金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 楽天地


 1933年2月の中旬、われわれは馬(マ)老人に案内されて汪清遊撃区へ向かった。20日間、山小屋で政治討論に明け暮れ、退屈しきっていた18名の遊撃隊員は、道に出ると元気いっぱい歩きだした。冬中の試練の跡はまだ消えさっていなかったが、隊伍は清新で生気はつらつとしていた。

 いま汪清地方に住んでいる人たちに、お国自慢は何かと尋ねると、県長の演説が長いのと小学校の校舎が長いのと谷間の長いのが有名だ、とウイットに富んだ返答が返ってくるそうだが、それは、冗談好きな汪清地方のユーモリストが愛郷心の現れとしてつくりだした話に違いない。

 1933年当時のわたしにそういう名句の心得があったら、ひどい苦しみに耐えぬいた戦友たちをひとしきり愉快に笑わせることができたかも知れない。だが、わたしはそのとき、「汪清はどんなところですか?」という隊員の問いに、ただ一言、亡命者が多いところだとしか答えられなかった。亡命者が多いというのは、革命家が多いところという意味である。

 汪清は、間島の各県のうちでも早くから反日独立運動がもっとも白熱化した地方の一つであった。百戦老将の洪範図が日本軍討伐隊を大敗させた戦場もここであり、徐一(ソイル)、金佐鎮、李範奭(リボムソク)らが率いた北路軍政署独立軍の活動拠点もここにあった。李東輝はこの一帯で独立軍の人材養成に全力を傾けた。独立軍の猛活躍と独立運動家の出没は、この地方の人民の民族的覚醒を促し、彼らを反日愛国闘争へと力強く励ました。

 独立軍運動が凋落の段階に入り、独立運動のリーダーたちが沿海州地方やソ満国境一帯に姿をかくすようになってから、汪清地方での民族解放闘争のヘゲモニーは次第に共産主義者の手中に掌握され、闘争の主流も民族主義運動から共産主義運動へと転換していった。民族主義者によって培われた愛国愛族の土壌で、新思潮の先覚者は共産主義運動を発展させていったのである。

 しかし、その運動の原動力には、さほど変化がなかった。民族運動の主体として登場した人びとの絶対多数は、共産主義運動への方向転換を遂げていた。共産主義運動の隊列内には、最初から共産主義を志した人もおり、最初は、民族主義を信奉し、思想改造の過程をへて次第に共産主義者になった人もいた。なんの主義にもくみしなかった新しい人たちだけで共産主議運動をするのは不可能なことである。これがまさに革命発展において、われわれが指針としている継承と革新の原理なのである。共産主義思想が人類思想史の最高峰をなす思想であり、共産主義運動があらゆる形の革命運動の最高段階の革命運動だからといって、この運動がゼロから発生し発展すると考えるのは誤りである。

 いずれにせよ、汪清は、反日闘争の歴史が長く、大衆的基盤が強く、政治的地盤もしっかりしているところであった。祖国の六邑地区とも距離が近く、間島地方の愛国文化啓蒙運動の中心地である延吉、竜井地区とも隣接していて、いろいろな面で好都合であった。水積もりて魚あつまる、というたとえのとおり、こういうところに革命家が多く集まってくるのは理の当然であった。

 苦学をするなら日本へ行き、パンを望むならソ連へ行き、革命を志すなら間島へ行け、という流行語は、東満州を解放運動の最前線とみなし、そこを憧憬してやまなかった当時の朝鮮青年の思いをよく反映している。

 間島へ行くのは、銃眼めがけて突進するにひとしい危険きわまりないことであった。だが、われわれは革命をいっそう本格的に進めるために、その銃眼めがけてためらうことなく突進した。遊撃区に向かうわれわれの足どりがかくも軽快であったのは、そこに盛りだくさんのご馳走や快いねぐらが待っているからではなかった。それはほかでもなく、そこに生死をともにする同志があり、人民があり、われわれの闊歩できる大地があり、天皇の勅令や総督制令をもってもくつがえすことのできない、朝鮮式の真の世界があるからであった。

 われわれが馬老人の案内で転角楼へ向かった1933年2月は、東満州各地での遊撃根拠地の創設が基本的に完了し、その生命力が発揮されはじめていたときである。

 遊撃根拠地を建設し、それにもとづいて積極的な武装闘争を展開することは、朝鮮の共産主義者がすでに冬の明月溝会議でその趣旨を示し、方針として採択ずみの中心的課題の一つであった。われわれはそのとき、武力抗争をするなら陣地を築くべきだと強力に主張した。陣地というのは、遊撃根拠地を意味するわれわれなりの素朴な表現であった。

 われわれが、冬の明月溝会議で論議された解放地区形態の遊撃根拠地創設にかんする問題を独自の議題として上程し、その実現方途を改めて真剣に模索したのは1932年春の小沙河会議であった。この会議以後、われわれは間島各地に有能な指導中核を派遣し、農村の革命化に拍車をかけた。これは、解放地区形態の遊撃根拠地を建設するための第一段階の作業であった。革命化された農村地域は、遊撃区ができあがるまで反日人民遊撃隊の足場として活動できる臨時拠点となり、遊撃根拠地を誕生させる下地となった。

 冬の明月溝会議で理想的な候補地として選定された安図、延吉、汪清、和竜、琿春の山岳地帯の牛腹洞、王隅溝、海蘭溝、石人溝、三道湾、小汪清、嘎呀河、腰営口、漁郎村、大荒溝、煙筒拉子などの各地に遊撃根拠地が続々と建設された。

 間島の山岳地帯に建設された遊撃区域には、敵とのするどい対決のなかでの朝鮮共産主義者の堅忍不抜の努力と血みどろの陣痛の痕が歴々としている。豆満江沿岸の遊撃根拠地を築くために、梁成竜、李光、張竜山、崔春国、朱鎮、朴東根、朴吉、金日煥、車竜徳、姜錫煥、安吉、李国振、李鳳洙といった朝鮮共産主義者が流した鮮血と労苦の跡は歴史に末永く残るであろう。

 当時、国内と海外のひとかどの人物は先を争って間島地方の遊撃根拠地に集結した。汪清地区にも多くの人が集まってきた。金百竜、趙東旭、崔成淑、全文振など北満州の共産主義者も小汪清に移ってきた。小汪清の新しい住民の中には、沿海州地方で活動していた共産主義者や独立運動家もいれば、長いあいだ、敵中で地下活動をつづけているうちに発覚して闘争舞台を替えた人もおり、朝鮮革命の中心は間島だといううわさを聞いて越境脱出してきた国内の愛国人士やマルキストもいた。

 東満州の遊撃根拠地には、このように革命に参加する覚悟をかためたか、または実践闘争の中で鍛えられて豊富な経験を身につけた精鋭分子が集まってきた。したがって、住民の構成も大汪清河の清い流れのように汚れがなかった。その気概と胆力からすれば、すべて一騎当千のつわものといえた。

 朝鮮の共産主義者は、革命の策源地ができた有利な条件を利用して抗日根拠地で遊撃隊の隊伍を拡大し、党、共青をはじめ、反帝同盟、農民協会、反日婦女会、児童団、赤衛隊、少年先鋒隊などの階層別組織と半軍事組織を結成して、全民抗争の基盤を築いた。われわれの先代に属する祖父や祖母たちが一度も味わえなかった真の民主的権利と自由を人民に与え、人民の利益をりっぱに擁護し代弁する革命政権が遊撃区域ごとに誕生し、人民の楽土を建設しはじめた。革命政権は、人びとに土地と労働の権利を与え、誰にも無料で学び、治療を受ける権利を与え、歴史上はじめて万民平等の理念が実現した社会、互いに助け導き合い、尊重し合う美しい倫理が支配する社会を建設した。遊撃区には、ステッキをついて横柄にふるまう金満家もおらず、借金と税金に押しつぶされてせちがらい世の中を嘆き、涙に暮れる人もいなかった。

 遊撃根拠地には、いかなる受難や苦痛の中でも、ついえることのないよろこびの脈動があった。それは、あらゆる社会悪と束縛から完全に解放され、自主的な新しい生を開拓していく人民のロマンであった。人民革命政府から分与された土地に杭を打ちこみ、鉦を打ち鳴らし踊りに興ずる農民の姿は、朝鮮の共産主義者によって間島という不毛の地に創出された世紀のパノラマであり、別天地であった。たえまない流血と犠牲をともなう試練にみちた生活ではあったが、人びとには明日への夢と希望があり、歌があった。

 敵のいかなる挑発や攻撃にも微動だにせず、東方の一角に毅然と立って民族解放の壮大な新しい歴史を開いていく間島地方の遊撃根拠地は、故国人民の賛嘆と憧憬を呼び起こす楽土、地上の楽園となった。朝鮮民族は、その居住地と理念の違いにかかわりなく、共産主義者が血をもって築きあげたこのとりでを祖国解放の唯一の灯台と仰ぎ、心から支持声援した。一言でいって、遊撃根拠地は、人びとがロマンと悦びと希望にあふれて人間らしく暮らせるところであり、数千年来の人民の夢を実現した理想郷であった。

 遊撃根拠地の存在は、東京大本営の首脳たちにとって慢性化した頭痛の種となった。豆満江をはさんで朝鮮の北部地帯とつながっているこの一帯を彼らは目の上のこぶのようにみなしていた。間島一帯を「反満抗日の心臓部であり、北から朝鮮をへて日本へ向かう共産党の動脈でもある」といった高木健夫の表現は的確であった。日本軍国主義者は、東満州の遊撃根拠地を指して「東洋平和のガン」と呼んだ。この言葉には、遊撃根拠地にたいする日本軍国主義集団の恐怖心がいみじくも反映されていた。日本軍国主義者が間島の遊撃根拠地を「東洋平和のガン」とみなしたのは、この一帯の領域がとくに広大であるとか、この地方に関東軍を制圧できる共産主義者の大兵力が陣を張っているからではなかった。間島で投げた爆弾が東京の宮城や大本営まで飛んでいくわけでもなかった。彼らが間島を目の上のこぶのようにみなしたのは、なによりもこの地域の住民の絶対多数が反日感情の激烈な朝鮮人であり、その朝鮮人の大部分が日本の支配に反対することであれば、いさぎよく一命を投げだして顧みない革命性の強い住民であったからである。

 間島地方の共産党員と共青員の9割以上が朝鮮人であったことを念頭におけば、日本の支配層がこの地帯の遊撃区域を満州支配における最大の頭痛の種とした理由は容易に理解できるであろう。「乙巳条約」と「韓日併合」に反対し、国内と満州の広野で10年有余の抗争をつづけてきた義兵時代の勇将と独立軍残存勢力の大部分もここに陣を構え、火縄銃で日本軍警を狙っていた。朝中両国共産主義者の兄弟的友情と血縁的つながりの手本もここでつくられ、満州全土と中国全域に拡大されつつあった。間島の遊撃根拠地は「東洋平和のガン」ではなく、東洋平和の華であり灯台であった。

 遊撃根拠地を築くための朝鮮革命の戦略的課題は、抗日武装闘争を揺籃期に抹殺しようと狂奔する日本軍国主義勢力の無差別討伐によって重大な試練に直面した。しかし、敵の焦土化作戦は、かえって間島一帯での遊撃根拠地の創設過程を加速化する結果をまねいただけである。

 1932年の春、関東軍と朝鮮軍(朝鮮駐屯軍)は、いわゆる間島処理方策を協議した。これは、朝鮮軍所属の臨時派遣隊を投入し、間島地方の革命運動を弾圧しようとする凶悪な謀議であった。この謀議により、羅南師団所属の日本軍連隊を基幹とし、慶源守備隊、騎兵、野砲兵、飛行1個中隊まで含む間島臨時派遣隊は、秋収・春慌闘争が激烈に展開された東満州4県の全村落と市街地を標的にし、祖国の自由と独立、人間の自主的な生活を求めて立ち上がったすべての生命体とそのすみかに容赦なく砲火を浴びせた。

 1932年4月初旬の大坎子襲撃を皮切りに、汪清の野山は血の海と化した。大坎子はひところ、李光が李雄傑、金容範らとともに秋収闘争を指揮したところであり、金普A梁成竜、金銀植、李応万、李元渉(リウォンソプ)などの闘士たちが公安局を襲撃して武器を奪取した集落である。大砲と機関銃、飛行機で武装した羅南第19師団の大軍が雲霞のごとく押し寄せてくると、この集落に駐屯していた王徳林麾下の救国軍部隊は磨盤山を越えて西大坡へあたふたと撤収し、村の保衛隊も抵抗を放棄して討伐軍に投降した。

 大坎子を占領した日本軍は、飛行機で汪清市街を爆撃し、住民家屋を襲って殺人、放火、略奪行為を働いた。汪清市内でいちばん大きな地主で富豪の李恒鐘の屋敷も、占領軍の手で焼き払われてしまった。ついで、徳源里と上慶里が火の海と化した。

 この討伐がいかに残酷無道で狂気じみたものであったかは、当時、汪清の住民がつくったつぎのような歌からもうかがうことができる。

   1932年4月6日
   大坎子で反日戦争はじまった
   大砲の音 野山をゆるがし
   機関銃と榴散弾 雨あられ
   飛行機は空から爆弾投じ
   無産大衆の虐殺ほしいまま
   大肚川の火炎は天をなめ
   徳源里の農村は焼け野原
   罪なき民の屍 野にみちて
   汪清の野は人影消ゆる
   満州に住む無産大衆よ
   一致団結こぞって戦おう
   われら血潮たぎらせ戦場で
   勝利の旗をはためかさん

 小汪清と大汪清の谷間には、討伐で家を失い肉親を亡くした避難民の群がひきもきらず流れこんできた。日本軍の飛行機は、非戦闘員しかいないその人波にも爆弾を浴びせた。水晶のように澄みきっていた汪清の川水は、またたくまに鮮血で染まった。その流れに虐殺された人の腸が流されていくことさえあった。

 馬老人がわれわれを案内してくれた転角楼も、間島臨時派遣隊の暴虐ぶりが目に余るところであった。ここを襲った敵は、数十名の青壮年と婦女、子どもたちを燃えあがる家に閉じこめて虐殺した。村はまたたくまに灰じんに帰した。東満州の各県で「転角楼での惨劇に際して全同胞に告ぐ」という檄が飛ばされたことを見ても、この討伐の規模と野蛮さを十分察することができるであろう。

 間島革命の重要な発祥地の一つである小汪清と羅子溝に近い転角楼は、早くから抗日闘争の洗礼を受けてきたところである。数千に及ぶ農民と筏流し、林業労働者がひしめくように寄り集まっていたこの谷間には、党、共青をはじめ前衛組織とともに階層別の革命組織がみなそろっていた。春慌闘争のときにはこれらの組織が大衆を動員し、村に巣くっていた保衛団を叩きのめしさえした。大衆の気勢に恐れをなした保衛団員たちは、そのとき山に逃げのびたまま帰ってくることができず、土匪になってしまった。

 闘争は勝利に終わったが、革命大衆は13名の犠牲者を出した。こうした闘争の渦中で、転角楼はすぐれた革命家を輩出する温床となった。汪清遊撃隊3中隊長であった張竜山も、転角楼から三岔溝の区間で筏流しをしていた人である。李光が百家長という肩書で活動していた蛤蟆塘はこの村からわずか数キロのところにあった。

 敵は村に共産党員が一人でもいれば、そこの住民を皆殺しにした。共産党員1人をなくすためには100名の大衆を殺してもかまわないというのが、日本軍警の合言葉であった。中日戦争のとき、華北駐屯日本軍司令官岡村寧次が華北地方の解放区を攻撃するとき採用したという三光政策(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす政策)は事実上、1920年代の間島討伐のときに実施され、1930年代初にいたっては東満州各地での遊撃区域焦土化の本格的な実施によってその本質を赤裸々にさらけだしていた。朝鮮と満州大陸で日本帝国主義が唱えた三光政策と、いわゆる「匪民分離」を目的とした集団部落政策は、アルジェリアの抵抗勢力を弾圧する軍事作戦でフランスの植民地主義者によって適用され、ベトナム戦争のさい米軍によって完成されたのである。

 三道湾、海蘭溝、竜井、鳳林洞など延吉県の主だった革命村もすべて屍でおおわれた。琿春県の三漢里一帯では1600余戸の家屋が焼きつくされた。延吉1県で虐殺された人だけでも実に1万余名に及んでいるのだから、間島臨時派遣隊の罪業をなんと告発すべきであろうか。

 日本軍は、間島住民の生命財産は言うに及ばず、初歩的な生存手段である炊事道具までいっさいぶちこわしてしまった。炊飯もできないように釜を叩き割るかと思うと、部屋のむしろをはがし、オンドル石まで掘りかえした。果てには、家屋を崩し、牛車で木材を大肚川市内に運び出した。人びとは草小屋で寝起きし、釜の代わりに石を熱してご飯を炊かなければならなかった。

 山へ逃げられなかった人たちは、大坎子か大肚川などの市街地に行かなければ皆殺しにすると脅迫された。討伐軍の強制退去令は、地主も例外とはされなかった。抗日武装部隊の食糧や生活必需品が少なからず地主や資産家から提供されているということは公然の秘密であった。敵はこの源泉まで封鎖することによって、恒常的に食糧と被服の不足に悩む革命軍を完全に窒息させようとしたのである。

 革命大衆は、討伐隊の執拗な追撃を避け、飲まず食わずで山中をさ迷った。だが、山だからといって必ずしも安全なわけではなかった。いくら深い渓谷でも行き止まりまで行けば、それ以上抜け道はなかった。行き止まりに突きあたると木立の中に隠れるよりほかはなかったが、そういうときに乳飲み子が泣き声を上げようものなら、皆殺しにされるのは必至だった。ある母親は、討伐隊の捜索が身近に迫ったとき、背中の子どもがもしや泣きだしはしまいかと、乳首をくわえさせたまま強く抱きしめた。敵の銃口にさらされている数百人の革命大衆の身辺の安全を思ってのことであった。討伐隊が立ち去ったあとでわが子をゆすってみると、乳飲み子はすでに息絶えていた。このような悲劇は、間島のどの村、どの谷間でもよくあることであった。こういう弊害をなくそうと、あるところでは乳飲み子にアヘンを飲ませた。アヘンを飲まされた子どもは眠りこけて泣きだせなかった。たび重なる討伐にたまりかね、涙ながらに愛するわが子を他人の手に委ねる母親さえあった。

 遊撃区の革命大衆と戦友のため、命よりも尊い抗日偉業のため、朝鮮の女性は、このように高価な代価を払わなければならなかったのである。ブルジョア人道主義者は、共産主義者の母性愛について論難するであろう。わが子の運命にかくも無慈悲な女性がどこにおり、わが子の生命にかくも無責任な母親がどこにいるものかと。しかし、幼い肉体から生命の火花をかき消してしまった責任をこの国の女性に問おうとしてはならないであろう。摘みたての綿のような肉体を枯葉の中に埋めるとき、そして、見知らぬ家の戸口に愛するわが子を置いて立ち去るとき、遊撃区の女性が流した涙はいかほどであり、その胸の痛手はどれほど深いものであったろうか。それを知るなら、間島に殺人鬼の群を送りこんだ日本帝国主義者に呪いと憎悪を浴びせずにはいられないであろう。この国の女性の母性愛に耐えがたい試練を強いたのは、ほかならぬ日本軍国主義者たちだったのである。

 日本が過去を清算するつもりなら、必ずこうした罪悪を反省すべきである。自分が犯した犯罪の跡を振り返り、誤りを悔悟するのはもちろん愉快なことであるはずがない。だが、そのような反省がいかに苦く屈辱的なものであっても、他人の家の軒下にわが子を捨て、乳飲み子の口にアヘンをそそぎこむときの母親や姉たちの苦しみに比べればはるかに軽いものではなかろうか。

 日本の支配層が、その犯罪行為にたいするなんらかの証拠を求めるとするなら、それは、かつて日本軍によって惨殺された数百万を数える朝鮮人にたいするはなはだしい冒涜である。

 革命大衆には、日本軍の要求どおり都市へ行くか、それとも、その要求を拒み、いっそう深い山中にこもって生計を維持し闘争をつづけるかという二つの道しかなかった。郷里の豊饒な田畑を捨てて間島まで流れてきた朝鮮人のうち、日本軍が居座っている市街地へ行こうとする者が果たして何人いるだろうか。

 間島の住民の大部分は、日本帝国主義の植民地的収奪によって経済的基盤を失い、リュルド国(朝鮮中世の小説『洪吉童伝』に出てくる身分差別のない理想王国)のような理想郷を夢に描き、生きる道を求めて離郷した零細農民であった。彼らは、官憲と土着地主に痛めつけられながらも、老爺嶺と哈爾巴嶺山脈の斜面や谷間で根気よく石を拾い出し、木の根を掘り出して畑を起こした。焼畑農業は骨がおれ貧困は相変わらずつきまとったが、日本人の責苦にさいなまれる心配がないので、人びとはそれだけでも満足していた。それを、あの悪逆無道な日本軍に従って都市へ行けというのであるから、汗水流して耕した土地を捨てて誰があっさり立ち去ろうとするであろうか。これは、大殺戮の惨劇を体験した汪清一帯の住民にとって重大な試練であった。

 討伐軍の脅迫に恐れをなした住民の中には、1戸2戸と都市へ行く者が出てきた。しかし、新世界を熱烈に憧憬し渇望する絶対多数の大衆は、敵の恐喝に屈せず、深い山中へ身をひそめた。昨日まで同じ村里で革命のために志をともにし、苦楽をともにしてきた人たちは、こうして、それぞれ山や都市へ散っていった。そのとき山中に残った人たちは、県城(百草溝)から40キロも離れた小汪清と大汪清の大森林地帯へ遠く移動した。李治白一家が、中慶里から馬村へ移ったのもこのころであった。共産党汪清県委をはじめ県クラスの機関は、小汪清に本拠を定めた。延吉県細鱗河、太平溝、王隅溝、北洞などへと場所を変えて活動していた東満特委(東満州特別党委員会)も、1933年の春には小汪清地域に来て梨樹溝の谷間に落ち着いた。小汪清は、間島革命の中心地となり首都となった。われわれと中国共産党、朝鮮革命と中国革命は、こうした歴史の流れの中で一つの脈絡をなすようになった。

 汪清遊撃根拠地は、腰営口を包括する1区と馬村、十里坪を包括する2区をはじめ、5つの革命組織区からなっていた。当時の汪清遊撃隊の兵力は3個中隊で、その代表的な指揮官は、李光、梁成竜、金普A張竜山、崔春国、李応万らであった。

 これらが、汪清についてのわたしの大まかな予備知識であった。わたしにこういう予備知識を与えてくれたのは、汪清遊撃隊の創建者の一人である梁成竜と県党書記の李容国であった。1932年の秋にわたしが部隊を率いてこの地域に来て遊撃根拠地の実態を調べたとき、わたしの案内役を勤めてくれたのが彼らであった。そのとき、わたしは汪清県内の各遊撃区を見てまわり、基層党組織の活動と、反日会、反日婦女会をはじめ大衆団体の活動を指導した。また、反日部隊に派遣されて活動している工作員の活動状況も聴取した。われわれが小汪清で東満州各県の兵器工場のメンバーと遊撃隊指揮官を集めて爆弾の製造法についての講習をおこなったのもこのころであった。

 当時、汪清の幹部は、食糧問題で頭を悩ましていた。農家がわずか数十戸の小汪清の狭い谷間に1000名をこす人が一挙に流れ込んできたので、遊撃区には彼らに供給できるほどの食糧の余裕がまったくなかった。遊撃隊がときおり敵を奇襲して食糧をろ獲してくることもあったが、それだけでは根拠地住民の口をぬらすことさえ難しかった。遊撃区の小さなやせ地での一年間の収穫量は取るに足らぬものであった。

 こうして、食糧調達の当面の打開策として、中間地帯の刈り入れが焦眉の問題となった。中間地帯というのは、敵の統治区域と遊撃根拠地の中間にある無人村のことである。小汪清と大汪清の外れにもそういう村がいくつも生まれた。討伐隊の襲撃を受けたそこの住民は、みな遊撃区と敵区とに分かれて立ち退いたため、その地帯には穀物だけが残されたのである。そうした穀物の中には、敵区へ立ち去った地主や反動派のものもあり、討伐隊の銃剣に押しまくられて百草溝や大肚川などに強制移住させられた農民のものもあった。

 中間地帯の穀物は、敵区でも目を光らせていた。敵区の地主と反動派は、武装した自衛団の掩護のもとに連日馬車や荷車を引いて中間地帯に現れては穀物を刈り取っていった。ときには、脱穀場の付近まで接近して銃火を浴びせることさえあった。

 そのとき、われわれはこうした実情を把握したうえで各遊撃区で収穫隊を編成し、根拠地の住民を総動員して中間地帯の刈り入れを早急に終える問題について汪清の人たちと合議した。収穫隊は、小汪清の外れから穀物を刈り取りながら大肚川の方へ下っていった。刈り取った穀物は、その日のうちに脱穀して倉庫に納め、遊撃区の住民に分配した。13戸村の下手の方からは、収穫隊にたいする赤衛隊の警護が必要となった。5連発銃で武装した自衛団の襲撃を防ぐためであった。ときによっては、収穫隊が総がかりで穀物を刈り取っている畑を挟んで、赤衛隊と自衛団とのあいだに激しい銃撃戦になることもあった。わずかばかりの穀物のために夜を徹して決死の刈り入れ戦闘をくりひろげる汪清人民の姿は、われわれをいたく感動させた。困難をきわめてはいたが、根拠地で万事がわれわれの意図どおりに進行しているのを見届けたわたしは、そのとき満足な思いで小汪清を後にしたのであった。

 わたしは再度、遊撃根拠地へ向かいながら2つの大きな課題を考えていた。一つは遊撃隊の隊伍を大幅に拡大することであり、他の一つは活動舞台を豆満江沿岸に移すことになった新しい環境と条件に即して、各階層の愛国勢力を一つに結集する統一戦線活動と中国人反日部隊にたいする工作をさらに積極化することであった。

 馬老人は、われわれを転角楼まで案内し、羅子溝へ帰って行った。馬老人に代わってわれわれの案内人になった快活な性格の反日会員は、その間、汪清遊撃隊の小部隊が腰営口と泗水坪で日本侵略軍の討伐隊を撃破した模様を昔話のように興味深く聞かせてくれた。

 翌日、われわれは反日人民遊撃隊と記した赤旗をかかげ、ラッパを吹き鳴らしながら汪清一区の所在地である腰営口遊撃区域に入った。後日、わたしの伝令となり戦死した崔金山の叔母洪永花(ホンヨンファ)が、20名ほどの児童団員と一緒に道路に飛び出して手を振り、熱烈にわれわれを出迎えてくれた。洪永花は、汪清一区党委員会傘下の女性組織の責任者であったが、遊撃隊と反日部隊にたいする後援活動に熱心で、軍民に愛されていた。その日、腰営口の人たちは、キビ餅やソバをつくってわれわれをもてなしてくれた。夕方には、児童団員の公演も見せてくれた。

 「金日成部隊のうわさは何か月も前から聞いておりました。南満州へ行き、北満州に来て、敦化と額穆で攻撃戦を展開したというニュースもみんな聞きました。わたしらの村一帯の人は、金隊長の部隊をいまかいまかと待っていました。これでいっそう心強くなったというわけです」

 公演が終わり、軍民が一つに溶け合って交歓会に興じているとき、わたしのそばでその光景を目を細くして眺めていた汪清1区党委員会の組織部長李雄傑がこう言うのであった。

 わたしは彼と一緒に交歓会場から席を外し、区党委員会の事務室で遊撃区の活動について長時間論じ合った。論議の焦点となったのは、転角楼のようなところでわれわれの党組織と革命組織をどのような方法で拡大し、遊撃区の全人民をどう武装させるべきかということであった。

 われわれの対話が遊撃区の防衛問題に転じて具体化されようとしたときに、敵区から秘密レポを持った連絡員が駆けつけてきた。そのレポには、明日、大興溝駐屯の日本軍守備隊が遊撃区を討伐するという内容が手短に記されていた。

 「去年の12月に痛い目にあわされたので、仕返しをしようというのでしょう。あの悪鬼のようなやつらは、数百里の遠くから来た賓客もおかまいなしというわけです。実際のところ、わたしたちは、金隊長の部隊にここで何日かゆっくり休んでいただこうと思っていたのですが、まことにあいにくなことになってしまいました」

 日本軍が腰営口を討伐するのがあたかも自分の責任でもあるかのように、李雄傑はすまなそうな顔をして笑った。

 「そんなことはありません。何か月かのあいだ戦闘ができなくて、みんなむずむずしていたところだから、ちょうどよかった。大坎子と転角楼、徳源里、三漢里の惨劇で朝鮮人民が流した血の償いをさせてもらう機会がきたようです」

 わたしはこう言った。そして、李光に部隊を率いて至急腰営口へ出動するようにというレポを飛ばした。李雄傑も気があせるのか、たてつづけに葉タバコを吸っていたが、そのうち交歓会場にいる赤衛隊長を呼び出そうとして席を立った。その表情を見ると、いまにも総動員令を下しそうな気配だった。わたしは李雄傑の腕をとり、笑いながら椅子に引きもどした。

 「赤衛隊員に討伐隊がくるということを知らせるつもりではありませんか。交歓会がたけなわだというのに、せっかくの座がしらけてしまうから、そっとしておきなさい。その代わり1時間後には赤衛隊員を全員家に帰して夜明けまでぐっすり眠らせましょう。わたしも今晩は隊員を早めに寝かせます」

 討伐隊の奇襲計画を知らせる緊急通報を受けながら、即座に臨戦態勢をとらずに軍民の交歓会を平然とそのままにしておいたのは、軍事実践上の見地からすれば常識はずれのことだといえるであろう。区党委員会の組織部長と軍事部署の仕事を兼任している李雄傑であってみれば、焦燥と不安の目でわたしを見つめたのも無理はない。けれどもわたしは、交歓会を終えて宿所にもどるまで、隊員たちに敵区からの通報の内容を公開しなかった。遠路の行軍で疲れている彼らを刺激しないためだった。いったん戦闘情況が知らされ、命令が下れば、どんな鉄の心臓の持主でもなかなか寝つけるものでないことはわたしも重々承知していた。

 (今晩だけは、なんとか睡眠時間を妨げないようにしよう。この冬中、眠られぬ日々を過ごした彼らではないか)

 これが、その晩わたしをとらえた考えだった。遊撃隊を統率する指揮官としては無用の人情とでもいえようか。ともかく、夜11時までには全隊員が宿所にもどり、深い眠りに落ちた。われわれの道案内を担当した転角楼の反日会員と敵区から来た連絡員は、わたしの計らいに承服しかねたのか、零時を回っても寝つけずにいた。李雄傑もしきりに寝返りを打っていた。わたしは彼の耳元でそれとなく尋ねた。

 「行軍してきながら見ると、腰営口の入口の前後の高地が奇妙な地形だったが、そこで要撃してはどうだろうか? その前が車道になっていたようだが」

 わたしがこう言うと、李雄傑はがばっと起き上がった。

 「大北溝の西山のことですか? あそこなら要撃にうってつけの金城湯池ですよ」

 わたしと李雄傑がこんな話をやりとりしたのは午前4時ごろであった。

 しばらくして、われわれは腰営口の関門ともいえる大北溝の西山に登った。赤衛隊長と転角楼から来た反日会員も同行した。西山の南側は絶壁をなし、その下に車道が伸びていた。車道と並行して流れている川は小通溝と呼ばれていた。西山の高地には岩が多かった。これは、遊撃隊がよりどころにして戦えるりっぱな天然の要害であった。

 われわれは、崖と崖の合間にいくつもの石の山を積み上げてから、腰営口の赤衛隊とわれわれの部隊の全隊員、別働隊の一部のメンバーを全員、西山に呼集した。そして、凍土を掘って陣地をつくらせてから戦闘命令を下した。

 …われわれが占めているこういうところを先祖たちは金城湯池といった。防備が鉄桶のように堅固な城池という意味だ。攻撃者には不利な地形であるが、防御者にはなんと有利な地形ではないか。しかし、金城湯池もよいが、それよりもわたしは諸君の腕をもっと信頼している。諸君、惨劇の歌ばかりうたわず、きょうは朝鮮人民が流した血の代価を数百倍にして償わせようではないか! 血には血で!

 わたしは戦闘命令をこのようなアジテーションで結んだ。

 この日、4台の軍用車に分乗して腰営口の谷間に攻め込んできた80余名の日本軍は、われわれの伏兵戦術にはまりこんで数十名の死傷者を出した。大興溝の日本軍守備隊は、つぎの日も兵力を総動員して腰営口に攻め入ってきたが、前日同様おびただしい死者を出して逃走した。これがほかならぬ間島地方の遊撃区域に来て、われわれがおこなった初の戦闘であった。史書には、おそらく腰営口遊撃区防衛戦闘と記録されているはずである。

 翌日の夕方、腰営口の人たちは、大北溝村で戦闘勝利を祝う集会を催した。この集会はいまでもわたしの記憶に残っている。各組織の代表が1人ずつ出ては拳を振り上げながら祝賀演説をするのだが、その熱気たるやまったくすさまじいものがあった。言うまでもなく、その晩はわたしも熱のこもった演説をした。

 わたしが腰営口で呉振宇(オジンウ)に会ったのは、おそらくその年の冬か、その前年の秋だったと思う。そのとき、小北溝村の住民は、呉振宇が児童団の指導員を勤めていた児童団学校でわれわれの歓迎会を開いた。呉振宇は、その歓迎会でわたしが38式小銃を支えて演説した光景がいちばん印象的だったと、わたしとのはじめての出会いをしばしば感慨深げに回想したものである。そのときの彼の年は15、6歳だったと思う。彼は始終われわれの後をついてまわり、わたしの腰のモーゼル拳銃をよく触ったりした。銃が欲しくてたまらない様子だった。われわれが携帯していた武器は、いずれも38式小銃か最新式の拳銃であった。わたしは呉振宇に、遊撃隊に入りたいかと尋ねた。彼は入りたいのだが年が足りないからといって入隊させてくれないと泣き顔で訴えた。翌年か翌々年に、われわれは、彼を汪清4中隊に入隊させ、北満州遠征にも参加させた。

 われわれが腰営口で敵を撃退し、遊撃区の党活動や大衆団体の活動についても把握したのち、小汪清へ向かう準備をしているとき、折よく先方から、重要な軍事問題で相談したいことがあるから馬村へ来てもらいたいという知らせが届いた。

 われわれはただちに腰営口を出発した。小汪清に到着したとき、わたしを迎えてくれたのは王潤成と他の2人であった。王潤成は、一名馬英ともいったが、本名よりも「王大脳袋(ワンダノウダイ)」というあだなで呼ぶ人が多かった。「王大脳袋」というのは、頭がきわだって大きいという意味である。わたしは「大個子(ダコウズ)」をはじめ、遊撃区の幹部の案内で、馬村の北側の山すそにある李治白老の家に宿所を定め、そこで東満州の党代表と会った。「大個子」というのは、李容国のあだなで、背高のっぽという意味である。当時、彼は汪清県党の書記を勤めていた。馬村には、「流動客宿場」と呼ばれる独身者の寄宿舎があったが、収容人員が多く混雑しているので滞留には不適当だといって、小汪清の人たちがいやおうなしに李治白老の家に宿をとらせたのである。李治白は、金重権の義父にあたる人だった。老人の夫人は、徐姓女といった。李治白老の家庭は、一家をあげて革命に参加している愛国的な家柄であった。

 わたしは、この家で大布衫を着て王潤成一行と話し合った。

 「汪清入城をお祝いします!」

 これが「王大脳袋」の挨拶だった。

 「また会えてうれしいです!」

 わたしも彼の手をとって返礼した。

 汪清という不案内なところに来て王潤成のような旧知の革命家に会えたのは、わたしにとって一種の幸運だといえた。わたしが彼にはじめて会ったのは、南満州への進出を終えて安図に帰還し、反日部隊工作に腐心しているときであった。そのころ、王潤成は陳翰章とともに孟連隊長の部隊で救国軍にたいする工作を進めていた。

 北満州一帯にいた孟連隊が安図地方へ活動舞台を移したのは、遼寧一帯の唐聚伍自衛軍との連係を結び、彼らとの合作を実現しようという目的からだった。救国軍部隊で呉義成にたいする工作を進めていた中国の共産主義者は、南北満州抗日軍の連合によって反日闘争を満州全域に拡大しようとしていた。呉義成が孟連隊を安図へ送り込んだいま一つの目的は、アヘンを入手して軍資金を調達するところにあった。安図一帯は、アヘンと朝鮮人参の主産地だった。唐聚伍も部下を派遣して、安図のアヘンを独り占めにしようとしていた。当時、満州地方では、アヘンがカネに代わる有力な等価物となっていたのである。

 「救国軍が敦化と額穆で金日成同志の部隊と共同で城市を攻撃することができたのは、アヘンのおかげだったといえるでしょう。安図で大量のアヘンを手に入れて分けてやったのが、隊員の士気を高める契機になったわけですよ」

 李光の家で反日兵士委員会を開いたとき、王潤成は冗談まじりにわたしにこう言うのであった。われわれはそのときすでに、こういう秘密を包み隠さず話せるほどの仲になっていた。王潤成は安図に滞留している期間、われわれの活動を大いに助けてくれた。わたしからの胡沢民や周保中への連絡も、また彼らからのわたしへの連絡も王潤成が担当してくれた。彼は救国軍部隊の宣伝幹事の肩書をもっていたので、司令部はもちろんのこと、連隊部や大隊部、中隊部などを自由に往き来することができた。彼は、わたしと救国軍に派遣されている共産党員とのあいだで伝達長の役割をりっぱに果たしていた。

 師範学校系出身のインテリが概してそうであるように、王潤成も大柄な体躯に似合わず、人柄はきわめて温和で善良だった。彼は寧安で師範学校に通っていたころ、北京、南京、天津などの大都会で勉強してきた同窓生の影響を受けて革命活動をはじめた人であった。彼が職業革命家に成長する過程では、潘省委(満州省党委員)の影響も大きかったという。

 「東満州に革命の火の手が激しく燃えあがりはじめたいま、金日成同志に大きな期待がかかっています。党活動、遊撃隊活動、救国軍工作を発展させるために、東満州革命が有能な戦略家を必要としているとき、金日成同志が汪清に来たのはうれしいことです」

 彼は、東満州と北満州でのさまざまな出来事について比較的詳しく分析した。そして、東満州党組織に提起されている当面の問題をめぐって、虚心坦懐にわたしと意見を交わした。この日、さし迫った問題として論議されたのは、各遊撃区域で分散して活動している中隊にたいする統一的な指揮体系を確立し、軍事力量を質量ともに早急に拡大強化することであった。この問題については、その後、童長栄とも具体的に協議された。こうして、汪清の各遊撃中隊は、大隊部の統一的な指揮のもとに動くようになった。

 その後、東満州の他の県でも中隊を統轄する大隊が編制され、指揮官を新たに配置する改編過程をへて、遊撃運動の本格的な高揚期が準備されていった。

 われわれの汪清入城過程には、このように印象深い多くの事柄や出来事があった。間もなく、われわれは汪清の風土になじむようになった。活動舞台と居住地を移すたびにいつも感じる不自然な気持ちは、すぐに新しい里への愛着と好奇心に変わっていった。

 1933年当時のわたしは、事実上、よるべなき独り身同然の身の上だった。母の死は、われわれ3人兄弟を孤児にし、よりどころであった小沙河の葦原村のなつかしいわが家をクモの巣だらけの廃屋にしてしまった。わたしに残されたのは、他人の家で気がねの多い居候生活をしている2人の弟と、はるか彼方の故郷で、愛するわが子を国にささげてひっそりと暮らしている祖父母のみであり、そして、夜ごと夢路に浮かぶ故郷への物悲しい郷愁のみであった。祖父母につくしたいわたしの孝心は故郷の家の軒先まで及ぶはずもなく、弟たちを見守りいたわってやりたいわたしの望みは空しい憂いとして残るほかはなかった。

 わたしにとって情愛をそそぐことができるところは、遊撃区以外になかった。遊撃区の人民は、わたしの祖父母、わたしの父母、わたしの弟たちに代わる肉親であった。わたしは徐姓女オモニの姿に、わたしの母の人徳と愛と恩情を見る思いがした。

 敵の恒常的な封鎖とたび重なる討伐の中で、東満州の遊撃根拠地は当初から幾多の試練の峠を越えなければならなかった。戦いも多く、流血も多く、苦悩も多かった忘れられぬ歴史の地―汪清、ときには一遊撃区で日に数十名もの犠牲者を出すこともあり、また数十棟の家屋や兵舎が燃え落ちてしまう日もあった。病院は、負傷者と患者であふれんばかりであった。慢性的な食糧の欠乏、周期的に襲ってくる飢餓は多くの人を死に追いやった。ときには、伝染病のため間島全域が全滅の宣言を受けさえした。

 商店も市場も商人もない世界唯一の非商業地帯、ここでは貨幣が通用せず、価値法則が適用されなかった。住民の衣類や靴は、軍隊の戦利品でまかなわれた。極左分子の専横によって、遊撃区の空気は時おり不安にうちふるえることもあった。しかし、そうした苦難は、根拠地生活の主要な側面ではなかった。遊撃区の生活で主流をなしていたのは、たとえ制約された相対的なものではあっても、敵の暴圧から解放された人びとの自由で幸せな新生活と楽天的な精神状態であった。困難は形容しがたいものであったが、軍民の気概は白頭の峰のように毅然としていた。日本と満州国の行政権が及ばない絶海の孤島にひとしいこの地で、朝鮮の共産主義者は世界でもっとも進歩的で革命的な文化と道徳を創造していた。だからこそ、われわれは身も心もささげて遊撃根拠地を愛したのである。

 根拠地を守り抜くためのわが民族の英雄的な壮挙が東満州の地で連日起こっていた。戦いに明け戦いに暮れる北間島の奥地、天地をゆるがす爆音の中でも新しい生活、新しい倫理が呱々の声を力強くあげる遊撃根拠地は、わたしの愛する家となったのである。



 


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