金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 呉義成との談判


 闘争の舞台を汪清に移したのち、われわれの活動で至急に解決すべき最大の難題の一つは、反日部隊との関係で生じた深刻な対立であった。日本帝国主義の執拗な離間策と反日部隊上層部のたえざる動揺、極左的なソビエト路線の弊害などで、抗日遊撃隊と救国軍の関係は1933年に入って再び交戦直前の状態に陥った。

 朝中両国の共産主義者が9.18事変後、満州地方で反日部隊工作に精魂を傾けたことは、前にも触れた。汪清遊撃隊が初期に反日部隊と友好関係を保てたのも、そうした努力のたまものであった。遊撃隊と自衛隊を一方とし、関大隊長部隊を他方とする二つの武力が協同して1932年の春、徳谷で日本軍守備隊の侵攻を撃退したのはその好例である。

 そのとき、大肚川の日本軍守備隊は、国民党時代に伐採しておいた木材を運び出すために、数十台の馬車を引いて徳谷方面に現れた。大汪清と小汪清の谷間に、木材が無尽蔵に積まれていたのである。その日、わが軍は、誘引伏兵戦で40〜50人の日本軍守備隊をほとんど掃滅し、多くの兵器を手に入れた。

 徳谷の戦いは、反共意識の根強い汪清一帯で共産主義者のイメージを改め、救国軍との関係を敵対から協同へと転換させる重要なきっかけとなった。戦闘後、共産主義者たちは救国軍の中へ浸透できるようになり、金銀植、洪海一(ホンヘイル)、元弘権、張竜三、金河一(キムハイル)らが関部隊に入隊した。名射撃手の金河一は連絡員に任命され、学識のある金銀植は参謀長に抜擢された。

 徳谷戦闘後も、馬村の人たちは変わりなく関部隊の将兵の衣服を洗濯し、歯ブラシ、歯みがき粉、石鹸、タオル、タバコ入れのような心のこもった慰問品を贈り、児童団の慰問公演もたびたび催した。共青員は宣伝パンフレットやビラをたずさえて政治工作をした。

 救国軍が共産主義者に「同志(トウンズ)」と呼びかけることはまれだったが、関部隊の将兵は革命軍隊員をいつも「同志」と呼んだ。関部隊に入隊した同志たちは、いずれも区党委員の水準を上まわる実力者だったので、救国軍工作を巧みに進めた。関大隊長は、共産主義者の人柄と能力にすっかり惚れこんだ。これは、他の救国軍部隊との関係を改善するうえでも大いに役立った。

 琿春地方の抗日遊撃隊は、救国軍部隊と情報の交換もし、さらには手先の粛清も共同でした。煙筒拉子遊撃隊は救国軍から贈られた銃で武装した。共産主義者がより積極的に取り組むなら、救国軍との連合戦線の実現に転換をもたらせる有利な局面が開かれた。

 ところが、極左冒険主義者が引き起こした「金明山(キムミョンサン)事件」によって、せっかくかちとった反日部隊との友好関係は無に帰した。この事件は、関大隊長が白旗をかかげて日本帝国主義者に投降し、救国軍の他の部隊まで共産主義者に背を向けさせるゆゆしい事態をまねいた。同じころ延吉県では、崔賢の部隊が敵に帰順する反日部隊の兵士に機銃掃射を加える出来事が発生し、救国軍との関係はすっかりもつれてしまった。

 汪清遊撃隊は初期、救国軍との関係でいろいろと失策を犯した。大隊長の梁成竜は、何挺かの銃欲しさに統一戦線政策に背いた。彼は品性が正しく戦上手の有能な指揮官であったが、軍事実務主義、冒険主義に陥って統一戦線を軽んじていたのである。それで、われわれは彼をきびしく批判した。

 関大隊長の前轍を踏まずに抗日遊撃隊との連合を守りつづけたのは、われわれの影響を多分に受けた靠山部隊であった。靠山部隊は1933年5月の端午の日、朴斗成のチャットギ(いまの太平村)自衛隊と連合して、東寧県城から出撃し東南岔をへて十里坪に攻めこんできた300余の日本軍守備隊と満州国軍を撃退し、多数の敵兵を掃滅した。

 救国軍は、遠方の見張りを無視し、門前に歩哨を立てることしかしないので、反日自衛隊が靠山部隊に代わって遠方の見張りにも立った。靠山は他の反日部隊と緊急連絡をつける場合にも、よく十里坪の半軍事組織に依頼した。そんなとき少年先鋒隊員は反日部隊の兵士に代わって、きちんと通信を伝達したものである。

 しかし、そのような友好関係は、他の部隊との関係にまでは広がらなかった。遊撃区に吹き荒れていた極左妄動の狂風は、靠山との同盟関係まで破壊する危険をはらんでいた。ソビエトの極左的な施策は、それまで同盟関係ないし同調関係にあった反日部隊の腐敗と変質を早める促進剤となった。

 「左」翼日和見主義者は、中国人反日部隊の工作も極左的におこなった。彼らは、「救国軍とは下層統一だけをすべきだ」「救国軍兵士に頭領を殺させ反乱を起こさせるべきだ」と称して、「地主、有産階級の長官を打倒せよ!」「兵士は反乱を起こして遊撃隊に寝返ってこい!」などと呼びかけた。それは、反日部隊との上層部統一を破壊する弊害をもたらした。反日部隊は、朝鮮人を「日本の手先」「老高麗共産党(ロコウリクンチャンダン)」といっては殺害した。

 日本帝国主義者は、これを奇貨にして朝鮮人民と中国人民、朝鮮の共産主義者と中国の共産主義者、抗日遊撃隊と反日部隊を離間させる全面攻勢をかけた。彼らは、満州占領以来、抗日の旗をかかげて張学良の旧東北軍から離脱した救国軍部隊の制圧に全力を傾けていた。彼らがなによりも恐れたのは、遊撃隊と救国軍の連合であった。共産主義者と救国軍部隊との合作が実現すれば、それはとりもなおさず彼らの治安維持と大陸侵略を妨げる恐るべき力となり、その息の根を止めかねないと見ていたのである。日本の離間策は、早くも万宝山事件、竜井事件(実現しなかった)、撫順事件などに如実に現れた。権謀術数にたけた日本の諜報謀略機関は、朝中人民の善隣関係を弱めるために、動物や石の地蔵でさえ顔を赤らめる撫順事件なるものを起こした。

 撫順事件というのは、日本の諜報機関が、日本人刺客に短刀を与え、なんの罪もない中国人を撫順で殺害させた事件である。日本の謀略家はそのとき、朝鮮人が中国人を殺して逃走したと見せかけようとして、刺客に朝鮮服のトゥルマギ(周衣)を着用させた。ところが殺人には成功したのだが、トゥルマギの下から日本服がはみだして刺客の正体が露見し、朝中人民を離間させようとした謀略は失敗に終わったのである。

 このような事件の延長が、柳条溝事件であり、蘆溝橋事件であった。日本人が謀略をめぐらすときに使う手はこのように幼稚で、悪辣なものであった。しかし、少なからぬ人たちは日本帝国主義者の謀略に乗って災難にあいながらもまた、難なくその欺瞞策に乗せられていたのである。

 日本帝国主義者は朝中人民の離間をはかって、「朝鮮人が満州を奪おうとしている」「共産党は救国軍を武装解除しようとしている」と宣伝する一方、民生団の反動分子をおしたてて「間島朝鮮人自治区」「朝鮮法定自治政府」の樹立を骨子とする朝鮮人の間島自治を叫ばせた。また、中国人の家屋に火をつけては、それが朝鮮遊撃隊のしわざであるかのような根も葉もないうわさを広めもした。

 抗日遊撃隊と反日部隊の連合戦線を破局に導いたいま一つの要因は、日本の悪辣な帰順工作とそれに乗せられた反日部隊上層部の抗日意識の変質であった。

 1933年1月、琿春県土門子に駐屯していた王玉振が部下を引き連れて敵に投降し、そのうちの数百人がわれわれと戦う臨時遊撃隊に改編された。2月には、小汪清の関部隊が半ば帰順して、満州国保衛団と公安局に採用され、同月、大荒溝付近に出没していた馬桂林部隊の将兵数十人も転向して蛤蟆塘自衛団に合流した。汪清県二岔子溝の姜海部隊と火焼舗の青山部隊の将兵も敵に帰順を申し入れた。

 日本帝国主義者は、老黒山一帯を占めていた悪質な土匪隊長同山好を買収して、李光の別働隊を全員謀殺させた。遊撃隊は、救国軍の襲撃を避けるため白昼の行軍をひかえ、夜間行軍しかできない有様であった。救国軍との関係を改善しなくては、朝鮮人は出歩くことすらままならないほどだったのである。救国軍との関係を敵対的なものから同盟関係へと転換させるのは、革命の運命にかかわる問題として再び朝鮮共産主義者の前に提起されたのである。

 わたしは、救国軍前方司令の呉義成に会うことを決心した。王徳林が間島を去ったあと、救国軍の実権は彼の手に握られていた。呉義成の説得に成功すれば、「金明山事件」と李光別働隊謀殺事件によって東満州に生じた遊撃活動の硬直状態を終わらせ、朝鮮革命が直面している難局の打開も容易になるだろう、とわたしは考えた。

 わたしは、呉義成との談判問題をもって潘省委と具体的に討議した。彼はわたしの決心が正しいと肯定しながらも、呉司令と会うのはひかえるようにといった。中国人ならまだしも朝鮮人が行っては、呉義成のように自尊心が強く、偏見にこりかたまっている男を説得するのは困難である、それに、呉司令や柴司令と同盟するには、その裏面で参謀役を勤めている李青天(リチョンチョン)の策謀をおさえなければならないのだが、それも問題だというのである。

 わたしは、潘省委の反対にもかかわらず、困難が大きくても行かなければならないと言い張った。

 「李青天も朝鮮人です。反共分子ではあるけれども、よく説得すれば妨害はしないでしょう。彼とわたしは旧知の間柄です。吉林で3府統合会議がおこなわれていたとき、彼とたびたび意見を交わしたこともあります。父も李青天とは親交がありました」

 「旧知だの初対面だのということが、このさいなんだというのだ。彼らにそんなわきまえがあると思うのか。それに呉義成は、ひととおりの頑固者ではないというではないか。まず成功はおぼつかないだろう」

 潘省委はわたしの冒険を思いとどまらせようと懸命だった。

 「わたしには、安図で于司令を説得した経験があります。于司令を味方にしたのに、呉義成を説得できないはずはないでしょう」

 「于司令と談判するときは、劉本草先生がそこで参謀長をしていたではないか。そういう背景が幸いしたのだ」

 「そういう背景なら呉義成部隊にもあります。陳翰章がそこで秘書長を勤めているではありませんか。参謀長の胡沢民も工作員です」

 これはつじつまの合わない自家撞着であった。わたしがその背景だと強調した陳翰章からは、しばらく前に、決定的な応援を求める手紙が届いていたのである。そこには、自分一人の力で呉司令との同盟問題を打開するのは望みがないと前置きし、「金日成同志が来なければ問題が解決できない。組織で至急対策を立ててもらいたい」と書かれていた。潘省委もそのことを知っていた。

 「革命の前途はまだまだ遠いのに、そんな冒険をしてはいけない。どうか慎重に考えてくれ」

 彼は執拗にわたしを説得した。

 「自分の体を個人のものと考えてはいけない。まかり間違えば李光の二の舞になる。これを肝に銘じるのだ。われわれがみな死んで白骨になろうとも、君たちだけは生き残って最後まで朝鮮のために戦ってもらいたいのだ」

 この言葉にわたしは大きく心を動かされた。しかし、共同戦線の大望は放棄できなかった。

 潘省委が琿春県へ向かったあと、東満州各県の遊撃隊代表が汪清に集まり、統一戦線問題を深刻に討議した。ここでも中心の論点は、救国軍との同盟問題、つまり呉義成、柴世栄、史忠恒らの救国軍が集結している羅子溝に、誰が談判に行くかということであった。わたしは、自分が行くべきだと頑強に主張した。会議では、護衛を100人ほどつけるという条件づきでわたしの羅子溝行きを決定した。呉義成のもとへ行くまでの経緯はこのように簡単でなかった。

 呉義成と談判するにはまず、陳翰章か胡沢民を通して、そこの実情を把握する必要があった。ところが、陳翰章は、呉義成の秘書長を勤めているうえに、きまじめな性格で、終日事務所にこもり、外へはあまり出歩かなかった。たとえ、外へ出ても朝鮮人と接触すれば誤解をまねくおそれがあった。それでも彼は以前、わたしのかかわっていた共青組織のメンバーであり、当時の盟約もあって、わたしのためなら危険を冒して援助してくれるはずであった。

 わたしは、陳翰章と胡沢民に手紙を書いた。ついで呉義成と柴世栄にも書簡を送り、わたしの羅子溝訪問趣旨を知らせた。差出人の名前の横には格式張って方形の大きな判を押した。その後、羅子溝地方の革命組織を通して呉義成部隊の動静を確かめたところ、反応は好ましかった。羅子溝の地下組織は、救国軍が市の入口に「朝鮮人反日遊撃隊を歓迎する!」というスローガンをかかげたことも知らせてくれた。

 わたしは、選りぬきの遊撃隊員100余人を従えて羅子溝へ向かった。新しい軍服に新式銃、新しい革製鞄といういでたちで行軍する部隊。それはじつに壮観であった。わたしは、白馬にまたがり、部隊の先頭を進んだ。太平溝に到着すると、反日人民遊撃隊の羅子溝入城声明を読み上げ、呉義成部隊に伝令を送った。そして、回答が来るまでそこで一晩をすごした。

 翌日、談判に同意するという回答が届いた。呉司令が談判に応じたのには、陳翰章の保証にあずかるところが大きかった。彼はわたしの手紙を受け取ると、呉義成に、金隊長とは旧知の間柄だがたいへんりっぱな人物だと話した。呉義成はそれを聞いて、「彼は共産党だが、君とはどうしてそんなに親しいのだ? 君も共産党じゃないのか」と聞き返した。陳翰章は、金隊長とは同窓で古くからの付き合いだ、と答えた。

 「君の同窓で、りっぱな人物だというなら、昼食でも一緒にしながら会ってみよう」

 わたしは、救国軍がわれわれを抑留し、危害を加える場合に対処して、即時、応援にかけつけられるよう琿春中隊を太平溝のしもの村に待機させ、残りの50人を引き連れて、赤旗を先頭にラッパを吹き鳴らしながら威風堂々と羅子溝に入城した。

 迎えに出た陳翰章が、救国軍指揮部にわたしを案内した。談判中わたしを補佐する趙東旭(チョドンウク)と連絡兵李成林(リソンリム)もモーゼル拳銃をさげてあとに従った。指揮部には、国民党系の副官が大勢待っていた。

 呉義成は、ひげを長くのばした恰幅のよい男だった。客を迎えても立ち上がることがなく、虎の敷き皮に体を斜めに横たえて対話もすれば、茶もすする傲慢な男だといううわさを聞いていたが、その日は、格式張って丁重にわたしを迎え入れた。それでいて、客に茶を出す中国の習わしは守らなかった。

 わたしはまず、「張学良の旧東北軍部隊がきそって日本軍に投降したとき、司令の部隊が抗日に踏み切ったのは愛国的な壮挙で、高く評価すべきことです」と下手にでた。

 すると呉義成は、口もとに笑みを浮かべ、副官に茶を運んでこさせた。

 「わしは、金隊長が日本軍とりっぱに戦っていることをよく知っている。あんたたちの部隊は少ない人数でじつに勇敢に戦っているのに、わしらは数ばかり多くて日本軍とはうまく戦えない。部下の話では、あんたの部隊は全員新式の銃を持ってきたそうだが、何挺でもいい、わしらの旧式の銃ととりかえてはもらえまいか」

 談判は、呉義成のこんな話からはじまった。挨拶にしてはきわめて底意地の悪いものだった。一方では持ち上げ、他方では難題をもちだしてこちらの出方をうかがう呉司令の表情を眺めながら、わたしは、彼は海千山千のしたたか者だと判断した。数千の部下を率いる前方司令が何挺かの新式銃に欲が湧いて対面早々本気でそんな条件を出すとは思えなかった。

 「とりかえるまでもありません。そんなものならただで差し上げましょう」

 わたしは彼の申し出を快く受け入れながらも、こう皮肉った。

 「だが、そんなけちなことをするまでもないでしょう。日本軍を攻撃すればいくらでも手に入るのですから。それでも是非とおっしゃるなら喜んで進呈しましょう」

 呉義成はひげをなでて話題を変えた。

 「ところで、あんたらの共産党とはどういうもんだね。陳翰章は共産党を悪くないといってるが、そんなこと、わしはまるで信じられん。周保中も共産党だが、わしの顧問をしていたときの様子を見ると、なにをしているのか、いつもぐずぐずしてどうも気にくわなかった。それで、やめてもらったのだ。で、なんだな、あんたらの共産党は祠(ほこら)と見ると、壊してしまうそうだな」

 「なんのために祠を壊すのですか。それは悪い連中が共産党を中傷するための宣伝です」

 「じゃ、金隊長は祠を拝むのかね」

 「祠を壊しもしなければ、それとはなんの関係もありませんから、拝みもしません。では、呉司令は拝むのですか」

 「いや、拝みやしない」

 「わたしも呉司令も祠を拝まないのだから、同じことではありませんか」

 言葉につまった呉義成はにやっと笑って、またひげをなでた。

 「それはそうとして、あんたらの共産党は男と女の別なしに同じ布団の中で寝るそうだし、やたらに他人の財産を奪うともいうが、ほんとうかね」

 わたしは、談判の成否がこれにどう答えるかということにかかっており、呉義成に共産主義者にたいする正しい認識を与えるためには、彼の投げた餌を巧みに処理しなければならないと考えた。

 「それも悪者たちのデマ宣伝です。共産主義を正しくのみこんでいない何人かの者が、地主の土地であれば親日と反日の別なくみだりに奪った事実はありますが、われわれはそれが正しいとは思っていません。でも地主のほうも、小作人が飢えているときは、人情をほどこして食糧を分け与えるのがあたりまえであって、自分一人楽をしようとそしらぬ顔をするのは、道義にはずれているのではないでしょうか。地主が食糧を分けてやれば、騒ぎ立てるはずはないでしょう。おなかがすき、生きる手立てがないのだから、たたかうよりほかはないではありませんか。くわしいことはわかりませんが、昔、中国でも太平天国の乱というのがあったそうですが、それもそんなことで起きたのではないのですか」

 呉義成は大きくうなずいた。

 「それはそうだ。国が乱れているとき、自分一人楽をしようとするのは悪いやつだ」

 わたしは勢いにのって追い討ちをかけた。

 「それから、男と女が同じ布団に寝るというのも、共産党を冒涜するために日本人がいいふらしているデマです。遊撃隊にも女性はたくさんいますが、誰もそんなことはしていません。お互い気に入れば夫婦になります。われわれの男女間のモラルはきびしいのです」

 「そりゃそうだろう。まさか一人の女を何人もがかわりもちにするようなことはなかろうて」

 「もちろんですとも。われわれ共産党のように清廉潔白な人間はいません」
 話がここまで進むと、呉義成はわたしを金司令と呼び、からかうような言葉つきを改めた。

 「ほほう、金司令は、このわしを共産党にするつもりだな」

 「呉司令を共産党にするつもりは毛頭ありません。共産党は、誰かになれといわれてなるものではないのですから。しかし、日本帝国主義者と戦って勝つためには、力を合わせるのが望ましいと思います」

 呉義成は眉をしかめ手を強く振った。

 「わしらが別々に戦うのはいいが、共産党と合作はせん」

 「でも、力に余る場合は、合作して戦うほうがいいのではないでしょうか」

 「とにかく、わしは共産党の世話にはならん」

 「先のことはわからないものです。いまにわれわれの世話にならないとも限らんでしょう」

 「まあ、それもそうだ。人間、一寸先が闇だというからな。ところで、金司令に一つ頼みたいことがある。どうだ、家家札(チャチャリ)に入らないかな。わしの考えでは、共産党より家家礼に入ったほうがいいようだが…」

 呉義成はいきなりこんなことをいって、こちらのたじろぐ様子を見ると、小気味よさそうにわたしの顔をのぞきこんだ。実際、わたしは家家礼といわれてどきりとした。呉司令は、わたしを面食らわせるには効果満点の難題を吹っかけたのである。

 家家礼とは、一族という意味をもつ中国人の「青紅幇」という組織のことである。運河を掘り、引き船をしていた労働者たちが苦しい生活に耐えかね、皇帝に反抗してつくった結社である。そこでは、財産を共有していたという。当時としては、有力な組織であった。義兄弟の縁を結べば、兄、弟の関係が成立するが、家家礼に入れば、親子の縁を結ぶ。そこには、自分が父親になって息子を得るために入るのではなく、息子となって父親を得るために入るのである。高い門閥の家家礼に入れば、それだけ威厳がそなわり権勢もふるうことができた。家家礼に入るには式を挙げなければならない。われわれの指示で第24代目の子として家家礼に入った金在範(金平)の話によると、その儀式はなかなか見ものだという。家家礼に入る者は、父親にあたる人や先輩に何十、何百回とお辞儀をしなければならないのである。

 そんな結社に入れといわれて、わたしは困惑した。いやだとことわれば、せっかく順調に進んでいる談判が決裂しかねないし、同意すれば、すぐにでも仏の前にひざまずかなければならない羽目になるであろうから、結局は呉義成の意のままに操られることになる。わたしは談判にのぞむとき、こんな問題にぶつかるだろうとは予想だにしなかった。とにかく、この場をなんとかうまく切り抜けなければならなかった。

 「呉司令と一緒に家家礼に入るのは大きな名誉です。でも、われわれは他の組織に入る場合、党組織の承認を得なければなりません。わたしの一存では決められないのです。組織の承諾が得られるまで見合わせることにしましょう」

 「ほほう、そんなら、そちらは半人前の司令で一人前ではないんだな」

 呉司令はちょっと物足りなさそうにわたしを見つめていたが、ふと思い出したように、こんな質問をした。

 「金司令、酒はいけるのかね」

 「少しはやれますが、反日闘争にさしさわりがあっては困るので、つつしんでいます」

 「あんたらの共産党は、なかなかいいところがある。金司令とは手を結びたいが、マルクスに染まるのが心配だ。わしらのもんたちに共産党の宣伝をするのはいかん」

 「司令、そんなご心配には及びません。われわれは共産党の宣伝をする考えはありません。ただ抗日の宣伝だけはします」

 「あんたらの共産党は、共産党にしてはなかなか紳士的な共産党だ! しかし、汪清の共産党が関大隊長部隊の武装を解除したのはよくない。金司令はその事件をどう思っているのかな」

 「どうもこうもありません。それは過失のうちでも最大の過失です。それで、われわれは去年、汪清別働隊をこっぴどく批判しました」

 「金司令はじつに公正な軍人だ。ところで、共産党は1から10まで間違うようなことがないという者がいるが、どうしてそんなことがいえるかね」

 「共産主義者も人間なんですから間違いを犯さないはずはないでしょう。わたしもときどき間違いを犯します。それは、わたしが機械でなく人間だからです。いろいろとすることが多いので、失策もときどき犯すのです。それで、われわれは学習に努め、精神修養にも心がけているのです。そうすれば過ちも少なくなると思いますから」

 「もっともだ。怠け者には失策もありえないわけだ。共産党は多くのことをやっている。それはわしらも認めている。とにかく、金司令とは話を交わす面白味がある。率直だから気持がよく通じるのだ」

 呉司令はこういって談判に一段落つけ、やさしくわたしの手を握った。談判の成功は確定的であった。彼は上機嫌で、陳翰章は金司令の親友だそうだが、なかなか筆が立つ、その筆で自分を助けてくれている、彼がいなければ、自分は何もできない、などとも言った。

 彼は、胡沢民を知っているかと聞いた。肯定すれば内通していると疑われそうで、知らないと答えた。すると、彼は胡沢民を呼び出し、この人が金日成司令だ、挨拶しなさい、と誠意をこめて紹介した。わたしと胡沢民は、他人行儀で挨拶をしなければならなかった。陳翰章は、呉義成が初対面の客に幕僚を紹介するのはめったにないことだ、きょうの談判は必ず成功するだろう、と自信たっぷりに語った。

 その日、わたしと呉義成は、抗日遊撃隊と反日部隊の日常的な連係を保ち、両軍の共同行動を維持調整する常設機構として反日部隊連合弁事処を設けることにし、そのメンバーの問題も話し合った。弁事処の反日部隊側代表は中国人の王潤成が、遊撃隊側代表は趙東旭がそれぞれ選ばれ、事務所は羅子溝の呉司令の指揮部に近いところに置くことにした。

 そのあと、呉義成は、豪勢な午餐会を催した。陳翰章は、これも特別待遇だと耳うちしてくれた。昼食中の談話も和気あいあいとしたものだった。日本軍の満州占領が話題になるたびに、呉義成は黒い眉をぴくぴくふるわせて、悲憤慷慨の色を見せた。彼は、同山好が李光を謀殺したことにも怒りを示した。

 「あいつらは、もともと土匪の仲間で、わしらとは系統が違う。同山好が日本人の手先になるとはな。金司令の部隊に危害を加えたからには、天罰を受けてしかるべきだ。わしらの中華民族にあんな悪魔がいるとは、なんとも恥ずかしい話だ」

 こんな言葉を聞くと、改めて呉司令の人柄がうかがえるようであった。わたしは、談判の結果と呉義成の歓待に満足した。

 呉司令はもったいぶったところがあり、思想的には国民党の枠から抜け出していない人間であったが、それが本質的な問題ではなかった。大切なことは抗日の意志が人一倍強く、救国の心に燃えていることであった。思想や階級、民族を問題にし、その制約性にこだわっていては合作は不可能である。共同戦線路線は、われわれをしてそのような制約性を無視させた。

 わたしはその日のうちに、呉司令との合作に成功したこと、残る問題は柴世栄にあるが、彼とはこれから協商することにする、統一戦線をかためるには東寧県城のような大城市を攻略する必要があるから、いつでも出動できるよう準備するようにと、小汪清に伝令を送った。

 呉義成との最初の談判に成功したわたしはただちに、救国軍中もっとも頑固な勢力である柴世栄部隊を反日連合戦線に引き入れる工作に取り組んだ。陳翰章も、呉司令は心変わりしないだろうが、柴司令が問題だ、李青天を失脚させることができないものだろうか、と思案した。呉司令の配下には一個旅団ほどの兵力しかなかったが、柴司令の部隊はそれより多かった。

 わたしは、ひとまず李青天に談判を申し入れた。しかし、彼はそれに応じなかったばかりか、共産軍の武装を解除しようと柴世栄をそそのかした。李青天の提言ならなんでも聞き入れる柴司令ではあったが、さすがにこれには同意しなかった。呉義成司令が金隊長を招いて昼食までもてなした、それに金隊長は精強な汪清部隊を引き連れている、まかり間違えばたいへんなことになる、とかぶりを振ったという。しかし、李青天からどれほど反共思想を吹きこまれたのか、わたしは柴世栄とは下交渉すらできなかった。

 唯一の打開策は、柴司令部隊を呉義成と引き離すことであった。われわれとの合作に応じた呉義成を柴世栄から切り離すには、呉司令の基幹部隊である史忠恒旅団をわれわれの影響下に置く必要があった。旅団長をよく説得すれば、呉義成との談判でかちとった初歩的な成果をさらにかためることにもなる。旅団の構成を確かめると、ほとんどの将兵が下層階級の出身であった。史忠恒も9つのときから地主に雇われて豚を飼い、生活の方便として軍服を着たという。彼は吉林陸軍で王徳林の配下にあったが、9.18事変後、救国軍に属して小隊長、中隊長、連隊長をへて、いまは旅団長に昇進していた。戦を好む典型的な軍人気質だという。

 わたしは胡沢民の紹介状を持って、即日、史忠恒に面会を申し入れた。旅団長は、なんの格式もなしに、すぐわたしを部屋に招き入れた。そして、日本軍をいつも打ち負かしている金隊長の訪問を受けたのは喜ばしいことだ、とわたしを友人として温かくもてなした。彼には反共意識も軍閥らしいところもなかった。じつにざっくばらんで温厚な人柄だった。

 彼は、金隊長の部隊が日本軍と戦って連戦連勝するのは、朝鮮人の誇りであるだけでなく、東満州人民の誇りでもあるといった。われわれは当時、夾皮溝戦闘、涼水泉子戦闘をはじめ、多くの戦闘で日本軍に大きな打撃を与えていたのである。新聞にこそ報道されなかったが、間島地方にそのうわさは広く伝わっていた。驚いたことに、史忠恒はそれらの戦いの経緯と戦果をくわしく知っていた。

 連合して東寧県城を攻略しようという申し入れに、彼はもろ手をあげて賛成した。

 「わたしは以前から、われわれの近くに金隊長の遊撃隊のような強力な友軍があればと願っていた。きょうから、われわれは兄弟だ。金隊長の敵はわたしの敵であり、金隊長の友はわたしの友だ」

 旅団長とわたしは談判の成功を祝って、かたく抱擁した。それ以後、二人は困難な戦いの日々に苦楽をともにする兄弟となり、戦友となった。史忠恒が独立2師の師長に任命されてから戦死するときまで、二人の友情は変わりなくつづいた。

 羅子溝談判の結果、抗日革命の前に立ちはだかっていた最大の暗礁は取り除かれた。于司令との合作が共同戦線の第一歩であるとすれば、呉義成との談判はその成果を東満州全域に拡大した歴史的な前進であり、5.30暴動と万宝山事件によって生じた朝中両国民族の無意味な対立と流血をくいとめ、反満抗日の激しい流れを一つの大河に合流させた意義深い出来事であった。

 呉義成、史忠恒との談判を通して改めて痛感したのは、共同戦線も自分の主体的な力が強いときにはじめて実現するということであった。1932年の南北満州遠征と汪清を中心とする1933年の大小の戦闘で、もしわれわれが軍事的実力を十分に発揮できず、遊撃隊を上昇一路をたどる無敵の鉄の軍隊に発展させることができなかったとしたら、呉義成はわれわれを見くびり、門前払いをしたであろう。呉義成との合作が上首尾に終わったのは、われわれの力が強く、政治的・道徳的品格が救国軍よりすぐれ、われわれの熱烈な愛国心と国際主義的友愛心、自己の偉業の正当性にたいする確信が彼の共感を呼んだからである。

 わたしは救国軍との合作を成功させて以来、統一戦線の最上の手がかりは主体的な力であるということ、この力を育てないではどのような友軍や友邦とも連合して戦えないということを座右の銘として、革命の主体をかためることに生涯をかけてきた。

 東寧県城を討とうということでは、呉義成と柴世栄も賛成した。わたしは、羅子溝で、呉義成、史忠恒、柴世栄その他救国軍指揮官と連合会議を開いて具体的な作戦方針を立てたあと、再び汪清本部に手紙を送った。

 呉義成との談判と東寧県城戦闘の成功によって、東満州の遊撃部隊と救国軍部隊、反満抗日勢力のあいだにわれわれの名が広く知れわたった。呉義成との合作過程を通して、われわれは統一戦線の強化こそ全般的抗日革命の推進において堅持すべき生命線であり、中心の環であることをいっそう強く確信したのである。

 その後、間島を離れ、長白一帯に移ってからも、わたしは呉義成との合作を成功させた日々のことを感慨深くふりかえったものである。当時、東北抗日連軍に属した呉義成は、撫松地区に拠点を置いて、われわれの側面で戦っていた。彼が近くにいると聞いて、共同闘争を進めた日々のことがなつかしくよみがえった。

 わたしは100余人の隊員を引き連れて、呉義成部隊の密営がある四崗東方の森を訪ねた。呉義成は、兵営の外へ飛び出してきて、わたしの肩を抱いた。二人は10年、20年ぶりに再会した竹馬の友のように熱い抱擁を交わしたのである。硝煙にくすんだ呉司令のざらざらしたひげが頬に触れた瞬間、なぜかわたしは喉のつまるような激情に包まれた。自尊心の強い軍閥気質のこの中国人との再会が、なぜそんなにもわたしの胸を熱くさせたのだろうか。戦いのなかで結ばれた友情は格別なものである。呉司令が国籍を越え、ずっと年下のわたしを兄弟のように心から歓待してくれたことに、わたしは深く感動した。

 弾雨のなかで結ばれた友情。世にそれ以上に真実で強く熱い友情があるだろうか。もっとも親しい人間同士の友情を戦闘的友情と呼ぶ理由はここにあるのではなかろうか。

 虎の敷き皮に体を斜めに横たえ、鷹のようなするどい目で相手の人となりを探っていた往年の横柄な面影はどこにも見られなかった。数千の部下を叱咤する緑林の豪傑というより、田夫とでもいったほうが適切な素朴な風貌であった。以前よりやせ、目の光もいくぶんにぶっているという感じだった。

 わたしは、そこで2日をすごして帰った。別れるとき、呉司令は100人の部下をわたしに譲ってくれた。わたしが辞退すると彼は怒ったように言った。

 「金司令になにかがないとか不足するようなことはないだろう。しかし、大きな戦いを準備する金司令に、わしも親友としてなにか援助すべきではないか。この100人はわしが連れているより、金司令の麾下に置くほうがよい。麻につるるヨモギという言葉もある」

 その後、わたしは呉義成に二度と会えなかった。同じ年の暮れに部隊を他人にまかせてソ連に行ったとは聞いたが、それっきり消息が絶えたのである。

 呉義成は、われわれが共同戦線の偉業を切り開くさい、一時的に必要としたただの道づれではなく、実戦のなかで手を取り合い、砲煙弾雨をくぐった忘れがたい戦友である。呉司令が後半生をどのように送り、その最期がどのようなものであったかは、いまもってわからない。どこにも信ずるに足る情報がないのである。

 彼が最期の瞬間まで国を愛し民族を愛して、その理念に忠実であったとすれば、わたしはそれで満足するのみである。



 


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