金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 富者と貧者


 遊撃根拠地がわれわれの住まいであり、安息の地であったことは確かであるが、わたしがいつもそこにとどまっていたのではない。軍隊が一定の場所に閉じこもっているのは、戦術的にみて自滅の道である。

 人民から供給される食糧を使いはたしながら、小汪清の谷間でぶらぶらしているのは、わたしの性分にも合わなかった。それに、堅実な同志を民生団の嫌疑で殺害する極左分子や民族排外主義者の行為にも嫌悪感を覚えていた。

 そこで、わたしは、できるだけ軍隊を率いて敵中に入っていったものである。半遊撃区が設けられてからは、いっそう頻繁に出撃した。人民も軍隊が敵中に進出するのを歓迎した。そうすれば、米や布地が手に入るからであった。敵がいくら共産主義の悪宣伝をしても、われわれが一晩宿営したところでは、もはや、それに耳を傾ける人がいなかった。人民は、彼らの宣伝よりも、われわれの道徳と礼儀を通して示される共産主義者の実像を重視した。

 敵中の生活に興味を覚えた隊員たちはみな、わたしと同行することを望んだ。わたしが引き連れた部隊は第5中隊だった。あまり多人数だと食糧にも困り、痕跡も多く残すことになるので、50〜60人に制限したのである。それより多くの兵力が必要なときは、第1中隊を加えた。わたしが敵中に頻繁に出撃したので、第2中隊の責任者崔春国と第3中隊の張竜山が汪清の守備のために苦労した。腰営口の防御を担当したのは、第4中隊であった。

 第5中隊は、汪清の最精鋭部隊であった。3歩間隔で進めとか、息をひそめよとか命令すると、そのとおりにした。大きな戦いはあまりせず、手ごろな敵を襲撃しては、その夜のうちに8キロ〜20キロ強行軍して行方をくらますのである。われわれの敵中撹乱戦によって、敵は遊撃根拠地の討伐にかかりきっていることができなかった。

 解放後、党の宣伝活動を担当した一部の人たちは、抗日戦争当時、朝鮮の共産主義者がおこなった敵中闘争経験を人民にまったく紹介しなかった。宣伝したのは、外国の伝統や経験だった。彼らが広めた事大主義がひどく災いして、解放直後、人びとはスターリングラードの激戦やクルスクの戦車戦についてはよく口にしたが、わが国の抗日戦史に小汪清防御戦のような苛烈な戦いがあったことは、まったく知らなかった。一時、李寿福英雄を「朝鮮のマトローソフ」ともいった。祖国解放戦争当時にしても、朝鮮人民は世界ではじめて銃眼を体でふさいだ英雄はソ連のマトローソフだとばかり思い、自国の抗日烈士のなかに、彼よりも先に銃眼をふさいだ金振という闘士がいた事実を知らなかった。

 解放直後、われわれが革命伝統教育だけでも十分にしていたなら、朝鮮戦争の後退の時期にあれほど多くの人が犠牲にならずにすんだであろう。5、6人、15〜20人の小部隊を組み、各自が斧や米の1、2斗も持って山を駆けめぐりながら銃を撃ったりビラを張ったりしていても1、2か月は容易にもちこたえることができたはずであるが、事前にそうした教育をほとんどしなかったので、十分に避けられる被害までこうむることになったのである。

 わたしが敵中でもっとも多く活動したのは、豆満江沿岸の農村であった。ある年、列車で豆満江流域を通りすぎながら眺めた山や谷は、昔日のおもかげをそのままとどめていた。

 灯台もと暗しで、敵の足下にぴたりとついているのも悪くはなかった。部隊は、図們の裏山に駐屯していたことさえあった。そこでは、全員平服を着ていた。3つの峰に歩哨を一人ずつ立て、森の中で眠りもすれば、本を読みながら余裕しゃくしゃくとすごした。それでも、敵は目と鼻の先に遊撃隊がいることに気づかなかった。

 われわれが豆満江沿岸の図們と涼水泉子一帯で敵中活動をしたのは、1933年の夏と1934年の夏であった。呉義成との談判後、汪清に帰り、涼水泉子付近で大衆政治工作をおこなったさい、わたしは指揮部を設ける適地を物色するために、図們地方に隊員を派遣したり、地元の人たちの話を聞いたりした。彼らはだいたい、松洞山、北高麗嶺、草帽頂子の3つの地点を格好の候補地だとした。しかし、それらの地点は指揮部の安全を保障するにはよかったが、われわれの進出目的には適合しなかった。

 わたしはなぜか、以前穏城に出入りしたさい、平壌の牡丹峰に似たところがあると思った図們の裏山に心が引かれた。地図を広げてみると、われわれの進出目的にもかなっていた。谷間がいくつもあるうえ、木が生い茂って、夏にワラ小屋を張ってすごすにはあつらえ向きだった。山の周辺には1930年以降、われわれの組織が根をおろした土地も多かったが、未組織村もかなりあった。われわれは、それらの村をすべて革命村に変えるつもりであった。

 わたしは羅子溝戦闘が終わり次第、図們の裏山へ行こうと考えていたのだが、反日部隊の被服と食糧を入手するために、出発予定日を延ばし、しばらく小汪清にとどまることになった。盛夏を前にしたころだったが、青山部隊の将兵は、すりきれた綿入れを着、スズメの卵ほどのジャガイモを掘って飢えをしのいでいたのである。それで、部隊駐屯地周辺のジャガイモ畑がすっかり荒らされ、畑の主人たちは青山部隊を恨んでいた。衣食に事欠くので、いきおい上官と部下の関係も悪化し、部隊は土匪に転落しはじめていた。投降の気配も一部にはあった。靠山部隊や史忠恒部隊の実態も似たようなものだった。靠山部隊がまだ朝鮮人民革命軍に編入される前のことである。

 われわれは青山部隊とともに呀河を攻撃して得た食糧と布地を反日部隊に分け与えたあと、吊廟台の敵まで襲撃してから、やっと図們の裏山に向かうことができた。羅子溝で腸がはみでる重傷を負って遊撃区病院へ送られた韓興権中隊長がどのように病院を抜け出したのか、ひそかに中隊のあとを追い、図們の裏山に到着したとき、だしぬけにわたしの前に現れた。

 1か月前の銃創の手術のあとを見るとほとんど全治しており、ただ抜糸したあとにかすかな血痕が認められるだけだった。傷あとが裂けてはと、病院にもどるよう勧めると、大男の中隊長が泣きべそをかいて、どうか送り返さないでほしいと哀願した。わたしは中隊長代理の王に、手術のあとが悪化するといけないから図們の裏山で十分休息させるようにと指示した。

 図們は以前、灰幕洞といわれていた。灰幕洞という地名は、かつて、朝鮮人がそのあたりに小屋をかけて消石灰を生産したことに由来している。この一帯は、石灰石の山だったという。

 9.18事変後、満州を占領した日本帝国主義者は、吉会線鉄道を朝陽川から灰幕洞まで延長し、駅名を図們と命名した。駅の近くの村に建物を建てて市街を形成し、領事館分館、警察署、税関を設けたあと、守備隊まで駐屯させた。石灰しかなかった田舎村は、軍警の横暴な行動に悩まされる繁雑な消費都市に変貌したのである。この新しい市街の名は図們に変わり、西側の山のふもとの古い村は旧市街となったが、その名は、朝鮮人が名づけた灰幕洞を継承した。図們と南陽のあいだにまもなく国境鉄道が敷かれた。それ以来、図們は、満州大陸で日本の利権を守る東方の関門となった。対岸の南陽も朝鮮と満州を結ぶ重要な通路であった。1930年代の後半、この地区にソ連侵攻の諜報謀略機関が設置された。このように図們は、軍事的、政治的に重視される都市であった。

 図們が、われわれの活動拠点となり、国内半遊撃区との連係を結ぶ重要な通路として利用されたのは、いろいろと有益なことであった。

 われわれは早くから灰幕洞に組織を置いた。この組織は、呉仲成らの影響下にあった。わたしは1930年9月、穏城に行くときも灰幕洞の同志たちの援助を受け、翌年の5月、鐘城に行くときも彼らに見送られた。崔金淑が病気のわたしに食欲をつけようと、リンゴやナシを買いに行ったとき、彼女を助けたのも灰暮洞の組織だった。

 図們は穏城とわれわれを結ぶ中継所のようなところで、遊撃隊の補給物資供給基地ともいえた。

 われわれは図們の裏山に駐屯しているあいだ、敵が施政方針としてうちだした「匪民分離」策を破綻させることに活動の総体的目標をおいていた。「匪民分離」とは、彼らが「共匪」と呼んでいる革命軍と人民を隔離することであった。日本帝国主義者は、これを一つの政策として宣布し、思想工作、集団部落政策、十家連座法、五家作統法、帰順工作などというものをあいついで案出し、遊撃隊と人民とのつながりを断とうとやっきになった。

 「匪民分離」の暴政下で多くの組織が破壊され民心も騒然となった。一部の人たちは帰順申請書に捺印した。こうした現象のもっともはなはだしかったのが、豆満江流域の汪清南端であった。

 われわれは敵の分離策を軍民の団結で破綻させようというスローガンをもって大衆のなかに入り、組織工作をはじめた。呉仲洽のいた南陽村組織もそのときに立ち直った。大拉子には、崔氏らを中核にした組織を新たに結成した。周辺の村で組織工作を終えたあと、しだいに涼水泉子の方へ大衆工作の舞台を移し、林業労働者と農民のなかに入っていった。わたしは一グループを引率し、松谷をへて琿春県密江の雄基洞に行き、豆満江対岸の慶源(キョンウォン=セッピョル)、訓戌の組織を立て直したこともあった。こうして、「匪民分離」に泣かされていた人民は、軍民和合によって笑顔を見せるようになった。

 図們の裏山に出入りしたころ、わたしは、国内各地の基層党組織と革命組織にたいする整然とした組織指導体系を確立し、党組織建設活動を国内深くに拡大するため、六邑一帯にしばしば足をのばした。

 1930年10月、穏城郡頭婁(トゥル)峰で党組織が結成されたのち、豆満江沿岸一帯には、党指導中核の呉仲和、金日煥、蔡洙恒、呉彬などと、政治工作員の李鳳洙、安吉、張金珍などによって、会寧、延社、雄基(先鋒)、茂山、慶源(セッピョル)、羅津、富寧、清津新岩洞などに多くの基層党組織がつくられた。

 1933年8月、慶源剥石谷(パクソルコル)で地下党活動にかんする講習会が開かれた。炭焼き小屋近くの木の下で2日間開かれた講習会には、北部朝鮮一帯をはじめ、国内で活動する政治工作員と地下革命組織責任者が参加したが、地下党組織建設の問題ではわたしが、共青活動の問題では趙東旭が、婦女活動の問題では朴賢淑が、児童活動の問題では朴吉松がそれぞれ講師を勤めた。

 わたしの指導のもとに、穏城で、国内党組織および革命組織代表たちの会議が開かれたのもそのころだった。1934年2月、いまの穏城郡豊仁労働者区にあった進明(チンミョン)書塾で開かれた会議では、国内の広い地域に党組織を拡大し、党組織指導体系を立てることが中心議題となり、地区党委員会のような地域的指導機関を設けることが決定された。この会議の決議によって、金長元を責任者とする穏城地区党委員会が組織された。この会議は、1930年代前半期の国内党組織建設活動を拡大するうえで転換的使命をはたした重要な会議であった。当時、『朝鮮日報』が「進明書堂の党大会で数項目の過激なスローガンを決議し、印刷配付」したと報じたのは、この会議の一端を示すものである。

 図們の裏山における敵中活動は、面白い多くのエピソードを残した。そのなかで、いまでも忘れられないのは、悪質な地主をこらしめたことである。その村の名がなんであったかは思い出せないが、朝鮮人村だったことは確かである。

 ある日、わたしは隊員たちを図們の裏山で休ませたあと、平服を着てその地主の住む村に向かった。そのときの服装は、洋服ではなく朝鮮服のパジ・チョゴリだった。われわれの背負い袋には、つねに平服が用意されていた。平服を着ないでは敵中工作ができなかったのである。日本語の達者な隊員は、日本人の服をしまっていた。

 そのとき、わたしと同行したのは、伝令の李成林と二人の隊員だった。昼すぎで、日没までにはまだかなり間があった。わたしは、はじめて訪れるその村の民心がどのようなものか知りたかったし、何日も山にこもっているのがうっとうしくもあった。民心がよければ世話にもなり、組織づくりもするつもりだった。村には、日本の軍警がいなかった。

 わたしは、村でいちばん構えの大きい瓦家の門前で案内を請うた。まだ明るかったが、なぜかかたく閉ざした門の中からは応答がなかった。取っ手をつかんで門をがたがたゆすぶると、やっと履き物を引きずる音が近づいた。中年の男が門を開けて不機嫌な目をこちらに向けた。彼が、われわれがこらしめた地主であった。

 「行きずりの旅の者ですが、もうすぐ日が暮れるというのに行くあてがないのです。一晩泊めてもらおうと訪ねてきました。ご厄介になれないでしょうか」

 わたしは丁寧に訪ねたわけを話した。ところがその男は、頭から無礼者呼ばわりをし悪口を浴びせた。礼儀をわきまえない不親切な地主だった。

 「この2キロ先に宿屋があるのに、なにをわざわざ民家の世話になろうというのだ。ここが村の溜まり場だとでも思ってるのか」

 目をいからせて、たわけた野郎だとののしり、まるでわれわれを乞食かなにかのようにあしらうので、わたしも腹が立った。しかし、我慢して穏やかに言葉をついだ。

 「足が腫れて歩けないのです。なんとか一晩お世話になれないものでしょうか」

 地主はかんしゃくを起こした。

 「なんだと? 宿屋が近くにあるというのに、ヒルのようにしつこいやつらだ。ついたちの市でも見かけなかった男たちが…」

 わたしの後ろにいた伝令が口をはさんだ。

 「宿屋に行こうにもお金がないのです。善行を施せば、神様もご照覧のはずですよ。まあ、一杯おごるつもりで…」

 地主は伝令の言い終わるのも待たずに、「じゃ、わしに金を出せというのか? ばかなことをぬかすな」といってぺっと唾を吐き、門を閉めてしまった。

 10年近くの革命運動中、こんな応対を受けたのははじめてのことだった。地下活動でしばしば出向いた中部満州地方にも、裕福な人は多かったが、この地主のように薄情な人間に会うのははじめてだった。

 伝令の李成林は激メした。隊長がこんな田舎地主にあなどられようとは思ってもいなかったのだろう。彼は口惜しさのあまり、あんな豚にも劣る人間は生かしておく必要がないから、撃ち殺してしまおう、でなかったら、せめて耳のそばで空砲でもぶっぱなして度肝を抜いてやろう、といった。

 わたしも腹の虫がおさまらなかった。同じ民族同士なら異郷ではいっそう親密になるものである。故国では犬猿の仲であった人たちも、外国で会えば手を取り親しみ合うのが、人情である。ところが、われわれをたわけた野郎だと侮辱した地主には、そのような人情がひとかけらもなかったのである。国が滅んだからといって、人情まで汚れてよいものだろうか。同じ不幸にあっている者同士は、互いにかばい合うのが人生のことわりなので、われわれの祖先は同病相憐れむといったではないか。朝鮮民族ほど情にほだされてよく笑い、よく泣く民族がまたとあろうか。それで先人も、鬼神は経文に弱く人間は人情に弱いといったのである。

 客を歓待するのは、朝鮮人の美徳である。客を断らずに泊めるのが祖先伝来の朝鮮人民の風俗であり人情である。他家の墓守りをして生計を立てていたようなわたしの家でも、客のもてなしはおろそかにしなかった。米がなければかゆ釜に水を足しかゆをのばしてでも食事をもてなした。そんなとき、母や叔母には水っぽいかゆしか残らなかった。1、2食抜くようなことがあっても、わたしの家の婦女たちは、決して婚家を恨んだり、身の上を嘆いたりしなかった。これが、幼いころからわたしの網膜に焼きついた朝鮮民族の本然の姿であり、イメージであった。

 ふところにびた一文ない行商も、その気になれば朝鮮八道を無銭旅行できるのが、はるか三国時代から伝わる朝鮮の風習であった。だから、一度でも朝鮮の民家でもてなしを受けた外国人は、わが国を指して東方礼儀の国とほめそやしたものである。ところが、あの野卑な地主の体には、朝鮮人の血が流れていないとでもいうのだろうか。どうして、あんな不人情な振舞いができるのだろうか。

 この地主は、まず道徳的にみて無頼漢であった。国力の衰えた民族が国をそっくり奪われるようなことはありうることである。国を失った民族が、言葉や文字、姓名まで奪われることはある。しかし、国を失ったからといって人情まで捨てることができようか。みながあの地主のように同じ民族に背を向ける醜悪な人間になりさがるならば、朝鮮人は祖国を取りもどせないであろう。幸いにも、朝鮮民族には、あの地主のような人間は少数にすぎない。

 わたしは、富者にたいする見解を改めて定立し直さざるをえなかった。

 1933年の夏、十里坪に駐屯していた救国軍の一部隊が、石峴に攻めこみ、義援金を出させる目的で中国の金持ちの妻を人質にとらえてきたことがあった。纏足(てんそく=昔の中国女性の風習。幼時から足を布でかたく巻いて足の成長を止めたこと)をした彼女は、肌着姿でつかまってきて、何日か十里坪に抑留されていた。救国軍は、彼女の夫に、いついつまで指定の金を持ってくれば、妻を送り返してやると脅迫状を送った。しかし、金持ちは、それだけの金があれば、もっとましな女を嫁にもらえるといって、要求に応じなかった。救国軍に金を払って、その女を引き取ったのは実家の父親だった。たちの悪い金持ちというのは、およそそのようなものであった。

 われわれは、宿をとろうと村をもう一度まわった。今度は、瓦家でなく、わらぶき屋で頼んでみることにした。地主の家からほど遠くないところに、2つの部屋の戸を明け放して夕食をとっているわらぶきの家があった。わたしはその家の縁先に立って、地主にいったように頼んだ。

 「行きずりの旅の者ですが、日が暮れましたので、一晩泊めてもらえないでしょうか」

 主人はすぐ腰を浮かし、門柱に手をあてて外を見た。

 「とにかくお上がりなさい。お粗末ですが、かゆなりと一緒にすすりましょう。それしかないので悪く思わんでください。さあ遠慮なくお上がりなさい。むさくるしくて、どうも」

 「とんでもない、どうぞお構いなく」

 われわれは、主人に手を引かれて部屋に上がった。部屋はみすぼらしかったが、主人の言動と心づかいには厚い人情が感じられた。

 主人は、妻にかゆがないかと尋ねた。彼女はあると答えた。その光景を見ると、やはり貧しい人は違うと思った。人情は、富者ではなく貧者にあった。予期しない客を二人も迎えた彼らに夕食を勧められて、われわれはすっかり感激した。

 「ご主人の食事をわたしたちがいただいては、お宅はどうするのです。わたしたちは、ただ泊めていただくだけで結構です」

 わたしは食卓についても、かゆが喉をとおりそうになくて、何度も辞退した。

 すると主人は目をむいてわたしをたしなめた。

 「なんとおっしゃる。客であるからには、客のもてなしを受けるものです。…あまり粗末なので遠慮されているようですが、わしらにはこれしかないのです。おい、ネギを2、3本抜いてきたらどうだ。みそももう一皿持ってな」

 妻は主人にいわれたとおり、ネギとみそを持ってきた。その親身なもてなしに、わたしは思わず涙があふれそうになった。

 わたしは食卓の前に座ったが、村はずれで警戒任務を遂行している隊員たちのことを思うとさじが取れなかった。

 「ありがとうございます。わたしはあとでいただきますから、どうぞ先に召しあがってください。仲間を村はずれに残してきたのです」

 「何人いるのですか」

 主人の顔に心配そうな色が浮かんだ。かゆは一椀しか残ってないというのに、客が増えれば、困るほかないだろう。

 「二人ですが、足が腫れて歩けないのです。ところで、この近くに宿屋があるというのは確かですか」

 「あります。3キロほどになりましょうか。3キロですから1里も同じようなものですが、痛む足を引きずって1里もの道を歩くのは無理です。あすの朝行くことにして、おかゆでも一緒に召しあがって休んでください。外の方たちもお連れして」

 わたしは主人に、地主の人となりを聞いてみた。主人は、地主がけちで性根の悪い男だといった。そして、村人には背を向けているが、警察や官吏とはだいぶ親密だとつけ加えた。数日前、朝鮮から親類を訪ねてきた青年が、なんの罪もなしに警察に連行され、半殺しの目にあって故郷に帰ったことがあるが、それも地主の告げ口のせいかも知れないともいった。

 そうしているうちに、あたりが暗くなった。わたしは、今夜はこの村で泊まるから、警戒任務を勤めている隊員を山に送って、隊員をみな連れてこさせるよう、伝令に命じた。しばらくして、韓興権中隊長が部隊を引き連れて村にやってきた。軍人が6、70人もいっぺんに村に入ってきたのを見て仰天した地主は、隊員たちに「軍人さん、どうもご苦労さんです」とお世辞をふりまき、遊撃隊員を自分の家に請じたいといった。わたしは、あんな二枚づらをもって、時と場合によって別人のように行動するのでは、不便きわまりないのではないかと思ったほどだった。

 なにも知らない韓興権はすっかり感心して、「隊長、あの地主は、小汪清の張地主や図們の地主のように親切な人です」といった。張地主とは遊撃隊の援護に力をつくしているうちに、ソビエト政府の追放令で大肚川の方に移っていった人であり、図們の地主とは、反日部隊が被服を手に入れることができず苦心していたとき、われわれの要求を入れて500余着分の軍服用布地と綿、その他の物資を提供してくれた良心的な地主である。われわれは、その布地で、小汪清地方の反日部隊全員に軍服をつくってやることができた。

 図們の地主は、親類に会いによく十里坪にやってきていた。それを知った同志たちが、義援金を出させようと彼を抑留した。わたしが敵中活動から帰ったのは、指導部が、そんなやり方ではいけないといって地主を釈放した直後のことだった。わたしは隊員に命じて、遊撃区の外へ逃げていく地主を連れもどし、反日部隊の被服事情を打ち明けた。地主は、遊撃隊の要求に応じると約束して帰った。そして、忠実に約束をはたしたのだった。

 わたしは、ついさっきの出来事を韓興権に話した。

 「あのずるいゼスチュアにだまされてはいけない。あれは、通りすがりの旅人に戸も開けてやらない人でなしだ」

 韓興権は、最初あきれた顔をしていたが、しまいには拳を握って憤慨した。

 「けしからんやつではありませんか。そんなやつは許してはいけません。裁判を開いて銃殺してやりましよう」

 わたしは息巻く韓興権を制した。

 「それはいけない。あんな地主を一人射殺してなんになる。いたずらに世間を騒がすだけだ。…それよりは、朝鮮人の良心を守るようきびしくさとすのだ」

 「じゃ、地主を思いきりこらしめてやりましょう。あんなダニのような男をほうっておくわけにはいかないではありませんか」

 「だが、土匪のように振舞ってはいけない」

 わたしは彼が行きすぎたことをしでかしそうなので、釘をさした。

 韓興権が地主の家に現れると、ずる賢い地主はへりくだって、隊長は誰かと尋ねた。隊長以下数人の指揮官だけを泊め、村に分宿する隊員のことはかまいたくないという下心からだった。不人情な男だけあって利にはさとかった。韓興権は、自分が隊長だといって、さりげなく話しかけた。

 「お宅は裕福なようですね。1、2か月厄介になっても困ることはないでしょう」

 「いや、なに、2か月はなんだが、数日間なら大丈夫です」

 地主は、遊撃隊に2か月もいられてはたいへんだと思って青くなった。地主がなんといおうと、韓興権はしらばっくれて相手が胆をつぶすようなことばかりいった。

 「わたしの部下は何か月も肉が食べられなかったのですが、お宅に豚が何頭ありますか。よそはどうか知れないが、お宅の倉には米が100俵はあるでしょうね」

 「100俵だなんてとんでもない。ほかの家だってかゆをすすって、貧しいふりをしているが、米はみな持っていますよ」

 「米があろうがなかろうが、とにかくお宅にひとつ振舞ってもらいましょう。あんたは財産家だから、それくらいのことでびくびくすることはないでしょう。あなたにも朝鮮人の良心があるなら、国の独立のために一肌脱ぐべきだ。あなたのような人の助けを借りずに、食糧が切れて困っている貧乏人の米びつをはたけというのかね。種籾がなくては農作ができんじゃないか」

 地主は韓興権のおどしに恐れて、豚をつぶし米も出した。他の家に泊まった隊員も、そこの食糧には手をつけず、地主の家から米を持ってきて飯を炊いた。彼がわれわれを人間並みに扱っていたら、そんな目にはあわなかったであろう。

 韓興権は地主を思いきりこらしめたあと、わたしの寝床にと、地主の家からござと布団を運んできた。元来彼はこんな喜劇をよく演ずる傑作な男だった。

 その夜、われわれは麦がゆを勧めてくれた純朴な農民の家で、韓興権が地主の家から持ってきた米で夕飯を炊いて食べた。

 主人は驚いて、「こんなことをして大丈夫でしょうか」といった。わたしは彼を安心させた。

 「心配することはありません。あなたとは、なんのかかわりもないのですから。あなたは釜を貸しただけではありませんか。あとで地主が言いがかりをつけたら、遊撃隊がやったことで、こちらの知ったことではないとつっぱねるのです」

 「遊撃隊ならわたしらも安心です。遊撃隊のかただとはつゆ知らず、どうも」

 主人夫婦はほんとうに、われわれをただの通りすがりの人だと思いこんでいた。ただ、朝鮮人の純朴な礼節から、かゆであれ、みそであれ、家にあるものを出して一緒に食べようと勧めたのであった。しかし、地主はそんな礼節もわきまえていなかった。日本の巡査が戸口に現れたとしたら、座布団を出してこびへつらったであろう。

 富者と貧者とは、こんなにも違うのである。だが、富者だからといって人情や愛国心の持ち主がまったくいないのではない。張蔚華の父親張万程は大地主だったが、人望が高く愛国心の強い人だった。わたしが白後家のような富者をりっぱな女性だと評価するのも、彼女が民族の啓蒙と発展のために金銭を惜しまない人徳の高い愛国者だったからである。それで後世の人たちも彼女を白善行と呼んだ。

 しかし、大多数の富者は、わたしが会ったその地主のようにりんしょくで薄情だった。米びつみちて人情が生まれるというのは、もちろん世の中の道理に合った言葉である。しかし、それも普遍性のある言葉とはいえない。わたしに麦がゆを勧めた農民は、米びつがみちていたからそのような人情をほどこしたのではない。ついでにいえば、その家の米びつは空っぽだった。ただ、実る前に刈り取って、といたばかりの麦が、一袋部屋の隅に置いてあるだけだった。

 財産が多くても人徳がなければ世間から遠ざけられる。粗末な家に住んでも人徳が高ければ、大勢の友人を持ち、人びとに尊敬される道徳的な富者になれる。人間の優劣を分ける尺度が道徳だとすれば、われわれを門前払いにした地主は、道徳的に人間以下の哀れな貧者だといえる。真の人情は、広壮な屋敷ではなく、庶民の住む粗末な家にあった。

 李鳳洙夫妻は以前、馬廠で活動していたとき、発疹チフスにかかったことがあった。夫人の安順和は、夫が院長を勤めている病院にいたのだが、飢え死にした子を埋めようとして外に這い出し、クヌギの葉をかけてやった。李鳳洙は、自分も息子のあとを追ってすぐ死ぬだろうと予感して、同志が数日前持ってきてくれた新調の服を脱ぎ、つぎのような遺書を書いて、その上に置いた。

 「この服はいくらも着ていないから、この遺書を見つけた同志は、わたしの代わりに着てください」

 これが、その地主とは対比すらできない革命家の人情の世界であった。

 李鳳洙は、奇跡的に助かって革命運動をつづけた。彼が残した「遺書」は、彼の人間性を物語る証拠文書として人びとを感動させた。これは、共産主義者でなくては創造できない気高く熱い人情世界である。

 図們の裏山から遊撃区に帰ったわたしは、隊員を集めてその村での出来事をありのままに話した。これが階級的本性というものだ、貧しい人はかゆなりとも一緒にすすろうというが、富める地主はかゆはおろか門前払いをする、悪者ではないか、そんな者をのさばらせないためにも搾取社会をなくさなければならない。この話は、りっぱな階級的教育の資料になった。

 それ以後、富める地主と貧しい農民の話は、豆満江沿岸の農村に広がった。話を聞いた人たちは、ひとしく地主を人でなしだと非難し、農民を人情の厚い人だとたたえた。そして、平服を着た隊員が村の近くに行くと、青年たちがやってきて、誰それの家は金持ちで、誰それの家には民会の牛があると知らせてくれた。

 そのころ農村では、民会の牛を飼った。民会の牛は、日本の満州占領後、反動団体の民会が農民に分け与えた牛であった。しかし、それは農民の所有ではなく、成牛に育てて返さなければならなかった。これも労働力を搾取する一つの手段であった。民会の牛は、角に刻印があった。

 青年が民会の牛があるといったのは、つぶしてもかまわないということだった。遊撃隊員は、村人が教えてくれたように、民会の牛だけを選んでつぶした。すると日本人は、この村は悪者の村だ、共産軍に民会の牛のある家がわかるはずはない、村人が教えたに違いないと騒ぎ立てた。

 そんなとき農民は、「わしらは知りません。知るはずがないじゃありませんか。彼らには台帳があるのです。それを見て引いていくのだから、どうしようもありませんよ」と言い逃れをした。

 わたしは長年の体験を通して、富者であればあるほど美徳に欠けた薄情者であることを骨身にしみてさとった。善と徳に背を向けた富は美徳を生む泉でなく、美徳を葬る陥穽であった。豆満江の岸辺のその地主が、わたしの胸に消しがたい刻印を刻みつけたのである。彼のせいで、わたしはその村からよくない印象を受けた。

 そんな出来事があったあと、わたしは、ゆくゆく国が独立すれば、地主、資本家がわがもの顔に振舞う背倫背徳の古い社会を一掃し、万人が貧富の別なく一つの家庭のようにむつまじく暮らす、美しく健全な社会を建設しようという決意を新たにした。

 われわれはいま、すべての勤労者を富者にするために力をつくしている。他人の血と汗を搾って暖衣飽食する富者ではなく、自分の労働で社会の富をたえず創造する誠実、勤勉で、物質的に豊かでありながらも人徳の高い、道徳的な富者をつくろうというのである。カネが万能の手段となっている資本主義社会を、われわれは容認することができない。万人がひとしく物質と道徳の富を享有する時代が到来するとき、人類を汚す社会悪は根絶されるであろう。



 


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