金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 朝鮮人民革命軍


 人民のいるところに国があり国のあるところに軍隊があるのは、一つの初歩的な政治常識である。モナコなど若干の特例を除いて、世界の大小の国はほとんど自衛のための民族軍隊を持っている。地球上の多くの弱小国が、植民地主義者のあげた数発の銃声のために自主権をそっくり奪われ、数百年ものあいだ奴隷のくびきにつながれたのも、軍隊がなかったか、弱かったことに重要な原因があった。

 旧韓国の軍隊も国を守ることができず壊滅した。内乱を平定するときはあれほど悪辣だった軍隊が、外敵の前では砲門も開けず、応戦の素振りをするだけで崩壊してしまった。わが国が滅んだのは、国政が腐敗したためでもあるが、軍事力が弱かったためでもあった。

 奪われた祖国を取りもどそうと、朝鮮の先覚者たちは独立軍を組織した。国権を強奪された民族が国権の回復をはかるために軍隊を組織するのは必須の要求である。

 民族主義者は独立軍を組織して多年間武力抗争をおこなったが、朝鮮の共産主義者は遊撃隊を創建して日本帝国主義侵略者に鉄槌を下した。小規模の秘密遊撃隊をもって抗日長征の第一歩を踏み出した武装隊伍は、そのころ間島各県で連隊規模に発展していた。

 冬期討伐の砲声がやんだのち、われわれは反日人民遊撃隊を人民革命軍に改編する必要性を痛感し、他の地方の遊撃隊指揮官とその方途を慎重に討議した。各県に組織されている遊撃隊の連隊を一つの軍に統合する問題は、情勢の要請からしても、反日人民遊撃隊発展の合法則性からしても、焦眉の急務となっていた。反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改編するのは、大きく成長した遊撃部隊にたいする統一的指揮を円滑にして戦闘力を高め、日本帝国主義の大規模攻勢により主動的に対処する革命的措置であった。

 革命軍の問題が最初に論議されたのは明月溝会議であった。当時、われわれは反日人民遊撃隊の展望を論じ、遊撃隊をいったん大隊規模に組織し、一定の期間、質的、量的に発展させ、時が来れば大部隊の革命軍に改編することにした。もちろん、この問題が主要議題ではなかったが、革命軍の将来にかかわるこの問題について、代表たちは会場でもその他の場所でも真摯な論議を重ねた。大部隊革命軍のもっとも熱烈な主唱者は呉彬と朴勲だった。

 植民地や半植民地国の抗争武力は、最初は小規模に組織されるのが通例である。小規模の兵力で武装隊伍を組織したあと、それをもとにして漸次兵力を増強し、条件がととのえば部隊を統合して一つの軍を編制するのである。亡命先のメキシコからキューバに帰ってきた当初のカストロの部隊は82名であった。彼らのうち生き残った12名が7挺の銃を手にシエラ・マエストラ山に入って隊伍を拡大し、力を養ったあとハバナに進撃し、バティスタ親米独裁政権を一挙に崩壊させたのである。

 1933年下半期から、間島では、遊撃隊を統合し、その指揮体系を単一化する問題が重要な論点となっていた。それは、敵の冬期討伐を撃破するための馬村作戦と数千数万平方キロメートルの範囲で展開された英雄的防衛戦の教訓でもあった。

 作戦総括会議の席上、中隊間の協力問題と部隊の統合問題について熱弁を吐いたのは、小汪清管内で90日間ずっとわれわれとともに防衛戦に参加した第2中隊長や第3中隊長ではなく、作戦地域から遠く離れていた韓興権中隊長であった。彼は馬村作戦のさい自分の中隊が受けた任務は、老爺嶺を越えて東満州に侵入する敵を牽制することであったが、その間、敵とは一度も交戦したことがなく、主力部隊のためになにもできなかったといった。つまり、根拠地討伐軍の後頭部を叩くべきであったが、そうしなかったし、そうすることもできなかったというのである。

 彼の発言を聞いて、わたしは多くのことを考えさせられた。韓興権の発言は自己批判的だったが、彼が批判を受けなければならない根拠はなにもなかった。彼は、任務を忠実に果たしたりっぱな指揮官だった。それでは、どうして彼が自分を義理も革命性も洞察力もない指揮官だと卑下したのだろうか。彼が総括会議で強調したかったのはなんであったろうか。彼が近視眼的だったと嘆いたとき、わたしはわたしなりに彼を指導する上官として、馬村作戦から深刻な教訓をくみ取っていた。それは、刻々と変化する戦況に応じて中隊間の協力を円滑に組織するには、それを総轄する指揮・参謀機構が必要だということ、そのためには、指揮体系を単一化すべきだという教訓であった。指揮体系を単一化すべきだという彼らの要求は、結局、反日人民遊撃隊を統合して整然とした軍制を確立しようということであった。

 敵の冬期討伐を粉砕する防衛戦の全期間、各地に散在していた遊撃部隊は、隣接部隊との共同の連携や援助もなしに孤軍奮闘した。和竜県では1933年11月初旬、漁郎村遊撃根拠地への討伐がはじまったという。この最初の討伐は、強い反撃を受けていったん挫折し、そのあとは11月末から第2次討伐が3日間つづいただけだったという。日付けが示しているように、漁郎村討伐は、小汪清攻撃に15日ほど先立っていた。こんなとき、交戦状態でなかった他県の遊撃部隊が相互協力の原則で、敵の背後を攻撃していたならば、漁郎村遊撃隊ははるかに有利に戦えたことであろう。延吉県や琿春県の事情もそれとあまり変わらなかった。

 このことは、なにを意味するのだろうか。それは、遊撃区ごとに討伐時期が異なる実情で、各県と区の遊撃部隊を統一的に動かす単一の指揮体系と参謀機構さえあったならば、すべての遊撃隊が歩調を合わせ、相互協力という強力な武器で戦闘をより容易におこなえたであろうことを遅ればせながら示唆していたのである。

 ところが、県と区を単位にして遊撃隊を指導していた当時の状況のもとでは、そのような能動的で積極的な協力関係は望めなかった。これは冬期討伐当時の遊撃隊指揮体系が、現実の要請に即応できない制約性をもっていたことを意味する。当時、遊撃隊の指揮は、各級党組織の軍事部にまかされていた。一つの県に1、2個中隊の兵力しかなかった遊撃運動の草創期には、小規模の戦闘しかやらなかったので、県と区を単位にして軍隊を指揮する体系も悪くはなかった。

 しかし、遊撃隊の隊伍が拡大し、敵の討伐兵力も百の単位から千、万の単位に急増した状況のもとでは、小規模の戦闘だけを選択的におこなうわけにいかなかった。戦闘は、交戦者のいずれか一方の意思だけでおこなわれるものではない。敵が兵力を不断に増強して戦いを挑んでくれば、われわれもそれに対抗せざるをえないのである。

 敵が、師団や旅団、連隊の兵力を各地から集め、大部隊でわれわれを攻撃するとき、われわれは互いに協力せず、隣接部隊には目もくれず、あちこちの谷間に引きこもって散発的に戦ってきたが、今後もそのように戦うべきなのだろうか。大都市や城市を攻撃するときは各県から人員を選抜し、兵力を集中しているのに、防御戦では、なぜ県別、遊撃区別に戦わなければならないのだろうか。馬村作戦と前後した時期、わたしはそんな考えにとらわれていた。

 一言でいって、遊撃運動は、その内容と規模に見合った新しい器を求めていた。県と区に分散している武装部隊を、一つの体系に結束する画期的な対策が必要だったのである。この要求を満たすいちばんの近道は、反日人民遊撃隊を統合して大部隊の革命軍に改編することであった。

 腰営口に駐屯していた第4中隊長の手紙もそれを示唆していた。第4中隊長は、やむをえない事情があって馬村作戦総括会議に参加できず、馬村に彼の中隊の総括内容を手紙で送ってきた。その手紙をわたしに伝えたのは、中隊長の伝令、呉振宇(オジンウ)だった。馬村作戦を総括しながら、わたしは反日人民遊撃隊の統合問題について深く考えた。わたしは、この問題について朱鎮、梁成竜などともしばしば協議した。ある日、わたしは梁成竜の家でギターを弾いた。それは楽しかったからでも、心が安らかだったからでもない。正直にいって、そのころわたしの心はたいへん憂うつだった。馬村作戦には勝利したものの、遊撃区は深い悲しみに沈んでいた。われわれと生死をともにしてきた多くの人が命を落とした。垂木一本残っていない焼け跡に家を建て直し、新しい生活を営むのは容易なことでなかった。軍事問題を相談したくて梁成竜を訪ねたのだが、彼も沈うつな表情でわたしを迎えた。大隊長だった彼は、民生団加担の容疑で拘禁されたことに憤慨していた。わたしの保証でやっと釈放はされたが、復職できなかった。彼は、小汪清と羅子溝を行き来しながら食糧工作にあたり、討伐で妻と母を亡くしてからはいっそう口が重くなった。

 わたしが大部隊の革命軍組織問題を持ち出すと、彼はがぜん関心を示した。

 「問題は、どんな形式と方法で部隊を統合するかにあると思う」

 梁成竜は賛成とも不賛成ともいわなかったが、形式と方法の問題を提起することで軍の組織に支持を表明した。彼がいちばん心配したのは、反民生団闘争に熱をあげている一部の排外主義者が、それをどう受け取るだろうかということであった。

 彼が憂慮するのは無理もなかった。そこに朝鮮共産主義者の苦衷があり、その難点を用意周到かつ円満に解決しなければならない特殊な事情があったのである。共産主義運動と民族解放闘争で提起される諸問題を、自己流の原理と尺度で測って押しつける「国際路線」が幅を利かせ、いわゆる階級的利益と国際的連帯の名のもとに、民族的伝統と志向がすべて民族主義的偏向だと決めつけられていたころ、他国で革命運動を進めなければならない朝鮮共産主義者にとって、独自の武力建設構想を実践に移すのは容易なことでなかった。

 反日人民遊撃隊を大部隊の革命軍に統合、改編する問題については、朱鎮も賛成した。闊達で気さくな彼は、わたしが話を切り出すが早いか威勢よく手を振りながら、部隊を統合して一発くらわせてやろうといった。わたしは、「一発くらわせてやろう」というその表現がたいへん気に入った。それは、間島の朝鮮人の人気を集めている豪傑男児朱鎮ならではの痛快な表現だった。彼は、朝鮮人が部隊を統合して独自の革命軍を編制すれば、「朝鮮延長主義」のそしりを受けるかも知れないが、そんなことにはかまわず、一日も早くことを進めようといった。

 童長栄もわたしの構想を支持した。彼は、東満州に組織された反日人民遊撃隊は、朝鮮共産主義者か中心になって組織した武装力であり、構成でも朝鮮人が大多数を占め、中国で組織されはしたが、結局は朝鮮革命をめざす朝鮮の革命的武装力となるべきだというのである。童長栄の評価は、朝鮮革命を論ずること自体が民族主義として犯罪視された当時の実情では、きわめて公正かつ進歩的なものであった。

 彼も正しく指摘したように、東満州はもとより、南満州の李紅光、李東光、北満州の許亨植、金策、李学万、崔庸健など朝鮮の共産主義者は、満州地方の党建設で先駆者的、主導的役割を果たしたように、軍建設でも開拓者、主唱者、統率者の役割を演じた。軍を構成している指揮官と隊員の絶対多数も朝鮮共産主義者であった。童長栄は、軍を編制するのはよいが、中国共産主義者との連帯を強める方向で、互いに支持、補充する形式と方法を適切に選択するようにと勧め、そうするのが朝中双方の利益になるだろうと指摘した。

 反日人民遊撃隊を大部隊革命軍に統合、改編することについては、コミンテルン派遣員の潘省委も、コミンテルンの路線に合う正しい方針だとして積極的に支持してくれた。

 汪清大隊を一緒に統率した梁成竜をはじめ、のちに人民革命軍独立第1師の師長になった朱鎮、東満特委の童長栄、コミンテルン派遣員潘省委など、良識あるすべての人が反日人民遊撃隊を大部隊革命軍に統合、改編する方針について完全に見解を同じくした。統合、改編された武装力の名称選択と性格規定でも、彼らはわたしとほとんど同じ意見であった。

 わたしは1934年3月、反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改編する方針を正式に提起した。これは、われわれの闘争目標にもかない、それを担当し遂行する政治的勢力の性格にも合致した。

 初期に東満州の一部の地域で反日人民遊撃隊を工農遊撃隊と命名したのは、性格の規定で階級性の一面を過度に強調したもので、社会的解放よりも民族的解放と独立を優先的課題としていた朝鮮革命の性格にはもちろん、中国共産主義者が主管した東北革命の性格にも合わなかった。

 抗日遊撃隊を人民革命軍に改編する準備として、東満州地方の朝鮮の共産主義者は、中国の共産主義者とともに、各県の遊撃隊大隊を連隊に発展させた。こうして、間島地方遊撃隊の総兵力は5個連隊になった。各連隊には、遊撃隊にたいする党の指導を使命とする政治部を置き、作戦、偵察、通信任務を担当する参謀部署と、被服、食糧、軍医などを受け持つ兵站処を設けた。

 汪清連隊は、東満州地方連隊兵力の先駆けであり、抗日遊撃隊を人民革命軍に改編する第1段階の準備活動における最初の産児であった。

 抗日遊撃隊を人民革命軍に改編するうえで、第2段階の目標は師団体系を創設することであった。わたしが師団組織の必要性を痛感したのは、馬村作戦のときであった。2個中隊の兵力で5000の大軍と対抗したのは、世界の戦史に類例のないことだった。わたしは、小部隊による敵の背後攪乱作戦で遊撃区の難関を打開しながらも、われわれに軍団はさておいて師団級の兵力でもあればどんなによいだろうか、数千の兵力で大砲を撃ちまくりながら、大部隊活動ができたらどんなに力が湧くことだろうか、といつも考えていた。

 各県に連隊が組織され、その兵力も急速に増加している状況のもとで、師団の組織は一刻の猶予もならない最大の課題であった。

 われわれの目標は、朝鮮人民革命軍の管下に2個師団と1個独立連隊をまず編制し、その成果を拡大して、ゆくゆくは数個師団の兵力を組織することであった。われわれはこうした目標を立て、延吉と和竜にある連隊で1個師団を編制し、琿春と汪清の連隊を基本にしていま一つの師団をまた編制することにした。

 反日人民遊撃隊を人民革命軍に改編する過程で、朝鮮人民革命軍党委員会が新たな党指導機関として誕生した。朝鮮人民革命軍党委員会は、軍隊内の党組織にたいする指導と地方の党組織にたいする指導を同時に担当する重責をになっていた。武力の保障がなくては、地方の党組織がみずからを保護し維持することが難しい状況にあったからである。従来は、地方党組織が軍隊内の党組織まで指導していたのである。

 反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改編する活動は、1934年3月から5月までのごく短い期間におこなわれた。このことを知った遊撃区域の人民は、先を争って軍隊を支援し、各地で盛大な慶祝集会を準備した。汪清の婦人たちは、祝旗をわれわれに贈り、共青は児童演芸隊の祝賀公演を催し、いろいろな運動競技もおこなった。延吉の三道湾遊撃区域では、敵統治区域の代表も参加したなかで1000人余の大衆集会を開き、デモをおこなった。人民は、朝鮮人民革命軍の編制によって祖国解放の明日をいっそう深く確信し、軍隊と一心同体となって抗日革命戦争にこぞって立ちあがる決意をかためた。

 われわれは、反日人民遊撃隊を人民革命軍に改編することによって、より広い地域に自由に進出し、積極的な大部隊活動を展開する大路を開いた。もし、われわれが反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改編しなかったり、連隊や師団のような大部隊の軍事力を適時に編制しなかったとしたら、暗雲に閉ざされた祖国を明るく照らした普天堡ののろしも考えられなかったであろうし、撫松、間三峰、紅頭山、鯉明水、大紅湍、紅旗河など国内と満州各地で敵の精鋭部隊を壊滅した連戦連勝の喜びも味わえなかったであろう。また、冬期討伐についで遊撃区を脅かした悪名高い囲攻作戦も破綻させることができなかったであろう。

 反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改編することによって、われわれは武力抗争によって必ず祖国の解放をなし遂げようという朝鮮民族の意志を内外に強く誇示したのである。

 朝鮮人民革命軍は、ときには東北人民革命軍の名で活動した。われわれの見解では、東北という名称はある国を意味する国号ではなく、あくまでも地域的概念であった。われわれの組織した人民革命軍が「満州人民革命軍」や「中国人民革命軍」ではなく、東北人民革命軍の名でも活動したのは、反満抗日を闘争目的にしていた中国の同志たちにとっても適切なことであった。結局、東北人民革命軍は、朝鮮人民革命軍としての使命とともに、中国共産主義者の反満抗日の偉業に寄与する革命武力としての使命も同時に遂行したのである。

 朝鮮人民革命軍は、間島と東辺道一帯、白頭山を中心とした朝鮮半島全域におけるもっとも強大な武装力に発展した。

 反日人民遊撃隊を人民革命軍に統合、改編する過程で朝鮮共産主義者のとった原則的な立場と用意周到な政治的考慮は、その後、朝中人民の反日共同闘争、とくに、中国東北地方における抗日武装闘争の発展に大いに寄与した。もし、われわれが当時の主・客観的情勢を考慮せず、朝鮮革命の主体的路線に名実ともにふさわしい形式や名称のみにこだわっていたとしたら、朝鮮共産主義者は、抗日武装闘争を中国人民の幅広い支持声援のもとに効果的に進めることができなかったであろう。

 後日、われわれは東北抗日連軍を組織してからも、朝中抗日連合軍の性格に即して、中国東北地方で活動するさいは東北抗日連軍と呼称し、朝鮮人が多く住む地方や朝鮮に進出したさいは、朝民人民革命軍と称した。このように、状況に応じて名称を変えて活動したので、どこでも朝中両国人民に愛され保護されながら生活し戦えたのである。われわれが運動の形式的側面よりも本質的内容を重視したのは、現在の時点で評価しても、正しく誇らしいことであった。このような原則的な見解と度量ある態度を持したおかげで、われわれはつねに国際主義者としての本分をつくしながらも、闘争の民族的性格と独自性を十分に守り、ひいては中国の同志やコミンテルンから深く尊敬され支持されることができたのである。

 当時の出版物は、間島に組織された人民革命軍を東北人民革命軍ではなく、朝鮮人民革命軍と書いた。1935年、上海商務印書館発行の『東方雑誌』は、東北におけるパルチザン闘争に触れ、間島に朝鮮人民革命軍が3000人いると指摘しているが、それはパリの救国出版社発行の『東北抗日烈士伝』にも転載されている。

 東北抗日連軍の編制後、朝鮮人民革命軍部隊が第2軍と呼ばれたのもいわれのないことでない。朝鮮人民革命軍は、性格上、朝中両国人民の国際的な反日統一戦線体としての側面をもち、第2軍内の朝鮮人は、朝鮮の独立のために戦う独自の任務を遂行しながら、中華民族の解放運動を国際主義的旗印のもとに支援した。

 間島に朝鮮人民革命軍が組織され、戦果を広げていたとき、誰よりもそれを恐れ、その存在の危険性について喧伝したのは日本帝国主義侵略勢力であった。彼らは、東満州と南満州で活動するわれわれの抗日武装力を、その名称にかかわりなく「金日成軍」という通称で呼ぶことが多かった。反日人民遊撃隊が朝鮮人民革命軍に改編されたのち、反日共同闘争の成功をはかって、間島地方で孔憲永、柴世栄、史忠恒、李三侠などが率いた抗日義勇軍は、第2軍の部隊番号をもっていた朝鮮人民革命軍と連合したが、それは「東北華韓人民革命軍」(東北朝中人民革命軍)ともいわれた。こうした経過をへて、事実上、東満州には1930年代前半期、すでに朝中抗日武力の強固な連合が成立していた。

 周保中は、「抗日連軍第2軍は同時に『朝鮮人民革命軍』であった。…抗日遊撃戦争中、中朝人民は共同の事業のために鮮血で結ばれていた」と書き、朝鮮人民革命軍の実体を認め、共同闘争の道程で歴史的に存在した朝中抗日武力の連合を激賞した。

 日本人が満州、とくに、間島に組織されたパルチザンを「朝鮮人純血パルチザン」と指摘したのも、そうした意味からだったであろう。

 われわれの関係者が発掘した資料によれば、ソ連の著名な中国・朝鮮問題専門家ウェ・ラポポルトは、1937年、ソ連の国際政治誌『太平洋』に掲載した論文『北部朝鮮地域におけるパルチザン運動』のなかで、「…朝鮮パルチザンの大多数は統合されており、自己の中央を有し、人民革命軍と呼んでいる」「朝鮮パルチザンと満州パルチザン間の現存する連係と接触の拡大は、日本軍国主義者にきわめて大きな不安をいだかせており、そのため日本は国境地域に深い関心を払っている」と書いた。

 反日人民遊撃隊を人民革命軍に改編するのは、たんなる名称の変更や実務的な再編を意味するものではなかった。それは、抗日遊撃隊の歩んだ戦闘の道程を総括し、その成果と経験を生かしていく方向で遊撃隊の指揮体系を改善し、隊伍を質的、量的に強化する軍建設の新たな段階を意味した。

 反日人民遊撃隊の朝鮮人民革命軍への改編後、われわれは敵の囲攻作戦を粉砕する積極的な軍事作戦を展開した。

 最終掃討戦と大言壮語した冬期討伐で惨敗を喫すると、関東軍首脳部と東京の軍部は、失敗の原因と責任を究明する騒ぎを起こしたあげく、1934年春から、従来の焦土化戦術を再検討し、より悪辣な新しい討伐計画として、いわゆる囲攻作戦を案出した。それは、軍事的包囲攻撃と政治的暴圧、経済的封鎖を組み合わせて遊撃区を最終的に掃滅するというあくどい作戦であった。わたしは、日本人のこの新発明が、じつは蒋介石が中国のソビエト区を攻撃したさいに用いた封鎖政策の焼き直しとみなした。

 蒋介石の封鎖政策は、「政治恐怖と経済恐慌の非人間的世界を現出して」、共産軍が着ることも食べることもできないようにすることを目的にしていた。一方、囲攻作戦は、遊撃区の人民と軍隊を残らず飢え死にさせ、凍え死にさせ、撃ち殺し、焼き殺すことを目的にしていた。日本人は、この作戦のために集団部落をつくって軍隊と人民を分離し、中世的な十家連座法と五家作統法のような保甲制度によっていっさいの抗争勢力を摘発、粛清しようとはかった。

 封鎖政策と囲攻作戦には、戦術的な側面でも類似性があった。蒋介石の戦術は、「穏紮穏打・堡政策(・=「石」偏に「周」)」であった。この戦術は、相手を包囲したのち追撃を急がず、深入りもせず一地点を占領すれば徐々にそれをかため、再び明け渡さない方途を研究しながら、次の地点への攻撃に移るというものだった。

 この戦術に対比できるのが、日本人の考案した「歩歩占領」戦術であった。同志たちがこの戦術を評して、「日本人も哀れなものだ。蒋介石の知恵まで借りるとは」といったのはたんなる冗談ではなかった。

 彼らは囲攻作戦を準備し、1934年春から遊撃区の周辺に関東軍精鋭部隊と朝鮮占領軍部隊をより多く投入し、満州国軍部隊を増強した。

 敵の囲攻作戦が拡大されている緊迫した情勢に対処して、われわれは朝鮮人民革命軍部隊をして、遊撃区の防御にひきつづき力をそそぎながら、大規模作戦を展開し、敵背の軍事的・政治的地点を連続打撃して敵の企図を前もって破綻させる一方、より有利な地帯に遊撃区を拡大するようにした。これは、当面の難局を能動的に打開し、血を流してかちとった勝利をかため、高揚した人民の革命的気勢をひきつづき盛りあげることを可能にした。

 朝鮮人民革命軍は、春期攻勢に出て、汪清地方で敵軍の主要駐屯地と小百草溝、大肚川、石頭河子、転角楼など集団部落建設場を襲撃した。琿春と延吉、和竜の同志たちも集団部落建設場を襲撃して敵の囲攻作戦企図を出端からくじいた。

 われわれはこの攻勢でおさめた成果をかため、イニシアチブをとって囲攻作戦を完全に破綻させるため、ただちに夏期攻勢を開始した。この攻勢の主要目標は、遊撃区域を安図県の西北部と汪清県の東北部に拡大することであった。敵の包囲攻撃にたいして、固定した幾つかの遊撃区だけを守っているとすれば、それは敵の思うつぼにはまり、敵の企図に手を貸すことになる。

 遊撃区を安図県の西北部に拡大するのは、人民革命軍第1師と独立連隊が担当し、汪清県の東北部に拡大する任務は、第2師が受け持った。大甸子と富爾河を結ぶこの遊撃活動区域が安図県の生命線であるとすれば、羅子溝、老母猪河、太平溝、三道河子などの一帯は、琿春県と汪清県の生命線であった。これらの地方はいずれも、牡丹嶺と老爺嶺をひかえた遊撃活動に理想的な適地で、独立運動時代から洪範図、崔明禄、李東輝、黄丙吉のような有名な武人の関心を引いたところであった。

 われわれは、第1師の師長朱鎮と独立連隊長尹昌範に、まず大甸子―富爾河一帯を攻撃させて、敵の注意を引きつけたあと、羅子溝方面に進出する計画を立てた。

 関東軍の視線が安図県大甸子一帯に集中しているすきに、われわれは人民革命軍第2師第4、第5連隊の一部を反日部隊とともに羅子溝方面に進出させて、三道河子と四道河子を占拠した。三道河子では、朝鮮人民革命軍と1500余人の反日部隊将兵の交歓会が開かれた。これは、羅子溝戦闘で勝利をかちとるための一つの思想戦であった。羅子溝戦闘には、反日部隊から孔憲永部隊、史忠恒部隊、柴世栄部隊、李三侠部隊が参加した。

 羅子溝は、汪清県百草溝、東寧県城とつながった敵の軍事的要衝であった。羅子溝市内には、聞長仁大隊長の指揮する数百人の満州国軍が駐屯していた。羅子溝は住民所帯が500戸ほどのさほど大きくない町だったが、9.18事変後、敵の軍事的拠点に急速に発展し、1932年の春からは間島臨時派遣隊の重要な基地となっていた。日本帝国主義は、この派遣隊が撤収すると、増強された1個大隊以上の兵力を羅子溝に常駐させ、それを囲攻作戦の持ち駒の一つに使おうとしていた。

 先制攻撃を加えて羅子溝一帯を掌握するのは、囲攻作戦の一角を突き崩すと同時に、遊撃区を拡大するうえに有利な条件をつくる鍵であった。

 われわれは、三道河子の李泰京老の家で反日部隊の指揮官とともに、羅子溝攻撃にかんする作戦会議を開いた。李泰京(リテギョン)は、義兵と独立軍の経歴をもつ憂国の情が厚い老人で、一時崔自益とともに北路軍政署の総務を勤めたこともあった。徐一が一兵卒にすぎない李泰京を総務に任命したのは、彼の抜群の射撃術と書にほれたからだという。徐一が檀君をあがめる大教を布教したとき、李泰京はその敬虔な信者になり、金佐鎮が反共闘争を主張したときにはそれにも同調し、褒賞として拳銃を贈与された。間島大討伐をひかえ、金佐鎮が北満州に撤収するさい、老人は指揮官たちに従って密山に向かった。しかし、金佐鎮が延吉県倒木溝の密林に姿を消すと、彼も仲間とともに四道河子地方にきて銃を埋め百姓仕事をはじめた。

 李泰京老のいまでも忘れられない印象は、わたしが反日部隊の指揮官に作戦意図を説明しようとして羅子溝市街地の略図を広げたとき、風にあおられないよう、窓側の方の略図の端に石を置いてくれたことだった。彼の家族は、その石を福石といっていた。それは、卵のように表面がなめらかで奇妙な形の石だった。老人は十里坪で北路軍政署の総務を勤めたさい、友人が死ぬ前にその石を譲ってくれ、長いあいだ保管していれば福が授かると遺言までしたという。

 その福石は、いま朝鮮革命博物館に所蔵されている。李泰京老は死ぬ前に、その石を家宝として息子に残した。金日成将軍が、作戦地図の上に置き、手に触れた石だから大事にしまっておくようにと念を押したという。1959年、抗日武装闘争戦跡地踏査団が中国東北地方を訪れたさい、老人の息子がその石を踏査団に提供したのだった。

 李泰京老は共産主義が嫌いだといいながらも、われわれを援護することでは労を惜しまなかった。わたしが羅子溝反日会長崔正和の紹介で、彼にはじめて会ったのは1933年の夏だった。そのとき、わたしは白馬に乗って三道河子に行き、大衆政治工作をおこなった。その過程で三道河子反日会が組織され、村の最年長者である李泰京老もそれに参加した。彼は反日会に入会して以来、村人たちをりっぱに教育した。村の最年長者でいちばんの有力者である彼の一言一言に、村人たちはみなよく従った。

 村に義兵や独立軍出身の人が一人か二人いれば、そんな村の革命化はスムーズに進んだ。李泰京のように武器を埋め中途で闘争を止めた独立軍の人たちも、ほとんどが愛国心だけは捨てていなかった。彼らが中核になって家々をまわりながら、山で苦労している革命軍を援護しようと訴えると、誰もが「そうしましょう」と応ずるのだった。彼らが先に立って、村に革命軍が来たがどうしたものだろうかと相談を持ちかけると、「餅をつきましょう」「牛をつぶしましょう」などと答えた。独立軍出身者のなかには、思想転向した人もまれにはいたが、ごく少数で、絶対多数は晩年まで潔白に生きた。それで、わたしはどの村でも独立軍出身の有志との活動をおろそかにしなかった。石峴では呉泰煕、西大坡では崔自益、馬村では李治白、東日村では金東順、三道河子では李泰京といったふうに、まず独立軍出身の長老を訪ねて挨拶し、木枕を並べて時局を論じたものだった。

 解放後、一部の人は独立軍出身を思想が違うからということで排斥した。共産主義思想をもった人でなければおしなべて色眼鏡で見たときのことだった。たまに偏狭な人物が人事問題を扱うときには、そうした人たちを遠ざけることがあったが、それはわれわれが終始守ってきた統一戦線政策に水をさす妄動であった。わたしはそうした傾向を目撃すると、こう言い聞かせたものである。

 「思想が違うからといって独立軍出身を排斥するのは、もってのほかだ、独立軍が共産主義者になれなかったのは制約であって罪ではない。君たちは、古典小説の春香や李夢竜(リモンリョン)まで共産主義者に仕立てようとしているのではないのか。共産主義者が政権を取ったからといって、愛国的な先輩を無視してはいけない。時代によって思潮が異なるものなのに、なぜ彼らを排斥し、警戒し、のけものにするのだ。他人がオンドル部屋で妻子や家族にかこまれ、温かいご飯を食べながら暮らしていたとき、独立軍に入って命を的に朝鮮の独立のために戦ったのが罪だとでもいうのか。わたしは自分の家で暮らしを立てながら気楽に暮らした人たちよりは、銃を取って戦った義兵や独立軍の方がりっぱな愛国者だと思う。独立軍を排斥すれば、われわれが人民に見捨てられるということを銘記すべきだ」

 わたしはこうした立場から、万景台に革命家遺児学院を創立したさい、そこに独立軍の遺児も入学させたし、われわれの新しい朝鮮建設路線を積極的に支持する独立軍出身の人たちを能力に応じて幹部に登用した。初代農民同盟中央委員会委員長の姜鎮乾(カンジンゴン)先生や共和国内閣の初代都市経営相の李辮謳カも独立軍出身だった。

 われわれが作戦会議を終え、戦闘準備にとりかかっているとき、敵が先手を打って城市から出撃したという偵察の報告が指揮処に届いた。われわれは有利な地帯に敵をおびきだし、主力を掃滅したのちに追撃戦を展開して城市を攻撃した。連合部隊は豪雨の中で苦戦をしなければならなかった。

 東寧県城戦闘と同様、羅子溝戦闘でも、最大の暗礁は西山砲台だった。この砲台の必死の抵抗で戦闘は3日間もつづいた。3日目にわれわれが反日部隊の指揮部で会議を開いていたとき、西山砲台から迫撃砲弾が飛んできて周保中など数人の反日部隊指揮官が重軽傷を負った。周保中は、孔憲永部隊の参謀長として戦闘に参加していた。指揮官の負傷で士気を落とした一部の反日部隊は、羅子溝から算をみだして退却しはじめた。退却を阻止しなければ、戦いに敗れるおそれがあった。西山砲台の占領いかんは、羅子溝戦闘の勝敗を左右する鍵であった。西山砲台には迫撃砲のほかにも重機や軽機が数挺あった。

 この砲台の火力のために、韓興権中隊長は腸がはみ出る致命傷を負い、゙曰男も戦闘能力を失っていた。深手を負った韓興権は、自分を射殺してくれと哀願するほどだった。

 わたしは、歯ぎしりしながらも砲台に接近できずうつ伏せている人民革命軍隊員に向かって叫んだ。

 「諸君! どんなことがあっても西山砲台を占領しよう! 革命のために最後の一滴の血までささげて戦おう!」

 そして、モーゼル拳銃で敵兵を撃ち倒しながら突進した。砲台から雨あられのように降りそそぐ機関銃弾が耳をかすめ軍帽に穴をあけた。しかし、わたしは息をととのえる間もなく、まっしぐらに突っ走った。隊員たちは地を蹴って立ちあがり、わたしにつづいた。

 難攻不落を豪語した西山砲台は30分で陥落し、砲台の頂に赤旗がひるがえった。赤旗を見た反日部隊の兵士たちも勇気づいていっせいに突撃に移った。彼らを挫折から突撃に奮い起こすうえで、周保中をはじめ、中国共産主義者の犠牲精神が大きな感化力を発揮した。周保中は重傷を負ったにもかかわらず、両腕を広げて、逃げる反日兵士を制止し、西山砲台にひるがえるあの赤旗が見えないのかと叫んだ。それを見た反日兵士たちは踏みとどまり、ついで喊声をあげながら敵陣に迫った。

 戦闘は、われわれの勝利に終わった。羅子溝を守っていた聞大隊長と日本人指導官は、関東軍司令官に送った最後の電報で、金日成ら2000の合流匪に6日5昼夜のあいだ包囲攻撃を受け、いまや全滅する羽目に陥ったと悲鳴をあげ、こうつづけた。

 「弾薬はすでに射ち尽くし、我等の運命旦夕に迫る。遮莫、我等は国家のため、満洲建国のため全力を尽くしたるを本懐とす。司令官、これを諒せよ」

 羅子溝と大甸子でのわれわれの勝利は、朝鮮人民革命軍がおさめた抗日戦争初期の最大の成果であった。朝鮮人民革命軍の羅子溝進攻戦闘は、敵の囲攻作戦企図に痛撃を加え、敵を驚愕させた。この戦闘後、遊撃区周辺の大小の討伐隊は恐怖におののいた。

 じつに、羅子溝戦闘は、汪清遊撃区東北部一帯の敵を制圧して遊撃区の拡大に有利な局面を開き、反日部隊との連合戦線をかためるのに大きく寄与した。羅子溝戦闘後も、われわれは敵の囲攻作戦企図を破綻させる猛烈な軍事・政治活動をおこなった。遊撃区の解散後、東満州の革命大衆のうち多数が安図と羅子溝一帯に住みつくことができたのは、われわれが早くから軍事・政治活動を猛烈にくりひろげ、この地域を目に見えない革命根拠地に変えたからであった。

 革命軍は、1934年の夏期攻勢で少なからぬ血も流した。大甸子の戦勝談には、和竜遊撃隊組織者の一人であり連隊政治委員であった労働者出身の信望の厚い指揮官車竜徳(チャリョンドク)が流した血の痕も記されている。彼は、朝鮮人民革命軍の編制後、最初に戦死した政治委員であった。



 


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