金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 南満州へ


 遊撃隊活動の公然化が実現し、抗日遊撃隊が正式に創建されると、隊員たちのあいだでは、活動をどのようにはじめるべきかという問題が深刻に論議された。

 城市で閲兵行進をして小沙河に帰ったわれわれは、隊員を3、4人ずつ農家に分宿させて数日間休息をとらせ、あわせて遊撃隊の活動方向を決定する討議をおこなった。ここでも、卡倫や明月溝のときと同様、激烈な論争がくりひろげられた。

 それは、まさに諸説紛々であった。

 遊撃戦の概念もまちまちだったが、戦術のことになるともう十人十色の感があった。知識水準や生活経緯、それに所属団体まで違っていた100余人の青年が集まったのだから、主張にまとまりがあるわけもなかった。

 彼らの主張は、およそつぎの3つに大別することができた。

 第1の主張は、グループ論だった。つまり、中隊や大隊、連隊、師団といった判で押したような部隊編制法を採用せず、機動性のある簡便な武装グループをたくさんつくり、たえまない消耗戦によって敵を打ち破ろうというものだった。遊撃隊員を3人1組、5人1組などに分け、参謀部の統一的作戦に従って数十、数百のグループがいたるところで活動すれば、日本帝国主義者を十分屈服させることができるというのである。

 彼らは、武装グループを基本単位とする遊撃戦が植民地民族解放闘争の新しい形式を創造する過程になるだろうと主張した。このグループ論の主張者は、敦化と延吉から来た青年のなかにとくに多かった。彼らは、李立三の極左冒険主義路線の影響をもっとも多くうけ、その毒素がいまもなお彼らの思考方式に残っていたのである。

 車光秀は、この武装グループ論を現代版ブランキスムだとこっぴどく批判した。彼の見解にはわたしも同感だった。

 日帝の軍事力はとてつもなく強大であるから、大部隊による全面的な武力対決を避け、何人かずつグループをつくって羅錫疇や姜宇奎のように敵の主だった者たちに爆弾を投げ、支配機関に火をつけ、親日派や民族反逆者に鉄槌を下そうというのが武装グループ論の本質である。

 武装グループ論は、遊撃戦の外皮をまとったテロリズムの変種であった。この主張に従えば、われわれは大部隊による遊撃戦を事実上、放棄することになる。それは、闘争方法における後退を意味した。われわれは、そうした後退を認めるわけにいかなかった。

 反日人民遊撃隊の創建を前後して、日本と中国では、わが国の愛国者による2つの衝撃的な事件が起こった。その一つは、東京宮城の桜田門外で天皇の乗った二頭立て馬車に爆弾を投げた李奉昌(リボンチャン)烈士の義挙であり、いま一つは、同年4月29日、上海の虹口公園で尹奉吉(ユボンギル)烈士が断行した爆弾投てき事件だった。李奉昌の場合は爆弾がそれて目的を果たせなかったが、尹奉吉の方は成功して、上海駐屯日本軍司令官白川大将と村井上海総領事、河端居留民団長を即死させ、さらに駐中公使、第9師団長、海軍大将をはじめ、天長節を記念するため虹口公園に集まった首脳クラスの軍事・政治要人に重傷を負わせて、内外に大きな波紋を投げた。

 李奉昌が天皇の行列に爆弾を投げて逮捕された翌日の1932年1月9日、中国国民党の機関紙『国民日報』は、特号活字の「韓人李奉昌狙撃、日本天皇不幸否中(不幸にも命中せず)」という見出しで事件を報じ、その他の各新聞も李奉昌の義挙を大々的に報じた。この記事を見て激怒した現地の日本軍と警察は『国民日報』社を襲撃、破壊し、「不幸」という表現を使った新聞社はことごとく閉鎖してしまった。

 尹奉吉の義挙は、朝中人民がひとしく激賞した。虹口公園事件後、中国各界の名士は、連日、事件の黒幕と目される金九に面会を申し入れた。日本の侵略に投降主義政策をとっていた国民党反動政府の首脳部も朝鮮民族の徹底した抵抗精神と英雄主義に感動し、在中朝鮮人にたいする経済協力を約束したほどである。

 李奉昌と尹奉吉は、ともに金九の部下で、彼が主管する韓人愛国団のメンバーだった。韓人愛国団の基本的な抗日闘争方法はテロリズムだった。

 李奉昌と尹奉吉の義挙につづいて、大連では、金九が送った愛国団員が関東軍司令官暗殺未遂の嫌疑で逮捕される事件が起きた。彼らは国際連盟のリットン調査団が奉天を出発して大連に到着するとき、日本の軍事・政治要人が駅頭に出迎える機会を狙って、関東軍司令官と満鉄総裁、新任外事部長の暗殺を企てたのである。金九は、部下を派遣して朝鮮総督まで暗殺しようとした。

 伊藤博文を射殺した安重根(アンジュングン)が民族の英雄としてまつりあげられ、李奉昌、尹奉吉の義挙によって、国内はもちろんアメリカ大陸、沿海州、満州などの同胞社会がわきかえった。そうした時代の雰囲気が敵愾心に燃える多くの朝鮮青年をテロリズムヘと走らせたのである。そんなときに、武装グループ論が台頭し、反日人民遊撃隊の活動方向を決める論議の場にまでもちこまれたとしても、別に不思議なことではなかった。武装グループ論の提唱者は、朝鮮と日本、中国など各地で尹奉吉義挙と同じような事件がつぎつぎに起これば、日本の支配機構がゆらぐであろうと力説した。

 いま一つの主張は、即時、全面的武装攻撃を断行すべきだというものであった。金日竜は武装グループ論の支持者だったが、朴勲や金普i金歩)は即時武装対決論に未練をもっていた。数千数万の正規軍や暴動大衆がさかんに気勢を上げる大都市の光景を見慣れていた朴勲が武装グループ論を鼻であしらい、全面的な武装攻撃をただちに開始しようと言い張るのはある程度理解できたが、入り婿暮らしに慣れた温順な金浮ェその性格に似合わず、どうせやるなら最初から大きく出るべきだと熱弁を振るうのを見ると、驚かずにはいられなかった。

 全面的武装攻撃に移行すべきだとする主張にも、それなりの論拠はあった。日本は9.18事変によって満州占領の目的をいとも簡単に達成し、さらに、中国本土でも上海その他の要衝を掌握した。東3省には、かいらい「満州国」が誕生して国旗をかかげた。つぎの目標はどこか? 中国本土とソ連である。いま日本軍は情勢の推移を見て攻撃速度をゆるめてはいるが、いずれまた、なにかの口実を設けて中国を攻撃し、ソ連に進攻するのは火を見るより明らかである。だから、現在組織された武装部隊をもって全面的な軍事作戦を展開するのは、戦争の泥沼に深くはまりこんだ日帝の後頭部を強打することになる。わが遊撃隊が積極的な攻撃態勢をとるのは歴史の命令である… これが彼らの論拠であった。

 金日竜は、その急進的な主張を「布団の丈を見て、足をのばせ」ということわざをもって一蹴した。実際、それは反日人民遊撃隊の準備程度を考慮しない無謀な主観的見解だった。

 もちろん、われわれが卡倫でうちだした武装闘争路線は、日帝との全面的武装対決を予見したものである。抗日武装闘争の基本的様相が、組織的で全面的な武装対決になることは疑いをいれなかった。しかし、第一歩を踏み出した遊撃隊がなんの準備もなしに、最初からそのような冒険をするのは自殺行為にひとしかった。

 以上のほかに、いま一つの主張があった。それは、敵を知り、おのれを知れば百戦百勝し、敵も知らず、おのれも知らなければ百戦百敗するという理屈による慎重論だった。

 慎重論者はこう主張した。われわれの相手は強敵だ。われわれはどうか。量でも質でも敵に劣る新生の若芽にすぎない。もちろん、われわれが将来、強大になるのは疑いない。だが、いまは隠密に行動しながら量的、質的に不断に力を養わなければならない。われわれの戦いは長期化するであろうから、地道に力を蓄積し、敵が弱体化する機会を狙って一挙に攻撃を加えて撃滅すべきである…

 それは、きわめてなまぬるく、しかも、めどのつかない漠然としたものだという非難を浴びた。

 われわれは、このような論議を小沙河ではじめておこなったのではない。孤楡樹で革命軍を組織するときも論議し、卡倫で武装闘争路線を確定し、明月溝会議で組織的遊撃戦争の展開を決定したさいも同じような論議をした。だが、以前からわれわれと組織生活をともにしていない人たちは、われわれの意図を正しく把握できなかったのである。

 同じ隊伍のなかで、重要な路線上の問題をめぐってこのようにさまざまな意見が出されたのは、反日人民遊撃隊の幼さを示す一つの好例といえよう。われわれの部隊は、職業や知識水準、出身地や出身組織の異なる人たちで構成されていた。『東亜日報』や『朝鮮日報』などの出版物を読み、中学講義録なども定期的に購読して知識を広めてきた青年もいれば、蒋光慈の『少年漂泊者』や崔曙海の『脱出記』のような小説を読み、社会改造のバラ色の夢を追って遊撃隊に入隊した青年もいたし、また、学校へ行けなかったが赤衛隊や少年先鋒隊などの革命組織で何年か政治的修養を積み、銃を手に入れて武装隊伍に入った青年もいた。したがって、さまざまな事物現象を理解するうえで、おのずとレベルに差が生ずるのはやむをえないことだった。

 こうした実情にあって、われわれは、部隊内で思想の唯一性、行動の一致性、慣習の統一性をはかる組織・政治活動にとくに関心を向けざるをえなかった。われわれはその第一工程としてなによりも、遊撃隊の戦術的原則と重要な路線上の問題を理解するうえで一致性を保つべきであり、この工程をへずには誕生したばかりの反日人民遊撃隊が第一歩からつまずくおそれがあると認めた。

 わたしは車光秀とともに村をまわり、われわれの戦術上の意図を理解できずにいる隊員たちにこう説いた。

 「武装グループ論は、安重根の前轍を踏もうとするものだ。テロリズムで日帝を屈服させるというのは妄想にすぎない。伊藤博文は死んだが、日本の支配はそのまま残ったばかりか、むしろ『満州国』まででっちあげ、いまは中国本土に触手をのばしている。ときには、反日人民遊撃隊がグループ活動をすることもありうるが、グループが基本的な戦闘単位になってはならない」

 「ただちに全面的武装攻撃へ移ろうという主張も非現実的である。100人余りの部隊で数十数百万を数える日本の大軍に正面からぶつかっていくなど途方もないことだ。100人が突撃して数十万の大軍をおさえられると考えるのは、それこそ浅はかな判断である。諸君! 絶対に敵を過小評価してはならない」

 「ではどうすべきか。当分は、中隊を基本単位にして遊撃戦を展開しよう。グループ単位の活動では大きなことがやれない。やがて部隊が成長すれば、もっと大きな単位で行動することにもなろうが、いまは中隊単位で行動するのがもっとも理想的だ。最初から大部隊を編制できないというのは君たちも承知しているはずだ。抗日戦争が何回かの戦闘で終わる短期戦になるわけはない。だから少数の兵力でスタートを切り、戦闘を進めていくなかで不断に武力を蓄積し拡大して、時機が到来すれば、全人民の武装蜂起と結びついた決戦によって最後の勝利をかちとるのだ。われわれは、軽装備で縦横無尽に機動し、集中した敵を分散させ、分散した敵は各個撃破し、大敵を避け、小敵は掃滅するといった戦法で、終始、戦略戦術的優勢を確保し、たえざる消耗戦によって日帝を打ち破らなければならない。これが遊撃戦であり、そこにこそ遊撃戦の妙味があるのだ。戦いを避け、こそこそと隠れ歩きながら兵力の蓄積にきゅうきゅうとし、好機の到来を待って一挙に敵を撃滅しようと主張する慎重論者諸君! 闘争と犠牲なしに、そして血を流すこともなく好機がひとりでにやってくると思うのか。われわれに独立の機会を提供する者は、どこにもいないことを銘記すべきだ。そのような機会は、われわれが闘争によってみずからつくりださなければならない」

 わたしはこのようにして、われわれの意図を隊員たちに納得させた。もちろん、すべての隊員がその場でわたしの説明を理解したわけではなかった。なかには自説をあくまでも曲げようとしない者もいた。

 わたしは実地の闘争だけが彼らの論争に終止符を打ち、真理がいずれにあるかを判定するであろうと考え、遊撃隊の活動方向を決定するための思索に惜しみなく時間を割いた。

 抗日戦争の途についたわれわれの部隊には、当時、つぎのような課題が提起されていた。第1に、反日人民遊撃隊を実戦のなかで鍛えること、第2に、部隊を質的および量的に急速に拡大強化すること、第3に、革命軍隊が依拠すべき大衆的基盤を強固にきずき、遊撃隊のまわりに各階層の広範な大衆を結集することである。

 われわれは以上の課題解決の突破口を南満州遠征に求め、それを1932年の主要な年間戦略として確定した。

 われわれが安図で組織した武装部隊は、他の県や区で結成された武装部隊とは異なる特殊な点があった。他県の遊撃隊は地元の人たちで組織されていたが、安図遊撃隊は東満州と南満州の各県で選抜された前衛や国内から来た先覚者からなっていた。そして、他の地方の遊撃隊は地元に定着して活動することを原則としていたのにひきかえ、われわれの部隊は活動範囲を一定の地域に限定せず、白頭山地区と鴨緑江および豆満江沿岸の全般的地域で活動することを原則としていた。

 安図は地域的に見て、遊撃戦にきわめて有利なところではあったが、われわれはそこに閉じこもっているわけにいかなかった。たったいま殻を破って生まれ出たわが遊撃隊は、広大な地域に進出して風雨にさらされながら幹を伸ばし枝を張って、人民のなかに根をおろさなければならなかった。性急に戦闘一面に偏るのも警戒すべきことだったが、自己保存にきゅうきゅうとして狭い枠のなかに閉じこもり、時間を無駄に送るのも許されないことだった。

 われわれが遠征によって反日人民遊撃隊のスタートを切ることにした重要な理由の一つはそこにあった。

 南満州遠征の主な当面の目標は、鴨緑江沿岸で活動する独立軍部隊との連係を結ぶことであった。南満州の通化地方には梁世鳳司令の指揮する独立軍部隊が駐屯していたが、われわれは彼らと共同戦線を張ろうと考えた。

 梁世鳳の指揮する独立軍部隊は数百人にのぼり、朝鮮革命軍とも呼んでいた。

 安図で反日人民遊撃隊が創建された当時、梁世鳳は唐聚伍の自衛軍と合作して、日本軍と満州国軍を打ち破る戦果をあげた。そのニュースは小沙河の谷間にまで伝わってきて、われわれを喜ばせたものである。

 朴勲は、反共思想にこりかたまった国民府系民族主義者の梁世鳳が、共産主義者との合作を喜ぶはずはない、と懸念したが、わたしは、中国の救国軍とも共同戦線を結んだわれわれが、反日という共同の目的をもち、同じ血を引く人たちと手を握れないわけがない、独立軍部隊との統一戦線をなんとしても成功させるべきだと強調した。

 わたしが梁世鳳との合作が可能だと見たのは、彼がわたしの父と深い親交を結び、わたしをたいへんかわいがってくれたかつての情宜とよしみを重視したためでもある。金時雨(キムシウ)と梁世鳳が樺甸で父と義兄弟の契りを結び、記念写真まで撮ったということを、わたしは幼いころに聞いていた。梁司令と父との親交はなみなみならぬものだった。そんなよしみがなかったなら、彼がわたしのために華成義塾に紹介状を書いてくれるはずもなかったであろうし、吉林に来るたびに毓文中学校にわたしを訪ねては、そっと金を握らせてくれるようなこともなかったであろう。

 学費に困り、一銭の金さえ惜しんで他人がよく買って食べる焼餅の味も知らずにすごしていた当時、その金がどんなに役に立ったか知れない。

 旺清門事件後、国民府一般に幻滅を感じて梁世鳳とも自然に疎遠になってはいたのだが、彼にたいする感謝の念はいささかも消えていなかった。

 遊撃隊は創建したものの活路が開けずに苦悩していた当時、真っ先に梁世鳳に会おうという考えが頭に浮かんだのも決して理由のないことではなかった。統一戦線そのものも重要であったが、長年、実戦経験を積んだ彼から助言をうけ、激励してもらいたかったのである。

 一度の戦闘経験もなく、初陣に発つ喜びで浮き足立っていたわれわれにくらべると、梁世鳳司令は百戦の老将といえた。われわれは民族運動家に会うたびに、独立軍のようなやり方で戦うようなことは決してしないといいきったものだが、それは人民の力に依拠していない彼らの前轍を踏まないということであって、彼らの軍事経験や技術まで無視したわけではなかった。

 旺清門で国民府の白色テロを体験したとき、二度と独立軍のお偉方とは交渉をもつまいと決心したものだが、民族解放という共通の聖業を前にして、われわれは彼らの古傷にはふれないことにした。過去をうんぬんするなら合作は不可能である。

 南満州には、梁世鳳部隊のほかにも、李紅光や李東光など朝鮮共産主義者が指導する抗日武装部隊がいた。李紅光が1932年5月に組織した遊撃隊は、磐石工農義勇軍といった。この部隊は、のちに中国工農紅軍第32軍南満遊撃隊、そして東北人民革命軍第1軍に改編された。

 李紅光が有名になったのは、彼がすぐれた知略と用兵術をもって部隊を巧みに指揮したことにもよるが、関東軍や「満州国」の新聞が、彼を「女将軍」と誤報したことにも起因していた。

 李紅光が「女将軍」と呼ばれたのは、笑いを誘う喜劇的な出来事に由来している。東興襲撃戦闘を終えて根拠地に帰った李紅光は、部下の女性遊撃隊員を捕虜の尋問にあたらせた。女隊員は捕虜たちに「わたしは李紅光だ」といって、彼らに警察の配置状態や「討伐」計画をただした。

 その捕虜たちが帰隊して、「李紅光は20ほどの美人だ」といいふらした。こうして、日本軍のあいだでは李紅光が女将軍だといううわさが広まったのである。

 李紅光が武装闘争で軍人としての機知と胆力を大いに発揮したとすれば、李東光は、党建設と大衆の意識化・組織化でぬきんでた手腕を示した有能な政治活動家であった。彼の名は早くも、1920年代後期から東満州地方に広く知られていた。

 わたしに李東光のことを話してくれたのは、金俊と徐哲、宋茂であった。李東光は、竜井の東興中学校時代に学生運動のリーダーとして頭角をあらわした。竜井で、彼が第1次間島共産党事件で検挙され、その後脱獄したといううわさは吉林にも伝わった。

 わたしが1930年の夏、ハルビンで徐哲に会ったとき、彼はなにげなく、李東光がわたしのことを知っているといった。安昌浩先生が吉林で講演をしたさいにわたしを見、また五里河子で開かれた磐石地区農民代表者会議に参加したときもわたしを見たというのである。それでわたしは、徐哲に、李東光に会ったらわれわれの闘争戦略を伝え、いずれ会ってあいさつを交わし、同一の戦線で手を握ってたたかいたいというわたしの言葉を伝えてほしいといった。

 李東光は、のちに南満州特委書記、東南満州省委組織部長を歴任したが、われわれが南満州遠征を準備していたころは、磐石県で区委書記を勤めていた。

 東満州と同じように、南満州地方でも抗日武装隊の根幹をなしていたのは朝鮮の共産主義者であった。

 われわれは、南満州に行けば、彼らとも連係をとる計画だった。幼年期の部隊が一堂に会して経験を交わし、闘争対策を共同で模索するのは、反日人民遊撃隊の発展にとってきわめて有益である、とわたしは考えた。実際、われわれは抗日武装闘争の全期間、南満州地方の遊撃部隊と緊密な連係を保って活動した。そうした活動を通して、わたしは李紅光、李東光、楊靖宇などと深い親交を結んだのである。

 柳河、興京、磐石など南満州一帯では、われわれの組織が広くネットを張っていた。われわれが中部満州一帯で活動したさい、それらの地域に共青と反帝青年同盟のすぐれた活動家を多数送り、組織活動にあたらせた。崔昌傑と金園宇もその地方へ派遣されていた。ところが、彼らの努力によってつくられた組織が、9.18事変後、壊滅状態に陥ったのである。

 われわれが南満州へ行けば、それらの組織を立て直し、萎縮している革命家に活力を与えるうえでも有利であった。

 反日人民遊撃隊の創建後、われわれのすべての活動がなんの障害や曲折もなく、きわめて順調に進んだかのように叙述している歴史家がいるが、革命はそんなに単純なものではない。

 遊撃隊が南満州遠征によって第一歩を踏み出すことにし、それを実行に移すまでには、じつに多くの苦悩と曲折をへなければならなかった。

 わたしは1932年5月、区党本部の金正竜の家で、東満州各県の党および共青の指導的中核を集めて会議を開き、南満州遠征問題と根拠地創設問題を討議にかけた。われわれが提起した南満州遠征案は、参加者の一致した支持をうけた。部隊内でいくつかの派に分かれて激論をたたかわせた青年たちも、遠征方針には喜んで賛成した。

 われわれが遠征準備に没頭していたある日、参謀長の車光秀が、深刻な表情をしてわたしの前にあらわれた。

 「隊長! どうせ遠征するなら数日内に小沙河を離れてはどうだろうか? 近くの大道路を敵の輸送隊が頻繁に行き来しているのも穏やかでないし、食糧事情も逼迫している。農家は40戸ほどしかないのに、100人以上もの隊員がごろごろしているのだから、小沙河がいくら人情に厚い村だといっても、たまったものではないだろう」

 春から飢饉に見舞われて春慌暴動さえ起こした当時のことで、食糧に困っているのは改めて説明されるまでもなく、わたしもよくわかっていた。

 しかし、敵の輸送隊の往来が頻繁だから早く小沙河を発とう、という問題の設定には同意できなかった。

 わたしは、安図からこっそり抜け出そうという車光秀の提案にこう答えた。

 「参謀長、われわれは銃を取って立ち上がったのだから、ここらで一度戦ってみてはどうだろうか」

 「戦闘をやろうというのか?」

 「そうだ。部隊をつくったからには、戦いをはじめるべきではないか。敵が鼻の先を行ったり来たりしているのに、腕組みして見物ばかりしていることはなかろう。発つときは発つとして、安図でひとつ銃声を上げてみよう。戦いもしないで隊員が鍛えられるわけがない。うまくいけば、遠征に必要な物資も手に入るかも知れない」

 車光秀は快く応じた。そして、その日のうちに朴勲とともに道路沿いの地形を偵察した。伏兵に適した地点を見つけるためだった。偵察から帰った彼らは小営子嶺の峠道にひそんで、通りかかる輸送隊を襲撃しようといった。それは、わたしの構想とも合致した。わたしは、遊撃隊の戦闘形式のうちでもっとも適切で普遍的な形式は伏兵戦だと見ていた。

 小営子嶺は、安図と明月溝のほぼ中程にあった。大甸子から大沙河に抜ける近道で、小沙河からは直線距離で16キロ余りである。山容は険しくなかったが、谷に沿って道がくねくねとつづいているので伏兵には格好の地形だった。敵はこの道路を利用して、安図の各地に投入されている兵力に軍需物資を補給していた。

 ちょうどそのとき、武器と補給物資を積んだ「満州国軍」の馬車輸送隊が、明月溝から安図に向けて出発したという通報が地方組織から届いた。わたしはその夜、南満州に向かう予定の隊員を引き連れ、迅速に行軍して小営子嶺に到着し、道の両側に伏兵を配置した。

 夜間の伏兵戦は、合理的な戦法とはいえない。彼我の区別がつけがたい夜間は、伏兵戦より襲撃戦の方が効果的である。抗日戦争の全期間、われわれが夜間に伏兵戦をした例はあまりなかったように思う。

 呱々の声を上げたばかりのわれわれはまだ、そこまで見透かすことができなかった。幸いに満月の夜だったので、同士討ちをする懸念はなかった。

 輸送隊はかなり遅くなってから小営子嶺にあらわれた。100メートル前方の第1陣から敵の出現を知らせる合図があった。輸送隊は12両の馬車からなっていた。

 わたしは心臓の鼓動が感じられるほど緊張し、興奮していた。はじめてなにかを決行するとき、はげしい胸のときめきや不安、危惧に襲われるものだということを、わたしはそのとき身をもって体験した。かたわらに伏せている朴勲を見ると、彼もかなり緊張しているようだった。黄埔軍官学校を卒業し、硝煙をくぐった経験のある彼でさえそうなのだから、他の隊員の場合はおして知るべしであった。

 前方の伏兵は、馬車隊をそのまま通過させた。行列がわれわれの前へ半分ほど入ってきたとき、わたしは岩に上がって拳銃を発射した。谷間に割れんばかりの銃声が鳴り響き、喊声が上がった。

 われわれは腕に白手拭いを巻いて敵味方を見分けたが、奇襲された輸送隊はそれもできず、盲滅法に銃を撃った。十数人の護送兵が馬車の陰に隠れて必死に応戦した。戦いが長引けば、われわれに不利になるおそれがあった。

 われわれは10分ほど射撃をつづけてから突撃に移り、一気に戦いの結末をつけた。敵は十数人の死傷者を出して投降した。捕虜の数もそれと同じ程度だった。彼らは「満州国軍」の兵士であったが、そのなかに日本軍下士官が1人いた。わたしは、捕虜を前にして簡単な反日演説をした。

 その夜、われわれは10台の馬車に戦利品を積んで木条屯に帰った。小銃17挺と拳銃1挺、それに100人が1か月は食べられる小麦粉と布地、軍靴… 初の戦利品としてはたいへんなものである。

 われわれは深夜の12時すぎ、庭のたき火をかこんで小麦粉のすいとんをつくって食べた。緒戦の勝利を祝う簡素な宴会だった。

 わたしは、すいとんを食べながらも、高鳴る心臓の鼓動を静めることができなかった。すいとんの味もよかったが、気分はそれ以上によかった。わたしは、あのときの緒戦に勝利した喜びと、破裂しそうな心臓の鼓動を60年がすぎたいまも忘れていない。

 近眼鏡の奥で涙を流しながらたき火を見つめていた車光秀が、いきなりわたしの手をつかみ、うるんだ声でいった。

 「成柱! やってみたらなんでもないな」

 これが参謀長の初陣の所感だった。

 わたしの所感も一言で集約すればそのようなものだった。戦いとは、特別なものではない。銃があり、胆さえ座っていれば誰にでもやれる。敵は、われわれが考えていたほど手ごわいものではない。どうだ、彼らはわれわれに手を上げて降参したではないか。だから自信をもってもっと大きな戦いを準備しよう。われわれは勝てる。われわれは勝利できるのだ。これがわたしの気持ちだった。

 「こんなときに金赫がいたらどんなにいいだろうか。金赫がいたら、いまごろは即興詩が飛び出していることだろうに。あんなに早く逝くとは。金赫! 信漢! 利甲! 済宇! 孔栄! … みんなどこへ行ってしまったんだ!」

 車光秀はうわごとのようにつぶやきながら、頬を伝わる涙をぬぐった。反日人民遊撃隊の誕生を見ずにわれわれの隊伍を離れて先に逝った同志たちのことを思って泣いているのである。

 わたしもまた、反日人民遊撃隊創建の地ならしをして犠牲になった同志たちのことを思った。この日を見ずに逝った戦友の面影が瞼に浮かび、こみあげる悲しみをおさえることができなかった。彼らがみな生きていたら、われわれの隊伍はどんなに強力であろうか。

 車光秀はメガネを取り、手を振りながら演説した。

 「諸君! われわれは第一歩を踏み出した。われわれは緒戦を飾った。誰が飾ったのか。ほかならぬここにいるわれわれだ」

 彼は、両腕を広げ、隊員をかかえあげるかのようなゼスチュアをした。

 「銃を取ったからには、それを発射すべきだし、銃を発射すれば勝利しなければならない。そうではないか? 今夜、われわれは馬車輸送隊を一つ掃滅した。これは一つのささいな出来事にすぎない。だが、それは、われわれの偉業の幕開きだ。いまや、小さなせせらぎが深い山の谷あいから広びろとした大海に向かって流れはじめたのだ」

 わたしは、車光秀がそんなに興奮するのをはじめて見た。

 その晩、彼はじつにりっぱな演説をした。わたしがいま記憶をたどってつづるこの文章の記録より、はるかに生き生きとして感動的だった。彼の演説をそのままここに再現できないのが残念である。

 「諸君! 戦ってどんなによかったか。銃が手に入り、食糧も被服も履き物も手に入り… わたしは今夜、偉大かつ深奥な弁証法を学んだ。これから、ぶんどった銃を分けることにしよう。その銃でまた新たな敵を撃滅しよう。そうすればさらに多くの銃が手に入り、食糧も得られるだろう。機関銃も大砲も手に入るだろう。ぶんどった糧米で米袋をみたそう。それを食べながら勇ましく行軍しよう。日帝を完全に掃滅するその日まで、われわれは今夜のように武器と食糧を彼らから奪い取ろう。これこそわれわれの生存方式であり、闘争方式ではなかろうか」

 彼が演説を終えると、わたしは真っ先に拍手を送った。彼の演説にこたえて四方から熱烈な拍手が起こった。

 つぎに、誰かが立ち上がって歌をうたった。趙徳化だったか朴勲だったか、いまは思い出せないが、大いに感興をそそる歌であった。

 われわれはこのようにして、確信にみちた第一歩を踏み出したのである。



 


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