金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 喜びと悲しみ


 反日人民遊撃隊の南満州進出と時を同じくして、于司令部隊も200人で編制した区分隊を通化地方に派遣した。その区分隊を引率したのは、劉本草先生だった。于司令がその右腕ともいうべき劉本草参謀長を南満州に送ったのは、唐聚伍の自衛軍との合作をはかり、彼らを通じて武器を入手するためである。当時、于司令は武器の不足に悩んでいた。遼寧省に本拠を置く南満州地方の自衛軍には、于司令の救国軍よりもすぐれた武器が多かった。

 われわれが遠征すると知って小沙河にやってきた劉本草先生は、自分たちも南満州へ進出する命令をうけたのだが、目的地も同じだから一緒に行かないかといった。自分たちと一緒に行けば唐聚伍に紹介しよう、彼と連係すれば武器の入手も可能だ、というのだった。

 わたしは、劉本草先生の申し入れを喜んで承諾した。実際、われわれには。武器がいくらでも必要だった。救国軍と行動をともにすれば、途中、中国人反日部隊に出あっても衝突を避けることができ、安全が保障されるはずだった。

 唐聚伍はもと東辺道省防軍第1 連隊長を勤めていたが、9.18事変後、抗日救国を唱えて遼寧民衆自衛軍を組織した。彼の麾下には、1万余の兵力があった。唐聚伍の自衛軍は、通化地方を活動拠点にして、南満州一帯を中心に瀋陽駐屯関東軍と力に余る戦いを展開していた。彼らは、国民府傘下の朝鮮革命軍部隊との連合作戦もたびたびおこなった。

 組織当初の遼寧民衆自衛軍は、士気が旺盛で戦果も悪くなかった。しかし、大勢が日本側に有利に傾き、戦いが困難になると、唐聚伍は動揺しはじめた。

 国際連盟がリットン調査団を満州へ送って9.18事変の真相調査にあたってはいたが、日本軍はそれを尻目にかけて戦果を拡大した。1932年1月初め、錦州を占領した日帝は1月28日、陰謀を仕組んで強盗さながらの上海事変を引き起こした。彼らは、5人の日本人僧侶が上海の虹口で殴打されたことを口実にして、中国人の工場や商店を破壊し、警官を殺害した。ついで、海軍陸戦隊を投入して上海市に大々的な攻撃を開始した。日本が上海事変を起こした目的は、上海を中国本土侵略の橋頭堡にすることにあった。日本軍部の首脳は、上海を電撃的に占領すれば、その戦果を拡大して中国の全領土を一挙に占領できるものと夢想した。

 上海の軍人と市民は即時、英雄的な反撃を開始し、日本侵略軍に大きな打撃を与えた。しかし、蒋介石と汪精衛の率いる国民党反動政府の背信的な売国政策によって抗戦は挫折し、上海事変は屈辱的で反革命的な「松滬協定」の締結によって幕を下ろした。上海抗戦の挫折は、救国軍や自衛軍など反日をめざすすべての愛国的軍人と人民の士気を落とした。

 上海事変と「松滬協定」の締結過程が示したように、国民党政府の反動的な売国売族政策は、抗日救国勢力にとって最大の障害であった。国民党反動集団は、上海抗戦を支援しなかったばかりか、それを妨害し、犯罪視した。蒋介石と汪精衛は、第19路軍への軍需物資の補給を故意に中止し、全国各地から上海に寄せられた援護金を押収する一方、海軍に秘密指令を発して、日本側に食糧と野菜を供給する恥ずべき反逆行為をためらいなくおこなった。

 国民党反動集団は、みずから抗日をしなかったばかりか、人民の抗日を妨げたのである。彼らの銃口は、つねに抗日を志向する人たちの胸を狙った。抗日を叫ぶ人たちは、例外なく国民党のテロをうけるか、絞首台に立たされた。

 蒋介石はかつて、中国が帝国主義によって滅ぼされれば、われわれは亡国の民にはなっても生きのびられるが、共産党によって滅ぼされるときは奴隷としてすら生き残れないであろうと放言した。それは、蒋介石とその反動集団が、外国帝国主義侵略勢力よりも人民革命を恐れて警戒する帝国主義者の徹底した下僕であり、手先であることを証明している。

 蒋介石の売国行為は、国民党となんらかのつながりがあり、また、旧軍閥と官僚、政客の利害を代弁する救国軍と自衛軍の上層部に思想的な悪影響をおよぼした。

 上昇一路をたどる日本軍の威力も、救国軍の士気を落とす一因となった。リットン国際連盟調査団はその報告書で、満州を日本の独占にゆだねず、国際共同管理下に置くべきだと提議した。だが、日本側はそれを無視し、戦闘行為をつづけた。日本軍は、山海関と北満州地方に勢力をのばして北満州の広い地域を攻め取り、熱河方面に兵力を集中した。

 日帝は北満州進攻に先立ち、関東軍の特務機関を動かして東北軍を政治的に瓦解させ、特務の買収・陰謀活動によって北満州東北軍の各旅団を四分五裂させ、それらが互いに不信をもつか、権力争いに没頭するようにしむけた。彼らは、馬占山を攻撃するときは蘇炳文を味方につけ、馬占山が敗亡すると蘇炳文を一挙に掃滅するといったふうに、北満州の反日部隊を難なく各個撃破したのである。

 北満州一帯における反日部隊の瓦解は、東満州の王徳林や南満州の唐聚伍にも影響をおよぼさずにはおかなかった。

 唐聚伍は人民の革命的気勢に乗じて抗日救国の旗をかかげはしたが、大胆かつ積極的な活動をくりひろげることができず、大勢をうかがいながら恐る恐る行動していた。

 当時、丁超、李杜、邢占清など少なからぬ反日部隊の頭領たちは、抗日を積極的にすることはない、国際連盟に依拠してこそ万事がうまく解決される、といった妄想にとらわれていた。そればかりか、彼らは「張学良が日本軍に抵抗しないのは共産匪賊を粛清するためだ。共産匪賊を先に粛清すれば日本軍も追い出せる。共産党が日本軍を引き入れたのだ」という途方もない主張をしていた。

 われわれが南満州へ向けて出発した年の春、周保中が自衛軍につかまったことがあった。彼は自分を逮捕した指揮官に向かって、君たちの軍隊はなぜ自衛軍と称しているのかと質問した。

 質問をうけた指揮官は、自衛とは自分の部隊を守るということだ、自分の部隊を守ることすらむずかしいのに、なんの力があって日本軍を討てるのか、日本軍がわれわれを攻撃しなければ、われわれも攻撃しない、自衛とはそんなものだ、と答えた。

 これが、ほかならぬ自衛軍の思考方式であり、政治的見解であった。自信をなくして動揺していた唐聚伍は傘下部隊の統率を放棄し、なるがままに任せていた。そこへ于司令が劉本草を自衛軍本部に派遣したのは時宜にかなった措置だといえる。

 初日の行軍路程を短めにとり、6月3日の午後、小沙河を出発した遠征隊は、沙河(下小沙河)農民協会会長の案内で二道江を渡り、劉家粉房に入った。われわれはここで一晩泊まり、政治工作をすることにした。

 この村が劉家粉房と呼ばれるようになったのは、劉という人がそこに製粉所を設けたときからだという。

 われわれは夕食後、製粉所前の広びろとした庭でたき火をたいた。

 遊撃隊が来たといううわさを聞いて、隣村からも人びとが劉家粉房に集まってきた。村の組織責任者たちは各農家からむしろを集めてきて座席をつくり、隣村の人たちのためには丸木や垂木を運んできて、そこへ座るようにした。製粉所の庭には数百人もの人たちが集まった。われわれは、彼らとたき火のまわりにつめあって座り、夜更けまで話を交わした。

 その晩、彼らは、われわれに多くの質問をした。一生涯、人民のなかに入っていろいろと組織活動や政治活動をしてきたわたしだったが、そのときほど矢つぎばやの質問をうけたことはなかったように思う。

 わたしは喉がかれて声が出なくなるほど、夜遅くまで彼らと話を交わさなければならなかった。

 最初の質問は、遊撃隊はどんな軍隊か、遊撃隊と独立軍の違いはなにか、ということだった。彼らも1か月前に小沙河で反日人民遊撃隊が組織されたことを知っていた。単純で当然な質問のようではあるが、そこには、新しく誕生した武装力への期待と疑念が入りまじっていた。独立軍も朝鮮の解放をめざしており、反日人民遊撃隊も朝鮮の解放をめざしているのであれば、なんのためにまた遊撃隊を別につくる必要があるのか? 遊撃隊を新しくつくったら、独立軍も歯が立たない日本軍に勝てると思うのか? 勝算があるというならその裏付けはなにか? 独立軍になにか、とわずらわされ、さらに独立軍の挫折で絶望感に陥っていた劉家粉房の人たちが知りたがっていたのは、およそこういうことであった。

 わたしは、できるだけわかりやすく簡明に答えようと努めた。

 反日人民遊撃隊は、別に変わった軍隊ではない。文字どおり、日本帝国主義に抗して戦う人民の軍隊だ。この軍隊はほかでもなくみなさんのような労働者、農民の息子や青年学生、知識人によって組織されている。反日人民遊撃隊の使命は、日本帝国主義植民地支配をくつがえし、朝鮮民族の独立と社会的解放をかちとることである。

 反日人民遊撃隊は、義兵や独立軍とは異なる新しい型の軍隊だ。独立軍の指導思想はブルジョア民族主義だが、抗日遊撃隊のそれは共産主義思想である。共産主義思想とは、わかりやすくいって、貧富貴賎の別がなく、すべての人が自由で平等に暮らせる世の中をつくろうという思想である。

 金のある人たちが主人となる社会をつくるのが独立軍の理想なら、働く人たちが主人になる世の中をつくるのが反日人民遊撃隊の理想である。独立軍は、みなさんのような平民を解放運動の協力者、同情者だとしか見ていないが、われわれはみなさんを抗日革命の担い手、主人と見ている。独立軍は外部勢力に大きな期待をかけ、その力を借りて国の解放をなし遂げようとしたが、われわれはわれわれ自身の力をもっと強く信じ、その力で国を取りもどそうとしている。

 義兵のあとをついで独立軍がその間、満州の山野と祖国の北部地帯で十数年間、日本の侵略者と血闘を交え、多くの苦労をしたのは事実だ。だが、独立軍の軍勢はしだいに衰え、いまではその存在すら危ぶまれている。それで、われわれは新しい軍隊を組織した。独立軍が果たせなかった祖国解放の聖業を、われわれが完成しようという決心のもとに組織したのが反日人民遊撃隊である。

 わたしがこういうと、村の一青年が、反日人民遊撃隊の兵力は何千人ほどになるのかと質問した。

 わたしは、まだ初期だから何千人というほどでなく、数百人ほどだ、いまはまだ遊撃隊の数が多くはないが、遠からず数千数万に増えるだろうと答えた。

 彼はわたしの説明を聞いて、反日人民遊撃隊に入隊するにはどんな手順を踏まなければならないのか、とたずねた。

 わたしは、特別な手続きや格式はない、戦う覚悟のできている青年なら誰でも入隊できる、だが身体は強健でなければならない、入隊は、革命組織の推薦によってもできるし、部隊を訪ねてじかに志願する方法でもできると答えた。

 すると、数人の青年がわたしを取り囲み、自分たちが入隊を志願すれば、この場で受け入れてくれるかと聞いた。われわれにとって、それは思いもよらぬ収穫であった。

 「受け入れます。ただし、入隊しても当分は武器なしですごさなければなりません。武器は戦場で、自分の手で獲得するのです。それでも入隊するというなら、われわれはいまこの場でみなさんの入隊を承諾します」

 彼らは、武器がなくてもよいから遊撃隊に入れてもらいたいといった。

 こうして、われわれは、村の多くの青年を新入隊員として部隊に受け入れた。それは、劉家粉房が幼弱なわが遊撃隊に与えた思いがけない贈り物であった。われわれ一同は、その贈り物を前にして喜びを禁じえなかった。革命同志1人を得るために、ときには2人、3人の同志を失うことさえあった当時、10人近くの青年が一度に部隊に入ったのだから、そのときのわれわれの喜びは想像にかたくないであろう。

 雪をほおばり、野宿しながら苦難の道を歩む革命家には、資産家や市井の俗人には味わえない特有の楽しみがある。それは、新しい戦友を得たときに覚える、胸のふくらむような精神的充溢感である。きのうまで一面識もなかった人たちが入隊を志願して死線を越えて訪ねてくるとき、われわれは、彼らに軍服を着せ、銃を与えては、俗世では味わえない荘厳かつ爽快な喜びを覚えたものである。われわれはそれを、われわれの方式の喜びとし、楽しみとしたのである。その夜、遊撃隊員は新入隊員を祝福して娯楽会を開いた。わたしと車光秀も歌をうたった。

 われわれがこのようにさしたる努力もなしに大きな収穫を得ることができたのは、9.18事変直後の民心がそれほど大きく抗日遊撃隊に傾いていたことに起因している。日本が満州まで占領したのだから、朝鮮人はここでも安心して暮らせなくなった、満州でも自由に暮らせないなら、死ぬか生きるか、決然と立ち上がって決着をつけるべきだというのが、当時の朝鮮青年の共通した心情であった。

 われわれは夜通し語り合い、夜が明けそめるころ、たき火のまわりに、むしろやアンペラを敷いて、遊撃隊組織後、はじめての野営をした。朝鮮人の住む村で遊撃隊に野宿をさせるのは、われわれ劉家粉房村民の体面にかかわると村人たちが騒ぎ立てたが、われわれは組織責任者たちが割り当てた農家に入るのを辞退して、露天で一夜をすごすことにした。人民の利益を侵さないという名分でそうしたのだったが、いってみれば革命家は暖かいねぐらよりも荒れ地で寝る方が分に相応しているという一種の楽天的な気分から、彼らの誠意を退けたのである。

 われわれは、南満州遠征から帰るときもこの村で宿営した。そのときは、呂修文という中国老人の家の前で野営した。家の前に広いジャガイモ貯蔵窟の跡があった。われわれは、そのまわりに穀草の茎を編んで垣をめぐらし、そのなかでたき火をたいて一晩をすごした。

 われわれが老人の家へ入らず、野外で飯をつくって食べ、寝支度するのを見た呂修文老はわたしのところに来て、部隊をみな動かすのが困難なら、隊長だけでも部屋に入って休むようにと勧めた。

 「成柱先生が面識のない人ならいざ知らず、わしらは旧安図にいたころからの顔なじみじゃないですか」

 老人は、わたしがそんな水臭いことをするとは思わなかった、と恨み言を並べた。

 実際、わたしと老人とは、旧知の間柄だった。わたしの家族が馬春旭の宿屋で間借りをしていたころ、わたしはそこで呂修文老に2、3度会ったことがあった。そのとき老人が見せた闊達で熱情的な性格はたいへん印象的だった。

 老人は、抗日を目的に数百里もの道を遠征して帰った軍隊が野外で宿営しているときに、自分だけがどうしてぬくぬくとふとんをかけて寝ていられようかといって、夜遅くまでわれわれの話相手になってくれた。

 劉家粉房の人たちが概してそうであったように、呂老人も時局に敏感だった。彼は、9.18事変後、日本軍が満州国というかいらい国家をつくり、長春の名を新京と改めて首都にしたあと、そこへ溥儀をかつぎだしたことも知っていた。

 老人との対話でいまも忘れられないのは、安重根についての話だった。

 彼は、朝鮮の烈士のなかで自分がもっとも尊敬する偉人は安重根だといった。

 「安重根先生こそ東洋の巨人じゃ。袁世凱大総統さえ安重根烈士の義挙をたたえて詩を詠んだじゃありませんか」

 老人のその言葉はわたしに深い感銘を与えた。

 伊藤博文を射殺した安重根は、満州地方の中国人のあいだに伝説的な人物として知られるようになった。彼らのなかには、安重根の画像を壁にかけて霊牌のようにまつりあげる者さえいた。

 「ご老人は朝鮮人でもないのに、どうして安重根のことをそんなによくご存じなのですか?」

 呂修文が深い愛情をこめて安重根をたたえるので、わたしはそれとなくたずねてみた。

 「満州に住む者なら誰でも安重根を知っていますぞ。ハルビン駅に安烈士の銅像を立てようという人たちさえおるんじゃからね。わしはいまでも、息子たちによくこういい聞かせているんじゃ。革命家になるなら孫文先生のような革命家になり、りっぱな男になりたかったら安重根のような男になれ、とね。金隊長さん、どうせ部隊をつくったからには、関東軍司令官のような大物をやっつけることができないもんかのう」

 わたしは、老人の素朴な言葉に思わずほほえんだ。

 「たかが関東軍司令官を一人殺したところでなにになります。伊藤博文を殺したら別の伊藤博文が出てきたように、本庄を殺したってまた別の本庄が出てくるではありませんか。テロなどで大事がなせるものではありません」

 「では、隊長さんはどんな方法で戦うつもりですかい?」

 「関東軍が10万だそうですから、その10万を相手に戦うつもりです」
 呂修文老はそれを聞くとたいそう感激し、わたしの手を取って放さなかった。

 「金隊長! まったく見上げたもんじゃ。隊長さんこそ安重根のようなお方ですわい」
 わたしは笑って、こういった。

 「過分なお言葉です。わたしは安重根のようなりっぱな人間ではありませんが、亡国の民の生活には甘んじないつもりです」

 翌日、遊撃隊が村を発つとき、呂修文は別れを惜しんで遠くまで見送ってくれた。わたしは劉家粉房を思い出すたびに、呂修文老との対面を熱い思いで回顧するのである。

 劉家粉房をあとにした部隊は、二道白河付近で第二夜をすごし、さらに、道路にそって行軍をつづけていたとき、撫松から安図方面に移動する日帝侵略軍の尖兵と遭遇した。われわれは行軍のさい、いつも隊伍の前方に3、4人の尖兵を立たせていたのだが、彼らと日本軍尖兵とのあいだに撃ち合いがはじまった。

 正直にいって、われわれは、そのとき少なからずあわてた。それは、遊撃隊創建後の最初の遭遇戦であり、しかも無敵を誇る日本軍との最初の戦闘だからであった。小営子嶺では、われわれが綿密な事前計画を立て、敵を待ち伏せて先制打撃を加えたのだが、ここでは、そういかなかった。相手は臆病な「満州国軍」でなく、実戦経験の豊かな、しぶとく敏捷な日本軍であった。それにひきかえ、こちらはたった一度の戦闘経験しかない新兵の集まりである。

 まだ遭遇戦では、どう戦うべきかということもわからないときだった。

 遠征の目的や遊撃戦の基本的原則からしても、遠距離行軍の途上では、できるだけわが軍の行動に不利な影響をおよぼす無益な衝突は避けるべきだった。昔の兵書にも「避実撃虚」と書かれている。強敵を避け、弱敵は撃てという意味である。それなら、この場合はどうすべきか?

 全隊員が緊張した表情でわたしの顔を見守っていた。わたしの決心を待っているのだった。わたしは、敵の本隊が到着する前に有利な地点をしめなければ戦いの主導権が握れないと見てとり、尖兵が銃撃戦を交わしている高地の北側の稜線に部隊をいちはやく移動させた。そのあと、一部の隊員を道路の南側に進出させた。部隊は、道路の南側と北側から一斉射撃を加えて敵の尖兵を撃滅した。

 ほどなく、重装備をした敵の行軍縦隊が道路を突進してきた。一目で1個中隊ほどの兵力だと知れた。敵は尖兵がせん滅されたと知ると、われわれを包囲しようとした。

 わたしは、合図の銃声が上がるまで絶対に射撃しないようにと命令し、敵が射撃圏内に入るのを待って、その動きを見守った。われわれには弾薬があまり多くなかった。

 わたしが合図の銃声を上げると、全隊がいっせいに射撃を開始した。

 わたしは四方で鳴り響く銃声に耳を傾け、隊員の士気をおしはかろうと努めた。その一つ一つの銃声からは、興奮し、意気がさかんではあったが、やはり分別を失い、あわてている隊員たちの心理状態を感じとることができた。

 敵は多くの死傷者を出しながらも、数を頼んで迅速に戦闘態勢をととのえ、わが方がしめている2つの陣地めがけて猛烈な攻撃をかけてきた。

 わたしは、道路の北側と南側に配置した主力の一部をわが方の両翼にすばやく機動させた。彼らは陣地をしめると、ただちに側面の敵兵を狙撃し一人残らず掃滅した。だが敵の主力は一歩も退かず、必死に高地へ向かって這い上がってきた。われわれは石まで転がしながら陣地を守ったが、敵は屍を乗り越えて突撃をくりかえした。

 敵の攻撃がやや下火になったのを見はからって、わたしは全部隊に突撃命令を下した。森林にこだまするラッパの音とともにいっせいに尾根から駆け下りた遊撃隊員は、逃げまどう敵を追って容赦なく撃滅した。数人の逃走者を除いて、1個中隊の敵がわれわれの突撃によって全滅した。金日竜は白兵戦のさなかにも、敵兵が倒れるのを見ては「また一人やっつけた!」と歓声を上げていた。

 遊撃隊もかなりの戦死者を出した。

 われわれは、名も知れぬ高地に戦友の屍を葬って永訣式をおこなった。わたしは軍帽を脱いですすり泣いている隊員を見まわし、ふるえる声で永訣の辞を述べた。そのとき、どんなことを述べたかはなにも覚えていない。ただ弔辞を終えて顔を上げたとき、隊員たちの肩がはげしく波打ち、隊列が劉家粉房を発ったときよりかなり短くなっているのを見て、全身に戦慄が走ったことを覚えているだけである。

 やがて、わたしは部隊に出発命令を下した。全員が道路に整列したが、車光秀がひとり、土まんじゅうにうつ伏せていた。誰もかえりみる人のない墓、柩板一枚敷けずに埋葬した墓を残してはどうしても発つ気になれなかったのであろう。

 わたしは尾根に駆け上がって、車光秀の肩をゆさぶって大声を上げた。

 「光秀! どうしたのだ。立たないのか」

 わたしの声がどんなに大きくきびしかったのか、車光秀は膝をついて立ち上がった。わたしは声を落として、ささやくようにいった。

 「隊員がみな、わたしたちの顔色をうかがっている。…七転八起の気概はいったいどこへいったのだ?」

 車光秀は涙をぬぐい、隊列の先頭に立って黙々と歩き出した。

 のちになって、わたしは、あのときのことをいつまでもくやんだ。安図―撫松県境戦闘があってから4か月後、車光秀が戦死したという悲報を聞いて、最初に頭に浮かんだのがそのときのことである。

 (あのとき車光秀に、なぜあんなふうにしかいえなかったのか。ほかにいいようがなかったのだろうか)

 じつは、わたしもあのとき戦友を失って、何日も食事が喉を通らず夜も眠れなかった。

 戦死した隊員はいずれも「トゥ・ドゥ」時代から喜びも悲しみもともにしてきた部隊の根幹であり、中核であった。

 犠牲のない戦いはもちろんありえない。革命はつねに犠牲をともなうものである。自然を改造する平和的な労働でもいろいろな損失が生ずるものである。まして、あらゆる兵器や手段を総動員し勝敗を争う武装闘争において、どうして死を避けることができようか。だが、われわれは安図―撫松県境で出した犠牲を、あまりにも残酷な、容認しがたいものとしてうけとめた。革命がいかに酷薄な犠牲をともなうとはいえ、第一歩を踏み出したばかりの隊伍がこんな大きな損失を強いられなくてはならないのだろうか、というのが、あのときのわたしの偽りのない気持ちだった。

 算数的に計算すれば、10人たらずの人員を失っただけだから、それほどの損失ではなかったといえるかも知れない。一度の戦いで戦死者が千人、万人と出る現代戦において、10人程度の人命損失はなんでもないともいえるだろう。だが、われわれは戦友を失ったとき、その損失を算数的にのみ計算したのではなかった。算数はわれわれにとって、人間の価値を評価する手段にはならなかった。

 われわれとともに闘争の道を歩んだ一人ひとりの闘士は、世の何物にも代えがたい貴重な存在だった。遊撃隊員1人は100人の敵とも代えられないというのが、われわれの信条であった。敵は国の法と動員令により、一日にして数千数万の兵力を集めて戦場に大々的に投入できるが、われわれにはそんな物理的な手段も強権もなかった。たとえそんな力があったにしても、革命同志の一人ひとりはあくまでも千金に価していたのである。志を同じくする一人の同志、生死をともにする一人の戦友を見つけ、彼らによって一つの組織的な隊伍をつくりあげるには、じつに、なみなみならぬ努力を傾けなければならなかった。

 だからこそ、わたしは抗日革命闘争の全期間、たとえそれが100人の敵を倒して勝利した戦いであっても、わが方に1人の犠牲者でも出れば、それを戦果として誇れなかったのである。

 歴史家は安図―撫松県境戦闘を、遭遇戦を巧みに反撃戦へと導いて1個中隊の敵を完全に掃滅した勝利の戦いであったと評価している。もちろん、それは疑いなく勝利を得た戦闘であった。その戦闘の意義は、たんに幼弱な反日人民遊撃隊が1個中隊の正規軍を完全に掃滅したことにのみあるのでなく、遊撃闘争史上はじめて天下無敵を誇る日本軍の神話を粉砕したというところにもあるのである。われわれはその戦いを通して、日本軍が強い軍隊ではあるが、決して無敵でも不敗でもなく、退却を知らない軍隊でもない、われわれが遊撃戦の特質に合った戦法を駆使して戦いを巧みに進めれば、少ない兵力でも強大な日本軍を十分打ち破れるという自信を得たのである。

 それにしても、あの戦闘でわれわれは、「トゥ・ドゥ」以来ともにたたかった戦友を10人近くも失うあまりにも高価な代償を払ったのであった。

 (1個中隊の敵を掃滅するのに10人近くもの戦友を失ったのだから、朝鮮と満州に駐屯する10万以上の日帝侵略軍を撃滅するのには犠牲者がどれだけ出るだろうか!)

 硝煙の消えやらぬ安図―撫松県境の戦場をあとにしながら、わたしは同志たちの遺体が横たわる稜線をふりかえって、こう考えた。われわれはあのとき最初の遭遇戦を終えて、遊撃戦争を進めるには、今後、苦労も並大抵ではなく、犠牲も少なくないであろうと認めざるをえなかった。

 安図―撫松県境戦闘後、われわれが十数年間つづけた抗日戦争はじつに、戦争にたいする人間の既成概念をもってしては、とうていおしはかれない苦痛と試練と犠牲をともなったのである。



 


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