金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 老爺嶺を越えて


 敵中活動を終えて遊撃根拠地に帰ってきたわれわれは、すぐにまた背のうを背負って汪清を発たなければならなかった。北満州で活動中の周保中が、援助を求めてきたのである。

 わたしは、彼の要請を慎重に受けとめた。周保中は、反日兵士委員会のころから、わたしと深い連携を保って、共同の目的のために戦ってきた親しい戦友である。羅子溝戦闘をきっかけに、われわれの友情はいっそう深くなった。彼は、わたしより10歳も年上だった。わたしは、彼の要請にこたえるのが神聖な国際主義的義務だと思い、北満州遠征の準備を急いだ。

 1934年10月下旬、ぼたん雪が降りしきる日、汪清、琿春、延吉から選抜された3個中隊からなる170余人の北満州遠征隊は、対頭拉子を発って老爺嶺を越えはじめた。

 自然の力は神秘というほかない。山脈を境にして国境が引かれたり、ときには、省や県が分かれたりもする。山脈という障壁は、政治、経済、文化の格差をもたらす一つの要因ともなる。老爺嶺は、東満州を北満州と南満州から分離し、北間島と東間島、東間島と西間島を分離する天険の障壁でもある。この障壁の南側と北側とでは、地勢も対照的である。屏風のような山岳が幾重にもつらなる南側に比べて、北側には朝鮮の湖南地方を思わせる一望千里の大平原がいくつも広がっている。老爺嶺以南の東満州地方の朝鮮人住民は大半が咸鏡北道出身であり、以北地方には慶尚南北道の出身が多かった。

 意識水準から見ると、北満州人は、東満州人に比べて後れており、革命にたいする熱意も東満州より高くなかった。いつだったか周保中は、北満州人民を政治的に啓蒙するのは東満州人民を啓発するよりはるかに難しいといったことがある。北満州の共産主義者にとって、それは活動上の大きな苦衷であった。彼らの苦衷を少しでも取り除くなら、東北革命の釣り合いの取れた発展のためにも有益であるはずだった。

 わたしは、東満州と国内はもちろん、南満州や北満州もゆくゆくは大部隊の活動舞台に変える計画であった。近接との共同・協力に最善をつくすのは、わたしが初期から一貫して主張してきた立場であった。わたしが、李紅光、李東光と会うのを南満州進出の重要な目的とし、その実現に努めたのもそのためであった。北満州を支援するのは、とりもなおさずこの一帯で遊撃活動を進めている金策、崔庸健、許亨植、李学万、李啓東など朝鮮の共産主義者を助けることにもなる。

 遠征隊は、出発早々心が浮き立っていた。新しい土地はつねに、虹のように華麗な憧憬を呼び起こすものである。それに、遠征隊員のほとんどが好奇心のもっとも強い18〜20前後の青年であった。隊伍を率いるわたしも、彼らに劣らず心がはずんでいた。

 しかし、わたしは、遠征隊が対頭拉子を発ったときから、しきりに足をとられるような不安に取りつかれた。それは、遊撃区から遠ざかれば遠ざかるほど、ますますつのった。わたしは、東満州の遊撃根拠地が包囲攻撃の脅威から完全に抜け出していないときに、北満州に向かったのである。長期特別治安工作は、朝鮮人民革命軍の夏期攻勢で苦杯を喫した日本帝国主義者が、持久戦でぜがひでも囲攻企図を実現しようとして考案した討伐大綱であった。この大綱の要点は、1934年9月から1936年3月までの1年半を3つに分け、最初は比較的治安の安定した地域からはじめて、しだいに人民革命軍の最後の拠点へと掃討を深めていくというものであった。占領地域を漸次拡大していく「歩歩占領」戦術に、討伐の絶対時間をのばす持久戦の戦術まで加わって、囲攻はそれこそ革命を窒息させかねなかった。

 もちろん、そのとき、われわれが断行した北満州遠征が日本侵略軍の囲攻企図に大きな風穴をあけたのは確かであった。敵の囲攻作戦に劣らず遊撃区の運命を脅かしたのは、間島全域で極左的におこなわれた反民生団闘争であった。この闘争は、東満州の党が設定した本来の課題とはうらはらに、指導部の一部野心家と出世主義者、民族排外主義者、分派事大主義者の不純な政治的目的に利用されて、革命隊列を内部から切り崩し、遊撃根拠地の存立を脅かす重大な結果をまねいた。「粛反」の名のもとに、自己の偉業に忠実な革命家や愛国的大衆が敵味方の選別もなく連日大挙処刑され、遊撃根拠地内の軍民はほとんどが民生団の嫌疑をかけられていた。

 ところが、ここで見逃せないのは、反民生団闘争の矛先が朝鮮人、それも党と軍隊、大衆団体の責任的地位にあった中核幹部と精鋭分子に向けられていたことである。「粛反」の銃口はつねに、大衆が信頼し、支持する前衛的活動家と闘士、積極分子を狙った。汪清県党書記李容国が民生団の罪名で処刑されたのもその一例である。民生団の容疑で投獄され、わたしの保証でかろうじて釈放された汪清大隊の大隊長梁成竜も、依然として監視を受けていた。間島地方の一部の野心家や策略家は、このように「粛反」の名で誠実な革命家に危害を加えた。民生団の嫌疑を受け処刑される運命にさらされていた県党軍事責任者金明均と一区党書記李雄傑(リウンゴル)は遊撃区から脱出した。

 10月末になると、満州大陸では、すでに大雪が降り、烈風が吹き荒れる。北関の人たちは、その風をシベリア風と言い習わしてきた。

 部隊が対頭拉子を発った日も、老爺嶺では身を切るような寒風が吹きすさんで行軍路を阻んだ。老爺嶺は弓を引き絞ったような様相であったが、祖父の嶺という名は、それが高く険しい嶺だということを意味している。われわれは1日がかりで嶺を登った。李成林はいやに険しい嶺だとしきりにぼやいた。

 嶺を越えるとき、高宝貝(コポベ)が特技を生かして戦友を励ました。童長栄が竜井監獄に入獄していたとき、わたしの指示で高宝貝が「スリ」をして留置場に入れられ、彼と連絡をつけたことは、先に触れた。彼は大きな市場のカネも洗いざらいかすめることができるほど機敏な手品師であった。その気になれば、百万長者のようにぜいたくに暮らせたであろう。その彼が深い山中の革命というるつぼに飛びこんだことは、不思議でもあれば、称賛にあたいすることでもあった。

 しかし、手品は、彼の特技の一つにすぎなかった。それにまさる妙技が、口真似と道化であった。口に手をあてるとどんな音でも出せたし、顔面を何度かひくひくさせると、目と口が一方にかたよるようなおどけた仕草もしてみせた。それには、第2軍軍長王徳泰のような無愛想でとっつきにくい謹厳居士も、腹をかかえて笑ったものである。彼が片脚を曲げ、片脚で跳ね歩く様子を見ては、どうにも笑わずにいられなかった。麻袋をかついで物乞い歌をうたいながら歩く彼のほうけた風体には、敵もまんまと一杯くわされたものである。

 彼はそうした特技と変装術を使って、しばしば町や村で敵情を探った。そんなことが重なって、彼には宝貝というニックネームがついた。宝のように貴重な人間だという意味である。戦友のなかには、彼を本名で呼ぶ者があまりなかった。わたしもニックネームで呼んだほどで、本名のほうはあまり知れていなかった。

 彼の故郷については、咸鏡北道とも咸鏡南道、江原道ともいわれていたが、彼は自分がどこの生まれか知らなかった。故郷がどこかと聞かれると、ただ朝鮮のある海辺だと答えるだけであった。乳飲み子のころ満州に移り、幼いときに親に死に別れたので、わからないというのである。少年時代から労働で鍛えられた彼はなんでもよくできた。鍛冶仕事、家普請、理髪などとできないことがなかった。

 高宝貝は一時、東満州と北満州を結ぶ連絡員の任務を遂行していたが、自分がどこでなにをしているかいっさい口外しなかった。誰かから「君は近ごろなにをしているんだ?
遊撃隊員か?」と聞かれるとそうだと答え、「巡視員か?」と尋ねられても、やはりそうだと答えた。そう答えるときも、冗談とも本気ともつかない顔つきで、あいまいに笑うのである。それは自分の職務を隠す彼独特の手口だった。

 高宝貝がわたしを心から尊敬し慕ったように、わたしも彼を心から信頼し、愛した。

 われわれが老爺嶺の頂に登りつめたとき、日本軍の複葉戦闘機2機が山の上を低空飛行して飛び去った。おそらくわれわれを追っていた討伐隊が本部に知らせたのであろう。

 その日、雪は朝から晩まで降りつづいた。まれに見る大雪である。老爺嶺北側の稜線と谷間はすっかり雪に埋もれて、谷間の見分けがつかなくなっていた。かてて加えて、昼すぎから強い風が吹き出して、北満州地方になじみの薄いわれわれはもとより、このあたりの地形にくわしい高宝貝さえも、方角を失ってあわてた。われわれは、八道河子から32キロばかり離れた地点で道に迷い、立ち往生することになったのである。降りしきる雪と酷寒のなかで、隊員たちはわたしの顔を見守った。あれほど朗らかだった高宝貝も青くなり、大罪を犯した者のようにわたしの前に肩を落として立っていた。

 「毎年、この嶺では、道に迷った旅人が雪に埋もれて死んでいるのです。去年も反日部隊の兵士が7、8人この山中で行き倒れになりました。村へ引き返して一晩泊まり、吹雪が止むのを待って出直してはどうでしょうか」

 彼は雪に埋もれた北側の谷間をいらだたしそうに眺めながら、用心深くいった。わたしは彼の提案を受け入れなかった。こういう場合の後退は百害あって一利なしだからである。

 「いや、そうするわけにはいかない。つい最近まで君が足しげく通ったところではないか。恐れることはない。老爺嶺が哈爾巴嶺や牡丹嶺に姿を変えないかぎり、ここにあった道がどこかに消えてなくなるはずがない。わたしに羅針盤があるから、まっすぐ北に向かえばいい。心配することはない。勇気を出すのだ。北満州の同志たちが待っている。」

 わたしの言葉に力づけられた高宝貝は、口真似で自動車のエンジンの音を出しながら、先頭に立ち雪をかき分けて進んだ。それを聞いて遠征隊員は爆笑した。

 われわれは翌日まで行軍をつづけて、やっと中国人の小さな集落を見つけた。遠征隊が村に入ると、待ち構えていたように隣村から日本軍討伐隊が襲ってきた。こうして、北満州で最初の戦いがはじまった。

 北満州地方の日本軍討伐隊や満州国軍は、それまで人民革命軍と交戦した経験がなかった。彼らが相手にしていたのは、概して遠くから日本軍を見ただけでも逃げ出す土匪や山林隊のような劣弱な武装集団であった。

 弱い相手をちょっとした追撃戦でわけなく掃滅することに慣れていた日本軍討伐隊は、われわれを土匪か山林隊のたぐいだろうと思ったのか、意気揚々として攻め寄せてきた。われわれはいちはやく山に登って討伐隊を迎え撃ち、1個小隊を迂回させて敵を挟撃した。勝手の違う猛烈な反撃に日本軍は狼狽し、多数の死傷者を出して敗走した。

 この戦いのうわさが、彼らの口を通して北満州地方に広まった。人びとは、東満州から「老高麗」部隊が移動してきたが、じつに勇猛な部隊だ、いったい誰の指揮する部隊だろうか、東寧県城を襲撃した金日成部隊ではないのか、などと言い合った。そのころから新聞にわが部隊の記事が載りはじめた。敵は遊撃隊を「共匪」、共産党、反満軍などというあいまいな表現を使って呼んだ。

 遠征隊は戦いに勝ったが、村人たちは避難してしまったので、食事もとれない孤立無援の状態に陥った。とにかく、周保中部隊を探し出すまで村落に何日か滞留することにしたが、そのためには敵情を知らなければならなかった。情報網もなく知人もいないので、つぎの段階の活動に移ることができなかった。寧安遊撃隊の行方は、高宝貝も知らなかった。

 われわれは村で宿営するわけにいかず、名の知れない谷間で1夜をすごした。翌日、高宝貝と呉大成が、偵察に出かけて周保中のいる山小屋を見つけた。わたしはその山小屋で、2、30人の隊員に守られて治療を受けている周保中に会った。羅子溝戦闘のとき、迫撃砲弾で受けた傷がひどく化膿して、数か月がすぎたそのときもまだ治っていなかったのである。

 杖をついた周保中は、隊員に支えられて、山小屋からかなり離れたところまでわれわれを迎えに来た。

 「ごらんのように、わたしはまだこんな有様だよ」

 彼は杖を持ち上げてみせ苦笑した。そして、わたしの手を力一杯握った。

 「また会えてこんなうれしいことはない。よろしく頼む」

 短い挨拶だったが、彼の声と目の光からは切々たる期待が読みとれた。

 わたしと周保中との対面は、抗日武装闘争史に新たなぺ−ジを飾る出来事であった。この対面を起点にして、朝鮮人民革命軍は、中国人共産主義者の率いる遊撃部隊との全面的な共同闘争に踏み出した。

 われわれが中国共産主義者の指導する武装隊との合作を重視したように、満州地方の中国共産主義者も朝鮮の共産主義者が率いる武装部隊との連合戦線を実現するためにいろいろと努力していた。9.18事変後、蒋介石の無抵抗主義に反旗をひるがえして、反日部隊、救国軍、紅槍会、大刀会などの名称をもったさまざまな抗日義勇軍部隊が各地で組織され、日本の侵略に抵抗したとき、朝中両国の共産主義者はともに、それらとの統一戦線に大きな意義を認め、その実現のためになみなみならぬ力を傾けていた。それがどれだけ実り多い結実をもたらしたかということは、ここでくりかえし述べるまでもないであろう。

 1934年以降、抗日義勇軍の活動はしだいに衰えていた。日本軍の攻勢が強まると、かなりの抗日義勇軍指揮官は部隊を引き連れて中国関内に移り、一部は投降したり匪賊になりさがった。一部の勢力は史忠恒のように、民族主義思想から共産主義思想に指導理念を変える方向転換の大路に踏み切った。敵はこうした反日部隊を「政治匪」と呼んだ。

 そのような状況で、満州地方の抗日武装闘争は、朝鮮共産主義者が組織指導する反日人民遊撃隊と中国共産主義者の影響下にあるさまざまな反日部隊を連合して、一つの整然とした体系をととのえた軍を編制する方向に発展した。

 周保中は寧安反日遊撃隊の誕生過程が平坦でなかったと、その経過をくわしく説明した。寧安反日遊撃隊は、彼が羅子溝を発ったときに率いてきた20人ほどの反日兵士をもとにして組織された。

 吉東局が解散し、綏寧中心県委員会が組織されると、軍事部の責任を担った周保中は、その20人を母体にしてただちに武装隊伍の拡大に着手した。隊伍はやがて50余人になった。朝鮮人遊撃隊が、周保中の部隊に編入されたのである。ついで数回にわたる交渉の末に、二道河子地方に根拠地を置いている平南洋部隊との統合に成功した。周保中は、平南洋を統合部隊の隊長に推し、自分は軍事責任者になった。

 平南洋は、本名を李荊璞といった。彼が平南洋と呼ばれるようになったのには、つぎのようなわけがあった。平南洋とは、南方を平定するという意味である。当時、日本の侵略軍兵力は、寧安県の南方地帯に集中配備されていた。李荊璞は、それら日本侵略軍との決戦を使命にして戦った。こうして、李荊璞の武装部隊に平南洋部隊という名称がつけられ、指揮官の李荊璞もやがて平南洋と呼ばれるようになったのである。

 このエピソードによっても、平南洋が、愛国衷情に燃える豪勇男児であることがわかる。彼は反日感情が強く、勇敢ではあったが、規律を守らない部下にてこずっていた。それは、この部隊の統率者であり、実権者である周保中にとっても頭痛の種であった。

 周保中はわたしに、自分に代わって平南洋への働きかけをしてほしいというのである。

 「平南洋は英雄心の強い人だが、金司令には好感をいだいている。自分の命を救ってくれた恩人が朝鮮の共産主義者だったからね」

 信頼してくれるのはありがたいが肩の荷が重くなるというと、周保中は笑って、「わたしは于司令と呉司令を説き伏せた金司令の卓越した感化力を頼りにしている」といった。

 周保中は、反日部隊との関係問題でも悩んでいた。寧安県一帯には大小の反日部隊がかなりあったが、少なからぬ部隊が共産主義者を敵視していた。それは、寧安反日遊撃隊の活動で至急に取り除かなければならない大きな障害であった。

 東京城西方の北湖頭を中心に出没する大平、四季好、占中華、仁義侠などはいずれも、一時、平南洋と提携していたが、のちに決別した反日部隊であった。それらは共産主義者に敵意をいだいていたうえ、靖安軍が帰順を勧めながら離間策を弄していたので、去就ははかりがたかった。

 東京城の西北方で匪賊行為を働いている双山、中洋などの反日部隊も、やはり靖安軍の脅威を受けており、寧安東方の唐道溝一帯の群小反日部隊のうち、もっとも勢力の大きい姜愛民部隊も、日本軍第13旅団の討伐に痛めつけられてからは、動揺していた。姜愛民の部隊は、第13旅団の執拗な攻撃にたまりかねて東満州に追われてきたことがあった。そのとき彼らは、食糧を略奪してまわり、帰順申請までしたが、われわれの同志がかろうじて制止したのであった。

 周保中の話では、馬廠付近の柴世栄部隊の活動も鈍っているという。周保中は、寧安でも汪清の関部隊事件に似た占中華事件が発生し、そのあおりで部隊の公然活動が困難になったと嘆いた。

 占中華事件は、周保中が平南洋との統合を実現する前に起きた不祥事であった。平南洋の部隊が内紛による陣痛をへていたとき、反乱者が平南洋をはじめ反対派に酒を飲ませて武装を解除し逃亡した。平南洋もモーゼル拳銃を奪われてしまった。彼は、丸腰の部隊を再建するため、腹心の部下とともに、帰順をはかっていた南湖頭付近の占中華部隊を襲って武装を解除し、その銃で部下を武装させた。この事件があったあと、北満州の反日部隊は、平南洋の名と結びついている寧安遊撃隊を敵と宣告した。

 結局、周保中の要請は、部隊の活動を公然化するには、反日部隊との関係を改善しなければならないが、わたしに仲介の労をとってほしいというものであった。

 周保中の最大の心配事は、寧安地方の革命運動の実態であった。彼は、その一帯で革命の飛躍が見られないのは、自分の無能、失策のためであるかのように思い悩んでいたのである。

 「東満州の人たちにとって、寧安は革命の風がほとんど吹かない無風地帯のようなものだ。大衆の気勢がどうしてこうも低調なのか、わけがわからん。革命に決起せよといくら呼びかけても人民は応じないのだ。この地方の農民の動向がどんなものか知っているかね。地主にいじめられても生きるすべはあるというのだ。山中に入れば土地はいくらでもある、それを開墾すれば生計を立てていけるのに、なにも好き好んで血を流し、苦労して革命をする必要はない、というのだ。国民の観点から見れば、土地の広いのはうれしいことに違いないが、当面はそれが階級意識を鈍らせる障害となっているのだから、われわれとしては、北満州に土地が多いことを誇りにしてよいのか、嘆いてよいのかわからない有様だ」

 周保中がこんなことをいったので、わたしは吹き出してしまった。

 「ハッハッハ。土地が広いのは、4億の中華民族のために幸いなことではないか」

 周保中も顔のしわをのばして、愉快そうに笑った。

 「そうだな。広大な領土と肥沃な土地は、万民福祉の源だ。そうしてみると、わたしはつまらぬ心配をしているようだ。金同志、いまいったことがわたしの苦衷だ。よろしく頼む。寧安で革命運動を高揚させる方途を見つければ枕を高くして寝られるのだが、いまのところ無為無策の状態なのだ」

 周保中は、わたしと北満州で会ったとき、およそこんなことをいった。

 わたしは、彼の苦衷を十分に察した。彼は、能力があり、学識もあった。しかし、北満州革命がかかえている難問にてらしてみるとき、彼の体はあまりにも衰弱していた。彼は、ひどく化膿した銃創に痛めつけられて能力を十分に発揮できずにいた。それに、彼のまわりには水準の高い中核が多くなかった。

 わたしは、八道河子の山小屋で、数日間、周保中と北満州革命を発展させる方途を模索した。そして、北満州革命がかかえている難題を解決する突破口を、人民のなかに入ることに求めた。人民を覚醒させ動かすことによってのみ、北満州革命を沈滞状態から引き上げることが可能であった。そのためには、人民のなかで政治工作を進め、同時に遊撃隊の軍事活動を強化する必要があった。武装隊伍は戦闘の過程で大きくなり、革命も闘争のなかでこそ発展するのである。戦わずに腕をこまぬいていては、なにもできない。それに、軍事活動を強化しないでは、反日部隊との関係を敵対関係から同盟関係に転換させ、占中華事件で失墜した平南洋のイメージを改善することも望めない。

 われわれは、これらの問題で見解が一致したことを確認した。そのとき、周保中の山小屋にはコミンテルン満州特派員の呉平も来ていた。彼は、上海から持ってきた抗日救国6大綱領という文書を見せてくれた。6項目のこの文書の原名は、『対日作戦にかんする中国人民の基本綱領』であった。中華民族武装自衛委員会準備会議の名義で発表されたもので、宋慶齢、章乃器、河香凝、馬相伯など名士の署名があった。署名者は自動的に中華民族武装自衛委員会のメンバーになるのだが、それは、すでに数千人に達しているという。

 抗日救国6大綱領は、日本帝国主義者が公然と中国の保護者を自称して華北の武力占領を企み、蒋介石が第5次共産軍討伐作戦の砲門を開いた状況のもとで、中国共産党の反帝統一戦線政策を反映したものであった。中国革命でも共産主義者の志向は、民族勢力を最大限に結集し動員することに向けられていた。わたしは、抗日救国6大綱領が時宜にかなった文書であると思った。

 われわれは10日ほど、呉平と諸般の問題について論じ合った。

 わたしは、それをとおして、中国の共産主義者が毛沢東の戦略思想にもとづいて蒋介石の包囲を突破し、北上抗日の旗のもとに2万5000里の大長征を開始したことを知った。中国革命が第1次国内革命の失敗による退却から部分的な進攻に移行して成果を拡大していることは、わたしを大いに力づけた。

 中国の共産主義者によってもたらされた北上抗日の激流とともに、中国本土で活発に展開されている抗日救国運動は、東満州をはじめ満州地方で進められている朝中両国共産主義者の革命闘争に有利な条件をつくりだす可能性があった。

 周保中は共同活動をはかって、われわれに1個小隊ほどの兵力を割いてくれた。遠征隊は、その1個小隊を加えて八道河子の山小屋をあとにした。

 数日後、鏡泊湖畔の石頭河で、朝中共産主義者の兄弟的友誼とプロレタリア国際主義の威力を示威する共同闘争の最初の銃声がとどろいた。革命軍が出撃したという情報を入手して北湖頭を出発した200余の日本軍討伐隊は、鏡泊湖上でわが方の機銃掃射を受けて大敗した。

 ついで、われわれは、房身溝付近で日本軍に痛撃を与えた。北満州の広漠とした大自然のなかで連戦連勝を記録し、おごりたかぶっていた無敵皇軍の神話についにひびが入り、かげりがさしはじめた。これは、東満州遊撃区にたいする日本軍の囲攻作戦にも穴をあけた。

 寧安地方の人たちはまたまた「老高麗」のうわさを広め、快哉を叫んだ。うわさを聞いて、真っ先に駆けつけて来たのが、寧安反日遊撃隊の隊長平南洋であった。われわれが南湖頭地方で、のちにわが汪清部隊を物心両面から支援してくれたその地区の党組織の中核党員たちと会い、ついで西青溝子方面に向かって行軍していたとき、平南洋が周保中の伝令をともなって、だしぬけにわたしの前に現れたのである。彼は自己紹介もせずに、「ご苦労さん」「ご苦労さん」といってしきりに嘆声をもらした。

 わたしは隊伍に休止命令を下し、彼とざっくばらんに語り合った。

 「いま、北満州全土に金日成部隊のうわさが広がっています。わたしの部下たちは、そのうわさを聞いて小躍りしています。日本侵略者をぐうの音も出ないほどやっつけている金司令の手をひとつ握らせてください」

 平南洋は両手でわたしの手を取り、親しみのこもったまなざしで見つめた。

 「いま、わたしの部下は東京城の北方にいますが、靖安軍にひどくやられたという報告を受けました。日本軍や靖安軍と遭遇すると、きまってひどい目に合わされるのだから、口惜くてなりません」

 「では、ひとつ靖安軍とぶつかってみましょうか」

 「金司令の部隊と一緒なら… 一緒に戦えば胆もすわり、学ぶことも多いでしょう」

 わたしは平南洋の希望どおり、彼の40人ほどの隊員を遠征部隊に合流させ、その代わり、周保中がわたしにつけてくれた1個小隊は平南洋を案内してきた伝令と一緒に八道河子の山小屋へ送り返した。一方、敵の討伐による東満州の緊迫した情勢を考慮して、延吉中隊の隊員を間島に帰した。平南洋をわたしのもとへ送るとき、周保中は東満州から来た連絡員を一緒によこしたのだが、彼から間島の情勢を聞いたのである。

 わたしは北湖頭付近を通りすぎるとき、全隊に単数の足跡を残して行軍するよう命令した。

 敵の集結地点の近くを通過するだけに、足跡を消さなければならなかった。単数の足跡を残すというのは、10人、100人、1000人が行軍しても一人が歩いたように見せかけるために、先頭の足跡を踏んで行軍する方法である。

 わたしが各中隊にそうした行軍法ばかりでなく、足跡を消す法、分散行軍法、村で宿営する法などを一つ一つ会得させているのを見て、平南洋は朝鮮人民革命軍は遊撃戦に完全に精通しているといった。

 われわれは新安鎮付近で、平南洋部隊とともに竹内中佐の指揮する2個大隊の靖安軍を撃滅し、ついで中洋という反日部隊と共同して大海浪河畔で他の靖安軍部隊を痛撃し、八道河子谷の老伝家では、靖安軍の騎兵中隊と歩兵第6中隊を撃破した。

 士気を落としていた反日部隊が力を得てぞくぞくと遠征隊に合流したのは、そうした戦果のたまものであった。

 八道河子の山小屋にもどって周保中とつかのまの対面をしたわれわれは、12月下旬、大平、四季好、占中華、仁義侠など反日部隊の要請をいれて、再び牡丹江を渡り、新安鎮付近で靖安軍を討ち、満州国警察署を襲撃した。これらの戦闘は、平南洋から離脱した反日部隊を寧安遊撃隊に引きもどす目的でおこなったものであった。積極的で主動的な軍事活動に参加して敵を連続打撃する過程で、寧安遊撃隊は反日部隊や地方の入隊希望者を迎え入れて、隊伍をたえず拡大した。

 「金司令、もうこわいものはない。日本軍にも靖安軍にも勝てる自信がついた。金司令にどう恩返しをしてよいものか…」

 新安鎮付近で靖安軍と戦った日、平南洋はわたしの手を取って自信たっぷりにいった。

 「恩返しはどうでもいいが、そのつもりならば大いに敵を撃滅してほしい。軍隊は、戦いのなかで鍛えられるものだから」

 わたしは彼の手を握り返し、熱をこめて励ました。

 わたしは遠征中に柴世栄、姜愛民とも会って、反日連合戦線問題を討議した。日本軍第13旅団の攻撃にあって、壊滅状態に陥っていた姜愛民は、わたしに会おうと東満州へ行き、われわれが北満州で活動していると聞いて、あとを追ってきたのであった。敗戦を重ねた部隊の指揮官とは思えないほど、彼は明るく血気さかんであった。

 「金隊長部隊に応援を求めようと汪清に行ったところ、方振声という人が、自分たちも苦しいので、とても他人を支援するゆとりがないといって困った顔をしていました。金隊長、ひとつ、われわれに力を貸してください」

 姜愛民は大部隊の指揮官という体面にこだわらず、苦衷を率直に打ち明けた。方振声は、われわれが北満州に来たあとで、われわれの部隊の連隊長に赴任した中国人指揮官であった。われわれは、平南洋部隊や群小反日部隊との共同作戦をとおして多くのことを体得した。遠征隊が使命とした軍事的・政治的目的は、かなりスムーズに達成されていった。

 のちに、遠征を終えて間島にもどったわたしは、北満州で周保中が寧安反日遊撃隊を根幹にして東北人民革命軍第5軍を編制したという朗報に接した。わが遠征隊とともに北満州の厳寒のなかで戦闘的友誼を深めた大多数の反日部隊が第5軍麾下に入った。第5軍の幹部のなかには、北満州遠征のさいに知り合った人が少なくなかった。平南洋は第1師第1連隊長から師長に昇進し、柴世栄は第2師師長から副軍長になった。姜愛民は第2師で第5連隊を指揮した。それらの部隊には、われわれとともに血路を開いてきた朝鮮の共産主義者も少なくなかった。わたしは第5軍が組織されたと聞いて、老爺嶺の彼方から寧安の地をしのんで周保中を祝福した。

 われわれの第1次北満州遠征は、羅子溝戦闘とともに敵の囲攻作戦を破綻させる発端となり、原動力となった。われわれの攻勢によって、寧安駐屯日本軍第13旅団の主力と靖安軍部隊は壊滅状態に陥った。

 われわれは、北満州で多くの血を流した。なによりも胸の痛む犠牲は、延吉中隊政治指導員と少年伝令兵李成林の戦死であった。李成林は、汪清でのわたしの最初の伝令であった。日本軍の討伐で両親を失い、孤児となった彼をわたしが引き取って育てた。新しい服を着せ、読み書きを教えると、すっかりあかぬけのした少年になった。彼は、いつもわたしの首にだきついて眠ったものである。梁成竜はそれを見かねて、子どもでもないのにあんな甘ったれようでは行く末が思いやられる、児童団学校に送ってしまおうといった。李成林は、行きたくないと泣きべそをかいた。李成林が梁成竜の機嫌を損ねたのは、李成林がわたしからもらった小型拳銃を見せびらかそうと、児童団学校に足しげく出入りしはじめたときからであった。ある日、李成林はわれわれが指揮部で会議をしていたすきに、こっそり児童団学校へ行って、校庭で遊んでいたはなたれ小僧たちを柳の土手に連れ出した。拳銃を自慢したいからだった。拳銃を分解したり組み立てたりしているうちに休み時間がすぎてしまった。そのとき教室に入った教師は驚いて非常呼集をかけた。拳銃の見物に出払って、教室には誰一人残っていなかったのである。

 事件の一部始終を聞いた梁成竜は、あんな伝令を連れていたのでは、なにをしでかすか知れたものでない、伝令を替えよう、とわたしに勧めた。しかし、わたしはそれを聞き入れなかった。

 李成林はわたしに従って、穏城や鐘城に行き、図們の裏山でも長いあいだ一緒にすごした。彼は死を恐れない、がむしゃらなほど勇敢な伝令だった。

 李成林が戦死したのは、確か団山子付近で戦ったときのことであった。そのとき、われわれは、日本軍と靖安軍から猛烈な挟撃を受けていた。彼はわたしの命令を伝えるために平南洋部隊に走っていく途中、不意に敵と遭遇した。戦死した彼の拳銃をあらためてみると、弾丸が一発も残っていなかった。そして、5、6人の敵兵の死体があたりに転がっていた。彼の血の代価は十分支払われたのである。

 わたしが李成林を抱いて激しく泣いたせいか、平南洋まで声をあげて泣いた。

 敵を撃破し、勝利をおさめた戦場で、李成林の死体を発見したとき、わたしのまぶたに真っ先に浮かんだのは、彼が足しげく出入りした汪清児童団学校だった。そこには、彼の幼友達、意気投合して遊びまわった友達が多かった。この成林を北満州に葬って、汪清児童団員にどう顔向けできようかと思うと、われ知らず涙がこみあげてきた。

 戦友たちが凍てついた土を掘って、死体を埋葬しようとしたとき、いまにも彼が生き返ってわたしの胸に抱きついてきそうな気がして、一瞬、土をかけるなと止めた。冷たい土の中に幼い少年を埋めて発つのだと思うと、とても足を踏み出すことができなかった。

 なんとも険しい嶺だとぐちをこぼしながら老爺嶺を越えた李成林は、きょうも戦友たちとともに満州の広野に響く新しい生活の歌を聞きながら、その嶺のふもとに静かに眠っているのである。



 


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