金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 極端な軍事民主主義を論ず


 ソビエト路線が政権建設分野における極左的偏向であったなら、極端な軍事民主主義は、軍の指揮、管理に現れた極左的思想傾向であった。極端な軍事民主主義というのは、軍の指揮、管理で各軍人が上下の別なく同等の権限を行使すべきであるという主義主張、つまり軍事行動のすべての面で過度の平均主義を主張し、それを絶対視する思想である。

 遊撃隊内に極端な軍事民主主義が胎動していることにはじめて気づいたのは、南満州遠征を終えて汪清に帰り、遊撃隊の指導にあたったときのことである。当時は、極端な軍事民主主義の偏向が現れはじめたばかりで、きわだった弊害はまだ見られなかった。

 東寧県城戦闘後、汪清に帰ったわたしは、遊撃隊の活動を検討する過程で、萌芽にすぎなかった極端な軍事民主主義が、いまや軍内の指揮体系をむしばみ、麻痺状態に陥れていることを知った。

 極端な軍事民主主義の危険性を告げる最初の警鐘は、1933年秋、琿春県大荒溝で打ち鳴らされた。大荒溝は、琿春の中心遊撃区で、コミンテルンの派遣員潘省委が朴斗男に殺害されたところである。ここで、東寧県城戦闘に参加した琿春遊撃隊の勇士のうち13人が枕を並べて戦死するという事件が発生し、東満州全人民の悲憤を呼び起こしたのである。

 羅子溝で戦闘の総括をして遊撃区に帰った琿春中隊は、ある一軒家でしばらく休息し、中秋をすごした。その2日後も、彼らは歩哨を立てて終日休息をとっていた。ところがそれを内偵した日本軍守備隊が、夜半に一軒家を包囲したのである。この場合、敵の盲点を突いていちはやく包囲網を脱け出すのが上策である。そのためには、指揮官が状況判断を的確におこない、ただちに決断を下さなければならない。ところが、隊伍の責任者である中隊長には結論を下す権限がなかった。一行のなかには呉彬(オビン)のような有能な軍事指揮官がいたが、極左分子の策動で県党委員会軍事責任者の地位から平隊員に落とされていたため、彼の発言は無視されていた。当時、上級党組織の指導部をしめていた極左分子は、指揮官に軍事問題の結論権を与えなかった。軍事作戦にかんする問題は一から十まで必ず会議にかけ、多数決の原則で集団的に決めなければならないというのが、彼らの主張であった。それは軍の指揮、管理上、誰も背くことのできない鉄則として、指揮官の手足を縛っていた。指揮官が結論を下せないのは無能のせいではなく、極端な軍事民主主義の重圧によって指揮機能が麻痺していたからである。

 敵兵が一歩一歩包囲を狭めている危急な状況のもとで、彼らは、戦うべきか、包囲を破るべきか、といたずらに討議を重ねた。一部の隊員がたまりかねて、論争ばかりしていては皆殺しになる、いったん戦闘からはじめてみるべきだと提案したが、極端な軍事民主主義に毒されていた隊員たちは、会議の決議もなしにどうして戦えるのか、と一蹴してしまった。それは、包囲された遊撃隊を壊滅させる犯罪的な自殺行為であった。討議が空まわりしているうちに、敵の攻撃が開始された。それで、やっと会議を中止して応戦したのである。雨あられとそそぐ敵弾に、13人の遊撃隊員が命を落とし、生き残ったのは何人もいなかった。その一人が、呉彬の遺言で汪清のわたしのところに駆けつけ、13勇士が戦死したいきさつをくわしく話してくれたのである。

 戦死者のなかには白日平と呉彬もいた。彼の話によると、彼が死体をかき分けているとき、腹部に貫通銃創を負った呉彬が、腸のはみだしていることにも気づかず、最後の力をふりしぼって、こう頼んだという。

 「ぼくはいま、君に命令する権限がない。しかし、党員として頼みたい。きょうのこの出来事を、必ず金日成同志に知らせてくれ」

 わたしは、極端な軍事民主主義の主唱者と、それを戦闘に盲目的に適用した教条主義者を呪った。極端な軍事民主主義にむしばまれていなかったなら、琿春中隊の同志たちはいちはやく包囲を切り抜け、13人もの犠牲者を出す惨事をまねくようなこともなかったであろう。

 その13人はいずれも、東寧県城戦闘をともに戦った忘れがたい戦友であった。戦いを終えて東寧県城から撤収するときに防御隊の任務を果たした彼らは、汪清部隊がじつによく戦ったと喜び、競って握手を求め、わたしを肩車に乗せたり、胴上げしたりした。犠牲になった戦友たちの追悼式では、声を上げて泣き、追悼の辞も述べた。あれほど情熱に燃え、愛情の深い同志たちが、一夜のうちに13人も命を落としたのであるから、こみあげる憤りをおさえることができなかった。

 なかでも、呉彬は、誰よりも忘れがたい戦友であり同志であった。彼は、わたしが六邑地区を開拓するさい、蔡洙恒(チェスハン)の紹介で親交を結んだ同志である。蔡洙恒が竜井で大成中学校に通っていたころ、呉彬は同じ都市の東興中学校で学んでいた。両校はともに、社会運動と独立運動の人材を輩出した。2人は竜井で学生運動にも一緒に参加した。呉彬は、蔡洙恒とともに、わたしが主宰した共樹徳会議と冬の明月溝会議にも参加し、武装闘争方針を確定する問題の討議に積極的に関与した。

 呉彬と蔡洙恒がわたしを鐘城に案内したのは、1931年5月のことだったと思う。鐘城は、蔡洙恒の故郷でもあった。彼らと舟でひそかに豆満江を渡り、新興村に第一歩を印したのがきのうのことのようにありありと思い浮かぶ。すがすがしい新緑の柳、古色蒼然とした古城の跡。美しい祖国のたたずまいに胸を高鳴らせながら、国の未来を語り合ったものである。

 その年の春、わたしは、新興村の北門の外で鐘城反帝同盟の責任者として活動していた呉彬の父親呉義善(オウィソン)にも会った。延吉県茶條溝で小作人をしていた彼は、息子が職業革命家になったあと、所帯をたたんで新興村に移ったのである。彼の家はやがて、汪清地区の反日人民遊撃隊と鐘城郡内のすべての地下革命組織とを結びつけるアジトになった。

 わたしが新興村に行くと、呉彬の家ではいつもソバを打ってくれた。1933年5月の端午もそこですごしたのだが、そのとき、呉義善は12キロも先の豊渓市場からソバ粉を買ってきて、昼食に平壌冷麺をしのばせるソバをもてなしてくれた。

 その端午の日の印象のなかで、いまもって忘れられないのは、飲料水が近くになくて困っている一家のために、その家の庭に地下水の流れを探り当てて、浅井戸を掘ってやったことである。琿春で武装闘争に専念している呉彬に代わり、息子になったつもりで、わたしはせっせとシャベルをふるった。

 東寧県城戦闘をひかえて、羅子溝で呉彬に会ったとき、新興村の父親からもてなされた端午の日の冷麺の話をすると、彼はうれしそうな表情をした。琿春で軍事責任者から平隊員に落とされたころだったが、彼には失望したり、元気をなくしたりした様子が少しもなかった。

 わたしが気を落としてはいけないと慰めると、彼はこう言った。

 「ごらんのとおり、ぼくは元気一杯だ。軍事責任者が隊員になったからといって、呉彬が金彬になったり、朴彬になったりするわけはない。けれども琿春ではもうなにもしたくない。東寧県城戦闘がすんだら、上級に申し出て汪清に移りたいと思うが、隊長はどう思う?」

 「君が汪清にくれば、それにこしたことはないが、君に民生団のレッテルを張る極左分子は汪清にもうようよしているよ」

 「そうだろうか?」

 「汪清だからといって、極左の風当たりが弱いわけではない」

 「でも隊長の近くにいれば、気持ちがずいぶん楽になりそうだ。とにかく、ぼくはきっと汪清に移ってみせる。この呉彬に二言はない」

 呉彬は手溜弾を持って西山砲台占領の先頭に立ち、突撃路を開いた。その戦功は、戦闘総括で、当然高い評価を受けた。総括後、羅子溝で部隊が別れるときも、彼は自分の決意を改めて表明した。汪清に移る決心は、かたかったのである。彼は、東寧県城戦闘のさい、汪清の隊員たちが西山砲台を占領し、城市に突入するその戦いぶりを見て、決心をいっそうかためたという。

 もちろん、わたしは力添えを約束した。ところが、約束を果たす前に、彼が戦死したという悲報が汪清に届いたのである。春に李光を失い、夏は潘省委が落命し、今度は呉彬が、その切望を果たせずに不帰の客となった。

 呉彬ら13勇士の最期は、青天の霹靂にもひとしい衝撃であった。それ以来、わたしは極端な軍事民主主義には戦慄にも似た嫌悪の念をもよおし、どんな場合にもそのような要素が隊内に発生するのを決して許さなかった。

 わたしが、それほどの嫌悪と警戒心をもって極端な軍事民主主義を排撃したのは、それが革命になんの役にもたたない、百害あって一利のない思想的傾向だったからである。

 われわれは現在も、軍事作戦にかかわる問題はすべて党組織で討議するのを鉄則としており、大衆の意見が党組織を通して軍事作戦の樹立に反映されることを歓迎している。しかし、そのような集団的合議制が、部隊の管理に責任を負う指揮官の権限に抵触するのは許さない。

 だが、抗日戦争初期、極端な軍事民主主義は、集団的合議制の名のもとに指揮官の権限を侵し、部隊の管理と軍事作戦における指揮体系を麻痺させた。当時、軍内では、軍事作戦を立て戦闘をおこなうさい、党員の創意を引き出すためにグループ会議、支部会議、各級委員会などの党会議を開き、今日の軍人総会のような機能を果たす全隊会議も開いた。しかし、そこには状況を考慮するという原則があった。ところが、極端な軍事民主主義をナポレオン法典のように絶対視していた極左分子は、軍事問題はすべてその大小や状況にかかわりなく、必ず各級党組織と全隊会議で討議しなければならないと主張した。

 たとえば、革命軍がある都市の攻撃を計画する場合、まず党グループ会議がおこなわれる。都市の名は伏せておき、ただその都市の略図を書いて、攻撃する必要があるかどうか、あれば、どのような方法でやるかということを決めるのである。グループ会議で戦闘の必要性と勝利の可能性が認められ、具体的な作戦が決定すると、つぎは支部総会で同じ問題を前と同じやり方で討議し、挙手によって可決する。つぎは全隊会議である。全隊会議で討議される内容と手続きも、グループ会議や支部総会と異なるところがない。違いといえば、党員でない軍人も討議に参加できることである。われわれはいま、Aという都市を攻撃する予定である、この都市を占領すれば、政治的にも軍事的にも多くの利益がある、損失はなく、犠牲も少ないであろう、作戦計画はこれこれしかじかである、この計画どおりに戦えば必ず勝利する、というように討議を進め、決議を採択する。これに従って戦闘命令が下され、A市への進撃がおこなわれる。

 池に石を投げるようなやり方で、予告もなく議題を持ち出しては、大勢の人間が結論を引き出すまで、やろう、やめよう、できる、できない、勝てる、敗れる、などと論争するのだが、軍事民主主義のおかげで誰もが同等な発言権をもって、負けず劣らずに意見を出し合い、論議はいつ果てるとも知れず際限なくつづくのである。そうしているうちに敵情が変わると、各級会議でせっかく討議、決定した作戦は使いものにならなくなったりする。たとえ、その作戦が実行に移されるとしても、状況の変化に即応できないので、革命軍は大きな損害をこうむらざるをえないのである。

 13人の犠牲者を出した大荒溝事件は、極端な軍事民主主義がまねいた弊害の典型的な実例だといえよう。

 極端な軍事民主主義のいま一つの表現は、民主主義の名のもとに革命軍内で過度の平等主義、平均主義が主張されたことである。そのような例は、わたしの指揮する部隊にもなくはなかった。

 ある日、わたしは県党委員会軍事責任者金明均(キムミョンギュン)と一緒に、第1中隊の活動状況を点検するため中隊の兵営を訪ねた。そこでは、中隊長がほうきを手にして庭を掃き、片隅では中隊政治指導員が隊員とまきを割っていた。上下一致の美風をまのあたりにして、わたしはほほえんだ。ところが、軍事責任者の金明均はどうしたわけか、にがりきった顔をしていた。

 「指揮官たちがあのように率先垂範しているのは、目の保養になる」

 わたしがこういっても、彼の顔つきは変わらなかった。

 「ついでに、わたしたちも一緒に庭を掃いてやろう」

 わたしは、庭の隅に転がっているほうきのほうに向かって歩き出した。

 すると、金明均はわたしの袖をそっと引いた。

 「いま、あきれた場面を見せてやろう」

 彼は当直官に、中隊長と政治指導員をすぐここへ呼んでくるようにと命じた。当直官はすかさず、「いまは朝の掃除の時間です」と答えた。

 「呼んでこいといったら、呼んでくるべきじゃないか。なにを口答えしてるんだ!」

 金明均は頭から怒鳴りつけた。当直官はそれでも引き下がろうとしなかった。

 「そんなことをしたら、中隊長と政治指導員が全隊会議で批判されます」

 わたしは腑に落ちず、金明均にわけを聞いた。

 「中隊長や政治指導員も人格上は隊員と同等だから、隊員が掃除をするときは、なにはともあれ掃除に参加しなければならないというわけだ」

 これは、まだ極端な軍事民主主義がはびこる前のことであった。このようを盲目的な平等思想はその後、遊撃隊の軍事行動に影響を及ぼし、軍の指揮体系を一時麻痺させた。

 もちろん、すべての人間、すべての軍人は、人格上平等だといえる。しかし、抗日遊撃隊や今日の人民軍のような革命軍では、各人がその責務に従って任務の分担を異にしている。ある軍人には中隊長の責務が、またある軍人には小隊長や分隊長の責務が負わされる。

 それぞれの責務と任務の分担によって、革命軍内には上下関係が存在するようになる。中隊長は小隊長の上級であり、小隊長は分隊長の上級であり、分隊長は隊員の上級である。革命軍の軍務条例には、下級は上級の命令、指示に絶対服従すべきであると規定されている。これなしには、軍を指揮、統率することも、軍隊の鉄の規律を維持することもできない。抗日遊撃隊の軍務条例は、軍人たちの意思を十分に反映したもので、指揮官がそれを自覚的に守るよう求めている。

 ところが、「左」翼日和見主義者は、抗日遊撃隊の軍務条例に規定されている上下関係を無視した。それは、規律と秩序、将兵一致を生命とする抗日遊撃隊の生活規範を乱し、その道徳的基礎をうちくずす結果をまねいた。

 極端な平等主義は、軍内で極端な軍事民主主義として現れ、平等の名のもとに、下級がみずから推挙した上級を尊敬せず、ぞんざいな言葉づかいをし、上級の命令に異議を申し立てるような現象まで生じた。下級が上級に敬礼もせず、ぞんざいな言葉づかいをし、上級の命令、指示に可否を論じるようでは、それはもはや軍隊ではなく烏合の衆である。そのような軍隊で、兵士は指揮官の盾となり、指揮官は兵士の先頭に立って肉弾となる高潔な同志愛、そして思想・意志の統一を望めるであろうか。またその隊伍を、全隊員が同じように語り、同じように歩み、同じように息をつく、鋼鉄の統一体にかためることができるだろうか。

 極端な軍事民主主義は、戦闘にさいして、指揮官に隊員と同じように行動することを求めるところにも現れた。牛の角もおのおの念珠もおのおの、ということわざは、何事であれ各人にはそれぞれの持ち場があることを教える単純な理である。それなら、戦場で指揮官のなすべきことと隊員のなすべきことは同じでないはずである。これは三つ子にも理解できる簡単な道理である。

 ところが、極端な軍事民主主義者は指揮官に向かって、突撃するときは先頭に立ち、防御するときは前面で敵弾を防げと説いた。こうした要求は、指揮官の戦場における責務の遂行を不可能にした。広い視野をもって戦況を不断に見守り、多角的な指揮をとるべき指揮官が最前線に立って隊員と一緒に戦うので、部隊を戦況の推移に即応して動かすことができないのである。

 もちろん、ときには指揮官が先頭に立って隊員を突撃へと導くときもあり、敵弾が炸裂する塹壕をまわって戦闘員を励ますこともある。部隊が苦境に陥り、それを順境に変えなければならないとき、指揮官の先駆者的な手本が必要とされるならば、当然、先頭に立って隊員を敵撃滅へと奮い起こさなければならない。だからといって状況にかかわりなく、そんなふうにばかりするのは率先垂範とはいえないのである。

 当時の戦闘総括では、指揮処を離れて突撃の先頭に立ち、隊員と同じように行動する指揮官は、いつも称賛を受けた。隊員たちは、どの小隊長は高地に敢然と立って戦闘を指揮し、銃弾が降りそそいでもたじろがなかった、どの中隊長は敵陣に突入するとき、隊員より2、3メートルは先に進む、自分たちの大隊長ほど勇敢に敵陣に躍りこみ、白兵戦を展開する大隊長はいないだろう、などと上官をほめそやした。

 戦闘規定の示す位置で戦いの動きを全般的に正しく見きわめ、部隊のつぎの行動を決定しなければならない小隊長や中隊長、大隊長が、持ち場を離れ、ひとりで敵中深く突入する無謀な行為は、このような雰囲気に乗って東満州のすべての遊撃隊に広まった。抗日戦争初期、小隊長や中隊長など遊撃隊の基本的単位の軍事指揮官が多く戦死したのは、そうした風潮のせいであった。

 汪清遊撃隊でも単独突入の名手が輩出した。金普iキムチョル)、金成鉉(キムソンヒョン)、李応万(リウンマン)たちがその例である。金浮ニ金成鉉は真っ先に突進して戦死し、李応万も先頭に立って戦い、足首に深手を負った。

 延吉の崔賢ど道彦(チョドオン)は、東満州で知らぬ者のない突撃名手であった。彼らは、偵察も隊員にまかせず、自分でやった。軍事指揮官というよりは、中学生のようにがむしゃらに駆けまわる天真爛漫な冒険家であった。
 ゙道彦は、延吉遊撃隊が生んだ名だたる冒険家であった。口ラッパをよく吹くので、延吉地方の人たちは早くから彼を「゙ラッパ」と呼んでいた。彼はどこでも、このニックネームのおかげで人びとの注目をひいた。人びとは、彼が口ラッパを吹かなくなって久しい壮年時代はもちろん、白髪の晩年にも、本名より「゙ラッパ」と呼んだ。それは、抗日戦争の砲煙弾雨の中をいつも先頭に立って突っ走っていた闘士、゙道彦にたいする愛情の表現でもあった。一生「゙ラッパ」と呼ばれてきた彼は、本名で呼ばれるとむしろ妙な顔をしたり、残念がったりしたものである。

 ある日のこと、外で「こちらは、゙道彦同志のお宅ではないでしょうか」と尋ねる声がした。すると、゙道彦はむくれたような声で、「この家に『゙ラッパ』はいるが、゙道彦というもんはおらん。ここは『゙ラッパ』の家だ」と答えて、客をまごつかせたことがあった。これほど彼は、抗日戦争時代に戦友からつけられた愛称に大きな愛着を覚えていたのである。

 ゙道彦が故人ではなく生きているなら、わたしもいま本名のかわりに大衆があれほど愛していたニックネームを使って、彼のことを回想したであろう。

 両親の名前もまともに書けなかっだ道彦は、青年時代になって夜学に通い、そこで朝鮮語の文字を習い、99と『幼年必読』を学んだ。彼は非識字者という路地裏から抜けだすやいなや、組織生活に参加し遊撃隊にも入隊して、中隊長の重責を任されるほどになったのである。彼は中隊長になってからも、敵の砲台近くまで入りこんで敵情を探り、中隊にもどって襲撃命令を下すと、また先頭に立って疾風のように突進する格別な軍人であった。

 極左分子は、彼が白昼に敵情を探り、自衛団を襲撃して一度に多くの武器を分捕ってくると、各種の集会や公式文書で、その武勲を大々的に宣伝した。しかしそれは、彼がそんな冒険をつつしまなければならない指揮官であることをまるで考慮しない、一面的なものであった。とにかく、そのような宣伝で、彼は東満州でほとんど知らない者がないほど名声をとどろかせた。

 彼は、大甸子戦闘でも部隊の先頭に立ち、機関銃座めがけて走り致命傷を負った。機関銃のすぐ前まで近づいていたので、敵弾は腹部から背中にかけて斜めに貫通した。彼は奇跡的に生命を取りとめたものの、その傷のため6年ものあいだ病床ですごし、あれほど愛していた中隊にはついに復隊できなかった。

 彼が病床にあったのは、抗日武装闘争が大部隊活動に移って南北満州と国内に活動地域を広げ、上昇一路をたどっているころであった。朝鮮人民革命軍は、広く世に知られた伝説的存在となり、その正義の戦いは、世界の被抑圧人民に光明をもたらす灯火となった。抗日戦争は、新たな師団や連隊を指揮する有能な人材、百戦の老将を必要としていた。゙道彦が戦闘能力を喪失していなかったら、抗日戦争がめざましい高揚期にあったとき、赫々たる武勲を立てていたことであろう。

 軍内に極端な軍事民主主義が横行したころ、極左分子は指揮官の安全をまるで考慮しなかった。連隊と師団に指揮官の護衛任務を担当する警護隊が編制されたのは、その後のことである。

 極端な軍事民主主義はまた、軍内で賞罰を適用する場合の平均主義にも表現された。抗日遊撃隊は、部隊の戦闘力を強化する措置の一つとして賞罰制を設けていた。戦闘と訓練、日常生活で手本を示した軍人には賞を与え、軍務条例に背いた者は処罰した。賞には功労に見合った等級をつけ、罰も過ちの軽重によって適用されていた。ところが、極端な軍事民主主義者はこれを無視して、なぜ誰それには1等賞を与え、同じ分隊で同じ任務を遂行した誰それには2等賞を与えるのか、誰それは注意処分にしながら、同じ過ちを犯した誰それはなぜ警告処分にするのか、などと難癖をつけ、賞罰を平均主義的に適用するよう世論をあおり、圧力を加えた。これは、軍の戦闘力の強化を目的とする信賞必罰の根本原則に背く超現実主義的な立場であった。

 一言でいって、極端な軍事民主主義は、抗日遊撃隊の軍事的・政治的・道徳的優位性を不断に発揚し、抗日武装闘争を勝利のうちに前進させようとするわれわれの志向と努力にブレーキをかける、有害な思想的傾向であった。このような思想的傾向をすみやかに克服しなければ、抗日遊撃隊のすべての指揮官は、遅かれ早かれかかしも同然の存在となり、遊撃隊は上下関係も、指揮官と兵士の区別もない無秩序な集団に転落し、内部から武装解除させられるのは必定であった。

 極端な軍事民主主義は、その表現形態がどうであれ、小ブルジョア思想に根ざす日和見主義的な思想傾向であった。それは事実上、一種のアナーキズム的傾向で、労働者階級の革命思想とは縁もゆかりもないものであった。小ブルジョア思想の反映としてのアナーキズムは、その理念の根底に、一般的には権力にたいする極端な憎悪、特殊的にはブルジョアジーの政治的権力にたいする反発があり、極端な民主主義、自由放縦を高唱し、社会にアナーキズム的な混乱と無秩序を導入しようとするものである。

 資本主義的大生産とブルジョアジーの政治的独裁の重圧に押しひしがれて、経済的に破産し、政治的に無権利な小市民階層の不安な心理を体現した一部の極端な思想家は、資本家階級の政治的権力を暴力によって打破し、アナーキズムを実現すると称して、権力一般の否定へと大衆を駆り立てようとした。

 フランスの小ブルジョア思想家プルードンからロシアのバクーニン、クロポトキンにいたるアナーキストの、政治的権力にたいする極端な憎悪、無分別な社会的平等の要求などで表現されるアナーキズム的理論は、勤労人民大衆を資本の抑圧に反対する強力な闘争へと呼び起こすのを妨げ、搾取階級の独裁を打倒した国では革命の獲得物を危険にさらし、真に人民的で民主的な新しい制度、新しい生活の創造を妨げる、百害あって一利のない思想として、すでに歴史の厳正な審判を受けていた。

 しかし、そのようなアナーキズム的思想傾向は一時、小市民階層に極端な民主主義と無制限な自由への幻想をいだかせ、したがってそれは、資本主義的大工業がさほど発達していない、小市民的・農民的思想傾向が支配的な地域や国ぐににかなり波及した。少なからぬ人たちが反資本主義闘争においてアナーキズムが一定の役割を果たしているかのように評価する重要な理由の一つは、ここにあるのである。

 労働者階級の党のなかには、地主、資本家の反動政権を打倒するたたかいに、アナーキズムの勢力を引き入れた例もあった。ソビエト政権が国内戦争当時、ウクライナのアナーキスト集団マフノ徒党と合作したことは、よく知られている事実である。

 抗日遊撃隊内に極端な軍事民主主義が胎動していたころ、アナーキズム的傾向は一定の社会階層、とりわけ小市民階層の革命性を誇示する一種の政治理論として存在しつづけ、労働者階級の革命理論と実践に無視できない害毒を及ぼしていた。

 だからといって、極端な民主主義は、アナーキズム的傾向としてだけ表現されるものではない。国際労働運動内に発生した修正主義者の行動もまた、極端な民主主義と一脈通じるところがある。彼らは、民主主義のベールをかぶって、ブルジョア自由主義とアナーキズム、無節制、無秩序を助長し、社会的混乱と放縦を引き起こした。このことを念頭におくとき、極端なブルジョア民主主義とアナーキズムは思想的に共通しているという結論に到達せざるをえない。

 極端な民主主義が軍事分野に入りこめば、それはアナーキズム的な混乱を引き起こすことになる。極端な軍事民主主義を適時に克服しなければ、遊撃隊の建設と軍事作戦に予想外の弊害をまねき、革命運動の発展全般に少なからぬ支障をきたすであろう。

 わたしが極端な軍事民主主義の克服を決心し、それに取り組んでいたころ、十里坪では遊撃区創設後1年半の活動を総括し、敵の大討伐に対処して遊撃区の防衛対策を講ずる東満州遊撃隊指揮官・政治委員の会議が開かれた。

 わたしはここで、金日竜と金正竜に会った。金日竜は安図遊撃隊の隊長で、金正竜はその政治委員であった。和竜県からは、張隊長と政治委員車竜徳が、延吉県からは総隊長朱鎮、隊長朴東根、政治委員朴吉が参加した。琿春からも代表が参加したが、誰であったか思い出せない。

 会議では、部隊の指揮、管理における極端な軍事民主主義の克服対策も討議された。わたしは、遊撃隊を指揮するうえでの基本は、指揮官の決心であり、厳正な中央集権的規律と秩序を確立することである、部隊の指揮、管理では政治的働きかけを優先させることである、と主張した。隊内では上下の区別が明白かつ無条件的であり、指揮官は上部の命令を断固として実行し、いったん決心したことはあくまでも貫かなければならない。指揮官はつねに能動的に指揮し、複雑、困難な状況を前にして動揺したりためらうべきでなく、決断力をもって行動しなければならない。しかし、部隊の指揮にあたって主観や独断に走ってはならない。指揮官は、上級の命令実行と戦闘の指揮において大衆の力と知恵に依拠すべきである。指揮官は命令一つで部隊を指揮するのではなく、なによりも政治的働きかけによって、隊員の自覚的熱意を呼び起こさなければならない。現代戦は一騎討ちによって勝敗を決する奴隷制時代や封建時代の戦争とは違い、軍隊と人民が一丸となって戦う現代的人民戦争である。戦いの勝敗は、どちらが軍民の熱情と創造的積極性をより大きく発揚させるかにかかっている。軍民の熱情と創意を引き出すためには、必ず政治的働きかけを優先させなければならない。党会議、全隊会議、アジテーターの解説、宣伝などは、いずれもその有力な手段である。したがって、指揮官はそうした手段を効果的に活用しなければならない…

 わたしがこの会議で強調した内容は、およそこのようなものであった。

 わたしは琿春遊撃隊が大荒溝で犯した過ちを批判し、13勇士の犠牲をまねいた極端な軍事民主主義の弊害を説いて各県遊撃隊の代表に警鐘を鳴らした。

 ここで触れたいくつかのエピソードや、それらが包摂している幼稚で小児病的な、極端な民主主義の傾向について、いまの若い人たちはよく理解できず、まさか、と首をかしげるかも知れない。しかし、それは本当にあったことである。

 武装闘争の開始当時、軍内に極端な軍事民主主義が入りこんだのは、根拠地の防衛と統一戦線の重荷をになって部隊を管理しなければならなかったわれわれにとって、大きな試練といわざるをえなかった。

 わたしは会議で、民主主義にもとづく個人責任制の原則に立って、部隊を指揮、管理すべきであることを重ねて強調した。

 大荒溝事件後、遊撃隊内には、二つの相反する主張が現れた。一つは、指揮官の唯一管理制を実施すべきだというものであり、いま一つは、民主主義的部隊管理原則を固守すべきだという主張である。両者にはともに一長一短があった。唯一管理制を絶対視すれば、部隊の指揮、管理で独断と主観が助長され、民主主義を絶対視すれば、部隊の指揮、管理で迅速性と敏捷性が麻痺する。そこでわたしは、民主主義にもとづく個人責任制の原則を提起し、それを討議に付した。

 民主主義にもとづく個人責任制とは、党組織の集団的な討議、決定にもとづき、指揮官が責任をもって部隊の指揮、管理にあたるということである。民主主義にもとづく集団的合議制は、随時に持ち上がる複雑、困難な軍事的課題を、大衆の集団的な知恵によって円滑に遂行することを可能にし、それにもとづく個人責任制は、高度の迅速性と決断力、行動の一致を前提とする軍事的要求に即応して指揮官の責任感と役割を高められるようにした。

 わたしはまた、抗日遊撃隊内に整然とした命令体系を確立し、鉄の規律をうち立てるべきであることも強調した。指揮官の命令はある個人の意思の反映ではなく、上級機関の民主的・組織的意思の発現である。軍事命令は、法的性格をおび、上官は自分が下した命令にたいし法的な責任を負う。隊員は決して命令にたいし加減したり、駆け引きをしてはならず、いかに困難な状況のもとでも、時間をたがえず確実に実行しなければならない。指揮官は、命令の実行を正しく指揮し、統制しなければならない。

 われわれはまた、共産主義思想の学習を強化し、極端な軍事民主主義が求める幼稚な平等主義やアナーキズムなど小ブルジョア思想との闘争を強めて、隊内に健全な思想的雰囲気をつくりだす問題と上下一致の革命的気風を確立する問題についても討議した。

 十里坪会議は、遊撃隊指揮官の覚醒を促した。そして、うちつづく戦いの試練を通して、極端な軍事民主主義は完全に克服されたのである。

 抗日戦争の初期に極端な軍事民主主義が克服されていなかったとしたら、解放後、あのきわめて短い期間に、人民軍を不敗の隊伍につくりあげることはできなかったであろうし、したがって、アメリカをかしらとする帝国主義の国際的連合との戦いで、勝利をかちとることもできなかったであろう。

 今日、朝鮮人民軍のなかには、無原則な平等や平均主義を主張したり、上官の命令にたいし駆け引きをするような者はいない。指揮官の命令に、兵士はただ「わかりました!」の一言で答えるだけである。朝鮮人民軍は、軍人宣誓をした日から除隊証を渡される日まで、一貫して上下一致、軍民一致、自力更生、刻苦奮闘の精神で生きる忠臣の集団である。

 人民軍の軍人が民主主義をどう理解しているかを知りたければ、彼らの「党が決心すればわれわれは実行する!」という戦闘的スローガンを見れば十分であろう。軍人のあいだで発現されている上下一致の真髄を知りたければ、一命を投げうって多くの戦友を救った金光哲(キムグァンチョル)英雄と韓英哲(ハンヨンチョル)英雄の最期を見ればよくわかるであろう。

 極端な軍事民主主義は久しい前に克服されたが、それとたたかう問題は今日もその意義を失っていない。われわれは民主主義を擁護するが、極端な民主主義には反対し、平等を主張しても、過度の平等主義はタブーとしている。極端な民主主義や平等主義は、ともに修正主義を引き入れる媒介物だからである。

 地球上には、朝鮮式の社会主義を修正主義の病菌で汚そうとやっきになっている勢力が少なくない。しかし、朝鮮人民と人民軍は、修正主義の浸透を決して許していない。われわれは、朝鮮労働党が極端な民主主義によってクラブ化し、市の場と化するのを望んでいない。極端な軍事民主主義によって強要された抗日戦争当時の陣痛と、東ヨーロッパの教訓がそれを強調しているのである。



 


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