金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 東寧県城戦闘


 羅子溝談判後、反日部隊連合弁事処は救国軍工作を活発におこない、近隣の山林隊にも働きかけて反日連合戦線への参加を促した。

 わたしは弁事処の助力を得て1933年9月初旬、羅子溝付近の老母猪河で、呉義成、史忠恒、柴世栄、李三侠などの反日部隊指揮官と東寧県城(三岔溝)攻略作戦を討議するための連合会議を開き、作戦方針を最終的に確定した。呉義成司令の提案で、わたしが作成した作戦計画が満場一致で採択されたのである。

 われわれが羅子溝談判後ただちに東寧県城を攻撃せず、2か月以上の準備期間をおいたのは、この戦闘の意義をとくに重視したためであった。わたしは、この戦闘を抗日遊撃隊の公然化を完成する突破口とみなし、遊撃隊と救国軍の統一戦線協約も、この戦闘の勝敗によって実効いかんが決まるものと判断した。

 戦闘が上首尾に終われば、反日部隊との連合戦線の土台は強固になり、失敗すれば、羅子溝談判の結実が無に帰し、構築されつつあった連合戦線は崩壊するであろう。そればかりか、数々の血戦を通してようやく積みあげた抗日遊撃隊の軍事的権威にも傷がつく。救国軍が統一戦線のせいで破滅したと慷慨すればたいへんなことになるのだ。

 われわれにとって、それは大きな試験ともいえた。われわれの偵察資料と地方組織からの通報によれば、東寧県城には石田指揮下の500人ほどの関東軍兵力と頃連隊長麾下の満州国軍1個連隊が駐屯し、さらに満州国の警察と自衛団が集中配備されていた。それに、彼らは大砲など近代兵器をそなえた堅固な城塞にこもっていた。

 反日部隊指揮官のなかには、東寧県城占領の可能性は30%にすぎないとみる者がいた。彼らは、連合会議の席上でも、攻撃側の兵力は防衛側の3倍にならなければならない、これは世界が公認する軍事教範の要求である、ところが、敵の兵力に比べてわが方はあまりにも劣勢であると懸念するのだった。

 しかし、呉義成など他の指揮官たちは、それは李青天が学んだという日本陸軍士官学校あたりでしか通じない生兵法だから一顧の余地もない、と彼らの弱腰を戒めた。以前、救国軍が東寧県城の攻略に失敗したこともあって、一部の指揮官が「無敵皇軍」を豪語する日本軍の神話に恐れをなし、彼らを過大評価するのは無理もないことであった。

 連合会議で作戦計画が採択されると、反日部隊連合弁事処は、胡沢民の助言のもとに、戦闘に参加する兵力を各部隊に割り当てた。

 われわれの遊撃隊は、汪清、琿春、延吉からそれぞれ1個中隊程度の兵力を参加させることにし、各中隊を羅子溝に呼んだ。わたしが引率した汪清中隊と白日平(ペクイルピョン)大隊政治委員が指揮する琿春中隊は、1933年8月末、羅子溝付近で感激的な対面をした。しかし、連絡に行き違いがあって、延吉中隊は惜しくも集結場に到着できなかった。そのとき、延吉大隊からは、部隊最強の崔賢中隊が選ばれていた。出発を前にして崔賢は、各隊員に実弾150発と履き物1足ずつを分け与えた。北洞を発った中隊が強行軍をつづけて馬村に到着したのは、われわれが東寧県城戦闘をすませて小汪清に帰っていた9月中旬のことであった。

 汪清中隊と琿春中隊は、救国軍将兵と住民の熱烈な歓迎を受けながら羅子溝に入城した。そのなかには、近郷の農民も少なくなかった。彼らの熱狂的な歓迎から、当地方の反日組織の熱い息吹を感じることができた。

 手を振り歓声をあげる人びとの背後には、崔正和(チェジョンファ)のような有能な革命家がいた。彼は羅子溝反日会長であったが、表面上満州国に仕えながら、内実は反日兵士委員会メンバーの資格で救国軍工作に専念し、われわれが羅子溝で示した反日共同戦線路線の正当性を広く宣伝していた。彼は、人民に働きかけて救国軍部隊に多くの食糧や布類も提供した。

 わたしは中国人街で部隊を整列させ、抗日救国を呼びかける演説をおこなった。ついで兵士の踊りと歌がくりひろげられた。道路ぎわの中国人商店主たちも店を閉めて見物に集まった。反日人民遊撃隊と救国軍が兄弟のように交歓する羅子溝の町は、お祭りのように賑わった。朝鮮人街も中国人街も全城市が楽しい雰囲気に包まれたのである。

 若者たちは人民遊撃隊のうわさを聞くと、金隊長を一目見ようといって押しかけ、金隊長は平安道の人だ、咸鏡道だ、いや慶尚道の生まれだなどと言い争った。

 子どもたちは、38式小銃や弾帯を珍しそうにさわってみたりした。隊員は一人当たり、3つの弾帯を帯びていた。1つは腰にまわし、2つは両肩からかけ合わされており、1弾帯に100発、合わせて300発である。

 「祖国を取りもどすために苦労なさっているみなさん! 昼ご飯を一緒にいただきましょう」

 女性たちが集まってきて、遊撃隊員の腕を取って思い思いに引いた。そこには、羅子溝から4キロ、8キロと離れたところから昼食を用意してきた人たちも少なくなかった。

 羅子溝に到着したその日、わたしは反日部隊連合弁事処員の案内で呉義成司令の宿所を訪れた。すでに顔なじみのわれわれは、なごやかに談笑した。6月の最初の談判のときのような腹を探り合うものではなく、人間対人間の虚心坦懐な心の触れ合いであった。

 羅子溝に向かうとき、なによりも憂慮したのは、その間に呉司令が東寧県城戦闘を断念したのではなかろうかということであった。李青天のように、われわれとの合作を快く思わない者たちが、呉義成に東寧県城戦闘を思いとどまらせ、われわれと救国軍の関係を協商以前の状態に引きもどそうとしたのではなかろうか?… 反日部隊連合弁事処からは、李青天が抗日遊撃隊と救国軍との合作を流産させるよう柴世栄にけしかけている、呉司令にもその影響が及ぶおそれがある、とたびたび知らせてきていた。

 しかし、それは杞憂だった。呉義成の統一戦線意志には変わりがなく、東寧県城の攻略を果たして、往年の敗北を挽回しようという決心はかたかった。呉司令がなによりも恥じていたのは、1932年末、日本軍に羅子溝を攻撃されてこうむった敗北であった。十数機の飛行機と数百の兵力をもって、日本軍は救国軍を容赦なく蹴散らした。羅子溝は廃墟と化し、救国軍は、城南村、新屯子、石頭河子などに追われた。

 「数の上では、わしらが日本軍より優勢だったが、それでも羅子溝を明け渡して山奥に逃げた。あのときのことを考えると、口惜しくていまも眠れない。羅子溝を占領した日本軍は、生きた人間の首を切り落として南門にさらしたが、わしらは仕返しもできず山奥にこもっていた。日本軍は恐ろしいとばかり思いこんでいたもんでな。なんとも恥ずかしい話だ。今度こそ東寧で思う存分仕返しをしてやる」

 呉司令はこんなことを言いながら、たびたび腰の拳銃に手を触れた。復讐心に燃えるその態度からも、彼の決心のかたさがよくわかった。統一戦線の前途のためにも望ましい兆だった。

 その日、わたしは潘省委と膝を交えたときのように、わたしの経歴をかいつまんで話した。呉義成も返礼にその経歴を語った。郷里が山東省東昌のどこそこだということや、彼に呉紀成という別名があったことも、そのときのざっくばらんな閑談を通じて知った。談話中、呉司令の宿舎の屋上には、二人の遊撃隊員が歩哨に立ち、救国軍のほうでも指揮部周辺に水も漏らさぬ警戒陣を張っていた。

 うわさに聞いたとおり、呉義成はその日も、虎の敷き皮に体を横たえていた。肥大な体が不便なのか、椅子に座って格式張った談話をするのを好まないようであった。それで、わたしもおのずと木枕に片ひじをあて、半ば横になって話すことになった。

 彼は部下に、この方は大事な方だから、昼食の支度に粗相がないようにと言いつけた。わたしは、食事は用意させてあるから、心配には及ばないと辞退した。そのとき、わたしの食事の世話をしてくれていたのは、顔にあばたのある中国人隊員であった。呉司令は、わたしの中国語が気に入ったようであった。父のおかげで上達した中国語が、呉義成と親しむうえでも大いに役立ったのである。汪清中隊と琿春中隊は、羅子溝で重ねて大衆政治工作方途を討議した。わたしは遊撃隊員たちにこう強調した。

 …救国軍が将来どの道を進むかということは、今度の戦いにかかっている。遊撃隊が先頭に立ってりっぱに戦えば救国軍はわれわれのあとにつづき、そうでなければ背を向けるだろう。だから、諸君は日常生活はもちろん、戦場でもつねに手本にならなければならない。今度の戦いは、何挺かの銃やいくらかの米を得るためのものではなく、統一戦線のための戦いだ。われわれは、この戦いに統一戦線の運命をかけている。戦利品は残らず救国軍に譲ろう。彼らがアヘンに手をつけようと、なにに手をつけようと関知することはない。しかし、政治的道徳的な面では、譲歩がありえないということを忘れてはいけない…

 反日部隊の指揮官のなかで、東寧県城戦闘方針を誰よりも積極的に支持したのは、史忠恒旅団長であった。抗日遊撃隊が羅子溝に滞留していたとき、わたしと史旅団長のあいだには国籍と所属を越えた真実の友愛が芽生えた。遊撃隊と救国軍の大部隊が羅子溝を発ち、東寧県城に向けて行軍していたときも、彼はずっとわたしのそばにいたがった。宿営もわれわれの隣でし、戦場でもわたしの部隊と行動をともにすることを望んだ。羅子溝から東寧県城まで数十里を行軍する日々に、わたしと史旅団長はさらに深く理解し合った。

 9月初めに羅子溝を発った遠征部隊は、何日も路上を行軍した。その行軍は、朝鮮共産主義者の高潔な革命精神と真の人間的風格を見せる場となり、抗日遊撃隊と救国軍の政治的・道徳的格差は、実生活と行軍の中で歴然と現れた。われわれは、どこでも人民の軍隊らしく行動した。祠を見かけても、こわすことはもちろん、供え物に手をつけたり、欲しがったりするようなこともしなかった。中国人の村に入れば交歓会をしたり、ポスターを張り口頭宣伝をしたりした。他の部隊は住民になにかと迷惑をかけたが、われわれは住民の手助けをして、水を汲み、臼をひき、脱穀を手伝い、垣根の手入れなどもした。朝鮮人村では、伝記物語も読んで聞かせた。すると、住民は、民衆を尊重するりっぱな軍隊だと感動し、餅をつき、豚をつぶした。彼らは、ほかの部隊はどれも柄が悪く、粗暴だが、金司令の部隊は上品で、気さくで、人情も厚いので、自分の肌でもそいであげたいほどだ、といってほめたたえた。われわれが人民を心から愛し、人民もまたわれわれを支持し、誠心誠意歓待する光景を目のあたりにして、史忠恒旅団長は、親指を立てて見せながら、金隊長の軍隊は世に二つとない粋な紳士軍隊だ、と称賛してやまなかった。彼は自分の部下にも、金隊長の率いる共産党の軍隊を手本にせよと、たびたび訓戒した。

 「いま、行軍の先頭で、救国軍の恥をさらす者がいるが、諸君はそれを見習ってはいかん。品行が正しかったら、天もご照覧のはずだ。この旅団に女をからかったり、ひとの財産に手をつけたり、農民を怒鳴りつけたりする不届き者が現れたら、誰であれ厳罰に処する。いいか」彼の訓戒は効能の高い覚醒剤となった。

 救国軍のなかには、暗闇のなかで稲むらを見ても日本軍だといって逃げ出す者があった。こんなことがたび重なると、わたしは遊撃隊を行軍の先陣に立たせ、救国軍はそのあとにつづくようにした。このなんでもない措置が遊撃隊員を発奮させた。彼らは、東寧県城戦闘の勝敗は、稲むらを日本軍と見間違える救国軍にではなく、自分たちにかかっている、したがって、統一戦線の車輪を動かす決定的な力も自分たち自身にあると痛感し、一路行軍を急いだ。

 遊撃隊員は、行軍中も学習をつづけた。ときには、深刻な政治問題をもって論争もした。

 「姜君、なぜ東寧県城を攻略するのか、わかりやすく説明してくれないか。羅子溝で隊長の説明を聞いたときは、ちゃんと理解できたようだったが、いまは、どうもわかったようでわからん」

 遠征軍が老黒山の近くへさしかかったとき、汪清中隊のしんがりで一人の隊員がもっともらしく持ち出した質問であった。わからずに聞いたのではなく相手がどれほど理解しているかを確かめようとしたのである。質問された隊員も隅に置けなかった。

 「ほう、さては他人のゴボウで法事をするつもりだな。そんなに物覚えが悪いんなら、教えてやろう。ついでだから、かぞえ歌で聞かせてやる」

 彼は、相手に応答する暇も与えずほんとうにかぞえ歌をうたいだした。


  ひとつとせ!
  百雷落ちてもたじろぐな
  たじろぐな
  統一戦線張るのが第一だ
  第一だ

  ふたつとせ!
  不抜の革命城塞遊撃区
  遊撃区
  ソ満国境へ広げよう
  広げよう

  みっつとせ!
  身を切る寒風もここちよい
  ここちよい
  ソ連へのルートを開くこと
  開くこと
  … … …


 質問した朴隊員は感心したように口をあんぐりさせた。

 「ひゃあ、見上げたもんだ。おれのような石頭にも、東寧県城攻撃の目的が、空に輝く十五夜の月のようにはっきりしてくるよ」

 実際、汪清中隊の姜隊員はそれだけの称賛に値した。第1次世界大戦の錯雑とした経緯もかぞえ歌でうたいあげ、9.18事変の勃発から満州国成立までのおぞましい政治的災厄のなりゆきも、かぞえ歌の旋律に要領よくまとめてしまうのである。

 東寧県城戦闘の目的をわかりやすく解いたかぞえ歌は、たちまちのうちに、汪清中隊から琿春中隊へ、琿春中隊から史忠恒旅団へ、そして柴世栄部隊へと広まった。救国軍兵士のなかには、行軍中にもかぞえ歌をうたう者があった。救国軍は、遊撃隊の手本に見習おうと努めた。

 しかし、救国軍の将兵すべてがそうしたのではなかった。なかには、戦利品の分け前を考え、一攫千金を夢みる者も少なくなかった。部隊の活動地域をソ満国境へまで広げようとか、遊撃隊との統一戦線を成功させて満州を取りもどそうなどという、抗日の崇高な理念を話題にする者はほとんどいなかった。

 「おい、東寧を占領すれば、アヘンがどっさり手に入るかな」

 遊撃隊のあとにつづく史忠恒部隊の兵士が、仲間にこう話しかけた。

 「そうだな。満州国軍が1個連隊もいるそうだから、アヘンは多いはずだ。アヘンのない満州国軍なんて考えられんからな。ところで、アヘンを吸わん男が、なんでそんなことを急に聞くんだ」

 話しかけられた兵士は、いぶかしそうに見返した。

 「それもわからんのか。アヘンはカネだし、カネはアヘンじゃないか。腰に1万両つるしていれば、コウノトリに乗って楊州にも行けるというものだ」

 「それもそうだ。杭州見物もカネがなくちゃできないからな。おまえは1万両のアヘンをさげて、杭州にも徐州にも行くんだな。おれはただ、日本製の懐中電灯が一つ手に入ればいいんだ」

 「たかが懐中電灯くらいのことで心配することはない。日本軍がうようよしているのに、懐中電灯の一つぐらい。…」

 「ばかなことをいうな。アヘンも懐中電灯も戦いに勝たなくては手に入らんのだぞ。東寧県城がそんなにやすやすと落ちると思うのか」

 聞くともなしに聞いたこの会話に、わたしの心は重くなった。

 戦利品のことしか念頭にないあの救国軍兵士たちが、果たして「無敵皇軍の勇士」と白兵戦が戦えるだろうか? 中華民国万歳を叫び、肉弾となって砲台めがけて突進できるだろうか? 彼らの言動やいんうつな目には、なにかしら信頼しがたいものがあった。それは不吉な兆候であった。

 老黒山では、汪清遊撃隊と琿春遊撃隊の交歓会がもたれ、いま一度東寧県城戦闘の目的と軍事的・政治的意義を認識させる政治工作が進められた。それから、東寧県城近辺の高安村、烏蛇溝一帯に進出して敵情を確かめ、戦闘計画を確定した。その夜、われわれは、東寧付近の地下党組織も探し出した。それは、潘省委が綏寧中心県党委員会の書記を勤めていたころ、東寧、高安村、新立村、老黒山などに設けて指導した組織であった。それが1932年の春に発覚して敵の追跡を受け、一部は汪清に逃れ、一部は東寧に残って地下にもぐった。そのさい、潘省委は、党員や共青員だけでなく遊撃隊員や一般大衆も多数汪清に移動させた。

 彼は琿春へ向かうさい、東寧を訪れる機会があったら地下にもぐっている党員と共青員を探し出して、組織とのつながりをつけ、自分に代わって面倒を見てほしいといった。わたしはそれを忘れず、羅子溝で大衆政治工作要綱を発表するさい、住民政治工作に力を入れ、東寧県の地下党組織を再建するよう強調した。

 わたしは、高安村付近で探し出した数人の党員をもって東寧県地下党を復活させ、羅子溝地下党がその指導をおこなうよう、両組織のつながりをつけた。この地下党組織はその後、われわれに多くの情報を提供した。彼らの援助で、ソ連へのルートも容易に開くことができた。東寧県地下党は、われわれが与える秘密工作任務を忠実に果たしたし、1940年代まで健在だった。小哈爾巴嶺会議後、朝鮮人民革命軍部隊が白頭山密営とソ連領ハバロフスク周辺の訓練基地を拠点にして小部隊活動をくりひろげたころ、われわれは主に東寧のこのルートを利用した。多くの小部隊がそこを通って国内や間島に向かい、逆に白頭山からソ満国境地帯に入りもした。国内に派遣された個々の工作員も、沿海州に入るときはたいていこのルートを利用した。

 ソ満国境一帯で偵察活動を活発にくりひろげた全文旭(チョンムンウク)のグループも、東寧地下党組織の援助を受けた。当時、東寧県の向こうのソ満国境地帯で軍務生活をしていた国際主義戦士ヤ・テ・ノビチェンコも、朝鮮人民革命軍の小部隊がこのルートを通って行き来するのをよく見かけたと回想している。東寧の地下組織は、対日作戦時にも、敵の背後攪乱に積極的な役割を果たし、東寧県城の解放に大きく寄与した。

 わたしは、高安村付近の住民や地下組織メンバーとの談話を通して、東寧県城の満州国軍連隊長は満州国に仕えているとはいえ、反日感情が強いこと、満州国軍と日本軍守備隊の関係は表面上平穏に見えるが、内面は軋轢がはげしいということも知った。

 連隊長は県城内の中国人商店主らと親しく付き合っており、彼らの頼みごとを快く聞き入れているという。地下党員たちは、商店主らとなじみが深かった。わたしは地下党員に任務を与え、中国人商店主に働きかけて、連隊長をわれわれとの合作に応じさせるようにした。

 東寧県城戦闘は、1933年9月6日の夜から翌日の昼にかけておこなわれた。抗日戦争全般を通じて、1つの戦闘に2日間もかけた例はほとんどなかったと思う。

 東寧県城の攻略で重点をおいたのは、西門外の稜線に2段づくりになっている西山砲台を奪取することであった。そこには、何挺もの重・軽機がすえられていた。砲台と日本侵略軍本部のあいだには、深い交通壕と地下秘密通路があって、有事には予備部隊がいつでも投入され、攻撃を牽制できるようになっていた。以前、救国軍が東寧県城の攻撃に失敗したのも、この西山砲台のためであった。

 わたしは、防御任務を遂行する琿春中隊をチャジャク谷に配備し、汪清中隊を西山砲台の攻撃にまわした。

 夜9時、敵陣にひそかに接近した遊撃隊の破壊グループは、城市攻撃開始を告げるわたしの銃声を合図に、西山砲台に一斉集中射撃を加えた。敵軍は交通壕と地下秘密通路からたえまなく兵力を増強し、熾烈な火力戦が数時間つづいた。

 わたしは、西門から市内に突入した遊撃隊員に敵の兵営を封鎖させる一方、一部兵員を砲台の北側に迂回させて敵の火力を分散させたあと、破壊グループに、猛烈な手榴弾攻撃を加えて西山砲台を占領するよう命じた。夜が明けそめるころ、砲台はようやく抵抗をやめ、静かになった。わが主力部隊は、日本軍守備隊の兵営を完全に包囲し、敵の必死の反撃企図を制圧した。日本軍は北門から敗走した。

 便衣隊として市内に潜入していた救国軍部隊と、東門と南門から城市に突入した救国軍部隊も、それぞれの位置で戦った。

 満州国軍の本営では、協同して日本侵略軍と戦おうというわれわれの申し入れに同意した。合作が成功すれば、城市は完全に陥落するはずであった。

 ところが、このとき柴世栄麾下の一部部隊が満州国軍の占めている商店を荒らし、民家に押し入るなどの略奪行為を働きはじめた。これに怒った満州国軍は、約束を取り消して猛烈に抵抗し、日本軍守備隊がこれに合流した。救国軍の一部の部隊は、驚いて占領区域を放棄し、城門外に逃走しはじめた。

 一方、遊撃隊は、決死の市街戦によって占領区域を広げ、敵兵を県城の一角に追いつめた。救国軍もこれに力を得て、兵器廠を占領し、軍需品置き場を攻撃した。市街戦は数時間つづいた。

 連合作戦の目的が基本的に達成されたと認めたわたしは、全軍に撤収命令を下した。遊撃隊は、主動的に城外に撤退する救国軍部隊を火力で掩護した。史忠恒旅団長が重傷を負って城市内に倒れているという報告を受けたのは、そのときであった。彼の部下は、旅団長を死地に残して城門外に退却してしまった。副官さえも彼を助けようとせず、命からがら城門の外に逃げだしてしまった。わたしのまぶたに、戦利品の話をしていた救国軍隊員の姿が浮かんだ。彼らがアヘンや日本製の懐中電灯に目がくらんでいたとき、わたしはただ、略奪とそれが全般的戦闘の進行に及ぼす影響を憂慮するのみであった。実際、そのような略奪は戦いのさなかに発生した。

 ところが、彼らは、上官を平気で見捨てる驚くべき行為までしたのである。およそ、軍人というのは、上官を父とも母とも頼むものである。だから、救国軍は、父母を死地に見捨てて逃げたことになる。わたしは戦争にかんするエピソードをいろいろと聞いてはいるが、こんな不孝者の話は一度も聞いたことがない。救国軍の略奪と上官を捨てて逃げる不忠不孝には一脈相通ずるものがある。物欲が結局、生命にたいする極端なエゴと、卑怯さに転化したのである。家で漏れる容器は外でも漏れるという祖先が残した名言には、なんと深い生活の真理がこもっているではないか。

 戦いは、日常生活の延長であり総括ともいえる。軍人の戦闘成果は、戦場ではなく、平時の生活ですでに決まるといっても過言ではない。戦いは、その日常生活の反映であり、端的な表現にすぎないのである。

 歴史は、道徳的に退廃した軍隊が勝利者の壇上にあがった例を知らない。ヒトラー・ドイツのナチス軍が敗戦の泥沼に陥没したのも、彼らが、人倫を否定し、戦車で善と美を踏みにじった道徳的敗北者であったことに主因がある。無敵を誇った日本軍が落日の運命をまぬがれなかったのも、軍隊の道徳的腐敗にあった。日本は、日本軍を世界でもっとも野蛮で恥知らずな軍隊だと糾弾し、憎悪する数十億の善良な人民と、国際的連合軍の包囲の中で窒息せざるをえなかったのである。

 日本軍のように、戦場に「慰安婦」まで連れて歩きながら他国を侵略し、人間を屠殺した例は、世界の戦史にまたとないであろう。

 戦争は、力の対決にとどまらず、道徳と倫理の対決でもある。戦争過程で道徳の影響力を無視するか、道徳そのものを無用の装いとみなすなら、そのような軍隊は一つの巨大なごみの山のようなものである。

 わたしは、崔春国(チェチュングク)に史忠恒の救出を命じた。崔春国は、命を賭して遂行した。遊撃隊は生命を賭して救い出した史忠恒を背負って、火力に掩護されながら高地に無事撤収した。遊撃隊員たちは、上官を見捨てた史忠恒の部下を、不届き者だとののしった。救国軍隊員の行為を思えば、そのような非難は当然であった。しかし、そのことで遊撃隊と救国軍のあいだにひびが入るようなことはなかった。

 東寧県城戦闘の意義は、敵軍を数百人殺傷したことにだけあるのではない。大切なことは、この戦いによって救国軍が朝鮮共産主義者を完全に信頼するようになったことである。反日人民遊撃隊は東満州で、以前と同じように赤旗をかかげて公然と活動できるようになった。東寧県城戦闘は救国軍の意識に、朝鮮共産主義者の正しいイメージを植えつけたのである。

 それ以来、中国の反日部隊は、われわれに危害を加えようとする者があれば、進んでわれわれをかばい反撃を加えた。

 「1933年9月7日は、わたしが二度目の生命を得た日だ。いままでの生命は両親から授けられたものだったが、9月7日以後の生命は金日成司令からいただいたものだ。金日成司令は、わたしの生命の恩人であり、抗日遊撃隊はわが救国軍のいちばんの兄弟だ」

 これは、史忠恒が意識を取りもどしたときにいった言葉である。彼の口をとおして、抗日遊撃隊は、じつに犠牲心に富んだ軍隊であり、同志的義理に厚い軍隊である、という伝説的なうわさが満州各地に広まった。

 東寧県城から羅子溝まで数十里の帰途、わたしはずっと史旅団長につきそった。初日は、遊撃隊員が担架で運んだ。救国軍の兵士たちは、上官が遊撃隊員の担架で運ばれているのを見ても、あえて近づくことができず、遠くから眺めているだけであった。

 副官が隊員と一緒にやってきて司令を引き取りたいといったが、遊撃隊員は彼らを追い払ってしまった。副官が3度目にやってきたとき、わたしは、史忠恒の横たわっている担架を救国軍に引き渡すよう命じた。彼らも自覚のある人間だから、もう自分たちの過失を反省しているはずだ、彼らに担架を運ぶ権利だけでも譲れば、戦場で犯した罪をいくらかでもつぐなわせることができるだろう、と遊撃隊員に言い聞かせたのである。

 史忠恒を引き取った救国軍の兵士たちは、申しわけなさそうに頭を下げた。史旅団長は部下に見捨てられたことをたいへん残念がりながらも、兵士の卑怯な行為にたいしては、上官の立場からむしろわたしに許しを請うた。

 「金司令! あの出来ぞこないどものために、会わせる顔がない。わたしが部下をしっかり仕込めなかったせいだから、あれらを叱らずにわたしを叱ってくれ」

 部下の恥辱をおのれの恥辱とする彼の態度に、わたしは感動した。史忠恒が部下にあたり散らしたり、少しでも恨みごとをいっていたなら、わたしはさほど心を動かされなかったであろう。彼はじつに闊達で、度量の広い武官であった。

 「中国のことわざに、甘いマクワウリにも苦いへたがあるというのがありましたね。いつでも嫌気のしない人間などいるはずがなく、いつでも美しい花というのもないでしょう。史旅団長が致命傷を負いながらも、こうして元気を取りもどしたのですから、わたしはそれで満足です」

 「馬を買うなら歯を見よ、人と付き合うなら心を見よという言葉がある。金司令のような人と知り合ったのは、天から授かった好運と考え、それを生涯大事にするつもりだ」

 史忠恒はわたしより12、3歳年上だったが、反日共同戦線を張る途上で、わたしと血を分けた戦友となり、同志となった。東寧県城戦闘後、彼は部隊の駐屯地を馬村からほど遠くない西北溝に移した。二人は親類を訪問するようにたえず往来し、親交を温めた。

 史旅団長の銃創の治療に役が立てばと、わたしはいろいろと薬を贈り、彼が正しい思想に目覚めるよう共産主義的な影響も多く与えた。そうするなかで、彼は共産党に入党し人民革命軍の指揮官に成長した。

 史忠恒は、1934年6月の羅子溝戦闘でも反日連合作戦を成功させるためりっぱに戦い、人民革命軍に編入されてからは、独立第2師師長として多くの武功をたてた。彼は戦場ではつねにモーゼル拳銃をかざし、真っ先に敵陣に突入したものである。それで彼の部下は、史旅団長のようにりっぱな指揮官はいないとまで考えるようになった。他の救国軍部隊の兵士たちも史旅団長を尊敬し、心から慕った。彼らのなかには、自分の部隊を捨てて史忠恒の部隊に移ってきた者も少なくなかった。

 史忠恒は、老松嶺戦闘でも先頭に立ち、腹部に致命傷を負った。銃弾が腹部に残っていたので、それを取り除くためソ連へ運ばれていったが、彼地で息を引き取った。史旅団長の追悼式がおこなわれたと聞いて、わたしは深い悲しみに包まれ、追憶にひたった。

 東寧県城戦闘を通して、抗日の志でわれわれと強く結ばれた柴世栄もやがて人民革命軍に編入され、第5軍副軍長をへて軍長になった。彼は北満州を活動拠点とし、周保中の下でわれわれとの兄弟的連帯をかためるために多くの努力を傾けた。1940年代前半期まで、柴世栄とわたしは強く結ばれていた。

 東寧県城戦闘で、抗日遊撃隊と反日部隊の共同戦線が切るに切られぬほど強固になったとき、その共同戦線を瓦解させかねない、思わぬ出来事が発生した。発端は、蒋介石を賛美した呉義成の発言であった。羅子溝に帰ったわれわれは連合集会を開き、共同で東寧県城戦闘の総括をおこなった。集会で最初に発言した呉司令は、連合部隊の勝利に触れながら、なにを思ったのか、だしぬけに蒋介石を称賛し、南方の蒋介石から大砲や軍隊を送ってもらえば、東北の抗日戦争が今後も勝利一路をたどるであろうといった。それが遊撃隊員の憤激を買ったのである。琿春遊撃隊の引率者白日平は、それを聞くとやにわに壇上に駆け上がり、蒋介石が帝国主義の狗だということを知らない者はない、その彼がどうしてわれわれを援助し、指導することができるのか、蒋介石を擁護し、たたえる呉司令は反動だと決めつけた。

 呉義成は真っ赤になって怒り、白日平を逮捕し、銃殺すると息まいた。

 今度は、白日平の隊員たちが激昂した。おれたちは東寧県城の戦いで一人の隊員も失わなかった、統一戦線のために上官を失うというのはもってのほかだ、指揮官を失ってはおめおめと琿春に帰れない、たとえ、みんな討ち死にするようなことがあっても、最後まで呉義成と戦って、白日平同志を救い出そう。彼らはこう口々に叫んで銃を構えた。救国軍も彼らに銃を向けた。

 一度銃声が上がれば流血の惨事が引き起こされ、せっかく成功した統一戦線が崩れ去る一触即発の瞬間を目の前にして、呉義成は顔面蒼白になり、唇をぶるぶるふるわせていた。

 わたしは演壇の前に進み出て、朝鮮語と中国語を使い分けながら、両方の兵士をなだめたあと、呉司令をいさめた。

 「呉司令! お腹立ちとは思いますが、ここは寛大に白日平を許してやってください。彼が司令の体面を傷つけ、反動だとまでいったのは礼を失したことですが、呉司令も少し考えてみるべき問題があります。全中国が蒋介石を帝国主義の狗だと糾弾しているときに、彼をそんなに持ちあげては、快く思う人がいるでしょうか。旧東北軍は抗日をしてはならないと、9.18事変が起きる前から張学良に釘を刺したのは蒋介石ではありませんか。白日平を銃殺すれば、全満州が呉司令を逆賊だと指弾するでしょう。ここは深く考えるべきだと思います」

 わたしが言い終わると、救国軍兵士のなかから、「誰だ、あれは? 南方から来たのか?

 国民党の派遣員か?」と、いう声が聞かれ、「なにが南方だ。金日成だよ。金日成という遊撃隊の隊長だ」とささやく声もした。

 「わしは無学なためにあんなことをいったが、わしと蒋介石を同類と見ないでくれ」呉義成はこういって、銃殺命令を取り消した。しかし、それから2日たっても白日平を釈放しようとしなかった。

 こうなると、救国軍の平隊員たちが、司令はおろかな人間だと非難しはじめた。

 「呉司令は、なぜ金司令との約束を守らないんだ」

 「おれたちが殺さなければそれまでだ。呉司令が殺したかったら、好き勝手に殺せると思っているのか」

 「白日平を殺せば、おれたち救国軍が天罰を受ける」

 兵士たちがこんなことをささやきあっているとき、将校たちは呉義成に白日平の釈放を促す手紙や陳情書を送った。白日平は3日目にようやく釈放された。

 反日部隊との共同戦線が実現する路程は、このように多くの苦労と忍耐と犠牲をともなった。血液型の異なる二つの「生命体」の結合が、どうしてなんの曲折も苦衷もなしに、やすやすとなされるだろうか。

 敵軍は、東寧県城戦闘で戦死した将兵の死体を3日がかりで火葬した。わが方は、胡沢民を失った。羅子溝への帰途、銃の暴発で命を落としたのである。



 


inserted by FC2 system