金日成主席『回顧録 世紀とともに』

7 小沙河の秋


 われわれは両江口に帰ると、小沙河で南満州遠征に参加しなかった残留人員まで集めて、遊撃隊創建以来の半年にわたる活動を総括した。主な内容はもちろん南満州遠征にかかわることであった。遊撃隊員は、われわれの武装隊伍が半年のあいだに飛躍的な成長を遂げ、その過程で遊撃戦によっても十分日帝を打ち破る自信がついたことを一致して認めた。

 わたしはこの総括会議で、遊撃闘争を新たな段階に発展させるために、部隊につぎのようないくつかの課題を示した。

 それは第1に、反日人民遊撃隊の根拠地を汪清地区に移すこと、第2に、中国人抗日救国軍にたいする工作をいっそう強めること、第3に、東満州一帯で急速に拡大されはじめた遊撃闘争を正しく指導し、革命根拠地の創設を急ぎ、それをしっかり守ることであった。

 この3つの課題のうち、もっとも深刻に論議されたのは、反日人民遊撃隊の活動根拠地を汪清に移す問題である。この問題をめぐって、安図、延吉、和竜から来た軍事・政治幹部と数日にわたって討議を重ねた。

 安図の同志たちは、活動拠点を汪清へ移すことに反対した。彼らは、安図で創建された遊撃隊は安図にとどまるべきであって、汪清へ行く必要はない、遊撃隊が汪清へ移動してしまえば安図はどうするのか、と難色を示した。狭い地域観念から脱皮していない素朴で片意地な考え方であった。

 反面、延吉と和竜の同志たちは、遊撃隊の始祖であり原種場である安図部隊が、朝鮮人の集結している間島の中心に移動するのは、戦略的見地からしても、地域的条件からしても当然であり、時宜にかなっていると主張した。彼らは、戦闘力がもっとも強い安図部隊が汪清へ移れば、延吉、琿春、和竜など隣接県の遊撃部隊の活動にも大きな転換がもたらされるであろうと確言した。

 汪清が地域的に見て、「格好の土地」であることは安図の同志たちも認めていた。汪清はまず、国内との距離が近くて好都合だった。対岸の六邑地区は「吉林の風」がかなり吹きこんだ土地なので、将来、遊撃闘争に人的および物的支援を与える有力な策源地になりうる。したがって、六邑地区を足場にして国内の革命を高揚させることが可能である。汪清一帯の大衆はすぐれた闘争力と革命性をもっている。それは、独立軍の武装闘争史において絶頂をなす青山里戦闘や鳳梧谷戦闘のさいの支援活動で遺憾なく発揮されている。汪清は北路軍政署の活動基地であり、ここで活動した数百人の独立軍と武官学校の学生はみな、この地方の住民がつくった五穀で食糧をまかなっていた。

 しかし、汪清の土地柄がよいからといって、むやみにそこへ移ることはできなかった。それでわれわれは、安図県に根拠地を設けてわれわれ自身の力で遊撃闘争を開拓すべきか、それとも救国軍とともに公然活動をつづけながら、徐々に朝鮮人部隊を増やしていくべきか、という2つの案をめぐって連日討議を重ねた。

 わたしは、救国軍との共同行動のために活動上、多少の制約をうけるとしても、血潮をもってかちとった反日人民遊撃隊の公然化をいっそう確固たるものにし、在満朝鮮民族を「第2の日本人」とみなす中国の兄弟たちに、わが民族は日帝の手先でも尖兵でもなく、彼らが親日的だとみなしている朝鮮共産主義者の武装部隊は、徹底した反日勢力であることを示すことが重要だと考えた。

 こうしてわれわれは、一定の期間、救国軍とともに活動しながら遊撃隊の公然化を維持し、他方では実地の闘争を通じてその影響力を拡大しつつ武装隊伍の増強をはかり、それが大きく育ってから互いに合流するという案を採択した。

 この案を確定したのち、工作員を選抜して東満州の各地方へ送りこんだ。延吉、和竜、琿春、そして羅子溝の救国軍部隊にも有能な工作員を何人も派遣した。汪清には、別働隊をもう1組編成して送りこんだ。金日竜は、安図に残留させた。こうして、百数十人に達した部隊はふたたび40人程度に減少した。

 このように、われわれが部隊の人員を大勢割いて他の県にも頻繁に送るようになると、東満州特委の幹部たちも満足した。彼らは、われわれの部隊が基本部隊なのだから、しっかりした人間を選んで他の地方の遊撃部隊を補強してほしい、と再三要請していた。

 われわれの部隊が、小沙河を発って南満州遠征の途についてから4か月という時日がすぎた。両江口の山河には、日一日と秋の色が深まっていった。朝起きると落ち葉が積もり、その上に霜が降りて大陸のきびしい冬の到来を予告した。

 季節が変わり気温が下がってくると、病床の母のことが気になった。しかし案ずるだけで、わたしには小沙河へ行ってくるゆとりがなかった。土器店谷へ行って母に会いたい気持ちは山々だったが、先に延ばすほかなかった。

 北満州へ出発する日が迫ったある日、車光秀はどこで手に入れたのか薬の包みを出して、土器店谷へ行ってくるようにと勧めた。わたしがためらうと、彼は、金成柱らしくないとたしなめ、母親のことも考えないような隊長なら、金輪際相手にしないといった。

 わたしは、小沙河へ向かった。薬を携えていきながら心配になったのは、またつまらぬことに気をつかうといって、母に叱られるのではなかろうかということだった。けれども、車光秀が持たせてくれた薬だといえば、母も喜んでくれるだろうとわたしは思い直した。

 わたしが小沙河にいたときに買っていった一斗の粟は、すでになくなっているはずだった。母は賃仕事もできない状態だから、いまごろはどうして生計を立てているのだろうか、母は、生きている人の口にクモの巣は張らないから心配することはない、この世に母親と弟たちはいなかったとして家のことは考えないように、とわたしをきびしく戒めたが、産みの親や弟を忘れ、家のことを考えない人間が果たしているだろうか。

 重くもない薬の包みであったが、それを携えていくわたしの歩みは、なぜか小沙河に近づくにつれてますます重くなった。もしや母の病状が悪化しているのではなかろうか、という不安もあったが、なによりも気になったのは、梁司令との合作を完全に成功させずに南満州から帰ってきたことである。母が知ったら、たいへん残念がるだろうと思った。病床に伏したままの母が、わたしに南満州へ行くよう再三再四促したのは、息子が父の親友と合作しに行くのがうれしかったからに違いない。母は、若い者が主義にこだわって独立運動の先輩に背を向ける行為をよしとしなかった。

 いちばん気がかりなのは、母の病状であった。わたしが前に家を発つときは、うすい重湯さえ喉を通せなかった。その間いくらかでも持ち直しているだろうか、それとも重態に陥って苦しんでいるのではなかろうか。わたしはなんとも推測しがたかった。

 わたしは道を急ぎながらも、胸を締めつけるような不安を振り払うことができなかった。土器店谷の見なれた一本橋を渡るときも、そんな思いが頭から離れなかった。

 わたしが一本橋を渡ると、いつも母は不思議なくらいわたしに気づいて、戸を開けて迎えてくれたものである。母は、わが子たちの足音を聞き分ける特別な感覚をもっているようだった。ところが、その日にかぎって、戸は開かれなかった、煙突に夕餉の煙も立たず、薪や鉢をもって勝手口を出入りする弟の姿も見えなかった。

 わたしは心臓が一瞬凍りつくような不安と緊張感に襲われ、やっとの思いで取っ手を引いた。そして戸を開けた途端、わたしは土縁にへなへなとくずおれてしまった。母の寝床は跡形もなかった。遅かったか、という後悔が稲妻のように頭をよぎったとき、どこからか音もなく哲柱があらわれて、わたしの肩にしがみついた。

 「兄さん、どうしていまごろ来たんだ」

 弟は全身をふるわせ、涙に濡れた顔をわたしの胸にこすりつけた。そして、子どものように泣きじゃくった。そこへ末弟の英柱が飛びこんできて、わたしにすがりついた。

 わたしは敷石の上に薬包みを落とし、涙にくれる2人の弟をひしと抱きしめた。2人の泣き声がすべてを語っていたので、いまさら母の安否を問うまでもなかった。わたしの不在中にこんな不幸がやってくるとは…

 いまわのきわに、わが子の顔を見つめたい母親の最後の願いさえ、わたしの母には許されなかったのだろうか。貧困のなかに生まれ、一生を貧しく生きてきた母! 受難の祖国の悲運を思い、夫との死別にも唇を噛んで涙をこらえた母、わが身を犠牲にし、生涯、人の幸せのために全身全霊をささげて逝ったわたしの母!

 わが子が母への情におぼれて大事を損ねるのではないかと、いつも心配していた母だったからこそ、革命を志す息子の足かせになるまいと、急いで目をつぶったのではなかろうか。

 わたしはこの前、母が最後にわたしを戒めたときにつかんでいた門柱をなでながら、たとえあのときよりきびしく叱責されるとしても、この戸の前で母をいま一度見ることができたら、どんなによいだろうかと思った。

 「哲柱、お母さんがなにか言い残したことはなかったか?」

 わたしがこうたずねたとき、しおり戸を開けて庭へ入ってきた金という婦人が、哲柱に代わって答えた。

 「お母さんはわたしに、こんなことをいい残しましたよ。『…わたしが死んだあと、うちの成柱が来たら、わたしに代わってよろしく頼みます。まだ日帝がおり、朝鮮の独立を遂げずに来たら、わたしの墓を移してはいけないといってください。いや、追い返してください。でも、わが子を自慢するのではないけれど、成柱は戦いをやめて帰ってくるようなことはしないでしょう』こういって、わたしに戸を開けてくれというのですよ。そして、あの一本橋のほうをずっと見ていました」

 婦人の言葉は、遠い「天国」から聞こえてくる声のようにかすかに聞こえた。けれども、わたしはその一言一言にこめられた深くも悲痛な意味を一つ残らずはっきり理解することができた。

 わたしは弟たちを両腕に抱いたまま、一本橋のほうに目を向けた。

 そして、わが子を思う母の気持ち、愛する息子に会えずに永眠する母の気持ちを想像してみようと努めた。しかし、想像の戸口にも立つ前に、不意に涙がせきを切ってこぼれ落ちた。

 しばらく泣いて顔を上げると、先ほどの婦人が涙にうるんだ目でわたしを見つめていた。その温和な思いやりの深いまなざしを見て、わたしは思わず母の目ではないかと錯覚するところだった。

 「おばさん、その間、母のためにほんとうに苦労をおかけしました」

 わたしは胸の裂けるような悲しみと苦しみのなかからやっと理性を取りもどし、最後まで母に付き添ってくれた婦人に礼をいった。婦人は、いっそう悲しげにすすり泣いた。

 「苦労だなんてとんでもない。わたしは、そうたびたびは来られなかったんです。わたしたちがよく面倒をみてあげられなかったので、お母さんには髪をすいてあげる人もいなかったんですよ。弟さんも革命活動で家にいつかなかったし。ある日、お母さんはわたしに、男の子のように頭を丸刈りにしてほしいというじゃありませんか。頭がかゆいといって… そう頼まれても、わたしは鋏を入れるに忍びませんでした。お母さんの髪はほんとうにふさふさとして漆のような黒髪だったでしょう。わたしが、それだけはかんべんしてもらいたいといっても、お母さんは、ぜひそうしてほしいというじゃありませんか。頭がかゆくなければ天にも昇れそうだといわれて… それで、もったいない髪の毛を…」

 婦人は話をとぎらせ、声をあげて泣いた。

 わたしは、その話は聞かせてもらわないほうがよかったと思った。その悲痛な最期の話には、はらわたがちぎれるような思いがした。一生涯、息子たちにつくしてきた母なのに、そのふところで育った子には臨終をひかえた母の髪をすいてやる孝心さえなかったというのか。

 わたしは撫松にいたころ、わたしと同じ年ごろの少年が病気の母親を背負って、南甸子から小南門通りまで汗だくになって医院を訪ねまわっていたのを目撃したことがある。そのとき、われわれはみなその少年を孝行息子だとほめたものだった。婦人の話を聞いてわたしは、ふと、あのときの汗みずくの少年の姿を思い出した。

 その少年にくらべれば、わたしは不孝者といわれても返す言葉がない。20を越すこの年まで、わたしは母のためにいったいなにをしたというのか。幼いころはそれでも、母にあたたかいオンドルに座るよう勧めたり、井戸から水を汲んでくる母の凍えた手に、息を吹きかけてあたためてやったりした。朝は、母の手助けをしようと鶏に餌をやったり、水汲みをしたりしたものである。

 しかし、革命活動をはじめてからは、母にしてやったことがなにもなかった。「下る愛はあっても、上がる愛はない」という先人の言葉は、まさに、わたしのような人間を念頭においた名言なのかも知れない。まったくそのとおりである。わたしはまだ、親の愛にまさる孝心をもって親につくした子がいたという話は聞いていない。

 「哲柱、お母さんが、おまえたちになにか言い残したことはなかったか?」

 わたしは母の遺言がほかにきっとあったに違いないと思って、哲柱に同じことをたずねた。

 弟は手の甲で目頭をぬぐいながら、かれた声で答えた。

 「兄さんをよく助けてあげるようにといってた。ぼくらが兄さんをよく助けて、兄さんのような革命家になったら、草葉の陰で目をつぶれるって…」

 母の精神力は最期の瞬間まで、ひたすら革命にそそがれていたのである。

 わたしは、その足で弟たちを連れて母の墓を訪ねた。

 楡の老木が一本立っている丘のふもとに、縦縞模様に芝を植えた母の墓があった。わたしは軍帽を取り、弟たちと並んで墓前にひざまずき、深く頭をたれた。

 (お母さん、成柱が参りました。親不孝者の息子をお許しください。南満州からやっといま、お母さんのもとへ参りました)

 わたしが心のなかでこんな言葉をつぶやいていると、哲柱がやにわに墓の芝をかき分けはじめた。

 「なにをしてるんだ」

 わたしは不審に思って弟を見すえた。

 哲柱は返事の代わりに大粒の涙をこぼしながら、わたしが両江口から持ってきた薬包みを墓土の中に埋めるのだった。

 弟の無言のしぐさが、わたしの胸中に突き上げていた悲哀を容赦なくほとばしらせた。わたしは、墓土の上にうつ伏せて長いあいだむせび泣いた。革命家から一人の平凡な人間にもどったのである。

 地上のありとあらゆるものがその墓に凝結し、この世のすべてのものが母の死という一つの悲劇に凝縮されたかのような瞬間だった。だが頭上には、果てしなく澄みきった秋空が無心に広がっていた。わたしたちの悲しみをよそに、あの空はどうしてあんなに平然を装っていられるのだろうか、という恨めしい気持ちにさえなった。

 こうして、わたしは母を亡くした。それは、亡国の年輪が22回も刻まれた1932年の陰惨な夏のことである。国が滅びなかったなら、母はもっと長生きできたことだろう。母の病は労苦の末に生じたものであり、その労苦は亡国の時運がもたらしたものであった。息子たちにつくした母の労苦は並大抵のものではなかった。母にたいするわたしの孝心が十であったとしたら、わたしにそそがれた母の愛情は幾千万をもってしても数えきれないだろう。

 わたしは地下活動のころ、4、5人の共青員とともに撫松市街で敵の包囲に陥ったことがあった。包囲網を破って県城を抜け出さなくてはならないのだが、われわれには武器がなかった。それで母に、万里河の同志のところへ行って武器を持ってきてもらえないだろうかと頼んだ。

 母はわたしの頼みを二つ返事で引き受けた。

 「大丈夫、わたしが持ってきてあげる」

 万里河へ行った母は、2挺の拳銃を持って無事に帰ってきた。母は同志たちに頼んで、引き金を引けば発射できるように弾をこめてもらった。そして、その2挺のモーゼル銃を牛肉のあばら骨の下に隠して、大胆に城門を通過した。城門の前で警官が木鉢を指して「それはなんだ」と質したが、母は平然と「牛肉ですよ」と答えた。警官は木鉢にかぶせた紙をめくってみただけで、母を通過させた。

 装弾されているうえに撃鉄が上げられている拳銃を見て、わたしはびっくりした。

 「お母さん、たいへんなことになるところでしたよ。どうして拳銃に弾をこめたんですか?」

 「わたしがそうしてくれといったのだよ。もしも木鉢を調べられたら撃ってやろうと思ってね。相手はどうせ2人か3人だろうから、かかってきたら1人でも撃ち倒して、わたしも死ぬつもりだったのだよ」

 母のこの言葉には、わたしの体験や狭い考えでは、とうていはかりがたい高潔な魂が秘められていた。それは、わが子への理解と熱烈な共感なくしては思いもおよばぬ勇気であり、真実な愛情であった。

 わたしたちが旧安図で、馬春旭の家に間借りをしていたときである。ある日、同志たちが拳銃の手入れをしているうちに暴発して、母の足に傷を負わせてしまった。まかり間違えば命とりになりかねない銃創だった。

 母はその日から、出歩くことができなかった。誰かが来てどうしたのかとたずねると、朝方、とぎ水を捨てに行って転んで足をくじいたのだと答えた。傷口を見られないようにふとんをかぶって横になり、ひそかに亨権叔父の治療をうけた。それでも恨みごとをいったり暴発した人に気がねをさせるようなそぶりはまったく見せなかった。

 暴発事故を起こした当人は罪ほろぼしをしようと、自殺をはかった。

 それを耳にした母はひどく怒り、「そんなばかな真似をするものではない」とたしなめた。

 「不手際でそうなったのだし、それでも幸いだった。男が、それくらいのことで自殺だなんて。そんなことでくよくよするより、秘密をしっかり守ることを考えなさい。このことが漏れたらおまえたちも、このうちもたいへんなことになる。それにおまえたちは大事を遂げられなくなるんだよ」

 母は自分の足の銃創よりも、われわれに武器のあることが警察に知られるのを恐れた。

 馬春旭の家でも、暴発事故についていっさい口外しなかった。

 母のいちばんよい点は、わたしの同志をわが子のように愛したことであった。母はわたしの同志を、わたしとまったく同じように扱った。彼らが家に来ると、運動費も出してやった。それは、裁縫や洗濯などの賃仕事で得た金だった。そのころ、木材所の人たちや朝鮮人参を採取する季節労働者が木綿地を持ってきて、母に服の仕立てをよく頼んだものである。母は、彼らの服をつくって1日に7、80銭ほどの収入を得ていた。ときには、1円の収入を得ることもあった。

 母は苦しい生活をしながらも、金を使うときは出し惜しみをしなかった。食糧代と、ときおり遠くへ出かけるときの旅費、それに家賃のほかは稼いだ金をとっておこうとしなかった。同志たちが来ると麺や豚肉を何斤か買ってきて、餃子やすいとんをつくって食べさせたり、運動費の足しにするようにと蓄えた金をそっくりはたきだすのだった。

 同志たちが「オモニの暮らしもゆとりがないというのに、有り金を全部はたいてしまったら、あとのやりくりはどうするんですか」と心配すると、母は「人間はお金がなくて生きられないのでなくて、寿命がたりなくて生きられないのよ」と答えた。

 母は同志たちが何か月も寝泊まりしても、決していやな顔をせず、いつもわが子のように世話をやいた。そのため、満州で青年運動に従事し、家に何日か泊まったことのある若者はみな、わたしの母を「成柱のオモニ」といわず「うちのオモニ」と呼んでいた。

 母は一生、革命家の食事の支度に追われて亡くなったといっても過言ではない。父の存命中も愛国者の世話で息抜きの外出もできず、せわしい日びを送った母である。臨江にいたころは、毎晩のようにご飯を炊いたものだった。みんなが床について寝ようとすると、父の友人がどっと押しかけてきて、のんびり寝ていられる時節か、と冗談口をたたいては奥の間に座りこむのである。すると母は、また起きて食事の支度をしなければならなかった。

 母は革命家の世話をやくかたわら、自分も革命活動に参加した。母が革命活動をはじめたのは、撫松にいたころである。母はそのとき、南満女子教育連合会の白山地区会に入り、女性と子どもたちの啓蒙に努めた。父が亡くなってからは婦女会の活動もはじめた。

 母が革命の協力者から直接の担当者に育ったのは、父やわたしの影響もあったが、李寛麟の影響もまた大きかったといえる。李寛麟は、わたしの家に来ているあいだに、母を南満女子教育連合会の活動に引き入れた。

 母が純然たる母性愛の持ち主にとどまっていたなら、わたしはこのように熱い情愛をもって母を回顧することができなかったであろう。母がわたしにそそいだ愛情は、たんなる母性愛ではなかった。それは、息子をわが子と思う前に国の息子と思い、父母に孝養をつくす前に国に忠誠をつくすべきことを息子たちに教えた革命的な真実の愛情であった。母の生涯は、わたしの心に真の人生観、革命観を植えつけてくれた教科書ともいえるものである。

 父はわたしに、代をついでたたかっても必ず国の独立をなし遂げなければならない、という不屈の革命精神を植えつけてくれた師であったが、母は、いったん革命を志した人間は情におぼれたり脇見をすることなく、最後まで目的ひとすじに突き進まなければならないという理を教えてくれたありがたい先生であった。

 親子の愛情も盲目的なものであれば、それは真の愛情とはいえない。愛情を貫く精神が真実で高潔であってこそ、その愛情は永遠かつ神聖なものになりうる。亡国のあの当時、母の愛情とわたしの孝心の底に流れていたのは愛国心であった。その愛国心のために、母は息子に孝道を求める母性としての当然の権利さえ犠牲にしたのである。

 わたしは、母の墓に碑を立てることもできずに土器店谷を発った。墓場に母の名を刻んだ墓碑が立てられたのは解放後のことであった。安図県の人たちが母を追慕して碑石を立て、そこにわたしたち3人兄弟の名を刻んだのである。

 遺言どおり、祖国が解放されたのちになって、母の墓は父の墓と一緒に万景台に移された。

 わたしは祖国に凱旋したあとも、しばらくのあいだは異国の地に眠る父母の墓のことを考えるいとまがなかった。 時局が複雑多端をきわめ、なすべきことがあまりにも多かったからである。われわれが青春時代をすごした満州の山野には、わたしの父母だけでなく、わたしとともに革命の炎の海を渡って倒れた戦友たちの遺骸が数知れず葬られていた。それに、彼らが残していった遺児もいた。 戦友の遺骸を祖国の土へ移し、彼らが託した遺児を解放された祖国に連れもどすまでは、自分の父母の墳墓を移せないというのがわたしの決心であった。

 そんなときに、張戊Mが訪ねてきて、ご両親の墳墓を故郷に移すべきだとわたしを説得した。そして、墓を移すのは自分にまかせ、将軍は万景台でりっぱな墓所を選んでおくように、というのであった。満州時代の縁故者で、わたしの父母の墓を知っているのは張戊M1人しかいなかった。彼は、その墓を移すため人知れぬ苦労をした。

 わたしが武装闘争を展開しているとき、敵はわたしの父母の墓を荒らそうと執拗に探してまわった。だが撫松と安図の人たちは、解放の日まで彼らの目をあざむいて父と母の墳墓を守り、誠意をつくして管理してくれた。華成義塾時代のわたしの恩師康済河(カンジェハ)先生は1年に2回、寒食と中秋の日が巡ってくるたびに妻子を連れ、供え物を携えて、陽地村のわたしの父の墓所を訪ねては法要をし、草取りもした。

 母が亡くなって、わたしは2人の弟の保護者となり家長となった。しかし、革命はわたしに家長の務めも、保護者の役目も果たすことを許さなかった。荒涼とした葦原に囲まれた小沙河の谷間に、涙にくれる幼い弟たちを残して北満州へ向かうわたしの心は重かった。



 


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