金日成主席『回顧録 世紀とともに』

7 永遠に咲く花


 1933年のことである。

 王隅溝の革命組織は、上部の措置に従って、北洞児童団学校の児童金今順(キムクムスン=金今女・キムクンニョ)と金玉順(キムオクスン)を小汪清に送った。この二人の少女は、延吉地方の人たちにとくにかわいがられている才能豊かな演芸隊員だったが、革命大衆が集結している汪清一帯の根拠地の人民に歌と踊りを普及する任務を受けて、馬村に来たのである。当時、東満州地方の革命組織は、たびたび人材を選抜して朝鮮革命の策源地―小汪清につぎつぎに送りこんでいた。今日、朝鮮人民が平壌を誠心誠意支援しているように、東満州地方の人民は小汪清にさまざまな支援をおこなった。

 馬村に到着した二人の少女はその足で、同行した北洞児童団学校の管理者と一緒にわたしのいる軍部を訪ねてきた。二人とも10歳前後の幼い少女だった。姉妹なのかと思ったが、そうではなかった。名前が似ているだけである。北洞児童団学校の管理者は、二人をかわるがわるわたしの前に立たせて、その経歴と家庭のことを興味深く話してくれた。それが、きわめて印象的だった。金玉順は自分のことが紹介されたとき、涙を流した。わたしも危うく涙をこぼしそうになった。彼女の歩んだ13年の短い人生は、あまりにも大きな悲劇に彩られていたのである。

 金玉順は、9つのとき20をすぎた地主の息子と婚約した。本人も両親も知らないうちに成立したまやかしの婚約である。男が20をすぎれば老チョンガーとみなされ、両親はやきもきして仲人を立て、嫁を物色した時代のことである。息子が20すぎまで許嫁がいなかったばかりか、玉順の父親に大酒を飲ませて酔いつぶし、その手をつかんで文書に拇印を押させるというやり方で、強引に婚約を成立させたことから推して、相手の若者は普通では結婚できない欠陥があったに違いなかった。

 その文書によると、金玉順は15の年に正式に結婚することになっていた。彼女の父親は、そこにそんな無茶なことが書かれているとも知らず、2日間も酔いつぶれていた。家に運びこまれてやっと正気にかえった彼は、かくしの中に自分の拇印が押されている婚約証書と、わけのわからない80円の金があるのを発見して痛哭した。その80円は新郎側から送られた結納だったのである。

 それを知って玉順は涙で月日を送った。しかし、一枚の文書で娘の運命を決めてしまった父親の金在万はやがて、80円の結納でわらぶき家と自留地、それに牛と豚を買って、黙々と暮らしを立てた。長い物には巻かれろとあきらめ、どうせなら、転がりこんできた金を元手にし、禍を転じて福とならせようという算段であった。娘がわが身の不運を嘆くたびに、彼はこういって慰めた。

 「泣くんじゃない。あの80円が、それでも落ちぶれたわが家を救った。とにかく、飢え死にするよりはましじゃないか。おまえが婚約したおかげで死ぬほかない父母兄弟が救われたと思ったら、悲しみもおさまるだろう」

 無知で純朴な金在万は、革命を理解しなかった。人間は誰でも精出して働けば貧乏にうちかち、働きいかんでは百万長者にもなれると考えるほど純情であった。だから、自分を搾取する地主にも幻想をいだいた。地主は、ときどき玉順の家に食べ物を持ってきた。それで金在万は、こんなにありがたい地主はほかにはいないとまで思いこむほどになった。ある日、玉順が学校の校庭で、地下工作員の演説を聞いたことがあった。そのことを知った金在万は娘を牛小屋にくくりつけ全身にみみずばれができるほど鞭打った。娘が革命運動にかかわってはと恐れたのである。

 金在万が階級的にようやく目ざめたのは、5回にわたる敵の討伐で村が焼け野原になったときのことである。彼は、討伐で家も家畜もみな失った。近所の人のなかには、焼死者も出ていた。

 「玉順、こうなったからには、やつらがくたばるか、おれたちが皆殺しになるか、最後まで戦うほかない。お父さんはあまりにも世間を知らなかった。おまえたちは革命を起こして、あの悪鬼のようなやつらを一人残らず叩きのめすのだ」

 娘を王隅溝遊撃区域に送り出す日の夜、金在万はこういった。

 その後、金玉順は、松林洞の金今順の家に寄宿し、二人で一緒に北洞児童団学校に通った。そして、区演芸隊と県演芸隊に入って大衆啓蒙活動にも参加した。

 朝鮮の子どもたちは、玉順のように、親に甘える年ごろで早くも、生活の苦労を背負わされあえいだのである。世の荒波は、おとなと子どもを区別しなかった。子どもにも情けをかけない世の中、年少者にもおとなと同じ重荷を背負わせる無情な世の中に抗して、朝鮮の子どもたちは戦いに立ち上がった。間島地方の朝鮮の少年は、各地で児童団、少年先鋒隊、少年探検隊のような革命組織をつくり、組織された力で戦いの場に飛びこんだ。革命的組織生活を通して教育され、鍛えられたすべての少年少女が抗日革命を動かす一つの歯車となり、ねじとなった。金玉順、金今順もそんな歯車やねじの一つであった。

 わたしは、金玉順の経歴を聞いて、痛々しい気持ちにかられた。その清楚な姿に降りかかったひとすじの不幸には、朝鮮の数百万の少年少女にのしかかっている不幸が凝縮していた。

 しかし革命を志し、幼い身で親のひざもとを離れ、遊撃根拠地にやってきたその決意、その気概はなんとりっぱなものではないか。そして、きょうはまた、小汪清を支援するために、王隅溝から大荒崴、腰営口をへて馬村まで数十里の道を歩いてきたのである。なんとありがたい子どもたちであろうか。おとなの履くような地下足袋を引きずり、重い背負い袋を肩にし、棒切れでいばらをかき分けながら懸命に小汪清へやってきた二人の少女。なんとけなげな頼もしい子どもたちであろうか!

 「誰がおまえたちをこの小汪清に送ったんだい?」

 わたしは、彼女たちの地下足袋を運動靴かゴム靴に替えてやらねばと思いながら、こう聞いた。

 「尹丙道(ユンビョンド)先生です」

 二人の少女はスカートの腰帯に両手をつけて姿勢を正し、元気よく答えた。瞳が明るく輝き、声もすがすがしいばかりにはきはきとしていた。

 わたしはたいへん気分がよかった。子どもたちと親しむのは、生活における大きな楽しみである。子どもたちの笑顔は、心の痛みや悩みを洗い流す強力な洗剤だともいえる。彼らの童心世界に入りこんでみたまえ。すると生への強い衝動を覚えるであろう。そして、子どもたちがいるために、人類の生活はますます美しく彩られ、彼らの瞳にみちあふれている理想を花咲かせ、守るのが、神聖な使命であることを胸いっぱいに感じるであろう。

 わたしは、顔やすねに擦り傷をいくつもつけた今順の姿が痛ましくて、こう尋ねた。

 「遠くから歩いてきて、たいへんだったろうね。高い山も多かったはずなのに、越えるのが難儀じゃなかったかい?」

 「足にまめができて、痛くてたまりませんでした。でも、わたしたちを連れてきたおじさんから、王隅溝に帰れと言われてはと思って、平気な顔をしていたんです」

 「家へ帰って、お父さんやお母さんのそばにいるほうがいいんじゃないのかい」

 「もちろんですわ。でも、それじゃいつになっても、おとなになれません。おとなになるには苦労をたんとしなくちゃいけないって、児童団の指導員先生もおっしゃっていました。わたしはうんと苦労して、早くおとなになりたいんです」

 「そんなに早くおとなになって、どうするつもりだい」

 「朝鮮を独立させなくちゃ。金隊長さん。どんなことがあっても、あたしを家へ送り帰さないでください」

 今順のおとなびた考え方にわたしは驚いた。年は幼かったが、朝鮮の独立に一生をささげようという覚悟は、思想的にたいへん早熟なものである。

 「うん、そんな心配はしなくてもいい。間島で3本の指に入る才女たちが転がりこんできたのに、帰すわけがあるかね。これからはわたしと一緒に汪清で暮らそう。ここで児童団生活をするのも悪くないよ」

 今順は手をたたいて喜んだ。

 わたしは、県と区の共青幹部に、二人を馬村児童団学校に入れ、児童団の組織生活に参加させるようにし、親の膝元を離れてなじみのない土地へ来た子どもたちのために、気楽にすごせる親切な家庭に同居させてほしいと頼んだ。

 汪清の軍隊と人民は、馬村児童団学校の運動場で、その年のメーデーを盛大に催した。行事には汪清地区の全軍人が集まった。王隅溝から来た二人の少女は競走と高跳びでそれぞれ一等をとり、汪清の人たちの拍手喝釆を受けた。

 今順は、同じ年ごろの子よりずっと小さかった。彼女が演芸隊の先頭を、背負い袋をかついで足早にちょこちょこ歩く、その純真なかわいい様子を見ては、みなほほえんだものである。

 わたしも彼女の様子から大きな力を得た。わたしはもともと、生活を悲観的に見る人間より、楽天的な人間を好んだ。われわれが、山で草の根を噛みながら苦しい武装闘争をしていたころは、一人の楽天家が数十門の大砲に匹敵する力を人びとに湧き立たせたものである。今順は、当時、党、共青、児童団の3代同盟のなかで、もっとも若い世代を代表するすぐれた闘士であり、楽天家であった。

 今順に会った数日後、わたしは馬村児童団学校の子どもたちを指揮部に呼んで、彼らの生活状況を点検した。児童団員は、背負い袋の中に一週間分の食糧を常時携帯することになっていた。ところがその日、背負い袋を調べてみると、学校で出してやったはったい粉を食べてしまった子どもが少なくなかった。ところが、今順はそれにひとさじも手をつけず、一週間分をそっくり保管していたのである。

 「ほかの子たちはみな食べてしまったのに、うちの末っ子は、ほんとうによくこらえたもんだ。今順がいちばんえらい!」

 わたしは背負い袋の点検を終えると、親指を立てて今順をほめた。はずかしそうにほほえんでいた今順は、こういった。

 「わたしも、はったい粉の袋を何度出したり入れたりしたかわかりません。でも食べたいのをやっと我慢したんです」

 「どうやって我慢したんだね」

 「ほかの子たちがはったい粉を食べるとき、わたし、目をじっとつむっていたの。それでも食べたくなったら、外へ出て行ったんです。それでも食べたくなったら井戸へ行って、水を一杯飲んでくることにしました。そしたら、はったい粉を食べたくらい、おなかがふくれるから」

 わたしは、すらすらと答える彼女の言葉に、すっかり感心した。涙を誘わずにはおかないその童心世界には遊撃区人民の経済的窮乏が集約されており、そうした窮乏のなかでも不屈に革命を切り開いていく、幼い不死鳥の魂が格調高く鼓動していたのである。

 その日、わたしは子どもたちに、10コップ分のはったい粉とトウモロコシ餅を与え、背負い袋にマッチも入れてやった。数日後には、新調の綿入れと綿布団、履き物、ノート、鉛筆など2台の牛車に積んだ生活必需品を児童団学校に贈った。たえず戦闘をくりひろげていたころのことで、敵から分捕った戦利品が少なくなかった。衣料品や食糧のゆとりはなかったが、われわれはいつも戦利品のなかからかなりの量を割いて、児童団学校に贈ったものである。

 「いちばんよいものを子どもたちに!」 これは、今日、われわれの生活の不動の原則になっているが、他国に居候していたあの困難なときにも、われわれはこの原則に立って、子どもたちのためにあたうかぎりのことをした。彼らの衣食住問題を解決するためなら、部隊を出動させて敵と戦うことさえためらわなかった。

 われわれは児童団に「朝鮮の独立と全世界無産者階級の解放のためにつねに準備しよう!」というスローガンを示し、子どもたちを愛国主義思想、プロレタリア国際主義思想で教育した。

 児童団員は、大衆啓蒙、演芸活動、歩哨勤務、通信連絡、敵情探知、武器奪取、遊撃区防衛の戦いなどで、おとなに劣らず数々の偉勲を立てた。敵の討伐で焼き払われた丸太小屋を建て直す場でもつねに、子どもたちの姿を見ることができたし、根拠地を死守する激戦のさなかにも歌をうたい、革命軍の塹壕に握り飯を運ぶ幼い荒ワシたちに出会ったものである。農繁期には、畑の草取りもすれば、秋の取り入れもした。ときには、野生の果実を摘んで遊撃隊に贈りもした。

 あるときわたしは、トンガリ山の中央歩哨隊で前方歩哨勤務についている児童団学校の子どもたちを見かけたことがある。腰に重い爆弾を一つずつ下げた彼らは、長さ1.5メートルほどの長柄の先に穂のある槍を持って歩哨に立っていた。交替は1時間ごとにするという。マッチ軸の2倍ほどの線香に火をともし、それが半分ほどになると交替するのである。線香が燃えつきるのに2時間かかると聞いて、その独特な時間測定法に感心したものである。

 その子どもたちがある日、裏付きのパジ(朝鮮式のズボン)、チョゴリとパジの裾ひも、灰色の絹チョッキ、乗馬ズボン、靴、長靴、黒ゴム靴などをそろえて、わたしのところへ持ってきた。それは、児童団学校にたびたび戦利品を贈ったことへの返礼であった。われわれは、日本侵略軍の輸送隊を襲って分捕った朝鮮のリンゴを残らず児童団員に贈ったこともある。遊撃根拠地の子どもたちのなかには、異郷で生まれて一度も朝鮮の土を踏んだことがなく、祖国のリンゴすら見たことのない子どもたちが多かった。遊撃隊員が手に入れた祖国のリンゴを箱ごと持っていったとき、児童団員たちがどんなに感激し、どれほど深い感謝の念に燃えたかを、そのエピソードの証言者、体験者である金玉順は、しばしば熱い思いで回想している。

 朴吉松(パクキルソン)児童局長はある日、児童団学校を訪ねてこういった。

 「みなさん! 金隊長先生は、わたしたちをわが子のように深く愛してくださっています。ところが、わたしたちは恩顧を受けるだけで、それに報いられずにいます。金隊長先生に、わたしたちのまごころを少しでもお見せしなければならないと思うのですが、どうすればいいでしょうか」

 児童局長が話し終えると、すかさず今順が立ちあがった。

 「りっぱな服をこしらえてさしあげましょう。隊長先生は、寒い冬も、ひとえの服を着ていらっしゃるそうですわ」

 朴吉松はほほえんだ。

 「今順がりっぱな服をこしらえて贈ろうといったが、みなさんはどう思うかね」

 子どもたちは、いっせいに「賛成です!」と答えた。

 「賛成だね。よろしい。わたしも今順と同じように厚い服を仕立ててさしあげたいと思っていた。生地を手に入れて婦女会か裁縫隊に頼んでりっぱな服をつくりましょう。しかし、みなさんが忘れてならないのは、生地は天から降ってくるものではないということです」

 「キノコを採って、干して売ればいいと思います。キノコは、高く売れるそうです。お金さえあったら、生地はいくらでも買えますもの」

 今順がまた立ちあがって、さえずるようにいった。

 「そうだわ! キノコを採って地主に売りましょう!」

 ほかの子たちもにぎやかに応じた。

 翌日から、児童団員たちは、朴吉松と一緒に、かごを持って山に入っていった。

 わたしは、彼らがキノコを採り、歌をうたいながら梨樹溝の谷間を行進する光景をたびたび見かけたが、そのキノコのかごにこもっている秘密を知らなかった。ただ、あの子らは入院中の戦傷者に美味な副食物を贈ろうとして、熱心に働いているのだろう、とひとり合点していた。ところが、そのキノコが金になり、服となってわたしの前に置かれたのである。

 「寒い冬もひとえの服ですごしていらっしゃる隊長先生に着ていただきたくて、これをつくってまいりました。遠慮なさらないで、どうかお受け取りになってください」

 今順がきちんと児童団の敬礼をして、こういった。

 当時、わたしがひとえの服を着て冬をすごしていたのは事実である。服を贈られて、わたしは心中、涙を流した。わたしは服を手に取って、礼を述べた。

 「みなさん! わたしはひとえの服を着ていても、こんなに元気です。君たちのまごころはいつまでも忘れません。しかし、この服は小汪清でいちばんのお年寄りに着ていただくことにしますから、悪く思わないでほしい」

 子どもたちは泣き出さんばかりになって、うらめしそうにわたしを見あげた。わたしが服を受け取ろうとしないので、残念でならなかったのであろう。わたしが2度、3度とよく言い聞かせると、子どもたちはむりに笑顔をつくった。

 大衆集会のあと今順はわたしのそばへ来て、軍服のそでをそっとなでた。そして、こうささやいた。

 「服が薄くて、寒いでしょう」

 いまも厳冬を迎えると、小汪清でつぶやいた今順の言葉がみみたぶを打つ。

 最初、汪清の人たちは、彼女を「黒目の今順」と呼んだ。瞳が人一倍黒いので、そのような愛称がつけられたのである。しばらくすると、今度は「馬村のシメ」と呼ばれるようになった。小鳥のシメのようにかわいいといって、吉州・明川地方出身の女性たちがつけた愛称である。彼女は「黒目の今順!」と呼ばれても「はい!」、「馬村のシメ!」といわれても「はい!」と答えた。いくらそんなふうに呼ばれても、彼女は決して機嫌を損ねなかった。

 今順が舞台でタップを踊る日は、汪清はお祭り騒ぎであった。彼女は玉順と組んでタップをよく踊ったが、児童演芸隊の演目のなかでも、それがいつも最大の拍手喝釆を受けた。彼女が激しくタップを踊りながら、両足のあいだからスカーフを抜き取る動作をくりかえすときなど、観客は足を踏み鳴らして歓声をあげたものである。

 わたしは汪清にいたとき、毎朝、白馬にまたがって、馬村の谷間をまわりながら遊撃区の状況を視察し、新しい構想を練った。朝の散歩は、わたしの規則正しい日課であった。白馬にまたがって汪清の谷間をまわるとき、遊撃隊のラッパ手宋甲竜(ソンカプリョン)と伝令の゙曰男が同行した。そんなときは決まって道端で児童団員の歌唱隊に出会ったが、そのときの気分はじつに楽しく爽快なものであった。

 リンゴのように赤い頬をした子どもたちの元気はつらつとした姿を、馬上から見下ろすときのあのみちたりた気持ちをなんと表現すればいいだろうか。わたしは雨や雪の日も、児童団員たちが見たくて朝の散歩をやめなかった。子どもたちが、雨や雪にもめげず散歩道に出て来て、わたしに会えなかったら、どんなにさびしがるだろうか、と思ったものである。子どもたちもわたしと同じ気持ちで、天気のよしあしにかかわらず一度として散歩道に姿を見せなかったことはない。

 歌唱行進で歌の音頭をとるのは今順だった。数十の音声が混じり合って響く雑然とした歌声のなかからも、スズメのさえずりのような今順の特異な声は、すぐに聞き分けることができた。その声を聞くと、なぜともなく、きょうも遊撃区の仕事はみんなうまくいくに違いないという安堵感が胸をみたしたものである。

 ところが、ある日、梨樹溝の谷に響きわたる児童団学校の子どもたちの歌声のなかから、彼女の声を聞きとることができなかった。

 わたしは、まるでなじみのないよその子どもたちの歌声を聞いているような思いにとらわれ、丸太小屋の庭に出た。歌唱隊は指揮部近くの小道を行進していた。先頭には、いつものように今順が立っていた。ところが、どうしたわけか、彼女は歌をうたわず、うなだれて、とぼとぼ歩いているのである。その朝、歌の音頭をとっていたのは、児童団団長の李民学(リミンハク)だった。今順が音頭をとらない歌唱隊は、ソリストのいないカンタータのようなものだった。

 その日はなぜか、一日中仕事が手につかなかった。わたしは今順に会おうとして、夕刻、児童団学校へ行った。そして思いがけなく、王隅溝の彼女の家族が敵に殺害されたという悲痛な知らせを聞いた。今順がなぜ、口をつぐんでしょんぼりと歌唱隊について歩き、なぜ李民学が彼女に代わって音頭をとっていたのかが、そのときになってわかったのである。

 その日、今順は、わたしの膝にうつぶせて、気を失わんばかりに激しく泣いた。

 「わたし、どうしたらいいの? お父さんもお母さんも、弟もみんな死んじゃったのに、わたしひとり生きてどうするの?」

 彼女は、こんな恨みごとをいいながら、雨に濡れたスズメのように全身をわなわな震わせた。わたしは、今順をどう慰めてよいかわからなかったが、暗くなるまで学校に残り、彼女を力づけようと努めた。

 「今順、気持ちをしっかりもつんだよ。悲しみにかてないでくじけてしまえば、敵はおまえまで殺そうとするだろう。日本軍は、この間島で朝鮮人を皆殺しにしようとしている。けれども、朝鮮民族がそうやすやすと殺されてよいものかね。おまえは、どんなことがあってもりっぱな革命家に育って、かたきを何倍も討たなければいけないんだよ」

 今順は、こういわれてはじめて泣きやみ、涙をぬぐってわたしを見あげた。

 「はい、きっとかたきを討ちます」

 それ以来、彼女はあまり笑わなくなり口数も少なくなった。まして、以前のように声を立てて笑ったり、喉をからして論戦したりするようなことはほとんどなくなった。歌の音頭をとるときも、もう、さえずるような声を出さなかった。小汪清では「馬村のシメ」という愛称が聞かれなくなった。幼い少女は、復讐心に燃え、児童団生活と演芸隊活動にいっそう熱心にうちこんだ。

 今順を中核とする児童演芸隊は、石峴、図們の灰幕洞など敵の統治区域にもさかんに出かけて活動した。汪清児童演芸隊の名声は、東満州ばかりでなく、遠く北満州にまで広まった。

 当時、東満州と北満州の共産主義者は、老爺嶺をはさんで密接に交流し合っていた。老爺嶺山脈の天険も、両地方の革命家が不断に往来し、接触し、助け合うのを妨げることができなかったのである。

 間島を抗日大戦の砦に変えた遊撃根拠地は、万民のあこがれる理想郷のモデルとなり、その新しい制度、新しい秩序は隣邦人民の賛嘆と羨望の的となり、宿望となった。とくに東寧県城戦闘は、満州地方の人民と武装部隊のあいだで、共産主義者のイメージを高めるきっかけとなった。この戦闘後、救国軍将兵は、わたしを「金司令」と呼ぶようになった。人民がわたしを「金将軍」「金隊長」と呼ぶようになったのも、このころからである。遊撃区でわれわれが示した路線と民主的施策は、万民の祝福を受ける時代的な関心事となった。

 北満州の党組織と軍部は、東満州地方人民の遊撃区づくりの経験を学ぶために、汪清とその周辺の根拠地にたびたび参観団を派遣した。

 そのころ汪清の中心地は、小汪清から腰営口に移っていた。今順が属する児童演芸隊も馬村を発った。敵の大討伐後、遊撃区の全機関が同時に腰営口に移動し、わたしも1934年春、一部の部隊を引き連れてそこへ移った。

 その年の夏、地方組織と遊撃隊から選ばれた寧安県の参観団が任英珠(イムヨンジュ)という女性の共青書記に引率されて、八道河子から神仙洞をへて対頭拉子へやってきた。腰営口の人民と遊撃隊員は、参観団を熱烈に歓迎した。児童団員は赤い三角旗を振りながら、「北満州見学隊を歓迎します!」とくりかえして叫んだ。そして夕方、兵営の庭にたき火をたいて参観団のための演芸公演を催した。

 児童演芸隊は、北満州のお客に多彩な演目を披露した。演芸隊には、芸術的才能の豊かな子どもたちが多かった。李民学は、ダンスとハーモニカが上手だった。彼がコメディアンとなって出演すると、観衆は腹をかかえて笑った。金在範もダンスの名手だった。彼の特技は、アヒルやウサギのような歩き方をして踊ることだった。

 彼らは、汪清県内の革命組織区をくまなく巡演し、歌の普及にも努めた。われわれは、戦利品のなかから最上の絹布を選んで舞踊服や演劇の衣装をつくり、児童演芸隊に贈った。

 周保中が、じきじきに派遣した反日同盟軍の小部隊も、しばらく腰営口にとどまって汪清遊撃隊の経験を学んだ。それは、単純な遊覧式の参観ではなく、訓練と実践を兼ねた実習のようなものであった。腰営口に滞留中、彼らは汪清遊撃隊の日課に従って生活し、教練、政治学習、文化生活もすべて汪清部隊式におこなった。

 わたしは共青組織と児童団に任務を与えて、反日同盟軍の隊員を日常的に慰問させた。児童演芸隊が中国語で革命歌謡を練習し、それを反日同盟軍の隊員に教えると、彼らも子どもたちに楽しい中国の歌を教えた。児童演芸隊員は中国語で演劇を準備して、彼らに見せたこともあった。児童演芸隊の慰問に感動した北満州の客は、ごちそうがあるときはいつも子どもたちを兵営に招いた。彼らは北満州に帰って、児童演芸隊のうわさを大きく広めた。

 1934年夏、周保中は、汪清地方の児童演芸隊を北満州に招いた。われわれは、それに快く応じた。わたしは朴吉松に、遠征公演の準備に万全を期して北満州の軍隊と人民を喜ばせようといい、演芸隊の北満州巡演日程も具体的に立ててやった。

 われわれが演芸隊を北満州に送ったのは、中国人たちに喜びを分かち、彼らとの連帯をいちだんと強めるためであった。他方、周保中が児童演芸隊を招請したのは、共産主義者の影響下にある反日部隊の指揮官、兵士を啓蒙するためであった。当時、周保中は、寧安一帯に組織された綏寧反日同盟軍の弁事処主任を勤め、王徳林の救国軍から脱退した抗日隊伍の結束をはかって刻苦奮闘していた。

 わたしは児童演芸隊を北満州に送り出してからも、しばらくは彼らのことが心配でならなかった。戦いをしばしば経験し、さまざまな苦しみや飢えにも慣れた子どもたちではあるが、目的地までつつがなく行き着いたろうかという憂慮が頭につきまとって離れなかった。ほかの子たちもそうだが、今順のような幼い子どもが、険しい老爺嶺山脈を無事に越えることができるだろうか、と。

 しかし、それは杞憂であった。児童演芸隊員は、誰もが動乱のなかで鍛えられた幼いタカであり、死線をたびたび越えた不屈の闘士である。彼らは、不可抗力の障害とさえ思われた老爺嶺山脈をたいして苦労せずに突破し、土匪の活動区域も無事に通り抜けた。雨にあえば、松の枝やシラカバの樹皮を傘代わりにして行軍した。夜は飯ごうで飯を炊いて簡単に食事をすませ、歩哨を立ててたき火のそばで野宿した。何人かの子どもたちは、おなかを痛め、山中でたいへんな苦労をしたという。演芸隊が選んだコースは、荷馬車やそりの通る汪清―老爺嶺の街道ではなく、遊撃隊の連絡係などが近道をとって歩く険しい細道であった。それでも、その数十里の行軍で落伍者は一人も出なかった。最年少の今順も、背負い袋を寄こせという仲間の手を軽く押しのけ、歌をうたいながら独力で老爺嶺を越えたという。

 今順と一緒に北満州へ行った金玉順は後日、機会があるたびに救国軍部隊での公演活動の模様を興味深く話してくれたものである。

 児童演芸隊が北満州で初演の幕を開けたのは、馬廠に駐屯している柴世栄部隊であった。柴世栄は、救国軍指揮官のうち、共産主義者の影響をもっとも多く受けていた。われわれの影響がさらに強く及べば彼を同盟者にするのはもちろん、共産主義者にも改造できる可能性があった。

 馬廠での幕開きは、今順の演説からはじまった。そこでは柴世栄以下150人の救国軍将兵が観覧したが、たいへんな人気を博したという。彼女が演説を終えると、彼らは、「クリ粒みたいな女の子が、なんと演説が上手なんだろう! あの子のことを思っても、抗日に励むべきだ」と興奮して言い合ったそうである。

 すっかり感心した柴司令は、今順を自室に連れていき、膝に乗せて耳飾りと腕輪までつけてやった。そして、巡演の便宜をはかって、演芸隊に2台の馬車まで提供した。

 1週間を予定した公演は、反日部隊将兵の要請で何日も延期された。演芸隊は、周保中の部隊でも公演した。柴世栄は、彼らに綿入れ、大布衫、襟巻き、豚、鶏、乾麺、小麦粉など荷馬車に2台もの贈り物をし、さらに子どもたち一人ひとりにカバンを与え、銃まで持たせた。

 演芸隊が遠征公演を終えて腰営口に帰ったとき、わたしは部隊とともに他地方に出かけていた。わたしが遊撃区にもどると、子どもたちはわたしをとりかこんで、北満州でもらった贈り物の自慢をした。

 「これはみな、柴司令という人がくれたの。レーニンみたいにひげをのばして、とてもやさしい人でした。わたし、その人の部屋で豚足の料理も食べました。周保中先生も贈り物をどっさりくださいましたわ」

 今順は、このように柴司令と周保中の称賛をひとくさりして、7連発拳銃をわたしの腰に吊した。

 「将軍さま、この拳銃はきっと将軍さまがお使いになってね。わたしたちの決定ですから」

 彼女は決定という言葉に力を入れたが、なにを思ったのか、くすっと笑った。

 わたしは子どもたちが残念がらないように、その拳銃を何日か腰に下げていて、青年義勇軍の隊長にそっと譲った。残りの武器もすべて青年義勇軍に与えた。北満州から持ち帰ったほかのみやげは、残らず児童演芸隊の処理にまかせた。

 その年の秋、腰営口遊撃区には、今順の母親が生きているという奇跡のような消息が届いた。それを聞いて、今順が野菊を何本も髪にさし腰営口の谷間をチョウのように飛びまわったとき、彼女の家庭の事情をよく知っている根拠地の人たちは、ほほえましく彼女を眺めた。

 児童団組織は、母親に会いたがっている今順の切願をかなえることにした。まだ幼くても、道理に明るく、集団主義精神の強い今順は最初、組織の配慮に応じようとしなかった。親を恋しがっている子はいくらでもいるのに、自分ひとりがそんな特典にあずかってよいものかというのである。

 わたしが彼女と最後に会ったのは、部隊が転角楼で北満州遠征の準備を進めていた1934年の秋だった。そのとき、今順の児童演芸隊はそこにきて公演をした。遠征隊を歓送するための特別公演だったと思う。公演後、われわれはノロを捕らえて児童演芸隊員にギョーザをごちそうした。

 わたしが子どもたちの食事をしている家をのぞいて帰ろうとしたとき、今順が箸を置いてわたしのそばへ駆け寄った。そして、なにか内緒事でも打ら明けるかのように、耳に口をあててささやいた。

 「将軍さま、わたしのお母さんが生きているんですって!」

 「うん。遊撃隊のおじさんたちもそれを聞いて、みんな喜んでいる。わたしも、どんなにうれしいか知れないよ」

 「わたし、あんまりうれしくて、きょうは独唱を3回もしましたの。それでも、もっともっとうたいたかったんです」

 「そんなら、もっとうたえばいいのに」

 わたしは、転角楼村の子どもたちに与えようとして持ってきたいくつかの戦利品のなかから、すきぐしと解きぐしを一つずつ取り出して、今順の手に握らせた。

 「ありがとう!」

 今順は甘えてわたしの腕にしがみついた。幼くても人に甘えることのなかった、このかわいい少女のそんなしぐさや口ぶりから、鳥の羽ばたきにも似た歓喜の嵐を感じとるのは、ほんとうに楽しいことだった。

 「じゃあ、早くお母さんに会いに行かなくては。おまえが出かけるときは、見送れそうにない。北満州に行かなくてはならないのでね」

 これは、わたしが今順と交わした最後の言葉になった。

 今順が転角楼での公演を終えて児童団学校に帰ったのは、腰営口の革命組織が、敵区に送る極秘文書の伝達者を物色しているときであった。誰を送るのがもっとも安全で合理的であるかを組織では慎重に討議した。そして、今順に白羽の矢が立てられた。

 革命組織から、誰にもやすやすとまかせるわけにいかない重要な連絡任務を授けられたとき、幼い今順はそれを最大の信頼として喜んで引き受けた。

 今順が敵区へ向かう日、韓成姫は彼女を水辺へ連れていって、嫁入り娘の世話でもするように、顔を洗ってやったり、髪を解いてやったりし、履き物のひもも結び、スカートのしわものばしてやった。大粒のドングリを3つピンにさして、リボン代わりに髪にとめてもやった。

 児童団員たちは、村はずれまで今順を見送った。

  どこまで行くの
  延吉まで行くよ
  どのみね越える
  吉青嶺を越える
  なにしに行くの
  通信連絡に行く
  だれと行くの
  ひとりで行くよ

 今順はこんな歌を口ずさみながら、森の小道をゆっくり歩いた。それは、彼女が足にあわせて即興的にうたったものである。見送る子どもたちはその歌を聞いて、手をたたいて笑った。そして、声を張りあげてうたい、腰営口の谷間に響けとばかりに彼女の歌にこたえた。今順は組織の任務をりっぱに果たしてから、母親を訪ねていこうとした矢先、おとなたちと一緒に日本憲兵隊に捕らえられた。

 憲兵隊では、今順が遊撃区から来たと知って、ひそかに快哉を叫んだ。重要な情報を吐き出すに違いない「チビ共産党」が転がりこんできたと思ったのである。彼らは、今順が腰営口から来たことまで探り出したようであった。腰営口には東満州指導部があるのだから、うまく手なずければ大きな秘密も引き出せると思ったらしい。

 実際、今順が遊撃区の秘密をかなり知っているのは確かであった。革命軍の活動、幹部の動静、遊撃区と半遊撃区を結ぶ秘密ルート、根拠地住民の生活と動向などは彼女のよく知っていることだった。今順は、演芸隊の一員として敵区へ行き、公演もいろいろとしているのだから、彼女を屈服させれば、地方組織の秘密も探り出せるはずだった。

 彼らはこうした可能性を計算に入れて、今順からできるだけ多くの情報を引き出そうとした。最初は、うまそうな食べ物を与え甘い言葉をかけた。つぎにはおどしつけ拷問も加えた。

 わたしは以前、外国の小説で、ある島の子どもが銀時計ほしさに、カヤのむらの中に隠れている人のことを教え、父親に射殺されるという内容の物語を読んだことがある。それからもわかるように、子どもを手なずけるのは難しいことではない。子どもは、物に誘惑されやすく、おどしや拷問にも屈しやすいのである。

 しかし、組織生活を通して政治的に鍛えられた子どもたちは、志操を曲げないものである。われわれの児童団員のなかに、政治的信念をいくらかの金と替えた子どもは一人もいなかった。解放後、朝鮮労働党の配慮のもとに育った徐康斂(ソカンリョム)、李憲秀、林炯参(リムヒョンサム)も13〜15の少年ではあったが、敵に銃口を突きつけられても、組織の秘密を漏らさなかった。

 今順は、抗日革命の炎の中で鋼鉄に鍛えられた不屈の幼い闘士であった。この朝鮮の幼い娘は、肉をそがれる拷問にも口を開かなかった。口を開くのは相手をののしるときだけだった。

 「おまえがなにもいわないなら、殺してやる。いいか!」

 今順を取り調べた憲兵将校がこうおどすと、

 「けがらわしい!おまえのような強盗なんかとは口も利くもんか」

 と今順は答えた。

 凶悪な憲兵は、革命軍の秘密を明かさないという、ただそれだけの理由で幼い今順を殺そうとした。全身が血にまみれて刑場に引かれていく遊撃区の幼い住民を見て、人びとは断腸の思いであった。百草溝の草原は涙にひたされた。しかし、今順は同情を寄せ涙を流す人たちに向かって叫んだ。

 「おじさん、おばさんたち! なぜ泣くのです。泣かないでください。革命軍のおじさんたちが、きっと敵を討ち滅ぼします。祖国が解放される日まで、しっかり戦ってください」

 火を吐くようなその最期の絶叫には、彼女の9年の生涯が集約されている。刑場では「日本帝国主義者を打倒せよ!」「朝鮮革命万歳!」という今順のあどけない叫び声がりんりんと響きわたった。

 わたしは今順が殺されたことを知らされてから、しばらく児童団学校を訪ねなかった。そこへ行くのがそら恐ろしかった。今順のいない児童団学校、今順のいない児童演芸隊…こう考えると、悲しくてたまらなかった。敵は汪清の人たちからあんなにかわいがられていた演芸隊のチョウ、遊撃区のヒバリをわたしのそばから永遠に奪い去ったのである。

 これからは、誰が今順のように苦労に耐え、血を流して戦っている遊撃区の人たちのために、あんなに明るい声で歌をうたい、はつらつと軽やかに踊りをおどってくれるだろうか。誰が今順のように、なめらかに中国語で歌をうたって救国軍将兵をうっとりさせ、毎朝白馬にまたがって散策するわたしに清く生き生きとした愛らしい微笑を送ってくれるだろうか。

 今順の最期を伝える悲痛な知らせは、汪清一帯の革命大衆を奮い立たせた。腰営口の谷間では今順の追悼式がおごそかにとりおこなわれた。東満州各県で、憤激した数十人の青年男女が、今順のかたき討ちを誓って朝鮮人民革命軍に入隊した。

 コミンテルン系の雑誌や中国、日本の出版物は、世界被抑圧民族の解放闘争史に類例のない、この幼い英雄の死を競って報じ、『幼い烈女の略伝』と題して今順の英雄的な生涯を激賞した。あの小さい足で激流を渡り、峻険を越えて革命の歌を情熱的にうたいつづけた遊撃区のヒバリ今順は、このように9つの年で、世界をゆさぶる人物となった。

 わが国の近代史には、柳寛順(リュグァンスン)という著名な殉国少女がいる。柳寛順といえば、なによりも己未年(1919年)の3.1運動が思い出される。ソウルの梨花学堂で校費生として学業にうちこんでいた彼女は、3.1運動の激動のなかで学校が閉鎖されると、故郷の忠清南道天安に帰って独立万歳のデモを組織し、その先頭に立ってたたかい、日本憲兵隊に逮捕された。

 法廷は、彼女に懲役7年という重刑を言い渡した。3.1人民蜂起を先導した33人衆に加えられた刑期が最高3年、最低1年、それに無罪を宣告された人もいることと考えあわせれば、日本の法廷がわずか16歳の少女にいかに重い刑を宣告したかがわかるであろう。7年は3.1独立運動史上最高の刑量だと、田園で働く農民さえ憤激したほどである。

 柳寛順が西大門刑務所で獄死したあと、朝鮮民族は彼女を「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼んで、いまなお熱い愛情をこめて追憶している。

 しかし、今順にはまだそのような称号が与えられていない。彼女と同じ年ごろの英雄少女、彼女の業績に比肩できる偉勲を残した少女の先例がないからである。3.1の英雄柳寛順とならんで金今順のような幼い英雄をもっているのは、疑いなく朝鮮民族の誇りであり栄光である。近年、今順を主人公とする小説や映画がつくられているが、それだけでは若い人たちに彼女の偉勲を十分に伝えることができない。今順のような幼い英雄の業績を子々孫々伝えるためには、金や銅の像を建てても惜しくはない。

 金今順は9つの年で永遠の生命を得た少女である。9つといえば、ちびた鉛筆のように短い生涯である。しかし、稲妻のようにひらめいて消えたその幼い年で、彼女は人生の達しうる最高の精神的高みに到達し、世に生を受けた人間がどう生きるべきかを、みずからの手本ではっきりと教えてくれた。世の中には100歳を生きても、民族の前になんの痕跡も残さず世を去った人たちがいくらでもいるが、彼女は9歳にして後世の追憶のなかに永生する偉勲を立てたのである。金今順のような少女を世界的な少年英雄に育てあげたのは、朝鮮共産主義者の功労だといえる。われわれ共産主義者は、抗日の火の海の中で数多くの少年英雄をはぐくんだ。

 金今順、全基玉(チョンギオク)、睦雲植(モクウンシク)、姜竜男(カンリョンナム)、朴明淑、朴虎哲(パクホチョル)、許正淑(ホジョンスク)、李光春(リグァンチュン)、金得鳳(キムドクポン)…

 彼らはいずれも抗日革命の嵐のなかで生まれた幼い烈士である。

 「ぼくを鉄砲で撃たないで槍で殺せ。そして、その弾は遊撃隊に送れ」

 これは、通信連絡任務の遂行中、敵に捕らえられ、刑場に引かれていった琿春の児童団員全基玉少年が最期の瞬間、満州国警官に向かって叫んだ有名な言葉である。

 処刑直前のあの殺伐とした緊張と死の恐怖のなかでも、自分一個人の生命や肉体よりも遊撃隊のことを思い、抗日戦争の勝利を考えたその崇高な革命精神は死刑執行人すら感動させた。

 睦雲植少年の偉勲も世界に広く誇るべきものである。わらじに密書を隠して永昌洞から平崗に向かっていた彼は、吉青嶺警備所の前で取り調べを受けた。秘密を探り出そうと全身を検べていた自衛団員が、だしぬけに少年の左足からわらじをはぎとった。その瞬間、睦雲植は相手を突きのけて、警備小屋の中に飛びこんだ。そして右足をかまどのたき口へ押しこんだ。右足のわらじに密書が入っていたのである。それと知った自衛団員は、少年をかまどから引っ張り出そうと、蹴ったり殴ったりした。それでも睦雲植は、かまどにしがみついて、火の中から足を引き出そうとしなかった。わらじが燃え、綿入れのパジの裾が焦げ、足に大きなやけどを負った。

 睦雲植は、病院に運びこまれた。意織を失った少年の胸に注射針がさされた。意識を回復させてあくまでも秘密を聞き出そうという魂胆だったのである。しかし、少年は秘密をかたく守って、静かに息を引き取った。

 抗日武装闘争を第一線で支援した児童団員と少年先鋒隊員は誰もが、朝鮮革命の一世のうちでも最年少の世代を代表する英雄であった。

 今日も、朝鮮革命は、社労青とともに少年団を労働党の有力な貯水池とみなしている。われわれが全国の財宝を集めて子どもたちの宮殿を建て、次代の教育に惜しみなく投資しているのはそのためである。

 それで、わたしはいまも幹部たちに向かって、若い世代を愛するようにといい、子どもたちを国の「王様」だと再三強調している。未来を愛さない革命、未来をはぐくまない革命は、前途の暗い革命である。そのような革命がなにかりっぱな理想を達成するであろうと考えるのは、愚かしいことである。

 地球の片方ではいま、享楽主義が伝染病のように蔓延している。次代はどうなろうと、自分だけが快適に暮らせればよいという極端な利己主義が多くの人たちの頭をむしばんでいる。なかには、子どもがいると煩わしいといって、子を生もうとしない人たちもいる。結婚を放棄している人たちもいる。結婚しようがしまいが、子を生もうが生むまいが、それは各人の自由である。しかし子孫がなくてなんの楽があるというのだろうか。

 極端なエゴと享楽に毒された修正主義者は、次の世代を保護しようとせず、精神的に武装解除して、あらゆる社会悪のなかに容赦なく投げこんでいる。10代の少年少女が親を恨み、為政者や世間を恨み、すさんだ現実を前にして悲嘆に暮れているとするなら、その国の革命は疑いもなく未来のない絶望的な革命である。幹部が次の世代のために時間も資金も情熱も努力も惜しまないとき、われわれの革命はさらに多くの金今順、全基玉、睦雲植を輩出するであろう。

 今順の一家は、著名な革命家の家庭であり、抗日戦争の渦中で残酷な苦難にあった。父親は王隅溝で地下革命組織の責任者として活動中、民生団の容疑で処刑され、母親は武器を取って根拠地の防衛に参加し、壮烈な戦死を遂げた。

 わたしは、今順の生前の父親に内々で重要な任務をしばしば与えた。彼はいったん任務を受けると、なんであれ、あくまでもやりぬかずにはおかない強靱な性格の持主であった。今順を含めて、今順の家族は5人もの犠牲者を出している。柳寛順一家の運命となんと酷似していることだろうか。

 しかし、あの苛酷な運命の女神も、このりっぱな一門の血統を惜しんでか子孫を一人残した。今順の母親が戦場で命を引き取るとき、村人たちにあとを頼んだ二つになる今順の弟金良男(キムリャンナム)が奇跡的に生き残ったのである。

 彼が、金今順の弟であることをたしかめ、わたしにその生い立ちを知らせてくれたのは、金正日組織担当書記であった。そのころ金良男は音楽大学を卒業し、記録映画撮影所の音楽編成係を勤めていた。ある出版物で父親が民生団の容疑で処刑されたことを知った彼は、自分に加えられるであろう社会的非難を恐れて悩んでいた。

 わたしは、金良男の父親が民生団とはかかわりのない、堅実な革命家であることを保証した。それ以来、金良男は、文学・芸術部門を指導する党中央委員会のスタッフになり、金正日組織担当書記を精力的に補佐した。彼は、姉の金今順のように天性の音楽的才能と疲れを知らない情熱の持主であった。亡国の民の悲哀を草笛にこめて、もの悲しく吹き鳴らしていたかつての牧童が、革命的な音楽芸術の原典を復元する歌劇づくりに心血をそそぐようになったのである。

 金良男は、金正日組織担当書記の指導のもとに万寿台芸術団を創立し、それを世界一流の芸術団に育てあげるうえに大きく寄与した功労者の一人である。1971年2月、万寿台芸術団は、祖国から数千キロ離れた地球の西半球キューバで、歴史的な最初の外国公演をおこなった。そのとき、金良男は副団長として芸術団を引率した。

 金正日組織担当書記は、金今順の一家が残した唯一の跡継ぎとなり、二つのときから他人の乳で育ち、下男の幼少年時代を送ったその生い立ちに胸を痛め、彼を兄弟のように格別に愛した。

 金良男が不治の病に倒れたときは、数十人の専門家からなる強力な医療チームを組んで、昼夜を分かたぬ集中的な治療をおこない、各国の朝鮮大使館に彼のカルテを送って効能のある高価な薬を大量に取り寄せ、製薬工業の発達した国ぐにに特別機を送りもした。金良男は、そのような恩情のなかで十数回もの手術を受け、2年近くも生命を引き延ばした。

 彼は40の年で世を去ったが、それでも姉に比べれば4倍以上も長生きしている。とはいえ、長寿者の多い現代の尺度にてらしてみるとき、あまりにも早く生を終えたといわなければならない。「佳人薄命」という古来の生活哲学が人生のことわりに符合する真理であるとすれば、現にこの世に生きている数多くの金今順や金良男のために、われわれはその哲学を追放しなければならないであろう。しばらく前、金良男の次男が、父親の母校、平壌音楽・舞踊大学の作曲学部を卒業して万寿台芸術団に入団し、芸術創造の第一歩を踏み出した。祖父母と伯母がうたい、父親がうたった革命の歌を、いまは彼がうたっている。

 先輩たちが血をもって切り開いた朝鮮革命は、このように代を継いでりっぱに継承され、完成されつつある。

 今順は世を去ったが、彼女の気概と魂は、馬村と腰営口の谷間を天真爛漫に駆けまわっていたときのように、いまも若い世代の心のなかに生き、脈打っているのである。



 


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