金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 昼は敵の天下、夜はわれわれの天下


 われわれは、馬村でも望外の歓待を受けた。腰営口での戦勝のニュースが間島全域に急速に広がっているときだったので、われわれにたいする小汪清人民の歓迎ぶりも熱気をおびていた。敵の支配から完全に解放された遊撃区の生活は、われわれ一行の胸をふくらませた。

 しかし、新天地を支配するすべてのことが、われわれを感動させたわけではなかった。間島革命を左右する一部の指導者の活動スタイルと思考方式には、納得しがたい側面があった。われわれをいちばん驚かしたのは、東満州地方の革命家の活動に熱病のように蔓延している極左病であった。これは、遊撃根拠地を建設する活動に顕著に現れていた。

 明月溝および小沙河会議で遊撃根拠地の創設問題が諭議されたとき、われわれはすでに、その形態を完全遊撃区、半遊撃区、活動拠点の3つに規定し、形態の設定においては、その均衡を適切に保つことが合意されていた。ところが、東満州地方の一部の熱心な共産主義者は、解放地区形態の完全遊撃区の建設にのみ没頭し、半遊撃区や活動拠点の創設にはそれほど関心を向けていなかった。初期には、汪清でも解放地区形態の遊撃根拠地のみが建設された。小汪清遊撃区域の場合にしても、現在のわが国の一つの郡に相当する領域が、すべて革命勢力の管轄する解放地区形態のソビエト区域になっていた。当時は、完全遊撃区をソビエト区域とも呼んでいた。

 このように広い地域に工農政権を象徴するソビエトの旗を押し立てて、幹部たちは「革命!」「革命!」と忙しく駆けずりまわっていた。遊撃区域の外では、これといった戦闘もせず、プロレタリアート独裁だの、無産者社会の建設だのと宙に浮いたスローガンを叫ぶだけで、その日その日を無為に送っていた。なにかの記念日には、兵舎の庭や運動場などに集まってはロシア式のダンスをしたり、メーデー歌をうたったりした。ときには、東満特委と県の幹部たちが集まり、声を張りあげて論争し合うこともあった。

 こうした雰囲気の中で、われわれもその年の春は五里霧中のうちに過ごした。だが、遊撃区の活動における一連の左翼小児病的な偏向が、しだいに判然としてきたので、それを是正する方途や戦術をいろいろと模索しはじめた。

 遊撃区域には、住民が多かった。草創期には、汪清根拠地だけでも数千名もの避難民と亡命者がいた。琿春、延吉、和竜の実態も同様であった。耕地の少ない山奥に数千名の人がひしめき合う状態だったので食糧が問題だった。それで、誰もが大豆がゆを食べた。ひきうすで大豆を挽き、それに米を少し混ぜてかゆを炊くのだが、それもまだあるときはましな方で、ないときは灰汁で煮つめた松の内皮を叩いて餅をつくって糊口をしのぐか、ワラビ、オケラの芽、キキョウ、ツルニンジン、アマドコロの根などを煮て食べたりした。そういうなかでも革命歌をうたい、拳を振り上げては、帝国主義打倒、親日派打倒、遊んで暮らす寄生虫どもを打倒せよと熱弁をふるうのが、初期の根拠地の日課となっていた。

 もちろん、小さな戦闘は何回もあった。警察署を襲撃したり、供給物資を積んだ馬車輸送隊を襲ったり、遊撃区域に侵入してくる討伐隊を掃討して武器を奪い取ったりもした。勝利して帰れば、人びとは旗をかざして万歳を唱えた。しかし、本格的な戦闘はあまりなく、山頂に登って歩哨に立ったり、避難民を保護することなどで毎日を過ごした。根拠地は広かったが、銃も武装人員も少なかったので、遊撃隊員は、銃を数挺ずつ分け、もっぱら根拠地の防衛にきゅうきゅうとせざるをえなかった。

 われわれが武装隊伍を拡大しようとすると、どこそこの書記だの委員だのといった面々が青い顔をして、革命軍は統一戦線の軍隊ではない、労働者と農民の精鋭分子のみを吸収すべきであって、誰もかもむやみに引き入れては烏合の衆も同然になってしまうといってかたくなに垣を張りめぐらすのであった。当時、抗日遊撃隊はソビエト区域内にある武装力であるという意味で、その名称も工農遊撃隊とされていた。工農遊撃隊というのは、労働者、農民の軍隊という意味である。

 わずか数個中隊にすぎない遊撃隊が数千平方キロに及ぶ広い地域を守るのは、力に余ることであった。防御密度が過疎な状態なので、いったん討伐がはじまると、敵はわれわれの防御陣を突破して深く攻めこんできた。すると、数千名の人民が家財をかつぎだし、避難所を求めて大騒ぎをするのであった。こうして、毎日の避難騒ぎが遊撃区の人たちをいたたまれなくした。

 極左病にかかった人たちは、あたかも解放地区の大きさが革命の成否を左右する決定的な条件でもあるかのように、彼我の力関係にたいする科学的な分析もなしに主観的な欲望にとらわれて広い地域を占め、遊撃区域を守ることにのみ没頭した。そのうえ、彼らは、遊撃区域と敵の統治区域を「赤色区域」「白色区域」という名目で人為的に分離し、「反動大衆」「二面派大衆」というレッテルを張って、敵区の人民と中間地帯の人民をみだりに疑ったり排斥したりした。国内の人民も、やはり「反動大衆」として扱われた。これがいちばん大きな問題だった。

 「赤色区域」では、女性の断髪が「白色区域」との違いのしるしとされた。言葉、文字、歌、学校、教育、出版物などでも赤と白の違いは明白であった。「白色区域」から「赤色区域」にくる人は例外なく検問の対象とされ、取り調べのあとでもなかなか放免されなかった。「白色区域」からくる者は、あたまから敵のスパイとみなせという上部の指示が児童団組織にまで下されていた。汪清県党の一部の者は、小汪清の谷間から都市へ移って行った人に日ごろから悪感情をいだいていた。

 あるときは、東日村で見張り番をしていた赤衛隊員が、牛を買いに遊撃区に来た大肚川の農民を捕らえて尋問したことがあった。「白色区域」から来た怪しい農民を赤衛隊が尋問しているという通報を受けた県党の極左分子は、その農民はスパイかも知れないから、自白しなければ拷問をかけてでも正体をあばきだせと指示した。しかし、いくら痛い目にあわせても、農民は、スパイでないと言い張った。事実、その農民は、スパイでも敵の手先でもなかった。にもかかわらず、極左分子らは、農民の懐から出てきた現金を押収し、うむを言わせずひどい仕打ちをした。

 汪清で長いあいだ共青活動をしてきた崔鳳松は、いつか極左病が生んだ遊撃区時代の秘話が話題にのぼった席で、こんなことを話したことがある。

 「極左という言葉だけ聞いても、初期の遊撃区時代が目の前にまざまざと浮かんできます。間島での極左はまったくひどいものでした。あるとき、遊撃隊員が、汪清嶺で日本軍の塩を積んだ牛車をろ獲し、小汪清へ引いてきたことがありました。根拠地が生まれたばかりのことですから、おそらく金日成同志が南満州進出の途上にあったときだろうと思います。牛車を引いていたのは賃仕事でその日暮らしをしている最下層の朝鮮人でした。ところが、極左分子は今度も『二面派大衆』というレッテルを張りつけて、その人を罪人扱いにしました。日本人の牛車を引いたのだから逆賊だというわけです。遊撃区の外の人たちが遊撃区をよく思うはずはありませんでした。まったく開いた口がふさがらないほどでした」

 敵味方を区別せず、勤労者大衆にまで刑罰を加えるこのような暴挙は、他の県の遊撃区でも頻発していた。それに見過ごすことができないのは、この呪うべき行為がすべて革命という神聖な名のもとに強行され、抗日を叫んで立ちあがった数多くの革命的大衆を、「白色区域」へ追いやるという、胸の痛む結果をまねいていることであった。遊撃区の極左分子は、はなはだしくは討伐の犠牲になった父母の法要のため穏城から上慶里に来た、李治白老の親戚までも「反動大衆」だといって捕らえていった。このような悪行を目撃するたびに、わたしは身も心も焼けつくような羞恥を感じた。かりに、ある共産主義者が、罪なき人民に反動という汚名をきせて意のままに処刑したなら、それはすでに共産主義者ではなく、A級犯罪者である。ところが、われわれが汪清で遊撃区の生活をしていたときにも、こういうA級犯罪者は何者も犯しがたい「A級革命家」気取りで、大衆を意のままに扱っていた。一部の者はソビエトさえ手中におさめれば万事が解決するかのように考えていたが、われわれはそこに問題があると思った。根拠地を守り、革命を発展させるためには、閉鎖的な傾向を克服し、活動範囲を広げなければならないというのが、われわれの得た結論であった。いうなれば、遊撃区の死守のみにこだわる近視眼的な活動方式から脱却し、大がかりな精鋭部隊を編制して自由自在に機動させながら積極的な軍事・政治活動を展開しようというのであった。軍隊が本格的な軍事作戦に移るには、根拠地防衛の負担を軽減する必要があった。その一つの方策が、ほかならぬ完全遊撃区周辺の広い地域に半遊撃区を大々的に設け、それらの半遊撃区をして遊撃区を擁護させることであった。われわれは半遊撃区の創設に、朝鮮革命の新たな勝利を保障する突破口を求めた。

 わたしは中国関内での遊撃区建設の経験を参考にするため、童長栄とも数回にわたって真剣に語り合った。1931年の秋、中国江西省の瑞金では、中華ソビエト臨時政府の樹立を宣言しソビエト区域を創設した。童長栄の話によれば、中国革命の首脳部が集結しているソビエト中央区は、面積が非常に広く、住民は数百万を数え、兵力も数個軍団に匹敵するほど強大であるとのことであった。童長栄自身も河南省でソビエト区域を創設した経験をもっていた。当時、中国共産党指導下の紅軍は10余万に達し、その管轄地域は江西省の南部から広東省の北部に及ぶ広大なものであった。

 わたしは彼の話を聞きながら、領土と人口のうえからすれば、およそ一つの独立国家に相当する中国のソビエト区域建設の経験を豆満江沿岸にそのまま引き移すのは不可能であるということ、そして間島を活動基地としている朝鮮の共産主義者にとって、革命の策源地を守り、遊撃戦を大がかりに展開できる唯一の捷径は、完全遊撃区周辺と北部朝鮮一帯に半遊撃区を創設することであるという見解をさらにかためるようになった。

 半遊撃区創設の必要性は、武装闘争の実践の過程でいっそう切実なものになった。広大な領域を守るには力が及ばず、したがって、その打開策を早急に立てざるをえなかった。もしわれわれが遊撃戦を体験することなく、古典でも繰りながら、ロシアのボルシェビキの経験がどうの、中国の瑞金の経験がどうのと机上の空論に明け暮れていたなら、解放地区形態の遊撃根拠地のほかに別の遊撃根拠地の必要性を痛感させられる程度にとどまり、その創設をそれほど急ぎはしなかったかも知れない。

 半遊撃区の問題は、根拠地にたいするたんなる形態上の考察ではなかった。それは、事大主義、教条主義を克服し、革命において主体的な筋金を通すか否かという思想的立場の問題であり、極左から脱却して「二面派大衆」であると排斥されていた広範な人民を革命の原動力とみなすか否かという大衆観点の問題であり、ひいては、彼らを反日民族統一戦線に結集できるか否かという、革命勢力の編成に直結する深刻な問題であった。半遊撃区とは、われわれも支配し敵も支配する地域で、形式上は敵の統治区域であるが、内容的にはわれわれの統轄区域であって、抗日遊撃隊への支援とその予備隊の源泉確保、革命勢力の伸張、敵区と遊撃区間の中間連絡所などの役割を果たす区域を意味した。いわば、昼は敵が支配するが夜はわれわれが統轄する、そういう地域のことである。

 革命根拠地建設での半遊撃区形態は、われわれの闘争の実情に適合するものであった。こういう形態は、他の国の遊撃戦争の経験にはこれといって見られないものであった。当時、朝鮮革命発展の過程は、半遊撃区の創設を切実な課題としていた。

 われわれは武装闘争を国内へ拡大発展させ、抗日武装闘争を中心とする全般的朝鮮革命の急速な高揚をはかる措置の一つとして、1933年3月中旬、咸鏡北道穏城郡の王在山一帯に進出した。武装闘争を国内へ拡大し、祖国の解放をなし遂げるのは、われわれが抗日大戦を宣言した当初から終始一貫堅持してきた戦略的目標であり、いっときもゆるがせにしたことのない不動の信念であった。武装闘争を国内に拡大するための先決条件は、六邑一帯をはじめ北部朝鮮一帯に半遊撃区をつくることであった。半遊撃区をりっぱに築けば、遊撃区の建設に現れていた種々の極左的偏向も十分清算することができた。

 われわれは三次島に活動基地を置いている汪清大隊第2中隊の40名と各中隊から選抜した10名の指揮官、政治幹都で国内進出隊伍を編制し、朴泰化(パクテファ)小隊長とその他数名の隊員で構成された先発隊を穏城地区へ派遣した。

 当時、東満州党組織の責任ある地位にあった一部の人は、われわれの国内進出に神経をとがらせ、それを阻もうと各面から圧力を加えてきた。彼らは、中国領内にいる朝鮮の共産主義者が朝鮮革命のためにたたかうのは民族主義的な「朝鮮延長主義」の傾向であり、1国1党制の原則に反する行為であるから国内進出などはいっさい断念すべきだというのであった。しかしわたしは、民族的任務に忠実であることは、とりもなおさず国際的任務にも忠実であることになり、朝鮮の革命家が朝鮮の解放のためにたたかうのはなんぴとも阻むことのできない神聖不可侵の権利であるという自分なりの信念で彼らの主張を論駁し、動揺せず国内進出の準備を進めた。

 このような時期に、抗日遊撃隊の国内進出に暗い影を投げる事件が発生してわれわれを憤激させた。国内との連係を結ぶ任務をおびて穏城地方へ行った第2中隊の隊員が帰ってくるとすぐに金成道(キムソンド)なる人物に逮捕され、東満特委に引き立てられていったというのである。

 当時、第2中隊の中隊長は安基浩(アンギホ)で、政治指導員は崔春国であった。彼らは事件が発生するやいなや、馬村にいたわたしのところに駆けつけ、中隊の指揮官も知らぬまに隊員を勝手に捕らえていった金成道の越権行為をはげしく非難した。新妻のようにおとなしく気立てがやさしくて、他人の悪口などめったに言ったことのない崔春国が、「めっかちの王」というあだなまで口にして金成道をなじったが、わたしは口をつぐんだまま黙って聞いていた。金成道についての予備知識があまりなかったからである。わたしが知っていることといえば、彼が共青東満特委の宣伝部長を勤め、東満党特委に召還されてきたばかりの人で、現在、各県を巡視している最中だということだけであった。東満州の党組織では、上部組織の幹部が下部組織を指導して歩くのを巡視といっていた。

 わたしは、崔春国が金成道を品のないあだなで呼ぶのが気に障ってきびしくたしなめた。

 「君は、いつから人の名前をあだなで呼ぶ悪いくせがついたんだね。金成道という人がわれわれを無視する脱線行為をしたのは確かだが、だからといって君には彼の人格を尊重する度量もないというのか」

 崔春国は、批判を素直に受け入れる人柄だった。彼は、深刻な表情になってすまなそうに言った。

 「申しわけありません。わたしの言葉が過ぎたのでしたら許してください」

 「遊撃区も人間が集まって暮らしているところなのだから、あだながないはずはないだろう。しかし、そのあだなはちょっとひどすぎる。めっかちというのは…」

 わたしはそのとき、第2中隊の隊員が金成道に逮捕されたということよりも、汪清の人たちが彼を「めっかちの王」と呼んでいることの方が腹にすえかねた。金氏姓の彼をなぜ王氏呼ばわりするのかと崔春国に尋ねてみると、朝鮮人である金成道が中国人風を吹かし、幹部にあまりにもへりくだった態度をとるのが小憎らしくて、間島の人たちが王という姓をつけたらしいというのであった。

 東満特委へ行く途中、県党に立ち寄ってみると、そこでも金成道を「めっかちの王」と呼んでいた。県党の事務室で李容国が話してくれたところによれば、金成道はすでに1927年に朝鮮共産党に入党し、火曜派満州総局のある細胞で委員を勤め、日本領事官警察に逮捕されて拷問にあい、監獄の飯も食わされたことのある古参の党員だとのことであった。出獄後はいち早く中国共産党に転籍して特委クラスの幹部に昇進したのだが、片目の傷を気にしてか、いつも色メガネをかけ、大布衫を着て出歩いているとのことだった。李容国は、金成道を評して「飛び立つカラスの足に足袋をはかせられるほどの手腕家であり弁舌家」だといった。

 わたしは、東満特委の事務室で3時間ほど彼と対話をした。いざ対座してみると、彼の越権行為を問いつめるつもりだったわたしの決心はゆらぎ、むしろ、彼が不憫に思われてきた。落ちくぼんだ目と疲れきったような暗い顔の表情に、そこはかとない同情心を呼び起こされたためかも知れなかった。片目の失明という不遇な身をおして、間島の険しい山並みを渡り歩き、革命のために奔走するというのはなんと雄々しく涙ぐましいことではないか。

 「巡視員同志、あなたは、なんの断りもなしに、工作中の遊撃隊員をなぜ拘引したんですか」

 わたしはつとめて声をやわらげ、礼儀正しく尋ねた。金成道はメガネごしにわたしをしげしげと見つめた。特委の巡視員も見分けられず、あえて何の問責か、といわんばかりの気配だった。

 「そんな質問をされるのは、まったく心外だ。あの隊員の越境が、プロレタリア国際主義に反する民族主義の表現だということくらいはわかっているはずだが… われわれは、彼を民生団とみなしている」

 「どんな根拠で?」

 「朝鮮に行ってきたのだから民族主義であり、民族主義的誤謬を犯したのだから、それは民生団に決まっているではないか」

 「それはあなたの考えなんですか?」

 「そうだ。上部でもそうみている」

 彼がこう答えたとき、わたしはけしからんと思うより哀れに思えて、しばし言葉を継ぐことができなかった。なんの科学的妥当性や真理性もない暴言に憤り、鉄拳のような論理をもって、その不当さを論証してしかるべき場面で、憤怒と軽蔑のかわりに一種の同情心が湧いてきたというのは、自分ながらまったく不思議なことであった。彼の途方もない偏見と幼稚な思考方式が東満特委の巡視員といういかめしい職責とダブって、金成道という人間をますます哀れむべき存在にしてしまったからなのかも知れない。

 (身体上の障害のうえに精神的障害まで重なるとは、なんと不幸な人間であろうか。密偵の目印しになりやすい片目を色メガネで隠し、革命のために奮闘するその気概はもちろん称賛に値するだろう。その気概に健全な魂さえ宿っていれば申し分ないのだが、なぜ彼の精神はあれほど痛々しく侵されてしまったのだろうか)

 わたしはこういう思いにとらわれながら、さらに声を押さえて静かに彼を諭した。

 「あなたは民族主義と民生団を同一視しているようだが、両者をどうして同じ秤にかけることができるというのか。朴錫胤(パクソクユン)や゙秉相(チョビョンサン)、全盛鎬(チョンソンホ)のような幾人かの民族主義者が発起人となって民生団を組織したからといって、民族主義と民生団を同一視するのは、こじつけもはなはだしい三段論法ではなかろうか。わたしの知るところでは、あなたも最初は民族主義者の主管する団体に加わり、共産主義運動へ方向転換したようだが、それを根拠にしてあなたに民生団のレッテルを張るなら、納得できるだろうか。どうだろう」

 金成道は、「そんなこと…」といって言葉じりを濁した。わたしは彼に反省できるゆとりを少し与えてから、条理をつくして説得をつづけた。

 「あなたのいう上部というのは童長栄書記を念頭においているようだが、わたしは、彼がそんな狭い了見の持ち主だとは思っていない。もし童長栄書記が実情をよく知らず、一時的な偏見や誤解のためにそんな判断を下したとするなら、朝鮮の物情をよく知っているあなたたちがなんとかして、彼に正しい認識をもたせるために助言を与えるべきではないだろうか」

 金成道は、依然として口を閉ざしたままだった。

 逮捕された第2中隊の隊員を引き取って指揮部に帰ってくる道でも、わたしは彼が哀れでならなかった。正直にいって、わたしは彼が他人の笛に踊らされて「反動派粛清工作」の陣頭指揮をとるようになるまでは、理論闘争でたびたび衝突しながらも、心の中ではいつも彼を不憫に思っていた。だが、彼が民生団粛清の名目のもとに多くの堅実な革命家を殺害するのを見るに及んでは、彼に同情しなくなった。後日、彼自身も結局は民生団の烙印を押されて処刑されたのである。テロはテロによって滅び、極左は極左の審判台でついえ去るものであり、信念と気骨のない二股膏薬の人間の運命は自滅のほかにない。これが、数十年にわたる動乱の時代に生きてきたわたしのいま一つの人生体験だといえよう。

 3月初旬に馬村を出発して穏城郡塔幕谷の対岸に到着した国内進出隊伍は、松谷と呼ばれているところに宿営地を定め、穏城に潜入した先発隊がもどってくるのを待つ1週間ほどのあいだ、この一帯を革命化して半遊撃区につくりあげる活動に着手した。昼間は松洞山の西側のふもとで戦闘訓練をおこない、夜間は村をめぐり歩いて住民のあいだで地下組織をつくる活動をした。われわれはそのとき、満州国の末端行政責任者である十家長、百家長にたいする工作も進めた。われわれが、人民の利益を侵さず、革命軍の服務規定どおり住民との関係に細心の注意を払ったので、彼らもわれわれには好感をいだいていた。そのとき遊撃隊員は、松谷の農民の仕事をいろいろと手伝ってやった。山のハギを刈り取ってきて主人の家の垣根を繕ってやる隊員もいた。

 朴永純の回想記に出てくる例の斧の話も、われわれがこの村に留まっていたときの出来事である。ある日、わたしは、主人の中国人老夫婦の仕事を手伝おうと、斧と水汲みの缶を下げて豆満江の岸辺に出た。この地方の住民は、冬になると豆満江の水を汲んで使っていた。斧やつるはしで氷を割り、その穴から水を汲んできてはそれを飲み水にしていた。わたしもそのつもりで斧を持って行ったが、氷の穴が九分どおりできあがった矢先に、柄から斧が抜けて氷の穴に落ちこんでしまった。長い竿で何時間も川床をさらってみたが、斧はとうとう見つけだせなかった。わたしは主人に斧代として十分な償いをし、重ねてわびた。主人は、隊長さんに毎朝水汲みをしていただくだけでも恐縮だというのに、この老いぼれに力がなくて革命軍を援助できないまでも、斧代までもらうわけにはいかない、といってかたくなに辞退した。けれどもわたしは、償いをせずにこの村を立ち去ってしまうなら、隊長として革命軍の規律を犯すことになるから、わたしのためを思っても代金を受け取ってもらいたいと懇願した。

 老人には十分な償いをしたものの、わたしの頭には氷の穴に落としてしまった斧のことがこびりついて離れなかった。たとえ、代金を十分に払ったとはいえ、使いなれた道具を惜しむ主人の気持ちをなぐさめることはできないだろう。それで1959年の春、抗日武装闘争戦跡地踏査団が中国東北地方へ行くときに、涼水泉子のその老人に会ったら、わたしに代わって謝ってほしいと頼んだ。しかし、踏査団が涼水泉子を訪ねたときには、残念なことに、その老人はすでに亡くなったあとだった。

 われわれ一行が豆満江を渡り、先発隊の案内で王在山に登頂したのは午後の4、5時ごろであった。そのとき、六邑地区から集まってきて峰すじやカラマツの林の中で待機していた革命組織の責任者や政治工作員が、われわれを迎えてくれた。わたしは、若木のクヌギが密生しているその山頂で、しばらくのあいだ周辺の風景を眺め渡した。10年たてば山河も変わるというが、この村里の一角は3年足らずのあいだにかなり変貌していた。頭婁峰で国内党組織を結成するときには見られなかった炭鉱のボタ山も新しく生まれた風景であり、雄基(先鋒)―穏城線の軌道を走る列車もやはり、1930年の秋と1931年の春には見られなかった穏城の新しい姿であった。

 山河の変容とともに、人びとも成長し、革命も前進した。われわれがここを訪ねて以来、六邑一帯とその周辺では新しい反日革命組織があいついで生まれ、活動を開始していた。六邑地区の闘士は、治安維持を担当した日本軍部と警察首脳らが国境警備に遺漏なしと豪語していた朝鮮の北辺で、革命組織という巨大な鋼鉄の網で敵の統治地区を包囲していた。

 われわれの武装闘争も成長した。遊撃隊の隊伍は、東満州地方だけでも大隊級になっていた。各県にある大隊は、遠からず連隊にもなり、師団にもなるであろう。遊撃戦争のための朝鮮共産主義者の武力は、南満州にもあり北満州にもある。われわれの師団と軍団が祖国に進出し、敵に鉄槌を下す日は遠くない。すでに、われわれはその先遣隊として、こうして穏城に来ているではないか。

 わたしはこんな考えにふけりながら、彰徳学校のころ外祖父に教わった南怡将軍(ナムイ=15世紀、李朝時代の名将)の漢詩をそっと口ずさんでみた。

   白頭山石磨刀尽
   豆満江水飲馬無
   男児二十未平国
   後世誰称大丈夫

 この詩の意味はつぎのようなものである。

   白頭山の石は刀でとぎつくし
   豆満江の水は軍馬に飲みほさせん
   男児二十にして国を平定できずんば
   後世いずくんぞますらおを知らんや

 外祖父はそのときわたしに、南怡将軍は北関の敵を討つ戦いで勇名をはせ、20代ですでに兵゙判書(李朝時代の軍務大臣)になった、成柱も大きくなったら日本軍を討ち破る大将か先鋒長になれといった。わたしはその言葉を聞き、南怡将軍が奸臣の謀計で無念の死を遂げたことが口惜しくてならなかった。そして、大きくなったら南怡将軍のように日本軍を討つ先鋒に立って、祖国と人民の安寧のためにたたかおうと心に誓ったものである。

 (南怡将軍が六鎮をよりどころにして北敵を防いだとするなら、われわれは六邑の半遊撃区をよりどころにして武装闘争を国内深く拡大し、日本帝国主義を滅亡させる落とし穴をつくろう!)

 わたしは、王在山の頂でもこういう誓いを立てた。

 王在山に集まった政治工作員と革命組織の責任者は、国内の実状とその間の活動状況をわたしに報告した。わたしは、六邑をはじめ、北部国境地帯での抗日革命の大衆的基盤を築く活動で成果をおさめている彼らを励まし、武装闘争を国内に拡大発展させるための諸課題を提示した。ここでわたしが力点をおいて強調したのは、半遊撃区の創設問題であった。われわれは当時、穏城一帯を中心に、国内各地域に半遊撃区をつくり、それと合わせてうっそうとした密林地帯に秘密連絡所をはじめ、各種の活動拠点を設け、武装闘争を国内へ拡大発展させる基礎を築こうとしていた。

 王在山会議では、労農同盟にもとづく反日民族統一戦線の旗のもとに全民族を一つの政治勢力としてかたく結集する課題と、大衆運動と党創立の準備活動を力強くおし進めるための国内革命組織の課題についても討議された。

 遊撃隊の穏城進出は、抗日武装闘争を国内に拡大発展させる序曲となり、民族解放闘争の発展におけるいま一つの里程標となった。この進出によって、われわれは、朝鮮の共産主義者が朝鮮革命のためにたたかうのはなんぴとといえども阻むことのできない神聖な任務であり、絶対的な権利であるという不動の信念と立場を内外に明らかにした。

 抗日遊撃隊の穏城進出と王在山会議の全過程は、完全遊撃区の周辺と国内に半遊撃区を創設するというわれわれの主張が正しかったことと、間島および六邑一帯に半遊撃区を建設できる主・客観的条件が十分にととのっていることを実証した。

 王在山会議を終えた後、われわれは慶源(セッピョル)の柳多(リュダ)島と剥石谷(パクソクコル)、鐘城郡新興村の錦山峰をはじめ、国内各地に進出して会議や講習をおこない、政治工作も進めた。この進出の主要目的は、国内革命組織の責任者と政治工作員に地下革命闘争で堅持すべき原則と方法を教えることにあった。われわれが国内に進出して革命家にたびたび会ったのは、彼らを主体的な革命路線と活動方法で武装させ、複雑な実践闘争を正しく導いていけるようにしっかり準備させるためであった。国内革命組織の指導者と中核を、政治的、実務的に十分に準備させるのは、半遊撃区を成功裏に建設するための先決条件であった。

 当時、われわれが派遣した指導中核は、国内へ深く潜入して反日抗争に総力を傾けていた労組、農民組合などに根を下ろし、各地に革命的な大衆団体を組織した。工作員は、ソウルをはじめ、南部朝鮮一帯にも活動の輪を広げていった。六邑地区の半遊撃区を強固に築き、国内革命運動を高揚させるうえで、豆満江沿岸につくられた党組織は決定的な役割を果たした。

 その後、東満州の指導的幹部は、半遊撃区建設にかんするわれわれの提案を方針として採択し、それを実行する課題を明示した。半遊撃区を建設すべきだというわれわれの公明正大な提案にたいし、右翼的だと論難する向きもあったが、そういう批判は即座にしんらつな反論をあびた。東満州のソビエト区域では、1933年の春から半遊撃区を創設する活動が活発に展開された。羅子溝、大荒崴 、転角楼、涼水泉子などの汪清地区と延吉、琿春、安図、和竜地区の広い地域に半遊撃区がつくられた。この時期につくられた半遊撃区は、抗日武装闘争の発展に大きく貢献した。完全遊撃区のうち、防御に不利な一部の地域も半遊撃区に切り換えられた。満州国が信任していた屯長のなかにも、われわれに支持と共鳴を示す人が少なくなかった。羅子溝のようなところは、市内から一歩外に出てもわれわれの天下であり、われわれの味方であった。半遊撃区建設の経験とその路線の正しさは、その後、朝鮮人民革命軍の白頭山地区での活動を通じて如実に証明された。

 半遊撃区というのは、まったくすばらしいものであった。それで、1930年代の後半期に鴨緑江沿岸に進出して白頭山一帯の開拓にあたったときにも、われわれは革命軍の駐屯地域にだけ密営を設け、あとはすべて半遊撃区にした。赤と白の区分をせず、大衆の中に革命組織を浸透させ、そこに活動家を送りこんだ。われわれは一定の地域を占めようとせず、敵がこの地区に注目すればあの地区に移動し、あの地区に注目すればまた他の地区に移った。そういうなかで、鄭東哲、李勲、李柱翼(李聚・リチュイ)といった、愛国区長、愛国百家長、愛国十家長、愛国面長、愛国巡査、愛国自衛団員が輩出した。われわれはそのころ、敵の下部末端統治機関に、しっかりした人を工作員として多数送りこんでいた。われわれが派遣した工作員ではない少なからぬ下部末端の官吏までも、革命の支持者に変えた。彼らは、昼間は満州国の指図どおり熱心に勤めているように装ったが、日が沈むと革命軍の道案内をしたり、昼間に収集した情報資料を提供するため革命軍の工作員を訪ねたり、また革命軍に届ける援護物資を集めたりした。東満州と国内に創設された半遊撃区は、解放地区の軍隊と人民を擁護し、そこに樹立された人民の政権と民主的施策の結実を保護する、信頼すべき衛星群となった。

 完全遊撃区周辺の広い地域が半遊撃区に変わって以来、抗日遊撃隊は敵中に深く浸透して大衆を革命化し、党、共青などの前衛組織と各種の大衆組織を拡大することにより、抗日武装闘争の大衆的基盤をいっそう強固にし、消極的な防御戦から積極的な攻撃戦へと移行できるようになった。抗日戦争を主動的な攻撃戦へ切り換えることにより、われわれは敵の悪らつな経済封鎖作戦を打破し、遊撃区の生活でもっとも大きな難題となっていた食糧問題もより容易に解決することができた。

 半遊撃区の建設は、赤色と白色区域の設定によって多くの大衆を敵側に押しやった極左的偏向を克服し、反日民族統一戦線の旗のもとに広範な人民大衆を一つの政治勢力に結集できる条件をつくりだし、事大主義、教条主義の克服と朝鮮革命の主体的発展に大きく寄与した。

 汪清地方の半遊撃区のうちでもっとも模範的なのは、羅子溝と涼水泉子であった。羅子溝での半遊撃区の建設では、李光の功労が大きかった。羅子溝へ派遣された李光は、反日部隊工作や独立軍出身者への働きかけをおこなって、われわれの足がかりとなる強固な基盤を築いた。羅子溝は1920年代初期から、李東輝一派が独立運動の主要基地として開拓したところであった。当時、李東輝に従って独立軍運動に関係してきた老年層が羅子溝一帯をぎゅうじっていたので、李光は彼らを通じてこの地方の人民を革命化することができたのである。そのころ半遊撃区を創設するために、有能な政治工作員が少なからず羅子溝に送りこまれた。しかし、その多くは、われわれの隊伍に生きて帰ることはできなかった。羅子溝の革命化に大きく貢献した崔正和もそこで犠牲となった。朝鮮人民革命軍の有能な支隊長であった朴吉松と崔光は当時、羅子溝で地下工作にあたっていた。

 敵はこの地域で協和会や協助会といった悪質反動団体を組織して革命勢力を抹殺しようと狂奔していたが、われわれはそれに対抗して反日会のような大きな器の大衆組織を結成し、すべての愛国勢力を一つに結集した。羅子溝は、汪清の革命大衆のための食糧倉庫のような役割を果たしていた。小汪清遊撃区では食糧事情が苦しくなると、羅子溝の革命組織に人をさしむけて緊急救助を要請した。すると革命組織のメンバーが、羅子溝から十里坪の石門の中まで穀物をかついできては汪清の人たちに引き渡してくれた。羅子溝が敵の占領下に入った状況のもとでも、解放地区ではひきつづきそこから食糧の供給を受けた。遊撃区が解散し、朝鮮人民革命軍の主力が北満州遠征の途についた1935年の下半期以後、汪清県内の革命家は事実上、羅子溝の食糧で食いつないでいたといっても過言ではない。敵の討伐を避けて、しばらくのあいだ羅子溝の西山にひそんでいた一部の革命大衆と汪清第3中隊の軍人も、この地方の人民が届けてくれる食糧で1935年の秋と冬を過ごしたのであった。

 このように、羅子溝が汪清の革命家の食糧供給所のような役割をりっぱに果たすことができたのは、そこがもともと通りすがりの浮浪者にもキビの飯を食べさせたほど肥沃な穀倉地帯であったという理由もあろうが、それよりも、この地方に多くの革命組織がしっかりと根を下ろし、日ごろから大衆を正しく教育してきたからだといえよう。

 羅子溝の百家長金竜雲は、満州国の信任を受けている末端行政機関の使い走り役であったが、内実はわれわれの組織メンバーであった。彼は、百家長という合法的地位を利用して、革命家に少なからぬ援助を与えた。敵は遊撃隊工作員の城市侵入を防ぎ、人民の革命軍との内通を防ぐため、食糧と生活必需品の搬出をきびしく統制する一方、青年を城市警備に常時動員し、出入者をきびしく取り締まらせた。警備に立つ青年には、棍棒が一本ずつ手渡された。それは、満州国が発給した一種の信任状にひとしいものであった。革命軍が羅子溝へ食糧工作に行く日は、金竜雲がわれわれの影響下にある青年だけを厳選して警備に立たせた。食糧工作隊員が城市の周辺に現れると、警備の青年たちは彼らに棍棒を渡して村へ駆けもどり、百家長の指揮のもとに穀物を集めてはそれを食糧工作隊員たちに引き渡すのであった。

 羅子溝では革命組織のメンバーが満州国軍を感化して、数万発の弾丸まで手に入れた。当時、羅子溝市内には、革命組織が運営している商店があった。商店の主人は古い共青活動家で、城市から革命軍に送る援護物資が自由に入手できるように、満州国軍の兵士と義兄弟の契りまで結んだ。カネに目がくらんだある満州国の軍人などは、他の地方から安値で買ってきた品物をこの商店に持ちこみ、それを数倍も高くして売ってくれるように頼むのであった。軍人の商行為が発覚すれば処罰されるので、やむを得ず商店を利用するほかはなかったのである。その軍人は商店の主人と義兄弟を結んでからは、弾丸まで持ちこむようになった。商店の主人は弾丸1発当たり25銭で買って革命軍に引き渡したのだが、その量は5000余発に達した。これは、半遊撃区建設の正当性と生命力を実証する断片的な話にすぎない。

 革命軍への援護活動では、汪清南部地域に創設された涼水泉子の半遊撃区も大きな役割を果たした。涼水泉子の革命組織は、数10回にわたって解放地区に食糧や生活必需品を送ってよこした。われわれはそのころ、穀物、被服、マッチ、医薬品、火薬、塩など、遊撃区人民の生活に切実に必要な物資の多くを穏城と涼水泉子の革命組織を通じて入手していた。

 遊撃区でいちばん切実なものは塩であった。かゆを5さじくらいすすっては仁丹ほどの塩を一粒かんで味付けの代わりにするといった有様であった。そのころ敵は、遊撃区内で生きとし生けるものはすべて窒息させようと、食糧と塩を過酷に統制していた。秋になると、農民がその年に収穫した穀物を集団部落の倉庫にそっくり保管させ、家族数によって1日分ずつ出庫した。農民に食糧の余裕ができると、それが抗日遊撃隊や遊撃根拠地の人民の手に渡ることを知っていたからである。敵は、塩の流出を防ぐため、緝私隊という塩取り締りの警察隊まで編制し、随時、家宅捜索をして歩いた。味噌、しょう油が少しでも余分にあると税金を課し、「尻叩き」と呼ばれる三角の棍棒でめった打ちにした。

 われわれは1935年の秋、根拠地の食塩難を打開するため、第2中隊の30名を含めた多数の軍民と児童で工作隊を編成し、それに馬までつけて涼水泉子へ派遣した。汪清から涼水泉子までは、往復80キロの道のりであった。事前にわれわれの知らせを受けていた涼水泉子の革命組織では、穏城の地下革命組織と南陽運送部から引き渡された大量の塩を豆満江の岸辺に積んで工作隊を待っていた。工作隊は、馬の背に塩を2、3かますずつ乗せて三次島に無事に帰ってきた。残りの塩は一人当たり2、30キロずつ背負って遊撃根拠地まで運んできた。一部の塩は、羅子溝へ持って行って小麦粉と取り替えてきた。

 涼水泉子の革命組織がわれわれに送ってよこした供給物資は、その大部分が穏城をはじめ六邑地区からのものであった。その地区の人民が送ってくれた遊撃隊と遊撃根拠地人民の生活に必要な品物の多くは、図們と竜井一帯で買い求めたものであった。敵の監視と統制がきびしい国内では、日用品などを大量に買い入れることができなかった。それで国内組織は、図們や竜井などの商業地区へひそかに渡っていき、必要な品物を買いだめしては、所定のルートを通じて抗日根拠地によこしていたのである。図們と竜井は事実上、われわれの後方役を担当する信頼すべき根拠地にひとしかった。したがって、われわれは、図們、竜井、百草溝など、革命組織が網の目のように張りめぐらされている地域はみだりに襲撃しなかった。最初のころ、遊撃隊が一度、百草溝を襲撃したことがあった。その襲撃戦があった直後、李光の父からの通報によると、統一戦線に引き入れるべき民族的良心をもった資産家をひどくおどかしてしまったので、災いが大きいとのことであった。それ以来、われわれは百草溝のようなところは襲撃しなかった。汪清とその他の解放地区の軍民の生活を支えるうえで、六邑一帯の半遊撃区はじつに史書に特記すべき功績を残した。

 われわれは、完全遊撃区と半遊撃区のほかにも、敵の統治区域に、遊撃隊の軍事・政治活動と連絡をとる目に見えない多くの拠点を設けた。地下革命組織と連絡所からなるこれらの活動拠点は、機動的で臨時の性格をおびた遊撃根拠地の一形態として、竜井、琿春、図們、老頭溝、百草溝をはじめ、敵統治地域の大都市と鉄道沿線地帯に数多く設けられた。

 間島と国内に半遊撃区を創設した忘れられぬ日々を回想するたびに、わたしの追憶にもっとも鮮明に浮かびあがってくる人物は呉仲和である。西大門刑務所から出獄するが早く、北方行きの列車に身を託した彼は、図們へ渡り、灰幕洞付近の妻の実家で何日か静養するとすぐまた石峴にもどり、わたしを訪ねてきた。呉仲和が獄中生活を終えて汪清へもどってきたことは、南満州と北満州への遠征を終えて遊撃区にもどって間もなかったわたしにとって、大きな喜びであり慰めでもあった。彼はわたしに会うやいなや、何か大きな任務をまかせてほしいというのだった。憔悴した彼の顔を見ると、数か月間は静養させてやりたかったが、どうしても仕事をさせてほしいとせがむので、嘎呀河周辺の一部の地域を半遊撃区に変えてみるようにといった。

 呉仲和の属していた第5区は、涼水泉子、図們、延吉、百草溝、大肚川など、敵の主要討伐拠点と隣り合わせになっており、嘎呀河には日本領事館の警察分署まであった。1933年の1月初には、柳財溝が敵に襲撃され、その後は泗水坪が2度も討伐を受けていた。呉仲和自身にしても出所はしたものの、敵の尾行が影のようにつきまとっていた。だが、彼は、任務を受けて喜びをかくしきれない様子だった。

 わたしが呉仲和に嘎呀河周辺の一部の地域を半遊撃区に変える任務を与えたのは、その地域が敵の軍事要衝から至近距離にあり、また敵の攻撃目標と目されているためであった。危険をともなう難しい課題であったが、わたしは呉仲和を信じた。1930年秋の最初の出会いのときすでに、彼はわたしにゆるぎない信頼感をいだかせた。そのとき、わたしは、呉仲和の家で彼と真剣に語り合った。対話を終えて外に出てみると、垣の外に屈強な青年たちがものものしい警備陣を張っていた。村の外れにも、そういう青年が何人も立ち並んでいた。わたしはその光景を見て、呉仲和の活動能力と革命家らしい風貌に深い感銘を受けたものである。彼の活動能力と革命家としての手腕は、大衆を引きつけるところに如実に現れた。彼は自分が住んでいる村を革命化するために、まずバリカンを一つ買い求め、「鋏契(カウィケイ)」(頼母子講のような互助組織)をつくって、そこに村人を加入させた。当時、理髪店の料金は15銭だったが、呉仲和は5銭にした。その収入で本を買い入れ、契員たちを覚醒させた。村人は安い代金で理髪ができるうえに本が読めるのが楽しみで、熱心に契に集まってきた。彼は、そういう機会を利用して契員たちを教育した。

 「鋏契」を通じて村人を初歩的に啓蒙したあとは、以前の同窓会、学友会、親睦会といった啓蒙団体を統合して嶺東親睦会を組織した。この親睦会は敦化と哈爾巴嶺の東側の地区である延吉、琿春、和竜、汪清一帯の合法的な青年学生組織であった。呉仲和は、村を革命化するために演劇公演もたびたびおこなった。彼が脚本を書くと、1個分隊を超す従兄弟たちが寄り集まって配役を分担し、舞台装置をつくり、自分たちで演出までして見事な作品を舞台にのせるのであった。

 こういう方法で大衆に好感を与えてからは、自分の一家の人たちをまず革命組織に加入させ、しまいには村人をすべて組織のメンバーとして吸収した。そして、冬の明月溝会議を前後した時期には、姜相俊、趙昌徳、兪世竜らとともに、抗日遊撃隊結成の準備作業の重要な一環をなす武器獲得工作に参加した。彼らが命がけで奪取した武器は、崔仁俊、韓興権、姜相俊、金銀植などの闘士が加わっている別働隊員を武装させる大きな財産となった。呉仲和は、われわれの意図どおり敵の第一攻撃目標とされている第5区の一部の地域をりっぱな半遊撃区につくりあげた。彼は、敵統治区域に活動拠点を設ける任務も誠実に果たした。図們の天日印刷所は彼がつくった重要な活動拠点で、革命軍の目と耳の役目を果たした。

 敵は呉仲和とその一家を目のうえのこぶのようにみて、彼らを皆殺しにする機会を虎視眈々と狙っていた。1933年の春、遊撃隊の一グループが、竜井領事館から石峴警察署へ発した秘密文書を押収したことがあったが、それは呉氏一族を全滅させよという殺人指令であった。われわれはその情報を受けると同時に、遊撃隊を出動させて救援工作をおこなった。遊撃隊員たちは、31名もの呉氏の大家族をまたたくまに十里坪へ疎開させた。

 あくなき情熱と闘志に燃え、短距離陸上選手のように人生コースをまっしぐらに突っ走ってきた呉仲和は、1933年の夏、不幸にも北鳳梧洞のアジトで敵に逮捕された。敵は、その場で彼を無惨に殺害した。呉仲和がどのような最期を遂げ、どんな姿で死を受けとめたのか、それを目撃した者はいない。彼とその同僚たちを惨殺した殺人魔のみが、それを永遠の秘密のうちに葬り、虐殺現場から姿をくらましてしまったのである。

 父親の呉泰煕老がこぶしを握って十里坪から北鳳梧洞へ駆けつけたとき、呉仲和はすでに血まみれの姿でアジトの近くに目を開いたまま横たわっていた。生命の火花がいまだ消えやらぬその瞳には、生前彼があれほど愛情をいだいてよく眺めていた遊撃区の青空が映っていた。だが、口だけは生きているときよりもかたく閉ざされていた。呉泰煕老は、その口もとを見ただけでも、息子が組織の秘密を生命と替えようとはしなかったことを読みとった。それがけなげで、老人はいっそうはげしく泣いた。

 …この世に生まれて34年しか生きられなかったが、この子は一生を恥じることなく生きた。長生きするからといって楽がくるわけではない。しかし息子よ、おまえはあまりにも早く父のもとを去った。おまえをあれほど大事にしてくれた金日成将軍が知ったら、どんなに悲しむだろうか!

 そのとき、老人は、息子の死体をかきいだいてこんなことを思ったという。

 わたしは呉仲和が殺害されたという知らせを受けても、それを信じようとしなかった。平素あれほど多くを語り、多くの道を歩き、多くの痕跡を残して炎のように生きてきた彼が、こんなに音もなく去ってしまうというのか、という暗然たる気持ちだった。呉仲和のそばには、野辺の送りに立ち合った人が一人もいなかった。彼は、一言の遺言も残さずに大地の上に倒れた。彼がわれわれに遺言として残せる言葉があったとすれば、それは、どんなことであったろうか。半遊撃区の建設も終わったのだから、また新しい任務をまかせてほしいということを言ったかも知れない。呉仲和が生きていたら、わたしは彼にいっそう重要な大任を課していたであろう。革命家の倫理からすれば、多くの任務を与えるのが最大の愛情であり、最高の信頼の表示であるからである。

 朝鮮革命は間島の一角で、万人の寵愛を受けていたいま一人の有能な組織者、宣伝者、人民には誇りを与え、敵には恐怖を与える、誠実で剛直な有為の人材を失った。それは、東満州で怒濤の勢いで前進する朝鮮革命の高揚のために、まことに胸の痛む損失であった。しかし、呉仲和は、その壮烈な死によって大衆を目覚めさせ、決起させた。彼は倒れたが、その血に染められた半遊撃区では抗日大戦の新しい全盛期をになって立つ主人公たちが雨後の筍のように育っていたのである。



 


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