金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 李 光


 わたしと李光の友情は吉林時代にはじまった。

 ある日、東満青総系の金俊たちが見知らぬ青年を連れてきてわたしに紹介した。それが李光だった。李光が吉林に現れたことについて、みんないろいろとうわさをした。勉強をするために来たのだろう、組織の手づるを求めて来たのかも知れない、いや、吉林一帯の青年学生運動の実態を確かめに来たに違いないなどと。金俊は、彼が吉林に来たのは省内の教員が集まるなにか秘密の会合に参加するためらしい、と耳打ちしてくれた。

 聡明で、おおようで寡黙な青年、これが彼の初印象だった。その後、接触を重ねるにつれて、彼が人一倍感受性が強く、情にもろく、友情に厚い青年であることを知った。どういうわけか、学友たちは一目で彼にほれ込み、識見を高めたければ文光中学校がよい、出世したかったら法政大学にこしたことはない、革命運動には毓文中学校がうってつけだ、などといって、彼を吉林にとどまらせようと口説いた。李光も吉林が気に入ったようであった。彼は、自分が延吉県の古城子で小学校に通っていたころ、独立軍指導者たちの使いで吉林に何度か来たことがあるが、青年学生の様子が当時とは見違えるほど変わっている、以前はこの都市に青年がいるのかと疑ったほどだったのだが、いまは学生の社会運動がさかんで、都市がわき立っているような印象を受ける、と感嘆していた。結局、彼は吉林第5中学校でしばらく学窓生活を送ることになった。

 李光が最初に接した人たちはほとんどが、洪範図、金佐鎮、黄丙吉、崔明禄などという独立軍の大物だった。古城子にある妻の実家が独立軍の指揮部の一つになっていたので、多くの民族運動指導者と知り合ったのである。のみこみが早く判断力にすぐれ、重厚な彼の気質は、たちまち独立軍指導者の心を引いた。呉東振や李雄がわたしを跡継ぎにしようと考えたように、彼らも李光を独立軍の後継人材に育成しようとしたようである。

 少年時代、外祖父の書堂で漢文の勉強をした彼は、持病に苦しむ父を見かねて進学の夢を捨て、まだ14歳の身で家事を手伝った。16歳からは戸主として家計を切り盛りした。そんなわけで進学の希望はかなり遅れて果たした。卒業後は、一時、延吉と汪清の小学校で教鞭をとった。

 当時はまだ李明春という本名を使っていた彼が、李光と呼ばれるようになったのは、春華郷北蛤蟆塘で教員をしていたころからだった。北蛤蟆塘では周辺の8つの学校が連合し、啓蒙活動の一環として弁論大会や運動会をよく催したものだが、地下工作に関与していた彼は、李光という別名でサッカーの試合に蛤蟆塘チームの選手として出場した。それがきっかけで李光と呼ばれるようになったのである。

 「ぼくに民族主義の案内をしたのは独立軍だし、共産主義の案内をしたのも独立運動だ」

 わたしとはじめて会った日、彼は古城子時代をふりかえって、こんなことをいった。

 わたしは、どうも腑に落ちなかった。

 「それなら、独立軍の人たちはいっぺんに2つの思想を君に吹きこんだのか」

 「いや、吹きこまれたというのではなくて、なんといおうか… 染まったというのが適切かな。とにかく、ぼくは彼らから民族主義の影響を受け、同時にマルクス・レーニン主義思想の影響も受けたというわけさ」

 「その人たちは、二重の思想の持主だったというわけか」

 「二重思想の持主というより、方向転換を模索していた人たちだといえる。彼らは独立軍運動をしながら、ひそかに共産主義の書籍を読みふけっていたんだよ。妻の実家へ行くと、部屋の隅にその人たちの本が散らかっていたので、退屈しのぎに読みはじめたのだが、いまでは、どっぷりとつかってしまったよ」

 わたしは、彼の手をぐっと握り、こだわりなくいった。

 「共産主義の信奉者に会えてうれしいよ」

 ところが彼は、あわてて手を横に振った。

 「いや、ぼくはまだ共産主義者ではない。マルクスやレーニンの共産主義原理には、理解できない概念が少なくないんだ。ぼくの素朴な見方からすると、共産主義的理想というものは、どうも大げさすぎる。こんなふうにいえばがっかりするかも知れないが、遠まわしにいうのがいやでね。わかってくれるだろう」

 初対面ではあったが、その率直な話しぶりが気に入った。そういうところが、彼のなによりの魅力でもあった。このように、最初に会ったころの李光は、民族主義者でも共産主義者でもない、いうなれば方向転換途上の人間だった。それが吉林でわれわれと接触しているうちに、心から共産主義を信奉するようになった。それでも、われわれの共青や反帝青年同盟に加わろうとはしなかった。

 李光が吉林へ来るとき、学田3万余坪にあたる土地証書のうち3通を抵当に入れて400 余円の旅費を都合したという資料が発見されたというが、真偽のほどは確かでない。学田とは、教育機関の経費として、国家が特別に与えた田畑のことである。その資料に間違いがないとすれば、彼が公有地を抵当に入れるという冒険をしてまで、郷里を捨てる勇断を下したのには、それだけ抱負が大きかったからであろう。家をあとにするとき、彼は義弟におよそつぎのように悲壮な決意を書き残している。

 「わたしは満州の広野と朝鮮八道をくまなく探し歩いてでも、真の愛国者をきっと見つけてみせる。この願望が10年後に果たせるか、20年後に果たせるかは誰にもわからない。しかし、これが成就しないかぎり、両親のもとへは二度と帰らないつもりだ」

 この決意には李光の性格がよく現れており、彼が親元を離れて、満州の主要都市や政治活動の中心地を足が棒になるほど巡り歩いた理由がなんであったかも推察される。彼は芯が強くきちょうめんで、考え深いたちだった。中国語も土地っ子に劣らず自由自在に駆使した。そうした長所が幸いしてのちに十家長、百家長、郷長などの役目も勤まったのである。西道(平安道と黄海道の通称)出身のわたしは、李光から間島や咸鏡道の風習もいろいろと聞かされたものである。

 彼は吉林に来てからも、なぜか組織に加わろうとしなかった。吉林を一時的な停車場のようなものとみなしていたからかも知れない。けれども、わたしとはよく会ったし、のちには、わたしの母ともとくに親しく付き合うようになった。彼がわたしの母に会ったのは、吉林での勉学を終えて間島に帰るときだった。わたしに挨拶に来た彼は、だしぬけにこういった。

 「間島に帰るさい、ちょっと撫松に寄って、君のお母さんに会いたいが、かまわないだろうか」

 わたしは彼の気持ちがうれしかった。

 「なんだ、君らしくもない。かまわないだろうかなんて。会いたければ、黙って会えばいいではないか。そんなことまで断らなければならないのか」

 「じゃ、同意するというわけだね。わかった。それなら、お母さんにお会いすることにしよう。みんなが君のお母さんを『うちのオモニ』といって慕っているのに、ぼくはまだ挨拶に上がったことさえないんだ。こんな失礼な話がどこにある。どうして君のお母さんが金赫や桂永春らにだけ、『うちのオモニ』と呼ばれなければならないんだ。ぼくもオモニと呼んでみたいよ」

 「ありがとう! これで母にもう一人の息子ができたわけだ。ぼくたちはきょうから兄弟だ」

 「じゃ、杯を交わすべきではないか。せめてソバの一杯でも一緒に食べるとか」

 もちろん、われわれは酒をくみ交わしソバも一緒に食べた。

 李光は約束どおり、撫松に寄って、数日間、母の話し相手を勤めてから汪清に帰った。当時、彼の家族は延吉県の依蘭溝ではなく、汪清県に住んでいた。彼が撫松を去ったあと、母から送られてきた手紙には、冒頭から彼のことがつづられていた。

 「成柱。李光がきょう間島へ発ちました。李光を松花江の渡し場まで見送ってやりました。おまえを他郷に送り出した日のように、心がうつろで、仕事が手につきません。ほんとうに気さくな人で、とても他人の子とは思えないのだから、不思議ではありませんか。李光も、わたしを親のようだといっていましたけれどね。たのもしい息子たちが毎日のように増えるので、どんなにうれしいか知れません。この世に楽しみがあるとしたら、これ以上の楽しみがどこにありましょう。ほんとうにりっぱな青年を紹介してくれてありがとう。李光はね、哲柱と一緒に陽地村のお父さんの墓参りをし、草もきれいに刈ってくれたのよ。ここを訪ねるおまえの友達は一人や二人でないし、わたしが知っている青年もたくさんいるけれど、李光のようにわたしの気持ちをひきつけた人ははじめてです。おまえたちの友情が、あの南山の松柏のように変わりなくつづくことを望んでいます」

 手紙をもらった日、わたしも終日落ち着かず、松花江のほとりをそぞろ歩いた。行間ににじむ母の喜びがわたしにも移ってきたのである。母がうれしければわたしもうれしいし、母が満足であればわたしも満足なのである。李光の出現が母をそんなに満足させたのなら、それはわたしにも最大の喜びなのである。

 李光が吉林を発ったあと、わたしに一通の郵便為替が届いた。わたしが毓文中学校在学当時、多くの人から財政的援助を受けたことは、前にもたびたび書いた。わたしに学費の援助をしてくれた人たちは、ほとんどが、呉東振、孫貞道、梁世鳳、張戊M、玄黙観など吉林市内に居住するか、柳河、興京、撫松、樺甸その他独立軍の本拠地にいながら、正義府本部に出入りしていた父の親友であった、吉林時代の後援者のなかには、共青員や留吉学友会員もいた。文光中学校に在学し、共青の中核として活動した申永根も、裕福ではなかったが援助してくれた。

 前にも触れたが、当時母の収入といえば、針仕事などをして得る日に5〜10銭というわずかなものだった。日に10銭として月に3円。それは、毓文中学校の1か月分の学費に相当した。

 母は、送金するときも倹約して郵便局の世話にはならなかった。毎日の収入を月謝額になるまで積み立て、吉林へ用があって行く人に頼んで送って寄こした。だから、わたしは郵便局に出入りする必要がなかった。

 母の送金を手にするとき、わたしはいつも矛盾した感情を覚えたものである。学費が届いたから恥をかかなくてすむという安堵と、わたしに月収を残らず送ったら、一家の生活はどうなるだろうかという気がかりだった。3円といえば、裕福な家庭の子なら一食分の食事費にもならないわずかなものだった。毓文中学校の場合、生徒の半数以上が裕福だった。生徒たちのあいだで「カネさや」と呼ばれていた郵便為替が、ときには数十通も学校へ届く日があった。そんな日は、わたしのように郵便為替がどんなものか知らない貧乏人の子は、もっとしょんぼりとして元気がなかった。

 そんなときに、人一倍貧しい家の子であるわたしに10円という大金が舞いこんだのだから、ただごととはいえなかった。わたしは、為替を持って郵便局に向かいながら、金を送ってくれたのはいったい誰だろうか、と考えた。しかし、どうしても思い当たらなかった。吉林市以外のところから金を送ってくれる唯一の人は母であるが、10円もの大金が母に生じるとはまず考えられないことだった。あるいは、郵便局で宛名を書き違えたのでは、とも思ったが、そんなことはあろうはずもなかった。

 郵便局では差出人の姓名を告げないと、金をなかなか出してくれなかった。ところが、窓口では相手の名を聞きもせずに黙って金を出してくれた。それで、わたしの方から差出人の名を聞くと、意外にも「李光です」という言葉が返ってきた。そのときの驚きはまったく表現しようのないものだった。わたしには李光よりも親しい友達が少なくなかった。彼とは吉林で親密に付き合ったとはいえ、離別後、金まで送ってこようとは思いもよらないことだったのである。その深い思いやりには、ただ感謝するのみだった。

 彼は汪清に帰ってからも、わたしの一家と交際をつづけた。母が安図にいたころは、多くの煎じ薬と金を持って興隆村を訪ねたこともあった。その金は、彼が百家長を勤めて得た月収を貯えたものだった。義侠心の強い彼は、他人を助けるときは、いっさい損得を考えず、自分のものを惜しみなくそそぎこんだ。李光は母を訪ねるとそこで何日もすごし、なにくれと面倒をみては汪清に帰った。そんなことがくりかえされるうちに、彼はわが家の、誰よりも親しいかけがえのない客となったのである。

 わたしは他人から財政上の援助を受けるたびに、その好意に報えないのがもどかしかった。借りを金で返済するには家庭が貧しすぎた。わたしは祖国のりっぱな息子、民衆の忠僕となることで友人や同志たちの配慮にこたえようと考えた。

 李光は1929年の冬、吉敦線の列車に乗りこんだ。わたしに会うためだった。そのとき、わたしは獄中にいたのだから、それは無駄足といえた。しかし彼は、宿屋の女中孔淑子から吉林地方青年学生運動の実態を聞き、それを主管してきた指導中核の闘争方法を深く理解した。孔淑子は宿屋の女中をしていたが、共青組織から、吉林にやってくる青年とわれわれの間を取り持つ橋渡しの役目を果たしていたのである。そのときの出会いが因縁になって、彼女はのちに李光の二度目の妻となった。先妻の金オリンニョは病死していた。

 李光は男やもめになってからも、亡妻を忘れなかった。妻を深く愛していた彼は、世に彼女のような女性はいないと考え、一生独身ですごそうと決心した。妻の死後、1年もたたずつぎつぎに縁談がもちあがったが、潔癖で一徹な彼は、それらにいっさい応じなかった。わたしは李光に会うたびに学友たちとともに、幼い子どもや病弱な両親のことを思っても再婚すべきだ、と熱心に勧めたものだった。彼の決意をひるがえさせるのは、枯れ松の幹をねじってやにを搾り取るよりも難しいことだった。彼は亡妻の3回忌をすませたあとで、やっとわたしの勧告を聞き入れた。後添いの孔淑子は、心のやさしいしとやかな女性で、誰もが感心するほど、まま子を大事に慈しみ育てた。子どもたちも、彼女を実母のように慕った。残念なことに孔淑子には子ができなかった。

 李光はわたしには会えなかったが、孔淑子の紹介で吉林毓文中学校と吉林師範学校の運動圏の青年と親交を結んだ。国の独立を成就するためには、なによりも愛国勢力が団結すべきであり、そのためには旗印となる思想と路線が必要であり、統一団結の中心がなければならないというのが、吉林の組織が彼の胸に植えつけた真理であった。彼は、この真理にめざめて間島へ帰った。それは、彼の革命活動で一つの転機となる出来事であった。それ以来、彼は日本領事館のスパイと満州警察から監視される身となったが、臆することなく新しい航路を勇敢に進んだのである。

 秋収・春慌闘争は、李光が吉林で得た真理を実証する重要な契機となった。彼の世界観は、この闘争を通してさらに飛躍した。居住地を汪清に移してから彼は北蛤蟆塘で郷長を勤めた。革命そのものが理想のすべてだと称してきた人が、末端行政機関の小使いともいえる郷長の役職についたのだから、なかなか興味深いことだといえる。

 わたしが李光と再会したのは、1931年12月、明月溝でのことだった。彼は、冬の明月溝会議に参加した人たちの食事や宿所の世話をやき、せわしく立ちまわった。その彼が粟を入れた背負袋に5羽のキジを載せて会場に現れたときは、さすがに李光らしいと感心したものである。トリ肉とキジ肉を具にした間島独特のジャガイモのソバは、誰もみなお代わりをしたほどおいしかった。わたしと李光は、同じ膳に向かい合って座り、ソバを2杯ずつたいらげたあと、李青山の家の一間で木枕をして夜を語り明かした。わたしはまず、彼が親身になって母の面倒をみ、学費まで送ってくれたことに心から謝意を表した。

 「ぼくは今夜、ソバをご馳走になりながら多くのことを考えた。キジ肉を手に入れるためにどんなに苦労したろうかと思うと、つい、ほろりとなったよ。吉林でも、君はときどきぼくを料理店へ連れていってくれたが、いつその恩返しができるだろうか」

 こういうと、李光はわたしの肩をこづいた。

 「なにが恩だ。ぼくはただ義援金を出すつもりで君の一家を助けただけさ。君のお父さんは一生を独立運動にささげたではないか。君だって青年学生運動の指導ではずいぶん苦労をしている。そういう愛国者の家庭にいくらかでも援助をするのは当然なことだ。恩だなんて、そんな水臭いことは二度と口にするな」

 彼はわざと怒ったような表情をして強く手を振った。わたしはそこに、彼のいま一つの美点を見る思いがした。

 「そういわないでほしい。恩には感謝がつきものだ。母の分まで含めて、もう一度感謝する。正直な話、君がぼくたちの一家にそんなに真心のこもった援助をしてくれるとは、思ってもいなかった」

 「そうだろうな。ぼくがそういうことをしたのはただの思いつきじゃない。それだけの動機があったのさ」

 「動機?」

 「そう。ある日、お母さんがぼくに、君のお父さんと縁組したときの模様を昔語りに聞かせてくれた。縁談がずいぶん手間どったとね」

 「それはぼくも知っている。父の死後、母がぼくたち3人兄弟を前にして話してくれたのだ。まったく涙ぐましい結びつきだったそうだ」

 父と母の結婚話だから、それは「韓日併合」前夜のことだった。母の実家がある七谷と父の住んでいた南里は、低い丘をあいだにはさんで3キロほど離れていた。南里から平壌城内へ行くには七谷を通り、七谷の人たちが南浦方面に向かうときは南里の近くを通った。頻繁に往来し、親しみ合っていた両村の人たちは、縁組する場合も多かった。

 外祖父も南里で婿選びをし、白羽の矢を立てたのが父だった、両家のあいだに仲人が行き来し、まず、外祖父が南里の父の家を訪れた。けれどもそこでは決心を下せず、黙って七谷へ帰った。婿となる人物は気に入ったが、あまりにも暮らしが貧しかった。そんな家へ娘をとつがせては、たいへんな苦労をさせるという不安に襲われたのである。外祖父はその後、5回も父の家を訪れた。貧乏ほどつらいものはないという言葉のとおり、父の家では、この先あいやけになるはずの大事な客を6回も迎えながら、一度も満足な昼食をもてなせなかった。外祖父は6回の訪問の末、外祖母の同意を得て、やっと縁組に同意する手紙を寄こした。

 「そんなエピソードを聞いて、君の一家のことがいっそう深く理解できるようになった。ぼくがモクズガニ事件のことまで知っていると聞いたら、びっくりするだろう」

 モクズガニ事件と聞いて、わたしはほんとうに驚いた。それは一家の中でも、母と祖父とわたしなど数人しか知らない家庭内の隠された秘話だったからだ。

 「なんだって? 君はそんなことまで知っているのか」

 「ぼくと君たち一家との間柄がどれほどのものかということが、これでわかるだろう」

 彼は得意そうにいった。

 わたしがモクズガニを捕りはじめたのは、万景台時代の6、7歳ごろのことだった。祖父は暮らしの足しにと、よくカニ捕りをした。大同江支流の順和江にはモクズガニが多かった。祖父はカニ捕りにはいつもわたしを連れていった。幼いころから暮らしの知恵をつけさせたかったのかも知れない。金持ちは見向きもしないだろうが、塩漬けにしておくと、それもご馳走であった。

 モクズガニを捕るのは、じつに単調な作業だった。十分に煮たコウリャンの穂を水中に入れると、その匂いに引かれてモクズガニがたくさん集まってくるのである。こうして、日に数十、数百匹のカニを捕り、袋に入れて帰るときの楽しさは、えもいわれぬものであった。モクズガニは、一家の暮らしを大いに助けた。祖母は、客があると壺から塩漬けのカニを出して勧めたものである。そんなとき、わたしは外祖父母にもそれをもてなせたら、どんなにいいだろうかと思った。わたしにとって、七谷の家はなつかしい神秘な愛の世界であった。わたしは、七谷の家の牛小屋からただよってくるかぐわしい飼い葉の匂いが好きだったし、庭のナツメの木の枝でさえずる小鳥の鳴き声に聞きほれたものだった。夏の晩、蚊やりのヨモギの燃える匂いをかぎながら、むしろに座って聞く昔話にも大きな愛着を覚えた。

 母方の伯母は、わたしがそこで生まれたので、七谷を片時も忘れてはいけないと、いつも諭した。母はお産をするとき、実家に帰っていたらしい。しかし祖父母の方では、わたしの出生地は南里だと強調していた。おまえのお母さんがお産をするとき、しばらく里に帰っていたのは確かだが、だからといって、出生地が七谷になるわけではない、女が他郷で子を生んでも父の居住地を出生地とするのは先祖代々からのしきたりだ、というのである。

 とにかく、わたしは本家に劣らず母の実家に強い愛着を覚えていた。カニ捕りをするときにも、よくそういう思いにとらわれた。七谷で彰徳学校に通っていたころも、日曜日にはよく万景台に帰って、祖父と一緒にカニ捕りをしたものである。ある日、わたしは捕ったカニを半分ほど草むらに隠して、祖父に袋を見せた。祖父は、「きょうは、あまりかんばしくないな」と残念そうにいった。わたしは、そしらぬふりをした。そんなとき、七谷に持っていくつもりで半分残した、と正直に打ち明ける方がよかった。だが、そういったら祖父が喜ぶか嫌な顔をするか判断がつかなかったので、そんな勇気がわかなかったのである。わたしは、袋を家まで持っていったあと、また順和江にもどって、隠しておいたモクズガニを袋に入れ、七谷まで走っていった。母の実家では、成柱のおかげでカニのご馳走にあずかれると喜んだ。わたしは、カニは輔鉉おじいさんが捕ったのだから、礼をいいたかったら万景台のおじいさんにするようにといった。ところが外祖父が万景台を訪ねたさい、おかげでカニをおいしくいただいた、とモクズガニのことを祖父に話したのである。祖父は思いがけない礼をいわれて驚いたが、わけを聞いて喜んだ。その数日後、わたしは祖父から賢い子だとほめられた。

 これが李光のいうモクズガニ事件である。貧しさの織りなすエピソードであり人情劇である。

 ところが、李光は人情の面からではなく、別の意味でこのエピソードを解釈したようである。

 「ぼくは縁談話やモクズガニ事件のことを聞いて、君の一家に同情を寄せたのだ」
 李光の言葉だった。わたしはその言葉にこもる思慮深さにすっかり感服した。

 「ところで、郷長の仕事はおもしろいのか」

 これは、わたしが中部満州地方にいるころから、知りたかったことである。当時、東満州のオルグから送られてくる間島地方の通報には、わたしが最大の関心を寄せている対象の李光が汪清で郷長をしていると記されていたのである。李光は微笑した。

 「ちょっときついが、収穫は悪くない。去年の秋、同志たちが蛤蟆塘で保衛団につかまったことがあるが、そのときも、ぼくが保証人になって彼らを救い出した。郷長の役職がものをいったのさ」

 彼は、許されるなら生涯郷長を勤めてもいい、と冗談まじりにいった。

 わたしが生まれ故郷の自慢をすると、彼は楽しそうにいった。

 「万景台がそんなによいところなら、ぼくも独立後、家族を連れて君のあとを追っていくよ」

 「じゃ、鐘城はどうする? 故郷がそこだと聞いたが」

 「住みつけばどこだって故郷になるさ。生まれた土地だけが故郷でもなかろう。とにかく、そのときは小学校の教師の口でも世話してくれよ。君が校長になり、ぼくはその下で教員を勤めればいいだろう」

 「これはまいった。小学校の先生というのはまっぴらごめんだよ」

 「そんなはずがない。君が安図か孤楡樹で教壇に立った経歴があるということは、聞いて知っている。お父さんも長年教鞭をとられたのだし…」

 2人の友情は、別働隊を組織する日々にさらに深まった。

 李光が小沙河にわたしを訪ねたのは、わたしの勧めで汪清で別働隊を組織した直後のことであった。当時、朝鮮の共産主義者と愛国的青年にたいする救国軍の敵対行為が激しくなり、汪清の同志たちは反日人民遊撃隊の創建準備で大きな困難に遭遇していた。李光は別働隊の組織後も活動方向が定まらず、困っていたのである。わたしは、反日部隊と統一戦線を結ぶうえでの若干の原則的な問題と方途について所見を述べ、別働隊の活動方向と方法について具体的に討議した。彼は、わたしの意見を素直に受け入れた。

 粟とコウリャンを混ぜた飯にみそ汁、山菜のあえ物という粗末な食事だったが、母は李光を心からもてなした。李光もわたしの母を慕い尊敬した。母の深い愛情に李光が感動し、李光の若者らしい情熱と純朴な性格が母を満足させた。

 われわれが反日人民遊撃隊を創建したのは、李光が興隆村に滞在しているときのことだった。病中にもかかわらず、哲柱と一緒に遊撃隊を訪ねた母は、李光の銃にさわりながら、こんな銃があったらほんとうの戦ができる、独立軍のように火繩銃しかなくてはどうやって日本軍に勝てるというのか、あなたたちが軍隊をつくってりっぱな銃をかついでいるのを見ると、積もり積もった恨みが晴れるようだ、あなたたちのお母さんが見たら、どんなに喜ぶだろうか、お母さんたちはわが子が怠け者だったり不良だったりすれば胸を痛めて泣くだろうけれど、祖国のために銃を取って戦場に向かう息子を見れば、うれし涙を流すだろう、と語った。

 汪清に帰った李光は、救国軍工作に本格的に取り組んだ。われわれが安図で于司令との合作に成功したのは、反日部隊工作のりっぱな経験となった。反日部隊工作は最初かなり順調に進み、実りも大きかった。多くの救国軍部隊がわれわれとの反帝共同戦線に積極的に呼応した。救国軍部隊との統一戦線実現の切り札は、共産主義者の手中に握られていたのである。

 ところが極左分子が統一戦線を妨害した。彼らの「上層打倒、下層獲得」という冒険主義的なスローガンは、反日部隊上層部の強い反発と怒りを買い、少なからぬ救国軍指揮官をして共産主義者を警戒させたり、弾圧、殺害させたりした。

 そんなとき李光が反日部隊工作に取り組んだのは、歓迎すべきことであった。彼はそのために、居住地を北蛤蟆塘から太平溝に移したほどであった。わたしは太平溝の彼の家をしばしば訪れた。300戸ほどの農家からなる太平村は、地理的には小汪清、腰営口、老黒山を結ぶ三角地点の中心にあり、ほど遠くないところにソ満国境があった。そこから羅子溝までは8〜12キロであった。救国軍の主要集結地はどれも太平溝の近くにあったのである。李光の指揮する別働隊の駐屯地は、羅子溝の市内から2キロほど離れた繭廠溝であった。李光の家は、太平溝の本村の川辺の斜面にあった。ぽつんとした一軒家で、印象的なのは家のかたわらのつるべ井戸だった。それで、彼の家はつるべの家と呼ばれていた。わたしは、その井戸の水をよく飲んだ。蒸し暑い夏の日、わたしが汗をたらたら流して訪れると、彼はいつも冷たい井戸水を汲んでくれた。そのうまかったことは、いまでも忘れられない。

 わたしは羅子溝へ行くときはきまって太平溝に寄り、李光の両親に挨拶をしたものである。周保中、陳翰章、胡沢民、王潤成など中国の共産主義者と、救国軍との統一戦線問題を討議した最後の反日兵士委員会も李光の家でおこなわれた。

 李光は小汪清防御戦をはじめ大小の戦いで、指揮官としてのすぐれた手腕を発揮した。彼が身をもって示した模範は、救国軍兵士を感動させ、軍事・政治幹部としての彼の名声は東満州の民衆に広く知れわたった。呉義成が別働隊を真の反満抗日の武力として信頼し、李光を救国軍前方司令部保衛隊長に任命したうえ、護衛隊員をつけたくらいであった。

 その後、李光は、救国軍との連合抗日をはかって同山好につながりをつけた。同山好は反日の旗をかかげて武器を手にしたのだが、そのころは土匪になりさがっていた。いまもそうであるが、当時は少なからぬ人たちが土匪と馬賊を同一視していた。満州地方には、以前から馬賊が多かった。清末に中国本土から大勢の漢民族が山海関を越えて満州地方に流れこんできたとき、彼ら移住民の侵入から農土を守り、祖先が残した遺産を守るために、土着民は自衛的な武装隊を組織しはじめた。これが日本人から馬賊と名づけられた、満州における義賊の起こりであった。馬賊団は、「山賊」や「流賊」のように卑俗な盗賊とは違って、自己流の掟をもつ義賊として行動し、他人の財物を奪うような強盗・強奪行為はしなかった。馬賊社会は、中央の政治的権力の手が届かない辺地にあり、中央権力には抵抗的であった。

 馬賊の生活は、武装をぬきにしては考えられなかった。彼らは、常に武器を手から離さなかった。それは、人びとの羨望や憧憬を引き起こしさえした。「女嫖男匪」という言葉が満州地方でおおっぴらに使われていたのは偶然ではない。「女嫖男匪」とは、女は嫖子つまり遊女になり、男は匪賊になれという意味である。

 馬賊社会のきびしい掟がいつもきちんと守られていたかというと、そうではない。少なからぬ馬賊部隊は、生活の維持が難しくなると堕落して土匪に転落した。馬賊団を見ても、どれが義賊でどれが土匪か正体の見きわめにくい集団もあった。かなりの匪賊が義賊を装っていたからである。当時、義賊の仮面をかぶった匪賊の群れが帝国主義侵略勢力や軍閥に政治的に買収されて、無残な殺戮行為をおこなっていたが、その被害は想像を絶するものがあった。

 反日部隊の工作中に適用された極左分子の「上層打倒」戦略の反作用で、多くの救国軍指揮官が共産主義者に恨みをいだき、強い反感を示していたとき、それにいちはやく目をつけ、反日勢力の内紛を助長したのが、日本の謀略家であった。「夷を以って夷を制す」とか「匪を以って匪を征す」というのは、謀略にたけ、離間の策に長じた日本帝国主義者が他人の手を借りて反日勢力をいがみ合わせ、切り崩そうとする悪名高い手法であった。

 彼らはこの手を使って、同山好に李光別働隊全員を惨殺させたのである。彼らは、まず李光にたいする帰順工作からことをはじめた。李光を捕らえた者には多くの賞金を与え、本人が帰順すれば高い地位を与えるという傲慢無礼な張り紙がいたるところに貼り出された。呉義成の部隊を瓦解させるには共産主義者の影響を防ぐべきであるが、その張本人は李光であると断定したのであった。李光の別働隊は、救国軍の心臓部に深く入りこんだ統一戦線の突撃隊といえた。日本の情報機関は彼の真価を十分に知っていたのである。

 土匪の典型といえる同山好は、政治的に愚鈍なうえ、暴虐で気紛れな男だったので、日本の謀略家に手もなく買収された。李光の意図を百も承知の彼は、日本人の書いた脚本に従って、老黒山で連合作戦問題をもって談判しようと、餌を投げた。李光の失策は、その餌に前後をわきまえずとびついたことである。同山好が日本人の手先に転落したことを知るよしもなかった李光は、救国軍前方司令部書記長の王成福など十数人の別働隊員をともなって老黒山へ向かった。党組織は、同山好のような粗暴きわまる土匪の頭目と接触するのは危険だから熟考するようにと警告したが、彼は、反帝共同戦線路線の貫徹なしに革命の前進は望めない、危険を恐れて談判を避けてはなにもできないではないか、たとえ死地であっても行くべきだ、と主張し、初志を曲げなかった。

 同山好は酒席を設けて接待したあと、李光一行を惨殺した。生きて帰れたのはただ一人だった。土匪は、皆殺しにしたものと思って立ち去ったのだが、われわれが彼を救い出したのである。しかし彼もその後、羅子溝と老黒山のあいだの樹林地帯で戦死した。

 李光は28という若さで不帰の客となった。彼の誤りは警戒心の欠如にあった。同山好と統一戦線を張るには彼らを思想的に改造すべきであったが、彼はたんに人間的な親交を結ぶことでそれを実現しようとした。それで老黒山付近の山小屋で謀殺されたのである。

 わたしは李光の死に、乱れた気持ちをしずめることができなかった。そのとき、わたしの感情を支配したのは、部隊を引き連れて同山好一党を誅殺しようという復讐心だった。反日部隊と共同戦線を結成するのが共産主義者の時代的義務であり、課題であり、総体的戦略であるという理性の叫びがなかったとしたら、わたしはそうした感情の噴出をおさえきれず、血なまぐさい復讐戦を決行していたであろう。

 東満州のすべての同志が、同山好の許すまじき罪業に怒りを爆発させ、血には血でと叫んだ。極左妄動分子は、なぜ軍隊を出動させて李光を惨殺した階級の敵に報復を加えないのか、と不平を鳴らした。遊撃隊が同山好を討たないのは右傾だ、と騒ぐ人たちもいた。

 反帝共同戦線に向けた共産主義者の偉業は、李光の犠牲によって、とりかえしのつかない打撃を受けた。彼は、千人の敵とも替えることのできない貴重な同志であった。敵はわたしから、朝鮮革命を担って立ついま一人の有力な人材を奪い去ったのである。

 わたしは身を裂かれるような痛みを唇を噛んで耐え忍び、考え、また考えた。抗日戦争を開始してわずか1年のあいだに、なんと多くの戦友を失ったことか。どうして同志たちは、親交を結ぶ早々二度と帰れぬあの世へ立ち去ってしまうのだろうか。果たして、これは宿命だろうか? わたしは拳を握り、李光と一緒に抗日大戦の戦略を論じた小汪清河のほとりをあてもなくさまよいながら、わたしをこのように悲しみのふちに追いこむ運命のたわむれを呪った。そして決心した。

 李光の死を無駄にしてはならない。彼があれほど精魂を傾けた反日部隊との統一戦線を成功に導けば、彼も草葉の陰で喜んでくれるだろう。

 李光の死は、わたしに呉義成との談判を急がせた。彼の死は、わたしを統一戦線から遠のかせたのではなく、かえってより近くに、もはや引き返すことも立ち止まることもできないほど近づかせた。呉義成に会おう! 彼との談判に成功すれば李光の恨みも晴らすことができる。わたしはこう考えて、白昼、羅子溝への行軍を急いだ。李光の家族に悔やみを述べようと、太平村に立ち寄ったところ、夫人の孔淑子が両手を広げて行く手をさえぎった。

 「将軍、行ってはなりません。そこは将軍の行くべきところではありません。夫もそのために… 将軍、お願いです」

 涙に濡れた夫人の切々とした声が、わたしの行軍に拍車をかけたのは、なんとも不思議なことであった。

 7つか8つになる少年の肩をいだいた夫人はチョゴリの付け紐で目頭をおさえ、声もなく肩をふるわせていた。彼女にいだかれていた少年が、李光の遺児李保天であった。少年も涙ぐんでわたしを見つめていた。わたしが訪ねていくと、庭で遊んでいても「成柱おじちゃん!」と叫んで、しおり戸の外へ走り出してくる保天だった。いつかは、わたしにまとわりついて、草バッタをつくってくれと、うるさくせがんだこともあった。母親に手を取られて出てきた保天を見ると、その願いを聞いてやれなかった自責の念が胸をうずかせた。この子が、以前のように、わたしにまとわりついて草バッタをつくってくれとせがんだら、どんなに気が休まることだろうか。せめて、わたしを「おじちゃん」と呼んで親しんだいつもの腕白小僧らしく肩車に乗せてとしがみついてくれれば、少しは気が晴れようものを…。

 ところが保天はなにもいわず、涙をぽろぽろ流していた。わたしの前には、人なつこく元気のよいいたずら小僧の李保天ではなく、七色の虹のような童謡時代に別れを告げ、早くも苦悩の世界に飛びこんだ沈うつで小心な少年が立っていた。父親の死は、少年から草バッタを欲しがる楽しい童心の世界を奪ってしまったのである。保天は10になる前に両親と死に別れたわけである。

 保天はもう二度と、わたしにそんなことをねだらないだろう。その小さな魂にはただ、父の死という悲劇的な出来事だけがみちているのである。わたしはやるせない気持ちにかられて保天の顔を見つめた。

 「保天! 元気でいるんだぞ。きっとお父さんのかたきを討ってくるからな」

 喉から危く、こんな言葉が出かかった。しかし、わたしは別なことをいった。

 「保天! おじさんは喉が乾いてしょうがない。おじさんがここへ来るときは、いつもおまえのお父さんが水を汲んでくれたんだよ。きょうはおまえがお父さんに代わって、水を一杯汲んできてくれないか」

 夢想にふけっていたような保天の瞳に生気がよみがえったのは、その瞬間だった。台所へ駆けこんだ保天は、真鍮製の器に井戸水を汲んで現れた。そのちょっとした動きが、少年のふさいでいた気分を一変させたようである。器の揺れる水を見ると、いまさらのように李光の姿がまぶたに浮かんだ。その小さな水面に、李光と保天の顔が二重写しになって見えたとき、涙がどっとあふれそうになった。わたしは少年の誠意を無にしてはと、器の水を残らず飲み干した。保天は手の甲で鼻の下をぬぐうと器を受け取り、親しみのこもった目をわたしに向けた。

 わたしはほっとして、部隊に出発命令をくだした。そして別れの言葉をかけようとしたとき、なにを思ったのか、保天はやにわに家へ向かって走り出した。どうしたんだろうと不審に思っていると、保天は大急ぎで走って帰り、掌を広げてわたしの白馬にエンバクを食べさせた。その無言の行動が、こらえにこらえていた涙をわたしの目からあふれださせた。われわれが川を渡り、遠く見えなくなるまで、保天は川辺に立ちつくしていた。馬上からふりかえると、少年の姿が白っぽい点となっていた。

 (保天! 大きくなったら、お父さんの遺志を継いで革命の道を進むのだぞ)

 わたしは手を振って、保天の将来を祝福した。その後、遊撃区を解散し、第2次北満州遠征をはじめたときに、わたしは李光の家に寄って1週間ほどすごし、孔淑子と保天の身の振り方を相談した。

 彼はその後、わたしの念願どおり革命家に成長した。林溝で鉄道労働に従事していた彼は、日本の軍用列車を襲撃しようとし、それが発覚して、2年間、獄中に捕らわれていた。まだ20になる前のことであった。解放(1945年)とともに出獄した李保天は、祖父の生まれた祖国の大地と空と水が恋しくて、その秋、丹東をへて平壌やソウルをひと巡りしたあと、林溝にもどった。その旅は20歳の多感な、前途洋々とした青年李保天の胸中に強烈な印象を残した。父親の友人がいる祖国で建国の熱いるつぼに身も心も投げ出したいという衝動に駆られながら、後ろ髪を引かれる思いで、彼は鴨緑江の鉄橋を渡った。祖国には、父親が望んでいた新しい世界があり、彼自身が幼いころから夢見てきた楽園があったのである。

 ところが、その楽園が5年後、戦火に包まれた。年若い共和国は、存亡をかけて決死の戦いをくりひろげた。数百里はなれた外国で硝煙の臭いをかいだ中国人民解放軍の中隊長李保天は勇躍、朝鮮戦線へ志願し、人民軍に編入された。機械化師団で指揮官を勤めた彼は、1950年秋惜しくも戦死した。

 李光の炎のような生涯と革命活動を誰よりも深く把握していた金正日組織担当書記の指導で、1970年代に彼をモデルにした劇映画『最初の武装隊伍であった話』が制作、上映された。それ以来、李光の名は全国に知られるようになった。

 李光の夫人孔淑子は、遊撃隊に入隊し、裁縫隊員として活躍し戦死した。わが子の死から受けた悲しみを革命軍援護の熱意でまぎらわせていた李光の父親李周平と姉李鳳珠は敵の拷問がたたって早く世を去った。李保天に息子が一人いたのは不幸中の幸いだった。その子はいま銃を取り、祖父の世代が切り開いた道、そして父の世代が広げたその道を力強く前進している。

 こうしてみると、李光の一家は、3代にわたって革命軍に服務していることになる。一家3代が銃を取るというのは、じつに聖業ともいえる誇らしいことである。李光の孫が他の分野を望まず、祖父と父親の跡を継いで軍服を着たのは、たいへんりっぱなことである。

 容貌も物腰も歩き方も祖父とそっくりな若い将校が、母親と一緒にはじめてわたしの前に現れたとき、わたしは、60年前に世を去った李光が生き返って訪ねてきたのではという錯覚にとらわれ、胸が熱くなった。

 25歳で夫と死別した李保天の妻が40年のあいだその子1人を頼りにし、りっぱに育てて李光の代を継がせ、革命精神をはぐくんだのは万人の祝福を受けてしかるべきであろう。

 李保天の息子はわたしに会ったとき、自分はもちろん、子どもたちにも軍服を着せて、わたしと金正日元帥に代を継いで忠誠をつくしたい、と決意を述べた。わたしは、それが決して言葉だけのものでないことを十分に知っている。李光の家門は、空談義を好まないのである。

 李光が死なずに解放なった祖国に帰っていたとしたら、なにをしたであろうか? わたしはいまでも、ときどきこんなことを考えてみる。李光の社会活動は教育からはじまっていたし、冬の明月溝会議のさい、李青山の家で吐露した理想も教壇に立つことであった。

 しかしわたしは、彼が解放された祖国に生きて凱旋していたなら、姜健や崔賢のように軍服を着たであろうと思う。彼は、困難な持ち場をみずから進んで担当し、一生を送った献身的な共産主義者であった。



 


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