金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 白馬の思い出


 
 

 正直なところ、わたしはこの逸話を公開する考えはなかった。人生80をそうそうとたどるこの文章で、軍馬1頭にまつわる話など取るに足らぬものである。述懐すべき英雄や恩人はどれほど多く、出来事はまたなんと多いことか。

 だが、この逸話をわたしだけの秘密にしておくには、白馬についての追憶があまりにも切なく、それを伝えずにはいられない衝動があまりにも強いのである。まして、その白馬は、多くの人たちとの忘れがたい情義でからみ合っている。その人たちの話もやはり、埋もれたままにしておくには忍びがたい。

 わたしがはじめて軍馬を得たのは1933年の春であった。ある日、十里坪人民革命政府の幹部がその一帯に駐屯していた遊撃隊員と一緒に、1頭の白馬を引いてわたしを訪ねてきた。当時、汪清大隊の指揮部は、小汪清馬村梨樹溝の谷間にあった。白馬1頭のための随行にしては大げさすぎた。彼らは指揮部の前庭に馬をつないで、わたしを呼び出した。

 「険しい道をたくさん歩く金隊長に乗っていただこうと、馬を1頭用意しましたから、受け取っていただきたいのです」

 十里坪人民革命政府の幹部が一行を代表してこう言った。わたしは、この代表団の突発的な出現と、儀式めいた厳かな雰囲気に気を呑まれてしまった。そのうえ、現在の編制でいえば1個分隊をはるかに上回るものものしい随行メンバーには驚いてしまった。

 「これは分不相応です。やっと20歳の年で白馬に乗るというのは、ぜいたくすぎるではありませんか」

 わたしがこういって辞退すると、年輩の十里坪の幹部はいまにも飛び上がらんばかりの身ぶりをしてみせた。

 「分不相応とはなんですか。日本人は大隊長程度でも将校だからといって馬に乗り、威張りちらしているのに、わたしらのパルチザン隊長が日本軍より見劣りしてよいものですか。伝記物語によれば、紅衣将軍郭再祐(カクジェウ)も馬に乗って義兵を指揮したというではありませんか。軍隊を指揮するには、なにはともあれ威風がなくてはなりません」

 「これは、どこで手に入れた馬ですか。まさか農家で使っていた役馬ではないでしょうね」

 十里坪の幹部はあわてて両手を横に振り、わたしの言葉をさえぎった。

 「役馬だなんて、そんなはずはありません。これは役馬でなくて愛玩用の馬です。先日、十里坪で政府委員に選出された下男出身の老人を覚えていますか?」

 「覚えていますとも。わたしがその老人の支持討論をしたではありませんか」

 「この馬は、その老人が金隊長に差し上げる贈物なのです」

 「あの老人にこんなみごとな馬があったとは信じられないですね」

 わたしは鞍にあぶみまでついている白馬をつぶさにあらため、なでてみながらこういった。どう見ても、この白馬は役畜として使ってきた馬に違いなかった。十里坪のような谷間に愛玩用の馬をもった農夫がいるということ自体が信じられなかった。地主の家で下男をしていた老人がこんなにすばらしい愛玩用の白馬をもっていたということは、なおさら疑わしかった。けれども、十里坪の幹部は愛玩用の馬だと言い張った。役馬だといえば、わたしに送り返されるのではないかと心配している様子だった。わたしに白馬を贈ってよこした下男出身の老人の名前がなんであったか、いまは記憶に残っていない。ただ、姓が朴氏であったことだけはおぼろげながら思い出される。朴老人がわたしに贈った白馬には、そのまま聞き流すことのできない涙ぐましいいわれがあった。

 話は、彼が地主に暇を出されて下男奉公を辞めたときにさかのぼる。朴老人が年老いて働きぶりが悪くなると、地主は彼に暇を出した。そのとき地主が報酬のかわりに老人にくれたのは、生まれて数か月もたっていない毛白の子馬であった。生まれてすぐ、親馬の下敷きになってひどい傷を負ったその子馬は野外に出て跳びはねることもできず、栄養不良の状態で気力もなく、馬小屋で不遇な日々を送っていた。惨めなほどやせ細った馬、かろうじて生きのびている死馬にひとしい子馬であったが、けちな地主はそれを恩に着せるのだった。

 朴老人はその子馬を抱き取り、涙ながらに小屋がけの住まいにもどってきた。数十年のあいだ地主のために身を粉にし、あらゆる苦役にたえて奉公してきた代償がこの子馬であったというのか、こう考えると、人生というものはこんなにもむなしく、世間はこんなにもせち辛いものなのか、という悲しみが胸にこみあげてきた。けれども、膝もとに一人の肉親もなく孤独に生きてきた朴老人は、その子馬を掌中の珠のように大事にし、愛情深く育てた。その甲斐があって、やがて子馬はりっぱな白馬に育った。彼は孤独にさいなまれるたびに、白馬のそばに座っては、ぐちったり、訴えたり、嘆いたりするのであった。白馬は、彼にとって愛する息子であり、娘であり、親友であったのである。一生を日陰者のように生きてきた朴老人は、自分を馬や牛のような役畜と同列に置き、世間のあらゆる冷遇を当然なこととして受けとめてきた。人びとから人間並みに扱われると、かえって気詰まりになり、怖じ気づいてしまうのであった。

 ところが、この老人が十里坪遊撃区の政府委員に選出されたのである。その日、彼がどれほど感激し、どれほど涙を流したかは、ここであらためて説明するまでもないと思う。その感激は、その日の夕方、政府の庭に老人がみずから引いてきた白馬が無言のうちに説明していた。

 「会長さん、わたしに代わってこの白馬を金日成隊長に差し上げてください。きょう、わたしは生まれてはじめて、あの方のおかげで人間らしい扱いをしてもらいました。この胸にいっぱいのありがたい気持ちをどう現してよいものか、数年かけて肥え太らせてきたこの愛馬を差し上げますから、わたしの気持ちをよく伝えてください」

 これが人民革命政府の会長に託した朴老人の言葉だった。そういういわれまで聞かされては、白馬を受け取らないわけにいかなかった。

 「辞退したいところですが、気持ちが気持ちだけに、ありがたくいただくと老人に伝えてください。ところで、一人でよいはずなのに、どうしてこんなに多くの人が来たのですか」

 わたしは十里坪の幹部から渡された手綱を手にしながら、誰にともなく尋ねた。

 「金隊長さんの馬上の姿を一度なりとも拝見したくて、軍隊と人民が代表を選んできたんです。隊長さん、さあ鞍についてください!」

 十里坪人民革命政府の幹部が真剣な顔で言うのだった。第2中隊の隊員もこれに声を合わせて、早く乗馬するようにとせかした。彼らはわたしが馬にまたがるのを見届けてから、満足げに十里坪へ帰っていった。朴老人の誠意と恭敬の念はこのうえなくありがたかったが、わたしは数日が過ぎてもその白馬に乗らなかった。わたしが馬にまたがり、ぜいたくをするようになれば、人民がわたしをよく思わなくなり、隊員の指揮官を見る目も違ってくるだろうという憂慮を感じたからである。

 わたしは兵器廠にいた李応万にその馬を譲った。ブローニング拳銃を一箱買い入れてきて遊撃隊に入隊したという例の李応万である。非常に大胆で勇敢な男であったが、脛の銃創をこじらせて脚を切断する破目になった。李応万の脚の手術をしたのは、小梨樹溝の大隊兵舎付近にいた遊撃区病院の医師張雲甫(チャンウンボ)であった。彼は小汪清の医学界を代表する唯一の人物で、内科と外科を受け持つ両刀遣いの医師であった。医師が一人しかいないので、一人でさまざまな治療にあたらなければならなかった。

 当時、遊撃区病院の管理を担当していたのは互助会であり、患者の派遣状に印判を押すのは人民革命政府の会長であった。この互助会が医師協議会に代わる権限をもち、銃弾で骨を砕かれた患者にたいしては一律に手術をせよという決定を採択した。医薬品がなく、これといった治療対策もなかったので、そういう極端な決定まで下さざるをえなかったのである。張雲甫は時計のぜんまいばねでメスをつくり、李応万の脚を切断した。こうして、李応万は遊撃隊の活動に参加できない身体障害者になった。彼は、退院後しばらくのあいだ病院の近くにあった梁成竜の家に留まり、その母親の看護を受けた。李応万はわたしが譲った馬を有効に乗りまわし、すこぶる明朗な兵器廠生活を送っていた。

 その後しばらくして、わたしには別の白馬が1頭めぐまれた。この白馬は大荒溝戦闘のさい、われわれの部隊が日本軍からろ獲したものであった。転角楼戦闘のときにろ獲した馬だと回想している抗日闘士もいるそうだが、わたしはあえてそれを否定しようとは思わない。どこで手に入れた馬かということは本題ではない。肝心なのは、日本軍将校の馬がわれわれの手に入ったということであり、その馬が万人の人気の的になったすばらしい軍馬であったということである。

 そのとき、われわれは伏兵戦を展開したのだが、その白馬の主人である日本軍将校は不運にも、われわれの第一の標的となって鞍から転げ落ちた。ところがおかしなことが起こったのである。主人を失った白馬は日本軍の方に走らず、われわれの指揮部が占めている山腹めがけてまっすぐに駆けのぼってきたのである。伝令の゙曰男(チョワルナム)は、白馬が現れると、指揮部が敵の目標になりそうなので、なんども道路の方へ追い払った。伝令が木の株や薬莢まで投げたりしたが、馬は主人の方へもどろうとはせず、またもわれわれの方にもどってくるのであった。しまいには四つ足でふんばり、動こうとさえしなかった。

 「行きたくないとふんばっている動物を追い払うことはないたろう。いじめるにもほどかある」

 わたしは伝令をたしなめた。そして馬のたてがみをなでてやった。伝令はあわててわたしの前に立ちふさがり、声を張りあげた。

 「敵の注意が指揮部に集中したらどうするんですか!」

 「敵はいま指揮部を見分けるどころではない。もう尻に帆をかけているではないか」

 馬が遊撃隊のろ獲物になったのはいうまでもない。隊員たちは、日本軍将校に奉仕していた馬がわが方に寝返ってきたことに神秘さを付与しようとした。

 「こいつは、朝鮮人と日本人の見分けがつくんだ。われわれが朝鮮人だと判断して、ただちに義挙を断行したではないか」

 馬牌を見て、白馬の出産地が慶源(セッピョル)であることを確かめた隊員がこういった。他の隊員はもっと信憑性のある義挙の動機を見つけだした。

 「日本軍の将校に平素ひどく虐待されたようだ。でなかったら、主人がおだぶつになるやいなや、われわれの方に寝返ってくるはずはない」

 われわれは戦場から撤収して馬村へ帰ってくる途中、ある中国人の老人にその馬を役畜として利用するようにといって与えた。間島では、牛と同じように馬も役畜として広く利用されていたのである。ところが、その後いくらもたたず、老人はわれわれの部隊を訪ねてきて、馬を返すというのであった。足首が細く、ひ弱で、役畜としては使い道がないというのである。そのうえまた、手におえない性癖で、自分など近づけようとせず、とうてい手なずけることができないというのである。戦友たちはその話を聞いて、「どう見ても、この馬はわれわれと一緒にいる回り合わせなのだ」といった。そして、わたしの腓腹筋痛を気遣い、馬に乗って歩くよう勧めた。1、2年で終わる遊撃戦争でもないのに、痛む脚をそんなに酷使しては取り返しのつかないことになると警告するのであった。事実、わたしはそのころ、行軍のたびに腓腹筋痛のために悩まされていた。幼いころからあまり歩きすぎて生じた病気なのかも知れない。吉林時代には、それでもときおり汽車に乗ったり自転車などを利用したものだが、恒常的な封鎖状態におかれている汪清一帯では、そんなぜいたくを望むことができなかった。山並みを越え、日に数十キロも強行軍をしなければならない遊撃区での生活は、歩行が思うにまかせぬわたしにとって肉体的に大きな負担であった。

 しかし、わたしは今度も戦友たちの勧めを退けた。すると、同志たちは党会議を開き、何月何日から金日成同志は馬に乗って歩くこと、という決定を採択してしまった。彼らは、梁成竜大隊長まで馬に乗るように決定書を巧みに仕組んだ。一人だけ馬に乗せることにしては、わたしが頑として聞き入れないことを計算に入れてのことであったようである。組織の決定なので、それ以上さからうことができなくなった。

 はじめて馬に乗った日、戦友たちはわたしを取り囲み、手をたたいて喜んだ。馬籍簿の記録を見ると、慶源軍馬補充部産となっていた。ときには薄灰色に見え、ときには雪のように真っ白に見える、きりっとした馬であった。ひづめが競馬用のように細く、走りだすと飛ぶように速かった。この馬はわたしを乗せて2年ほど戦場を駆けめぐり、ときには人跡未踏の千古の密林をつきぬけ、わたしとともにあらゆる困難を体験した。そのためか、この白馬がときおりわたしの追憶のなかによみがえり、胸にしみじみとした情趣をかもし出すのである。

 わたしは一日の日課を馬の世話からはじめた。朝早く起きて馬のこうべをなでてやり、ほうきで体のほこりを払ってやったりした。馬の世話をした経験もなく、要領がわからないので、万景台の祖父がよく牛の背をほうきで払っていたことを思い出し、それを真似たのである。ところが、白馬はほうきが体に触れるたびにわたしのそばから逃げだすのであった。わたしが白馬をさかんに追いまわしているとき、李治白老が鉄製の櫛をもってきて、これで一回背中を掻いてやればおとなしくなるだろうといった。いわれたとおりその櫛で背中を掻いてやると、馬は地面に足を踏まえたままじっとしていた。

 わたしは馬の背に鞍をのせるとき、鞍の皮とモケット地のあいだから小さな袋を発見した。袋の中には馬籍簿と記された小さな手帳と鉄製の櫛、毛ブラシ、雑巾、鉄串などが入っていた。鉄櫛、毛ブラシ、雑巾などの用途はすぐ見当がついたが、先がへらのような形の鉄串だけはその用途がわからなかった。ところが、わたしが鉄串を手にして白馬に近づくと、またたくまに奇跡が起こった。白馬が曲馬団の馬のように片足をぱっと上げたのである。これは、鉄串とひづめとの関係を示すなんらかの暗示に違いなかった。だが、それがなにを意味するのか、謎はなかなか解けなかった。馬は、もどかしげにわたしのまわりをぐるぐると回っていたが、やがてやや離れたところに打ちこんであった杭のそばまで行くと、その上に片方の前足を乗せた。馬蹄のすきまには、土や小石、わらくずなどがいっぱい挟まっていた。鉄串でそれを取り除いてやると、馬はまた別の前足を持ち上げ、臆する色もなくわたしの方を見るのであった。

 このように、手探りするようにして馬の飼養法を修得しているとき、折よく小汪清の親戚を訪ねてきた国内の種馬飼育場の人が、わたしに馬の飼養の秘訣と乗馬の要領を教えてくれた。彼の話によると、馬は体にほこりがついたり、ひづめに陶器のかけらなどが挟まるのをいちばん嫌うので、1日に2回程度きれいな水で洗ってやり、なでたり掻いたり、油を塗ってやったりし、土やわらくずなどをそのつど取り除いてやらなくてはならないというのであった。とくに、馬が雨に濡れたり汗をかいたりしたときは、よく拭き取ってやらねばならないというのである。馬の飼料でいちばんよいのは、乾草とエンバクで、大麦や大豆もよい飼料になるということ、人間と同じように馬も毎日少量の塩を必要とすること、過度の運動のあとは水をたくさん飲ませてはいけないということ、これらのことも種馬飼育場の人から教えてもらったことであった。

 こうした過程で、わたしは白馬と親しくなった。馬はわたしの求めと意思にいつも従順であった。わたしの目つきや手ぶりを見ただけでも、自分のなすべきことを察して相応の奉仕をしてくれる白馬の目ざとさは驚くばかりであった。これが果たして人間でなくて馬だというのか、とすべての人が驚嘆するほど、白馬の性質や動作には芸術的に完成されたある種の人格さえ思わせるものがあった。

 だが、白馬は賢く忠実である反面、性質が非常に荒々しかった。主人以外の人間が自分に触れたり鞍につくのを絶対に許さないのである。気まぐれ者が現れて、馬に乗ろうと手綱を取ると、ぐるぐる回ってすきを与えず、ときには後脚で蹴ったり嚙みつこうとさえした。

 伝令の゙曰男も白馬に乗ろうと試みて、そのつどそっけなくはねつけられた。最初、彼は白馬を縁側の横に引き止め、櫛で横腹を掻いてやりながら、素早く身をおどらせたのだが、鞍に体が触れたとたん、馬にさっと身をかわされたので、地べたに尻もちをついてしまった。こんなぶざまな目に合ったのち、彼は奇抜な乗馬術を考えついた。足首まではまりこむ溝の中に馬を連れこみ、馬が草をはんでいるあいだに、そっとまたがろうというのであった。しかし、それも成功しなかった。今度も溝に振り落とされてしまったのである。年少の伝令は白馬を立木に縛りつけ、鞭をふるって腹いせをした。それ以来、白馬は彼がそばに近づくだけでも逃げだしたり、蹴ろうとした。゙曰男は口惜しさのあまり泣きべそをかいた。自分がいくら誠意をつくしても馬が気を許さず、乗せてくれようともしないのだから、中隊へ帰ると言いだした。わたしは彼に、白馬がおまえを寄せつけないのは、白馬にそそぐ真心が足りないからだ、だからもっと真心をつくすべきだといって、馬の飼い方を一つひとつ教えてやった。彼はわたしに教えられたとおり、白馬に真心をつくした。白馬がその真心に真心をもってこたえるようになったのはいうまでもないことである。

 あまりにも遠い以前のことなので、こまごまとした事柄はほとんど忘れてしまったが、いくつかの場面だけはいまなお鮮やかに眼前によみがえってくる。

 一度はこんなこともあった。呉白竜(オベクリョン)が小隊長であったときのことである。わたしは羅子溝地方で大衆政治工作を進めるため、呉白竜小隊を率いて馬村を出発した。そのころ、わたしは1日平均2、3時間しか睡眠がとれなかった。戦闘をし、訓練をし、大衆工作まで終えると、寝床につくのはたいてい1時か2時であったが、仕事がつかえたときは夜を明かさなければならなかった。一行が夾皮溝嶺にさしかかったとき、わたしはつい馬上で居眠りをしてしまった。前日の馬村か十里坪での徹夜のためであった。白馬が小隊の先頭を進んでいたので、一行のうちわたしが居眠りをしているのに気づいた隊員は一人もいなかった。ところが不思議なことは、小隊が夾皮溝嶺を越えるときから馬の歩調が違ってきたというのである。これに気づいたのは、ほかならぬ呉白竜小隊長だった。白馬は前脚をぴたりと寄せて歩幅を狭くし、用心深く坂道を登るのだが、その歩みがあまりのろいので、呉白竜がいらいらして癇癪を起こしたくらいであった。

 (イギリス紳士のような馬にしては歩調が少しおかしい)呉白竜の独白であった。

 白馬は、下り坂でも後脚をすり寄せてのろのろと峠を下った。そのうちに隊伍は遠く前方を進んでいた。しんがりに取り残されたのは、白馬とわたしと呉白竜だけだった。呉白竜はわたしが心配で落ち着かなかったが、上官がまたがっている馬に鞭をあてることもできず、一人で気をもんでいた。白馬は峠を下りきると、夾皮溝川の岸辺に倒れていた朽木の前で立ち止まった。倒木の一つくらいはらくらくと飛び越えてきた名馬が、なんでもない障害物の前で立ち止まるのを見た呉白竜はますますおかしく思った。

 (馬がこんなに横着をきめこんでいるのに、なぜ怒りもせず、鞭もあてないのだろうか)

 こう思いながら鞍にまたがっているわたしを見あげた彼は、そのときになってやっとわたしが居眠りをしていることを知ったのである。

 「これはすごい馬だ!」

 小隊長は感にたえず声を張りあげた。白馬は前脚で倒木をトントンと叩いた。その音でわたしは目を覚ました。

 「この白馬にきょうはご馳走をしてやりましょう」

 呉白竜はにこにこしながら馬のたてがみをなでた。わたしが居眠りしているあいだになにか珍事でも起きたというのだろうか。

 「急にご馳走とはどういうわけだね?」

 呉白竜は、白馬が夾皮溝嶺をどのように越え、また倒木の前に来てどのように立ち止まったかを、得意げに話した。

 「わたしの父の話では、昔は国随一の馬を国馬といったそうですが、わたしたちもこれからこの白馬を国馬と呼んではどうですか」

 「いや、国馬では物足りないね。小隊長の話どおりだとすれば、天下馬と呼んでも惜しくないくらいだ」

 「天下馬というのはどういう意味ですか?」

 「天下第一の馬という意味だ」

 「だったら天下馬と呼ぶのに賛成です。呉仲和兄さんの話では、昔、馬に高い位まで授けた国があったというではありませんか」

 「わたしもそんな話を聞いた覚えがある。ある国の皇帝は、自分の愛馬に執政官という位まで授けたそうだ。その馬は象牙の飼葉桶で餌を食べ、黄金の杯で酒を飲みながら、人びとに敬意を払われたというのだ。だとすれば、われわれもこの馬に領議政という位でも授けることにするか」

 「とにかく、この馬は逸物です。背中に目がついているわけでもないのに、どうして居眠りしているのがわかったんでしょうかね」

 わたしが手綱を引くと、白馬は倒木をひとまたぎにして矢のように走りだした。われわれはまもなく小隊とともに羅子溝三道河子の端にたどりついた。ここは、川を挟んで両側に岩がそびえ立っている奇妙なところであった。この川にはイワナが多かった。わたしは草原に囲いの線を引き、白馬の首に手綱をかけてから、隊員たちに大衆政治工作の任務を与えて三道河子、四道河子、老母猪河へ派遣した。そして、川辺で待機していた政治工作員や地下組織の責任者と会って長時間語り合った。対話を終えて白馬のところにもどってきたわたしは、いま一度驚かざるをえなかった。白馬はわたしが線を引いた囲いの中で、さっきのとおりせっせと草をはんでいるではないか。とにかく、この馬はまれに見る逸物であった。

 女性革命家の洪慧星(ホンヘソン)も、この馬のおかげで九死に一生を得たことがあった。彼女は国内で女子高等学校まで通ったインテリであったが、竜井で先進的な青年学生とともに地下工作を展開しているうちに遊撃区を天国のようにあこがれ、汪清へ来て政治工作をつづけた。彼女の父親は、高麗医術を身につけた名医であった。洪慧星は遊撃区へ来て以来、父親から習った医術で遊撃隊員と住民の疥癬の治療に一役買って尽力した。性格がほがらかで人なつっこいうえに高麗医術の心得まであるインテリ出身の容姿端麗で勇敢なこの女性政治工作員は、遊撃区の軍隊と人民からたいへん愛された。

 ある日、わたしは白馬に乗っで曰男と一緒に西大坡へ地方工作に向かう途中、さほど遠くないところから急に鳴りひびく銃声を耳にした。討伐隊が襲来したのではないかという気がして、銃声のひびく方角ヘギャロップで馬を走らせたわれわれは、思いもよらず路上で、一人で苦戦している洪慧星を発見した。地方工作の帰途、敵の待ち伏せにあったのである。敵は大声を上げ、威嚇射撃をしながら彼女を生け捕りにしようとしていた。わたしは交戦現場まで急きょ馬を乗りつけ、逮捕直前の危険をおかして必死に応戦していた洪慧星をすばやく馬に乗せた。馬もわたしの意を察したのか、4キロほどの道を矢のように駆けつづけた。こうして彼女は救われたのである。

 このことがあって以来、遊撃区の人たちは、口をそろえてわたしの白馬を名馬だとほめそやした。洪慧星が百草溝での敵の討伐で犠牲にならなかったなら、いまわたしと一緒にそのありがたい白馬を追憶しているであろう。

 わたしはこの馬に乗って涼水泉子一帯にも何回となく出向き、その一帯を半遊撃区に変えた。羅子溝、三道河子、四道河子、老母猪河、太平溝とともに、涼水泉子一帯の南大洞、北大洞、石頭河子、カジェ谷一帯と図們付近の村には、われわれの組織がくまなく入っていた。

 こんなりっぱな軍馬を他人の手に渡しそうになったことがあったといえば、おそらく読者は信じようとしないだろう。わたしがこの白馬との離別を覚悟しなければならない苦しい事情が生じたのは、呉白竜小隊の隊員と一緒に谷坊嶺であったか、どこかの地方工作に出たときのことである。折しも春の端境期であったので、村人たちは食糧を切らして苦労していた。われわれは、付近の敵を襲って駐屯区域の住民の食糧を何回も調達した。しかし、ろ獲した食糧だけでは、その地域の住民の食糧需要をみたすことはとうてい不可能であった。われわれは極力消費量を減らし、蓄えた食糧を住民にまわす一方、欠食しない程度の質素な食生活をした。そのため、白馬への飼料の供給量も最大限に減らさざるをえなかった。エンバクや大麦、大豆などの高級飼料はいわずもがな、乾草やそれに代わる穀草を手に入れるのもなまやさしいことではなかった。

 忠実なわたしの隊員たちは、白馬のためならなにも惜しまなかった。部隊の活動状況がどんなに困難なときにも、周辺の集落や敵区を走りまわって、白馬に与えるエンバクや塩などを手に入れてくるのであった。なかには、刈り入れの終わった田畑を歩きまわって落ち穂拾いをする隊員もいた。苦労して一つ一つ拾い集めた穀物の穂をもみ砕き、軍服のポケットに大事に入れてきて、それを馬に与える隊員もいた。白馬はそういう隊員が近くに現れると、鼻先で軍服のポケットをまさぐるのであった。

 隊員たちがこのように白馬をいたわり大事にしたのは、わたしへの気遣いからであり、わたしにつくす革命的友情の表示、忠誠の表示であった。わたしはそうした友情と忠誠心が痛いほどありがたかったが、その反面、申しわけない気持ちをおさえることができなかった。彼らが熱心に飼料を用意し、白馬の手入れをするのを見るたびに、わたしの心にはこれ以上こんな待遇を受けてはいけないという反作用が起こるのであった。わたしは、他人の奉仕を心やすく受けられない人間であった。パルチザン時代のわたしの生活でいちばんつらい思いをしたのはどんなときだったか、と問う人がいるとしたら、わたしはこう答えるであろう。隊員から特別扱いをされるときだったと。他人にはほどこされない特別な待遇や特恵がほどこされるとき、わたしは自分を特殊な存在とみなす優越感や自足感よりも、針のむしろに座らされたような心づらい思いをするのである。

 わたしは、まだよくなっていない腓腹筋痛のために数か月は苦労することがあっても、隊員の苦労を軽減するため、忠実なわたしの愛馬を農民にゆずろうと決心した。半遊撃区のようなところへ行って役畜として利用されれば、戦場を駆けめぐらなくてもすみ、殺される恐れもないはずだった。最初は、わたしに白馬の贈物をしてくれた十里坪の下男あがりの老人に与えてはどうだろうかとも考えてみたが、老人が曲解し残念がるように思えてやめることにした。わたしは当直官を呼び、残りの飼料を全部はたいてでもその日の昼の給食は特別にあてがうように指示した。

 「きょうは蓄えの飼料のうちから最上のものを出して白馬に腹いっぱい食わせなさい。そのあとで白馬を山の向こうの村へ引いて行って、その村の反日会長に引き渡しなさい。行くときに残りの飼料も全部持って行くようにし、役畜のない、いちばん貧しい家に白馬をやるようにといいなさい」

 「わかりました」

 当直官はこう答えながらも、部屋を出ようとせず、もじもじしていた。

 「早く行って命令を実行したまえ」

 彼がためらっているのを見て、わたしはきびしく督促した。当直官が出ていったあとで考えてみると、白馬のためにわたしが下した命令はあまりにも不人情であったように思えて後悔した。わたしは白馬に最後の別れを告げるつもりで外に出た。いつもと同じように鉄の櫛と毛ブラシであちこちをすいたり掻いたりしてやり、たてがみを手で何十回となくなでてやった。この馬とともに数百里の道のりを歩んできたのだと思うと、胸が張り裂けんばかりだった。ところが驚くべきことに、わたしを見つめていた白馬の目から、大粒の涙がポタポタと流れ落ちるではないか。わたしは驚いた。この愛馬がどうしてわたしとの離別を予感したのであろうか。白馬は確かに、わたしの顔から、自分に下された宣告がどんなものであるかを知ったようである。わたしはそのとき、白馬のいたいたしい姿を見つめながら、われわれが鞭に物をいわせて意のままにこき使っている動物の世界にも、人間を感動させる美徳があり、その美徳はわれわれが生きているこの世界の美しさをいっそう引き立て、多彩なものにしてくれることをはじめて悟った。

 (白馬よ、許してくれ。おまえとわたしはきょう、名残惜しいが別れなければならないのだ。身を切られるような思いだが、これ以上おまえの背にまたがって楽をするわけにはいかないのだ。わたしのために千辛万苦にたえてきたおまえの苦労にたいしては、一生忘れないだろう)

 白馬のたてがみにしばらく頬を埋めていたわたしは、やがて宿所にもどってきた。その日は心がうつろで一日中仕事が手につかなかった。自分の体面を考えすぎて、つまらぬ決断を下してしまったのではなかろうかと後悔さえした。だが、いったん下した決断を撤回するわけにもいかなかった。わたしは、わが愛する白馬がせめて勤勉でやさしい主人にめぐりあうことを願いながら、当直官の夕刻の報告を待った。ところが、当直官は夕刻になっても姿を現さなかった。その代わり、あたりが暗くなったころ、呉白竜小隊長が夕食の膳を用意してわたしの前に現れ、だしぬけに許しを請うた。

 「規律違反をしたわたしを罰してください」

 わたしは、彼がなにを念頭においているのか見当がつかなかった。

 「規律違反?」

 「報告もせずに、木材所を一か所襲撃しました」

 呉白竜はその襲撃のいきさつをせきこんで説明しはじめた。朝、わたしから隣村へ白馬を届ける任務を受けて小隊へもどった当直官は呉白竜に会い、しかじかの指示を受けたのだが、別のことならいざしらずこの命令だけはとても実行できない、なにか方策はないだろうか、と相談をもちかけた。呉白竜は当直官の考えに同感だった。

 「白馬のために隊員に苦労をかけるのがすまなくて、隊長がそんな命令を下したようだが、あの白馬をどうして隊長のそばから引き離せるというのか。隊長はまだ腓腹筋痛のために苦労しているではないか。われわれが飼料をたくさん用意して意地を通せば、隊長の決心が変わるかも知れないから、君は馬を隣村へやらずに、どこか見えないところにかくまっておきなさい。そのあいだに、わたしが親和木材所へ行って飼料を手に入れてくる。わたしがどこへ行ったかは報告するな」

 親和木材所は、小汪清から4、5里ほどの地点にあった。その木材所の監督のなかには、呉白竜の知り合いが一人いた。呉白竜は、この人間が伐採のために遊撃区に出入りしているうちに知り合うようになったらしかった。呉白竜は5、6名の隊員で飼料工作班を組み一挙に親和木材所に押し入った。彼の知り合いの監督は、遊撃隊に理由もなく穀物を与えてはあとのたたりがあるから、あっさり木材所を襲撃してくれといった。監督の話に一理があると考えた呉白竜は、歩哨を押さえこみ、木材所の管理員や警備員が博打をしていた事務室を襲ってすばやく武装解除したのち、4、5俵ものエンバクと大豆を背負って無事、基地に帰ってきた。

 呉白竜の報告を聞いたわたしは食膳を脇に押しやり外へ出た。果たせるかな、白馬は隣村の零細農のところにではなく、一日中隠しておいたところから連れもどされ、もとの厩舎につないであった。白馬は鼻を大きく鳴らし感謝でもするかのように、わたしに向かって何回となくこうべを縦に振るのだった。わたしは目頭がじんとしてきた。白馬が身近にいることを確かめたわたしは、ほのぼのとした気持ちになった。しかし、白頭山の熊のように太っ腹な性格の呉白竜と当直官が、指揮官の命令に背いたことはどう始末したものか。飼料がたくさん用意されれば、白馬を隣村へやることにした上官の決心を変えさせることができるという自分なりの判断で木材所を襲撃した呉白竜の独断と図太さは、なんとあきれたものではないか。あの途方もない図太さを萌芽のうちに断ち切ってしまわなければ、これからどんな事態が発生するかわからないという不安のため胸がひやりとする思いであったが、また一方ではありがたい気もした。

 不思議なのは、原則とはいささかも妥協することなく生きてきたわたしが、従前のようにその原則を通すことができなかったことである。毛ブラシで背中を軽く掻いてやると、涙をたたえた目でわたしにこうべを垂れてみせた白馬の姿を見てからというもの、なぜか命令に服従しなかったと呉白竜を叱る勇気がわかなかった。そのうえ、呉白竜がテコでも動かぬ強引さでねばるので、わたしとしては是が非でも白馬を隣村へやれと命令することができなかった。

 「隊長、わたしを処罰しても降格しても結構です。けれども、この呉白竜が生きているあいだは、白馬をどこへもやれないということを知っておいてください!」

 彼はこんな大げさな最後通牒をつきつけてから、大戦闘を終えた直後のように、鼻で荒く息をついた。気持ちとしては、呉白竜を抱きよせて「ありがとう!」「ありがとう!」と背中でも叩いてやりたいくらいだった。わたしのためとあれば生死を問わず、たとえ火の中、水の中でも飛びこむこの大胆きわまりない小隊長の忠実さに、わたしが感嘆させられたのは一度や二度ではなかった。彼は、非識字者であった自分に朝鮮の文字を教えてくれたのも金日成であり、はじめて世の道筋というものを教えてくれたのも金日成だといって、わたしを実兄のように敬慕していた。

 わたしも彼を実の弟のように愛しいたわった。わたしが手塩にかけて育てあげた指揮官が、きょうはわたしの白馬のために命をかけて木材所を襲撃してきたのである。しかし、上官の承認も得ず、勝手に飼料工作に行ったのは重大な規律違反行為であった。これを許すなら、以後いっそう大きな脱線もしかねない。どうすべきか。こういうときにこそ指揮官の正しい決断が必要なのである。

 呉白童は、ゆげが立つ汁の器を見下ろしながら、気づかわしげにいった。

 「汁が冷めてしまいます。はやく召し上がってわたしを処罰してください」

 わたしはにわかに目頭があつくなった。処罰してくれと引き下がらないその姿が、なぜかわたしののどをつまらせた。

 呉白竜は少年先鋒隊員であったとき、「マッチ拳銃」という自製の拳銃をもって穏城に渡り、税関巡査を射殺して武器を奪い取ってきたという、ただならぬ経歴の持主であった。家族17名という大家庭で苦労しながら育った彼は、幼いときから一本気で義侠心が強く、同僚たちから特別にかわいがられていた。彼は少年先鋒隊のころ、遊撃隊員になりたいあまり、「薬莢事件」という珍事件まで引き起した。彼は、遊撃隊に入隊するにはしっかりした推薦人に保証に立ってもらうか、銃の一挺でも奪取して保証品として納めるか、せめて「きぬた手榴弾」のようなものでも一個手に入れて行かなくてはだめだといううわさを聞いた。彼はさっそく、銃撃戦が終わったばかりの戦場へのりこみ、木の皮でズボンのすそをくくったのち、片手で腰もとをつかみ、片手で弾丸と薬莢を拾っては両方のズボンの股にいっぱいつめこんだ。そして、脂汗をたらしながら遊撃隊を訪ねていった。ズボンのすその紐をほどくと、一斗ほどもある弾丸と薬莢が一気にこぼれ落ちた。

 「どうですか。これくらいあれば、ぼくも遊撃隊に入れてもらえるでしょう」

 呉白竜は得意気に中隊長を見上げた。ところが中隊長が返答をする前に遊撃隊員の爆笑が起こった。

 「こら白竜、その薬莢はなんのつもりで拾ってきたんだ。それは鉄砲を撃ったあとのかすじゃないか」

 中隊長が笑いながら言った。呉白竜は、薬莢でも敵を撃てると思っていたのである。彼は自分の失策に気づくと、弾丸と薬莢の仕分けをはじめた。弾丸は数百発もあった。この「薬莢事件」は、彼が遊撃隊に入隊するときの有力な持参品となった。入隊後、呉白竜は敵の討伐で犠牲になった父母兄弟の復しゅうのために勇敢に戦った。彼は入隊当初、たいへん気苦労をした。銃の掃除中に暴発事故を起こして処罰を受けたのである。彼に処罰を与えた中隊政治指導員は、敵がもぐりこませたスパイであった。東満特委と県党の要職を占めていた分派分子の信任を得て中隊政治幹部の地位までよじのぼってきた彼は、遊撃隊を内部から切り崩そうと悪辣に策動した。

 呉白竜が暴発事故を起こしたとき、彼が適用した処罰は、革命軍の規律や道徳的尺度からして、想像すらできない非人間的で下劣なものであった。呉白竜は処罰として、満州国軍一個中隊が駐屯している牡丹川へ行き、土城のまん中に押し立ててある満州国の旗をもぎとってこいという命令を受けたのである。これは事実上、敵中におどりこみ冒険して死ねというのにひとしい命令であった。戦友たちはみな、呉白竜は生きて帰ってくることはできないだろうと思った。ところが呉白竜は、遊撃隊の駐屯地から40キロも離れた牡丹川へ行き、満州国の旗をもぎとって無事に帰ってきた。政治指導員の肩書をもったこのまわし者は、その後も呉白竜をおとしめようと執拗に機会を狙っていた。彼は隊員たちが飯に水をかけて食べることまで問題視し、軍隊は汁を食べてはならず、水気のないおかずを食べなければならないと説教した。一度は中隊で久しぶりに牛を一頭つぶしたことがあった。隊員たちは、「飯に水気のないおかず」のために胃袋がかさかさになるところだったが、今夕は飯に牛肉汁をかけて腹いっぱい食べられると喜んだ。ところが、その日も例の政治指導員が現れ、食べつけていない牛肉汁を急に食べては下痢を起こすから、汁は食べずに、飯と肉だけ食べるようにと指示した。そのため、隊員たちはあれほど食べたがっていた牛肉汁も味わえなかった。この指示にさからって汁をすすったのは、呉白竜と別の隊員一人だけであった。炊事隊員であった呉白竜の2番目の義姉が2人にこっそり牛肉汁をもっていってやったのである。呉白竜は、兵舎の庭の積み木の裏でその汁をすすっているところを運悪く政治指導員にみつかってしまった。この事件は、政治指導員が彼に民生団のレッテルを張りつける格好の口実となった。戦友たちの保証がなかったなら、呉白竜は民生団の汚名を着せられたまま処刑されていたであろう。政治指導員はその後、敵のまわし者であることが判明し呉白竜の手で処刑された。それでなくても故意に自分を死地に追いこんだ処罰処置に怨念をいだいていた呉白竜に、もう一つの処罰を加えるなら、それは彼にとって別の意味での新しい傷を残すことになるであろう。

 「小隊長、君がわたしの白馬のために敵区まで行ってきたのはありがたいことだ。けれども規律違反は、指揮官として二度と繰り返してはならない重大な誤りだ。こういうことがこれからもまた繰り返されてはいけない。君たちの気持ちはよくわかったから、白馬はよそへやらないことにする。どうだ、満足かね?」

 わたしがこう言うと、呉白竜はにっこり笑って、「はい、満足です」と答えた。そして、子どものようにはしゃぎながら宿所へ帰っていった。わたしはこのように数言の指摘で事件を簡単にかたづけた。

 白馬はその後も、わたしに忠実に仕えた。小汪清防御戦闘が激烈をきわめたときのことを、わたしはいまも忘れることができない。当時、敵は梨樹溝の奥のファンガリ谷一帯まで侵入して遊撃区の人民を殺戮した。山も野も谷も死体でおおわれ、家屋はすべて焼き払われた。わたしは白馬を駆り、硝煙弾雨をついて連日、戦闘を指揮した。きのうはトンガリ山で防御戦を指揮し、きょうは磨盤山で敵の突撃を挫折させ、翌日はまた梨樹溝背面の高地で人民の退避を援護するといったふうに東奔西走する過程で、危機一髪の瞬間も何回となく体験した。

 弾雨の中を突き抜けていくうちに、外套の裏地の毛に火がつくことさえあった。外套についた火は、またたくまにわたしの全身をなめつくしかねなかった。ところが、わたしはそれに感づかなかった。白馬が風に逆らって走っていたので、外套のすそが後ろ向きにはためいていたからである。わたしが外套に火がついたと気づいたのは、馬が追い風に乗って走りはじめたときだった。炎は後ろにではなく、前の方にめらめらと燃え移ってきた。しかし、もはや外套を脱ぎ捨てる時間の余裕がなかった。走る馬から飛び下りては、岩場に転がって命を落とすか、はげしい打撲傷を負いかねなかった。このような絶望的な瞬間、飛ぶように走りつづけていた白馬が、くぼ地の雪の吹きだまりの前で速力を落とすと、そっと前脚を折って横ざまに倒れるのであった。わたしはとっさに雪の中に転げこんだ。雪に埋もれて体を左右に横転させているうちに、外套を燃やし軍服にまで燃え移った火はやっと消えた。白馬の両脚からは血が流れていた。白馬でなかったなら、わたしはその日、助からなかったであろう。たとえ命拾いをしたとしても、死に劣らぬひどい火傷を負っていたはずである。わたしはそのときも、白馬のするどい感覚と神通力に賛嘆を禁じえなかった。わたしの体に火がついたのが、どうしてわかったのだろうか。どうしても解きがたい謎であった。

 わたしはいまもなお、その謎を解き明かしていない。白馬の類まれな判断力は、かりに生体の長所に求めるとしても、脚に傷を負いながらも自分の主人を救助する、その驚くべき献身性はどこに根源を求めればよいのであろうか。世には忠犬愛馬という言葉があるが、わたしはむしろ、それを忠馬愛犬という言葉にかえたいくらいである。わたしの白馬は遊撃区人民の寵愛を受ける伝説的な存在となった。白馬のうわさは、小汪清周辺の半遊撃区と敵統治区域の人民のあいだにも広まった。呉義成もこのうわさを聞いて、わたしの馬を欲しがった。

 「金司令、その白馬と50頭の軍馬と取り替えないかね」

 わたしが反日部隊との共同戦線を実現するため羅子溝へ談判に行ったとき、呉義成からこういう駆け引きをもちかけられたことさえある。そのとき、わたしがどう答えたのかはよく思いだせない。とにかく、羅子溝で談判が終わってからも、呉義成がなんとかして自分のものにしたがっていたその白馬に乗って、わたしは馬村に帰ってきた。

 わたしとともに2年近く、蹄鉄をはめ替えては数百里のけわしい道を走りつづけてきた白馬は、1934年の冬、小汪清で死んだ。第1次北満州遠征を終えて帰ってきてみると、白馬は見えず、わたしの戦友たちがつくったという白馬の墓だけがわびしく残っていた。そのときのわたしの悲しみはどう表現してよいかわからないくらいであった、わたしが残念がるのを見かねた隊員たちは、白馬のために弔銃を撃とうと言った。だが、わたしはその提言を受け入れなかった。弔銃を撃ったところでなんにもならない、白馬は生きているときも銃声のたえない喧騒の地で歳月を送ったのだ、死後にでも安息をあじわえるよう、銃声をあげるなと言った。白馬の墓はいまも汪清のどこかに残っているはずである。

 呉白竜が護衛総局長の職にあった1960年代の初、わたしは彼とともに馬に乗って散策しながら、白馬の思い出を語り合ったことがある。数十年の歳月が流れ去っていたが、かつての遊撃隊小隊長は白馬にまつわる事柄をこと細かに記憶していた。そのときの回顧談がどういう経路をへてか、作家の宋影(ソンヨン)に伝えられ、李箕永(リギヨン)にも知られるようになった。ある将校が彼らに、白馬にちなんだ文章を書いてくれるよう頼んだそうだが、詳しい顚末はわからない。けれども、抗日戦争の烈火の中で生まれ、その烈火の中で一生を終えた白馬は、回想記ではなく、一幅の小さな油絵となって朝鮮革命博物館に現れたのである。白馬にまつわる伝説めいた話が、李箕永か宋影を通じて画家の鄭寛K(チョングァンチョル)の耳にまで入ったようである。その油絵は、ほかならぬ鄭寛Kが描いた絵であった。呉白竜にせがまれて博物館へ行ってみると、その絵がかかっていた。画幅には、わたしと白馬しか描かれていなかった。その絵を見ると、白馬とともにわたしに忠実につくしてくれた伝令と呉白竜のことが思い出され、彼らも描いてくれればよかった、といった。画家はわたしの意向をくみ、2名の伝令を加えて作品を完成させた。それがいま朝鮮革命博物館に展示されている油絵である。わたしは、わたしに忠実であった伝令と白馬がなつかしくなると、折をみて博物館に足を運んだものである。

 80の高齢になったいまでは、追憶のなかでのみ、ときどき描き出して見るだけである。その忠実な白馬の姿は、いまもわたしの目の前に60年前のように生き生きと生きつづけている。この白馬がもし人間であったなら、忠臣中の忠臣と評価されるにちがいない。



 


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