金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 馬村作戦


 その年の秋、遊撃区に熱病がはやった。高熱にうなされて体がぞくぞくし、皮膚に赤い斑点ができるこの急性の伝染病は、猛烈な勢いで小汪清の谷間に広がった。わたしもそれにかかり、十里坪で寝こんでしまった。あとで知ったことだが、それは発疹チフスであった。

 いまの若い人たちは、発疹チフスがどんなものか知らない。すでに、早くから伝染病を根絶した病菌のない地帯に住んでいるからである。しかし、われわれが山地で武装闘争をしていた60年前、根拠地の人民は伝染病にずいぶん悩まされた。あまり広くない谷間に何千人もの住民が密集していたのだから、さまざまな伝染病がはやった。3日にあげず討伐隊が襲来しては人家に火を放ち、逃げまどう人たちを殺しまくる状況で、不衛生な環境を改善する見通しがたたず、予防対策を立てようにも手だてがなかった。伝染病が発生すると、しおり戸に繩を張ったり、壁に「出入りを禁ず、伝染病」と書いた紙を張るのが関の山であった。

 数千人の敵が根拠地の掃討に連日押し寄せ、決死の戦いをつづけているときに伝染病まで重なって、われわれは最悪の試練をなめていたのである。そこへ、わたしまで熱病に倒れたのだから、指導部の幹部たちは顔色を変え、遊撃区の運命を憂えた。

 彼らは、わたしの護衛と看護を兼ねて、金択根(キムテクグン)小隊長夫妻と1個小隊程度の隊員をつけてくれた。他の部隊が戦っているときも、彼らは十里坪から動かなかった。北満州の掖河に住んでいた金択根夫妻は、東満州で革命闘争に参加しようと、穆棱をへて汪清にやってきたという。

 この二人のほかに、汪清県婦女部委員の崔金淑(チェクムスク)が党の委任でわたしを介護してくれた。

 最初、わたしは春子(チュンジャ)という婦人の家で病気の治療をした。夫の金権一(キムグォンイル)は区党委員会の書記を勤め、のちに県党委員会書記に昇格した。

 敵が遊撃区に現れると、金択根はわたしを背負って、谷から谷へと避難した。討伐が激しくなると、彼らはわたしを背負って、谷川ぞいに十里坪の奥へ避難し、敵の手の届かない岩山の中腹にテントを張った。そこは、ロープをかけて登り降りする人目につかない小さな空地であった。わたしは、彼ら三人の手厚い看護で全快することができた。

 3人は、わたしを死から救ってくれた忘れがたい命の恩人である。あの心のこもる看護がなかったとしたら、わたしは十里坪の谷間から生きて帰ることができなかったであろう。病気はかなり重く、たびたび意識を失ったほどである。わたしが昏睡状態に陥ると、彼らは、気を確かに持ってください、隊長が寝こんでしまったら、われわれはどうなるのです、と涙を流して叫んだという。

 金択根が食糧を求めに行って、そばにいないときは、崔金淑がわたしをかかえるようにして、谷間をさまよったものである。わたしが一命をとりとめたのは、彼女のおかげだといっても言いすぎではない。

 わたしは汪清に来た当初から、彼女の援助をいろいろと受けた。南満州と北満州の遠征を終えて馬村にきたとき、彼女は大汪清の第2区婦女部委員を勤めていた。当時、県婦女会の責任者は李信根(リシングン)であった。活動の打ち合わせなどで李信根のところへ来る彼女を、わたしは李治白老の家でよく見かけたものである。李信根と崔金淑は姉妹のようにむつまじかった。

 李信根は、崔金淑がたいへんな速筆家だと口をきわめてほめた。最初、わたしはそれにあまり気をとめなかった。いくら速くても女性のことだから知れたものだと思ったのである。ところが、彼女の整理した会議録を見てわたしは舌を巻いた。会議の発言内容が、細大もらさずきちんと記録されているではないか。現代の速記術はたいへん進んでいるというが、彼女以上に速く正確に記録する人を、わたしはまだ見たことがない。崔金淑は会議の発言を一晩のうちに清書までするので、わたしは重要な会議があると、いつも彼女に記録を依頼するようになった。

 彼女は、男性のようにおおらかで人情に厚い反面、革命的原則を曲げない芯の強い女性であった。わたしの指示なら、砂の上で舟を引けといわれてもそのとおりやりかねないほどの気性で、わたしが工作任務を与えて敵の統治区域に送ったときなど、いつも任務をりっぱに果たしたものである。

 彼女は両親のいないわたしに、女性らしいやさしさできめ細かな配慮をめぐらしてくれた。彼女がわたしを弟のようにいたわるので、わたしは彼女を姉さんと呼んだ。わたしが戦場から帰ると、彼女はいつも真っ先に会いに来てくれたし、また、なにかの役に立ちそうな物が手に入ると、それらを取っておいてそっとわたしにくれた。ときには、衣服のほころびを縫ってくれ、毛のシャツも編んでくれた。

 彼女が梨樹溝にしばらく見えないと、わたしの方から訪ねていくこともあった。このように、姉と弟のように親しくしていたので、よく冗談も交わした。咸鏡道地方の人たちの通例ではあるが、彼女も村の年寄りには、「アベ(おじいさん)」「アメ(おばあさん)」と方言で呼びかけた。「穏城アベ」「茂山アメ」「会寧アジェ(おじさん)」という表現も聞き慣れないものだったが、その抑揚もおかしかった。わたしがそんな言葉づかいを面白半分に真似たり、度が過ぎた冗談をいったりしても、腹を立てるようなことがなく、にこにこ笑うだけであった。しかし、それほどこだわりのない彼女も、美しいといわれるときだけは、黙っていなかった。

 彼女に美人だといおうものなら、ひやかしている、といって目をむいた。彼女が赤くなってわたしの背中をたたくのがおもしろくて、きまり悪がるのもかまわず、わたしはそれでも、きれいだと言い張った。実際、彼女はきわだつほどの美貌の持主ではなかったが、たいへん福々しかった。わたしの目には、都会の娘や淑女より、崔金淑のような遊撃区の女性のほうがはるかに気高く美しかった。わたしは、遊撃区の女性以上に美しい女はいないと思っていた。

 彼女たちは、おしろいけ一つなく、すすにまみれた苦しい生活をしながらも、それを不満とせず、ひたすら革命のためにすべてをつくした。わたしは、そこにこそ最上の美があると認めた。崔金淑を美人だといったのも、そんな心理が働いていたからであろう。わたしは当時、根拠地の女性たちの身づくろいに役立つことなら、なんでもした。

 戦利品のなかにはときどき、おしろいやクリームなどの化粧品もあった。最初のうち、隊員たちは、そんな日本の女のおしゃれに使うものは見るのも汚らわしいといって、溝の中に捨てたり、踏みつぶしたりした。はじめは、わたしも香気のただようハイカラな戦利品がそんなふうに扱われるのを放任した。なんの役にも立たないしろものだと思ったのである。遊撃区の女性は化粧をしなかった。おしろいや香水の匂いをまき散らして出歩くのはほめられたことではないと考えていたので、祝日などに化粧する女がまれにいても、大衆集会場では隅の方に縮こまっていたものである。

 わたしは、それを残念に思った。年がら年中、おしろいけ一つなく、すすや灰にまみれ、砲煙の臭いをかぎながら苦労している彼女たちである。考えるほどに胸が痛んだ。それで隊員たちに言った。

 「これからは、化粧品を捨てないことにしよう。われわれのまわりにも女性がいるではないか。遊撃区の女性は女でないとでもいうのか。遊撃隊の女隊員や婦女会員よりりっぱな女性がどこにいるのだ」

 隊員たちはみな賛成した。

 「そうです。遊撃区の女性よりりっぱな女はいません。彼女たちは一年半もこの遊撃区で草の根や木の皮で飢えをしのぎ、討伐に愛する夫や子どもたちと恋人を失い、寒い冬も薄着ですごしながらも敵区に移ろうとせず、遊撃隊と運命をともにしています。朝鮮の男たちが、彼女たちに絹の衣服を着せ、紅おしろいをつけさせて自慢できないのはわれわれの恥だし、残念なことです。われわれは衣食に事欠いても、いいものが手に入れば、まず彼女たちに贈りましょう。化粧品が手に入れば、おしゃれもさせましょう」

 ある日、わたしは敵から奪った化粧品を崔金淑のところへ持っていき、婦女会員に分けてほしいといった。彼女は大喜びして受け取った。その日から、小汪清遊撃区には脂粉の香がただようようになった。ある祝日に、児童演芸隊の公演会場に行ってみると、そこでもおしろいやクリームの匂いがただよっていた。

 ところが、なぜか崔金淑だけは、何日たっても化粧をしなかった。どうしたのかとわけを聞いても、ただ笑うだけである。不審に思って李信根に尋ねると、彼女は自分の分をそっくり十里坪の婦女会員に譲ったというのである。

 その後、敵の兵站基地を襲撃して多くの化粧品を手に入れたとき、いくつかを崔金淑に与え、今度はひとに譲らずにきっとお化粧してほしい、金淑姉さんの化粧姿が見たいのだ、と言った。彼女は、命を的に差しだして手に入れたものだから、隊長の心づくしを思っても化粧します、と答えた。数日後、崔春国中隊を指導するため十里坪に向かっていたわたしは、大汪清河の川辺で崔金淑を見かけた。人気のない川岸で道路に背中を向けて座り、水面をのぞきこんでいる彼女の清楚な姿を見て、わたしは伝令の李成林に、大汪清婦女会長が川辺に座ってなにをしているのか見てくるようにと命じた。李成林が崔金淑に挙手敬礼をするのが遠目に見えた。ところが、彼が不意に腹をかかえて笑い出すではないか。どうしたのだろうと思い、わたしは急いで二人に近づいた。

 「隊長、金淑姉さんの顔が…」

 李成林はわたしを見ると、笑いを押えて、彼女の顔を指さした。一瞬、わたしも吹き出した。あの福々しい色白の顔が、紅とクリームでまだらに塗りたくられているのである。ところが、崔金淑はわけがわからず、きょとんとしていた。

 「婦女会長さん、顔が世界地図みたいですよ」

 李成林からこう言われて、彼女は「まあ!」と叫び、水ぎわにしゃがんで、あわてて顔を洗いはじめた。まずい化粧が彼女の罪でも不注意でもないのに、彼女は大恥をさらしたかのようにうろたえた。洗濯石のかたわらには、わたしが数日前に贈ったクリームと紅が置いてあった。

 わたしの目にも、彼女の化粧はひどかった。だからといって、どうしてそれが笑いの種となろうか。彼女は化粧というものをはじめてしたのである。それに鏡もなかった。だから川の流れに顔を映して、用心深くクリームを塗り、紅をつけたのである。顔に世界地図を描いたのは驚くべきことでも、笑うべきことでもない。李成林がまた彼女に近づいてからかおうとするのを、わたしは手で制した。そうしなかったら、彼女は涙を浮かべて逃げ出したに違いない。

 毎朝、豪華な姿見や三面鏡の前で高級化粧品を使っておしゃれをする女性が、このくだりを読めばきっと彼女に同情するであろう。近ごろは嫁に行くとき、三面鏡を持参するのが一つのはやりになっているという。これは、豊かな文化生活を求める朝鮮女性の志向がどの水準にあるかを示す一つの例証である。

 しかし、われわれが凍りついた地面に腹ばいになって敵情を監視し、草がゆをすすりながら根拠地を守って悪戦苦闘していたころは、小汪清の住民の中に三面鏡はおろかコンパクトを持っている女性もあまりいなかった。だから化粧をするにも、崔金淑のように小川に行かなければならなかったのである。

 わたしは、崔金淑の下手な化粧をからかう李成林をたしなめるよりは、遊撃区の女性たちに鏡を贈れなかった自分が腹立たしかった。

 われわれの女性にたいする奉仕は、彼女たちがわれわれにそそぐ愛情に比べればなんでもなかった。われわれの愛情はいかなる場合にも、人民がわれわれにつくしてくれる厚い恩情をしのぐものではなかった。崔金淑の場合も同じである。彼女は、わたしがよせた信頼の何倍もの愛情とまごころをもって、わたしを温かく介抱してくれた。わたしの病気が好転したとき、彼女はさっそく40キロも先の図們へ行ってきた。図們は、朝鮮から満州に入る各種産物の集散地であった。彼女はそこで朝鮮の梨とリンゴを一かご買って、十里坪に帰ってきたのである。それを見ると、涙がこぼれた。亡くなった母が崔金淑に生まれ変わって、このような愛情をそそいでくれるのでは、と思ったほどである。それは、実の母や姉だけがそそげる愛情であった。

 「金淑姉さん! 姉さんのこの恩をどう返したらよいだろうか」

 わたしは、祖国のくだものの香気を胸一杯吸いこみながら礼を述べた。

 「恩? どうしても恩返しがしたかったら、独立後、平壌の見物でもさせてよ。平壌は、天下の景勝だというではないの…」

 彼女の返答は、冗談と真情の入りまじった切々としたものであった。

 「そんな心配は無用です。まさか、そんな希望がかなえられないわけはないでしょう。祖国が解放されたら平壌の土を踏むためにも、お互い死なずに戦いましょう」

 「わたしは死なないわ。けれども、あんたのことが心配でたまらないのよ。自分の体はちっともかまわないんだから」

 彼女はわたしに食欲をつけようと、ゴマ粉を手に入れてきておかずやかゆに入れてくれた。わたしが重病にかかったのは、栄養が足りないからだったといっては、栄養のある美味な食べ物を食膳にのせられないのを残念がった。気持ちはやまやまでも、なにもかも不足していたときのことである。金択根が小川でアブラハヤをとってきて、それを納豆と一緒にして煮たり焼いたりしてくれた。日に7、80尾もとってくるのだが、その熱心さもさることながら魚とりの腕もなみなみならぬものだった。

 崔金淑は、わたしの食膳にいつもアブラハヤばかりのせるのがすまなくて、村でソバを手に入れてきた。そのとき彼女は、わたしの安否を気づかう遊撃隊員に、隊長の健康が早く回復しなければならないのだが粗末な食事しか出せないでいる、択根小隊長がとってくるアブラハヤばかり毎日食膳にのせるので合わせる顔がない、それでも隊長はご馳走だといってくれている、と答えた。それを聞くと、部隊の魚とりの名人たちが引き網を使って一かますもの魚をとってきた。崔金淑はそれをいろいろと調理してもてなしてくれた。

 回復のきざしが見えると彼女は、わたしが意識を失っていたとき、誰か知らない女の名をしきりに口走っていた、とその口真似までしながらおかしそうに笑った。金択根の妻と口裏を合わせたたわいない作り事であったが、わたしは発病後はじめて彼女たちと一緒に手をたたいて笑った。あとで考えると、それは涙をさそう芝居であった。長い闘病生活に苦しんだわたしの気分を転換させようとして、彼女たちはそんなことをいったのである。

 崔金淑は、わたしが全快する前に馬村に帰るのではないかと気をつかって、病気の期間がたいして長くなかったかのように偽った。わたしが失神状態から正気にかえって、何日意識を失っていたのかと聞くと、彼女は実際より少なく答えた。たとえば、2日間気を失っていたとすると、2時間だと答え、5日間なら5時間だともっともらしくいった。全快後、彼女の言葉を念頭において日数を数えてみると、10日そこそこにしかならなかった。それで、わたしは少し軽い気持ちになれた。彼女のうそは、崔春国がわら小屋に見舞いに来てばれた。人をだますということを知らないこの実直な政治指導員は、わたしが1か月も寝こんでいたというのである。それを聞いて崔金淑は、まったく気の利かない人だと、罪のない彼をなじったが、わたしは驚いてすぐさま馬村に帰ったのである。指揮部では、山積した情報資料がわたしを待っていた。それらには、間島の治安と関連した日本帝国主義者の動静が多角的に反映されていた。

 わたしが病床にあった1か月のあいだに、日本軍は冬期討伐の準備を完了していた。日本政府が派遣した高官たちが間島に現れて、軍、憲兵、警察、外務など各部門の首脳と協議し、東満州遊撃根拠地にたいする冬期討伐計画を最終的に確定した。東京では、この問題が閣議で取り上げられた。

 満州問題にかんする諸会議では、「満州の治安は間島から!」という声があがった。彼らは、間島の治安が満州国の建国大業に大きな影響を及ぼすばかりでなく、日本帝国の辺境の安全ともきわめて密接に関連しているだけに、満州国はもちろん、日本のためにも緊急な重大事であると認めた。そして、ソ連侵攻を第一の使命としている関東軍司令官自身が満州の警務機関を統制し、軍事警察をつかさどる憲兵隊長を間島治安の第一線に立たせることにしたのは、大満州国の前途にとって祝福すべきことである、と気炎をあげた。

 日本帝国主義者は満州国をつくりだしたあと、この一帯の治安の維持をはかって重要な諸対策を講じた。間島臨時派遣隊に代わって、関東軍師団を新しい討伐軍として投入し、各県には武装行政警察隊を編制し、高等司法警察と産業警察を新設するなど、警察組織の立体化をはかり、警察機関を大々的に拡張した。

 反抗分子の根絶、掃討と民心の安定をはかるために、日満合同の諮問機関として治安維持会が、中央はもとより、省、県など満州全域に設けられて活動を開始し、さまざまなスパイ御用団体が出現して共産主義陣営に黒い触手をのばした。以前、中国で実施され、日本が台湾と関東地域の治安維持で効果をあげた保甲制度がここでも導入されて、日満警察は民衆の手足を縛りあげた。在郷軍人からなる日本人武装移民の大がかりな流入と、自衛団の拡大も、東三省一帯に根強く存在している反満抗日勢力の制圧に一役買った。土匪工作に従事する現地の特高警察官には、即座の処刑を許す「臨陣格殺」の権限が与えられた。

 これらの措置は、日本帝国主義者が植民地満州国の支配、維持にどれほど苦心惨憺していたかをよく示している。とくに、東北の一角で帝国の前面と背後に強力な打撃を加えている間島地方朝鮮共産主義者の武装闘争と、それを根幹とする幅の広い民族解放運動は、彼らにとって大きな頭痛の種であった。日本の一憲兵隊長が、朝鮮共産主義者の活動を制圧すれば、間島治安の9割が成功したと見てよいといったのは、決して大げさな表現ではない。

 いわゆる大日本帝国は、抗日遊撃隊とその戦略的拠点の遊撃根拠地をそれほど恐れていた。だからこそ彼らは、どんな代償を払っても東満州の抗日遊撃区を抹殺しようとしたのである。

 1933年の夏、日本軍部は、抗日遊撃隊の攻撃で満身創痍になった間島臨時派遣隊の一部を朝鮮に送り返し、人見部隊をはじめ多数の関東軍精鋭部隊を東満州各地に投入した。朝鮮占領軍の主力は、遊撃区の討伐作戦に即時投入できる朝鮮北部国境地帯に集中的に配備された。こうして、1万数千の膨大な兵力が間島の遊撃区を包囲し、冬期討伐作戦を開始したのである。

 彼らは、朝鮮革命の参謀部が位置している小汪清遊撃区に攻撃のほこ先を向け、そこへ関東軍、満州国軍、警察、自衛団からなる5000余の兵力を投じた。方陣を敷いて勝敗を決していたマニュファクチュア時代の戦争を除けば、散兵線出現後の戦争で、兵力をこれほど稠密に配備した例は、日露戦争当時の旅順攻防戦以外にはないであろう。飛行隊も出動準備をととのえて待機した。間島特務機関が主管する特別捜査班も遊撃区一帯に送りこまれた。こうして、東満州全域がわれわれと日本帝国主義とのもっとも激烈な血戦場となった。いくつかの地域の遊撃区を守る防衛戦と見るには、あまりにも規模の大きい対決戦であった。

 ところが、小汪清には2個中隊の遊撃隊しかなかった。それに、遊撃区には食糧の備蓄もほとんどなかった。東満州の遊撃根拠地は危急存亡の危機にあった。大砲と飛行機まで持つ強敵を2個中隊の兵力で撃破できると考える楽天家は、遊撃区内に一人もいなかった。最後の一人まで戦って死ぬか、遊撃区を捨てて敵に屈服するかという二つの道しかなかった。われわれは、前者をこそ取れ白旗をかかげることはできないと考えた。

 遊撃戦術上の原則からすれば、そんな対決は避けるのが上策である。しかし、戦わなければ豆満江沿岸のすべての遊撃区が壊滅するほかない。遊撃区を守れなければ、人民革命政府の恩恵に浴しながら真の平等と自由を享受していた革命大衆がきびしい冬のさなかに飢えて死に、凍えて死に、撃ち殺されるのである。遊撃区を失えば人民は二度とわれわれを相手にしないであろう。

 汪清の秋は絶景である。それが冬期討伐の暴風にむざんに荒らされる運命にさらされているのだ。

 全遊撃区が、息をひそめてわれわれを見守っていた。軍隊の動向いかんによって人民の顔が明るくもなれば、暗くもなるのである。

 わたしは、いい策はないものかと考えはじめた。しかし、それは容易に見いだせなかった。わたしの周辺には、戦術問題を論ずるだけの人物がいなかった。黄埔軍官学校出身の朴勲も近くにいなかったし、ソ連で何年か軍隊生活をした「小個子」金明均と独立軍士官学校出身の李雄傑は民生団の疑いをかけられて姿を隠していた。梁成竜も民生団の狂風に巻きこまれていた。

 わたしは、洪範図のような名将がいたらどんなにいいだろうかとさえ思った。洪範図は汪清に大きな足跡を残した義兵将軍である。青山里(チョンサンリ)と鳳梧谷(ポンオコル)で独立軍部隊がたてた赫々たる武勲は、彼の知略によってもたらされたといえよう。彼を知略のない要領一つで戦う将軍だと酷評する向きもあるが、それは道理に合わない評言である。彼らのいう要領も、つきつめてみれば、結局、知略の所産である。彼がすぐれた知謀家であることは生前、父もよく話していた。そうでなかったとしたら、彼が高麗嶺で、あれほど巧妙かつ用意周到な伏兵戦で日本軍を大敗させることはできなかったであろう。その野人のような風貌にただよう知性が感じとれない人には、洪範図を語る資格がないであろう。

 哈爾巴嶺一帯を股にかけた大韓独立軍総司令が汪清から足跡を消してかなりの年がすぎた。歳月の苔におおわれて、いまでは人びとの追憶からも消えかかっている。困難に際会すると、先達が切実にしのばれるものである。

 わたしが戦術問題で頭を悩ませていたある日、李治白老が蜂蜜の壷を持って真夜中に指揮部の丸太小屋を訪ねてきた。

 「熱病にかかっていたとき、お見舞い一つできなかったが、これで気力を回復してくれまいか」

 老人は壷を差し出しながら、こう言った。

 「野生の蜂蜜ですか。こんな高価なものがよく手に入りましたね」

 「ファンガリ谷の馬老人が山で見つけたそうじゃ。この前、馬老人が山で蜂蜜を見つけたと自慢していたんで、訪ねてみると、壷ごと譲ってくれてな。金日成隊長の健康のためなら、家を売っても惜しくないというんじゃ。わしは、馬老人のところからまっすぐここへ来たよ」

 わたしは、老人のまごころに胸を熱くした。

 「ありがとうございます。でも、わたしは若いではありませんか。これはご老人が使ってください」

 「年寄りの誠意を無にするんじゃない。それでなくても、金隊長を一度も見舞えず胸を痛めていたんじゃ。…隊長の顔色はどうもよくない」

 老人は、家で夜食なりと一緒にしようといって、わたしの手を取った。わたしは誘われるままに老人のあとに従った。夜食そのものより、わたしと潘省委の体臭がしみている部屋で一晩寝てみたかったのである。いまは宿所を替えているが、わたしを息子のようにいたわってくれたこの気だてのよい純朴な老人の家には、いつも心を引かれるのであった。

 夜食には、ウズラ豆を混ぜたトウモロコシがゆとカボチャが出された。熱病のあとだったからか、なんともうまかった。老夫人の徐姓女(ソソンニョ)は、わたしの好みをよく知っていた。彼女が出してくれる食べ物のなかで、とくに忘れられないのは、焼きジャガイモと焼きトウモロコシである。間島地方のジャガイモは大きいうえ、一冬貯蔵したものは糖分が多くて甘かった。雪の降りしきる冬、丸大根の漬け汁と一緒に食べる焼きジャガイモの味は格別である。夜食後、わたしは潘省委がすごした部屋で、李治白老と枕を並べた。なぜか老人はすぐに寝つけず、しきりに溜息をついていた。数か月前に死んだ息子のことが忘れられず、胸を痛めているのではないかと思えた。老人の息子の李民権は、1933年の春に敵に帰順しようとした関部隊の武装を解除しようとして重傷を負い、秋月溝病院で治療中死亡した。追悼式にはわたしも参加した。1932年9月には、この家で遊撃隊員崔潤植(チェユンシク)の追悼式をしている。

 「ご老人、どうして溜息ばかりついているのです?」

 わたしは布団のふちをのけて、老人の方に寝返った。

 「どうにも眠れんのじゃ。敵が遊撃区のすぐ外に何千人もの陣を敷いているというのに、のんびりと寝ていられるかの。今度の討伐では遊撃隊がやられるといううわさもあるが、隊長はどう思っているんじゃ」

 「遊撃隊がやられるというのは、反動どもが流しているデマです。しかし、しっかり対策を立てないと、遊撃区が2、3日でつぶされてしまうでしょう。実際、遊撃区の運命はせっぱつまっています。それで、わたしも眠れないのです」

 「遊撃区がつぶされてはいかん。遊撃区がなければ、生きがいもなくなってしまう。そんなことになるなら、死んでカラスの餌食になるか、亡霊になってさまようほうがましだ」

 「そうです。われわれは死んでも、この根拠地を守って死ぬべきです。でも、どうすればよいでしょうか? 敵は数千人にもなるのに、小汪清を守る遊撃隊は百分の一そこそこなのですから…」

 老人はタバコをスパスパ吸いこむと、真顔になってわたしのほうに枕を近づけた。

 「兵隊の数が少なければ、わしも隊長の部下になろう。この小汪清には、わしのように銃を撃てる年寄りが一人や二人じゃない。鉄砲さえくれれば江華鎮の防衛隊そこのけに戦ってみせる。以前、わしが住んでいた中慶里の近くに、たしか独立軍が埋めた鉄砲と弾があるはずだ。それを見つければ、猟師や独立軍にいた年寄りはもちろん、青年運動だのなんだのといって駆けずりまわっているわしの婿の重権のような者なんかにも鉄砲を持たせることができる。みんなが兵隊になって、決死の覚悟でやってみるんじゃな。鉄砲がなかったら、敵の喉もとに食らいついてでも根拠地を守らにゃいかん」

 老人の言葉は、遊撃隊が敵に比べてあまりにも劣勢だと思い悩んでいたわたしに、全民の抗戦のみが当面の難局を打開する唯一の活路であることを示唆してくれた。遊撃隊とともに激戦の第一線に立てようとした自衛隊や少年先鋒隊のような半軍事組織だけでなく、民間人を残らず動員して、いたるところで決戦をくりひろげれば、戦いの主導権を握れるという自信が生まれた。小汪清防衛戦は、敵軍対抗日遊撃隊の戦いではなく、敵軍対遊撃区内全軍民の戦いとならなければならない。われわれの側には半遊撃区の人民もいるのである。

 李治白老との談話は、わたしに力を与えた。

 (そうだ。人民は戦うといえば戦うだろうし、人民が勝つといえば勝てるのだ。戦争の勝敗は人民の意志にかかっている。人民をいかに奮起させるかにかかっているのだ)

 これは、数千人の汪清遊撃区人民の意思を代弁する老人の沈着な声から受けた最初の衝撃であった。われわれの構想する作戦には必ず、李治白老が見せたような人民の意志が反映されなければならないのだ。わたしは、小汪清防衛戦は、遊撃区の老若男女すべてが参戦する全民の抗戦にならなければならないと考えた。全民抗戦という言葉には、すでに2年間、あらゆる困難にうちかって軍隊と生死、苦楽をともにした、遊撃根拠地人民への最大の信頼がこもっているのだった。戦いそのものが生活といえる遊撃根拠地での短くない体験が、わたしにそのような確信をいだかせたのである。創設以来2年ものあいだ、遊撃根拠地が健在でありえたのは軍隊のおかげだけではない。その要因のなかには、軍の建設と遊撃区の防衛で少なからぬ役割を果たした人民の力も含まれているのである。一対十、一対百の力に余る戦いをおこなっているときも、人民があとにひかえていれば困難を容易に克服できた。人民が湯や握り飯を塹壕に運んでくると、その息づかいを聞くだけでもわれわれの戦闘力は、百倍、千倍に強まった。

 全民抗戦を決意し、それを実行に移した背景には、人民の力にたいするこのような確信があった。それに、遊撃根拠地と運命をともにし、つねに軍隊と混然一体になろうと願う人民の意思にも合致するものだった。人民を最大限に動員すれば、それは恐るべき力となるであろう。これが、李治白老から教えられた遊撃隊の予備軍であった。いや遊撃区の人民は、われわれの予備軍というより、もっとも信頼すべき主力軍であった。

 わたしは、敵の兵力が分散しているときは、力を集中して襲撃、掃討し、敵が大兵力をもって侵入するときは分散して、いたるところで敵の背後を撹乱する従来の戦術的原則をあらためて確認し、小汪清の住民に全民抗戦を呼びかけた。

 遊撃区の人民はこれにこたえて、組織別、階層別に激戦の準備に奮い立った。自衛隊と青年義勇軍は、遊撃隊とともに防御陣地を占め、銃をもたない青壮年は防御線の傾斜の急な高地に石を積みあげた。張、崔、李の3猟師をはじめ汪清の名うての猟師は馬村に集結し、独立軍出身の老人とともに猟師隊を組んで第一線に出動した。炊事隊と担架隊の女性も前戦に向かう準備をした。子どもたちは板に釘を打って、敵の軍用自動車が通る道すじに埋めた。老弱者と幼児は安全な地帯に退避させた。

 われわれは、戦いのなかで倒れることがあっても、汪清を捨てた北路軍政署の独立軍のような卑怯な真似はすまいと誓い、激戦の準備に万全を期した。

 汪清には、鳳梧谷の戦勝の記録だけでなく、討伐隊の銃剣に同胞をさらしたまま姿を消した北路軍政署の独立軍の痛恨事、恥ずべき敗戦の記録も残されているのである。南満州に西路軍政署という独立軍団体があったのと同様、東満州でも汪清県の西大坡一帯に、徐一を総裁とし、金佐鎮を総司令とする北路軍政署という独立軍団体があって勢力をのばした。軍政署傘下の愛国志士は500人、弾丸は100万発、資金は10万円を越えるといわれた。北路軍政署が運営する十里坪士官練成所(軍官学校)も、400人以上の学生を収容できる相当な規模のものであった。汪清と近在の農民が軍政署の軍人に贈るわらじや食糧を運搬するときは、西大坡まで牛馬車が長蛇の列をなしたといわれている。

 この独立軍には、洪範図の大韓独立軍と力を合わせて、青山里で日本軍を大敗させた戦歴もある。銀色サージの軍服に軍刀をさげた金佐鎮が青味のかかった白馬にまたがって通るとき、汪清の住民は老弱男女をとわず、宰相か李王の行列を迎えたかのように深々とおじぎをした。それは、独立軍が青山里で立てた戦功をたたえる挨拶のしるしであった。ところが、そのように人望の厚い金佐鎮が、日本軍の間島大討伐が間近だと聞いては、抵抗を試みようともせず、部下とともに行方をくらましたのである。そのとき、汪清の人たちは、独立軍が討伐を恐れて逃げているのだとは知らず、金佐鎮総司令を一目見ようと、競って道路へ集まってきた。

 軍政署に残った兵力は1個中隊だけであった。この1個中隊がなにを思ったのか、間島討伐の開始直前に、東日学校の卒業式に参加した。学校では慣例に従い、盛大な宴会を催して卒業式を祝った。式が終わると、独立軍隊員は待ち構えていたように「独立万歳!」を三唱し、われがちにテーブルに向かい合って濁酒や餅や冷麺を飲み食いした。そんなところへ、討伐隊が押し寄せたのであるが、彼らは戦おうともせずに逃げ出し、学生や父兄も四散した。あたかもアリの巣を掘り返したような光景だったという。討伐隊はなんの掩護もなしに逃げまどう徒手空拳の人民を手当たり次第に撃ち殺し、切り殺し、突き殺した。

 北路軍政署の独立軍は、討伐軍の前であえなく自滅してしまった。あれほど気勢をあげていた北路軍政署が一朝のうちについえさったと、汪清の人たちは地面を叩いて痛哭したという。

 政権が人民の手に握られた汪清でそのようなことが再びくりかえされるならば、われわれは胸を張って自分たちを朝鮮の息子や娘だとは言えなくなるであろう。

 わたしは、遊撃戦の要求に即応した伏兵戦、誘導戦、奇襲戦、夜間襲撃戦など、変化に富んだ戦法や戦術を駆使して敵を撃破しようと決心した。

 これらの遊撃戦法は、敵の重なる討伐攻勢を撃退し、遊撃区を守る戦いの日々にみずからの知恵であみだしたものである。朝鮮の共産主義者が、遊撃戦を武装闘争の基本的形式として選択し実行した最初のころ、われわれには戦術上の知識がほとんどなかった。他国での戦いの経験や教範でもあれば参考にできたであろうが、それもなかった。そこで、ソ連に使いを送って国内戦争当時の戦闘経験にかんする軍事資料をいくらか取りよせたのだが、遊撃闘争の概念や伏兵戦、襲撃戦の方法についていくらか理解ができたとはいえ、われわれの実情にかなうものではなかった。

 わたしは独自の遊撃闘争教範をつくることにし、1933年3月末の夾皮溝戦闘後、1年余の武装活動で得た初歩的な軍事経験を総合して、『遊撃隊動作』という小冊子を出した。そこには、遊撃隊の精神的・道徳的品格から遊撃戦の一般原則にいたる根本的な問題が明らかにされており、さらに襲撃戦、伏兵戦、防御戦、行軍、宿営など、戦闘行動の組織、射撃、武器の管理、規律など遊撃隊動作の全般的な原則と方法が簡明に規範化されていた。

 もちろん、これは『孫子』やクラウゼウィッツの『戦争論』のような大著ではなかった。しかし、著名な軍事理論家も歴戦の老将もいなかった当時、その小冊子はわれわれ式の素朴な遊撃戦争論を代表する軍事宝鑑であった。遊撃隊の指揮官と隊員は、これを背負い袋に入れて持ち歩き、毛羽だつまで研究して実戦への応用に努めた。

 『遊撃隊動作』はその後著された『遊撃隊常識』とならんで、革命武力の建設と主体的戦法の確立、発展における原典となった。

 1933年11月17日、敵は歩兵、砲兵、航空隊の共同作戦によって三方面から小汪清遊撃区を包囲攻撃してきた。血迷ったオオカミの群れのように殺気だった「大和」の後裔は、たけだけしい勢いで遊撃区に襲いかかった。その傲岸不遜な気勢は、汪清を一撃のもとに撃滅せんばかりの威圧的なものであった。

 大討伐は、厳冬のさなかに波状的に強行された。飛行隊は、軍政指導機関のある馬村と梨樹溝にくりかえし爆撃を加えた。戦術も悪辣をきわめた。遊撃区に侵攻し攻撃が挫折すると、その日のうちに引き返す従来のピストン式討伐から、攻撃に失敗しても退かずにその場に野営し、一歩一歩前進して占領地帯をかためる「歩歩占領」戦術に移ったのである。これは、占領地域内のいっさいの生命体を抹殺し、家屋を手当たり次第にうち壊し焼き払うあくどい戦術であった。

 しかし、遊撃隊と人民は、一心同体となって遊撃根拠地を英雄的に死守した。

 もっとも熾烈な攻防戦が展開されたのは、遊撃区の関門であるトンガリ山と磨盤山スッパク谷哨所であった。トンガリ山と磨盤山を守っていた第3中隊と反日自衛隊は、敵兵を20メートルほどの近距離に近づけては、不意に集中射撃、手榴弾攻撃、石落としなどを加えて撃滅した。敵は執拗に波状攻撃を加えてきたが、遊撃区の第一線陣地を突破することができなかった。磨盤山界線の防衛隊は、高度の機動力をもって遊撃区を迂回攻撃してくる敵の騎兵を大汪清河の湾曲地点で痛快にせん滅した。

 敵の大兵力がトンガリ山と磨盤山の陣地にひきつづき投入されると、われわれは全面的な防御戦から、誘導・欺瞞戦術を主とする伸縮自在の機動と積極的な防御活動を展開する消耗戦に移った。それは、さまざまな戦闘形式をもって敵の兵力を不断に掃滅し、能動的に相手をたえず戦いに引き入れることによって、息つくひまも与えない自由奔放な特殊戦法であった。あのとき、このような戦闘形式を適用せず、千編一律の防御戦術のみに頼っていたとしたら、遊撃隊は、大兵力と戦闘技術機材の優勢をたのんで執拗に食い下がる敵の攻撃でずたずたになってしまったであろう。

 遊撃隊はわたしがとった新たな戦術的措置に従って、半軍事組織員とともに第一線の陣地から退き、遊撃区の奥深くへ敵を不断におびきよせては、伏兵戦、狙撃戦、宿営地襲撃戦、たき火爆弾戦など千変万化の戦法を駆使して、敵を受け身に立たせて小気味よく撃砕した。

 たき火爆弾戦というのは、子どもたちにもできる戦法で効果てきめんであった。遊撃隊は陣地をつぎの界線に移すときは、たき火のなかに爆弾を仕込んでおいた。敵兵は遊撃隊が放棄した陣地を占めると、我先にたき火のまわりに集まって凍えた体を暖めようとした。そんなときに爆弾が炸裂して敵兵を皆殺しにした。呉白竜の4番目の弟呉竜錫も、自衛隊の女性隊員と一緒に、トンガリ山の中央歩哨所でたき火爆弾戦法を使って敵兵を殺傷した。

 われわれは敵宿営地への夜間襲撃もしばしばおこなった。2、3人または4、5人からなる襲撃組が敵陣にしのびこんで、敵軍の瓦解をねらったビラをまいたり、銃声を何発か鳴らして引き揚げるのである。テントやたき火めがけて銃弾を数発撃ちこむだけで、宿営地はハチの巣を突っついたような騒ぎになる。このような夜襲は一晩に3度、4度、ときには5度もおこなわれた。敵兵は一晩中おちおち眠れず恐怖におののき、同士討ちをすることさえあった。われわれの相つぐ奇襲に恐れをなして動転する敵兵も現れた。彼らのなかには、遊撃隊員がまいた「日本兵士に告ぐ!」「満州国軍兵士に告ぐ!」のようなビラを読んで、投降してくる者もあった。

 猟師たちも火縄銃を持って戦った。年はとっていても射撃術は大したものだった。敵の将校を狙い撃ちする驚くほどの腕前は、現代の狙撃兵のそれに劣らないであろう。婦女会員は、握り飯や湯を休みなく塹壕に運んだ。10歳前後の子どもたちも戦場に現れて太鼓を叩き、ラッパを吹いて戦闘員を励ました。

 馬村作戦で異彩を放ったのは、石落とし戦法である。遊撃区の軍人と人民は、トンガリ山のような第一線の陣地に石の山を築き、討伐隊が接近すると石を転がして大量に殺傷した。急傾斜の山腹を石がなだれをうって転がり落ちるとき、戦場にとどろく落雷のような轟音と、砲煙かと思われる砂塵は、侵略軍の心胆を寒からしめた。騎兵隊を撹乱し、軍用車や砲の前進を妨げるうえで、石落とし戦法は大いに功を奏した。

 馬村作戦が生んだ英雄のなかには、「13連発」というニックネームをもらった遊撃隊員もいる。「13連発」は、汪清地方では青年冒険家として広く知られていた。彼に冒険家といううわさがたったのは、共青組織の指示で豆満江岸のある税務署から武器を奪ってきたときからである。税務署に入った彼は、「だんなさまがた、ご機嫌いかがですか。わたしは朝鮮の青年です。共青員なのです」と自己紹介をしてから拳銃をつきつけ、悠々と壁にかけてあった3挺の小銃を分とった。そして、警察官駐在所に電話を入れ、「貴様たちはなにをしているのだ。いまここに共産党が現れた。早く総動員してやってこい」と怒鳴りつけた。駐在所からは騎馬警察隊が急派され、彼は危うく命を落とすところだった。その後も似たような冒険が何度もくりかえされた。共青組織からどれほどきびしく批判されたかはあえて説明するまでもないであろう。

 その「13連発」が、スッパク谷哨所で、抗日革命史の1ページをりっぱに飾る偉勲を立てたのである。スッパク谷を守っていたのは十数人の防御隊で、「13連発」はその責任者であった。彼は、小隊長であり隊内共青グループの責任者でもあったのである。

 日本軍、満州国軍、自衛団からなる討伐隊の大集団は、夜陰に乗じてスッパク谷を包囲し、哨所を奇襲した。こうして早暁から熾烈な戦いがくりひろげられた。防御隊は、哨所の丸太小屋がその一角に火がついて崩れるまで、敵の7回にわたる攻撃を退けた。「13連発」は、弾雨のそそぐなかで共青グループ会議を開き、こう呼びかけた。

 「諸君! われわれの背後には遊撃根拠地があり愛する兄弟がいる。もし一歩でも退くなら、われわれは朝鮮青年として生きる資格がない。骨が砕け身が粉になろうとも決死に戦って哨所を守ろう!」

 敵愾心に燃える防御隊員たちは銃剣をかざして敵陣に突入し、白兵戦をくりひろげようとした。「13連発」もそんな衝動を覚えた。しかし、与えられた任務を果たさなければと、はやる心をおさえた。かつて、個人英雄主義、冒険主義という病癖のため批判の的になった勇敢な戦士は、このはげしい血戦のなかで自分の感情を制御し、理性的に行動する洗練された指揮官に成長していたのである。

 わたしが援軍を引き連れてスッパク谷に駆けつけたとき、彼は13発の銃創を負って哨所に倒れていた。「13連発」というニックネームは、そのことに由来している。防御隊員のなかには7か所、3か所、2か所の傷を負った者もいた。彼らにも「7連発」「3連発」「2連発」というニックネームがつけられた。汪清の人たちは、彼を「13連発」と愛称した。わたしもそう呼んだ。そのうちに本名の方は人びとの記憶から薄れてしまった。彼の本名を思い出せないのはじつに残念である。しかしながら、本名よりも抗日戦争が生んだ「13連発」というニックネームのほうが、読者に鮮やかな余韻を残すのではなかろうかということで、わたしは自分を慰めている。

 戦いは日がたつにつれて、ますます熾烈になった。住民は、日本軍の砲火で焼け野原となった小汪清をあとにして十里坪に避難した。敵兵は、兵士はもちろん、平民であっても老若男女の別なく見つけ次第に殺した。冬期討伐で殺された小汪清の住民は数百人を数えている。

 わたしの率いる部隊が十里坪五次島木材小屋の前で戦っていたとき、避難民を装って検問所を通過した日本軍が、馬村から大汪清に移動する住民の背後から機銃掃射を加えて数十人を殺した。夜中に杜川坪村を包囲した敵兵は、機関銃の集中射撃で就寝中の住民を一人残らず殺害した。遊撃区でりっぱな演劇の台本を書いていた区青年団書記白日竜の一家もみな死んだ。その年の討伐では、小汪清の子どもたちが大勢殺されている。

 遊撃区が最悪の状態に陥ったとき、梨樹溝の谷間には1500余の避難民が集まっていた。彼らを大汪清に移動させるために、遊撃隊員たちは筆舌につくしがたい苦労をした。大汪清に向かっていた避難民の行列が敵の襲撃にあって二つに別れ別れになり、お互いに相手の行方を探し求めて、終日山をさまよったこともあった。わたしも一日中幼児を抱きかかえて革命大衆を掩護したものである。遊撃隊員は誰もが、敵と戦いながら老弱者の世話をやかなければならなかった。今日の朝鮮人民軍と人民のあいだに見られる軍民一致の先駆けとなった、涙ぐましい絵巻はこのようにしてくりひろげられた。その絵巻の一枚一枚は、すべて血潮と涙でいろどられているのである。

 避難民を導いて梨樹溝から十里坪に移動したあの日のことを思うと、いまでもその苦しみがよみがえってくるようである。避難民のなかには、討伐のために20日ものあいだ穀物を口にすることができず、豆ざやや大根の葉で飢えをしのいだ人も少なくない。彼らは十里坪に移ってからも、穀物がなくて牛皮を煮て食べる有様であった。顔をあげて空の太陽を仰ぐ力もなかったあの飢餓の年に、遊撃区人民が口にした「飲食物」をいまの若い人たちの前に展示するならば、彼らも先輩たちが体験した人間以下の飢渇の苦しみに涙をそそられるであろう。

 金明淑(延吉)は遊撃区時代に、春の端境期を切り抜けることができず、二人の子を餓死させ、本人も命を落とすところであった。1週間以上なにも口にできなかった彼女は、子どもたちが飢え死にしたのを見ても、野外に埋める力がなく、小屋の中に倒れていた。衰弱がそれほどひどかったのである。隣家の人たちが、死体を外へ運び出したものの、土を掘って埋めることができず、枯れ葉をかぶせただけであった。彼らも金明淑と同様、1週間なにも口にしていなかったのである。

 解放なった祖国に帰り、はじめて白米の飯を前にしたとき、金明淑は、二人のわが子を奪った遊撃区時代の春の端境期のことを思って泣いた。車廠子遊撃根拠地には、漁郎村戦闘のさい機関銃創を8か所も受けて頭蓋骨から脳がはみだしたにもかかわらず、奇跡的に一命をとりとめた人がいた。その強靱な生命力のため、人びとは彼を「8連発」と呼んだ。8発もの銃弾を撃ちこまれながらも死ななかったという意味である。その「8連発」も、東南岔政府で働いていたときに飢えて死んだ。彼は死ぬ前に同志たちにこう絶叫した。

 「敵の弾丸を8発受けたときに死んでいたら、英雄の名を残したかも知れないのに、ここで飢え死にするとは、なんと無念なことだ」

 敵は遊撃区を銃剣で封鎖し、その中で人民を飢え死にさせ、凍え死にさせた。朝鮮人はあのとき、じつに苦しい試練をなめた。そのときの犠牲は、いまもわが民族の胸の奥底に大きな痛手を残している。

 日本の支配層は、朝鮮と満州大陸で犯した罪業を道徳的に深くかえりみるべきであろう。反省は羞恥でも屈辱でもない。それは、おのれを理性的に見直す過程であり、完成へと導く過程である。目を閉じるからといって歴史がおのずと隠滅されるものではない。日本が謳歌している高度成長の絹布団に朝鮮民族の血がしみついていることを忘れてはならない。日本も異邦人の銃火に命を落とし、愛する姉妹や娘たちが占領軍に辱しめられるという国難を体験しているではないか。

 敵は、満身創痍になってあえぎながらも執拗に長期戦を企図した。人員も武器も食糧も補給されるあてのないわれわれを、長期戦の泥沼に引きずりこんで、凍えて死に、飢えて死ぬのを待とうとしたのである。

 戦局を決定的に転換させてのみ、遊撃隊と遊撃区人民の活路が開かれるのである。遊撃区の防衛戦とならんで、敵の背後で強力な撹乱作戦を展開するのが、遊撃区と人民を救う唯一の道であった。

 もともと、わたしは汪清に来た当初から、遊撃区の死守にのみ固執する防御一辺倒の傾向に反対していた。つまり、敵の兵力が分散しているときは力を集めてこれを襲撃、掃滅し、敵が兵力を集結して攻撃してくれば兵力を分散していたるところで敵の背後を撹乱しなければならないというのである。このような戦法を「避実撃虚」の戦法とも呼んでいる。そうして、はじめて根拠地を守り、部隊の兵力も保存できるのである。

 ところが、東満州党委員会と県党委員会の大半の幹部は、敵が集結して攻めてくればこちらも必ず集結して防御すべきである、さもなければ遊撃区も人民も保護できない、と主張していた。

 この2つの理論が、戦術上の問題として対置され、ついには、どの主張が真にマルクス主義的であり、どちらが非マルクス主義的であるかという物々しい論戦にまで発展した。

 彼らはわたしの理論を非マルクス主義的なものと解釈し、ひいては現実逃避的で投降主義的なものだと評したが、わたしは一歩も退かず、敵中撹乱戦の正当性をあくまで主張した。

 われわれがいかに兵力を集結したところで、敵と対等に戦えるはずはない。それなら、むしろ人民を四方に避難させ、遊撃隊も一部だけを残し、いたるところで銃声をあげさせよう。そのあいだに残りの遊撃隊はさらに兵力を分散させて、敵の背後を撹乱しよう。かりに銃をもった10人の隊員が敵中に入るとしよう。彼らが素手の青年3、40人をともなって守りの弱い敵陣を攻撃してまわるならば、銃も手に入れば、食糧も得ることができる…。

 多くの同志が当時の状況を理性的に正しく判断し、わたしの主張を支持した。しかし一部の頑迷な人たちは、どうしても聞き入れようとしなかった。むしろ、その活動歴を鼻にかけて、「若い者たちは、闘争経験の多い者の意見を聞くべきだ。敵が攻めこんでくるときに、軍隊が遊撃区の外へ出ていくというのは話にならん。それは、人民がどうなろうと軍隊だけが生き残ろうという考え方だ」と途方もない言いがかりをつけた。

 遊撃根拠地が焦土と化し、人民や遊撃隊に死者が続出するのにたまりかねたわたしは、童長栄、李相黙(リサンムク)、宋一(ソンイル)などの特委や県の幹部に会って、敵中撹乱戦の展開を強力に主張した。

 「いまや、すべてが最後の界線にいたっている。このままでは、われわれも死に、人民もみな死ぬほかない。これ以上、どこへ避難するというのか。追われ追われて山の奥へ入りこんでいるが、山林の中に深く入れば住む家はもちろん食糧も手に入れるのは難しい。追われはじめると果てがなく、人民を保護することもできなくなる。あなたがたは、遊撃隊と一体になって戦えば敵を撃退できると考えているらしいが、それは見込みのない話だ。今夜すぐにも遊撃隊を3つか4つの組に分けて敵中に送るべきだ。敵中で彼らの根拠地をいくつかたたけば、討伐隊はきっと小汪清から退却するだろう」

 東満州の他の遊撃区でも、そのころ小汪清と同じように苦戦していた。琿春の人たちは金廠と火焼舗方面に追われ、王隅溝では大荒崴と三道湾方面に、和竜県では車廠子方面に人びとが移動しはじめていた。事態がここまで立ちいたっているにもかかわらず、一部の幹部は決断がつかずためらっていた。

 そこで、わたしは敵中撹乱論をもう一度説明し、「軍隊はわたしが責任を負っているから、わたしの決心どおりにする」と宣言した。そのあとで遊撃隊員を集めて、こう言った。

 「われわれは防御にきゅうきゅうとしないで、敵の後頭部にも打撃を加えなければならない。敵中には誰が行く? 志願者はわたしのあとにつづけ。多くはいらない。半分は敵中に入り、半分は遊撃区に残って人民を保護しなければならない。敵中に行く者は、今夜のうちに包囲網を突破しよう。包囲網を突破すれば、活路が開ける。敵の拠点と根拠地に連続打撃を加えれば、そのうわさが広がる。うわさを広げながら各地の敵をひきつづき攻撃すれば、背後に脅威を覚えて、山に入りこんだ討伐隊はみな引き揚げるだろう」

 こうして、遊撃隊は二手に分かれた。一隊は崔春国の指揮のもとに十里坪を守り、いま一隊はわたしが引き連れて敵中に入っていった。1500余の根拠地人民は、共青員に導かれて羅子溝に疎開した。

 わたしは崔金淑に、病中の童長栄を廟溝方面に避難させて看護するよう任務を与え、予備の食糧を集めて彼女の背負い袋に入れてやった。これが彼女との最後の別れであった。

 わたしはその夜、遊撃隊の一隊を引き連れて、匍匐で敵の包囲網を突き抜け、敵背深く入りこんだ。案にたがわず、敵の背後はほとんどがら空きであった。都市周辺の最初の村に入ると、村人たちは正月祝いの準備をしていた。彼らは、日本軍の討伐で遊撃根拠地の人がみな死んだと思っていたのに、こうして会えてうれしい、といって、ギョーザやキビ餅などの正月用料理をふんだんにもてなしてくれた。呉白竜小隊の金生吉(キムセンギル)は、ギョーザを140個もたいらげ、腹痛を起こして死ぬ思いをした。

 翌日は疲れがひどかったので、歩哨を立てて、一日中隊員に睡眠をとらせた。何か月ものあいだろくに食べることも眠ることもできず、酷寒のなかで苦労したため、眠りからさめたとき、誰もが目やにをためていたが顔色は晴ばれとしていた。

 われわれは、翌日から敵陣をつぎつぎに襲撃した。そこでは小さな討伐拠点を主にし、これにあわせて、比較的大きな討伐拠点も攻撃する戦術をとった。

 最初に攻撃したのは涼水泉子であった。われわれは奇襲によって、満州国軍と自衛団を壊滅させ、日本領事館警察兵営を占領した。ここで背後攪乱戦の最初の銃声をあげたわれわれは、遠くへ行方を隠したように見せかけたあと、もとの地域へ引き返し、新南溝で機動中の敵のトラック輸送隊を襲撃して掃討し、大量の小麦粉と軍需物資を分とった。そのあと、新南溝からかなり遠い北鳳梧洞の山岳地帯にひそかに抜け出し、つぎの戦闘を準備した。1934年2月16日の夜、北鳳梧洞の満州国軍と警察、自衛団員は一人残らず、わが部隊によって殺傷ないし捕虜にされた。

 北鳳梧洞で勝ちどきをあげ、北高麗嶺を越えて寺洞方面に進出した部隊は、東谷の山林警察隊の兵営を襲い、敵兵を残らず殺傷または捕虜にした。

 敵の冬期討伐の粉砕で決定的な役割を果たした最後の戦闘は、図們―牡丹江間の鉄道上にある軍事要衝の大肚川でおこなわれた。敵の討伐隊に変装したわれわれは、40数キロの険しい山道を強行軍で突破し、3つの組に分かれて大肚川の警察署と自衛団室を襲撃し、軍用倉庫を焼き払った。

 この戦闘後、敵は遊撃区の包囲網を解いて、90日前の出撃地点に引き返した。敵は「ガン」を取り除くことができなかった。3か月にわたって遊撃区の存立を脅かしていた冬期討伐は、落日の運命をまぬがれなかったのである。

 便宜上、馬村作戦と呼んだ小汪清根拠地防衛戦は、われわれの勝利に終わった。それは、アドルフ・ヒトラーの就任とライプチヒ裁判、ソ米外交関係の樹立などで騒然とした世界の一角で、世に知られずに起きた一つの奇跡であった。小汪清遊撃区防衛者たちの英雄的な偉勲と、苦難にいろどられた戦いぶりを生き生きと描けないのが遺憾である。

 われわれは、この勝利のために高い代償を払った。数百の生命が敵の砲火に倒れた。なによりも哀惜の念に耐えないのは、崔金淑と童長栄の死である。

 わたしを弟のように慈しみいたわってくれた崔金淑。われわれが敵中から帰ったとき、凱旋勇士たちを涙に濡れて歓迎する遊撃区人民のなかに、彼女の姿は見えなかった。伝令がになっているわたしの背負い袋には彼女に贈るコンパクトがあった。他の婦女会員に贈る戦利品の麻袋も多かった。

 この冬、婦女会員は、遊撃区を守ってどんなに苦労し、どれだけ多くの涙を流したことだろう。炊事仕事はどれほどし、草の根はまたどれほど多く掘ったことだろうか。道案内を強要する敵兵を、遊撃隊のいない方向に連れこんで地団駄を踏ませ、銃殺された恵淑と英淑! 指揮部のある崖の上へ敵兵が這い上がるのを見て、敵だ、敵だと叫びながら、彼らを自分のほうにおびきよせた崔昌範の叔母!

 …どうして桂月香(ケウォルヒャン)や論介(ロンゲ)だけが朝鮮の烈女であり、愛国者といえよう。

 けれども、時機を失したわたしのまごころは、崔金淑の手に届かなかった。敵は、わたしが一生のうち姉さんと呼び、慕ったただ一人の女性、祖国が解放されるまで死なずに戦おうというと、かえって、自分は不老長寿するが、隊長はわが身をかえりみないので心配だ、といっていた女性を奪い去った。

 童長栄の死も、わたしには胸の痛む喪失であった。彼は、わたしを愛し、わたしの思想を尊重してくれた中国の同志のなかでも、とくに忘れることのできない戦友の一人であった。わたしは、彼と重要な路線上の問題で論争も多くした。我が強く、見解が一致しない場合もときどきあったが、それが二人の友情を傷つけるようなことはなかった。彼は朝鮮人のなかでは、わたしがもっとも信頼できるといっては、なにくれとわたしの力になってくれた。

 大肚川戦闘を終えて腰営口方面に撤収したわれわれは、そのあと馬村に帰って小汪清遊撃区防衛戦を総括した。そのとき馬村では、疎開地からもどった人びとが焼け跡に家を建てていた。ある年寄りは、遊撃区に来てから家を建てるのが70回目だと語った。死んでも生きても遊撃区と運命をともにしようと決心した間島人民の生命力は、このように強靱であった。

 こうした人民の支持、後援がなかったとしたら、遊撃隊は敵の大討伐を撃破できなかったであろう。馬村作戦の勝利は、軍民一致のたまものであり、人民抗戦の結実であった。困難が大きければ大きいほど、いよいよ奮い立ってそれに立ち向かうわれわれの攻撃精神と、それに根ざす変化に富んだ独自の戦法は、馬村作戦の勝利をもたらした決定的な要因である。

 馬村作戦の全過程は、革命政権の土壌のうえに百折不撓の朝鮮民族の意志と気概をもって巨木のようにそそり立つ遊撃区精神の燃焼過程であった。それは、飛行機や大砲をもってしても征服できない堅忍不抜の力を湧き出させ、全土を血潮で染めながら小汪清を守りぬかせたのである。

 馬村作戦は、敵に大きな軍事的・政治的・道徳的惨敗をこうむらせ、革命軍の軍事的権威をいちじるしく高めた。われわれはこの作戦を通して、遊撃戦法の骨組みとなる新しい戦法を無数に編み出し、やがて大部隊活動に移行する軍事組織的・戦術的基礎を築きあげた。抗日遊撃隊は、敵のいかなる侵攻をも撃破できる豊富な経験をつんだ。

 馬村作戦は、小汪清を守りぬくことによって、隣県の遊撃区に加えられた危機の解消にも寄与し、抗日武装闘争を中心とする全般的朝鮮革命を高揚に導くうえでも大きく貢献した。1211高地を死守した英雄的戦士の防衛精神は、1930年代に生まれた遊撃区精神に根ざしている。われわれはいまも、この精神をもって帝国主義の包囲のなかで朝鮮式の社会主義を輝かせながら一路邁進している。

 抗日戦争の砲火のなかで生まれ、鍛えられた遊撃区精神を圧倒する力はこの世にない。この精神のあるかぎり、われわれの軍隊と人民は、今後も永遠に必勝不敗の道を歩むであろう。



 


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