金日成主席『回顧録 世紀とともに』

8 羅子溝の台地で


 日本軍の安図入城は、時間の問題であった。親日派地主は、早くも歓迎用の旗まで用意した。救国軍は、もはや両江口にとどまっていられなくなった。孟連隊長部隊には、草原に山をひかえた羅子溝、汪清方面への退却命令が下った。

 急変する情勢に対処して、われわれも救国軍とともに安図を離れることに決定した。この決定を採択したのが、両江口で開かれた兵士工作委員会会議だった。総体的な方向は活動拠点を汪清に移すことであったが、当分のあいだ退却した救国軍部隊の集結している羅子溝に落ち着いて、反日部隊にたいする工作を進めることにした。于司令部隊も安図から羅子溝へ撤収した。

 われわれが北満州へ向かう準備を急いでいたとき、弟の哲柱がわたしに会いに両江口へやってきた。

 「兄さん、ぼくも兄さんの部隊についていきたい。兄さんがいなくては、もう土器店谷にいたくないよ」

 弟は、わたしが聞く前に、訪ねてきたわけを打ち明けた。弟の気持ちは、わたしにも理解できた。母が亡くなった小沙河で、他人の世話になってその日暮らしをするのは、感受性の強い年ごろの弟にとってつらいことに違いなかった。

 「おまえまで土器店谷にいなくなったら、英柱はどうするのだ。英柱はひとりぼっちで我慢できないだろう」

 「よその家に2人も厄介になっていたんじゃ、すまなくて… 英柱1人だったら、ちょっとはましなはずだよ」

 哲柱のいいぶんはもっともだったが、それに同意することはできなかった。もう16歳なのだから、銃をかつがせれば部隊について歩き、軍隊生活をすることもできた。哲柱は、年のわりに体が大きいほうだった。だが、まだ子どもらしい弱々しさがあったので、遊撃隊の重荷になりそうだった。そのうえ、哲柱は安図地区の共青活動をもりたてる責任をになっていた。

 「おまえが2年か3年後にそういうことをいうなら、兄さんも反対はしないだろう。けれども、いまはおまえの望みどおりにはしてやれない。ちょっとつらいし、さびしいだろうが、もう何年か我慢するんだ。どこかよその家で手伝いをするなり季節労働でもしながら、共青の活動に本腰を入れてみろ。地下活動も武装闘争に劣らず重要な活動なんだから、おろそかにしてはいけない。共青活動をしていて、時期がきたら革命軍に来るんだ」

 わたしは、哲柱が強情を張らないようになだめたりすかしたりした。そして、弟を連れて池のほとりの居酒屋に入った。透き間風が窓の目張りをブンブンふるわせるさむざむとした部屋だった。

 わたしは酒と肴を注文した。冷えきったしみ豆腐2皿と酒1本である。

 それを見て哲柱は、もう涙ぐんでいた。わたしが酒を飲まないのを知っていた弟は、その1杯の酒がなにを意味するのかを察したようだった。

 「哲柱、おまえの願いを聞き入れてやれない兄さんを許してくれ。兄さんだっておまえを連れていきたいさ。おまえを置いていかなくてはならないと思うと、胸が張り裂けそうだ。けれども、寂しさをこらえて、兄さんとおまえはまた、ここで別れなくてはならないのだ」

 わたしは酒の勢いで、しらふではなかなかいいにくいことを一気に話してしまった。しかし、われ知らず涙がこみあげてきた。

 わたしが涙を見せまいとして外へ出ると、弟も飲みかけた杯を置き、わたしを追って出てきた。

 「兄さん、わかったよ」

 弟は後ろからわたしの手を取って、そっと放すのだった。

 こうして、わたしは弟と別れた。その後、わたしは弟と二度とめぐりあうことができなかった。

 あのうらさびしい池のほとりの秋を思い出すたびに、わたしの手をそっと握って放した弟の手を、なぜ長く、そして熱く握り返してやれなかったのだろうかと、悔やまれてならない。いま考えても、あまりにも切ない離別であった。

 あのとき、わたしが弟の願いを聞き入れていたなら、20歳にもみたない年で早世しなかったかも知れない。 炎のように燃えて炎のように去った人生であった。

 哲柱は、10歳になるが早く革命組織に加わった。撫松にいるころは、セナル少年同盟の宣伝キャップを勤め、小沙河に移ってからは区共青委員会の書記をした。

 両江口でわたしと別れた哲柱は、その後、多くの共青員を育てて朝鮮人民革命軍に入隊させた。弟は、すすんで反日部隊にたいする困難な工作も受け持った。反日部隊の兵士とともに大甸子市街の襲撃戦闘にも参加した。哲柱が関係していた杜義順指揮下の反日部隊は、日本軍の間島討伐隊と勇敢に戦ったという。

 その後、哲柱は安図で反日部隊工作部長の重任をおび、延吉県符岩洞蔵財村鹿林にあった徐奎伍反日部隊の工作にもあたった。徐奎伍は反日を唱えながらも、朝鮮の共産主義者といえば頭から敵視する偏屈で片意地な頭領だった。彼は最初、朝鮮人と仲がよかった。

 徐奎伍が朝鮮の共産主義者に背を向けるようになったのは、彼が妾にするつもりで抑留した共青員(朝鮮人女性)が、符岩洞の反日婦女会員に奪還されたときからである。その娘は演芸隊に加わって反日部隊へ宣伝工作に行ったとき、徐奎伍の目にとまって抑留されてしまった。いったん彼の手にかかったが最後、どんな女もその要求を聞き入れないことにはおさまらないのである。徐奎伍は、そういう手口でたびたび女を代えた。

 そのことがあって以来、朝鮮人は徐奎伍の部隊に寄りつけなくなった。彼と懇意にしていた人も相手にされなかった。恋煩いがこうじた彼は、部下に命じて朝鮮人を迫害し、弾圧した。

 そんなとき、哲柱が、漢方医の資格をもつ林春秋を連れて徐奎伍部隊を訪ねたのである。

 「隊長さん、体の具合がだいぶ悪いと聞いてお見舞いにあがりました」

 哲柱が流暢な中国語で丁寧にあいさつをしたが、徐奎伍は振り向こうともしなかった。朝鮮人は見たくもないし、話をするのもいやだというのである。

 「隊長さんの病気を治してあげようと、りっぱなお医者さんを連れてきたんですが、1度診てもらってはいかがですか」

 哲柱が重ねてこういうと、徐奎伍はやや気乗りがしたらしく、それなら診察をうけてみようといった。林春秋の針治療を何日かうけた彼は、偏頭痛で死ぬ思いだったが林先生のおかげですっかりよくなった、と大喜びした。これが縁となって、哲柱は徐奎伍の部隊のなかで反日兵士にたいする工作を公然と進めた。

 のちに、われわれの方面軍に編入された徐奎伍は、第10連隊長に任命され、最後までりっぱに戦った。ひところ、阿片と女なしでは夜が明けぬほど放蕩にふけった彼が、革命軍に編入されてからは共産党に入党するまでになった。わたしが部隊の名で入党を祝うと、彼は「軍司令同志、わたしはきょう入党して、軍司令同志の弟さんを思い出しました。哲柱が助けてくれなかったら、きょうのような日は迎えられなかったでしょう」

 といって、哲柱が林春秋を連れてきて病気を治してくれたことや、反日の道から脱線しないように熱心に説いたことなどをしみじみと語った。

 1935年の6月、哲柱は車廠子付近で壮烈な戦死を遂げた。

 わたしが、弟の戦死を知らされたのは鏡泊湖畔でだった。

 そのせいか、いまでも大きな川や湖を見ると、弟の姿が瞼に浮かんでくるのである。
 哲柱まで戦死したので、末弟の英柱はまったく身寄りのない身になってしまった。金正竜一家が車廠子遊撃根拠地へ移ったあと、英柱はあちこちで子守りや雑用をして糊口をしのいだ。関東軍がわたしの「帰順」工作の具にしようと、親類縁者を手当たりしだい捕えていたときだったので、英柱は自分の名前と出身を隠して東北3省はもちろん、中国本土の都会や農村を巡り歩き、あてもない放浪生活をしなければならなかった。それで、英柱は一時、北京にいたこともある。

 わたしは解放後、日本警察が残していった文書のなかから、弟の指名手配にかんする件を見たことがある。

 英柱は新京ビール工場で働いていたとき、故郷恋しさに3か月ほど祖国に帰っていたことがあった。そのとき、英柱は黒の洋服に白い靴という格好で万景台にあらわれた。

 その身なりが、いかにもりゅうとしていたので、祖父は末孫が官職にでもつき、自力で一家をなしたのではないかと思ったくらいである。英柱は祖父母に心配をかけまいとして、長春で大学に通っていると偽った。警察が写真をまわして指名手配をしていたときなので、弟は故郷に帰っても万景台にはいられず、叔母の家に隠れていたが、そのうちまた満州へ舞いもどってしまった。

 両江口を出発した反日人民遊撃隊の40人の隊伍は、敦化、額穆をへて山伝いに南湖頭方面へ北上した。部隊がわたしの「作男」時代のエピソードで知られた富爾河村に立ち寄って政治工作をしたのもそのころであり、敦化県哈爾巴嶺付近で敦図線(敦化−図們)鉄道敷設工事に動員された日本軍輸送隊と激戦を交えたのも同じころだった。この戦闘があったのち、わたしは敦化県頭道梁子で高在鳳に会った。

 敵の弾圧がはげしい四道荒溝から頭道梁子に活動舞台を移した高在鳳は、地下組織の運営する農民学院で教鞭をとっていた。頭道梁子から敦化県城までは12キロしかなかった。わたしはそのとき頭道梁子で高在鳳の母親にも会った。

 われわれは、日本軍輸送隊を襲撃して奪った小麦粉を住民に分け与え、それで食事を用意して彼らと一緒に食べた。ろ獲した木綿地は、農民学院の学生服用に提供した。

 頭道梁子をあとにしたわが部隊は、北上をつづけて官地付近と南湖頭地方で反日部隊にたいする工作をおこなった。それから汪清地区に入って、党、共青組織と大衆団体の活動状況を調べ、各階層人士とも知り合った。これは、やがて汪清に活動拠点を設けるための予備作業だといえた。

 われわれは汪清でも、反日部隊にたいする工作をゆるがせにしなかった。わたしは、李光の別働隊が何挺かの銃のために下手に手を出して騒がせた関保全部隊を訪ねて梨樹溝へ行った。ところが、関保全は、すでに抗日の旗を下ろして行方をくらませていた。正直なところ、わたしはそのとき、関大隊長に会ったら汪清の同志たちに代わって謝罪し、共同闘争の方途を相談して、ひところ朝中武装部隊間に生じた葛藤と対立を解消する考えだった。

 関保全は逃走したとして、残った人たちにでも会ってみようと連絡員を送ったところ、100人ほどの反日兵士たちが、敦化県城で日本軍を討った金日成部隊とはいったいどんな部隊なのかと、好奇心をもってわれわれのところへやってきた。わたしは彼らの前で、汪清別働隊が武器獲得のために関大隊の兵士に手出しをしたのは非友好的な行為であったことを認め、朝中人民の共同闘争と反日部隊の使命について率直な考えを述べた。

 これにたいする反日部隊の反響は大きかった。わたしの話を聞いた靠山という指揮官は、自分も関保全のように抗日を放棄するつもりだったが、これからは正しい道を歩みたいと語った。彼は、その誓いにたがわず反日戦線でりっぱにたたかった。汪清で大きな頭痛の種だった反日部隊との和解はこのように順調に進んだ。

 われわれは、反日部隊との活動にあらわれていた極左的偏向を正し、彼らを抗日連合戦線により多く引き入れるため、羅子溝で反日兵士委員会を招集した。そのころ東寧県城に集結した救国軍部隊は、ソ連領を経由して中国本土へ退却する凖備をしていた。われわれはなんとしても救国軍の国外脱出を防ぎ、彼らを反日戦線にかたく結束しようとした。そうせずには、われわれの遊撃闘争に重大な難関が生じるおそれがあった。反日部隊を撃破しようと、四方に分散していた敵の「討伐」隊が数百人にすぎないわが遊撃隊に集中攻撃を加え、幼年期にあったわれわれの武装力を一挙に圧殺しかねなかった。彼我の力関係がわれわれに不利になるのは明らかだった。

 当時、日本軍は、満州の群小都市をすべて占領する計画のもとに、随所で反日武装力にたいする攻勢を強めていた。彼らは県都を残らず占領しようと画策した。

 会議には、わたしと李光、陳翰章、王潤成、胡択民、周保中をはじめ、3、40人が参加したが、わたしと李光は朝鮮側を、陳翰章、王潤成、胡択民、周保中は中国側を代表した。

 会議の主な議題は、救国軍の逃走を防ぎ、反日連合戦線を強化する対策についてであった。

 会議ではまず、汪清遊撃隊の誤謬を検討した。

 ことの起こりは、汪清部隊で発生した「金明山(キムミョンサン)事件」であった。以前、張学良軍時代の「保衛団」に属していた金明山は9.18事変後、6人の中国人兵士を率いて汪清遊撃隊に寝返ってきた朝鮮人である。彼は、もともと名うての猟師で、勇猛な点では定評があった。汪清部隊の同志たちは、彼が寝返ってくると、宝物が転がりこんできたかのように喜んだ。

 ところが、彼が率いてきた6人の中国人のうちの1人が、敵の統治区域に偵察に行ったさい、大坎子の食堂で焼餅(ショビン)1 皿を無銭飲食して帰ってきたことがあった。餅代を払う金がなかったのである。彼は部隊に帰ると、そのことを率直に打ち明けた。

 県党の要職をしめていた極左分子は、遊撃隊の名誉を傷つけた害悪分子という汚名を着せて、その中国人隊員を銃殺してしまった。県党軍事部の措置で、汪清で処刑された中国人隊員は十数人に達している。

 金明山と一緒に寝返ってきた残りの中国人隊員は、こうした殺気だった雰囲気におじけづいて部隊を脱出し、馬村付近に駐屯していた関保全部隊を訪ねていった。遊撃隊が中国人をむやみに銃殺しているという彼らの話を聞いて危険を感じた関保全は、遊撃隊の駐屯地から遠く離れた深い谷間に部隊を移動させ、朝鮮の共産主義者を殺害する機会をうかがっていた。

 10月革命記念日に、汪清の人びとは手に手に槍や棍棒など原始的な武器を携えて記念式場に集まってきた。彼らがこうした幼稚な武器を持って集まったのは、行事の雰囲気をもりあげるためだった。

 ところがこれを見て、自分たちにたいする攻撃準備と勘違いした関保全は大いに憤慨した。そして、部隊の参謀長の職責で救国軍隊員の教育と統一戦線運動を担当していた遊撃隊工作員の金銀植(キムウンシク)と洪海一(ホンヘイル)、元弘権(ウォンホングォン)など数人の朝鮮人を銃殺してしまった。ことわざにあるとおり、「行く棍棒に返るきぬた棒」のような逆襲であった。

 その後、戦いを放棄した関保全の部隊は、三々五々。敵の統治区域へ散りはじめた。汪清部隊は、関部隊の投降防止という名目で、数回にわたって彼らの武装を解除した。そればかりか、武装解除に応じない投降兵数人を殺害さえした。

 この事件が発端となって、朝鮮の共産主義者にたいする関保全部隊の血なまぐさい報復がはじまったのである。彼らは、共産主義運動に加担していると思われる朝鮮青年は見つけしだい捕えて銃殺した。組織されて数か月しかたっていない汪清遊撃隊は反日部隊に包囲され、多くの犠牲者を出した。

 反日部隊との関係で露呈したこのような未熟さと無分別は、朝中関係を急激に悪化させ、朝鮮革命をぬきさしならぬ泥沼に追いこんだのである。

 参会者たちは、反日部隊との関係を破綻させながらも、その誤りの重大さを悟らず、報復をうんぬんする汪清遊撃隊の指揮官をするどく批判した。そして長時間の論議の末に、救国軍との活動で遵守すべき原則と行動準則を再確認し、それにたいする共通の理解に到達した。

 つぎに論議されたのは、救国軍を満州に踏みとどまらせ、抗日戦をつづけるようにさせる方途を探し出すことだった。

 救国軍は当時、数万に達する兵力を擁していたが、日本軍を相手にして戦う力はないと考えていた。彼らは日本人が流布している「天下無敵」説を真に受けて、この世に日本に対抗できる力はなく、日本軍と対戦できる軍隊もないと見て、戦いをほとんど放棄していた。彼らの頭にあるものといえば、日本軍に殺されたり捕虜になったりすることなく、まだ戦火のおよんでいない山海関の向こう側へ安全に逃れる方策を考えだすことだけだった。

 日本軍は間島地方で、王徳林部隊に攻撃のほこ先を向けていた。日本軍の王徳林部隊にたいする攻撃が開始されれば、羅子溝が敵の手中に入るのは時間の問題である。

 参会者は、なんとしても救国軍と共同で羅子溝を守り抜こうと決意した。そのためには、王徳林を説得して、ソ連への逃走を思いとどまらせなければならなかった。救国軍は、ソ連領を通って中国本土へ入ろうともくろんでいた。反日部隊の頭領や兵士のあいだで、ソ満国境を越えるのはおしとどめることのできない一つの傾向となっていた。数万の兵力を擁していた李杜や馬占山もソ連をへて中国本土へ逃走した。救国軍の逃走を防ぐ唯一の道は、日本軍との戦闘でめざましい戦果をあげ、彼らの頭から「無敵皇軍」の幻想と恐怖心を一掃することであった。

 参会者のうちで、王徳林を説得できる適任者は周保中だった。彼は、コミンテルンの委任で王徳林の顧問を勤めていた。

 わたしは周保中に、王徳林を説き伏せて、なんとしても退却を中止させ、遊撃隊との連合戦線に応じるよう努力することを勧告した。

 「われわれは、東満州に居住する朝鮮人を土台にして、長期の遊撃戦を展開することができる。問題は救国軍だが、君があらゆる手段を講じて王徳林を説き伏せ、満州に残って最後の一人まで抗戦をつづけるようにするのだ。彼らがソ連へ行くというのは、シベリアで社会主義革命をするためではなく、ソ連領をへて本土に逃走するためだ」

 周保中は、むずかしい宿題だといってかぶりを振った。

 「君たちはまだ内幕を知らないだろうが、救国軍というのは実際のところ臆病者の集団なんだ。日本軍の飛行機が飛んできてビラをまいてもブルブル震えて逃げ出す意気地なしどもだ。だから、戦闘などまったくおぼつかない。あんな卑怯な連中ははじめてだ。救国軍と連合して日本軍に対抗するというのは妄想にひとしい」

 周保中と同じように連合不可能説を主張する人は少なくなかった。こうして意見が対立し、不可能論を固執する人たちに批判が加えられた。あのころは、誰もが英雄であり、天才であり、指導者であった。救国軍兵士工作委員会というのは、各地で地方工作にあたっている人たちで構成された臨時の組織だったので、これといった指導者がいなかった。

 だが、会議の議長はわたしがつとめ、会議はそれなりに議事を進めた。わたしが議長役をつとめたのは、地位が高かったからではなく、救国軍工作では金日成が長老格だからといって、中国の同志たちがわたしを推したためである。

 これが、羅子溝会議と呼ばれる会議であった。救国軍兵士工作委員会としては最後の会議である。そのあと兵士工作委員会は解散した。

 羅子溝会議の決定で、わたしと李光、陳翰章と周保中、胡択民は、王徳林部隊、呉義成部隊、柴世栄部隊にたいする工作を分担して受け持つことになった。呉義成と柴世栄は、いずれも王徳林の部下である。

 やがて、呉義成部隊へ行った陳翰章から通報があった。呉義成が、羅子溝会議の方針に応ずると約束したという楽観的な知らせだった。

 わたしが王徳林部隊にたいする工作を進めていたとき、日本軍が羅子溝一帯へ侵攻してきた。彼らは、われわれの主力部隊と王徳林部隊との連合戦線が成立するのを恐れて大兵力を動員し、急速度で攻撃を加えてきた。そのとき王徳林は、戦おうともせず羅子溝から逃走した。数千数万の大兵力が一陣の風に吹きまくられる枯葉のように、日本軍の弾幕を避けソ満国境へ向けて退却した。

 わずか数十人の遊撃隊の力で羅子溝を守り抜くのはとうてい不可能であった。そのため、われわれも救国軍とともに東寧県方面へ後退した。東寧県まで追っていってでも、救国軍を立ちもどらせるためである。少数の人員で大兵力と激戦を交えながら後退するので、われわれの苦労は並大抵ではなかった。旧暦11月の厳寒のことで、反日兵士のなかに凍死する者が少なくなかった。

 わたしは救国軍のあとを追いながら、王徳林を懸命に説得した。あのとき、彼がわたしのいうとおりにしたなら、共同戦線を張って東北地方で抗日武装闘争を成功裏に展開することができたであろう。だが、王徳林は、わたしの勧告を聞き入れず、とうとうソ連領を経由して中国本土へ行ってしまった。

 われわれは王徳林との交渉を断念し、コースを変えて最終目的地の汪清地区へ向かった。羅子溝から数十里を歩き通し、ソ満国境の見えるところまで行って、むなしく引き返さなければならないわたしの心は暗澹としていた。数万に達する救国軍ですらあえて日本軍に対抗できず逃走しているというのに、18人しか残っていないわれわれの部隊は、この冬をどう越したものだろうか。この苦境をどう乗り切ったらよいのだろうか。18人という人数は、日本人がよくいう「滄海の一粟」にひとしい微々たるものだった。

 40人の部隊が18人に減ったのは、さまざまな事情があってのことである。戦死した者もおり、病気にかかって脱落した者もいた。また、体が弱くて帰した者もおり、なかには戦いきれないという本人の訴えで帰した者もあった。とくに、独立軍出身の年配の隊員と一部の農村青年は、なおさらたえぬくことができなかった。

 最後まで隊伍に残ったのは、吉林時代から共青組織生活をした同志であった。その18人を率いて死線を越え、汪清に向かうときわたしが新たに悟ったのは、人間は組織生活を通して鍛えられてこそ、いかに最悪の状態に陥っても自己の信念を最後まで守り、革命家としての道義的責務を果たすことができるということである。

 われわれは汪清への途上で呉義成の伝令兵と会い、彼と行動をともにした。伝令兵の名は孟昭明といった。

 わたしの隊員は最初、身分を確かめようと彼を取り調べた。日本のスパイが四方で暗躍しているときだったので、われわれは得体の知れない人間を非常に警戒した。孟昭明は、救国軍兵士工作委員会と反日部隊との協約によって発給されていた反日会員証を持っていた。それは遊撃隊員と反日部隊の兵士たちに発給されたもので、これを持っている者は双方が保護し援助することになっていた。孟昭明は、反日会員証のほかに王徳林にあてた呉義成の支援要請書も持っていた。こうしてわれわれは、彼が呉義成の伝令兵であることを完全に信じることができた。

 孟昭明が天橋嶺へ行くのは、それだけの理由があった。

 「じつは、この手紙を伝達しようと東寧まで行ったのですが、王徳林が逃走したあとだったので無駄足になりました。それで呉義成のところに引き返すと彼も老母猪河に1個大隊を残して紅石拉子方面へ撤収したあとでした。ところが、老母猪河に残したというその1個大隊すら小三岔口(天橋嶺)方面へ行ってしまったというのです。それで、いまその大隊を追いかけている最中なのです。たとえ、死のうとも抗日はしなければならないですからね」

 孟昭明の抗日精神は徹底していた。彼は、東北3省には時局を平定できる人物がいないと慨嘆し、「隊長さんは、われわれが勝つと思いますか、それとも日本が勝つと思いますか」と聞いた。

 「われわれが勝つと思います。西洋のある作家は、人間は敗北のためでなく勝利のために生まれたのたといっています。あなたもわたしも、勝利のためにこの雪をかき分けて進んでいるのではありませんか」

 わたしは孟昭明と一獅ノ、小三岔口方面へ行ったというその大隊長を探そうと決心した。われわれはその1個大隊を連合戦線の命綱とし、是が非でも彼らを説き伏せて戦いを放棄させないようにしようと考えた。孟昭明は汪清まで行き、われわれとともに腰営口防衛戦闘にも参加した。

 彼はもっとも困難なときにわれわれを助け、われわれと生死をともにした忘れられない道づれである。1974年に彼はわたしに手紙を寄せ、羅子溝台地でのわれわれの出会いを感慨深く思い出させてくれた。

 わたしはその手紙を見て、かつて困難に際会して友誼をあたためた呉義成の伝令兵が生きており、敦化合作社で農業に従事していることを知った。

 われわれがもっとも苦しい体験をしたのは、老黒山へ行ったときであると思う。老黒山までは、それでも救国軍が一緒だったので、いろいろと苦しい目にあいながらも別に孤独な思いはしなかった。だが、彼らがソ連へ逃走してしまったあと、広漠とした台地に取り残されたのはわれわれ18人だけだった。王徳林が越境するとき残していった一部の隊員まで、周保中が引き連れてよそへ行ってしまったので、われわれはまったく孤立無援の状態に陥った。

 空からは飛行機が投降を促すビラをまき散らし、地上では「討伐」に動員された日本軍が四方からわれわれを包囲した。そのうえ朝鮮の高山地帯でもまれな酷寒と腰まではまりこむ大雪のため、隊伍の前進は難渋した。その日その日になんとか都合をつけ、かろうじて蓄えた食糧も底をついた。5月に出発するとき小沙河で着た新しい軍服も裂け膚がのぞく有様であった。

 そんなとき、われわれは羅子溝の台地で、馬という姓を名乗る親切な老人に出あって九死に一生を得た。われわれが馬老人と出あったのは、旧暦12月の大晦日のことである。思想から見れば無政見、無所属であったが、国民党の政治にたいしては、けしからぬと唾を吐きかける老人だった。だからといって、共産主義に共鳴しているわけでもなかった。いわば厭世家であった。だが、他人の苦しみを見ては助けずにはいられない善良で人情深い人間だった。

 馬老人には、家が2棟あった。われわれが入ったのは手前の棟で、向かいの棟には救国軍の敗残兵が陣取っていた。彼らの大部分は反ソ感情が強く、ソ連が共産国だというので越境に踏み切れず、満州にいた者たちである。敗残兵のなかには、呉義成が老母猪河に残していった郭大隊長の部下もいた。

 孟昭明は一息入れるいとまもなく、救国軍の様子をうかがってくるといって、敗残兵のいる向かいの棟へ行った。わたしは、救国軍の兵士がわれわれと共同行動をとる意向があるかどうかを打診してみるように、と彼に頼んだ。彼は、郭大隊長の部下のなかに知り合いがたくさんいるから、ひとまず自分が彼らの腹を探ってみて、脈があったら金隊長が行ってじかに交渉してみてはどうかといった。

 ところが、敗残兵に会ってもどってきた孟昭明は肩を落とし、憂うつな表情でいうのだった。

 「連合戦線どころか、なんの役にも立たない連中ですよ。彼らはもう土匪になる相談をしているんです」

 馬老人も、彼らがわれわれの武装解除を企んでいると耳打ちしてくれた。われわれの銃を奪って仲間を増やす計画だというのである。

 こういう事態に直面して、われわれは自分自身の運命と革命の前途について深く考えざるをえなくなった。周辺に数千数万の反日部隊がいたときは、日本軍と戦えばすぐにでも勝てそうな気がしたが、彼らがみな逃走したうえ、われわれの隊伍も18人しか残っていないいまとなっては、途方に暮れるほかなかった。汪清へ行くとしても十数挺の銃しかないのだから、それではなにもできるはずがなかった。延吉にある武器というのも、数十挺の銃にすぎなかった。かててくわえて、あの無法な敗残兵までわれわれの武器を奪おうとしているのだから、いったいどうすればよいのだろうか。名も知れぬ羅子溝の台地まで来て、汪清へ帰る道もおぼつかなくなった。いかにすべきか。わたしは自分自身に問い返してみた。武器を投げ出して地下活動でもするか、さもなければ苦労を覚悟して武装闘争をつづけるべきか。

 こういう動揺がなかったといえば、真実をねじまげ、歴史をねつ造することになるだろう。わたしはあのとき、わたしだけでなく集団内に動揺が起きていたことを隠さないし、また隠す必要もない。

 鋼鉄も酸化すれば変化をきたすものである。まして、人間は鋼鉄でもなく、弱くて変わりやすい存在なのである。だが、人間は鋼鉄よりはるかに強いともいえる。なぜなら、鋼鉄は自分の力で酸化過程を防げないが、人間は自分の思想に起こる変化をみずから統制し調整する能力をもっているからだ。問題は動揺にあるのでなく、その動揺をどう克服するかにある。人間を万物の霊長というのは、人間が自分自身を調整できる特有の能力をもっているからであり、革命家を偉大だというのも、彼らが無から有をつくりだし、逆境を順境に変えることのできる剛毅かつ創造的で犠牲的な人間であるからである。

 わたしはそのとき、いかにすべきか方向をつかむことができなかった。火が降っても槍が降っても武装闘争はつづけなくてはならないのだが、残っている隊員はみな20歳にもみたないうら若い青年たちである。わたし自身にしても、まだ経験が浅いといえた。吉林の巷でビラをつくったり演説をして歩きまわったころは誰もが英雄豪傑気取りだったが、この場にのぞんでは誰もが初心者にすぎなかった。地下工作のときはいろいろと手立てがあったが、数万の友軍を失い、敗残兵しかいない無人の境界で18人の行路を開くというのは、われわれの力に余る難問題であった。

 向かいの家の敗残兵は土匪になる謀議をこらしているが、われわれは絶対にそんなことはできなかった。組織化された大衆のいるところへ行けば、なにか方策が生まれるだろうが、朝鮮人の村落は80キロほども離れているという。しかも、そのあいだの谷間という谷間には、日本軍がたむろしているとのことだった。

 革命とは、こんなに困難なものだろうか。2、3年もすれば容易に決着がつくだろうと思った革命が、こんなにも険しい断崖絶壁のきわに追いつめられてしまったというのか。安図でラッパを吹き鳴らし意気揚々と出発したわれわれの隊伍が、荒涼としたこの台地で前進を止めてしまうのかという思いもした。

 この部隊を誕生させるために、寝食を忘れて奮闘した日びはどれほどだったろうか。この部隊のために母の死に目にもあえず、愛する弟たちとも生き別れをしたわたしではなかったか。車光秀も、崔昌傑も、この隊伍のために青春をささげたではないか。車光秀は、敦化へ偵察に行って戦死している。

 歩んできた道を振り返り、歩むべき道をまさぐるわたしの心は、地球全体がのしかかってきたように重かった。

 わたしが焚き口の前に座って複雑な思いにとらわれていると、馬老人がわたしのそばに来て静かに聞いた。

 「あんたが引率者かな?」

 「そうです」

 「なんだ、隊長ともあろう人が涙を見せるとは」

 「吹雪のなかを行軍してきたせいでしょう」

 わたしはこう答えて、その場をつくろった。だが、実際のところ、吹雪のせいでなく、わたしはこれからのことを思って泣いたのである。

 老人はしばらくのあいだわたしを見ながら、まばらな長いあごひげをなでおろしていた。

 「向かいの家にいる連中のことで心配しているようじゃが、あまり心配せんでもいい。今晩わしがよいところへ案内するから、そこで何日かゆっくり休むことだ。20日ほど休みながら勉強もし栄養補給もすれば、諸葛孔明より頭がさえてくるじゃろうて」

 真夜中、馬老人は正体なく眠りこけていたわれわれを揺すり起こして、正月用につくった肉饅頭をふるまった。そして、20キロほど離れた山小屋へわれわれを案内した。山小屋は、空からも見えないほどうっそうとした森林の奥にあった。

 山小屋といっても、むしろござをやっと1枚敷ける程度の広さで、小さな納屋が一つついているだけだった。納屋には、馬老人が罠を仕掛けてとったノロや兎の肉に小麦、トウモロコシなどの穀物やひき臼もあった。

 「部屋は狭いが、わらを敷いてすごせば結構、急場はしのげる。ここに引きこもってせいぜい養生することじゃ。外部の動きはわしが数日おきに来て知らせてやる。あんたらがここを発つときは、道案内もわしが引き受けてやろう」

 老人がこういって山小屋の焚き口に火をたきつけてくれたとき、われわれは、あまりのありがたさに喉をつまらせて涙ぐんだ。人里離れたさびしい台地で馬老人のような奇特な恩人に出あえたのは、望外の幸運であった。隊員たちは「神様」の御照覧にあずかったのだ、と冗談をいった。

 われわれは山小屋で半月余り休養をとりながら、学習をしたりノロ狩りをしたりしてすごした。

 山小屋には、馬老人の本がたくさんあった。小説もあれば政治図書もあり、偉人伝などもあった。馬老人は奥深い山のなかで狩猟生活をしていたが、なかなかの学識家だった。みんなが順を争って回し読みをするので、どの本もみな毛羽だってぼろぼろになってしまった。

 本を読んだあとは、必ず読後感を発表したり、一定のテーマを設けて論争し合ったりした。誰もがマルクスやレーニンの命題を引き合いに出して、自分の主張を論証しようと熱を上げた。マルクス主義創始者の命題や、有名な作家の名文句をそらんじるのが当世の流行であった。青年たちは、孫文さえ槍玉にあげるほどだった。誰かを崇拝するのも見栄だったが、もてはやされる偉人を批判するのも、また一つの見栄だったのである。

 あの時節は、誰もが自分をひけらかそうとした。誰もがひとかどの人物であり、英雄豪傑であった。

 この山小屋で、われわれは今後の行動方向についても真剣に論議した。解散して家に帰るか、さもなければ汪清の朝鮮人村へ行き、そこの別働隊を集めて部隊を拡大し、戦いをつづけるべきなのか。

 誰もが戦いをつづけようと決意したが、海竜で入隊した1人だけが、体が弱くてわれわれと一緒に武装闘争をつづけられそうにないと本音を吐いた。その隊員が遊撃闘争にたえられるほど丈夫でないのは確かだった。

 わたしは、彼のそういう告白をとがめたり、問題視しようとはしなかった。

 「ついていけなければ、ここであっさり行けないといったほうがよい。革命は無理にやれるものではない。強権や脅迫ではやれないのが革命なのだ。だから去りたければ去り、戦いをつづけたければ残って戦うべきだ」

 わたしは部隊の責任を負わされた指揮官として、自分の見解をこう表明した。そして、各自がよく考えて決心するよう余裕を与えた。

 数日後、わたしは再び全員を集め、各人の決心を聞いてみた。一行のうち16人は、たとえ死のうとも革命をつづけると誓った。

 残りの2人は除隊させてほしいといった。

 海竜から来た隊員は、先日と同様、体が弱くて武装闘争はできないから、家に帰らせてほしいといった。そして、だからといって卑怯者扱いにしないでほしいとつけ加えた。体が弱いということなので、われわれとしては彼の要請を無視することができなかった。

 わたしは彼に、われわれとともに行動するのがつらければ家へ帰れ、それをとやかくはいわない、だが、そんな格好では行けないだろう、服が破れて浮浪者のような姿なのに、そんなぶざまな格好で親もとに帰るわけにはいかないではないか、帰るとしても朝鮮人村へ行き、旅費の工面をつけ、服も着替えて帰るように、と勧めた。

 他の一人は、ソ連へ行って勉強をしたいといった。

 「推薦もうけずにソ連へ行ったところで、勉強をさせてくれるか労働をさせるかわかったものではない。汪清でしばらく活動をして、向こうと連絡がついたら、組織の推薦をうけて行くほうがよくはないか」

 2人はわたしの勧めにうなずいて、そのとおりにするといった。

 その後、われわれは、馬老人に連れられて無事、羅子溝の台地を発った。老人は、汪清県転角楼までわれわれの道案内をしてくれた。ほんとうに親切で世話好きで、人情深い老人であった。

 それから数年後、われわれが根拠地の内外で敵にあいつぐ打撃を加えた遊撃闘争の高揚期に、わたしは心づくしの布地と食糧を準備して羅子溝の台地を訪ねていった。だが、老人はすでにこの世の人ではなかった。

 いまもわたしの記憶には、馬老人の面影が60年前の姿そのままにありありと残っている。いつぞや、わたしは作家たちに、その老人をモデルにして歌劇か演劇をつくってみるようにといったことがある。馬老人の伝説のような物語は、歌劇や演劇のりっぱな題材になるであろう。

 あの冬、われわれが羅子溝の奥地で餓死も凍死もせず、銃弾を浴びて死ぬようなこともなかったのは、奇跡中の奇跡だったといえる。わたしはいまでも、あの試練のなかからわれわれを立ち上がらせた力がなんであり、われわれを敗北者や落伍者ではなく、勝利者にして抗日の旗をかかげさせた力がなんであったかを自問してみるときがある。そしてそのたびに、「それは革命にたいする責任感からだった」と誇らしく自分に言い聞かせている。この責任感がなかったとしたら、われわれは雪の吹きだまりのなかに埋もれて2度と立ち上がれなかったであろう。

 わたしはあのとき、われわれが挫けてしまえば朝鮮は蘇生できないということを肝に銘じていた。われわれが死んだとしても朝鮮を救う人間がほかにいると考えたなら、われわれは羅子溝台地の雪崩に埋もれて、2度と立ち上がれなかったであろう。



 


inserted by FC2 system