 母の言葉だった。わたしは、水溜りをのぞきこんで驚いた。ブドウの房のようなカエルの卵が水の中にうようよしていた。この水にどうして毒があるというのだろう。わたしにはそれが蜂蜜をとかした水か、清水に見えた。わたしは、水ぎわに腹ばいになって水を飲もうとした。そのとき、また母の叱る声がした。

 「飲んではだめだといったでしょう」

 わたしは驚いて立ちあがった。そして峠を見あげた。母と弟の姿はなかった。

 それは夢だった。わたしは、わたしを呼ぶ声に夢からさめた。

 「成柱兄さん、どうか目を開けて、気を確かにもってください。兄さんが起きあがらないと、朝鮮は光を取りもどせません」

 わたしは、その声にはっとした。誰かが、そりの上にかがみこんで、わたしの顔をのぞきこんでいる。吉林時代からわたしを慕い、書きものも手伝い、使いもしてくれた曰竜という共青員であった。

 夕焼けに赤く燃える密林の雪景色が、ゆっくりと後ろの方に遠ざかっていく。夕暮れの冷たい空が、頭の上でぐるぐるまわった。

 曰竜は「成柱兄さん」「成柱兄さん」と叫び、涙をぽろぽろこぼしながらついてきた。それから呉大成だったか誰だったかが、また、わたしにしがみついて叫んだ。

 「隊長にもしものことがあったら、朝鮮は滅んでしまいます」

 そりの前と後ろに付き添って黙々と歩いていた戦友たちが、わたしをとりかこみ、声をあげて泣き出した。わたしは泣いてはいけないと言おうとしたが、口をきくだけの力がなかった。いや、わたしもそのときに泣いていたのである。それから、わたしは前後不覚の昏睡状態に引きこまれていった。

 翌朝、熱が少し引いて目をさましたわたしは、密林の空き地に止まっているそりと、そのまわりに倒れている16人の戦友を発見した。いまでは、彼らがわたしを慰めるのではなく、わたしが彼らを励まさなければならなくなったのである。何日ものあいだ飲まず食わずで戦った彼らに気力が残っているはずがなかった。わたしを救うためにどんなに苦労をしたことだろう。われわれは、この数年間、間島でさまざまな苦難に耐えてきたが、彼らがあんなにげっそりやつれ、衣服や履き物があんなにぼろぼろになったことがあったろうか。

 胸が重苦しかった。まだ、道ははるか遠いのに、あの雄々しい若者たちが気力を使いはたして倒れたのだから、どうすればいいのだ。彼らに起きあがって汪清に帰れるだけの力があるのだろうか。吹雪に埋もれて、もはや立ちあがれないかも知れない。そうなれば、わたしひとり生きながらえてなんになろう。わたしがこれまで抗日の旗をかかげ、万難を排して戦ってこられたのも、彼らがいつもわたしを支持し、ともに戦ってくれたからであり、また、わたしが彼らを信頼し、彼らの力に依拠して積極的に戦ったからである。彼らがいなければ、わたしは生きることも革命運動をつづけることもできない。彼らがわたしを救ったのだから、今度は、わたしが彼らを救わなければならない。わたしが起きあがらないでは、雪に埋もれた彼らを救い、革命運動をつづけることができないのに、指一本動かす力もない。どうすればいいだろうか。

 わたしの意識はまた、もうろうとした霧の中に沈んでいった。恐れを知らぬ火の鳥のように青空をはばたいていたわたしの翼がここで折られてしまうのかという挫折感にとらわれ、胸がうずいた。

 われわれがここでくじけてしまえば、再生の希望をわれわれに託している民族が悲嘆にくれるだろうという危惧が、ふと頭をよぎった。わたしの体は電気に触れたように震えた。朝鮮民族の悲哀は日本帝国主義者の喜悦となり、朝鮮民族の絶望は日本帝国主義者の歓喜となる。われわれが挫折すれば、日本の資産家と軍国主義者を喜ばすだけである。日本帝国主義者は、満州の奥地でわれわれが飢えて死に、凍えて死に、絶望して投降することを待ち望んでいる。

 歴史は、われわれにまだ死ぬ権利を与えなかった。歴史と時代が課した任務を遂行できずに一握りの土となってしまえば不孝者になる。一家庭や家門の敷居を越え、自分を生み育ててくれた人民にたいして不孝者になる。われわれは、決して不孝者にはならないだろう。

 わたしは、重く垂れ下がるまぶたを雪でこすり、せわしく駆けめぐる思いを一つひとつまとめていった。

 もし、革命軍が天橋嶺の冷たい雪の中に消えてなくなれば、朝鮮人民にたいする日本帝国主義者の暴圧は一挙に10倍、100倍につのるであろう。朝鮮人民革命軍が健在しているいまでも、彼らは朝鮮人民の膏血を搾り、朝鮮民族を皇民化するためにやっきになっているではないか。

 日本は1933年に国際連盟から脱退したあと、経済封鎖による損害を朝鮮民族にたいする収奪によって補おうとしていた。1920年代、斉藤朝鮮総督の産米増殖計画、綿花・養蚕増産政策は、朝鮮の農村における階級分化を促し、離農、離郷の悲劇を激増させた。そして、宇垣総督時代の朝鮮工業化政策、産金奨励政策、南綿北羊政策は、朝鮮の脆弱な経済を硝煙の臭う戦争経済の付随物に転落させていた。鋼鉄、石炭、綿花、綿羊はいずれも、日本の富国強兵の祭壇にささげられていた。

 朝鮮の言葉と文字は、非公式の方言に落とされてしまった。進歩的な書籍も日本帝国主義者によって焚書の憂き目にあった。祖国で増えるのは、練兵場と監獄だけであった。愛国者の血で彩られた悪名高い西大門刑務所も投獄者の激増で増築中だという。世界制覇を夢みる日本の大財閥と軍閥、その番犬どもは軍国主義の軌道を狂人のように突っ走っていた。中日戦争の勃発は時間の問題であった。引き金を引くのは、日本軍閥の意思にかかっていた。ドイツと日本のファシストによって、地球の西側と東側では新たな世界大戦の危険をはらんだ黒雲が急速に広がっていた。

 反革命がこのようにやっきになっているのに、それを打倒しようと決心したわれわれが、どうして一時でも絶望に陥り、きょうの逆境を嘆いていられようか。天が崩れても歯をくいしばって生きのび、革命運動をつづけなければならない。われわれが生きて帰らなければ、東満州でわれわれを待ちうけている多くの仕事はどうなるというのだ。ここで挫折すれば、朝鮮人民は、永遠に日本帝国主義者の奴隷になってしまうだろう。

 ふと、わたしの脳裏にある詩想がひらめいた。それは、今日『反日戦歌』と呼ばれている歌の詩想であった。

  日本の軍靴の音は荒く
  うるわしいわが祖国を踏みにじる
  殺人放火 搾取略奪 屠殺の蛮行
  数千万わが同胞を踏みしだく

  愛するわれらのはらからは
  敵の銃剣に血を流し
  家財と田畑はことごとく
  灰と荒れ地になりはてる
  …

  立て勤労者 肩を組み
  不屈の意志もて戦わん
  赤旗かざして白色テロ打ちくだき
  勝利の凱歌どよめかさん

 わたしは、そりの近くに倒れている曰竜を揺り起こして歌詞を書き取らせた。そして、2人で歌をうたった。すると、倒れていた戦友たちが一人、二人と起き出して合唱した。
 われわれは朝の10時ごろ、西扁臉子のある伐採場にたどりついた。トウモロコシがゆで
もすすり、汗を出そうと思ったのである。その日、わたしの体温は40度を超えた。当時の治療法といえば、トウモロコシがゆをすすり、中国胡酒に黒砂糖をとかして飲むことだった。汗を出さなければ治らないのだが、ずっとそりに乗って野外で震えているのだから、病状はよくなるどころか悪化するばかりであった。昏睡状態で高熱とたたかうわたしを見て、戦友たちは、このままでは遠征隊が救われる見込みがないと判断した。この危機を切り抜けて汪清に帰れると楽観する者は誰もいなかった。もうこれまでだと思いこみ、沈痛な気持ちで中隊長の韓興権にすべてを託していた。

 韓興権は、伐採場雑役夫の金老人に、トウモロコシがゆを炊いてくれるよう頼んだ。一行は丸2日間、なにも口にしていなかった。隊員たちは最初、この老人が中国人だと思った。中国服を着て中国語を話したからである。われわれが間島から来た朝鮮遊撃隊だと知ると、金老人は自分も朝鮮人だと明かした。そして、息子が八道河子で遊撃隊の隊長をしている金海山だということも打ち明けた。

 金海山は、1931年冬の明月溝会議参加者の一人である。金老人は、息子を遊撃隊に送り出し、夏のあいだは山で畑を耕して食糧を手に入れ、冬のあいだは伐採場の雑役をして塩や油を得ていた。

 一行が伐採場で老人と挨拶を交わしてまもなく、韓興権は、討伐隊が伐採場に接近したという偵察報告を受けた。そのとき、曰竜は、ふたのないほうろうの器を台所のかまどにかけて、わたしのために湯を沸かし、わたしの濡れた履き物を乾かしていた。彼は、隊長の病気も治らず包囲を突破する見込みもないから、もはや絶望だと思い涙にくれた。吉林でわたしと行動をともにした当時から、彼の誓いはかたかった。彼は、わたしが死ねば、自分も死のうと思っていたほどである。

 たきぎをかかえて台所に入ってきた金老人は、曰竜が泣いているのを見て、どうしたのかとわけを尋ねた。

 「隊長は病気だし… 討伐隊はここを幾重にも包囲して1時間もすれば押し寄せるというのに、抜け道がないので口惜しくて泣いているのです。抜け出すには川を渡るしかないのに… 凍ってもいないあの大川を渡ることはとてもできないではありませんか。だから橋を渡るしかないのですが、そこには討伐隊が1個中隊もいるので、それこそ四面楚歌ではありませんか」

 金老人は彼の嘆きを聞くと、包囲を突破する妙案を教えた。

 「そんなに気を落とすことはない。天が崩れ落ちてもはい出る穴はあるというものじゃ。うちの主人は満州国の手先だが、もうすぐここへ来るじゃろう。だから主人をとりこにして説き伏せ、討伐隊が伐採場へ来ないよう通知を出させるのじゃ。そうすれば、夕方までここにいられる。そのつぎの手は夕方考えることにしよう」

 曰竜は老人の話を韓興権に伝えた。こうして、韓興権が一行を代表して老人と相談し、最終的な脱出策が確定した。

 韓興権は、金老人がいった筋書きどおり、主人を縛りあげておどしつけた。

 「おい、誰に伐採場の経営許可をもらったのだ。おれたちは、満州国なんか認めておらん。悪かったと思うならおれたちの軍隊に義援金を十分に出せ。いくら出す?」

 天井に届くほどの大男で、見るからに無骨な容貌の韓興権から威嚇された主人は、震えあがって彼のいいなりになった。

 「ハ、ハイ、おっしゃるだけ差し上げます」

 韓興権はわざと、主人が驚いて目をまわすほど多量の軍服、豚、小麦粉を出せと要求し、出せるかと聞いた。

 「わたしを助けてさえくださるなら、あなたがたがここにいるあいだ、討伐隊がよりつかんようにします」

 「どうやって来ないようにするのだ」

 「パルチザンが抜け出したと言いましょう。わたしは討伐隊の将校と親しくしているから、わたしの話なら信じます」

 「おれたちの要求を聞き入れるなら、許してやる。おれたちがめざすのは抗日だ。おまえも罪ほろぼしをして抗日をしたかったら、おれたちに協力するのだ」

 「要求どおりしますから、どうか繩をほどいてください」

 中国人材木商も知恵が回る男だった。彼は、われわれの望んでいるのが物資ではなく、身辺の安全と包囲からの脱出であると、すぐに悟ったのである。

 材木商が、隊長は誰かとしきりに尋ねるので、韓興権はわたしのことを伏せて「隊長はおれだ」と答えた。主人がわたしを指して、「あの方はどうかしたのですか」と聞くと、彼は体の具合が少し悪くて休んでいるととりつくろった。

 材木商は約束を守った。彼が通知したおかげで、討伐隊は日が暮れるまで伐採場に現れなかった。われわれは朝食をかねて昼食をとり、そこで夕食もすませた。夕食の食膳には豚肉の料理もあった。食欲がなかったので、わたしはトウモロコシがゆを少しすすって喉の渇きをいやした。

 夕食後、金老人は、脱出計画の続編を話した。それもまたすばらしい名案であった。

 これからは橋を無事に渡りさえすればよいのだが、それは危険きわまりないから、あんたたちがうまく戦術を立てなければならない。ひとつは、歩哨の目をごまかして橋を通過する方法であり、いまひとつは、伐採場の主人を道案内にして橋の警備兵をあざむく方法である。敵が調べようとすれば、即座になぎ倒して橋を渡らなければならない。橋を渡れば、金司令を背負って山に入ればよい。橋から8キロほど下れば深い谷間がある。そこからさらに分かれた狭い谷の奥に、朝鮮人の住家が3軒ある。日本人に背を向け、そこでひっそり農事を営んでいる人たちの住まいだが、満州国に戸籍の登録もしていないという。彼らに頼れば、金司令の治療もうまくゆくだろう。

 韓興権がそれに同意すると、金老人は満足してこんな案を付け足した。橋を渡るとき、いざというときは小隊長が応戦し、残りの人はわしの案内にしたがって動いてほしい。中隊長は、背が高く、力が強いから金司令を背負ってわしについてくればよい。橋を渡りさえすれば、そのあたりの山はわしがよく知っているから、敵が追ってきても大丈夫だ。橋を無事に渡ったら、わしと主人を寧安県市街地の近くまで連れていき、そこで、わしを少し殴ってくれ。主人もおどしつけて…。そのあいだに、ほかの人たちは中隊長と一緒に金司令を護衛して谷間に入ればよい。

 韓興権はその話まで聞いて、わたしに老人の案を伝えた。聞いてみると、十分うなずける妙案だった。老人は軍事専門家ではなかったが、義兵長でも勤まるほどの大胆な作戦家であった。さすがにパルチザン隊長の父親だけのことはある。老人の脱出策は、ひとかどの指揮官にもちょっと考え出せない妙案であった。そのときも身にしみて体験したことだが、朝鮮人民の頭は、この世のどのような難事も解決できる知恵の泉であった。

 困難であればあるほど人民のなかに深く入らなければならないというわたしの信条は、こうした体験を通して得られたものである。

 わたしは韓興権に、すべてを君に一任する、いいようにはからってくれ、わたしは病気で起き上がれないのだから、どうしようもないではないか、といった。

 夜になると、韓興権は主人に5台の馬そりを用意させた。伐採場には馬がたくさんあった。戦上手の金択根小隊長が先頭のそりに主人と同乗し、わたしは3台目のそりに乗った。

 橋を警備していた日満混成軍の歩哨は、われわれを見ると、暗がりのなかから「誰か」と声を張りあげた。材木商は筋書どおりに、うちの労働者が急病なので、病院まで連れていくついでに、寧安市内に買いものに行くところだと自然に答えた。材木商の声を聞き分けた歩哨は、そりに近寄ろうともせずに、「行け」と怒鳴った。

 5台の馬そりは、矢のように橋を渡った。馬そりの下で木橋が揺れ、その振動がわたしの体に伝わった。橋の下には、激流が渦を巻いて流れていた。その川は、牡丹江の大きな源流であった。

 「もう大丈夫じゃ。思ったとおりだった」

 馬そりが橋を渡りきると、金老人はほっとして韓興権を抱きしめた。伝説かミステリーもどきのスリラーはこうしてめでたく幕をおろした。そのあとの過程も筋書どおりに運んだ。金老人に会えなかったとしたら、わたしは死地から抜け出せなかったであろう。遠征隊は、わたしと一緒に天橋嶺の奥地で壊滅したに違いない。金老人は大恩人である。パルチザン隊長の父親らしく、われわれを命を賭して助けたりっぱな人だった。

 危機一髪のせとぎわでは決まって、不思議にも金老人のような人が現れて、わたしを死地から救ったものである。蚊河では、名の知れない婦人が、あやうく逮捕されそうだったわたしを救ってくれたし、羅子溝の台地では、馬老人が飢えと寒さに震えていたわたしと同志たちに安息の場を提供してくれた。そして、いままた天橋嶺では一面識もない金老人が、全滅寸前の遠征隊とその指揮官であるわたしを千丈の奈落から救ってくれたのである。

 この話をすると、偶然に助かったのだという人もいれば、必然だったと見る人もいる。国と民族のために粉骨砕身する愛国者を、救援者が現れて助けるのは偶然ではないというのである。

 わたしは、その正否を論じたいとは思わない。わたしは生涯たびたび生命の恩人に出合っているが、偶然はつねにわたしに味方しているのである。人民のために生涯をささげる人には、偶然も善意をほどこすのであろう。

 遊撃隊が人間解放をめざす義人の武装集団であることを人民が知らなかったとすれば、人民の網膜に焼きついている遊撃隊のイメージが美しく気高く偉大なものでなかったとすれば、あのとき、われわれは天橋嶺で金老人の援助を受けることができなかったであろう。そして抗日革命闘争史上、天橋嶺の伝説のような神秘な話も生まれなかったに違いない。



 


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