金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 団結の理念のもとに


 部隊は、柳河に向けて急行軍をつづけた。柳河は、興京、通化、樺甸、磐石とならんで、南満州一帯における朝鮮独立運動の重要な策源地の一つとして広く知られていた。その地方には、旧世代の独立運動家だけでなく、共産主義を志向する新しい世代の闘士も多かった。わが国の独立運動史に最初の武官学校として紹介された新興講習所も、南満州柳河県哈泥河に設立された。

 われわれが柳河を行軍コースの一つに定めたのは、その一帯で反日人民遊撃隊の大衆的基盤を拡大する政治工作を本格的にくりひろげるためだった。われわれは柳河だけでなく、三源浦、孤山子、海竜、濛江など安図への帰途にある各地方で大衆を革命化し、遊撃隊の隊伍を拡大する活動を積極的にくりひろげることにした。南満州遠征の戦略的目標の一つもそこにあった。

 遠征部隊はまず、三源浦、孤山子、柳河、海竜などにとどまって革命組織の指導にあたった。

 9.18事変後、この一帯の革命組織は、敵の白色テロによってはなはだしく破壊されていた。新しい世代の共産主義者が何年ものあいだ、血と汗の結晶としてつくりあげた組織の大半が破壊ないし解体され、なかには全員が検挙または殺害されて再建不能なところもあった。

 9.18事変の最大の被害地は海竜地方だった。海竜には日本領事館があったため、敵の触手が他の地方よりも深くのびていた。組織とのつながりを回復しようと苦慮している人たちは、どの地方でも見られた。

 わたしは、われわれが立ち寄ったすべての土地で、最初の党組織を母体にしてつくられた基礎党組織のメンバーや、共青、反帝青年同盟の中核分子、農民同盟、反日婦女会、少年探検隊の責任者たちと会って、それぞれの組織の活動状況を聞き、当面の革命任務と闘争課題を討議した。その過程で、この地方の革命組織員の動向や思考方式に、見逃すことのできない問題点がいくつかあることを知った。

 第1の問題点は、9.18事変以来、急速に広がっている敗北主義的傾向であった。

 そうした傾向はなによりも、日本が満州を占領したのだから万事休すだといった考え方にあらわれていた。日本は、世界で最大の領土を持つロシアを破り、清国を撃破した、いまは、満州についで中国本土を虎視眈々と狙っている、アメリカやイギリスの軍隊がどれほど強いかは知らないが、おそらく日本軍にはかなわないであろう、まかりまちがえば日本は世界を征服するかも知れない、そんな状況のもとで朝鮮の独立を待ち望んだところで、それは漠然としたものではないか、という人も少なくなかった。日清、日露の戦いを通して生じた日本軍にたいする幻想は、当時、ますます強く人びとのあいだに広まっていたのである。

 朝鮮民族自身の力で日帝を破るのは机上の空論にすぎない、と考える人もいた。こうした見解がこうじれば、勝ち目のない革命活動をなんのためにするのか、という敗北主義に陥るおそれがあった。

 敗北主義を克服せずには、人民を結集し、広範な愛国勢力を革命闘争へ立ち上がらせることはできない。

 われわれは政治・実務水準の高い隊員や指揮官を選んで、9.18事変と朝鮮革命の見通し、というテーマをもって大衆のなかに入り、講演や談話を進める措置を講じた。

 大衆がもっとも知りたがったのは、抗日武装闘争についての話であった。彼らは、抗日遊撃隊の規模や戦略戦術上の原則にとくに大きな好奇心をいだいていた。わたしは、劉家粉房人民の前でした演説をここでもくりかえし、拍手喝采をもって迎えられた。

 われわれの講演や談話のうち、もっとも人気を呼んだのは、安図―撫松県境戦闘談であった。広大な満州大陸を一挙に占領し、満州国をでっちあげた日本軍の戦績にくらべて、1個中隊の小敵を撃滅した戦果は確かに微々たるものだといえよう。しかし、人びとは、その戦闘談になによりも大きな興味をいだいた。日本が満州の支配者として君臨している
とき、第一歩を踏み出したばかりの反日人民遊撃隊が白昼、道路上の戦いで日本軍1個中隊を全滅させたということが、彼らを驚嘆させたのである。

 人びとは、戦闘のくわしい模様、ひいては、わが方の突撃に追いまくられ、ほうほうの体で退却した敵兵の具体的な動きまで知りたがり、それを確かめようと矢つぎばやに質問を浴びせるのだった。われわれは同じ場所で、戦闘のくわしい模様を2度、3度とくりかえして話さなければならなかった。

 わたしは安図―撫松県境戦闘の反響を総合した結果、朝鮮民族自身の力で国の独立が果たせるという信念を大衆にいだかせるには、言葉よりも具体的な行動が必要であり、実戦によって遊撃隊の威力を示すことが大切であると、いま一度確信した。

 大衆の動向に見られるいま一つの問題点は、反日人民遊撃隊の創建を背景に、少なからぬ青年が武装闘争を絶対視し、地下革命活動を過小評価する傾向だった。彼らは、敵が戦車や大砲、飛行機をもってしゃにむにわれわれを踏みにじっているときに、日がな一日、会議をしたり、議論をしたり、ビラをまいたりしたところでなにになるのか、銃を取って立ち上がり、日本軍を1人でも多く撃ち倒してこそ成果があがる、地下活動などしたところでらちがあかない、といったふうに考え、組織生活をおろそかにしていた。

 彼らは、武装闘争も組織生活のなかで鍛えられた中核によって進められ、組織という巨大な貯水池がなくては武装隊伍の組織が不可能であり、まして、その隊列の拡大も考えられないということを理解していなかった。これも9.18事変による左翼小児病的後遺症といえた。

 抗日遊撃隊の貯水池が組織であり、組織を離れた革命闘争は論ずることも成立させることもできない、組織が活動を停止すれば革命という巨大な有機体はその生を終えるほかにない、ということを大衆に認識させるのはそれほどむずかしいことではなかった。われわれは、朝鮮共産主義者が、満州各地で反日人民遊撃隊を組織し、武力による抗戦を開始することができたのは、もっぱら革命大衆が組織活動をりっぱにおこなってきたためであることを、わかりやすく説明した。

 南満州地方人民の動向に見られるいま一つの問題点は、国民府のテロにテロでこたえようとする傾向であった。当時、国民府の反動層は、南満州地方で、共産主義者と方向転換を試みる革新派民族主義者にたいするテロを強化していた。

 柳河地方の共青員と反帝青年同盟員は、テロに血道を上げる国民府右派とは決死の対決をすべきだ、と主張した。国民府のテロにテロでこたえるのは有害であるという、われわれの論拠を彼らは容易に納得しようとしなかった。テロを力で制圧せず受け身になっていては、テロを助長するばかりだというのである。

 わたしは、テロにはテロでこたえるのがなぜ正しくないか、それが革命にいかに大きな損失をもたらす軽挙妄動であるか、ということを長時間説明しなければならなかった。

 国民府が愛国者を殺害するのはもちろん絶対に許せない重大な罪悪であり、すぐれた愛国者が同族の手にかかって倒れるのは、どこにも訴えようのないわれわれ全体の悲劇である。国民府は、その罪業によって後代にいたるまで朝鮮民族から憎悪されるであろう。国民府を殺人者集団と決めつけ、報復を誓った君たちの気持ちはもちろん理解できる。だが、われわれは報復の刃を研ぐ前に、このような不祥事がどうして発生したのかを深く考えてみる必要がある。国民府が民族主義右派の巣窟になりさがったからといって、そこにいる人たちすべてが悪党だと考えてはならない。問題は、日帝が国民府の反動化を企んで手先を潜入させ、不断に瓦解工作を進めていることにある。彼らは、国民府内新興勢力の革新派に目を向け、内部を分裂させ対立させようと巧妙に立ちまわっている。われわれがテロによって国民府を打倒すれば、喜ぶのは日帝であり、漁夫の利をしめるのも日帝である。だからわれわれは、反動化した国民府上層部を孤立させるとともに、内部にひそんでいる日帝の手先を摘発し、陰謀を暴露しなければならない。民族再生の裏付けが団結にあることを、われわれは忘れないようにしよう。

 わたしがこのような趣旨で話をすると、青年たちはよくわかったとうなずいた。

 わたしはこうした偏向をただすとともに、破壊された革命組織を至急に立て直し、そのまわりにより多くの大衆を結集すること、中核を育てて武装隊伍に送ること、実地のたたかいを通して点検された労働者、農民出身の青年共産主義者をもって党組織を拡大すること、中国人反日部隊との活動を強化することなどの課題を南満州の同志たちに与えた。

 われわれが、三源浦、孤山子、柳河、海竜一帯にとどまっているとき、多くの青年が志願して遊撃隊に入隊した。これは、われわれが南満州地方でおこなった積極的な政治活動の総括といえた。

 柳河地方の革命運動を高揚させるうえでの障害を取り除くためには、崔昌傑などこの一帯に派遣されて活動している最初の党組織のメンバーと共青の中核の役割を高めなければならなかった。われわれが1年前に連係が途切れた崔昌傑の行方を知るために、八方手をつくしたのもそのためである。彼に会えば、日帝の満州占領につづいて武装闘争が開始された新しい状況に即応して、南満州地方で革命を発展させる問題を立ち入って討議し、具体的な活動方向を示すつもりであった。崔昌傑は、南満州地方におけるわれわれの代表といえた。

 柳河は「トゥ・ドゥ」の決定に従って彼が活動した区域であり、彼とはいろいろな意味で関係の深い土地だった。彼は独立軍の生活をここではじめ、また、ここで梁世鳳の推薦をうけて華成義塾に入学している。

 華成義塾の廃校後、出身中隊に帰って独立軍の参事になった彼は、柳河地方を中心に南満州の広い地域で「トゥ・ドゥ」の活動範囲を広げるために全力を傾けた。彼は柳河で活動していたとき、金川県城の日本領事館分館を襲撃する戦闘にも参加した。

 柳河や興京など南満州一帯で「トゥ・ドゥ」の組織が急速に拡大したのは、金赫、車光秀の積極的な努力とならんで、この地区の主人公といえる崔昌傑のめざましい努力と洗練された活動能力に起因している。彼は、新思潮をタブーとする独立軍のなかで生活しながらも、自分が共産主義者であることを隠さず、進歩的な独立軍隊員のあいだで意識化活動を積極的にくりひろげ、多くの隊員を共産主義の支持者に変えた。崔昌傑が対人活動をどれほど大胆におこなったかは、彼が部隊の駐屯地域から4キロも離れた土地へ出むいて何か月ものあいだ政治工作をしたときも、直属上官が目をつぶって上部に報告しなかったことを見てもわかるであろう。

 柳河は、分派分子と反共謀略にたけた民族主義保守派の影響が強いところであった。M・L派は、磐石県で住民会という団体をつくって南満州の民族主義団体と対決し、革新派と保守派の対立で分裂寸前にあった独立軍内で社会主義を志向する左派の一部は、火曜派、ソウル・上海派と手を握って民族単一戦線の組織をおし進めていた。

 玄黙観、高而虚など保守派は、共産主義思潮に同調する人たちに大々的な反動攻勢を加えた。

 こうした複雑な状況のもとで崔昌傑は、柳河地区に反帝青年同盟を組織し、その隊列を急速に拡大していった。

 分派分子は、中国における朝鮮青年の唯一の組織は駐中青総であるといって、柳河反帝青年同盟にいいがかりをつけた。M・L系の分派分子は、柳河反帝青年同盟を内部から切り崩すために異分子を送りこんだ。彼らは、さらに磐石地方の青年数十人を大泥溝に集めて棍棒団というテロ団をつくり、三源浦で独立軍が反乱を企てているという偽りの情報を警察に提供して、彼らとともに反帝青年同盟の幹部に暴行を加えた。

 そのとき、崔昌傑は、彼らの醜行を阻止し、同盟の幹部を暴行から救った。

 崔昌傑は、分派分子の挑発に軍事的手段で報復するようなことはしなかった、彼は元来、対人活動や仕事の処理で太っ腹なところがあった。のちに、卡倫でわたしに会ったとき、彼は分派分子の棍棒に打たれて傷つき血を流している反帝青年同盟員を見ながらも、銃を発射せず理性的に行動したのは、われながら驚くべきことだったと語った。

 われわれが柳河へ向かうとき、誰よりも喜んだのは車光秀だった。彼は、崔昌傑との対面を描き見ながら、子どものように興奮していた。崔昌傑と同様、車光秀も柳河とは深い関係があった。崔昌傑が梁世鳳の下でコルトを下げて活動していたとき、車光秀は教壇に立って子どもたちを教えていた。そのとき2人は意気投合して同志になった。

 「この崔昌傑は目の高い男だが、車光秀には一目でほれこんでしまった。見かけはひょうきん者だが、じつは大した傑物だ。彼の頭のなかにはカール・マルクスが10人はあぐらをかいているよ」

 いつだったか、崔昌傑は、車光秀との出会いを回想して、こんな冗談をいった。

 「崔昌傑が若い娘だったら、あのひょうきん者を真っ先にお婿さんにするんだがな。ところが、吉林のお嬢さんたちの目ときたら、どれも節穴らしいよ」

 車光秀は、それを聞きながら、にやにや笑っていた。

 吉林時代の車光秀は未婚だった。それで崔昌傑は、いつも車光秀の仲人には自分がなるといい、ひょうきん者が馬に乗って花嫁御寮を迎えに行くときは、馬の口取りをしてやる、とおどけては人を笑わせたものである。

 2人は顔を合わせさえすれば、おまえは弟分だから兄貴のおれを敬え、などと負けず劣らず冗談口をたたいたものだが、彼らの友情は誰もがうらやみ、ねたましく思うほど厚いものだった。

 彼らの友情は、柳河、興京、鉄嶺一帯を中心にして共青と反帝青年同盟の隊列を拡大していた日びに、いっそう深まったといえる。崔昌傑は、車光秀と力を合わせて朝鮮共産主義青年同盟孤山子支部を結成し、また、旺清門を中心に興京県、柳河県、磐石県など南満州の各県で社会科学研究会という名の啓蒙団体もつくった。

 社会科学研究会は、マルクス・レーニン主義と朝鮮革命の指導理論を研究し普及することを使命としていた。その運営方法は、こんにちの大学通信講座と似ている。年に15日ほど農閑期に青年たちを呼び集めて講義をし、ほかにも数か月に1度、出張講義をした。さらに学習用テキストなども送って、会員の啓蒙に努めた。

 社会科学研究会のメンバーは、参考書を利用して講義の内容を自習し、週に1回ほど集まって討論会を開き、むずかしい問題は書面による質疑応答によって知識を深めていた。

 南満青総大会が招集された年の秋、柳河で社会科学研究会の活動にかんする車光秀の説明を聞いたわたしは、そのユニークな運営方法に感心し、研究会を指導する3人の戦友(崔昌傑、車光秀、金赫)をスケールの大きい創造性に冨んだ人たちだと評価した。彼らが実地の活動を通してつくりだしたその運営方法は、困難な地下闘争のなかでも頭を働かせるならば、青年たちを時代の先覚者、歴史の開拓者にりっぱに育てあげることが可能であることを示した。

 崔昌傑との間もない再会を描き見ながら、隊伍を率いて三源浦方面に向かうわたしの胸も、車光秀に劣らず高鳴っていた。卡倫で最初の党組織を結成し、彼と別れてから満2年近くたっていた。その間、崔昌傑は、柳河、興京、海竜、清原、磐石など南満州の広大な地域で党組織をつくり、各種大衆団体を拡大し、また、朝鮮革命軍の一隊を指揮して常備の革命武力建設に必要な人的・物的準備に東奔西走した。1931年の春には、朝鮮革命軍吉江指揮部を東方革命軍と改称して、その指揮官になった。わたしにそのことを知らせてくれた崔昌傑の連絡員は、彼が国民府反動派との軋轢のために苦労しているといった。

 柳河との連絡が途切れたのは、そのあとのことである。わたしは不安でならなかった。それは彼が身の危険をかえりみず、どこへでも飛びこむ生得の冒険家であり、楽天家であるというだけの理由からではない。彼は、テロリズムを万能の手段と考えはじめた国民府のなかで、反動派の注視をうけながら活動している共産主義者である。国民府の目から見れば、彼は要注意人物だった。

 旺清門事件があった年の暮れに、国民府の反動派は、崔昌傑や崔得亨(チェドクヒョン)など6人の青年共産主義者を逮捕して大牛溝で処刑しようとした。それは、歴史に柳河事件として記録されている。

 新しい思想を志向する国民府内の革新勢力は、この事件を契機に反動派にたいする非難の声を高めた。被害者の崔昌傑は、ファッショ化した国民府上層部に報復を加えるといって歯ぎしりしていた。

 わたしはそのことを聞いて、柳河へ朴根源を送り、つぎのような内容の手紙を彼に届けさせた。

 「国民府との衝突はいかなる場合にも百害あって一利なしだ。反日を志向する同族間の流血はありえないことだし、あってはならない。旺清門で6人の同志を失う痛恨事にも、涙をのんでたえしのんだわれわれではないか。何事にも慎重を期し、軽挙妄動をつつしめ」

 柳河事件後、国民府は1930年8月の朝鮮革命党執行委員会と代表者会議を契機に、2つの陣営に分裂した。玄黙観、梁世鳳、高而虚、金文挙(キムムンゴ)、梁河山(リャンハサン)などは既存方針の固守をかたくなに主張し、それを通そうとしたが、高遠岩、金錫夏(キムソクハ)、李辰卓(リジンタク)、李雄、玄河竹、李寛麟など少壮派は、朝鮮革命党を人民の意思に反するファッショ的政党と決めつけ、党を解体して無産者を代表する階級革命の前衛につくり変えるとともに、在満州朝鮮農民を階級的に指導すべきである、と方向転換をめざした革新的な主張をした。

 このような理念上の対立から、両派は互いに相手を葬り去ろうとして流血のたたかいをくりひろげた。

 国民府派は、奉天省政府の了解のもとに中国の官憲や軍警まで買収して、反国民府派を粛清するテロリズムに走り、李辰卓など5人の反国民府派を暗殺した。反国民府派はそれにたいする報復として、国民府本部を襲い、第4中隊長金文挙を射殺した。その後、反国民府派は脱退声明を発表して、国民府の打倒をめざす反国民府委員会を結成した。

 わたしが崔昌傑の身辺を気づかったのは、そのような政治的背景のためである。三源浦の前方2、3キロのところで、わたしは行軍隊伍に早足の号令をかけた。崔昌傑にいっときも早く会いたいと気がせいて、行軍速度を速めさせたのである。

 ところが、三源浦に到着したわれわれは、崔昌傑の消息を聞いて呆然となった。当地の組織員から、彼が殺害されたという悲報を聞かされたのである。崔昌傑は孤山子共青支部の活動を指導中、国民府右派にとらえられて行方がわからなくなったという。反日人民遊撃隊の到着を知って、われわれを訪ねてきた三源浦共青支部の朴という青年も同じような話をした。彼は、国民府のテロリストが、崔昌傑を金川県姜家店におびきだして殺害し、共産党のスパイだから処刑したといいふらしたというのである。崔昌傑が、海竜―清原間で活動中に殺害されたという青年もいた。

 いずれにせよ、崔昌傑が、もはやこの世の人でないのは間違いないようであった。わたしはあまりのことに口がきけず、涙も出なかった。

 あの熱気にたぎり、情に厚かった「トゥ・ドゥ」の健児が、なぜそんなにあえなくわれわれのもとを去ってしまったのだろうか! それは安図―撫松県境の名も知れない山上でわれわれの胸を引き裂いた悲しみについで、またしても、われわれを襲った大きな悲しみであった。

 歴史の舞台に軍服姿のりりしい反日人民遊撃隊が登場して武装闘争を開始し、その銃声が新時代の序曲として満州の広漠たる大陸にこだましたあの激動の日びに、崔昌傑のような忠実な戦友を失ったことは、朝鮮革命にとって痛恨にたえないことであった。

 わたしのかたわらに座っていた車光秀も、炎熱にしおれた草原を涙で濡らした。

 わたしは崔昌傑の遺族に会ってみようと思い、部隊を率いて孤山子へ向かった。崔昌傑の妻は、まだよちよち歩きもできない男の子と義弟と一緒にわれわれを迎えた。彼女はじつに健気な女性だった。彼女はわれわれの前で涙を見せなかった。むしろ、われわれに、夫は銃を取って日本軍と戦うことを願っていたのだから、夫に代わって自分を遊撃隊に受け入れてほしいというのだった。われわれは予定を変え、遺族につきそってその夜をすごした。

 翌朝、部隊が孤山子村を発つとき、崔昌傑の未亡人は遠くまでわれわれを見送ってくれた。

 わたしはなんといって夫人を慰めてよいかわからず、幼児を抱き取って、ほおをなでた。乳歯が2本しか出ていないその子は、父親に生き写しだった。幼児は、わたしの顔にさわって「パパ」「パパ」といった。それを見て母親がはじめて涙を流した。わたしも瞼が熱くなり、幼児にほおずりしながら孤山子村の方を黙然と見やった。

 「奥さん! この子をりっぱに育てて、お父さんのあとをつがせましょう!」

 わたしは胸がつまって、あとの言葉がつづかなかった。

 部隊が孤山子から2キロほど離れたところへ来たとき、われわれの沈みきった様子を見て、金日竜が崔昌傑を追慕して弔銃を撃とうといいだした。そうでもしたら、いくらか心が晴れるのではないかと思ったらしい。さすがに苦労人の金日竜だけあって考え深かった。

 「うわさだけでは、彼の死を信じたくない。遺体も見ずに、どうして弔銃を撃てるというのか」

 濛江をへて両江口に到着したわれわれは、そこで驚くべき情報を入手した。撫松地方にひそんでいる20人ほどの独立軍が、7、80人からなる中国人武装部隊とぐるになってわれわれを襲い、武装を解除しようとしているというのである。首謀者は、国民府傘下の独立軍だという。彼らは、濛江から両江口方面に移動する反日人民遊撃隊の行軍コースを内偵し、中国人反日部隊に、われわれが共産軍主力部隊であると知らせた。独立軍は中国人反日部隊とともに、反日人民遊撃隊が通過する予定の村へ入り、われわれを待ち構えていた。

 われわれに情報を提供したのは、両江口の共青員たちであった。当地には、わたしと旧知の組織メンバーや青年が多かった。彼らは、われわれが両江口に到着するとただちにそのことを知らせてくれたのである。

 遊撃隊員たちが、崔昌傑の弔い合戦をして国民府のテロリストどもを掃討しようと憤激したのは、このときだった。柳河の青年たちが、国民府のテロリストに鉄槌を加えて、南満青総大会のさい槐帽山の谷間で殺害された6人の烈士と崔昌傑の仇を討とうと叫んだとき、わたしと一緒に彼らをなだめた隊員たちまでが指揮部にやってきて、われわれの自制心にも限度がある、見せしめに一戦交えて、彼らの根性をたたきなおしてやろうといいだした。しかし、根性をたたきなおすといっても、それは口でいうほどやさしいことではない。第一、数のうえからしても相手はわれわれより優勢だった。

 もっとも、そんな比較は大きな問題でなかった。なによりも困るのは、相手が敵ならぬ敵だということである。抗日救国という共同の目的をもって戦う武装部隊同士が撃ち合いをするのは、1930年代初の混沌とした時局のみが描きうる一つの戯画にすぎなかった。反日人民遊撃隊と独立軍が血を血で洗うというのも笑止なことであるが、中国の反日部隊と独立軍が手を握って反日人民遊撃隊を攻撃するというのも奇怪なことだった。

 戦えばもちろん勝敗は決まるであろう。しかし、そのような戦いは、勝者も敗者もともに道徳的な糾弾をまぬがれないのだ。勝者に与えられる月桂冠もありえないし、敗者の犠牲に同情する涙もまたありえないのである。

 それに、中国人武装部隊に軽率に手出しをすれば、われわれの活動には収拾しがたい困難が生じるに違いない。せっかく成立した救国軍との共同戦線は崩壊し、われわれはまた他家の裏部屋で武器の手入れをしながら、むなしい日びを送った初期の状態に逆戻りすることになる。独立軍部隊を討つのもそれに劣らぬ災いを生むであろう。共産軍部隊が独立軍部隊を討ったと知れば、人民はわれわれに背を向けるだろうし、反共分子はほくそえんで共産主義者を中傷するはずである。

 それは、われわれの望むところではなかった。反日人民遊撃隊と独立軍が武力衝突をして血を流すなど思いもよらないことだった。 ところが、独立軍は、松花江の対岸でてぐすねを引いて待ち構えているのだ。

 1932年の夏といえば、真っ先に思い浮かぶのがそのことである。あのとき、わたしは夜も眠れず、この難題を民族団結の経綸と抗日救国の大義にふさわしく処理する方途を見いだすために腐心した。そのために、寿命が10年は縮まったような思いがしたものである。

 共通の敵日本軍には立ち向かおうとせず、同族のわれわれには禽獣も顔をそむける悪業をあえてする国民府軍隊の行動には、わたしもこみあげる怒りと嫌悪感をおさえることができなかった。指揮官たちと協議すると、彼らも怒りがおさまらず、国民府ファシストに鉄槌を下すべきだと異口同音に主張した。

 「二度とわれわれに手出しができないよう、根性をたたきなおしてやろう。彼らがあの世へ行っても、二度と同族の血で手を汚すようなことがないように思い知らせてやろう」

 車光秀は目をぎらつかせ、国民府の手にかかった同志たちの恨みを晴らすときがきたと叫んだ。

 そうしてみると、当時、われわれを取り巻いていた武装部隊はどれもみな敵といえた。独立軍も敵であり、救国軍も馬賊も紅槍会も大刀会もみな敵だった。反日人民遊撃隊がそのような窮地に陥ったのは、われわれが救国軍の別働隊であることを保証する劉本草のような証人がいなかったからである。われわれは劉本草を通じて部隊の公然化には成功したものの、劉本草のような有力な保証人がそばにいなかったため、たえず四方八方から攻撃をうける危険にさらされたのである。

 われわれが通化への遠征中、于司令部隊は安図から撤収して王徳林部隊とともに寧安一帯の奥地に退却し、安図は空白地帯として残されていた。自衛軍はほとんど戦うことなく、ぞくぞく日本軍に投降していた。当時、自衛軍の一部は早くも反満抗日の旗を下ろし、日本軍顧問の指揮棒に操られる反動軍隊に転落していた。中国人反日部隊が、共産軍の主力軍と目されたわが部隊をあえて掃滅しようと企てたのは、彼らが日本軍の指揮をうける反動軍隊になりさがっていたからである。

 国民府の反共宣伝に乗って正否の見きわめができなくなった独立軍の残党は、われわれの本態も知らずに、反動化した反日部隊と組んでわれわれに挑もうとしているのであった。この問題をめぐって、わたしは思索を重ねた。相手がいくら土匪化し右傾化した軍事集団だとしても、同じ血筋を引いた民族であり、また救国闘争に身を投じていた人たちなので、われわれとしては武力によって報復したり制裁を加えたりすることはできなかった。なんとかして彼らを政治的方法で説得しなければならなかった。われわれは、それくらい反日統一戦線を絶対視していた。

 こうして、朴勲を責任者とする幾人かの同志が独立軍の駐屯している二道白河へ向かった。

 「朴勲君、きょうは銃ではなくて君の口が武器だ。銃は一発も撃たずに口で独立軍を説き伏せなくてはならない。君は弁が立つし、印象も好感がもてるから、十分彼らを感化して交戦を防止できるはずだ。いかなる場合も武力行使は絶対禁物であることを胆に銘じたまえ。われわれがここで一発でも銃声をあげるなら、民族主義者との統一戦線はご破算になる。どうだ、君の性分に合わない任務だが、なんとかうまくやれるだろうか?」

 わたしの言葉に、彼は笑いながら頭をかいた。

 「むずかしい任務だが、なんとかやってみよう」

 わたしは朴勲を送り出してからも、松花江のほとりを長いこと行ったり来たりした。今夜だけはどうか銃声が上がらないようにと願いつづけた。彼がはたして独立軍を説得しうるだろうかという憂慮もあった、

 もちろん、彼は有能なアジテーターであり手腕家であった。だが、いったん怒りにかられるとなにをやるかわからないそのはげしい性格を知っていたので、気が気でなかった。

 わたしが朴勲のそのような弱点を知りながら、あえて独立軍の陣営へ送りこんだのは、わが部隊に彼にまさる人物がいなかったからである。

 そのころ、この分野で朴勲に比肩できる人物といえば車光秀しかいなかった。状況からすれば当然、彼に一役買ってもらわなければならなかった。しかし、車光秀は、崔昌傑の犠牲の報に接し、あまりにも大きな衝撃をうけて自失の体にあった。

 (朴勲、どうか成功してくれ!)

 わたしは心のなかでしきりにこうくりかえしながら、二道白河の方から目をそらすことができなかった。

 幸いなことに、わたしが心配していた不祥事は起こらなかった。

 独立軍は、愛国勢力の団結を切々と訴える朴勲たちの説得に感化された。彼らは、上層部のやり方に不満をいだきながらも行動に移せなかった自分たちの優柔不断な態度を率直に認め、武器を差し出し、われわれの反日人民遊撃隊の隊伍でともに戦うことを願い出た。

 独立軍の上層部は、われわれとの統合を快く思っていなかったが、下層の兵士は対決ではなく、合作してともに戦わなくてはならないことを肌で感じ、喜んでわれわれと手を握ったのである。

 これは独立軍との統合の第一歩であった。

 こうして、われわれはいま一つの難関を無事に切り抜けたのである。梁世鳳との交渉決裂に崔昌傑の犠牲という衝撃的な事件が重なって、国民府への怨恨と憎悪に駆られていたとき、われわれが民族大団結の経綸のため、20代の青年たちにとっては並々ならぬ度量と忍耐力を発揮できたのは、まったく幸いなことであった。万が一あのとき、われわれが復讐心に駆られて理性を失い、国民府を打倒するなり、独立軍隊員と武装対決をしていたならば、こんにちのように晴ればれしい気持ちで若い世代の顔を眺めることはできなかったであろう。また300人を越える梁司令の部下が厳冬のさなかに、合作の旗をかかげて朝鮮人民革命軍のもとに馳せさんずる歴史的な出来事もありえなかったに違いない。

 この世に、愛国愛族の心ほど偉大かつ清純で神聖な感情はない。

 民族団結の精神は、愛国愛族の感情のうちでも、その精髄をなす最高の精神だといえよう。朝鮮の共産主義者は、民族の解放をめざして出立してから今日にいたるまで、いつどこにあっても民族団結の理念を一貫して貴び、そのための努力を惜しんでいないのである。



 


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