金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 合作は不可能か?


 安図と通化を結ぶ反日人民遊撃隊の行軍路程には、わが国の北部国境地帯に見られるような険しい山や谷が多かった。安図から撫松まで長白山脈がのび、さらに撫松から通化までは、三岔子嶺や三道老爺嶺などの険しい嶺がいくつも連なる竜崗山脈が走っている。

 部隊は、その山脈づたいに1か月近くも力に余る行軍をつづけた。日中は敵の目が光る大道路を避けて山中を行軍し、夜は朝鮮人の住む村に入って政治工作や戦闘訓練でせわしい時間を送った。

 われわれは撫松にも数日間とどまって、当地の革命組織を指導した。そこでは、張蔚華にも会った。

 張蔚華は、われわれの滞留期間が短すぎるといってたいへん残念がり、学窓時代の友情を考えても撫松でもう2、3日すごしていけと勧めた。わたしもそうしたかった。撫松は、わたしにとってさまざまな思い出を呼び起こす意味深い土地である。

 だが、わたしは予定どおり、3日目か5日目かに部隊に出発命令を下した。昔日の追憶がいかに貴重で、後ろ髪を引かれる思いがする土地であっても、梁世鳳司令との対面を思えば、残念ながら張蔚華とも別れるほかなかった。

 撫松から通化までは、200キロほどあるとのことだった。行くほどに、山は深くなるという言葉どおり、山容は険しさを増し、行軍はますます苦しくなった。歩きなれていない峰や谷を伝って数十里の山道を強行軍するうちに、隊員はみな、くたくたになり患者が続出した。わたしもうちつづく行軍で疲労の極に達していた。

 遠征隊が通化近くに来たとき、車光秀がわたしのところへやってきて、二道江で1日か2日休んで通化へ入ろうといった。

 「撫松にもっといたかったのを我慢して、200キロの道を休まずに行軍してきたのに、通化を目の前にして休息しようというのはどうしたわけだ。車光秀らしくないな」

 わたしは彼の意図を察しながらも、かぶりをふってわざとこういった。

 すると、車光秀はメガネをはずしてハンケチでぬぐいはじめた。それは、彼が自説を押し通そうとするときに見せる癖だった。

 「みな綿のように疲れている。隊長自身も極限状態だ。そうでないというかも知れないが、この目はごまかせない。あんなに患者を何人もかかえて行軍する有様なのに、そんなざまで梁世鳳にはどう面会を求めるつもりだ」

 「梁世鳳先生は、それくらいのことも察しがつかないわからず屋ではない」

 「司令は眼識があってそうだとしても、数百人もの部下の目はどうする。われわれを烏合の衆だといって後ろ指をささんともかぎらんではないか。100里を行軍した苦労が水の泡になるのではないかと、それが心配なんだ」

 こうなるともう、車光秀の強情に勝てる者はいなかった。

 わたしも車光秀の主張に一理があると認めた。われわれがだらしのない格好で通化にあらわれたなら、独立軍にあなどられるおそれは十分にあった。彼らが反日人民遊撃隊を鼻であしらうようなことになれば、せっかく計画した合作は成功がおぼつかないであろう。だとすれば、車光秀の主張どおり二道江で1、2日休んで元気を回復し、整然と隊伍を組んで勇ましく通化市内に入るのも悪くないと思われた。

 わたしは部隊に、行軍を停止して二道江で宿営するようにと命じた。そして、梁司令に連絡兵を送り、独立軍との合作のため反日人民遊撃隊が安図を出発し、通化の近くに到着して休息しているということを知らせた。

 われわれは通化へ派遣した連絡兵が帰るのを待ちながら、二道江の村で旅の疲れをほぐした。

 指揮部は、水車小屋のある家に定めた。その家の老人夫妻は、心からわたしを歓待してくれた。

 わたしが指揮部に10人ほどの隊員を集めて、独立軍の工作に必要な行動上の注意を与えていると、それをじっと見ていた老人は、隊長が民衆の誠意に無頓着だといってわたしをいさめた。

 「昔の聖賢も、人間は多くを話せば気を損い、過度に喜べば感情を損い、腹をよく立てれば意志を損うといっておる。少なく考え、少なく気を使い、少なく働き、少なく話し、少なく笑えというのが昔から伝わる摂生の本道であり道理じゃ。ところが、隊長のように長ながと話し、あれこれと気を使い、いろいろと考えては、気はどう蓄え、病はどう振り払おうというのかのう。まして、あんたらは朝鮮を独立させる軍隊じゃからな」

 老人は、いちいち覚えられそうにもない数十の養生法を熱心に説明し、大事は1日や2日でなるものではないから、将来のためにも健康にはとくに留意すべきだと、何度もくりかえして強調するので、わたしは、やむなく注意事項の説明を中断して、それを車光秀にまかせるほかなかった。わたしは老人の話を聞いて、彼が許浚(ホジュン)の崇拝者であり、われわれに長時間説明したその摂生法というのが『東医宝鑑』にあるものだということを知った。どこでどう身につけた知識なのかは知らないが、老人は保養法についてかなり深い知識をもっていた。

 われわれが二道江を発つとき、老人は朝鮮紙に包んで保管してあった蓮の実と蜂蜜で練って乾燥させた枸杞の丸薬を数袋、車光秀の前に差し出し、多くはないが、この薬を隊長の保養に使ってもらえればありがたいといった。

 わたしは、老人がわが身の摂生をはかって大事にとっておいたその補薬を受け取るのがはばかられて、丁重に辞退した。

 「お志はありがたく思いますが、その薬をいただくわけにはいきません。われわれ若い者が気や血が不足して生きていけないということはありません。一生苦労がたえず、ゆったりと暮らせなかったご老人こそこの薬をお使いになって、朝鮮が独立する日まで長生きしてください」

 わたしがこういうと、老人はいささかむっとした顔で、われわれにむりやり薬を押しつけた。

 「わしらはもう生きるだけ生きたんじゃから、補薬は使っても使わなくても同じことじゃ。だが、あんたらは朝鮮を独立させる先鋒隊ですぞ。わしらは、いわば枯れ草にすぎんが、あんたらは青い松竹じゃないか」

 通化でわたしの書簡を受け取った梁司令が、反日人民遊撃隊の通化入城を歓迎し、遊撃隊の歓迎準備を部下に命じたという報告をもって連絡兵が帰ってくると、われわれは早速二道江をあとにした。二道江で休んでいるあいだに髪を刈り、ズボンの折り目までつけた反日人民遊撃隊員は、指揮官の号令に従って歩調を取り、革命歌もうたいながら通化市に向かって威風堂々と行進した。

 行軍中、わたしは金日竜に指揮をまかせて、梁世鳳との談判計画を車光秀といま一度綿密に打ち合わせた。わたしのすべての思索と想念は、間もなくはじまる独立軍の工作に集中されていた。水車小屋の老人は思考も心配も仕事も話もみな少なめにし、笑うことさえ控え目にするのが摂生の本道だと再三強調したが、わたしは、そんなに拘束の多い摂生法をとても守ることができなかった。われわれの活動は一から十まで無を有に変える過程であり、前人未踏の道を切り開く独特な創造過程であるだけに、誰よりも多く思索し、多く気を使い、多く議論しなければならなかった。

 わたしがもっとも気がかりだったのは、反日人民遊撃隊との交渉にあたって梁世鳳がどんな態度をとるかということだった。交渉の結果について、車光秀は最初から疑問をいだいたが、わたしは終始楽観していた。

 通化市が前方に見えたとき、わたしはふと、梁世鳳についてのほほえましい逸話を思い出した。それは、父が病床にあったとき、志を同じくする同志たちを一人ひとり回顧し、わたしと母に聞かせてくれた余談だった。

 3.1運動のしばらく前、梁司令の郷里では貧農でつくられた契(互助会)が中心になって、畑を水田につくり変えようという話がもちあがった。梁司令の一家も契に入っていた。畑より水田の方が収穫がはるかに多いことを常識として知っていた彼は、誰よりも工事を歓迎した。ところが契をぎゅうじっていた年寄りたちが、稲作は把握がないからといって頑強に反対した。年寄りと若手のあいだには春の種まきを前にして、契ができて以来はじめての口論が連日つづいた。

 若い者たちは、頑迷な年寄りたちの強情に勝てなかった。契ではその年も種まきの時期がくると、若者たちが田づくりができずにじりじりしているその畑に粟と麦を植えた。年寄りたちは、契の農事が若者たちのいいなりにならず、例年どおり順調にはかどったので胸をなでおろした。

 だが、若手の先頭に立っていた梁世鳳は、自分の主張を通す機会を狙っていた。そして、四方で蛙が鳴きはじめた田植えどきのある日の晩、牛を引いて畑へ行き、粟や麦が青い芽を出している畑をこっそり水田につくり変えてしまった。

 きのうまで粟や麦が青々としていた畑が一晩のうちに田に変わり、そこに水まで引かれているのを見た年寄りたちは仰天し、「けしからん奴だ。契の農事をめちゃくちゃにしおって。今年、農事が台無しになったら、おまえも乞食になると思え」と息まいた。

 ところが粟や麦を植えて9石しか取れなかったその耕地で、梁世鳳は、その年24石もの収穫をあげた。

 契の年寄りたちは目を丸くして、「とにかくあの世鳳はただ者でない」と舌を巻いた。その後、梁司令の郷里はもちろん、近隣の村でも農民たちは競って稲作をするようになった。契をぎゅうじっていたちょんまげ頭の老人たちも、それからはすっかり梁世鳳のいいなりになったという。

 通化を目の前にして、こんな挿話を思い出したのはなぜだったろうか。おそらくそれは、梁司令との談判の成功を願う自分の気持ちを合理化する方向にわたしの思索が集中していたからだったのであろう。

 梁司令は、3.1運動の前夜に故郷(鉄山)を捨てて南満州の興京県へ移った。父がはじめて梁世鳳に会ったのがその興京であった。

 当時、彼は統義府の検務官を勤めていた。正義府の成立後、彼は一躍中隊長に抜擢され、呉東振の寵愛をうける中堅幹部になった。彼の中隊が撫松に駐屯していた関係で、わたしも梁世鳳に会う機会があった。

 わたしの家族が八道溝から撫松に移って間もなく、梁世鳳は興京に呼びもどされ、その後任として張戊Mが撫松にやってきた。3府が統合して国民府が誕生すると、独立軍の指導幹部は、剛直で実行力があり、民衆の信望も厚い梁世鳳に軍の統帥権をゆだねた。梁世鳳は軍部だけでなく、3府の元老重鎮がむらがる朝鮮革命党でも大きな影響力を行使していた。

 梁司令はいつも、自分と金亨稷は義兄弟だからといって、わたしをたいそうかわいがってくれた。呉東振、孫貞道、張戊M、李雄、金史憲、玄黙観などとともに、吉林でわたしを経済的にもっともよく援助してくれたのが梁世鳳である。

 旺清門事件後、国民府上層部にたいするわれわれの感情がきわめて悪化し、反動化したその軍部の首脳梁世鳳ともわたしは長年会う機会がなかったが、わたしにたいする梁司令の愛情と信頼には変わりがないものと確信していた。

 これらのことは、人間梁世鳳、愛国者梁司令にたいする好意的な回想だった。わたしは、われわれの合作に暗い影を投げるような過去はあえて思い出そうとしなかった。わたしは談判の成功を期待して、できるだけ明るい過去のみを回顧しようと努めた。それは、談判の見通しに暗影を投げるような思い出で、自分を心理的に圧迫したくないという一種の防御本能に根ざすものであったのかも知れない。

 通化をはじめ東辺道の20の県は、すべて東辺道鎮守使于芷山の管轄下にあった。彼は一時、張作霖から第30軍の軍長に任命されたこともある将星だったが、1930年6月の大刀会の反乱を鎮圧できなかったために張学良の信用を失った。于芷山は、東辺道の各要地に1個旅団規模の省防衛軍を配置し、東辺道の最高統治者として君臨した。彼は9.18事変後、東辺道保安委員会を組織してみずから司令になり、関東軍首脳と連係を保ちながら奉天省のかいらい政権に積極的に協力した。

 于芷山の協力をとりつけた関東軍は、東辺道一帯には大兵力を投入せず、独立守備隊と満州国軍、警察などに治安をゆだねた。当時、関東軍の大半は北満州に出動していた。

 そのすきに乗じて、唐聚伍の遼寧民衆自衛軍が梁世鳳麾下の朝鮮革命軍部隊と連合して通化県城を包囲した。興津良郎を主任とする日本領事館通化分館の日本人職員とその家族は、包囲のなかに閉じこめられ救援を待つ羽目に陥った。

 関東軍司令部は、通化県城が包囲され現地の日本人が危険にさらされているとの通報をうけたものの、全兵力を北満州一帯に出動させていたため、わずか100人ほどの警察官を救援隊として送っただけで、于芷山軍の援助に期待をかけた。于芷山軍は二隊に分かれて、北方と鳳城方面から、梁、唐の連合軍を圧迫した。

 関東軍は、板垣参謀長の名で「通化にいる日本人のみなさん、奉天から至急援軍が出発し明朝到着しますから、しばらく頑張って下さい」と放送した。

 このように、9.18事変後、国際連盟調査団の満州派遣と時を同じくして、奉天省一帯の反満抗日軍はいたるところで日本侵略軍と「満州国軍」を脅かした。そういうときだったので、通化県城を掌握した朝鮮革命軍と自衛軍の士気はきわめて高かった。

 反日人民遊撃隊が、通化県城に入城したのは6月29日の夕方であった。

 独立軍は市内の各所に「反日人民遊撃隊を歓迎する!」「日本帝国主義を打倒しよう!」「朝鮮を独立させよう!」というスローガンをかかげて、われわれ一行を盛大に歓迎した。数百人の独立軍兵士と市民が街頭に立ち並んで拍手をし、手を振ってわれわれにあいさつを送った。梁世鳳はそのとき、反日人民遊撃隊の通化入城を独立運動発展の転機にしようとしたようだった。

 安図から来たわれわれはここで2 隊に分かれて、劉本草の率いる救国軍兵士は自衛軍司令部代表の案内で中国人の家へ向かい、わたしが引率した反日人民遊撃隊は朝鮮人の家に分宿した。

 独立軍の隊員は、反日人民遊撃隊員を宿所に案内してからもすぐには帰ろうとせず、われわれとともに時間をすごした。わが部隊にたいする彼らの反響は予想以上によかった。彼らは、遊撃隊が安図から来るというので、どうせ槍や火縄銃を持った田舎者の部隊だろうと思ったのだが、なんと、ぱりっとした紳士軍隊ではないかといって、たいそううらやましがった。

 夕方、わたしは梁世鳳司令の自宅を訪れた。

 梁司令はわたしを喜んで迎え入れた。わたしはまず、梁司令夫妻の安否を問い、母のあいさつを伝えた。

 「母は安図へ移ってからも、しばしば先生の話をしていました。そして、おまえのお父さんが亡くなったとき、梁司令先生が親友のみなさん方と一緒に葬儀の世話をしてくださり、おまえを華成義塾にも送ってくださったのだから、そのご恩を忘れてはいけない、といっておりました」

 梁司令は、謙遜して手を横に振った。

 「わたしと君のお父さんは義兄弟なのだから、恩だのなんだのということはない。君のお父さんから鞭撻をうけたことを思うと、その恩こそ死んでも忘れられるものではない。ところで、お母さんのご容態はどうなのだ? 安図へ移られてからは病気がちで、苦労しておられるということだったが」

 「はい、病気がかなり重くなったようです。近ごろは仕事をする日よりも、床についている日の方が多くなりました」

 われわれの対話は、このように日常的なあいさつからはじまった。

 わたしは、通化市内へ入ったときの印象を語った。

 「司令の部下が数百人も街頭に出てきて拍手で歓迎してくれましたので、わたしたちはみな感激して涙を流しました。独立軍の顔色が明るいのを見ると、わたしたちの気持ちも晴れました」

 「わたしの部下は、戦うほうはほめたものでないが、客は粗末にしないようだ」

 「ご謙遜がすぎます。わたしたちは安図を発つ前、司令の部隊が唐聚伍の遼寧民衆自衛軍と力を合わせて通化県城を包囲し、難なく攻略したことを聞いております」

 「それは、自慢するほどの戦果ではない。自衛軍の数万の大軍をもって城市一つ攻略できないようでは、食をはむ面目がないではないか」

 梁世鳳はこういいながらも、通化県城包囲戦の顛末をくわしく語った。

 その晩はそんな程度の会話をしただけで、その家で一晩泊まった。わたしは訪問理由をあえて切り出さなかったが、梁世鳳も説明を求めなかった。彼がわれわれの遠征目的を聞こうとしないので、いくぶん不安ではあったが、わたしを心から歓待してくれたことから、談判の成功はまず疑いないという当初の確信をいっそう強くした。

 翌日、朝食をすませてわれわれは本格的な対話に入った。

 先に話を切り出したのは梁司令だった。彼はこういった。

 「隊長も承知のように、いま満州は蜂の巣を突いたような有様だ。おびただしい蜂が日本という侵害者を刺そうと、毒を含んで立ち上がった。唐聚伍、李春潤、徐遠元、孫秀岩、王鳳閣、ケ鉄梅、王桐軒… これらはみな東辺道の蜂だし、東満州と北満州でもまた多くの蜂が立ち上がっている。こんなときに、わたしらも力を合わせてりっぱに戦えば勝てると思うが、隊長はどう思うかね」

 彼の見解は、われわれの遠征目的とも合致していた。梁司令みずからが合作を模索し、先にそれを提案したのだから、わたしとしては、なんともありがたく、幸いなことだった。

 わたしは、独立運動全般を大局的見地から考察する梁司令の高い識見に感服し、その提議を喜んで受け入れた。

 「力を合わせて戦おうという司令のお言葉にはわたしも同感です。じつはわたしたちも、そのことを相談したくてお訪ねしたわけです。朝鮮の武装部隊が力を合わせ、中国の武装部隊も力を合わせて朝中両国の愛国者と人民が一丸となって戦えば、ゆうに日帝を倒せると思います」

 梁世鳳はほほえんだ。

 「隊長が賛成なら、この問題を真剣に相談してみよう」

 「ところで司令、時局は団結を求めているのに、わが民族の内部は残念ながら団結を果たしていません。共産主義者の内部でも民族主義者の内部でも団結がなされていません。また、民族主義者と共産主義者のあいだの団結もなされていないのですから、そんなことでどうして日本という強敵と戦えるでしょうか」

 「それはみな左翼の連中がでたらめなことをしているからだ。隊長も左翼だというから、そのへんのことはよく心得ていようが、彼らが闘争を過激にやるものだから民心が離れてしまったのだ。小作争議をして農民を暴徒に変え、赤い5月だのなんのといっては地主を打倒し… そんな有様だから中国人は朝鮮人を相手にしないのだ。これはみな共産主義運動をするとかいう連中のせいなんだ」

 それは、共産主義者が進めるいっさいの暴力をきらって否定する言葉だった。わたしは、彼が労働者、農民を敵視し、地主や資本家に同情して、そんなことをいったのではないと考えた。梁世鳳自身も独立運動に関与するまでは最下層の零細農民として多くの苦労をなめた人である。彼は毎年、年の暮れになると、地主から借財の返済を迫られて血涙をしぼった債務奴隷にひとしい小作農だったし、大根の葉をまぜた稗がゆでほそぼそと命を長らえてきた貧農の子孫だった。

 わたしはまた、彼が共産主義者の暴力闘争を非難するのは、共産主義の理念そのものに反対しているからでも、また、それと反対の資本主義思想を擁護しているからでもないと考えた。彼が嘲笑し、非難するのは、一部の共産主義者の運動方式や闘争方法であって、共産主義の理念そのものではなかった。だが、方法にたいする立場や態度は、理念にたいする認識や観点に影響をおよぼさないはずがない。初期の共産主義者が大衆運動の指導で犯した極左的な誤りは、遺憾ながら新しい思潮にあこがれる多くの人たちに、共産主義に背を向けさせる嘆かわしい結果をまねいた。わたしは梁世鳳司令との対話からも、満州地方で初期の共産主義者たちがもたらした弊害が、いかに大きいものであったかをいまさらのように痛感した。

 わたしは、一部の共産主義者が大衆闘争で犯した極左的な誤謬を認めた。だが、大衆闘争一般を民族の団結を破壊する害悪行為と見る梁世鳳の偏見は、ただす必要があると思った。

 「司令がおっしゃるとおり、朝鮮共産党出身の指導者たちが階級闘争で大きく脱線したのは確かです。彼らの極左的妄動のために、じつは、わたしたちも大きな被害をこうむりました。その結果、朝鮮人が日帝の手先と思われるようにさえなったではありませんか。でも、農民が地主に反抗して立ち上がるのはやむをえないことだと思います。司令も長年農業にたずさわっておられたのでご存じでしょうが、秋になって地主と農民は収穫物をどう分けているでしょうか。汗水流して得た収穫物をほとんど取り上げられて口を糊することすらできない農民が、なんとか生きようとして小作争議を起こすことまで、十把ひとからげに悪いときめつけてよいものでしょうか」

 梁司令は、わたしが大衆闘争を弁護したのが気に入らなかったのか、それとも正しいと思ったのか、とにかくそれにはなんの反応も示さなかった。

 その日、独立軍部隊は、反日人民遊撃隊を歓迎して集会を催した。独立軍隊員のなかには、柳河や興京にいたころから、われわれが派遣した「トゥ・ドゥ」のメンバーや政治工作員から共産主義の影響をうけた青年が多かった。彼らが世話役になって催した歓迎会だったので、集会はたいへん盛大で、熱狂的なものとなった。歓迎会には、通化県城在住の朝鮮人も大勢参加した。

 主人と客は、代わるがわる立ち上がって演説もし、歌もうたった。そうしたなかでも、反日人民遊撃隊と独立軍の個性の違いがはっきりとあらわれた。独立軍の隊員は、反日人民遊撃隊員の謙虚でこだわりのない楽天的な姿や、規律正しく節度があり、しかも気迫にみちた部隊の風格をうらやんだ。彼らがとくにうらやんだのは、遊撃隊員のうたう革命歌謡と38式歩兵銃である。

 彼らは、「こんな頼もしい軍隊がうわさ一つたてずに、どこで急に生まれたのだろう」といって驚きもし、「君たちとの合作が成功すればよいのだが、梁司令との談判はどうなったのだ?」と聞きもした。

 梁司令はその日、成柱の軍隊を見ようといって反日人民遊撃隊を訪れた。遊撃隊員は拍手と挙手の礼をもって、相手をきりりとさせるような歓迎をした。ところが、そこで梁司令が反共演説をはじめたので、歓迎の雰囲気はたちまち敵対的な空気に変わってしまった。

 「朝鮮独立を成就するためには、なによりも利敵行為をやめなければならない。ところが共産党はいま利敵行為をしている。工場では資本家と労働者を争わせ、農村では地主と農民を反目させ、家庭では男女平等だのなんのといって夫婦の仲を割っている。口を開けば収奪だ、打倒だといって同胞のあいだに不和の種をまき、異民族のあいだに不信の壁をつくっている」

 遊撃隊員たちは、彼の演説を聞いて憤慨した。車光秀は顔面蒼白になって、梁司令をいまいましげににらんでいた。

 反共一点張りの梁世鳳の演説には、わたしも不快感を禁じえなかった。なぜ彼がそんな演説をするのか理解できなかった。

 「司令、われわれは、そんな利敵行為をする者たちではありません。われわれは朝鮮民族の解放をめざして戦い、勤労民衆の利益を守って戦う者です。朝鮮を独立させるためには、労働者、農民のような勤労大衆を中心にしてたたかうべきであって、以前のように何人かの烈士や英雄豪傑の力だけではできるものでありません」

 わたしがこういうと、隊員たちもいっせいに国民府を攻撃した。国民府が旺清門で6人の愛国青年を殺したのは利敵行為でないのか、民族の前にそんな大罪を犯しながらも、国民府集団はあえて利敵行為だのどうのといって、われわれを非難できるのか、と口々になじった。

 すると、梁司令は真っ赤になって、われわれを口ぎたなくののしりだした。

 あまりにも度をすぎたその非礼ないいざまに、わたしは唖然とした。彼が突然、理性を失ってわれわれをののしるのが腑に落ちなかった。われわれのちょっとした批判が彼の自尊心を傷つけたのだろうか? それとも、合作を快く思わない何者かが裏で彼をけしかけたのではなかろうか? いずれにせよ、彼がそれほどいきまくのにはなにか理由がありそうだった。

 ともかく、わたしは辛抱強く彼を説得した。

 「先生! そんなにお怒りになることはありません。われわれがどんな人たちかは、しばらく一緒にすごせばわかるではありませんか。お互いに理解するには、司令の部隊とわたしたちの遊撃隊が接触を深めるべきだと思います」

 梁司令は、これにはなんともいわなかった。

 わたしは、梁司令の反共姿勢がいかに動かしがたく思えても、根気よく説得すればきっと考えを変えることができるだろうという一縷の望みをいだいて宿所にもどった。人を疑うのは一種の排外主義であり、人を信ずるのは最善の人道主義といえる。 国土を奪われた愛国者にとって、最上の人道主義は民族の団結をなし遂げ、団結した民族の力で父母兄弟と同胞姉妹を解放することである、とわたしは考えた。

 わたしが、生まれて1か月しかたっていない部隊を引き連れて100里も離れた梁世鳳を訪ねたのも、そうした目的を果たしたかったためである。

 ところが、会談が物別れになったその日、通化市内のわれわれの組織員から、独立軍が反日人民遊撃隊の武装解除を企てているという情報が入った。

 梁司令がそんな陰謀を企てようとはとても信じられないことだったが、われわれは万一にそなえて、ただちに通化から撤収した。そんなわけで、劉本草先生とも別れることになった。

 反日合作の緊要な課題を果たせず、独立軍との衝突を避けて通化を去った反日人民遊撃隊員のあいだには、沈うつな気分がただよっていた。車光秀は隊列の後尾で、部隊の行軍コースが記されている手帳をのぞきながら黙々と歩いていた。

 「光秀、きょうはなぜ、そんなにふさぎこんでいるんだ」

 わたしは彼の気持ちを察して、わざと笑いながら声をかけた。車光秀は待っていたかのように、手帳をポケットにしまい、不服そうに答えた。

 「では、こんな場合に笑えというのか? 正直にいって、腹が立ってたまらないんだ。血まで流して100里の道を駆けつけてきた苦労が水の泡になったではないか」

 「なぜ参謀長は、独立軍との談判を失敗作だとしか見ないのだ」

 「では、失敗作でなくて成功作だというのか? 梁司令は、合作でなく武装解除を企てたではないか」

 「参謀長は上層部の表情だけを見て、下層部の様子は見なかったのか。独立軍隊員が遊撃隊を見てどんなに感嘆し、うらやんだか知れないではないか。わたしは武装解除説よりも、そのことをもっと重視したいのだ。大切なのは上層部の表情ではなくて、下層部の態度だ。わたしは、そこに合作の可能性を見ている」

 こういうわたし自身も、そのことを確信していたわけではなかった。わたしはただ予感を語り、念願を表現したにすぎなかった。

 わたしも内心は悩んでいた。それは、国籍の異なる梁司令と唐聚伍が手を握り、われわれと于司令も合作を実現したのに、同じ民族の反日人民遊撃隊と独立軍との合作はなぜこんなにむずかしいのか、はたして梁世鳳司令との合作は不可能なのだろうか、ということだった。

 あのとき、独立軍が実際に武装解除を企んだかどうかは、わたしの長年の疑問だった。わたしは、その情報が組織を通して入手したものだったために間違いないと思いながらも、根拠のないものであってほしいと願った。たとえ、それが正しい情報であったにしても、わたしはいささかも梁司令を非難する気にはなれなかった。人間の思想には限界があるもので、その限界を越えるには莫大な時間と体験を要するものである。だから、わたしは通化を去りながらも、独立軍との合作が不可能だという結論を急いで下そうとはしなかった。

 むしろ、梁司令が、いつかは必ずわれわれを理解し、われわれと手を握る日がくるであろうと期待した。愛国は、連共の大海に向かって流れる大小の川のようなものである。

 何年かのちに、部隊を引き連れて朝鮮人民革命軍側に移ってきた独立軍の司令崔允亀は、わたしとともに1932年の夏を感慨深く回顧した。崔司令の話によれば、あのとき反日人民遊撃隊の武装解除を企てたのは梁司令ではなく、彼の参謀だった。梁司令は反日人民遊撃隊との合作を実現させようとしたのだが、参謀が反共をうんぬんして陰でわれわれを誹謗したばかりか、腹心の部下とはかって遊撃隊の武装解除を企んだのであった。

 崔允亀の説明を聞いて、梁司令にたいするわれわれの疑いは消えた。梁司令がわれわれとの決別をいつまでもくやんでいたということ、そして武装解除の陰謀にはいっさいかかわっていなかったということを知って、わたしはほっとした。そのときはもう生きていなかったが、彼が愛国心に燃え、義理を重んずる人間であったことを改めて確認できたことが、わたしにはなによりもうれしかった。自分がりっぱだと思った人間が、数十年の歳月が流れたあともなおりっぱであり、その清い印象にいささかの曇りや汚れも見いだせないとすれば、それ以上喜ばしいことはないであろう。

 梁司令の失策は、敵の奸計を見破れなかったことである。彼は正義感が強く剛直な人間ではあったが、側近の参謀がわれわれとの合作を妨げようとして陰謀を企てていたことに気づかなかったし、彼が共産主義者を悪どく誹謗したときも、その本心を見抜けなかった。梁司令が非業の死を遂げたのも敵の奸計にはまったためだった。

 梁世鳳司令が反共から連共へと立場を変えたのは、彼が命を落とす少し前だった。当時、独立軍の内部はきわめて複雑であった。密偵とそれに買収された者たちの暗躍に加えて、部隊を離れる落伍者や脱走者が続出した。だが、一方では共産主義者との合作を要求する声も高まっていた。

 梁司令も共産主義者を無視することができなくなった。彼は朝中両国の革命において共産主義者が主要な勢力として登場し、彼らが政局を大きく動かす新しい激動の時期が到来したことを認めて、共産主義にたいする自分の立場を冷静に検討し、ついに連共に踏み切ったのである。

 共産主義が理解できなかったばかりに敵対感情をいだき、われわれとの合作に踏み切れなかった梁司令が連共を決意したのは、彼自身の生涯はもちろん独立軍の闘争史において特筆すべき出来事である。彼が反共を退け連共を志向したことは、楊靖宇との共同行動を実現したことからも知ることができる。彼はわれわれとの合作も考えていた。

 日本帝国主義者は、梁世鳳の部隊がわれわれと手を握るのをなによりも恐れた。朝鮮人民革命軍と独立軍が手を握るということは、わが国の民族解放運動において共産主義と民族主義の政治的・軍事的統一が実現することを意味した。それは彼らにとって大きな脅威であった。

 日本の憲兵隊、警察機関、そして特務機関は、梁世鳳を殺害し、独立軍を内部から切り崩そうと画策した。その陰謀には、奉天憲兵隊や朝鮮総督府の福島機関が関与した。「日本関東軍特務機関東辺道遊撃隊」も梁司令を監視し、尾行した。

 梁世鳳殺害作戦の機密費として、十数万円の金がばらまかれたともいわれている。朴昌海ら興京の密偵もその作戦に参加した。

 敵は梁世鳳司令をおびきだすために、以前彼と関係を結んで独立軍に協力していた背信者の王を送りこんだ。ある日、王は梁世鳳を訪ねて、中国抗日軍が独立軍を援助するために司令との面会を求めていると巧みにいいくるめた。梁世鳳は中国抗日軍が援助を約束したという甘言に乗り、深く考えもせずに王の案内に従って抗日軍が待っているという大拉子へ向かった。

 王は途中、やにわに拳銃を引き抜いて「おれは以前の王明藩ではない。命が惜しかったら日本軍に投降しろ」とおどした。

 梁司令が王を一喝して拳銃を抜いたとたん、高粱畑にかくれていた敵がいっせいに射撃して彼を殺してしまった。

 崔一泉が描写したように「『鶏林(朝鮮)の罰はうけても倭王(日本王)の禄は食まず』という朴堤上の諌言」が司令の魂となって敵を戦慄させたのであった。

 梁司令がもう少し早く連共に踏み切っていたなら、彼の運命も違っていたのではなかろうかと、わたしはよく思うことがある。もちろん、それは彼の死を悼むわたしの未練からなのであろう。

 「わしは死んで抗日ができないが、おまえたちは生きて金日成司令のもとへ行くのだ。生きる道はそれしかない!」

 梁司令は部下にこのような遺言を残して目を閉じた。それは遺言というより、反共の壁を破った一愛国者の死によって生まれた連共宣言であった。

 その宣言どおり、4年後、かつて通化市でわれわれを歓迎した300余の独立軍隊員が、崔允亀司令を先頭に朝鮮人民革命軍に合流するため白頭山へやってきた。そのとき、わたしは彼らと樺甸で会った。

 桓仁県の朝鮮人は、敵に梁司令の死体を奪われまいと、村の裏山に遺体を平土葬にして安置した。平土葬というのは、土まんじゅうをつくらずに墓をまわりの地面と同じ高さにする埋葬法である。

 ところが日本の軍警は、その墓まで掘り起こし、故人の首をはねて通化市街にさらした。

 梁司令の遺族もひどい迫害をうけた。彼らは日満軍警の迫害にたえかねて姓を金と変え、鉄道から400余キロも離れた桓仁県の深い山里に身をひそめて暮らした。

 わたしは解放後、南満州へ人をやって梁司令の遺族を祖国へ連れもどした。そのとき帰ってきたのは、司令の夫人(尹再順・ユンジェスン)と息子と娘、婿であった。

 「その間、司令に先立たれ、日本軍警に追われながらずいぶん苦労なさったことでしょう」

 わたしがこういうと、尹再順女史は涙を流し肩をふるわせた。

 「将軍! 将軍にお会いできて、積もり積もった悲しみがいっぺんに消えるようです。隠れて歩くのがどうして苦労といえましょうか。将軍が日帝を追い出すためになさった苦労は、ほんとうにたいへんだったでしょう」

 「戦いに追われて、一度も消息をお伝えできずに申しわけありません」

 「将軍! わたしたちのほうこそ申しわけありません。わたしたちはあの山奥でも、将軍の消息をちゃんと聞いておりました。わたしは将軍の消息を聞くたびに、将軍に従わず、異国で恨みをのんで死んだ夫がうらめしくてなりませんでした」

 「でも、梁司令は、最後まで全力をつくして、りっぱに戦ったではありませんか」

 その後、わたしは梁司令の息子梁義俊(リャンウィジュン)を万景台革命学院で勉強させるようはからった。

 4月の南北連席会議(1948年)のとき学院を参観した金九先生が、そこで梁司令の息子に会ってたいそう驚いた。

 「わたしは、北朝鮮当局がパルチザン闘士の子女を養育するこの学院で、独立軍司令の子弟まで勉強させているとは想像だにできませんでした」

 「この学院には、パルチザンの子女だけでなく、国内で労組や農組の活動をして犠牲になった愛国者の子女も勉強しています。国のためにたたかって犠牲になった愛国者であれば、それがどんな系列の人であっても、われわれは差別しません」

 わたしがこういうと、金九は感激して、「この学院は、民族団結の象徴です」というのだった。

 学院を卒業して空軍部隊の政治幹部になった梁義俊は、朝鮮戦争後、飛行機事故で死亡した。わたしはそのことを聞いて落胆した。梁司令の血統が絶えたと思ったからである。

 幸いなことに梁義俊には息子が1人いた。名前を梁哲秀(リャンチョルス)といった。ところが、哲秀は小児麻痺のたたりで不自由な体になってしまった。

 わが党は、彼を人民学校、高等中学校、そして大学にまで通わせて、14年間、健康な子と同じ教育課程を修めるようにはからった。彼が金日成総合大学に通った4年間、学友たちは一日として欠かさず、17階の教室まで彼を車椅子に乗せて一緒に通学した。愛国烈士にたいする彼ら2世、3世の尊敬心は、身体障害の遺児にたいする、そのようなあたたかい愛情によっても表現されている。いま、梁哲秀は、共和国のりっぱな作家として、ベッドの上で文学作品の創作に励んでいる。

 梁哲秀は、2男1女の父親である。血筋からすると、その子らは梁世鳳の曽孫である。中秋節にはその子らも両親にともなわれて、愛国烈士陵の曽祖父の墓参りをしている。彼らはまだ、曽祖父の生涯につきまとった苦悩と不幸がどんなものであったかを知らない。

 その無邪気な子らの肩には、反共か連共かといった重い荷を二度と背負わせたくないものである。



 


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