金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 ソビエトか、人民革命政府か?


 遊撃区で極左病がもっともはなはだしく現れたのは、政権建設分野であった。政権建設における極左的偏向は、教条主義、事大主義、冒険主義に毒された人たちの小ブルジョア的性急さの所産といえるソビエト建設路線と、ソビエトの名で実施された一部の施策に集中的に現れた。

 政権建設をめぐる問題は、すでに「トゥ・ドゥ」のころからわれわれの論議の対象となり、誰も無視できない重要な論題となっていた。朝鮮青年にとって、政権問題は独立後に上程してもよい将来のことであり、また、国権回復が実現したあとでのみ建設に着手できる理念上の問題だと主張する人もいたが、われわれはそうした見解に同意しなかった。政権の形態にかんする見解は、とりもなおさず、それがいかなる性格の革命を追求するかという問題に直結しているというのが、われわれの立場であった。

 政権問題がわれわれの政治生活でもっとも激烈な論議の対象となったのは、吉林時代であった。吉林の政治舞台で、独立後の国家形態にかんする問題が論題とされなかったことはほとんどないといってよい。3府系統の独立軍指導者たちが王政やブルジョア共和制を主張して気炎をあげるかと思うと、金燦、安光泉、申日鎔といった旧共産党系列の政客は、社会主義の即時実現とプロレタリアート独裁を叫んだ。朴素心も、古典の命題に執着して労働者、農民の独裁を云々した。彼は労農大衆が政権の主人となることには賛成しながらも、独裁という言葉が気に入らないといって、いつも頭を横に振っていた。

 吉林の青年は、それぞれのレベルと利害の違いによって、王政を支持する者、ブルジョア共和制に未練をいだく者、ソ連式社会主義に拍手を送る者など、まちまちであった。金赫、車光秀、桂永春、申永根など新しい世代の共産主義者は、独立軍の老人たちが王政復古を云々するのが気に入らないといった。しかし、社会主義の即時実現という主張には半信半疑の態度であった。こうした実情は、われわれをして政治討論が主となっていた青年学生の演壇で、政権問題を大きくとりあげて論争せざるをえなくした。

 その後、われわれは卡倫会議で朝鮮革命の性格を反帝反封建民主主義革命と定義づけ、それにもとづいて共産主義者が解放後の祖国に樹立すべき政権は当然、王政やブルジョア議会制政治を排除した人民のための政治制度、すなわち労働者、農民、勤労インテリ、民族資本家、宗教人をはじめ、広範な勤労者大衆の利益を擁護する民主主義政権であるべきだと強調した。1931年12月の冬の明月溝会議で政権問題が論議されたとき、われわれが主張したのも、本質上これと同一のものであった。

 間島地方に遊撃根拠地が創設されて以来、朝鮮革命においては、政権建設問題が本格的な論議の対象となって浮上した。解放地区形態の遊撃区を維持し、それを運営していくためには、その領域内の人民にたいする経済組織者、文化教育者としての役割を果たす政権を建設しなければならなかった。国家の縮小版ともいえる遊撃区に政権を樹立せずには、人民の生活を保障することも、彼らを闘争に奮い立たせることもできなかった。

 こうした必要性からして、東満州地方で活動していた共産主義者は、1932年の秋から遊撃区域で政権樹立の歴史的な道に踏み出した。その年の10月革命記念日を契機に、汪清県嘎呀河では大衆集会を開き、ソビエト政府の樹立を世に宣言した。これと時期を同じくして、延吉県の王隅溝と三道湾でもソビエトが樹立された。遊撃区域に革命政権が樹立されたことは、疑う余地もなく人民の世紀的な宿望を実現させる有意義な出来事であった。

 最初はわたしも、遊撃根拠地にソビエト政権が樹立されたことをうれしく思った。名称はどうであれ、人民の利益を擁護する政権であるならそれでよいと思ったのである。当時は、「ソビエト熱風」が東満州全域に吹きまくっていたときである。ソビエトを樹立することは、社会主義・共産主義を志向する世界各国の革命闘士と進歩的人民にとって一つの公認された思潮として流行し伝播していた。この熱風は、ヨーロッパとアジアとを選ばなかった。中国瑞金の中華ソビエトとベトナムのグアン・ハティンソビエトの樹立はその好例といえる。朝鮮革命の性格をブルジョア民主主義革命とした人たちでさえ、労農ソビエト政権について論じていた。

 コミンテルンの本部に常駐していた朝鮮人の崔成愚らが、コミンテルン執行委員会で東方部の仕事を担当していたメンバー(クーシネン、マジヤール、岡野)と共同で作成した「朝鮮共産党行動綱領」は、朝鮮の完全独立とともに「労働者、農民のソビエト国家の樹立」を当面の任務として提示していた。ソビエト路線を支持し、それを革命実践にそのまま無条件に受け入れることは、国際共産主義運動において疑問の余地すらない一つの常識であり、革命的な共産主義的立場と日和見主義的立場とを判別する一種の基準とされていた。植民地、半植民地の国はいうまでもなく、資本主義諸国の共産党と共産主義組織でも、ソビエト政権の建設を至上の課題としていた。ソビエトは、全世界の無産者階級にとって一つの理想となっていたのである。ソビエトがそれほど大きな影響力をもっていたのは、それがあらゆる形の搾取と抑圧を一掃し、勤労人民大衆の利益を絶対視する福祉社会の建設を可能にする唯一無二の政権形態と認められていたからである。搾取と抑圧のない自由で平和な新しい世界は、人類の世紀にわたる願望であり理想であった。

 ロシアに樹立された新生ソビエト政権は、打倒された搾取階級の反乱を粉砕して帝国主義連合の侵略から祖国を守り、経済を復旧し社会主義建設を推進するうえで、かつてのいかなる政権もなしえなかった絶大な生命力を発揮した。ソビエト社会主義のこうした凱旋行進は、人びとのソビエトにたいする崇敬の念を幻想の境地にまで昇華させていた。人類がソ連を灯台と仰ぎ、ソビエトをすべての政権形態のうちでもっともすぐれた先進的なものとして受けとめたのは、決して無理なことではなかった。ソ連と隣り合わせの地帯であり、また新生ソ連の影響をいろいろと受けていた間島地方で、ソビエトにたいする幻想が人びとの頭を支配するようになったのは当然なことであった。

 南満州と北満州への遠征を終えて汪清に帰還したわたしは、ソビエトの施策にたいする不満の声が遊撃区のいたるところからわき起こっている現実を目撃して、唖然とせざるをえなかった。それらの声には、見過ごすことのできない深刻な問題が内在していた。彼らのとりとめのない陰口に真実がひそんでいることを、われわれはすぐに見てとった。

 わたしは遊撃区域をまわりながら、ソビエトにたいする人びとの考えを詳しく調べた。数十〜数百人の人民との不断の接触と腹を打ちわっての真摯な対話の過程で、わたしはソビエト政権の極左的施策がまねいた重大な結果を全面的に把握することができた。遊撃区の住民がソビエトをけむたがりはじめたのは、政府が社会主義の即時実現という極左的なスローガンのもとに私有財産の廃絶を宣言し、土地や食糧をはじめ、鎌、手ぐわ、フォークなどの農具まで、個人所有になっていた動産、不動産をいっさい共同所有に変えてしまったときからであった。ソビエト政府は財産の共有化を一挙に強行したあと、遊撃区内のすべての住民に老若男女を問わず共同生活、共同労働、共同分配の新秩序を強要した。これが、いわゆるソビエト急進論者が口ぐせのように唱えていた「アルテリ」の生活というものであった。これは、幼稚園の児童が、小学校、中学校、高等学校をへずに大学に進学したようなものであった。

 ソビエト政府はまた、大地主、小地主、親日地主、反日地主の別なく遊撃区内のすべての地主と富農の土地を無償で没収し、牛馬や食糧までも一律に収奪した。東満州がいわゆる「赤色区域」と「白色区域」に分離されたのち、敵区へ行かずに遊撃区域に留まった地主はほとんどが反日感情の強い愛国的な地主であった。共産主義者が汪清一帯で武装隊伍を組織したとき、彼らは遊撃隊の援護にも誠意を示した。そういう地主の中に、張時明という名の進歩的な中国人地主がいた。1932年春の大討伐のさい、間島臨時派遣隊はこの地主の米倉まで焼き払ってしまった。討伐隊が銃剣を振るって強制退去を命じたが、彼は大肚川へ行かず、そのまま留まった。日本人にたいする彼の怨念は、その春からいっそう深まった。彼は、地主でありながら遊撃区の住民の生活を物心両面から援助した。

 「遊撃区のだんながた、わたしは日本人を見るのがいやでここに留まった人間です。あの悪鬼のようなやつらを大肚川市内からだけでもなんとか追い出してくださいな!」

 遊撃隊員が義援金を募りに行くと、張時明はこう頼むのであった。遊撃区の住民と彼との仲は非常によかった。ところが、ソビエト政権はこの地主までも敵区へ追いやってしまった。張時明は遊撃区域に留まれるよう考えてほしいと懇願したが、ソビエトはそれを許さなかった。

 「ソビエト政権は、地主の財産をいっさい没収することにした。あなたは反日精神が強い人で、これまで遊撃区の仕事をいろいろと助けてくれたのは確かだが、搾取階級に属する人間であるから、粛清しないわけにはいかなくなった。だから、ここから早く立ち去れ」

 これが、反日地主に下したソビエトの宣告であった。誠心誠意、革命を援護した張時明の財産は即座に没収され、ソビエト政府の管轄下にある倉庫に全部納められた。裸同然の身になった彼は、涙ながらに日本軍の駐屯している大肚川へ去って行った。そのとき、粛清工作に動員された者たちは、地主の長櫃の中の子どもの花靴まで奮い取った。中国人には、女の子が生まれると、その子が大きくなって嫁いだあとで生まれる孫の靴までつくっておくほほえましい風習があった。そういう履き物を花靴といった。乳飲み子のころのものからはじまり、1歳、2歳と順々に大きさの違う花靴を揃えて長櫃の中にしまっておくのであるが、その中には指ぬきくらいの小さいものもあった。そういう靴まで残らず没収したのであるから、それを黙って甘受しなければならなかった地主が遊撃区を立ち去りながらどんなことを考えたかは想像に難くない。

 小汪清の谷間には、有産者から没収した牛や馬が多かった。それは、かなり大きな牧場をつくっても余るほどのものだったので、根拠地の青年は誰も彼も馬に乗った。ソビエトの統治下では、それも一つの見栄だった。極左分子は、中国人の女性が纏足をしたり、耳飾りをつけたりすることさえ槍玉にあげた。

 1930年代の前半期は、東満州地方の極左が絶頂に達した時期であり、極左の専横の中で神聖な革命的原則が試練をへていたときである。どうして、極左病がこのように東満州を吹きまくることができたのであろうか。間島の遊撃区域に集まった革命家は、みな無頼漢か、それとも理性を失った狂人であったというのであろうか。そうではない。遊撃区を治めていた絶対多数の共産主義者は、気高い革命的理想と道義に徹したりっぱな人間であった。彼らは誰よりも人間を深く愛し、正義への志向が熱烈であった。にもかかわらず、あれほど人情に厚く分別のある人たちが、なぜ極左路線の提唱者、実行者となり、取り返しのつかない失策を犯すようになってしまったのであろうか。われわれは、その原因を路線に求め、その路線を作成した人たちの思想的未熟さに求めた。実情にうとい人たちがトップの座にあぐらをかき、古典の一般的原則と先行者の経験をそっくり直輸入した現実性のない指令を乱発したため、実践的には無理が生じざるをえなかったのである。むやみに排斥し、手当たり次第に一掃し、打倒し、葬り去るのがもっとも徹底した階級性とみなされ、もっとも前衛的な革命家の表徴と評されている時期であった。

 極左がいかに神聖視されていたかを示すこんな事実もあった。汪清のある寡婦が機織りをして稼いだ小銭を農民に貸し付けたところ、農民はそれを高利貸しだと決めつけて借用書を焼き捨て、元金まで踏み倒してしまったというのである。背後であやつる者がいなければ、純朴な農民にこんなさもしいことができるはずはない。

 いつか、わたしは汪清で李応万中隊長が武装隊伍に加入した経緯を聞いて驚いたことがある。最初のころ武装団では、労働者と貧農、雇農出身でなければ入団を許さなかった。ところが、李応万にはひからびた山肌の土地ではあっても1万坪ほどの畑があった。この畑のために、彼は貧農や雇農と認められなかった。彼は武装団への加入を何回となく懇請したが、そのたびに階級的出身がよくないという理由ではねつけられた。1万坪も持っていれば中農だというのである。彼は、思案のあげく両親に内緒で畑を売り払ってブローニング拳銃を1箱買い入れて武装団に加入させてくれと懇願し、やっと入団が許されたのである。李応万は遊撃隊員になれたと喜んだが、一夜にして1万坪の畑をなくしてしまった彼の家族は生きていく手立てを失い、ただ呆然とするのみであった。

 極左を戒め、容認してはならないというわたしの決心は、間島に来ていっそうかたくなった。わたしはそのとき以来、一生のあいだ極左とのたたかいをつづけてきた。間島時代の体験は解放後、極左を防ぎ、官僚主義を一掃する闘争に大いに役立った。

 もっともらしい革命的言辞と、はねあがったスローガンの裏で、極左はつねに大衆を愚弄し、抑圧し欺き、功名と栄達を夢見るものである。その功名と栄達のために、自分を最前線で突進する戦車や装甲車でもあるかのように描写するのが極左なのだ。変装した反革命が、極左に早変わりするのはそのためである。それゆえ、共産主義者はつねに警戒心を高め、自己の陣地に極左の足がかりとなるようなすきを与えてはならないのである。

 極左的なソビエト施策がまねいた禍のため、遊撃根拠地では収拾しがたい動揺と混乱が生じた。多くの家族が、ソビエト施策に不満をいだいて敵区へ移って行った。ある晩、わたしは隊員を率いて第2中隊の政治指導員崔春国がいる三次島へ行く途中、一家もろとも遊撃区を脱出していくある家族に出会った。白昼に抜けだして捕まれば反革命のレッテルを張られるに決まっていたので、夜間を選んだのである。家族は5人であったが、荷物はそれほどなく裸に近い装いであった。男が連れているのは、妻と3人の子どもであった。50がらみの彼は、銃を担っている軍人を見てふるえあがってしまった。遊撃隊の指揮官に見つかったのだから、もう最期だと思ったのであろう。

 「あなたは、どんな罪を犯したのですか?」

 わたしは寒さにふるえている3人の子どもを1人1人抱き寄せながら、おだやかに尋ねた。

 「いや、何も罪は犯しておりません」

 「それでは、なぜ遊撃区を離れようとするのですか」

 「ここではもう息がつまりそうなので…」

 「では、どこへ行くつもりですか? 敵区へ行っては、ここよりもっと息がつまるはずなのに」

 「日本人にさんざんひどい目にあわされて遊撃区にやってきたわたしらが、また、やつらのところへもどっていくなんてとんでもないことです。人のいない深い谷間へ行って、焼き畑でも起こして暮らしていくつもりです。そうすれば心だけでも安まるではありませんか」

 わたしは、胸がふさがる思いだった。この馬村より深い山奥にこもったところで、明日の暮らしのめどもつかない彼らに、果たして心の安らぐ生活ができるというのだろうか。

 「まだ氷も解けていないし、草の芽も生えていないというのに、それまでの食糧はなんとかなるんですか?」

 「食べ物なんてあるわけがありません。気力がつきるまで生きられれば生きるし、死ねば死ぬし… 仕方がないでしょう。もう命がつながっているのが煩わしいくらいです」

 かたわらの彼の妻が突然、肩をふるわせてむせんだ。すると、わたしの胸に抱かれていた3人の子どもらも、せきを切ったように泣きだすのであった。わたしは、頬を伝う涙を唇で噛み殺し、暗闇の中に呆然と立ちつくしていた。こうして、1人2人と立ち去ってしまうなら、最後は誰に頼って革命をすればよいのか。朝鮮革命は、なにゆえにこのように索漠とした窮地に落ちこんでしまったのだろうか。ソビエトの無謀な施策がもたらした結果は、このように破局的なものであった。

 「もう少しすれば世の中もおさまりがつくようになるでしょうから、あまり気を落とさずにわれわれと一緒に時勢が改まる日を待ちましょう」

 わたしは、その家族を家に連れて帰るよう隊員に命じた。そして、第2中隊の兵舎で泊まることにしていた予定を変更し、西大坡にいる崔自益老の家を訪ねた。胸をえぐられる思いをしたので、遊撃区の民心をさらに知ろうという心積もりだった。崔自益は、汪清別働隊の隊員として遊撃隊の生活をはじめたのち、中隊長をへて独立旅団の連隊長にまで昇進して戦死した崔仁俊の父親で、わたしが三次島に来るたびに忘れずに訪ねることにしていた老人である。この老人は、徐一の率いる北路軍政署で書記を勤めたほどの有識者であるうえに性格が快活で率直なので、会うたびにいろいろと参考になる話を聞かせてもらうことができた。

 「ご老人、最近はいかがお過ごしですか」

 わたしの挨拶に老人は「命がつながっているから、生きておるようなもんじゃ」と無愛想に答えるのだった。わたしは、その無愛想な口調が遊撃区の民心を代弁しているように思えたので、いま一度問いかけた。

 「遊撃区の生活が、そんなに苦しいのですか?」

 すると、崔自益は冠を曲げて声を荒らげた。

 「ソビエト政府が役畜や農具を集めていくときは、まだわしも我慢した。ロシアでも農業の集団化というのをやるときはそんなことをしたんで、わしらもそれに見習ったんだろうと思った。ところが、何日か前に共同食堂を経営するとかで、さじや箸まで集めに来たのにはへどが出たよ。『わしら老人たちが共同食事のために日に3回、自分の家のオンドル部屋をおいて外へ行ったり来たりしろというのか。こんなやり方はもう我慢できん。コンミューンだのアルテリだの、そんな化物の巣窟みたいな世の中をつくるのなら若い者だけでやれ。わしらは息が苦しくてついていけん』というってやった。すると、今度は、封建粛清だのなんだのといって、年寄りたちを大衆集会に引き出して、嫁たちに批判させるじゃないか。朝鮮の歴史はざっと5000年を数えるというが、どの時代にこんな奇怪千万なことがあったというのか。うちの仁俊は、それでもわしに、ソビエトを誹謗しちゃいかんと説教しよる。それでわしは、仁俊の背骨を叩き折るところだった」

 遊撃隊指揮官の父親がソビエトの施策に背を向けるくらいだから、他の住民の動向は調べてみるまでもなかった。その後、遊撃区での反民生団闘争が極左的に展開された恐怖の時期と、遊撃区の解散をひかえて軍隊と人民が涙のうちに惜別の悲しみを分かち合った日々に、胸を叩いて時勢を痛嘆したこの老人の訴えを、わたしはしばしば思い起こしたものである。

 ソビエト政府が樹立されて半年足らずのあいだに、朝中人民の関係は再び急激に悪化した。粛清された地主の大部分が中国人であっただけに、5.30暴動のときと同じような葛藤が再燃したのは当然の結果であった。反日部隊は、以前のように再び朝鮮の共産主義者を敵視するようになった。日本軍と満州国軍に加えて、救国軍も、中国人地主も敵に回すようになったのである。

 抗日遊撃隊は、小規模の秘密遊撃隊のように他人の家の裏部屋に隠れていた創建初期と同様の境遇になり、朝鮮人の集落に用心深くひそんでいた。だからといって、別働隊という看板を復活させるわけにもいかなかった。救国軍は、われわれに出会うと「高麗棒子(コリパンズ)」といって乱暴を働いた。遊撃隊の活動は半地下闘争も同然のものになった。われわれが1年余りの闘争過程で積みあげたいっさいの功績は、無念にも水の泡のように消え去ろうとしていた。

 ソビエトの施策をめぐって、われわれの隊伍のあいだにも分解作用がはじまっていた。こんなことなら、いっそのことロシアヘ行って革命のやり方を学んでから再出発しようという者もいれば、間島人のやり方どおりにしては革命もなにもみな台無しになってしまうから振り出しにもどってわれわれだけでたたかおうという者もおり、つまらない革命をするくらいなら家へ帰って親孝行でもした方がましだという者もいた。それで、家へ帰りたがっている中国人の1人は家に帰らせ、ソ連へ行って勉強したがっている別の中国人はソ連へ送ることにした。

 こうした事態にあっても、遊撃区の運命に責任を負うべき人たちは、政策転換を断行する決心を下せずにいた。東満特委が指導機関として存在していたが、コミンテルンの施政方針に修正を加えるだけの路線をもっていなかった。誰かが、右翼の極印を押される危険を冒してでも、果敢に立ちあがって混乱した時局をただし、遊撃区を崩壊の危機から救い出さなければならなかった。そのためには、極左的なソビエト路線に対抗する決断と新しいテーゼが必要であった。わたしが、セクト主義の一掃と革命隊伍の統一団結の強化にかんする論文をパンフレットにして発表したのは、ちょうどそのころのことだった。

 わたしは政権建設問題をめぐって、馬村で童長栄と論争しようと決心した。ところが、県党書記の李容国をはじめ、幾人かのメンバーがわたしを引き止めた。「ソビエト建設事業大綱にかんする東満特委の決議」がすでに示達されており、また泗水坪にソビエト政府も樹立されているのだから、いくら論争したところでらちがあかないし、下手に論争をしかけては制裁もまぬがれないというのであった。李容国は、金百竜がソビエトを批判して右翼分子と決めつけられたいきさつを手短に話してくれた。

 金百竜は、北満州でひところ県党委員会の委員として活動した人物であった。間島地方でソビエトを組織する宣伝活動がさかんに展開されていたとき、ある用件で金百竜は東満特委を経由し、ソビエト政府樹立の初のモデルケースに選定された汪清五区へ来ていたそうである。たまたま、そこにソビエト政府が樹立されるという話を聞いた彼は、東満州にソビエトを組織するのは時期尚早だといったその一言のために、右翼日和見主義者のレッテルを張られて攻撃の槍玉にされ、のちには北満州へ追われてしまった。

 李容国から金百竜事件の話を聞かされたときから2年が過ぎた1934年の冬、わたしは寧安県八道河子で金百竜に会った。そのとき、彼は当地の区党書記を勤めていた。彼は、ソビエト時期尚早論をもちだして右翼投降主義者のレッテルを張られた1932年の秋をわびしそうに回想した。そのころはすでに、東満州での極左的なソビエト路線が是正され、人民革命政府が遊撃区を治めはじめて久しかった時期なので、彼は極左的暴挙といえるソビエト路線の提唱者たちを臆することなく批評するのであった。会って話を交わしてみると、非常に賢く剛直な人だった。

 わたしは彼に、どういう理由でソビエトの建設が時期尚早だと主張したのかと尋ねた。彼は「理由というのは単純ですよ。嘎呀河に行っていたとき農民とよく語り合ったのですが、彼らはそもそもソビエトがなんであるのか、その言葉の意味すら知らないではありませんか。人民が知りもしないソビエトを建設するというので、無謀に思えて時期尚早だといったのですよ」

 と簡単に答えた。

 人民にはソビエトがなんであるのかわからなかったというのは、当時の実態をありのままに反映した言葉であった。区ソビエト選挙に参加した嘎呀河の老人たちは、ソビエトをソクセポ(速射砲)と混同していた。

 「ソビエトが出てくるというので、日本軍をうんとやっつけるソクセポが出てくるのかと思って演壇を見つめていると、なんと、ソクセポではなくて赤旗が出てきましたわい」というのが老人たちの言葉であった。汪清二区のソビエト創立行事に参加した馬村の有権者の中には、ソビエトをセボチ(金だらい)と勘違いしている人もいた。ある村の人たちは、ソビエトの選挙に出かける有権者に、「ソビエトがどんな形のものなのかよく見てきなされ。大きいもんか小さいもんか」と頼んだという。またある村では、「ソビエトという偉い人が来るそうだが、もてなすものがなくて困った」といって、かごを手にして山菜を摘みに出かける人がいたという話もある。

 このように、人民がソビエトについて自分なりに解釈し、それに人びとの笑いを誘うコミカルな註釈まで加えるようになったのは、無知がもたらした当然の結果ではあるが、大衆を指導する人たちの宣伝活動が正しく進められなかったからである。当時の宣伝テキストというのは、およそ題目からして大衆に理解できない外来語だらけのもので、「ソビエトとはなにか?」「コルホーズとはなにか?」「コンミューンとはなにか?」といった類のものだった。ソビエトにたいする概念は宣伝員自身でさえあいまいな有様であった。極左の毒素に侵された急進分子は、このように人民にはわかりもしないソビエトを各地にうち立て、労働者と貧農、雇農の独裁を叫び、革命が成功したかのように虚勢を張っていた。

 わたしは、汪清の同志たちの忠告を無視し、童長栄と政権形態問題について論争した。

 「間島の一角に革命政権が誕生し、その存在をこの世に宣言したのはまったく喜ばしいことです。ところで童長栄同志、このソビエト路線のためにわれわれの統一戦線路線が侵害されているのを、わたしは見過ごすことができません」

 童長栄は驚きの色を浮かべてわたしを見つめた。

 「統一戦線路線が侵害されている? それはなにを念頭においてのことですか」

 「明月溝でも話したことがありますが、われわれは、朝鮮革命に利害をもつすべての反日愛国勢力を一つの強力な政治勢力として結集する路線をうちだし、その実現のために数年間、国内と満州地方で血みどろのたたかいを展開してきました。その過程で、われわれは多数の大衆を結集しました。その大衆の中には愛国的な宗教人もいれば商工人や下級官吏もおり、ひいては地主までいます。ところが、ソビエトの施策は、彼らを一律に排斥してしまいました。きのうまでの革命の支持者、共鳴者が、きょうは革命に背を向け、反対する立場に立っているのです。朝中人民の関係も再び悪化しています」

 童長栄は笑いながら、わたしの腕首を軽く叩いた。

 「それはありうることであり、また本質的な問題でもありません。肝心なのは、ソビエト政権が人民の望んでいたことをすべて解決してやったということです。革命も上昇一路をたどっています。労働者、農民をはじめとする絶対多数の大衆はソビエト政権を支持しています。なにも恐れることはありません。労働者と農民さえいればいかなる革命でもできるというのがわたしの主張です。少々の損失は覚悟すべきではないですか」

 「損失がありうることは認めます。しかし、味方にできる人を押しやる必要はないでしょう。われわれの総体的な戦略は、敵を最大限に孤立させ、絶対多数の大衆はすべて獲得しようというものです。それでこの1年間、危険を冒して反日部隊の工作も進めてきたのです。5.30暴動を契機に失墜した共産主義者の体面もやっと回復し、朝中両国人民のあいだに生じた不和も辛苦の末に取り除かれたというのに、あれほど骨をおって積みあげた塔が、一朝にして崩れ去る危機が再び生じているのです」

 「金日成同志、問題を悲観的に考察しすぎているのではありませんか?」

 「違います。わたしは、もともと何事でも楽観的に考察するたちです。革命は、もちろんこれからも上昇一路をたどるでしょう。しかし、東満州に生じている極左的施策の結果については深く憂慮せざるをえません。東満特委はこの問題にたいし、当然、熟考する必要があると思います」

 「ということは、施策を再検討すべきだということですか?」

 「そうです。施策を再検討し、その施策を生み出している政権形態について再検討すべきです」

 童長栄は眉を寄せ、不機嫌な表情になった。

 「金日成同志、ソビエト政府の施策には、もちろん誤謬もありうるでしょう。しかし、政権形態は不可侵です。ソビエトを建設するというのは中央の路線です」

 論争はつづいた。童長栄は、自分の主張に固執しソビエトを絶対化した。彼は性格が温厚で人情味もある人であったが、片意地なところがあった。知識が豊かである反面、思考と実践の面ではドグマにとらわれることが多かった。

 その後、わたしは、再び童長栄と政権問題をめぐって論じ合った。そのときの論議で焦点となったのは、ソビエトを維持すべきか放棄すべきか、放棄するとすればどのような新しい政権形態を選択すべきかということであった。わたしは、反帝反封建民主主義革命の課題を遂行すべき東満州地方の遊撃区でソビエトが実情に合わない政権形態であることが生活を通じて証明された以上、朝中両国の共産主義者は決断を下して政権形態を変え、人民に喜ばれる政策を実施して混沌とした時局を収拾すべきだと童長栄を説得した。

 「ソビエトが東満州の実情に合わないものであり、またソビエトの一部の施策が革命に損失を与えたということはわたしも認めます。この前、金日成同志はソビエト路線のため統一戦線路線が侵害されると心配していましたが、なぜそういう心配をしたのか、いまは理解できます。ここ数か月間、東満州に生じている深刻な事態は、わたしをして金日成同志のその警告を熟考せざるをえなくしました。しかし残念ながら、われわれはまだ、ソビエトに代わる政権形態を確定してはいません」

 特委書記の見解に生じた変化はわたしをほっとさせた。その日の童長栄は、大衆の意気がさかんな革命の高揚期には、ソビエトのみが共産主義者の唯一の政権形態であると主張して譲らなかったかつての特委書記ではなかった。

 「これまで人類が発見した労働者階級の政権形態は、コンミューンとソビエトしかないではありませんか」

 童長栄はここまで言って、わたしの顔をうかがうような目で見つめた。そのまなざしは、もし君がわたしを納得させるだけの形態を探し出せるというなら、わたしもあえて反対はしない、という暗示を含んでいるようでもあった。

 「それなら、実情に合った形態をわれわれの力でつくりだしてみようではありませんか」

 「われわれがつくるというのですか? 悲しいことに、わたしはそれほどの天才ではありません。マルクス主義の古典にもないものをどうつくりだせるというのですか」

 ある問題を固定不変のものとして絶対化し、それに自分を縛りつけようとする、そんな部類の見解と立場にわたしは同感することができなかった。

 「童長栄同志、フランスの労働者階級がコンミューンを組織したとき、なんらかの古典を参考にしたでしょうか? ロシアのソビエトがマルクス主義創始者の古典に明示されていた政権形態だったというのですか? ソビエトがどうして一人天才の頭脳が生んだ産物としかいえないのですか? 人民が求めず、ロシアの現実が求めなかったなら、ソビエトは歴史の舞台に出現しはしなかっただろうとわたしは考えます」

 童長栄はなんとも応答せず、ポケットから大きなタバコ入れを取り出し、マドロスパイプにタバコを詰めて口にくわえ、わたしにも一服つけるよう勧めた。彼は遊撃区をまわって歩くときにもいつもタバコ入れとマドロスパイプを手放さなかったが、道で農民に会うと、きまってそれを出して勧める風変わりなところがあった。そういう素朴な人柄のため、彼は遊撃区の人民から尊敬され愛されていた。冬になると、彼は農民がかぶる毛皮の帽子をかぶって出歩いた。

 彼が沈黙を守っているのは、じれったかったが、わたしの言葉に反駁しないのは好ましいきざしだと思った。

 童長栄と会ったのち、わたしは、李容国、金明均、趙昌徳をはじめ、数名の軍政幹部と膝を交え、ソビエトに代わる革命政権樹立の問題をめぐって数日間、深刻な討議をつづけた。討議の効率を高めるため、わたしは、政権形態の規定にあたっては基準を定めることが重要であると強調した。わたしは、その基準というものを複雑に考える必要はない、われわれはみな、人民のためにたたかう闘士であり、人民のために一生をささげることを決心した忠僕なのだから、われわれの樹立する政権も各階層人民の利益を擁護し、人民に支持歓迎されるものであるかどうかに基本をおき現段階における朝鮮革命の性格がなんであるかを基準にすればよいはずだと力説した。

 わたしの説明を聞いた同志たちは、これですべてが明白になった、各階層の人民というカテゴリには、労働者と貧農、雇農以外の広範な勤労者大衆も包括されるのだから、彼らの利益を擁護する政府は統一戦線的な政府であるべきではないか、統一戦線的政権こそは反帝反封建民主主義革命の性格に適合した政権だ、そういう政権ならもろ手をあげて賛成だ、といって歓声をあげるのだった。わたしは彼らに、統一戦線的政府を樹立するとしても、労農同盟にもとづく統一戦線的人民革命政府を樹立すべきだと再三力説した。これがこんにち、歴史の本に人民革命政府路線と記されている政権建設路線である。

 採決の結果は明白なので、説明するまでもないであろう。われわれが朝鮮人住民の多い東満州地方に適合した政権形態として人民革命政府を選択したのは、それが反帝反封建民主主義を目的とする朝鮮革命の性格に合い、人民の要求にもかなったもっとも理想的な形態であると考えたからである。われわれは政権形態の基準を、人民の要求に求め、人民の利益をいかに擁護しりっぱに代弁するかに求めた。

 こうして、政権形態が人民革命政府に決まったのち、われわれはある一点にまずモデルをつくり、それがよいと認められれば他の革命組織にも一般化することに合意をみた。モデル・ケースとしては、五区が選定された。わたしは汪清五区へ行き、李容国、金明均らとともに、人民革命政府第五区委員会の代表を選出する集会に参加した。集会は、泗水坪から4キロほど離れた下牡丹川村で開かれた。その日は、モップル記念日であった。モップルというのは、国際革命闘士後援会の略称である。1923年、コミンテルン執行委員会は、犠牲になった革命家の遺族を援護する目的でこの組織を設けることにし、3月18日を国際的なモップル記念日に定めた。

 五区ソビエト政府の会長であった趙昌徳は、われわれをソビエト政府の事務室に案内した。わたしは、そこで20名ほどの嘎呀河地方の農民と語り合った。

 「われわれは、ソビエト政府のかわりに新しい政府をうち立てることにしました。しかし、この政府はみなさんの意思にかなったものでなければなりません。どんな政府にするのがよいでしょうか」

 わたしがこう問いかけると、1人の老人が立ちあがって、「みんなが気苦労をせずに暮らしていけるようにしてくれる政府さえ立ててくれれば、言うことはありません」と答えた。

 わたしは、ソビエト政府に代わる政府として人民革命政府をうち立てるということ、そして、この政府は世界政権史上はじめての真の人民の政府になるはずだということを感情をこめて宣言した。

 「この政府は、祖国を愛し同胞を愛するすべての人の利益を代弁し擁護し、その宿望を実現させるでしょう。みなさんの宿望はなんでしょうか? 土地を持つこと、労働の権利を持つこと、子どもを教育すること、万民が平等に暮らすこと… 人民革命政府はそういう願いをすべてかなえるでしょう」

 嘎呀河の人民は、人民革命政府路線についてのわたしの説明を聞いて、それをひとしく支持した。

 われわれは人民革命政府の誕生を宣言する儀式に先立ち、ソビエト政府が没収した個人の財産をいっさい元の持主に返還した。没収した物の中には、破損したり消費してしまったものもあった。それを償うため、梁成竜は木材所襲撃作戦まで敢行した。農民は、その戦闘でろ獲した牛や馬で、その年の春、分与された土地を耕した。

 この日の集会では、人民革命政府は真の人民の政権であるという内容のわたしの演説のあとで、10か条からなる政府政綱の内容が説明された。この政綱の内容は、後日、祖国光復会の10大綱領にほとんどそのまま反映された。

 泗水坪村での印象のうちで、いまでもありありと思い浮かぶのは、県党書記李容国の姿である。集会が終わって人びとが踊りの輪に飛びこみ、お祭り気分にひたっているとき、李容国は片隅に座って泣いていた。わたしは、踊りの輪からそっと抜けだして、彼のそばへ近づいた。

 「みんな踊っているというのに、どうしたんだね」

 李容国は、頬をつたう涙をぬぐおうともせず、重く溜息をついた。

 「あの人たちはなぜ、わたしに唾をかけないのだろうか。汪清の人たちが極左病に苦しめられたのは、みんなわたしのせいではないか。だというのに、この村の人たちはきょうわたしに、礼をいうではないか。実際のところ、礼をいうなら金隊長にいわねばならないのに…」

 「朝鮮人民は、情に厚く度量のある人民なのだ。彼らが過去にこだわらず書記に感謝したのは、人民革命政府路線を喜んで受け入れたことを意味するわけだ。これからはみんなで、明日のことだけを考えよう」

 「わたしは、これまで自分の信念をもたず、ひとの言いなりになってきた。あなたは、わたしに本当に貴い真理を悟らせてくれた。人民のために生きよう! 平凡なこの一言にどれほど深い意味がこめられていることか。わたしは一生この言葉を忘れはしない」

 李容国は、わたしの手を握って情熱的に言うのだった。

 だが、彼はこの誓いを実践に移せずに終わった。東満特委が、彼を県党書記の職責から解任する措置をとったのである。東満特委は、李容国はもともとM・L派であり、ソビエト路線の実行で汪清県党がはなはだしい極左的偏向を犯したので彼を解任したのだが、彼には民生団員の嫌疑もかかっている、といった。

 李容国がM・L派だというのは、事実に反する不当な言いがかりであった。細鱗河で青年活動に従事していた彼を東満特委の共青書記に推薦した人間が、かつてM・L派とつながりのある人物であっただけのことである。極左的なソビエト路線の実行によってもたらされた重大な結果をすべて県党書記一人の責任にするというのは、道義上からいっても無茶な話であった。彼に解任処分を適用するなら、ソビエト路線を押しつけた人間と、その実行を強要した当事者にはどんな処罰を与えるべきであろうか。また、李容国が民生団員だというのは根も葉もない虚言であった。わたしは、彼が分派でも民生団員でもないことを重ねて保証した。だが、われわれが呉義成との談判のために羅子溝へ行っているあいだに、李容国はとうとう「反革命分子」の烙印を押されて処刑されてしまった。彼の経歴から見ても民生団員になる根拠はなにもなかった。ひところ逮捕旋風を避けて亡命していった沿海州で、亡命者として安らかな一生を送ることもできたはずである。だが、彼は革命のために再び間島にもどり嵐の中に身を投じたのである。こういう誠実で良心的な人間が、なぜ民生団員のレッテルを張られたのか、その理由はいまもって不明である。

 五区に人民革命政府が樹立されてまもなく、わたしを訪ねてきた童長栄は笑顔で快活にこう言うのだった。

 「金日成同志、しばらくしてわれわれはコミンテルン派遣員の参加のもとに、路線転換問題を討議することになります。五区での人民革命政府建設の経験もあるのですから、政権問題にかんする基本発言は金日成同志にお願いすることにします」

 この年の夏、路線転換問題を討議する重要な会議が開かれた。この会議には、路線転換にかんする文書を携えて東満州地方に来たコミンテルンの派遣員も参加した。

 わたしはこの会議で、労農同盟にもとづく統一戦線的政府としての人民革命政府路線を提示し、政府の施政方針にかんする案を改めて明らかにした。その案には、土地改革をはじめ経済、教育、文化、保健医療、軍事などの各分野にわたって政府が遂行すべき民主的諸施策が明示されていた。われわれの案は、コミンテルンの新しい路線とも合致するものであった。コミンテルンの派遣員は、われわれが提唱した人民革命政府路線を全面的に賛同した。深刻な論争と思想闘争の雰囲気の中で会期を延長してつづけられた会議では、われわれの提示した人民革命政府路線にもとづき、ソビエトを人民革命政府に改編し、遊撃区の全地域でソビエト路線の極左的偏向を正す闘争を展開するという決定を採択した。

 この会議以後、東満州地方のすべてのソビエトは人民革命政府に改編された。条件のととのっていないところでは、過渡的形態として農民委員会を組織し、徐々に人民革命政府に改編することにした。私有財産撤廃の名目で没収し、遊撃区の人民が消費した財産にたいしては、人民革命政府が現金と現物で補償した。人民革命政府は人民が主人となって統轄する政府として、絶対多数の人民大衆には民主主義を実施し、敵には独裁を実施した。

 嘎呀河での人民革命政府の樹立と路線転換会議を契機に、東満州各県の革命組織区には区人民革命政府が誕生し、村ごとに村人民革命政府が出現した。区人民革命政府には、会長、副会長、9〜11名の執行委員をおき、土地部、軍事部、経済部、食糧部、通信部、医療部などの部署をおいた。これが、解放後に誕生した人民政権の萌芽であり、原型であった。

 人民革命政府は、農民に土地を無償で分与し、遊撃区内の全域で8時間労働制を実施した。当時、小汪清遊撃根拠地には1000余名の労働者がいた。彼らの大部分は、伐採、筏流し、炭焼きなどの労働に従事していた。そのうちの500余名は二区所在地の三次島で、あとの500余名は芳草嶺から馬村へ抜ける峠の下で働いていたが、彼らはいずれも8時間労働の恩恵を受けた。人民革命政府の厳格な要求により、個人企業主は労働者に従前の2倍の賃金を支払わされた。

 人民革命政府は、遊撃区周辺の山林も管轄下において統制し、政府の承認なしには一本の樹木も伐採できなくした。この措置が効力を発揮しはじめると、大肚川にあった親和木材所の日本人所長と中国人の材木商は遊撃区にやってきて、伐採許可を得ようと交渉を求めてきた。その交渉があって以来、木材業者や材木商は樹木1本当たり1円の計算で、それに相当する被服、食糧、日用品などを遊撃区に納入して樹木を伐採していった。

 人民革命政府は、遊撃区の各集落に児童団学校を立てて無料教育を実施し、梨樹溝と十里坪に設置した遊撃区病院ですべての住民に無料治療が受けられるようにした。男女平等権の実施により、女性は男性と同等の権利をもって社会活動に参加した。遊撃区では、出版所、裁縫所、武器修理所も運営した。

 遊撃区の文化は、朝鮮人民が数千年の先までうたえる数多くの名歌謡を生みだし、『血の海』『ある自衛団員の運命』へとつながる演劇芸術の開花期をもたらした。

 不人情と収奪の代名詞となっていたソビエトという言葉は、古傷をうずかせる一つの小さな破片として残されるだけになった。極左的なソビエト施策の被害をこうむるまいと敵区へ行った人も、一人二人と遊撃区にもどってくるようになった。老人たちは腰にキセルを差して、なんの屈託もなく隣近所を訪ね合った。遊撃区は、再び信頼し親しみ合い、ほがらかに笑いさざめく睦まじい大家庭になった。きびしい冬にうちかった汪清の谷間と尾根には、山河を美しく彩る無数の花のつぼみのほころびとともに、新しい生活が力強く胎動しはじめていた。その生活がいかにうらやましかったのか、柴司令部隊によって人質として小汪清に連れてこられたある地主の息子は、遊撃区から自分を追い払わないでほしいと哀願するほどだった。



 


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