金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 コミンテルンの派遣員


 われわれが遊撃根拠地で極左との闘争を展開していた1933年の4月ごろ、童長栄は大布衫姿の中年の男をともなってわたしを訪ねてきた。身なりや物腰がかなり上品で洗練されている感じのその男は、わたしを見ると遠くから笑顔をつくり、挨拶がわりに片手を高く上げてみせた。旧知の客ではなかろうかと勘違いさせられるほど、近寄ってくるその男の目は人なつっこかった。

 握手を交わしてみると旧知ではなかった。不思議なのは、初対面のその客が、なぜかしきりに旧知のように感じられることだった。それで、わたしも笑顔で快く彼を迎えた。

 この謎のような客が、ほかならぬコミンテルン派遣員(巡視員)の潘省委だったのである。潘は姓で、省委は満州省党委員という職責の略語であった。魏拯民を老魏と呼ぶように、人びとは、たいてい彼を老潘と呼んでいた。中国人には、年長者や尊敬する人の姓の上に「老」の字を冠する美風があった。潘省委を李起東という本名で呼んだり、潘慶由という別名で呼ぶ人はあまりいなかった。

 潘省委は、満州地方の共産主義者に広く知られていた革命家であり、党活動家である。わたしに潘省委の話をはじめてしてくれたのは王潤成であった。9.18事変の後、潘省委が寧安県党の書記を勤めていたとき、王潤成はその下で宣伝委員として活動した。彼は、自分が寧安県党で宣伝委員として活動することができたのは潘省委の推薦があったからだといい、それをたいへん誇りにしていた。彼の話によると、潘省委は黄埔軍官学校の出身で、中国の武昌暴動と北伐戦争に参加し、ソ連に留学したこともある有能な老幹部であるとのことだった。ひところは、綏寧中心県委の書記として活躍したこともあり、その人間味とするどい洞察力にはしばしば感嘆させられたという。潘省委にたいする王潤成の傾倒ぶりはたいへんなものであった。わたしはそのとき、彼の話を聞いて、われわれの近くで潘省委のようなすぐれた革命家が活動していることを非常にうれしく思った。その後は、北満州からきた崔成淑と趙東旭からまた、潘省委の話を聞かされた。崔成淑は、自分を汪清へ行けとあおり立てたのは潘省委であったといった。そして、彼の指導のもとに寧安市街でメーデーデモをおこなったときのことをおもしろく話してくれた。

 こういういきさつがあったせいか、われわれは王潤成と崔成淑の話で多くの時間を費やした。

 「寧安から来た崔成淑さんは元気ですか?」

 われわれの対話は潘省委のこういう問いではじまった。下部の者にたいする思いやりが潘省委のきわだった長所だといっていた崔成淑の言葉が思い浮かび、にわかに胸があつくなった。

 「元気です。北満州から来るやいなや、大汪清ソビエトの代表に選出されたくらいです。いまは小汪清区婦女部の委員に選挙されて、婦女会の仕事に専念しています」

 「彼女はここへ来てからも馬に乗っていますか?」

 「馬に乗るという話は聞きましたが、まだ見たことはありません」

 「彼女は革命軍に入隊して騎兵になることを決心し、馬術を習ったんです。なかなか気丈夫で負けずぎらいな娘ですよ」

 「だとすると、汪清の人たちにとっては望外の授かり物というわけですね。北満州のほうで手放したのが悔やまれませんか?」

 「とんでもない。彼女の家族は北満州にいますが、わたしは東満州へ行くように勧めたのです。正直にいって、満州地方の革命闘争の中心は間島ではありませんか。それで彼女に言ったのです。革命に本腰を入れたければ汪清へ行くべきだ、そこには人民の天下になった根拠地がある、わたしは間島に大きな期待をかけている、わたしもそこへ行って仕事をしたい、と」

 東満州地方が朝鮮革命の基本的な策源地だと評価されたことをわたしはありがたく思いながらも、一方では恥ずかしく思った。極左的な暴挙といえる遊撃区での事態を目のあたりにするなら、間島での革命闘争から、彼はどんな印象を受けるだろうか、ということが気がかりだった。もちろん、潘省委の政治的理念や政策的立場といったものは、わたしにとってまだ未知数にひとしかった。政治的視野が広く、闘争経験が豊富な彼だからといって、必ずしも極左に反対する立場に立つとは断定できなかった。だが、わたしは、潘省委にたいする王潤成と崔成淑の評価を重くみた。彼らは、潘省委が下部の人間にたいし決して偏見をもって臨むことがなく、一家言をもって何事も公正かつ慎重に処理する老練な活動家であることを折々強調していた。潘省委にたいするわたしの第一印象もすこぶるよかった。

 その日はその程度の挨拶にとどめた。われわれは後日再会して本格的に語り合うことにして別れることにした。しかし、コミンテルンの客人は時間の選択を誤った。というのは、波状攻撃を重ねる数千の討伐軍を撃退するため、わたしは部隊を率いてただちに戦場へ出陣しなければならなかったからである。

 「それなら、わたしも部隊について戦場へ行こう。粗末なものでもわたしに鉄砲を一挺ください」

 潘省委は、東満州まで来て戦闘も見ないで帰っては、コミンテルン派遣員としての面目が立たず、一生悔いを残すことになるから、一日くらいの参戦は許可してもらいたいといって、隊伍から離れようとしなかった。

 「潘同志、銃弾はコミンテルンの派遣員を見分けませんよ。観戦の機会はいくらでもありますから、きょうは旅の疲れをいやしてください」

 わたしは、潘省委を説き伏せて戦場へ向かった。討伐軍は、小汪清遊撃区を3面から包囲し、3日連続で執拗に攻撃してきた。われわれは頑強な防御戦で攻撃をはねかえし、壊滅的な打撃を与えた。敵は数百名もの死傷者を出して退却した。そのとき討伐軍は、関門拉子(石門内)方面とトンガリ山方面から春もやにまぎれてひそかに遊撃区に侵入しては、同士討ちをする悲喜劇まで演じた。この「望遠戦闘」は、しばらくのあいだ小汪清の人たちの話の種となった。潘省委もこのニュースを聞いて爆笑したという。

 潘省委の出現は、汪清の人たちにさまざまの反応を呼び起こした。極左的なソビエト路線をコミンテルンの施政方針とみなし、コミンテルンの命令しだいでくしゃみをしたりあくびをしたりする人は、老潘が自分たちの立場を支持してくれるはずであり、したがって彼の出現は人民革命政府路線の提唱者を右翼と断定し、二度と政権形態の問題で悶着を起こさないように制裁を加える好機になるものと思った。一方、ソビエト路線を極左だと非難し、人民革命政府路線による新しい形態の政権樹立を不断に追求してきた人たちは、ソビエトに反対してきた自分たちの立場が老潘によって拒まれ、悪くすればコミンテルンの名で処罰される恐れもあるという被害意識にとらわれ、潘省委の動きをするどく見守った。彼らのうちの多くは、潘省委の出現が、ソビエト路線からいままさに脱却しはじめた遊撃区の情勢をいっそう複雑にする契機になりかねないと推測した。

 前者が先走って勝利の凱歌を上げていたとすれば、後者は心のなかで敗北の哀歌をうたっていた。彼らのこのような態度は、両者がいずれもコミンテルンの権威と権限を絶対視しているためであった。一党の破産を宣言することもできれば、一個人の犯罪を裁くこともできるコミンテルンは、彼らにとって国際的な「大法院」にひとしい恐るべき存在であった。コミンテルンは、一革命家の運命にたいし生殺与奪の権限を握っている存在だと彼らは思っていたのである。潘省委の出現は遊撃区を緊張させた。わたしもやはり、その張りつめた空気をひしひしと感じとっていた。コミンテルンの意思にそわない人民革命政府路線をソビエト路線にとって代え、ソビエトの施策を極左的暴挙としたわれわれの行為にたいし、潘省委がどういう立場をとるかということは、大きな関心の的であった。

 わたしは、極左の専横に打ちひしがれている東満州にコミンテルンが派遣員をよこしたのは、革命のために幸いなことだと思った。ソビエト路線と人民革命政府路線が相対峙し、それぞれ自己の正当性を論証しようとしている時点での潘省委の出現は、二者択一の決定的な局面を開くに違いなかったからである。

 コミンテルンがわれわれの立場を支持してくれるだろうという保障は、まだ誰からも取り付けてはいなかった。しかしわたしは、コミンテルンと満州省委をはじめ、各組織が遊撃根拠地の実情に合わない指令を乱発したことにたいし、彼に抗議する決心をかためていたし、同時にソビエト路線の実行と反民生団闘争の過程で露呈している極左的偏向を是正するために、必要とあれば理論闘争も辞さないという覚悟もかためていた。処罰やなんらかの制裁措置にたいする憂慮といったものは念頭にすらなかった。一言でいって、わたしは決着をつけるときがきたと考えたのである。当時、不平をいだいていた一部の者が、東満州の事態の収拾を要請する手紙をコミンテルンに送ったようであった。コミンテルンは、それらの手紙を検討し、東満州地方に朝鮮人が集結している実情を考慮し、朝鮮人の潘省委を派遣して事態の収拾にあたらせることにしたようであった。後日、潘省委自身も、コミンテルンにそういう請願書が届いたことがあると語っていた。

 われわれが小汪清防御戦闘を終えて帰ってきたあとで、潘省委は再びわたしを訪ねてきた。初対面のときよりは顔色が明るくなかった。うわべでは微笑をたたえていたが、心中では深い憂いをふり払おうと努めているような派遣員の表情から、彼がついに政治哲学の錯綜するきびしい現実の十字路に立たされていることを察知した。様子からして、彼はなにか路線上の問題で童長栄と衝突したようであった。

 わたしは、馬村でいちばん大きい李治白老の家に潘省委の宿所を定め、その一間で10 日余りのあいだ大いに語り合った。潘省委は、中国語がたいへん上手だった。彼が最初から中国語で話しはじめたので、わたしもいきおい中国語で応対せざるをえなくなった。対話の時間はだいたい夜と夜明けのひとときであった。日中はわたしが部隊の指揮にあたらなければならなかったので、彼と語り合う時間がなかった。潘省委も日中はあちこちと遊撃区の実態調査のために忙しく歩きまわっていた。

 客地での生活体験の多い人は、他家での居候というものは不便な点はあっても、客人同士を非常に親密にし、そうした過程で交わされる話がまたいかに興味津々たるものであるかをよく知っているはずである。わたしと潘省委も、その10日余りのあいだに、断金の交わりともいえるほどの親しい仲になった。潘省委はわたしより20歳余りも年上で、闘争経験の豊富な老練な革命家であったが、年齢上の違いをかさに尊大ぶったりせず、わたしを同志とみなし、虚心坦懐に、情熱的に話すのであった。はじめは、革命実践にかかわる公式的な話は後まわしにし、それぞれの経歴を紹介し合った。わたしが自己紹介をすると、ついで潘省委が自分の経歴を披露した。そのつぎは、交互に半生記を補足したり所感を述べ合ったりして、夜が更けるのも知らずに過ごした。

 わたしが20歳にもなる前に4回も逮捕され、獄中生活もしたという話を聞いて、彼は非常に珍しがった。

 「すると、獄中生活の面では、金同志のほうがわたしより先輩だというわけだ」

 彼は、自分もハルビンでくさい飯を少々食わされたことがあるが、メーデーデモを指揮したために、寧安県党が壊滅状態に陥ったというのであった。満州国官憲の容赦ない弾圧と日本軍の討伐によって組織はすべて破壊され、党員や中核分子は四方に散ってしまったという。潘省委は、それは党勢の急速な拡大と活動の積極化に幻惑されて頭がのぼせてしまった結果だと断じた。そのかわり、メーデーデモの教訓が、金海山、李光林を隊長とする寧安遊撃隊を誕生させる政治的動機となったことは彼も認めていた。

 「みんな監獄に入れられ痛い目に合わされてはじめて、デモが下手に組織された時期外れのものであったことに気付いたのだ。組織をもっと地下に深く潜伏させ、武装闘争をしなければならないときに、こともあろうに県城の市街で党員まで動員してデモをするとは…」

 彼はそのデモの話が出るたびに、腹立たしげに自分をなじった。そして、われわれが吉会線鉄道敷設工事に反対して断行したデモ闘争をしきりにほめるのであった。彼は他人の業績にたいしては公正でおおらかである反面、自分自身のことにたいしては過小評価したり虚無的な態度をとりすぎる、そういうタイプの人間であった。

 「数日前に21回目の誕生日を迎えたのなら、わたしの年の半分ということだが、監獄生活での先輩といえるだけでなく、総体的な人生体験の面でも、金同志はわたしの先輩といえる」

 潘省委はわたしの経歴を聞き終えてから、こういうのであった。わたしは「先輩」という言葉が出るたびに面映い思いをした。

 「潘同志、そんなにおだてるようなことばかり言っては、若い者をだめにしてしまいますよ」

 潘省委はロシア人のように、両手を広げ、肩をすくめてみせた。

 「金同志を評価するその裏には、じつのところわたし自身の人生にたいする不満が横たわっているというわけだよ。わたしは、充実した人生を過ごすことができなかった人間だ。43歳ともなれば、盛りも越したといえるが、これといって自慢できるほどの話の種もないのだから、困ったものさ」

 「それは謙遜というものです。潘同志の生涯には南方の赤熱もあり、北方の豪雪もあります。笑いもあり、悩みもあり、涙もあります。正直いって、わたしは自虐的な人をそれほど好きになれません。40を越したからといって、どうして盛りが過ぎたというのですか」

 わたしがこんな批判めいたことをいっても、潘省委は気分を害さなかった。わたしには、彼が自分を卑下しすぎているように思えた。中国南方での活動は別としても、北満州で寧安県委と綏寧中心県委の書記役を歴任し、寧安遊撃隊を誕生させる産婆役まで果たした彼の功績は、決して無視できるものではなかった。綏寧中心県委というのは、穆棱、寧安、東寧、密山などの県委を統合して設けた、かなり規模の大きい県委であった。いっときは、潘省委がコミンテルンと満州省委間の中間連絡機関の使命を果たす吉東局の幹部に栄転するといううわさもあった。それが実際にどうなったのかは定かでないが、コミンテルンが彼を召還して東満州地方の活動を点検指導する派遣員に任命したことからしても、彼が信望のある活動家であったことがうかがわれる。

 われわれの対話は、自己紹介の域を脱し、相互の関心事であった現行政治問題についての実情通報と意見の交換に移った。

 第一の論点となったのは、コミンテルンと国際共産主義運動にかんする問題であった。コミンテルン連絡所の活動家との連係を保ちながらも、彼らとつっこんだ対話をする機会がなかったわたしにとって、この論議はきわめて有益なものであった。わたしは潘省委に、コミンテルンの決定実行のための朝鮮の共産主義者の努力を説明したのち、コミンテルンの路線と指示にたいするわれわれの立場と態度を明らかにした。

 「われわれは、コミンテルンが国際共産主義運動の参謀部としての役割をりっぱに果たしているとみています。コミンテルンは、これまで全世界の共産主義者を一つの国際的な連合に結集し、帝国主義に反対し、平和と社会主義をめざすたたかいで大きな業績を築きあげました。われわれはコミンテルンが共産主義運動で中央集権的機能を果たす国際的センターであることを明確に認識し、これまでと同様、今後ともコミンテルンの規約と路線を忠実に守るつもりです。しかし潘同志、無礼な態度だといわれるかも知れませんが、われわれはコミンテルンの処置にたいし若干の意見もあるのです」

 わたしの最後の言葉は、潘省委の表情を一瞬こわばらせた。

 「それは、どんな意味に解すればいいのかな。なにか苦情があるらしいね」

 「さあ、苦情といおうか、不満といおうか。わたしは以前からコミンテルンに向かって言いたいことがあったのです」

 「このさい、どんなことでも、遠慮なく話してみたまえ」

 潘省委は好奇のまなざしでわたしを見つめた。わたしは、きょうこそはコミンテルンに向かって言いたかったことを忌憚なく話せる機会だと思った。

 「分派をかばうわけではありませんが、われわれはコミンテルンがかつて朝鮮共産党の解体を宣言したことをたいへん残念に思いました。分派は朝鮮の共産主義者だけにあるわけでもないし、ジャガイモの偽印をつくったような事件はインドシナ共産党や他の党でもあったではありませんか」

 わたしがこう言ったとき、潘省委の顔をかすめたのは緊張ではなく、驚きといったものであった。海千山千の彼にとっても、わたしの言葉は思いがけぬ急襲となったようであった。

 「わたしはコミンテルンの派遣員としてではなく、金同志と変わりない朝鮮共産主義者の一人として、朝鮮共産党の解散を恥とし、それを宣言したコミンテルンの処置を残念に思っていることに同感を示すものだ。しかし、ここで一つ知っておくべきことがある。朝鮮共産党は解散させられたのに、インドシナ共産党は解散させられず健在である理由はなにかということだ。それは、ホー・チミンのようなすぐれた人物がインドシナ代表としてコミンテルンに構えていたからだ。ところが、あの当時、朝鮮共産主義運動の隊伍には、コミンテルンに認められるだけのずばぬけた人物がいなかったし、指導中核がなかったからだ」

 党解散の主なる理由の一つを指導者と指導中核の欠如に求めた潘省委の指摘は、党解散の第一の原因を派閥争いにあるとみなしていたわたしにとって、大きな衝撃であった。コミンテルンに認められるだけの世界的な指導者の欠如、そのために朝鮮共産党の解散をくいとめられなかったというのは、事理にかなった潘省委流の分析であり発見であった。

 われわれはコミンテルンの問題とともに、朝鮮革命で提起される実践上の問題をめぐっても有益な論議をした。潘省委はとくに、朝鮮の共産主義者は、党の消滅によって大多数の党員が海外に亡命し、外国の党で同居生活をせざるをえなくなった挫折状態から脱却し、なんとしてでも自分の党を新たに創立するために努力すべきだと言った。

 「わたしが朝鮮の革命家だからというわけではないが、朝鮮人は必ず自分の共産党を創立すべきだと思う。朝鮮共産党が解体宣言を受けたからといって、朝鮮の共産主義者が党再建の可能性を完全に奪われたかのように受けとめるなら、それは自殺行為にひとしいものだ。朝鮮人が自分の党をもつのは、なんぴとも侵すことのできない正々堂々たる権利だ。居候も1、2年であって、いつまでも他人の家に身を寄せているわけにはいかないではないか」

 朝鮮の共産主義者が自分の党を再建すべきだという潘省委の主張は、われわれが卡倫で採択した党創立方針と完全に一致するものであった。わたしは彼の言葉に力を得た。

 「そのとおりです。朝鮮人が自分の党を再建しようと努力しないのは、朝鮮革命の放棄にひとしいことです。われわれは間借り部屋で肩身のせまい思いをしながら、その日暮らしをするような人間になってはならないはずです。こういう立場から、われわれはすでに3年前に基層党組織を先に結成し、それを拡大強化する積みあげ式の方法で党を創立するという新しい方針をうちだし、建設同志社という名称の党組織を結成しました」

 わたしは、初の党組織を結成することになった歴史的経緯と、その結成、拡大の過程でじかに体験したさまざまな事柄を詳しく説明した。

 潘省委はわたしの言葉を注意深く聞いてくれた。

 「わたしが空想家だとすれば、金同志は徹底した実践家だといえる。とにかく大したものだ。ところが、朝鮮共産主義運動線上には派閥が多くて困ったものだよ。だから、派閥に加担している連中は認めず、必ず若い者だけで再出発すべきだ。分派を放任しては何事もできない。少なからぬ分派分子が日本人の犬になりさがってしまった。犬にはなっていない連中のなかにも、分派の悪習が骨の髄までしみこんで革命など眼中になく、ヘゲモニー争いにうつつをぬかしている者が少なくない。派閥とたたかうためには反日闘争を強化しなければならない。闘争の過程で隊伍がかためられ、中核が結集されれば、それがとりもなおさず党創立の土台になるのだ」

 潘省委の言葉はわたしを興奮させた。もちろん、それは耳新しい言葉ではなかった。分派に毒されていない新しい世代の青年で党を創立すべきだというのは、われわれが前から主張してきた基本方針だった。わたしはなんとしてでも朝鮮人で中核をかため、彼らを結束して党を創立し、祖国解放の大事をなし遂げようという決心をさらにかたくした。

 潘省委とのあいだで、国際共産主義運動とコミンテルンの問題、朝鮮での党建設問題を論議し、完全な意見の一致をみたのは幸いなことであった。われわれの話題は、間島の民心が集中しているソビエト問題へと自然に移っていった。人民が背を向け、唾を吐き、敬遠しているソビエト政権にたいする潘省委の見解がどんなものであるかを聞きたいのが、そのときのわたしの率直な気持ちであった。わたしが「老潘、間島ははじめてだとのことですが、遊撃区を見てまわった感想はどうですか」と水を向けると、彼は返答のかわりに、やにわに上衣のボタンを勢いよくはずして胸をはだけた。そして急に高い声で、遊撃区についての所感を吐露しはじめた。

 「わたしはまず、この不毛の地に遊撃区のような別天地を建設した間島の人民と革命家に敬意を表したい。間島の人たちはじつに大きな仕事をしたし、苦労も並大抵のものではなかった。ところが、このりっぱな別天地に歓迎できない妖怪がはいかいしているのは、ほんとうに遺憾なことだといわざるをえない」

 わたしは潘省委の高ぶった声から、その興奮のほどを読みとることができた。

 「妖怪ですって? それはいったいなにを念頭においているのですか」

 わたしがこう聞くと、彼は李治白老が出してくれたタバコ箱から、きついきざみをたっぷりつまみ取って太く巻きはじめた。

 「極左的なソビエト路線を念頭においているのだ。この極左のために、間島の人たちがあれほど骨をおって築いた塔が崩れてしまったわけだ。わたしはまったく理解できない。満州革命をまっ先に切り開いてきた間島の共産主義者が、あんなにも理性を失ってしまうものだろうか」

 「実際のところ、わたしもその極左のために白髪がふえそうです」

 「どうしてあんなに愚鈍になってしまったのか… 話を交わしてみると、彼らはロシアのソビエト政権についてもまったくの門外漢ではないか。童長栄同志は闘争経験もあり、性格も温厚な人だというのに… 失策にもほどがある。コミンテルンに苦情の手紙がとどいたのも偶然ではない。その間、さぞかし気苦労が多かったことだろう」

 わたしを見つめる潘省委の目には、深い同情の色がただよっていた。

 「わたし一人の気苦労だったら、いくらでも我慢できます。わたしは、極左の専横のもとで人民が戦々恐々としているのがたまらないのです」

 潘省委は憂さ晴らしでもするかのように、たてつづけにタバコを吸っては吐きだした。

 「わたしが不幸中の幸いだと思ったのは、誰も歓迎しないこの極左が吹きまくるなかで、革命を危機から救いだす人民革命政府路線が誕生し、遊撃区人民の支持を得ている事実だった。金同志がまったくうまい定式化をしたものだと、わたしもいましがた童長栄同志に言ったところだ」

 「では、潘同志も人民革命政府路線を支持するというのですか?」

 「支持しないなら、わたしが童長栄同志にそんなことをいうわけがないではないか。人民革命政府路線は、童長栄同志も支持していた。人民がよいといえばそれはよいものだといった金同志の言葉に、彼は大きな感銘を受けたようだった。これからはすっかり安心して、もっと仕事にうちこんでみよう」

 潘省委は、わたしの手を強く握った。こうして、われわれは人民革命政府路線にたいするコミンテルンの支持を確認することができた。

 潘省委はついで、別働隊を組織する方法で遊撃隊を公然化し、救国軍との関係を切り開いたことは特記すべき業績だとし、東満州の革命家は以後、この業績を固守し発展させるべきだと言明した。潘省委は、人民革命政府路線が中国共産党の民衆革命政権路線とも基本的に合致していると言い、その内容を簡単に説明してくれた。それは一言でいって、路線転換を中心的内容とする満州問題の戦略を明らかにしたもので、形式上は中国共産党中央の名義になっていたが、実際にはコミンテルンが作成したものであった。したがって、これは結局、コミンテルンの意思であったといえる。ここでわれわれの注意を引いたのは、農村政権機関としての農民委員会を組織するという趣意であったが、農民委員会は農民と遊撃隊との関係を調整しながら、平時は遊撃隊に食糧を供給し、武装自衛隊を組織し、党は全力をつくして雇農と貧農を農民委員会の指導力量とし、そのまわりに中農大衆を結集すべきだというものであった。したがってこれは、コミンテルンが政権分野における極左的なソビエト路線の不合理性を看破し、それを新しい政権形態に替える必要性を認めたことになり、同時に、われわれの主張する人民革命政府路線の正当性が実証されることになる。

 しかし、潘省委は農民委員会というその名称にかなりこだわった。彼は、農民委員会はソビエトよりは満州地方の実情に適した形態であることは確かであるが、雇農、貧農本位でいくなら、その周囲に広範な大衆を結集することは不可能だろうといった。それに比べれば、労働者、農民、学生、知識人など反日を志向するすべての階層を結集する統一戦線的な人民革命政府形態の方がすぐれており、発展的であるから、政権形態についての自分の見解を文書にしてコミンテルンと満州省委に送るつもりだといった。

 「名称などは、農民委員会でも、人民革命政府でもかまわないのではないですか。施策が人民の要求にそったものであればよいではありませんか。人民革命政府が組織できるところでは人民革命政府と呼び、農民委員会を組織するところでは農民委員会という看板をかかげればよいではありませんか」

 わたしはこういって安心させようとしたが、彼はどうしても気がかりだったらしい。

 「総体的にはそれが妥当だと思う。しかし政権機関の名称は、人民がよしとするものでなくてはならない。どうみても、この問題はコミンテルンに提起する必要がある」

 その後、潘省委が決心どおりコミンテルンに手紙を出したかどうかはつまびらかではない。

 こうした流れのなかで、東満州のすべての遊撃区で、ソビエトは人民革命政府か農民委員会にとって代わられ、工農遊撃隊は反日人民遊撃隊に改称され、赤衛隊は反日自衛隊に改編された。

 潘省委の出現は、遊撃区の旧秩序をゆさぶる旋風であった。われわれが吉林時代から一貫して堅持してきた革命にたいする主体的立場は、国際的な支持と鼓舞を受け、われわれがうちだしたすべての路線と方針は、その正当性があらためてはっきり検証されたわけである。だからといって、われわれがコミンテルンのすることを1から10まで肯定したり、その指令に盲目的にしたがったわけでないことは言うまでもない。わたしはコミンテルンの処置を尊重しながらも、朝鮮革命と世界革命の利益の見地から、それに主体的な態度でのぞんだ。コミンテルンの戦略や処置のうちでいちばん釈然としなかったのは、世界革命の一環としての朝鮮の存在と、朝鮮革命にたいする彼らの見解と扱い方であった。ロシアで10月社会主義革命が勝利し、社会主義が理想から現実に変わったとき、万国の共産主義者には、10月の獲得物を固守し、その成果を世界的版図に拡大すべき聖なる課題が提起された。こうした時代の要請にたいする解答として、レーニンは1919年にコミンテルン(第3インターナショナル)を結成した。コミンテルンの歴史的使命は、帝国主義の抑圧と資本の鉄鎖を断ち切るための全世界の労働者階級と被抑圧民族の解放闘争を国際的範囲で組織し発展させることであった。それは第1、第2インターナショナルがになっていた使命とは異なる新しい時代の要請に合致する戦闘的使命であった。

 コミンテルンの活動でもっとも大きな比重を占めた当面の闘争課題の一つは、ソ連を擁護することであった。勝利した社会主義の陣地を守ることは、社会主義偉業の拡大と不可分の関係にあり、またそれを抜きにしては、10月革命の成果を世界的範囲へ拡大発展させることもできなかった。ソ連を擁護しようというのが共産主義者の国際的スローガンとなり、このスローガンを貫徹するのが国際共産主義運動の重要な内容となったのは当然のことであった。

 しかし、歴史的に避けがたく、また切実に必要であったこうした関係は、コミンテルンの指示によって動く各国共産党を「ソ連の手先」とみなし、民族の利益を売る反民族的な集団と断ずる反共分子とブルジョア反動論客の水車に水をそそぐような結果をまねいた。各国の共産主義者はここから相応の教訓をくみ取り、各自に負わされた国際主義的任務と民族的任務を正しく結合していくべきであった。コミンテルンとしてもやはり、当然この点を重視すべきであった。コミンテルンが自己の使命を円滑に遂行するためには、勝利した社会主義陣地の固守に重点をおきながらも、他の国での共産主義運動、とくに帝国主義の抑圧に苦しんでいる植民地弱小国家人民の利益を擁護し、その革命闘争を心から支援すべきであった。しかし、コミンテルンは、この要請に顔を向けなかった。コミンテルンの一部の活動家は、大国の革命運動にたいしてはかまびすしく騒ぎ立てながらも、小国の革命はないがしろにしたり、意のままに処理したりした。ソ連擁護の国際的なとりでの構築に、どの国がどれほど貢献するかによって、それらの国の革命にたいする彼らの立場と態度はあまりにも違っていたように思える。

 コミンテルンの要職を占めていた一部の活動家や理論家は、大国での革命運動が勝利すれば隣接した小国での革命闘争や独立運動もおのずと勝利するという見解を流布した。いうならば、烹頭耳熟といった類の見解といおうか。烹頭耳熟とは、頭を蒸せば自然に耳まで煮えるという意味である。このような見解は、小国の共産主義者のあいだに、革命の主体は自分自身の力であり、自国人民の力であるという自主的立場を離れ、大国に頼ろうとする事大主義的傾向を生み、一方、大国の共産主義者のあいだには、小国の共産主義者を無視し、その自主的活動を抑制する大国本位主義的傾向を生むようになった。社会主義国家の誕生とコミンテルンの創立という巨大な出来事に大きく力づけられ、それを理想とし灯台と仰ぎ、たたかいの烈火をつき抜けてきた各国革命家の、コミンテルンと国際共産主義運動への信頼と清純な心にかげりが生じはじめたのは理由のないことではなかった。

 10月社会主義革命の勝利とコミンテルンの創立後、共産主義思潮にたいする祝福と憧憬の波は止めることのできない力で全世界に打ち寄せていた。世界各国の有名人士のあいだで、共産主義信奉者の隊伍は急速に拡大されていった。共産主義を人類の唯一無二の未来とみた時代の先覚者のうち、少なからぬ人たちは所属と信教の違いにかかわりなく、新生ソビエト共和国かコミンテルンと連係を結び、その助力を得ようと各面から努力した。

 わが国の民族主義者のなかにも、その信奉者、支持者、共鳴者は少なくなかった。そういう人物のなかには、キリスト教、天道教をはじめ、宗教界の権威ある人士もいた。1922年1月、モスクワで開かれた極東人民代表大会に、朝鮮キリスト教代表会議の名で、ソウル貞洞メソジスト教会の3代担任牧師であった玄盾が参加した事実は、その実例の一つといえる。玄盾は朝鮮の名だたる牧師の一人で、上海臨時政府が組織されたとき、そのメンバーに選出された人の一人でもある。数年前、わが国の関係者がソ連のコミンテルン文書庫から得た資料によると、玄盾は3.1独立宣言書作成者の一人であった金秉祚をはじめ、趙尚燮、孫貞道、金仁全、宋秉祚といった牧師たちの印判のある委任状をもって会議に参加したとのことである。玄盾は、ロシア共産党高麗部から求められたアンケートに、自分が上海共産党にも関係したことがあり、1919年9月にすでにロシアに来て3週間滞留したことがあるという事実を明らかにした。そして、「目的と希望」はなにかというアンケートには自筆で、「朝鮮の独立を目的とし、共産主義の実施を希望する」と明記した文書が関係者の手で新たに発掘された。もちろん、彼が共産主義という新思潮をどれほど深く理解し、思想的に共感したのかはつまびらかではないが、コミンテルンという存在には相当な期待をもっていたようである。

 上海臨時政府の初代国務総理であった李東輝も、共産主義運動に関係した人物であった。彼が、高麗共産党連合代表会議の結果をコミンテルンに報告するためモスクワヘ代表として派遣されたことは周知の事実である。天道教系の革新勢力も、コミンテルンとの提携を積極的に模索していた。天道教1世教主の崔済愚の孫にあたる2世教主崔時亨の息子崔東㬢は、天道教革新勢力の代表的人物であり、天道教非常革命最高委員会外務委員長の職責で、じきじきにロシア領のウラジオストクに滞在し、コミンテルンとの交渉を成立させようと猛活躍をした。彼はコミンテルンで東洋部の仕事を担当していた片山潜とインゼリソンなどの活動家に手紙を送り、朝鮮の独立運動にたいする支持と、必要な支援を要請するとともに、「貧賤民衆の忠僕である天道教」と「労働者階級の前衛であるコミンテルン」との積極的な連携は、東洋革命の達成を全面的に保障するものだと言明した。

 さらに崔東㬢は、当時ソ連の外務人民委員であったチチェーリンに手紙を送り、15個の混成旅団で高麗国民革命軍を組織できるように、銃砲、爆発物、弾薬、騎兵装備、運搬手段などを2年以内に提供してもらいたいと要請した。天道教の革新勢力が守旧派の憎悪と非難を受けながらも新しい方法で独立運動を起こしていこうとしたことは、全民族の称賛を受けてしかるべきであった。だが、ソ連も、コミンテルンも、天道教革新勢力のこの要請を聞き入れてくれなかった。

 夢陽呂運亨も、1919年、モスクワにレーニンを訪ね、朝鮮独立問題について論じたことがあった。

 李承晩のような反共分子が一時ソビエトロシアを支持したことがあったといえば、おそらく誰も信じようとしないであろう。だが、これは事実であったらしい。いつか、彼はモスクワヘ行って法外な財政援助を求めたのだが、それが黙殺されると、ソ連とコミンテルン系と絶縁し、極端な親米一辺倒に走ったという資科もあるという。

 ソ連の100分の1にしかならない領土に、わらぶき小屋が軒を連ね、やせ細ったロバが往き来する朝鮮という国が、コミンテルンの活動家にとってはあまりにも見すぼらしい微小な存在だったに違いない。われわれが満州地方で抗日武装闘争を展開した時期になっても、朝鮮にたいする彼らの認識はさほど変わらなかった。わたしが残念に思ったのは、このようにコミンテルンが小国の人民の運命と小国の共産主義者の民族解放闘争に無関心であったことである。彼らのこうした冷遇と冷淡さが、われわれをして革命において主体性という柱をさらに強くうち立て、自力で民族の解放をなし遂げずにはおかないという決心を不変のものにさせたことはいうまでもない。

 コミンテルンの処置と立場を不快に思いながらも、それに反対したり是正させるだけの力がまだなかったこと、コミンテルンの活動スタイルとマンネリになった事務室的な活動作風が朝鮮革命をみすみす犠牲にし、朝鮮革命の主体的発展を妨げる一つの障害となっていることを知りながらもそれを阻止できなかったこと、これがわたしにとっていちばん歯がゆく思われる問題であった。われわれ新しい世代の共産主義者が切望したのは、コミンテルンが朝鮮共産主義者のこうした苦衷を察し、革命を主体的に進めようとするわれわれの志向と確固たる決心に同調してもらいたいということであった。

 このように、われわれが革命実践上、至急解決すべき複雑な問題をかかえて悩んでいるとき、潘省委が東満州に現れたのは喜ばしいことであった。いずれにしても、潘省委との出会いはわたしの生涯における有意義な出来事であった。コミンテルンにわれわれを理解し支持する人がいるのは望ましいことだった。わたしはとくに、分派に毒されていない者で中核を育て、朝鮮共産主義運動の隊伍を再編し、朝鮮人の党を建設すべきだといった彼の言葉から、強烈な印象を受けた。そのときの彼の助言は、わたしの思考と実践において主体性をいっそう強く堅持させる契機となった。あのとき、潘省委からの影響と同志的な励ましがなかったら、反民生団闘争が過酷に展開された時期に、われわれが朝鮮民族と朝鮮革命の主体を守り、決死のたたかいを展開することはできなかったであろう。

 わたしに『資本論』の手ほどきをしてくれたのが朴素心であり、『紅楼夢』を紹介してくれたのが尚鉞先生であるなら、潘省委は、朝鮮人は朝鮮を忘れてはならないというわたしの信念をいっそうかためさせてくれた真の支持者、鼓舞者、共鳴者であった。わたしの抗日革命活動史において、潘省委に会ったときのように朝鮮革命の運命と路線問題をめぐってあれほど真剣に、熱烈に掘り下げた論議を交わしたことはなかったであろう。潘省委は革命にたいする自分なりの一家言をもった、まれに見る理論家であった。1930年代の後半期、わたしが大部隊を率いて白頭山一帯に進出したとき、潘省委が生きていてわれわれとともに活動したなら、朝鮮革命の直面した難問を理論的、実践的に解決するうえで大きな貢献をしたに違いない。わたしは潘省委に会って以来、革命闘争においては実践家も重要だが、その実践を先導し操縦できる理論家も必要であることをいっそう痛切に感じるようになった。

 小汪清での忘れえぬ対話を契機に、潘省委はわたしの無二の友人となり同志となった。20歳以上も年の隔りがあるわれわれが、10日余りのあいだに10年の知己に劣らぬ友人となり同志となったのは、なんらかの物質的な力や利害打算の魔力によるものではなかった。われわれが白熱のようにあつい友情を分かち合うことができたのは、朝鮮の解放と自由を一日千秋の思いで待望する心情が同じであり、万事を定見をもって独自に解決していこうとする主体的な思考方式と志向が同じであったからである。友情の深さを決めるのは時間でもなく弁舌でもない。長い交わりだからといって友情が深まるものではなく、短い交わりだからといって友情が薄いというわけでもない。要は、人間とその運命にたいし、民族とその運命にたいし、いかなる立場と態度をとるかということである。こうした立場と態度の共通点と相違点は、友情を倍増させることもできるし、破綻させることもできる。人間愛、人民愛、祖国愛、これは友情を確かめる試金石である。

 潘省委が小汪清を発つとき、わたしは馬に乗って琿春の境界まで彼を見送った。彼は足が多少不自由だったので、馬を都合してやった。われわれは馬上でも多くの話を交わし、十里坪に2日間留まったときにも国際共産主義運動にかんする問題や中国共産党との関係、とくに朝鮮革命の当面の問題と将来の問題まで包括する多くの問題について意見を交わし、かたい盟約まで結んだ。

 そのときのことを素材にすれば、長編小説にしても事欠かないであろう。その十里坪はほかならぬ李範奭の士官学校があった村であり、呉仲和一家が難を避けて移ってきた村でもあった。

 潘省委は、最後にはプライバシーまでうちあけた。彼には20歳も年下の若い妻がいた。妻の名が呉英玉だったか、呉朋玉だったかよく思い出せない。わたしは彼に、40歳が過ぎるまで妻帯しなかった理由を尋ねた。

 「ははは、理由などあるもんかね。わたしが頼りなさそうなので、娘らがみんな目もくれずに通り過ぎてしまったというわけだよ。誰がこんなびっこに情をそそごうとするかね。うちの呉氏夫人でなかったら、嫁ももらえず、じいさんになってしまうところだったよ」

 彼は笑いながらこう答えるのだった。ともあれ、彼は自分を痛めつけるためにこの世に生まれてきた人間のようであった。わたしは彼の晩婚に深い同情を禁じえなかった。

 「呉氏夫人に人を見る目があったわけですよ。聞くところによると、すごい美人だそうで、あつあつというところでしょう」

 「まんざらでもないね。だが不思議なのは、わたしの方から求婚したのでなくて、彼女の方から愛の告白をしてきたんだ。とにかく晩婚というのはなかなか味なものだよ」

 「北満州の人たちから、だいぶうらやましがられているといううわさを聞きましたよ」

 「しかし、男のこけんにかかわるから、金同志だけはわたしのような遅刻生にならないようにしたまえ」

 「さあ、わたしも遅刻生にならないとはかぎりません。この道だけは、思いどおりにいかないものですからね」

 われわれは十里坪の草原でこんな冗談をいいながら愉快に笑った。そういう過程で、われわれの友情はいっそう深まった。潘省委はその間、汪清が好きになったといって、わたしとの別れをたいへんさびしがった。潘省委のつぎの目的地は琿春と和竜であった。

 「金同志の印象は一生わたしの記憶に残りそうだ。汪清に来て金日成同志と知り合いになれて本当にうれしい」

 琿春−汪清の境界を越えるとき、潘省委は真顔になってわたしの手をとり、目をうるませてこう言うのであった。

 「わたしもやはり同じ気持ちです。潘同志に会えたのはわたしの幸運です。正直にいって別れたくありません」

 「別れたくないのはわたしも同じだ。今度の旅程が終わったら、わたしも女房ともども東満州へ来て、金同志とともに手をとり合って活動してみたい。わたしはもう古くなったよ。苔が生えたんだ… 朝鮮のホー・チミンになってくれたまえ」

 潘省委はこんな言葉を残して汪清を後にした。歩きだしていくらかすると、彼は後ろを振り返り、手を高く振り上げた。初対面のときとまったく同じ仕草を見たわたしは、なぜかその間かなり長い月日が流れたかのような思いにとらわれた。その顔の一つ一つの印象は、数十年前から見慣れてきたものであるかのようでさえあった。

 知り合っていくらもたっていないのに、彼を見送るわたしの心がなぜこんなにわびしく物悲しくなるのだろうか、というのが、そのときのわたしの胸に迫った情感であった。彼は笑っていたが、その顔はなぜかさびしげだった。わたしはその微笑がいつまでも気にかかった。むしろ笑ってくれなかったなら、わたしの心はもっと軽かったかも知れない。また帰ってくると約束してわたしと別れた潘省委は、琿春へ行って不帰の客となったのである。

 彼を殺害したのは、琿春遊撃隊の大隊政治委員の朴斗南であった。路線転換問題を討議する琿春県党拡大会議で、潘省委からもっともこっぴどく批判されたのは、ほかならぬこの朴斗南であった、彼は派閥争いの頭目という烙印を押されて政治委員職から解任された。潘省委が宿所で書き物をしているとき、その庭で護衛にあたっていた兵士たちが戦利品の38式小銃を見物しているすきに、朴斗南がその銃で彼を撃ったというのである。そのうわさが汪清まで飛んできて、人びとをひどく憤激させた。

 それを聞いたわたしは、潘省委とともに革命を論じ、人生談を交わした李治白老の家の一部屋で終日戸を締め切り、涙のうちに故人をしのんだ。



 


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