金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4  寧安に響いたハーモニカの音


 人民のために戦う軍隊が、人民から白眼視されるほど惨めなことはないであろう。老爺嶺を越えた遠征隊が最初からそんな目にあったといえば、読者は首をかしげてこう尋ねるであろう。真の道義の創造者であり擁護者であり代表者である人民が、人民の利益を守る革命軍隊にそっぽを向き、冷遇するようなことがあるのかと。

 わたしは、そんな事実があったことを認めてその常識をくつがえすほかない。

 寧安が肥沃な穀倉地帯であることは、周知のとおりである。しかし、遠征隊が老爺嶺を越え北満州に入ったとき、寧安の人たちは、われわれに飯を炊いてくれようとさえしなかった。貧しいのなら理解もできるが、誤解と不信にとらわれ、まるで相手にしてくれないのだから、人民の支持と歓待に慣れてきたわれわれは呆然とせざるをえなかった。かんじきを履き脚絆をつけた遠征隊員が遠くに現れると、住民たちは、「高麗紅軍」が来たといって、表にいる女子どもを家に呼び入れ、門を閉ざすといった有様である。それから、ひそかにわれわれの動静を探るのだった。そうした不愉快な光景は、われわれの自尊心をひどく傷つけた。

 われわれはしばらくのあいだ、露天で飯を炊いて食べたり、眠ったりしなければならなかった。間島ではついぞ体験したことのないことである。われわれが戦いに勝利して帰ってくると、東満州の人たちは群れをなして駆けより、太鼓やどらを打ち鳴らし、拍手喝采をして花束を贈ってくれた。湯や初物の蒸しトウモロコシを勧める人もいた。いつだったか、馬村では松葉のアーチを立てて軍人を祝ってくれたこともある。ところが、寧安の人たちは、われわれに背を向けた。偵察を派遣したり地下組織に依頼したりしたが、土地の住民の声を聞くことができなかった。これは、東満州で周保中や、たびたび北満州へ往来していた高宝貝から聞いて予想はしていたが、それにしてもあまりにも冷淡な応対であった。

 寧安県に沃糧河という村があった。地味が肥え穀物が豊かに実るということでつけられた地名であるが、ここでも村人たちは、食事の接待はおろか、目もくれようとしない。政治工作をしようにも村人たちが集まらないので、時局講演会を開くことさえできなかった。李成林は老爺嶺が険しいとこぼしたものだが、それは老爺嶺よりも険しい障壁といえた。

 もともと寧安の住民は非情だと決めつける隊員もいたが、わたしはそう思わなかった。土地が変われば民心にも多少の違いがあるのは確かだが、客をねんごろにもてなし便宜をはかる中国人や朝鮮人の良俗美風がこの地方だからといって、損なわれているはずはないのである。だとすれば、遠征隊を驚かせた彼らの非礼をどう説明すべきだろうか。

 史書によれば寧安は、一時、渤海の国都であった。この由緒深い古都に、10万の住民が住んでいたときもあったという。だから、寧安はかなり古くから開拓された土地だといえる。土地が肥沃で、人民は勤勉、素朴誠実で信義が厚く、正義と掟を重んずるというのが、歴史に記録されたこの地方の風土である。渤海の国都が移され、住民が四散したあと、数世紀のあいだ人口の増減過程がたえずくりかえされ、数十代の世代が交替したが、寧安の人たちの良俗美風は色あせたり、汚れずに代をついで受け継がれた。彼らが、もとから冷淡で薄情だというのはあたっていない。

 寧安地方はもともと共産主義運動に適さない、というばかげた主張をする隊員もいた。彼らがあげた第1の論拠は、寧安の人たちの意識水準が低くて共産主義を受け入れないというものであり、第2の論拠は、寧安県に土地が多い反面、農民人口が相対的に少ないので、社会階級関係における敵対的矛盾が生ぜず、したがって階級闘争が起こらないというものであった。

 こうした虚無主義的な主張は、その場で論駁された。世界に共産主義の適地、不適地があるとでもいうのか、共産主義が浸透できない土地があるとすれば、そんな共産主義がどうして全世界をかちとれるというのか、「万国の労働者団結せよ!」という「共産党宣言」の思想がどうして実現できるというのか、住民が少なく、土地が広いために敵対的矛盾が生じないという見解も、現実を知らない皮相的な判断にもとづいている、その理論からすれば、人口密度の高いドイツの方が低いロシアよりも階級的矛盾が激しく、革命も先に勝利しなければならないはずではないか、それは詭弁にすぎない、と一蹴されてしまった。

 寧安の人たちが、共産主義を理解できず、共産主義者を敵視するようになったのはまず、手段と方法を選ばずにあくどく反共意識を鼓吹した日本帝国主義者のせいである。寧安で共産主義運動が活発になると、日本帝国主義者は、共産主義者と人民を引き離そうと、早くから卑劣な反共宣伝をくりかえした。政治的・思想的啓蒙が比較的後れていた寧安で、その宣伝は住民のあいだに容易に浸透していった。

 寧安一帯における反共風潮の責任は、派閥争いに終始した朝鮮の初期共産主義者にもあった。朝鮮で共産党が創立されたあとの1920年代中期、早くも火曜派系の人物は、この地方に朝鮮共産党満州総局というものものしい機関を設立し、共産主義という神聖な名を売りものにして派閥勢力の拡大に没頭した。そして、純朴で善良な民衆に向けて、朝鮮の独立と社会主義の即時実現を叫び、彼らを無謀な暴動とデモに駆り立てた。極左分子は、寧安人民に5.30暴動に決起せよと呼びかけた。暴動の主な闘争対象は、間島では日本の植民地支配機関と中国人地主であったが、寧安では韓族総連合会のような民族運動団体であった。しかし、県城ではじまったデモは、そのスタートから手痛い打撃を受けた。

 共産主義者が決行した1932年5月1日のデモも、結局、敵の前に中核分子を露呈させ、寧安の市街を鮮血で染めるという痛ましい結果をまねいた。これらの向こうみずなデモのために、寧安地方の革命組織は軒並みに破壊された。メーデーデモをきっかけに、寧安地方の共産主義運動は急速に凋落しはじめた。党指導部は、武力建設と遊撃区建設を中断し、穆棱、東寧、汪清などに分散していった。革命を放棄した一部の人は、寧安県城に移っていった。

 日本帝国主義者と満州軍警の無差別的な白色テロは、人びとの面前で共産主義のイメージを無残に踏みにじった。闘争のあげく監獄に入るか、死ぬほかなかった人びとは絶望し、戦慄した。革命の終着駅は死であるという考え、共産主義運動をしたところで得るものがないという虚無主義的な認識が、多くの人の頭にこびりついた。

 朝鮮の共産主義者が、大衆のなかに深く根をおろすことができず、不毛の地であると宣告して立ち去った寧安に、中国の共産主義者が入って再建活動をはじめたが、彼らも革命一般にたいする大衆の冷たい反応に驚かざるをえなかった。

 朝鮮の一部の民族主義者も寧安地方に反共の毒素を振りまいた当事者だといえる。庚申年(1920年)の大討伐に恐れをなしてロシアに亡命し、黒河事変後、寧安にもどった独立軍の残存勢力は、反ソ・反共宣伝に熱をあげた。彼らは、黒河惨事がソ連と結託した朝鮮の亡命共産主義者によって発生したと宣伝し、共産主義とソ連を中傷した。民族主義者は、はなはだしくは、金佐鎮の死も共産主義者の仕業だといいふらした。それは、金佐鎮殺害事件の真相を歪曲したものであったが、純真な民衆はそれを真に受けた。

 寧安地方の住民は、共産主義ばかりでなく、軍隊も遠ざけた。彼らは所属と使命にはかかわりなく、軍隊といえば頭から嫌悪した。すべての軍隊が、米びつと財布をはたかせる食客として、住民に君臨したからである。日本軍と満州国軍はいうまでもなく、抗日救国を標榜する一部の中国人反日部隊も、人民から金と米と家畜をまきあげた。朝鮮の民族主義者も、寧安に新民府という行政機構を設け、軍資金と軍糧米を徴集した。そのうえ、土匪まで出没し、人質を捕えては住民を苦しめた。こうした食客の世話をやかなければならない人民の胸中はいかばかりであったろう。

 そうした歴史的根源を考えるとき、寧安の人民を非情だと責めるわけにいかなかった。遠征隊が物質的な支援を受けられないのは我慢できた。最大の苦衷は、北満州人民のなかに革命の種を植えつけようという重要な遠征目的が達成できなくなったことである。人民がわれわれに心を許さないとすれば、遠征隊が北満州を革命化することはまったく不可能になる。

 寧安の人たちを革命運動に呼び起こすには、どうしても突破口を開けなければならなかった。

 われわれは、八道河子区党委員会の活動状況を調べる過程で、区党書記金百竜から寧安県の実態をくわしく聞くことができた。それによると、それでも寧安でもっとも革命化が進んでいるのは八道河子だという。

 八道河子を一名笑来地盤といった。そこには、寧安県党委員会があり、区党委員会もあった。八道河子が笑来地盤と呼ばれていたのは、和竜県一帯で大教の教主をしていた金笑来(キムソレ)の名に由来している。わたしが彼のことをはじめて聞いたのは、吉林毓文中学校時代で、話してくれたのは徐重錫(ソジュンソク)だった。彼は一時、金笑来が設立した和竜の建元学校で教鞭をとったことがあるという。金笑来は同校の設立者であり校長でもあったが、徐一と深いつながりがあり、北路軍政署と間島国民会の上層人物とも親交があった。反日感情の強い彼は、建元学校の卒業生を洪範図、金佐鎮など独立軍猛将のもとへ送って救国運動を後援した。金笑来は、独立軍が北間島から撤収したあと、八道河子の谷間に移り、そこで土地を買って地主になり金佐鎮独立軍に軍資金を提供した。李光も遊撃隊の創設期に彼から何挺かの武器を入手している。

 金笑来が大教の教主だというので、寧安地方の革命家はひところ彼を快く思わなかった。歴史に暗い人たちのなかには、彼の宗教を日本の宗教だと誤解する人もいた。大教とは朝鮮の建国神話にある桓因(ハンイン)、桓雄(ハンウン)、桓倹(ハンゴム)の霊を拝む純粋な朝鮮の宗教である。

 金百竜は、八道河子の谷間の長さは少なくとも3、40キロになり、そこには多くの散在村落があるが、住民構成で朝鮮人の占める割合が少なくないといった。一時、独立軍の兵站基地として栄えた八道河子は、1930年代に入ると、寧安遊撃隊の活動拠点になった。

 わたしは敵情や住民の動向を知るために、一縷の望みをもって金百竜が紹介した八道河子の一村落に政治工作グループを派遣した。そこには、名うてのアジテーターたちが加わっていた。

 ところが、彼らを引率して住民のなかに入った第5中隊政治指導員の王大興(ワンデフン)は、疲れきった表情をして、わたしの前に現れた。

 「また失敗です。なんと話しかけても、耳を貸そうとしないのです。寧安の人たちを相手にするくらいなら、牛の耳に「四書三経」を読んで聞かせるほうがましでしょう」

 こういって、彼は絶望したように首を振った。

 そばでそんな報告を聞いていた金百竜は、寧安の人たちが東満州の客を冷遇するのが自分のせいでもあるかのように、大きく溜息をついた。

 「いずれにしても、寧安の人たちは困ったものです。東満州の経験に学ぼうと、参観団を送ったりして骨をおったのですが、さっぱり効き目がないのです。参観団が帰ってきてやっと児童団学校を設けたのですが、はじめのうちは50人ほどの子どもが集まってにぎやかだったのに、それも尻切れとんぼになってしまいました」

 人民が人民の利益を擁護し代弁する革命家に顔をそむけるとすれば、そんな人民をどう理解すべきか。はじめてこうした絶壁にぶつかったわたしは心が重かった。富爾河と五家子の革命化過程が複雑だったとはいえ、その地方の住民も寧安の人たちほどには冷淡でなかった。

 数千年の悠久な朝鮮民族史において、人民が悪かったということは一度もなかった。わたしは、一度として人民をよい人民と悪い人民に分けてみたことがない。歴史に汚点を残したり、その歴史を愚弄したりしたのは一握りの支配層であって、人民ではなかった。もちろん、個別的な人間のなかには、逆賊、守銭奴、詐欺漢、ペテン師、野心家、背徳者などがいた。しかし、それは米の中の籾ともいえる少数にすぎない。

 世界の全体を代表しているともいえる人民という巨大な集団は、つねに歴史の車輪を先頭に立って誠実にまわしてきたのである。その歴史上、彼らは必要とあれば亀甲船をつくり、ピラミッドを築いた。時代が血を要すれば、人民は死を恐れず肉弾となり、敵の銃眼めがけて突進した。

 問題は、寧安の人たちの心をとらえる近道が発見できないことにあった。王大興が引率した政治工作グループも、感動的な反日宣伝をしたことであろう。しかし、寧安の人たちにそんな演説が耳新しかっただろうか。おそらく、耳にたこができるほど聞かされていたに違いない。独立軍も救国軍も匪賊もそんな演説をぶっているのだ。だから、王大興の政治工作が成功するはずがなかった。

 誤りは、彼らが頭から人民を教えようとしたところにある。いつから、われわれは自分を人民の教師だと思いこみ、人民を弟子だと思うようになったのだろうか。人民を無知から光明に導くのが共産主義者の使命であるのは確かだが、われわれが自分を人民の教師だと自任するのはあまりにも思いあがったことではないか。

 人民の心の奥深く入りこむ道はいくつもある。しかし、そこに入っていけるパスポートは一つしかない。それは、まごころである。まごころだけが、われわれの血と人民の血を一つの動脈の中に融合させるのである。心から人民の息子になり、孫になり、兄弟になって大衆のなかに入らないならば、われわれは寧安の人たちからいつまでも遠ざけられるであろう。

 汪清児童演芸隊が寧安で公演をしたさい、公演会場はいつも超満員だったという。児童演芸隊も革命を訴え、遊撃隊も革命を叫んだが、どうして児童演芸隊は歓迎され、遊撃隊はそっぽを向かれたのだろうか。

 わたしは、金百竜に尋ねた。

 「児童演芸隊がこの地方に来たとき、君も公演を見物したのかね」

 「しましたよ。子どもたちの公演はたいへんなものでした」

 金百竜は、汪清児童演芸隊が寧安中の評判になったものだといった。

 「演芸隊の公演はどこでも超満員だったそうだが、共産党の宣伝を喜ばない寧安の人たちがそんなにつめかけたのは、はじめてではないかな。大衆を大勢集めた秘訣はどこにあると思うかね」

 「その子らが、住民にかわいらしくふるまったからですよ。演芸隊の公演で寧安の人たちを喜ばせたうえ、にこにこと笑いかけて人びとの心をとらえたのです。親になつくように、人びとのなかにとけこんだのですから、木石のような寧安の人たちも、すっかりまいってしまったのです」

 「そのちびっこ芸能人たちは、汪清でもたいへんな人気だよ」

 「演芸隊の公演もそうですが、子どもたちが住民の気に入ったのです。子どもたちの品性には、わたしもすっかり感心したものです。その子らは、八道河子を隅から隅まで掃除もしましてね。朝早く起きて村中をきれいに掃き清めるのです。昼間は、野良仕事も手伝いましたしね」

 彼がしきりに演芸隊をほめたので、わたしはすっかりうれしくなった。

 「小さくても、分別はちゃんとついているんだ」

 「子どもたちは、村人たちにずいぶんなついたものです。おとなが遠くに見えても、児童団の敬礼をして『おじいさん』『おとうさん』『おじさん』『姉さん』『兄さん』と呼んで駆け寄ってくるのですから… とにかくたいへんな評判でした」

 児童演芸隊が北満州で住民の心をつかんだのは、彼らが住民にまごころをつくしたからである。わたしが豆満江の氷の穴に村人の斧を落としたとき、数時間ものあいだそれを懸命に探したのも、人民への真情の発露、愛情の発露ではなかったか。われわれがまごころをつくすとき、人民がそれを拒んだり、われわれを排斥したりするようなことは一度もなかった。

 王大興政治工作グループの失策は、人民にそのようなまごころをつくさなかったことにある。彼らは、北満州の人民を革命化すべきだという実務的な目的ばかり考え、人民にまごころをつくし、親しくなろうとはしなかった。そうしてみると、北満州の人民がわれわれに心の扉を開いてくれなかったのは、なにも異様なことではない。なによりも北満州人民との接触を演説からはじめたのがまずかった。まず人びとになつき、心の琴線に触れる歌でその親近感を深めた汪清児童演芸隊の活動はなんと教訓的ではないか。

 わたしは、政治工作の形式から変えるべきだと考え、その方途を指揮官たちと相談した。そのあと、各中隊の政治指導員に指示してハーモニカの上手な隊員を全部指揮処に集め、一人ひとりに吹かせてみた。

 延吉中隊の洪範(ホンボム)は、聴衆が浮き浮きするほどハーモニカが上手で、アコーデオンの合奏に近い音を出すこともできた。汪清第5中隊にも上手な隊員がいたが、彼の足もとにも及ばなかった。

 洪範は、小学校のころからハーモニカを吹いた。家にちょくちょく遊びにくる客が置いていったハーモニカだったが、その後訪ねてくることがなかったので、おのずと彼の愛用品になったという。何年もたつうちにめきめき上達したが、ハーモニカはすっかりめっきのはげた中古品になってしまった。幸いにリードだけは以前のままだった。

 対頭拉子で遠征準備をしていたとき、わたしはそのハーモニカを見て新品を求めてやろうと思った。ところがチャンスがなく、出発するまでそれを果たすことができなかった。

 間島地方遊撃隊員と人民のなかには、洪範の経歴をよく知っている人が少なくなかった。平隊員にすぎない彼の経歴が、人びとの話題にのぼるほど東満州に広く知られるようになったのは、彼のずば抜けたハーモニカ演奏のおかげである。ハーモニカ奏者は、どこでも戦友の人気者になっていた。

 彼の故郷は、咸鏡北道鐘城であった。幼いころ親に連れられて間島地方に移住した彼は、早くから革命運動に参加した。一時は、赤衛隊に入隊して、敦図線鉄道工事を破綻させる大衆闘争に参加したこともあった。海蘭溝遊撃区域解散後、ハーモニカを背負い袋に入れて王隅溝に移った彼は、そこで遊撃隊に入隊した。

 わたしは王大興に、先日政治工作グループが断念して帰ったその村に、ハーモニカ重奏団を引き連れて乗りこみ、村人の心を動かしてみるようにといった。そして、地下組織を通してハーモニカを買えるだけ買ってきてもらうよう金百竜に頼んだ。

 わたしはその日、村人たちに配布する宣伝ビラを準備するため、寧安県党委員会書記処を訪ねた。わたしが書記処の同志たちと話しこんでいたとき、ハーモニカ重奏団を引率して村に行った王大興が、相好をくずして帰ってきた。

 「隊長、成功です。いままで反応のなかった人たちが、わたしたちにすっかりうちとけてきたのです」

 王大興はまず結果を述べてから、工作の経緯を要領よく報告する特色のある指揮官だった。

 革命軍に冷たく背を向けていた人たちの心をとらえたというハーモニカ重奏団の活動経緯は教訓的であった。

 重奏団の活動は、村のなかほどにある農家の庭の雪かきからはじまった。だだっ広い庭に歩哨を立ててから、まず上演したのが、洪範ともう一人のハーモニカ二重奏だった。重奏団のほかのメンバーは、二重奏に合わせて踊りを踊った。すると、近くの路地でコマをまわしていた2、3人の子どもらが垣根の方に駆けてきた。ほかの路地からも、子どもたちがパジ(ズボン)をずりあげながらそこへ走ってきた。

 二重奏は、『総動員歌』から『児童歌』『どこまで来たの』と演目を変えた。洪範のハーモニカから流れ出る軽快な旋律に魅了された子どもたちは、手拍子を打ちながら一緒にうたった。村中を走りまわって、間島から来た「高麗紅軍」がダンスを踊ってると大声で触れまわる子もいた。それを聞いたおとなたちが出てきて、腕組みをし遠くから革命軍のむつまじい集いを見物した。なかには、近寄って「高麗紅軍」の「楽士」たちをしげしげと眺める者もいた。

 観衆が4、50人になったころ、ハーモニカ重奏団は『アリラン』を吹いた。その『アリラン』がとうとう村中の人たちを残らず誘い出してしまった。観客は100人、200人、そして300人とふくれあがった。そのとき、高宝貝が『平安道愁心歌』をうたった。哀愁を帯びた歌に興趣をそそられた数百人の村人は、この場を丸くとりかこんで、「高麗紅軍」のうたうメロディーに耳を傾けた。

 高宝貝は、歌をしまいまでうたわずに中途でぷつりと止め、ちょっと新派じみた抑揚で語り出した。

 「みなさん、みなさんの故郷はどこですか? 慶尚北道ですって? 咸鏡南道、江原道、もちろん平安南道の方もいらっしゃるでしょう。だが、みなさん、わたしの故郷は尋ねないでください。なにも、わたしがもったいぶっているのではないのです。わたしは、生まれ故郷を知らんのです。朝鮮は朝鮮に違いないが、どこかの海辺だということしか覚えておらんのです。親の背に負われて朝鮮から渡ってきた川が豆満江だったか鴨緑江だったか、それもわからないのです。はい、そうです。わたしはもともとそんな抜作なんです…」

 村人は、彼の口演に夢中になってクスクス笑ったり、ひそひそとささやきあったりした。高宝貝は、木枯しに舞う落葉のように間島の各地を流浪した話や、遊撃隊員になって日本軍と戦った話を面白おかしく語ってから、それとなく話題を変えて革命運動の啓蒙をはじめた。

 「みなさん、わたしらみんなの望みはなんでしょうか。それは祖国に帰ることです。ところが、祖国に帰ろうにも日本人どもがわれわれを遮っているのです。いったい、そんなやつらをほっとけましょうか。わたしは我慢できません。それで銃をかついで遊撃隊員になりました。彼らを一人残らずやっつけようと寧安にも来たのです。北満州をのさばり歩いている日本軍は、なおさらこしゃくなやつらだというではありませんか」

 ここで、だしぬけに高宝貝の頭に日本軍の軍帽がのっかった。ふところに隠していたものである。ついで顔にひげが生え、メガネがかけられた。観衆はそのすばやい扮装が、日本軍将校を装ったものであることを知った。

 そんなおかしい格好をした彼は、手足を大きくのばし、あくびを連発した。そして、後ろに手を組み、あごを突き出し、顔をひくひくさせながら、あたりをふた回りほどまわった。それは、寝床から起き出して兵営のあたりをそぞろ歩いている日本軍将校を連想させるに十分であった。クスクス笑っていた観客は、こらえきれなくなって腹をかかえて笑いだした。高宝貝は笑い声が静まると、観客の前をまわりながら、老婆の前では年老いた女の笑い声を、老人の前では年取った男の笑い声を、若い女性の前では新妻の笑い声を出すといった具合に、性別や年齢に応じてさまざまな笑い声を出した。観客は涙が出るほど笑いこけた。

 ハーモニカ重奏団は、このように村人たちの心をやわらげてから、重ねて反日宣伝をし、革命軍への援護を訴えた。

 前日、政治工作グループが失敗したばかりの村で、ハーモニカ重奏団がこのように驚くべき実績をあげたのは、彼らの宣伝工作の大衆性と真実性のおかげであった。

 われわれは、そうした経験にもとづいて、大衆のなかにいっそう深く入り、さまざまな形式と方法で寧安県の数十の村を漸次革命化していった。東満州から来た「高麗紅軍」と寧安の人びとのあいだをへだてていた厚い壁はついに取り除かれた。「高麗紅軍」がとどまった地方では、党の隊列が拡大し、共青、婦女会、児童団などの革命組織も急速にのびた。

 共産主義者とうちとけた人民は、革命軍の支持と援護に最大の生きがいを感じるようになった。そうした人びとのなかには、天橋嶺伐採場の金老人、大子の趙宅周老、沃糧河の中国人孟成福老夫人、南湖頭の李老人など忘れえぬ多くの人びとがいる。

 孟成福さんは、いとこの相嫁と一緒に日本警察に逮捕され迫害されたが、重大な敵情をたびたび遠征隊に通報してくれた。

 南湖頭の李老人は、敵に監視されている注意人物であった。彼は遊撃隊を援護したかどで、8間の家屋を焼き払われた。憲兵隊に連行され、棍棒でめった打ちにされたこともあった。そのような迫害にも屈せず、李老人は食糧と履き物を持って革命軍の宿営地をしばしば訪ねてきた。

 「こわくありませんか」

 いつか、わたしは李老人に尋ねた。

 「こわいですとも。わしが革命軍に物資を贈ったことがばれたら、3人のせがれはもとより、一家皆殺しにされるでしょう。けれども、ほかに手はないじゃありませんか。革命軍の方がたが国を取りもどすために夜も休まず、食べ物にも困りながら苦労なさっているのに、わしらが身の安全を考え、手をこまぬいているわけにはいきません」

 老人の回答だった。祖国を愛し、正義を擁護する心は、北満州人民の胸にも宿っていたのである。その熱い心は、東満州人民のそれと少しも変わりがなかった。ただ、その外皮が厚く、堅かったにすぎないのである。

 人民は、自分を同情し理解する人には進んで心の扉を開くものである。そして、熱く彼らを包容するのである。しかし、自分を生み育てた土壌が人民であることを忘却した恩を知らない者、人民には自分に仕える義務があり、自分には奉仕を受ける権利があると思う高慢な者、人民をぞんざいに扱ってもよいと思いあがっている官僚層、人民をいつでも乳の搾れる乳牛のように思いこんでいる搾取者、人民を愛するといいながらも人民が苦痛をなめているときはそしらぬ顔をするくわせ者や偽善者、やくざ者、ペテン師にはかたくなに心の扉を閉ざすのである。

 いま、わたしのそばには、第1次北満州遠征をともに回顧しうる戦友が一人もいない。170余人の遠征隊員のうち、解放後、祖国に帰ったのは何人にもならなかった。汪清中隊では、呉俊玉(オジュンオク)、延禧寿(ヨンヒス)だけだったと思う。

 われわれが寧安に行ったとき、姜健(カンゴン)は児童団員だった。いまでも革命運動をつづけることのできる年だったが、彼も偉大な祖国解放戦争が勃発した年の初秋、最前線で戦死した。当時、彼は朝鮮人民軍総参謀長だった。

 高宝貝は、のちに周保中が指揮した第5軍で連隊政治委員を勤めた。彼は、戦死したともいわれ、ソ連で死亡したとも伝えられているが、いずれが正しいかつまびらかでない。ユーモアとおどけた身振りで全間島に笑いを振りまいた才能のある楽天家が死んだと聞いて、わたしは、それがどうしても信じられなかった。あの楽天家が死ぬなどとは想像すらできなかったのである。

 高宝貝とともに北満州遠征隊のルートを先頭に立って切り開いたハーモニカ重奏団の過半数は、周保中の要請で北満州にとどまったか、帰路の激戦場で倒れた。ほかの人たちのその後の運命はどうなったことだろうか。わたしには、それを知る手立てがない。いまでは、彼らの名前もよく思い出せない。

 第1次北満州遠征後、半世紀近く歳月がすぎたある日、わたしは遠征参加者の1人が平壌に住んでいるという喜ばしい報告を受けた。届けられた写真を見ると、ハーモニカ重奏団の首席奏者洪範であった。目の縁には、身を切るような北満州の寒風にさらされながらのりこえた艱難辛苦の跡が歴然と刻まれていた。歳月の邪険なたわむれは、彼の容貌をすっかり変えてしまったが、アオサギのような長い首だけは、うれしいことに昔のままだった。これが間島の人たちの人気者だったあの有名なハーモニカの名手洪範だというのか。第1次北満州遠征の参加者であり、生き証人でもあるこの貴重な人物が、わたしの近くにいながら、どうしてこれまで名乗り出なかったのだろうか。

 わたしは、関係部署にそのいきさつを聞いてみるよう頼んだ。彼がそれまで名乗り出なかったのは、あまりにも純朴で謙遜な性格のためであった。

 「わたしは抗日革命に参加しましたが、人に誇れるだけの功績がありません。誇らしいことといえば、主席に従って北満州に遠征したことだけです。げれども、北満州からもどってから三道湾の奥地で熱病を患い、遊撃区が解散したことを知らずにすごしたので隊伍の行方がわからず、故郷に帰るほかありませんでした。わたしが抗日戦争参加者だと申し出れば、党ではかずかずの配慮をめぐらしてくれるでしょうが、わたしはそのような負担をかけるのが心苦しかったのです」

 これが、晩年の抗日闘士洪範の言葉であった。

 当時70の高齢者であった彼は、戦勝分駐所で守衛を勤めていた。住まいも簡素な1間であった。1950年代、60年代に生まれた新しい世代の演奏家が3DK、4DKの新築住宅に越していったときも、抗日長征の風雪のなかで苦難にたえた遊撃隊のハーモニカ奏者は、その1間の住まいに満足していた。彼は、それ以上の特別な待遇や特典を望まなかったのである。

 抗日戦争参加者は、みなこのような人たちであった。

 洪範は、わたしが寧安で買ってやったハーモニカを一生保管していたという。事績関係者が取材に行ったとき、彼はそのハーモニカで、北満州遠征のときに吹いた革命歌謡連曲を聞かせたが、見事な演奏ぶりだったという。

 彼は、党の配慮で光復通りの新築アパートに引っ越し、そこで世を去った。

 北満州遠征や苦難の行軍のようなむごい試練をなめた闘士たちは、解放された祖国に帰ってからも、わたしとともにかずかずの苦難にうちかった。

 「若いときの辛労は金でも買えない」という先祖の名言は、いかに深く力強い生活の真理を宿していることだろうか。苦難と試練は万福の母である。



 


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