金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 最後の姿


 部隊が遠征の準備を本格的に進めていたある日、弟の哲柱がわたしを訪ねて小沙河にやってきた。反日人民遊撃隊が小営子嶺で日本人指導官の引率する「満州国軍」輸送隊を撃滅したといううわさは、安図県の向こうの敦化や延吉地方にまで広がり、人びとは集まりさえすれば、その戦功談でもちきりだった。松江、大甸子、柳樹河子の革命組織などは、小営子嶺戦闘の経過をくわしく知りたくて、わざわざ小沙河まで人を送って寄こした。

 わたしは最初、弟もそんなことで来たのだろうと思った。

 ところが、弟は小営子嶺の伏兵戦については一言も聞かなかった。ただ黙々と隊員の制式訓練を眺めたり、指揮部の隣室で遠征隊員にまじってわらじをつくったりした。指揮部が指定した遠征準備品のなかには、わらじも含まれていた。

 それでわたしは、哲柱が小沙河に来たのは遠征隊の出発準備を手伝いにきたのだろうと独り合点した。夕方、わたしが村の農民組織責任者に会って指揮部にもどると、待ちかまえていた哲柱が、家へ帰るといった。せっかく来たのだから、夕食を一緒に食べて帰るようにと勧めたが、かぶりを振ってそのまま帰るという。弟はなにかいいたげな様子を見せながらも口を一文字に結び、思いつめたような表情でわたしの顔色をうかがっていた。

 わたしは、弟が遠征準備の手伝いに来たのではなく、なにかの事情でわたしに会いにきたのだと直感した。わたしに告げることがあるとすれば、それは、母か本人自身にかかわる問題に違いなかった。

 わたしは指揮部に寄らずに村はずれまで弟を見送り、単刀直入に聞いた。

 「土器店谷でなにかあったんじゃないか?」

 わたしが土器店谷といったのは、わが家を念頭に置いていた。家という言葉を口にするのが、なぜか恐ろしかった。

 「ううん、なにも変わったことはないよ」

 哲柱はこういって、つくり笑いをした。芝居ごとが好きで、ユーモラスなところのある弟だったから、わたしの目をあざむくことくらいなんでもないはずだった。だが、そのときの微笑には悲哀がこもり、口もとがゆがんでいた。弟はわたしの顔をまともに見るのを避け、肩越しに遠くの空を見つめた。

 「なにかあったら正直にいうんだ。黙って帰ったら、兄さんが心配するではないか。あれこれ考えないではっきりいえ」

 哲柱は大きな溜息をついて、いいにくそうに口を開いた。

 「お母さんの病気がもっと重くなったみたいだ。2日前からもう箸に手をつけようとしないもの」

 わたしは、どきっとした。母が食事に手をつけないと聞いて目の前が真っ暗になった。母が重病で衰弱しているのを知らないわけではなかった。家族が八道溝にいたころは、母が寝こむようなことはなかった。ところが撫松に移ってから父が亡くなり、わたしが吉林の中学校に通うようになると、なにかと患いはじめた。哲柱がときどきそのことを手紙で知らせてきた。

 わたしは手紙を見て、母が風土病にかかったのではなかろうかと思った。撫松地方の住民には風土病患者が少なくなかった。それにかかると、手がこわばり、指の節が太くなり、喉がはれて労働能力を失い、たいてい30前に死亡するといわれていた。父の死後、撫松に来た呉東振が、母に吉林へ引っ越すようにと勧めたのも、一つには、その風土病を懸念したからである。

 学期末休暇のときに帰ってみると、母は風土病ではなく過労のために病んでいた。それまでの半生、母は休息というものを知らずに苦労のしどおしで、疲労に疲労が重なって健康を害したのだと思うと胸が痛んだが、あの恐ろしい風土病でなかったと知って、それでもほっとしたものだった。

 母は、安図に移ってからは胃痛で苦しんだ。当時は胃痛を「癪」といっていた。胃のあたりでなにか大きなものが胸を突き上げるようだと母は訴えていた。いまにして思えば、胃癌だったのかもしれない。

 医者は癪だと診断を下しながらも、これといった処方はできなかった。母の病には、どんな薬も効かなかった。胸がつかえるときは床に横たわるか、食事を抜くか、薄い重湯をさじで数杯すするのが唯一の療法だった。

 母の病気を治そうと、同志たちもいろいろと気をつかってくれた。共青の同志たちは、てんでに薬を送ってよこした。新聞広告を見て、母の病気によさそうな薬があると、いくら高価なものでも買って小包で送ってくれた。小包は、吉林からも、瀋陽やハルビン、竜井からも送られてきた。

 安図地区の漢方医も母の治療に労を惜しまなかった。大沙河の漢方医は、治療費も取らずに治療をしてくれた。

 わたしは哲柱の充血した目や沈んだ表情から、母が危篤状態にあることを悟った。家に米はあるのかと聞くと、それも切れたという。

 わたしは翌日、小沙河の同志たちからもらった金で粟を1斗買い、土器店谷へ向かった。1斗なら3人家族(母、哲柱、英柱)が1か月は食いつなげるだろうし、そのあいだに、われわれは南満州遠征から帰れるだろうと思った。

 1斗なら15キログラム程度になる。かゆも満足にすすれない当時のわが家にとって、15キロというのは祝い事でもできるほどの量である。しかし、わたしにはその1斗の粟があまりにも少なすぎるように思えた。背負い袋のひもが肩にくいこんだが、それでも荷が重いとは感じなかった。わたしにそそいだ母の愛にくらべれば、それは一ちぎりの綿ほどにも感じられなかった。

 わたしは以前、父から十三道倡義隊長李麟永の話を聞かされたことがあった。

 彼が十三道倡義隊長に推された経緯は、じつに劇的で、教訓的だった。関東(江原道)の義兵隊長たちが李麟永を義兵部隊の指導者に立てようとして家を訪れると、彼は臨終間近い老父をみとっていた。彼は、義兵はほかの者でも指揮できるが、両親は一度亡くなったが最後、二度と会えない、いつ亡くなるかも知れない老父を残して、どうして家を離れられようか、わたしは不孝者になりたくない、といって拒絶した。しかし、4日目にとうとう彼らの要請を聞き入れた。

 全国の義兵が競って李麟永のもとに馳せ参じ、その数は8000に達した。やがてホウイ、李康年(リガンニョン)の部隊も合流して倡義軍は8000人から1万人にふくれあがった。そこには、小銃で武装した3000人の旧韓国軍も含まれていた。

 全国の義兵長は、李麟永を十三道倡義隊長におしたて、彼の陣頭指揮のもとにソウルヘ向けて進撃した。ソウルに突入して一挙に統監府を攻め落とし、保護条約を廃棄するのが義兵の最終の目的だった。

 この作戦計画に従って義兵部隊がソウルに迫っていたとき、父親の訃に接した李麟永は、指揮を他人にゆだねて突如、郷里へ帰ってしまった。彼の帰郷に加えて許の指揮する先陣の敗報まで伝わると、義兵は士気を落とし、ついに部隊が崩壊するという悲惨な結末をまねいたのである。

 わたしは吉林で学生運動にたずさわっていたころ、留吉学友会の学生たちと、こうした李麟永の行動の正否をめぐって論争したことがあった。

 そのとき、多くは李麟永を腑抜けの義兵長だと非難した。1万もの兵力を率いる義兵隊長たる者が父の死を聞いて、それもソウル進攻を前にして帰郷するなどもってのほかだ、それでも男児か、いや愛国者か、と彼らは気炎を上げた。

 しかし、誰もがみな李麟永を批判したのではない。なかには、彼の支持者もいて、父に死なれた者が帰郷して喪主の務めを果たすのは当然なことではないか、といって彼を孝子だとほめたたえた。

 こんにちでは、国に忠実で親にも孝養をつくす者が孝子とされているが、当時はただ、両親に孝養をつくせば、それで孝子といわれた。わたしは、李麟永の行動はとても孝子の手本になれないと論駁した。

 「国と家庭をともに愛する人であってこそ、ほんとうの孝子といえる。家庭のみを重んじ、国難を軽んずるようでは、どうして孝子といえようか。いまや、孝道にかんする儒教的な価値観を正すべきときだ。李麟永がおのれの責務をまっとうし、目的を成就したあかつきに墓詣でをし、そこで焼香し、酒をついで墓前にぬかずいていたとしたら、その名は後世にいちだんと光り輝いたであろう」

 これは、封建的道徳観や儒教的孝道観にこりかたまっていた人たちに投げつける爆弾宣言であった。

 留吉学友会のメンバーは2派に分かれて、成柱の主張は聞くに価する、いやそうではない、とけんけんごうごうの議論をたたかわせた。

 こんにちの社労青員や少年団員なら論議の余地すらない単純明快な問題であろうが、当時としては、その正否を判断するのがきわめてむずかしい論題だった。国と家庭をともに愛することこそ真の孝道である、と全人民がひとしく認め、それを信念とするまでには、じつに数十年の歳月と血と涙の体験が必要だったのである。

 米袋をかついでわが家へ向かうとき、わたしはいまさらのように李麟永の逸話が思い浮かんだ。そして、なぜかあのときの倡義隊長の行動が正しかったようにも思えた。かつて腑抜けの義兵長だと口をそろえて非難した彼の行動に、一種の正しさを発見してひそかに同情し、多少なりともそれが理解できると思ったのは、われながら不思議なことであった。

 革命にたずさわるからということで家庭を忘れるのは容易なことでないし、実際にはありえないことである。革命も人間のためのものである以上、革命家がどうして家庭を無視し、父母や妻子の運命から顔をそむけることができようか。われわれはつねに、家庭の幸福と国の運命を同一線上においてとらえてきた。国が逆境に陥れば家庭も平穏でありえず、家庭に影がさせば同時に国の表情も暗くなるというのが、わたしの持論であった。そのような信念があったからこそ、われわれは一戦士の家族を救出するため、1個連隊の兵力を敵中に送る戦史にたぐいない措置もとったのである。これは、朝鮮の共産主義者のみが守りうる義理であり、道徳である。

 わたしもはじめのうちは、そうした道徳に忠実であろうと努めた。出獄後、東満州に活動舞台を移し、敦化と安図を中心にして各地をまわりながらも、母の病気に効きそうな薬を求めてはたびたび家に帰ったものである。

 ところが、それが母の怒りを買った。わたしの帰宅する回数が多くなると、ある日、母はわたしを前にしてこういった。

 「おまえは、革命にたずさわるつもりなら革命に専念し、家庭生活をするつもりなら家庭生活に専念する、そのどちらか一方を選びなさい。わたしの考えでは、家には哲柱もいることだし、わたしたちだけでちゃんと暮らしを立てていけるから、おまえは家の心配などしないで、革命に専念する方がいいと思う」

 わたしは母の戒めを聞いてからは、帰宅するのをできるだけひかえた。

 反日人民遊撃隊の創建後は、ほとんど帰らなかった。それがわたしにはくやまれた。母がなんといおうと、わたしは息子の道理を果たすべきではなかったろうか。こう思うと、胸がうずいた。家庭と国家にともに忠実であろうとするのは確かに容易なことでなかった。

 土器店谷が近づくにつれて、わたしの歩みはひとりでに速くなったが、心はかえって重くなった。重態の母の姿を見ることになるのだと思うと、心が乱れた。

 湿地の葦が、もうかなりのびて風に揺れていた。この一帯は葦が多いので、昔は葦原村と呼ばれていた。それが数年前、下の村の金秉一の一家が土器を焼いて売り出すようになってから、この閑散とした山里の様子がすっかり変わり、村の名も土器店谷と呼ばれるようになった。

 わたしは丸木橋を渡って、上の村へ向かった。見慣れたわらぶきの家が目の前にあらわれた。まばらに編んだハギの柴垣が一方に傾き、屋根のわらも長らくふき替えなかったので、廃屋のようにさびれて見える家、それが何年も男手の届いていないわが家だった。

 しおり戸を開けて庭に足を踏み入れたとき、部屋の戸がガタンと開いた。母は、門柱に背をもたせてほほえんでいた。

 「お母さん!」

 わたしはこう叫んで、母の前へ走り寄った。

 「やっぱりおまえだったのね。足音に聞き覚えがあると思ったよ」

 土縁に下ろした背負い袋のひもをまさぐる母の様子は、ほんとうにうれしそうだった。また帰ってきたのかと叱られはしまいかと心配したのだが、幸い、母はそんな素振りを見せなかった。

 母とわたしは、しばらく安否をたずねあった。わたしは話をしながらも、母の顔色や声音、身ぶりなどに注意をこらし、母の健康状態をうかがった。見かけは、この前の冬に会ったときとそれほど変わっていなかったが、気力はかなり衰えているようだった。張りのあった胸がすぼみ、首も細くなっていた。びんには白髪が目につくほどまじっている。無情な歳月が、こんなにも早く母の面影にいたいたしい痕跡を残したのかと思うと、悲しみをおさえることができなかった。

 わたしはその晩、12時すぎまで母と語り合った。日本軍がどこまで来たのか、遊撃隊はこの先どう行動することになるのか、梁世鳳先生とはどう手を握るつもりか、根拠地ではどういうことをするのか、と思いつくままに交わす会話には限りがなかった。

 母は、しきりに政治問題を話題にした。わたしが家の暮らしや母の容態にふれると、一言、二言答えてはすぐ話をそらし、深入りするのを避けた。

 わが子に自分の容態を話そうとしないのは、それだけ病気が重いことを意味している、とわたしは思った。母の余命はもういくばくもないのだと考えると、背筋が寒くなり、ひそかに涙をのみこんだ。

 翌日、わたしは、早目に朝食をすませて哲柱と一緒に山へ登った。柴を刈るつもりだった。家の様子を見ると、たきぎが2束ほどしか残っていなかった。それで今度帰った機会に、たきぎなりともいくらか準備しておけば、少しは気持ちが軽くなるのではないかと思ったのである。

 できることなら、数か月分のたきぎを集めておきたかったが、それはとてもできそうになかった。深い山ではないので枯れ木はどこにもなかった。やむなくホザキナナカマドの枝を切るほかなかった。

 「哲柱、こんなのでなく、もっといいのはないのか?」

 わたしがこうたずねると、弟は木綿のパジをゆすりあげて答えた。

 「なんでもいいから早く1束かついで帰ろうよ。お母さんに知られたら、また叱られるじゃないか」

 まだ子どもだと思っていたのに、そうでもなかった。

 哲柱は鎌を使いながらも、しきりに村の方に目をやっていた。母にいわずに出てきたので、感づかれはしまいかと気にしているようである。わたしが家事にかかずらうのを母が喜ばないことを弟もよく知っていた。

 わたしは、木の枝をつかんでは懸命に鎌をふるった。

 わたしたちは日が暮れかかるころ、柴を背負って山を下った。葦原が見下ろされる山の鼻を曲がったとき、庭先に立っている母の姿が目に映った。

 わたしは息杖を突いて山道を下りながらも、重い想念を追い払うことができなかった。重態の母を残して遠征するのだと思うと胸が締めつけられ、目の前がかすんできた。遠征期間は1か月か2か月と予定されていたが、そのあいだに、わたしの運命と部隊の行軍路にどんなことが起きるか、それは誰にも予測できないことだった。

 わたしは、こんなふうにも考えた。地下闘争をもう何年かつづけてはどうだろうか、そして何か月かに一度は帰宅して家事の相談にも乗り、母を慰めもすべきではなかろうか。そうするのが、半生を苦労しつづけ、精神的苦痛も人一倍大きい母にたいして、わたしが息子として守るべき当然の道理ではなかろうか。祖母が郷里に帰って何日もたっていないときに、わたしまで安図を発ってしまえば、どこにも頼るあてのない病弱な母は、孤独にたえられるだろうか。だが、わたし一個人の家庭問題のために、遊撃隊が年間活動方針として立てた南満州遠征計画を反故にすることはできなかった。

 「まあ、この山にたきぎがなくなるとでも思ったのかい」

 しおり戸の前でわたしたちを待っていた母が機嫌悪そうにいった。

 わたしは返事がわりに微笑を浮かべ、汗をぬぐって母の顔を見つめた。

 「おまえは、だんだんおかしくなるようだね。撫松でもそうでなかったし、興隆村にいるときもそんなことはなかったのに、近ごろはどうして家の心配ばかりしているんだい」

 母の声はうるんでいた。

 「久しぶりに草の匂いをかいで、気持ちがすっとしました」

 わたしは母の言葉を聞かなかったかのように、平静をよそおって庭へ入った。

 その日の夕方、わたしたちは久びさに4人家族みんなで膳を囲んだ。皿にハヤの焼き物が盛られていた。その味は格別だった。どこで手に入れたのかと聞くと、兄さんが来たらおかずがなくて心配だといって、英柱が川で釣ってきた魚を串ざしのまま軒につるしておいたのだ、と母がいった。指の大きさほどのものが一皿だったが、喉に通らず何尾か残した。

 英柱が眠ると、母は壁にもたせていた上体を起こして、きびしい口ぶりでこういった。

 「近ごろ、おまえはどう見ても変わったようだ。まさかおまえが、米袋までかついできて、母さんを養おうとするとは思わなかったよ。母さんの病気が心配なのかい。親孝行をしようという気持ちはありがたいけれど、わたしはそんなことで心が晴れはしない。撫松にいたとき、婦女会を増やそうとおまえの手を取ってあの険しい山道を歩いたのは、わたしがきょうこんな慰めをうけたかったからだと思うのかい。おまえには、もっと大事なことがある。それはお父さんの遺言を守ることなんだよ。わたしよりもっと苦しい思いをしている朝鮮人はいくらでもいる。だから、わたしの心配はしないで、早くおまえの道を行くのだよ」

 母の声は激情にふるえていた。

 わたしが顔を上げると、母はあとの言葉がつづかず唇を噛んでいた。その一言一言に集約された母の人生観が一瞬、わたしの心をはげしく揺さぶり、いたいほど肺腑にしみこんだ。

 母は、ちょっと息をついて、話をつづけた。

 「柴を刈ることにしてもそうではないか。おまえが暇な人間なら、それもいいだろう。…この世に母さんも弟たちもいなかったことにして、家の心配はいっさいするのでない。おまえが家を出て革命活動をりっぱにすれば、わたしの病気だって治るかも知れないよ。だから、おまえは部隊を引き連れて早く発ちなさい。それがわたしの願いだよ」

 わたしは即座に答えた。

 「お母さんのお言葉を肝に銘じます。今夜はここに泊まって、あす小沙河にもどり、部隊を率いて南満州の梁世鳳先生のところへ向けて出発します」

 わたしはどっと涙があふれ、顔をそむけた。母も気が休まらなかったのか、片隅の針箱を引き寄せて、わたしの軍服のボタンをつけはじめた。

 どうしたわけか、ふとわたしの脳裏に、父の葬儀のときのことが思い浮かんだ。

 あのとき母は喪服をつけず、父の墓所にも行かなかった。ただ、わたしたち3人兄弟にだけ喪服を着せて葬礼に送り出した。叔父をはじめ、呉東振、張戊M、梁世鳳など独立軍の人たち数十人が柩のあとにつづいたが、母は家に残った。

 父の没後の端午の日、わたしたちは一緒に墓参りをしようと母にせがんだ。

 母は、わたしは行かないから、おまえたちだけで行きなさい、といって一緒に行こうとしなかった。そして、わたしたちに供え物を持たせて、焼香の仕方や酒のつぎ方、礼の仕方などを一つ一つ教えてくれた。母がわたしたちと一緒に墓参りをしなかったのは、子どもたちに涙を見せたくなかったからであろう。

 だが、母は一人でよく墓参りをした。その慣例を破ったことが1度あったが、それは葬儀に遅れて撫松にやってきた李寛麟が父の墓参りをしたときである。母が彼女を墓地へ案内したのだが、李寛麟が墓前に泣きくずれてしまったので、むしろ、母の方が彼女を慰めたほどだという。

 母は情にもろかったが、人前では涙を見せなかった。女性としては、珍しいほど気丈な性格だった。 少年時代に目撃したその驚くべき性格は、わたしの生涯に消しがたい印象を残した。

 そのような母であったからこそ、あの孤独な病床生活のなかで、自分の道を行けとためらいなくわたしを促し、きびしく鞭打つ心情でわたしの魂を強くゆさぶり、一生の座右銘となる深刻な訓戒をしたのである。

 わたしは、母が普通の母親ではなかったと思う。わたしが折にふれて、馬東煕(マドンヒ)の母堂張吉富(チャンギルブ)女史は普通の母親でない、といっている理由もそこにある。彼女は解放後、わたしに会った。ところが彼女は泣かなかった。ほかの婦人たちはわたしに会うとみな泣いたが、彼女は泣かなかった。わたしは、お子さんの戦友が多い平壌で住むようにと勧めた。だが、張吉富女史は、息子を密告したかたきを探し出さなければといって、誰にも告げず郷里へ帰った。

 わたしは眠れなかったので庭へ出た。冷たい空気にあたりながら傾いた垣根の前を歩いていると、哲柱がそっと戸を開けて出てきた。

 わたしたち2人は薪束の上に座って語り合った。哲柱は、これまで共青活動の方に熱中して、お母さんの面倒はあまり見られなかったが、これからは兄さんに心配をかけないように母につくす、といった。じつは、わたしもそのことを頼みたかったのだが、弟が先にいってくれたので気持ちが晴れた。

 朝、わたしたちは、打ち豆をおいしく食べた。食後、わたしは裏手に住む金正竜を訪ねた。弟たちの身の振り方を相談するためだった。

 あすにも南満州へ向けて発たなければならないのだが、家のことが気がかりで、土器店谷を離れるのがためらわれる、とわたしは偽りのない気持ちを打ち明けた。金正竜は、家族のことは自分にまかせて発て、自分が一切の面倒を見る、弟たちの世話も焼き、母の病気もみとるから心配しなくてもよい、といってくれた。

 わたしは家へもどり旅支度をした。わたしが履き物のひもを結んでいると、母は行李の底から5円紙幣を4枚取り出して、わたしの前に置いた。

 「客地ではなにかとお金がいるだろうから、これを持って行きなさい。男のふところには急場に使うお金がなくてはならないものだよ。清朝末に、孫文先生がある外国の大使館に監禁されたとき、掃除夫にお金をいくらかつかませて脱出したことがある、とお父さんがよくおっしゃっていたではないか」

 金は受け取ったものの、手がふるえてふところに納めることができず、どうしたものかと迷った。その20円に母の汗がどれほど深くしみているかを、わたしはあまりにもよく知っていた。指がすり減るほど洗濯や裁縫の賃仕事をしながら、1銭、2銭と蓄えた20円の金。役牛1頭が50円ほどだったあのとき、その金なら若い牛が買えた。米を買っても3人が1年は食べていけるほどの金である。

 わたしは、金の重みで、体の釣り合いを失ったかのようによろめきながら縁を降りた。

 「お母さん、行って参ります。どうかお達者で」といって頭を下げた。そのときわたしが気づかったのは、ふだんと違ったふうにあいさつをして母を悲しませてはいけないということだった。それで、なんでもないように、いつものしなれたあいさつをしたのである。

 「早くお行き、どうせ行く道なんだから」

 母は病色の濃い顔に無理に微笑をたたえて、うなずいてみせた。

 わたしが一歩踏み出すと、後ろで戸の閉まる音がした。わたしは歩き出した。だが、足は村はずれに向かうのでなく、家のまわりを巡りはじめた。手には20円の金がそのまま握られていた。1回まわり、2回まわり、3回まわり…

 その長くもない時間に、わたしの脳裏には終夜、心をとらえて放さなかった複雑な想念が、雲のように湧き起こった。わたしがこの庭にもどってくる日はいつのことだろうか?

 はたして自分は勝算のある道に向かって進んでいるのだろうか? 前途にはなにが待ち構えているだろうか? 母の病気は好転するだろうか?

 わたしがこんな想念にとらわれて家の周囲をまわっていると、母が戸を開けてきびしく叱った。

 「なにが気になってまだ行かず、ぐずぐずしているの。国を取りもどそうと決心した人間が、そんな弱気になって家のことでくよくよするようでは、どうして大事をなし遂げられるというの。おまえは家のことを心配する前に、獄中にいる亨権叔父や晋錫伯父のことを考えるべきではないか。奪われた祖国を思い、民衆を思うのだよ。日帝に国を奪われて22年にもなるのに、おまえが朝鮮の男児なら大きな心をもって、しっかりと第一歩を踏み出すべきではないか。この先、おまえが母さんのことを気にしてここへ来るというなら、二度と門前にあらわれてはいけないよ。わたしはそんな息子には会わないから」

 母の言葉は落雷のように、わたしの心に響いた。

 母はその一言一言に気力をことごとくつぎこんだかのように、頭を門柱にもたせて、愛情と熱気と怒りの入りまじったまなざしをわたしに向けていた。それは、百里の道を歩き通して八道溝にたどりついた日の夜、わが家に一晩も泊めずにそのままわたしを臨江へ送り出した、あのときの母を思い出させるような姿であった。

 わたしは、あのように義に燃え、熱気にたぎる、強く気高い母の姿を見るのははじめてだった。母は全身をおおい包んだその義と熱気に焼かれて、そのまま灰になるのではないかと思われた。

 そのときまでわたしは、わたしを生み育てた母を十分に理解しているつもりであった。ところが母はあのとき、まるで想像もできなかったはげしい気迫と魂をもって、わたしを見下ろしていたのである。

 その姿は、母というよりはむしろ師のそれだった。なんとりっぱな母、なんとありがたい母だろうかと、わたしは母にたいする誇りで胸が張り裂けるほどの幸福感にひたった。

 「お母さん、お元気で」

 わたしは帽子を取り、深々と頭を下げた。そして、村の外へ向かって大またで歩き出した。

 丸木橋を渡ってふりかえると、白衣の母が門柱に体を支えてわたしを見守っていた。それが、わたしの瞼に残った母の最後の姿だった。あの病弱な体のどこに、この息子の胸をあれほどはげしくゆさぶる剛毅な気高い魂がひそんでいたのだろうか。あんなにりっぱな母が病魔に苦しんでさえいなかったら、わたしはどんなに軽やかな気持ちでこの道を歩めるだろうか。わたしはこみあげる涙をこらえ、唇を噛んだ。

 それは、生涯に数十、数百回と体験するただの離別ではなく、わたしの生涯に胸の痛む追憶を残した、二度とくりかえされることのない永別だった。わたしはその後、ふたたび母に会うことができなかった。

 数か月後、母の死を知って、真っ先にわたしの心をとらえたのは、最後に別れたあのとき、なぜもっとあたたかい言葉をかけてやれなかったのかという悔恨の念だった。だが、母はそのような感傷的な離別を望まなかったのだから、わたしとしてはどうしようもなかったのも事実である。

 高齢のいまになっても、わたしはあのときのことが忘れられずにいる。人間の生涯には、少なくとも何度かはそのような体験を味わうものである。そうしたとき、紙一重のわずかな違いから人間の運命は大きく変わり、まったく正反対の終着点に至るものである。あのとき、母がわたしに家庭の苦しさを訴えるか、わたしの決心をにぶらせるようなことをなにか一言でもいったとしたら、翼を広げて大空へ飛び立とうとするわたしの胸中にどんな波紋を起こしたであろうか。

 幼年期の反日人民遊撃隊を率いて小沙河の台地をあとにしたあのときから、わたしは戦友とともに数十年の歳月、人間の想像を絶する血戦の道、酷寒の道、飢餓の道を歩んだ。その後は社会主義の旗をかかげて、創造と建設の半世紀を歩んだ。

 祖国と民族のためのあのきびしい試練にみちた日び、革命家の信念をためす苦境に遭遇するたびに、わたしはなんらかの理念や哲学的命題を想起する前に、わたしを南満州へ送り出したときの母の言葉と、わたしを見送ってくれた母の最後の白衣の姿を思い出しては勇気を奮い起こしたものである。



 


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