金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 新しい武力の誕生


 1932年の春は、重大な出来事があいつぎ世界は騒然としていた。満州大陸を占領した日帝は、孫文の国民革命によって打倒された清国最後の皇帝溥儀をかつぎだし、かいらい満州国をでっちあげた。日本の御用宣伝機関や中国、満州の親日的なマスコミは「5族協和」「王道楽土」の建設を唱えて満州国をたたえたが、アジアと世界の進歩的世論はそれをはげしく排撃した。世界の耳目は、9.18事変勃発の原因と責任の所在を解明するため日本に到着した国際連盟調査団の活動にそそがれた。

 イギリス枢密院顧問リットン卿を団長とするアメリカ、ドイツ、フランス、イタリアなど列強代表からなる調査団は、天皇に謁見し、首相、陸相、外相にも会ったあと、中国に渡って蒋介石、張学良と会見した。そのあと、満州にあらわれて関東軍司令官本庄中将に会い、9.18事変の勃発現場も視察した。日本側と中国側は、それぞれリットン調査団に秋波を送り応接と歓迎に熱を上げた。調査団が真相を明らかにし国際連盟が影響力を行使すれば、日本は満州から撤兵するかも知れないという憶測が、政界、社会各界、マスコミはもちろん、政治に敏感になった小学生や隠居部屋の老人のあいだでもささやかれた。

 しかし、安図地区で武装闘争を準備していたわれわれは、そのような憶測やうわさにはいっさい耳を傾けず軍事教練に熱中した。小沙河婦女会の会員は、毎日のように昼食を用意して土器店谷の台地にやってきた。

 われわれは3月中旬、安図で東満州各県に組織された遊撃隊グループの指揮官のための短期訓練(短期講習)を催した。各地から20人近くの指揮官が小沙河土器店谷に集まった。

 短期訓練は2日間で、初日は理論講義を、翌日は動作訓練をおこなった。わたしは、朝鮮革命の路線と方針問題をもって政治講習の講師をつとめ、また遊撃隊の生活規範と活動準則にかんする講義もした。軍事訓練は、主に朴勲が担当した。そのときわれわれは、隊列動作、武器の分解と組み合わせなど初歩的なことから襲撃、伏兵など戦術的問題へと訓練を深めていった。

 安図は、反日人民遊撃隊の創建をめざす朝鮮共産主義者の活動本部、中心となった。豆満江沿岸の各県から工作員や連絡員が、われわれとの連係をはかって随時、小沙河にやってきた。われわれが安図で遊撃隊を組織するといううわさは口から口へと伝わり、国内にも知られるようになった。うわさを聞いて朝鮮や満州各地から20前後の血気さかんな青年が、死線を越えて安図を訪れ入隊を志願した。

 五家子の辺達煥が入隊を志望する8人の青年と連れ立って安図へ向かう途中、日本軍警に逮捕され投獄されたのもそのころのことである。解放直後、わたしを訪ねてきた辺大愚老は、息子が入隊もできずに何年もむなしく獄中生活を送ったと残念がった。

 間島各県のうちでも、とくに延吉地方の人たちが、もっとも多くわれわれのところへやってきた。延吉地方には、敵の支配機関と弾圧手段が集中し、密偵網もととのっていた。1932年4月初め、羅南第19師団所属第38旅団の第75連隊を基幹にし、砲兵、工兵、通信兵によって増強された池田大佐麾下の間島臨時派遣隊が東満州地方「討伐」を目的に豆満江を渡り、延吉をはじめ間島一帯に進駐した。

 そうした実情のなかで、当地の地下組織は、入隊を志望する青年を安図に数多く送りこんだ。組織の推薦とは関係なく、うわさを聞いて自発的に訪ねてくる青年も多かった。

 敦化の陳翰章も胡択民という中国青年と一緒にわたしの前にあらわれた。胡択民は、和竜で師範学校の教員をしていた。

 ときには、十数人もの青年が連れ立ってやってくることもあった。

 ところが、救国軍が途中で彼らを捕えては、集団虐殺する事件がしばしば起こった。

 当時、中国東北地方には、東北自衛軍、反吉林軍、抗日救国軍、抗日義勇軍、山林隊、大刀会、紅槍会など、さまざまな反日部隊があった。反日部隊とは、日帝の満州占領後、抗日救国の旗をかかげて旧東北軍から離脱した愛国的軍人や官吏、そして、農民からなる民族主義軍隊のことである。それらの部隊はおしなべて救国軍と呼ばれた。

 満州地方の反日部隊のなかで有名だったのは、王徳林、唐聚伍、王鳳閣、蘇炳文、馬占山、丁超、李杜などの部隊である。

 東満州最大の反日部隊は、王徳林部隊だった。王徳林は一時、穆棱と綏芬河一帯の密林で主義主張もなく「緑林の豪傑」といわれる土匪となって青年時代をすごし、のち部下を引き連れて張作相の吉林軍に入り、正規軍の将校となった人物である。彼は9.18事変まで、旧吉林軍の第3旅団第7連隊第3大隊長を勤めた。民間では、彼の大隊を「旧3大隊」と呼んでいた。

 日本軍の満州侵攻後、彼の上官の旅団長吉興が白旗をかかげて関東軍司令官に会い、日本帝国への忠誠を誓って吉林警備司令官に任命された。

 上官の反逆行為に憤慨した王徳林は、即時反旗をひるがえし、抗日救国を宣言した。彼は500余人の隊員を引き連れて山中に入り、中国国民救国軍を組織して呉義成を前方司令官に任命した。そして、日本帝国主義侵略軍にたいする抗戦を開始した。

 羅子溝一帯を活動拠点として間島地方の敵を牽制し、のちにわが遊撃隊と親密な関係を結んだ呉義成や史忠恒、柴世栄、孔憲永などは、いずれも王徳林の忠実な部下だった。

 南満州の山間地帯では、唐聚伍の自衛軍が活動し、黒竜江省一帯では馬占山部隊が北上する日本軍に抵抗していた。安図の山間奥地に入ってきたのは、呉義成麾下の于司令部隊である。その部隊は非常に鼻息が荒かった。

 彼らは朝鮮共産主義者を日帝の手先とみなし、朝鮮人が満州大陸に日帝侵略軍を導き入れた張本人だと思いこんでいた。日本帝国主義者が朝中両国人民のあいだにくさびを打ち込もうと離間策を弄していたうえ、5.30暴動と万宝山事件による朝鮮人への悪感情が中国人の胸にいつまでもわだかまっていたのである。

 救国軍の頑迷な上層部には、朝鮮民族と中華民族は日本帝国主義侵略者によってまったく同じ災難と不幸を強いられている被抑圧民族であり、中国人が日帝の手先になれないように朝鮮人も日帝の狗になれず、中国人が朝鮮人民の敵になれないように、朝鮮人も中国人民の敵になれないということを理解するだけの政治的判断力や洞察力がなかった。彼らは、共産主義にたいしても盲目的な敵対感情をいだいていた。それは救国軍の上層部が、ほとんど有産階級の出身だったという事情に起因していた。救国軍の上層部は、朝鮮人は共産党であり、共産党は派閥集団であり、派閥集団は日帝の手先であるという自己流の公式をつくり、それを尺度にして朝鮮の青壮年を迫害し、殺害したのである。

 都市や平場では、日本侵略軍がばっこし、日本軍に占領されていない農村や山間地帯では数千数万の救国軍がたむろして、われわれを圧迫した。救国軍の敵対行為は、幼弱なわが遊撃隊の存在自体を脅かす重大な障害となった。

 日本帝国主義者はもとより、山林隊や独立軍まで朝鮮共産主義者を敵視したので、われわれは孤立し、文字どおり四面楚歌の窮地に立たされていた。

 反日部隊との関係を改善せずには、遊撃隊の存在と活動を公然化できなかった。遊撃隊が認められなければ、隊伍の拡大も公然たる軍事行動も考えられなかった。

 部隊は組織したが公然と活動ができないので、われわれはいわば裏部屋に閉じこもっているほかなかった。外に出てこそ日の目が見られるのだが、それができないのである。軍服もなく私服姿で他家の裏部屋でモーゼル拳銃をいじくってばかりいては、どうして抗日ができようか、と慨嘆するのみだった。それも朝鮮人村に隠れて自由に出歩けず、暗くなってからせいぜい何人かでひそかに出歩くという有様だった。

 当初、われわれが遊撃隊を秘密遊撃隊と呼んだ理由もそこにあった。

 われわれは、日本軍ばかりか救国軍や満州国軍の敗残兵をも避け、共産主義者を敵視する朝鮮の一部の民族主義者や反動分子をも警戒しなければならなかった。公然と活動すれば、共産党だと発砲し、乱暴を働くのだからまったく身動きができなかった。延吉、和竜、汪清、琿春などの事情も変わるところがなかった。

 だからといって、共産主義者の家ばかり選んで歩くわけにもいかなかった。それでなくても貧しい人たちのところへ、何十人も押しかけて面倒をかけては、彼らの生活はいっそう苦しくなるばかりである。

 遊撃隊を公然化して日中に歌をうたい、大衆の歓迎をうけ、宣伝をしてこそ事が順調に運び、戦意も高揚するのだが、そうできないのがもどかしかった。

 われわれは集まりさえすれば、遊撃隊をどうして公然化すればよいのか、反日部隊との関係をどう解決すべきか、などの問題をもって論議を重ねた。

 もっとも深刻な問題は、共産主義者が中国の民族主義者と手を握るのが正しいかどうかということだった。救国軍は、上層部が有産階級出身でしめられ、地主、資本家、官僚などの利害を代弁する軍隊である。われわれ共産主義者が、そんな彼らと手を握るのは階級的原則の放棄、妥協を意味しないか、と疑念をいだく人たちが少なくなかった。彼らは、救国軍と一時的に関係が改善できても、同盟関係は結べない、彼らの敵対行為を実力でおさえるべきだと主張した。

 それは、じつに危険な主張であった。

 わたしは、救国軍にはいろいろな制約があっても、闘争目的と境遇が共通している以上、抗日戦争でわれわれの戦略的同盟者になりうるという確固とした立場に立ち、救国軍との関係改善はもちろん、彼らと連合戦線を結ぶべきだと主張した。思想と理念の異なる2つの武装力が連合戦線を結ぶという構想は、当時はじめて提起されたもので、はげしい論争の的となった。

 反日部隊との連合戦線結成問題は、中国共産党でも深刻な問題として提起されていた。東満州特委は早くから王徳林部隊に注目し、7、8人の優秀な共産党員を派遣して救国軍の工作にあたらせた。われわれも李光などの共産主義者を救国軍部隊に送りこんだ。

 わたしは連絡員を通じて、同山好部隊に派遣された李光が救国軍工作に苦慮している状況をたびたび聞いた。

 救国軍がいよいよ横暴をきわめると、同志たちは、連合戦線は空想にすぎない、彼らをたたいて犠牲になった人たちの恨みを晴らそうといいだした。わたしはそのような彼らをやっと説き伏せた。救国軍を敵にまわし、ことごとに報復を加えるのは反日の大義と道理にもとり、幼弱なわが遊撃隊を自滅に導く無分別な行為でもあった。

 間島はもちろん、満州全域の共産主義者と遊撃隊員が救国軍のために苦しんでいた。

 当時、各県の遊撃隊は、隊員数がいくらにもならなかった。一つの県にせいぜい数十人程度だった。それも救国軍につかまれば容赦なく殺害されるので、部隊を増強したくても思いどおりにいかなかった。

 そのような状況だったので、わたしは遊撃隊が当分のあいだ于司令の部隊に入って、別働隊として活動するのが合理的ではなかろうかと考えた。于司令の部隊に入れば、救国軍の看板がかかげられるから被害をうけるおそれがなく、武器も少しは得られるだろう、積極的に影響を与えれば彼らを共産主義化して安全な同盟者に変えることもできる、という仮説を立てて同志たちの討議にかけた。

 この問題をめぐって、党組織の本部がある小沙河の金正竜の家で終日会議がつづけられた。それをいまでは小沙河会議と呼んでいる。そのときの討議は激烈をきわめた。救国軍部隊に入って別働隊として活動するのは可能かどうか、有益かどうか、と朝から夜更けまで喉をからして論争した。愛煙家はもちろん、タバコをたしなまない者まで、タバコの葉を紙に巻いてはさかんに煙をくゆらすので、目が痛く、息苦しくてたまらなかったことが忘れられない。当時、わたしはまだタバコを吸わなかった。

 結局、別働隊にかんするわたしの着想は同志たちの支持を得た。

 会議では、救国軍と談判するため于司令部隊に代表を送ることが決定され、わたしが適任者として選ばれた。同志たちから推薦されたのでなく、わたしがみずから買って出たのである。

 当時、われわれには、軍事外交の経験者がいなかった。それで、誰を代表として送るべきかということがまた深刻に論議された。代表を送るとしても向こうが相手にしてくれるだろうか、談判をはじめても彼らが無理難題をもちかけてわれわれを窮地に追いこまないだろうか、それに、下手をすれば代表が殺害されかねないという懸念もあって、そうした状況を臨機応変に処理できる人物が代表として選ばれなければならない、と異口同音に強調した。

 われわれのなかには、それだけの人材がなかった。于司令と対座するには年配者を送るべきだったが、それに該当するのは朴勲と金日竜、胡択民の3人しかいなかった。金日竜はわたしより十数歳年上だったが、中国語が上手ではなかった。それ以外の人たちは曹亜範のように学校を出たばかりの18〜20歳の青年だった。

 わたしは同志たちに、自分が行こうといった。

 彼らはそれに反対した。成柱は隊長ではないか、于司令が共産党だといって危害を加えたらたいへんだ、だから陳翰章か曹亜範、胡択民など中国の同志のうち駆け引きのうまい人を選んで送るべきだと主張した。

 わたしは彼らに、于司令がどうしてわたしを殺すと思うのか、と反問した。彼らは、知れたものではない、そこへ行って「高麗棒子(コリパンズ=朝鮮人め)」といって殺されたらそれまでだ、ほかの者がみな殺されているときに、君だからといって殺されない理由があるのか、汪清の関部隊事件以来救国軍は朝鮮の青年と見ればますます殺気だっている、だから君は行かないほうがよい、というのだった。

 関部隊事件というのは、汪清で活動している李光の秘密遊撃隊が反日部隊の関部隊を武装解除した事件である。そのため遊撃隊と救国軍の関係は急激に悪化し、遊撃隊の活動はいっそう困難になった。汪清から来た連絡員は、自分たちの地方では関部隊事件があったあと、その報復として何人もの遊撃隊員が救国軍につかまって銃殺されたといった。金策同志が北満州で山林隊につかまって九死に一生を得たのも同じころの出来事だった。

 わたしは、自分が行くべきだと強く主張した。わたしがそれほど強力に主張したのは、わたしの外交術がとくにすぐれているとか、于司令を説き伏せるなんらかの妙策があってのことではなかった。当時、遊撃隊の存亡は于司令との談判いかんにかかっており、われわれの成敗も彼らとの連携いかんにかかっていた。それに救国軍を同盟者にしないでは、東満州で遊撃戦はもちろん、自由に動くことすらできないのが現実であった。そして、この難局を乗り切って武装闘争を開始しなければ、朝鮮の息子としての生きがいがなく、生き長らえる面目もないと考えたからである。

 わたしは、死を恐れては革命ができない、わたしは中国語ができるし、青年運動時代にさまざまな試練をのりこえた経験もあるのだから、行きさえすれば于司令にきっと会える、だからわたしが行くべきだ、と同志たちを説得した。そして、朴勲と陳翰章、胡択民のほかにいま1人の中国人青年をともなって、于司令のもとへ向かった。なんら身辺保障のない冒険の道だった。

 めざす司令部は、両江口に位置していた。

 救国軍にどこから来たかと聞かれたら、安図だといわずに吉林から来たと答えることにした。救国軍に遊撃隊の駐屯区域である東満州の地名を告げるのは危険だった。

 われわれは、大沙河に通ずる道の途上で于司令部隊に出あった。数百人の隊伍が『三国志』に出てくるような「于司令」と染め出した旗をなびかせ、威風堂々と行軍してきていた。于司令部隊が南湖頭で日本軍を掃討し、機関銃まで奪ったあとだったので、世間がそのうわさでもちきりのときだった。

 「避けないか?」

 胡択民が不安げにふりむいた。

 わたしは「いや、ぶつかっていこう」といって、そのまま歩きつづけた。ほかの4人もわたしの両側に一列に並んで足並みをそろえて歩いた。

 救国軍はわれわれを見ると、「高麗棒子、来い!」と怒鳴った。そして、有無をいわせず逮捕しようとした。

 わたしは彼らに、われわれも君たちのように抗日をしているのになぜつかまえようとするのか、と中国語で抗議した。彼らはわたしに、朝鮮人でないのかと聞き返した。わたしは胸を張って、朝鮮人だと答え、陳翰章や胡択民らは中国人だといった。

 「われわれは急いで協議したいことがあって、君たちの司令を訪ねていくところだ。司令に案内してもらいたい」

 わたしがこう威厳をつくろって要求すると、彼らの態度が少しやわらぎ、自分たちについてくるようにといった。

 しばらく行くと、旧東北軍将校の身なりをした指揮官が昼食の命令を下し、われわれを近くの農家へ拘禁した。

 そのとき、思いがけないことに、吉林毓文中学校時代の恩師、劉本草先生が農家に入ってきた。彼は毓文中学校で一時、漢文を教え、のちに文光中学校や敦化中学校でも教鞭をとった人だった。彼は、尚鉞先生とも親交が深く、陳翰章とも旧知の間柄だった。先生は、人柄がよく知識が広いうえに、良書をいろいろと紹介してくれたり、りっぱな詩をつくって学生の前でよく朗唱したりしたので、われわれは劉先生を慕い、尊敬したものだった。

 わたしと陳翰章は、歓声を上げて先生の前へ走り寄った。苦境に陥ったとき恩師にめぐりあったのだから、うれしさはひとしおだった。

 劉本草先生も驚きと喜びをかくせず、われわれにたずねた。金成柱、どうしてこんなところにいるのだ? なんのためにここへ来たのだ? どこへ行こうとしてつかまったのだ? わたしがひととおり訳を話すと、先生は部下に向かって、「この人たちを手厚くもてなせ。わしもここで一緒に昼食をとるから、ご馳走を持ってくるのだぞ」と大声で指示した。先生は日本軍の満州侵攻後、教壇を離れて于司令部隊に入り、参謀長を勤めているというのである。

 劉本草先生は食事を取りながら、国が滅ぶのを黙って見るにしのびず軍服を着たのだが、無知な部下を引き連れて戦うのだからやきもきすることが多い、自分たちのところへ来て一緒に戦わないかと勧めた。われわれがそれに同意し、于司令に会わせてもらいたいというと、于司令はいま両江口から安図城市へ向かっている、だから自分と一緒に行けば会えるだろう、といった。

 そこで、わたしは先生にいった。

 「先生、われわれも朝鮮人部隊を一つつくりたいのです。日帝にたいする恨みは、中国人より朝鮮人の方が深いではありませんか。ところが、反日部隊はなぜ朝鮮人の抗日を妨げ、乱暴を働き、殺しさえするのですか?」

 「そうなんだ。わしはそんなことをするなと懸命になってとめるのだが、どうも思うようにいかない。共産党がなんであるのかも知らない無知なやからだからね。共産党も日帝に反対しているのに、なにが悪いというんだ」

 劉本草先生も憤慨した。

 わたしは先生の言葉を聞いて、よかった、活路は開けた、とひそかに喜んだ。わたしはただちに朴勲を小沙河へ送りかえし、われわれが無事である、于司令部隊の参謀長が心からわれわれを助けてくれている、遊撃隊を公然化できる見通しがついた、と同志たちに知らせた。

 食後、われわれは、劉本草先生について安図城市へ向かった。

 先生には専用の軍馬があった。先生に乗馬するよう勧めたが、「君たちを歩かせて、わたし一人乗るなどとんでもない。君たちと一緒に話をしながら歩こう」といい、城市までずっと歩きとおした。

 反日部隊の兵士はほとんどが「不怕死不擾民(プパスプヨミン)」という文字入りの腕章をつけていた。それは死を恐れず、人民に危害を加えるな、という意味である。

 兵士たちのあいだにただよう険悪な印象とは裏腹に、彼らの合言葉はきわめて健全で戦闘的だった。それを見ると、于司令との出会いがよい結果をもたらすかも知れない、という期待が大きくなった。

 その日、われわれは劉本草先生の紹介で、于司令と難なく会うことができた。彼は参謀長の体面をおもんばかってか、われわれを礼儀正しく迎え入れ、高位級の客としてもてなしてくれた。われわれがみな中学校を卒業し、演説もできれば檄文も書け、武器も扱える血気さかんな青年だと知って、麾下に置きたかったのかも知れない。

 案にたがわず、于司令は、われわれに自分の部隊に入らないかと勧め、わたしには、司令部宣伝隊の隊長になれというのだった。

 わたしは、われわれの軍隊をつくり、それを公然化するのが目的だったので、司令の要求には困惑せざるをえなかった。わたしが拒絶すれば、于司令の憤激を買うだろうし、劉本草先生の立場も苦しくなるだろうと考えた。

 わたしは妙なことになったと思ったが、于司令に信頼されるのは、とにかく幸先のよいことだと考え直し、司令のお言葉どおりにする、と答えた。于司令はすっかり機嫌をよくして、その場で部下に任命状を書かせた。

 こうして、わたしは司令部宣伝隊長になった。そして、胡択民は副参謀に、陳翰章は秘書に任命された。まったく思いがけない結果になったが、これも踏まなければならない道だった。とにかく遊撃隊を公然化する活路が開けたのである。

 わたしは、他家の裏部屋にこもっていたときの境遇と、劉本草先生の紹介で于司令部隊の心臓部に深く入りこんだ状況を対比して、万事うまくいったと心中ひそかに快哉を叫んだ。

 ところがその日の夕方、われわれは思いがけない出来事にぶつかった。救国軍が、延吉から冨爾河に向かっていた朝鮮青年を7、80人も捕えて、城市へ引き立ててきたのである。

 驚きと憤りの入りまじった気持ちで引き立てられてくる青年たちを遠くから眺めていたわたしは、劉本草先生のところへ飛んでいった。

 「先生、たいへんなことになりました。先生の部下が朝鮮人をまた大勢つかまえてきました。あの人たちのなかに親日派がいるわけはありません。あのなかには、親日派などいません。日帝の手先が実際にいるかどうかを調べて処理すべきではありませんか」

 劉本草先生はわたしの話を聞いて、「成柱、君が行ってみたまえ。わたしは君を信じる」と答えた。

 「先生、わたし一人ではだめです。先生も一緒に行って下さい。先生は、演説が上手ではありませんか。先生が演説すれば、彼らが日帝の狗だとしてもりっぱに感化できるでしょう。彼らを感化して日帝と戦わせるべきです。親日派でもない者をやたらに殺して、どうしようというのです」

 「成柱は演説が上手なのに、わたしまで演説することはなかろう。一人で行ってみなさい」

 劉本草先生は、手を横に振って、聞き入れようとしなかった。

 先生がいうように、わたしが学生時代に演説をたくさんしたのは事実だった。吉林、敦化、安図、撫松、長春などをまわって、日帝の満州侵略野望を暴露し、朝中人民の団結を呼びかける演説をいろいろとした。

 劉本草先生はそのことをよく知っていた。

 「先生、わたしが朝鮮語で演説すれば、先生の部隊の人たちはなにをいっているのかわからないではありませんか。わたしがよくない宣伝をしているのではないか、と疑われたらどうします」

 劉本草先生はそれでも手を振って、早く行ってみるようにと促した。

 「成柱がやるのはせいぜい共産党の宣伝ぐらいだろうから、大丈夫だ。わたしが保証人になるから、心配せずに演説をしなさい」

 先生は、わたしが共産党に関係し、共産主義運動をしていることも知っていた。

 「共産党の宣伝も必要なときはすべきではありませんか。それがいけないということはないでしょう」

 互いに信頼する仲でなかったとしたら、わたしは劉本草先生にこんなことをいえなかったであろう。わたしが共産党で日帝の手先だといって危害を加えられたとしても、どうしようもなかったはずである。だが、先生はわたしとごく親しい間柄だったので、もちろんそんなことは起こらなかった。

 わたしと劉本草先生は、毓文中学校時代、わけへだてなく交わっていた。当時、劉先生はわたしにとくに目をかけてくれたものだった。

 わたしが参謀部で劉本草先生と押し間答をしているところへ、于司令があらわれた。彼は捕えてきた青年たちのほうに目を向けて、また共産党員をつかまえてきたらしい、共産党がいつのまに満州にあんなに増えたのだろう、と首を振った。

 そのとき、劉本草先生がわたしに、「宣伝隊長が早く行って、あの人たちと話し合ってみなさい。朝鮮人がみな共産党員であるはずはないし、また、共産党だからといって、みな日帝の手先であるわけもない」といって目くばせした。于司令はそれを聞いて、かんかんになった。

 「なんだって? 暴動を起こして土地を奪おうとしたあげく、日本人まで引き入れた奴らではないか。それでも共産党が日本人の手先でないというのか?」

 朝鮮人にたいする于司令の偏見は思ったより強く、盲信的だった。共産主義者にたいする誤解もそれに劣らず執拗なものだった。

 わたしは、なんとしても于司令を説き伏せようと思った。わたしは、こう決心すると、単刀直入に質問した。

 「司令は、共産党が悪いというのを本でお読みになったのですか? それとも誰かから聞いたのですか? それでなかったら、どうして共産党員が悪いというのですか」

 「本など読むものか。人の話によればそうだということだ。口のある者ならみな共産党員は悪いといっている。だから、わしも悪いと思ってるんだ」

 わたしはあきれたが、一方では、そうだったのか! と安堵の胸をなでおろした。体験からではなく、うわさを聞いただけでの反共なら、誤解は十分にとけると思ったのである。

 「司令が定見もなしに他人の言葉をうのみにしていては、大事を遂げることはできません」

 そこに居合わせた陳翰章や胡択民も共産主義者であり、参謀長もその支持者だったから、結局、于司令はわれわれに包囲された格好になった。

 わたしは、好機を逃すまいと追い討ちをかけた。

 「司令! 大事な青年をやたらに殺してどうするのですか。あの人たちにすぐには銃を持たせられないとしても、槍を1本ずつ持たせて突撃隊に使ってみてはどうでしょうか。日帝と勇ましく戦うかどうかを試してみるのです。勇ましく戦えば、それにこしたことはないはずです。ただ殺してしまうことはないではありませんか」

 于司令はわたしの話を聞いて、「それもそうだ。では、宣伝隊長が行って、その問題を解決してみるんだな」といった。

 わたしは捕えられてきた青年たちのところへ行き、紙切れにこう書いて、そっと彼らのあいだにまわした。「君たちは証拠がない以上、絶対に共産党員だというな。君たちの体を調べるときに出てきた『反日兵士に告ぐ』というビラは、どこかで拾ったものだと答えろ」という内容のものだった。彼らは、その紙切れがどのように自分たちのところにまわってきたのかわからなかった。

 わたしを見る彼らの目は怒りに燃えていた。わたしを于司令の手先だと思っているようだった。

 わたしは、彼らの敵意にみちた視線を全身に感じながら、こう質問した。

 「君たちのなかで、金成柱という名前を聞いたことのある人がいますか?」その一言が張りつめていた彼らの緊張をほぐした。場内がざわめき、金成柱という名前を聞いたことがあるという者もいれば、聞いたことがないという者もいた。

 「わたしがその金成柱です。わたしはいま、この于司令部隊の宣伝隊長をしています。

 于司令は先ほど、君たちが救国軍に合流して戦う意向があるかどうか、確かめるようにといいました。われわれとともに戦うつもりがあれば、戦うと答えてください」

 彼らはいっせいに「戦います!」と声をそろえて叫んだ。

 わたしは、于司令に青年たちの意向を伝え、彼らを受け入れて日本軍と戦わせてみてはどうか、と提案した。于司令は一も二もなく同意した。青年たちの生死とその運命は、われわれの思惑どおりに決定された。われわれには、反日連合戦線を実現できるさらに広い道が開かれたのである。

 こうして遊撃隊の公然化がほとんど実現したと思われたとき、于司令を裏で操っていた朝鮮人顧問が妨害をはじめた。彼は金佐鎮(キムジュアジン)派に属する古くからの民族主義者で、南湖頭で農業に従事していたのだが、9.18事変が勃発したとき救国軍に合流した人物だった。彼は知識があり頭が切れるので、于司令の厚い信任を得ていた。

 彼は、于司令をそそのかして共産主義者を迫害する策士だった。彼は先の青年たちの問題でも、7、80人もの人間を調べてみもしないで部隊に受け入れるのは軽挙妄動だ、あのなかには親日派がいないともかぎらないではないか、と騒ぎたてた。彼をおさえなくては、われわれの活動にまたも重大な障害が生じかねなかった。

 ある日、わたしは于司令にそれとなくたずねた。

 「この部隊に朝鮮人が一人いるとのことですが、なぜ、そのことを話してくださらなかったのですか」

 司令は、まだ会っていないのか、といって、部下に彼を連れてくるよう命じた。

 彼はかなりの長身で、体格もがっちりしていた。

 わたしは、「はじめてお目にかかります。先生はお年を召されて経験も積んでおられるでしょうから、未熟なわれわれ若い者たちをよろしくご指導願います」と、先にあいさつした。

 彼も自己紹介をした。彼は、司令部に中国語の達者な朝鮮青年が来て宣伝隊長になり、于司令を補佐していると聞き、同じ朝鮮人としてたいへんうれしく思っているといった。

 彼が朝鮮人の名分をかかげ、民族をうんぬんしたので、わたしは機会を逃さずにつめよった。

 「それなら、抗日をしようという人たちを一人でも多くつのるべきだと思いますが、どうしてやたらに殺すのでしょうか。思想が違えば殺してもよいというのでしょうか? 朝鮮人が祖国で暮らせないだけでもくやしいのに、ここ満州に追われてきてまで救国軍に殺されるのですから、こんなくやしいことがどこにありましょうか。共産主義であろうが民族主義であろうが主義を問題にせず、団結して日帝と戦うべきであって、やたらに排斥し、殺してなんの利益になるというのですか」

 彼は、宣伝隊長のいうことが正しいといって、わたしをしげしげと眺めた。こうして、第2の障害も取り除かれた。

 于司令は、われわれの対話がなごやかに終わったのを見てほほえんだ。

 わたしは于司令に、司令がわたしを信頼してくださるなら、宣伝隊長の地位は胡択民のような人物に兼任させて、わたしにはむしろ、朝鮮人を集めて戦う隊長の任務を与えてもらえないだろうか、と提起した。

 劉本草先生は、それがいいといって、わたしを支持した。

 于司令は、朝鮮人の部隊を別につくるとすれば、銃はどこから手に入れるのかと聞いた。

 わたしは、「銃は心配しないでください。司令に出してくれとはいいません。われわれは敵の銃を奪って部隊を武装させます」と答えた。

 于司令はそれを聞いて、たいそう満足した。

 「それなら部隊をつくるがいい。だが、君たちに武器を与えて、この先、その銃口がわしらに向けられたら、どうするんだ」

 「そんな心配はご無用です。そのような裏切りは絶対に起こらないでしょう。銃口を向けたところで、われわれのようなちっぽけな部隊が司令の大部隊にかなうわけがないでしょう」

 于司令は手を横にふって、隊長が冗談を真にうけたようだ、といって豪傑笑いをした。

 わたしは、最初から救国軍を離れるといえば于司令が怒るだろうと思い、司令の名義で部隊の名をつけてほしいといった。

 かたわらにいた劉本草先生が、「では別働隊としよう。朝鮮人別働隊とするのがよいだろう」といった。

 劉本草先生の提案に于司令がうなずき、わたしも賛成した。

 秘密遊撃隊を公然化する基礎作業は、別働隊の誕生によってりっぱな実を結んだ。われわれは、この別働隊に安図の秘密遊撃隊員と于司令部隊に抑留されている7、80人の青年を繰り入れて、遊撃隊を公然化させた。

 わたしは陳翰章と胡択民の手を取って、司令の部屋を出た。われわれは「勝利した!」「大成功だ!」とくりかえしながら夜通し城市のまわりを歩いた。

 胡択民はわたしにタバコを一本勧め、ひとつ煙を吸ってみろといった。きょうのような喜ばしい日には酒に酔うか、それがなければタバコの煙にでも酔ってみようというのである。わたしは生まれてはじめてタバコをくわえ、煙を吸いこんだ。ところが、煙が喉につかえ息がつまって、長いこと咳きこんだ。それで、胡択民も笑い、陳翰章も笑い、わたしも笑った。

 「なんだ、タバコも吸えないで、どうやってパルチザンの隊長になるんだ」

 胡択民はこんな冗談口をたたいた。

 小沙河へ帰って談判の成功を伝えると、裏部屋に閉じこもっていた同志たちが、わたしを肩車に乗せていっせいに外へ飛び出し、村じゅうに響けとばかりに万歳を叫んだ。

 渋い喉で知られている金日竜が『アリラン』を歌い出した。明るく楽しいワルツや勇ましい行進曲がふさわしいこのよき日に、筋骨たくましい大の男が『アリラン』のような哀歌をうたいだしたのだから、みな驚いた。

 金普i金歩)が金日竜の腕をつかんでたずねた。

 「日竜さん、このうれしい日になぜそんな歌をうたうんです?」

 「わからん。おれにもわからんよ。自分でも知らないうちに『アリラン』が出てきたんだ。とにかく、おれたちはずいぶん苦労したもんな」

 金日竜はうたいやめて、涙にうるんだ目を金浮ノ向けた。

 わたしは、彼の言葉を聞いて粛然とした。彼がいったとおり、われわれはこの日のために、どれほど険しい試練をのりこえてきたことだろう。金日竜の半生はそのまま、その試練の縮図といえた。彼は独立軍に入って民族主義運動にも参加し、共産主義運動にも従事した。朝鮮にも住み、満州や沿海州にも住んだ風雲児である。それは溜息と涙の絶えない受難にみちた生涯だった。

 『アリラン』は、そうした生涯を集約したものであった。溜息を笑いにかえ、挫折から突撃に移るべきその歴史の分岐点で、金日竜は『アリラン』によって波乱に富んだ過去を総括し、新しい門出に立った歓喜を、思う存分、青空の下でうたったのである。

 あのとき、路上で劉本草先生に会えなかったとしたら、われわれの運命は、そして、遊撃隊の運命はどうなっていたであろうか。わたしは現在も当時のことをふりかえっては、いまは亡き劉本草先生に無言の感謝をささげるのである。

 于司令部隊における談判の成功を誰よりも喜んでくれたのは劉本草先生だった。彼はわれわれが城市をあとにするとき、軍営の外まで見送り、われわれはもう敵ではなくて兄弟だ、友軍だ、といって喜び、わたしの手をかたく握って、日本帝国主義侵略者を打倒しよう、と激情に燃えていった。

 のちに先生が亡くなったという知らせに接したとき、わたしは安図城市におけるあの忘れえない談判の日びや毓文中学校時代のことを回想し、悲しみに沈んだ。

 われわれは于司令との談判に成功して遊撃隊の存在と活動を公然化し、ひいては反日抗戦でともに手を握ってたたかう同盟軍を獲得した。

 談判の成功はまた、愛国愛族の大義をかかげるならば、思想と理念の異なる他国の民族主義者とも統一戦線を結んで、共同闘争をくりひろげることができるという自信をわれわれにいだかせた。

 そうした自信は、その後の半世紀以上にわたるわたしの政治生活に大きな影響をおよぼしたと思う。わたしは、思想と理念の異なる民族主義者や生活経歴の複雑な有産階級出身など各階層の人士を包容する問題が提起されるたびに、それをためらい、偏見をもって対応する人たちに、于司令と談判したときの経験談を話し、彼らに広い度量をもてと言い聞かせたものである。

 小沙河へ帰ったわたしは、汪清地区で対救国軍工作で難渋している李光に、于司令との談判内容と朝鮮人別働隊が組織された経緯をくわしく知らせ、安図での経験を参酌して汪清でもすみやかに別働隊を組織するよう任務を与えた。

 当時、李光は、地下活動をしていた。わたしは、1個中隊の人員を彼のもとへ送り、そこでも別働隊を組織して地下活動から公然活動へ移るようにした。

 別働隊とは、朝鮮人で組織された特別部隊のことである。朝鮮人部隊が救国軍に認められて公然と活動したのは、われわれと李光の部隊をおいてほかにはない。そのとき、われわれが別働隊という名称を使ったのは、遊撃隊の公然活動を保障し、救国軍との連携を強化して反日連合戦線を実現するための一つの戦術的な措置であったといえる。

 われわれは別働隊の組織後、それを拡大し、再編することによって、反日遊撃隊を一日も早く結成するために、その準備を活発におし進めた。

 隊伍の編成ではさまざまな論争もあった。

 そのとき、遊撃隊に労働者出身の隊員が少ないことをなによりも憂慮する人たちがいた。100人余りの入隊対象者を調べてみると、ほとんどが学生か農民の出身だった。その実態に驚いた彼らは、労働者出身が少ないのは革命軍の組織においてマルクス・レーニン主義の原則に反するのではないか、それに将来、それが革命軍の変質を招く要素になるのではないか、というのだった。

 わたしはそうした見解にたいして、労働者階級が革命軍の主要構成成分となるべきだというのはマルクス・レーニン主義軍事学の一般的な原理である、しかし、その原理を機械的に適用する必要はない、わが国では農民が住民の圧倒的多数をしめており、労働者は農民にくらべてきわめて数が少ない、だからといって労働者の数が増えるまで遊撃隊の創建を先にのばして待つわけにはいかない、わが国では農民や学生出身もみな労働者に劣らず革命意識が高く民族性が強い、出身は違っても労働者階級の思想をもって戦えばよいのだ、だから農民やインテリ出身が多いことが革命軍の変質要因にはならないと、じゅんじゅんと説いて聞かせた。

 われわれは、指揮体系を確立するうえでも既存の命題にとらわれることなく、遊撃戦争の特質と要請に合わせて、号令をかける人より号令を実行する兵士の方が多くなるような方向で隊伍を組み、編制を定めた。つまり、指揮体系を高度に単純化したのである。したがって、部隊に給養部やそれを主管する指揮官を別に置かなかった。各人が飯も炊けば洗濯もし、戦いもすれば、場合によっては政治工作もできるよう隊員たちを準備させたのである。

 あのとき、われわれにクラウゼウィッツの『戦争論』のようなものがあったら、どんなによかったことか。当時われわれには、部隊の編制における3・3制はナポレオンによって創始されたという程度の単純な軍事知識しかなかった。クラウゼウィッツについては、ただ名前を知っている程度だった。

 わたしは、第2次世界大戦のころ、はじめて彼の『戦争論』を手に入れた。指揮体系を単純化し、兵士を増やすべきだという彼の主張にはわたしも容易に共感できた。

 反日人民遊撃隊は、中隊を基本戦闘単位にして組織された。わたしは、隊長兼政治委員に選ばれた。

 遊撃隊の軍服は、クヌギの樹皮で緑色に染めた。左の胸には、中隊の番号を記した五角形の赤い布切れをつけた。そして軍帽には五稜の赤い星をつけ、すねには白い脚絆を巻くことにした。遊撃隊創建の最後の仕上げともいうべき服装の決まりを一つ一つ定めていくのは、胸のふくらむ楽しい作業であった。

 われわれが熱心に討議して決定した服装の仕様にそって、婦女会員が総がかりで軍服をつくった。

 わたしの母も病気がちだったが、婦女会員と一緒に真心をこめて軍服の裁断をし、ミシンをかけた。

 われわれは、1932年4月下旬、反日人民遊撃隊を組織する最後の会議を安図で開いた。そこでは、入隊志願者を最終審議し、遊撃隊結成の日時と場所を決定し、さらに当面の活動地域を確定して遊撃隊の活動と関連した全般的な対策を立てた。

 会議後、入隊志願者は三道白河のはずれの劉家粉房(発財屯)にいったん集まったあと、小沙河に集結した。志願者は100人余りだったが、いまわたしの記憶に残っているのは、車光秀、朴勲、金日竜(小沙河)、趙徳化(小沙河)、あばた(あだ名、小沙河)、趙明化(小沙河)、李明洙(小沙河)、金普i金歩、興隆村)、金鳳九(興隆村)、李英培(興隆村)、郭○○(興隆村)、李鳳九(三人坊)、方仁鉉(三人坊)、金鐘煥、李学用(国内)、金東振(国内)、朴明孫(延吉)、安泰範(延吉)、韓昌勲(南満州)だけである。

 1932年4月25日の朝。

 われわれは、土器店谷の台地で反日人民遊撃隊の創建式を挙行した。

 カラマツ林にかこまれた台地の広場に新しい軍服に身をかため銃をになった隊員が区分隊別に整列した。広場の一角では小沙河と興隆村の人びとが見物していた。

 隊員たちのたくましくも清新な姿を前にしたわたしは、深い感懐にとらわれた。この武装隊伍を結成するために、われわれの同志はどんなに遠い道を歩き、どんなに多くの会合をもち、演説をしたことだろう。その間、のりこえた試練はどれほどであり、胸の痛む犠牲はまたどれほど出したことだろう。反日人民遊撃隊は数多くの同志の涙ぐましい労苦と、血みどろの闘争と、犠牲の代価として得た朝鮮革命の貴い結実であった。

 わたしは、この日を見ることができずに逝った故人を一人残らず、ここ土器店谷の台地に呼び集めたい衝動を覚え、胸中にうずまく激情を一気に吐き出す思いで演説をはじめた。

 わたしが反日人民遊撃隊の創建を宣言すると、隊員たちは声高らかに万歳を叫び、人民は割れるような拍手喝釆を送った。

 万国の労働者の戦闘的祝日である5月1日、わが反日人民遊撃隊は、赤旗を先頭にかかげて安図県城に入城し、ラッパや太鼓の音も高らかに歩武堂々と閲兵行進をおこなった。

 反日人民遊撃隊の指揮官に任命された金日竜が、この日の行進で歌の音頭をとった。

 その日は市民だけでなく、反日部隊の将兵も街角にあらわれ、親指を立てて歓迎のあいさつを送り、祝賀の拍手を送ってくれた。

 武力示威をすませて隊伍が土器店谷にもどると、車光秀と金日竜がわたしの家に駆けつけて、病床の母を連れ出した。

 病苦にやつれた顔、眉間に刻まれたしわ、黒い髪にまじる白髪。しかし、母の目はおだやかな笑みをたたえていた。母は、李英培の前へ近づき、銃や弾帯、五稜の星をしばらくまさぐった。そして、金普A趙徳化、金日竜、方仁鉉、車光秀などの銃や肩をなでさすった。

 母の目に涙が宿った。

 「ほんとうにりっぱだこと。わたしたちの軍隊が生まれたんだから、もう大丈夫。日帝を倒し、国をきっと取りもどすのですよ」

 声も潤んでいた。母はおそらく、われわれのためにつくした労苦をすっかり忘れて、祖国の解放を願いつつ先に逝った父や愛国の士を思い描いたに違いない。

 その後、延吉、汪清、琿春、和竜をはじめ、東満州の他の地方でも遊撃隊がつぎつぎに組織された。金策、崔庸健、李紅光(リホングァン)、李東光(リドングァン)など朝鮮の堅実な共産主義者によって、北満州と南満州でも遊撃部隊がぞくぞくと結成され、敵に向かって砲門を開いた。

 1932年の春は、抗日戦争の銃声のなかで深まっていった。



 


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