金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 血戦の準備


 明月溝会議は、組織的な武装闘争の展開を決定すると同時に、その実行で先駆的かつ中核的な役割を果たすようわたしに求めた。

 「スタートは、金日成が切るべきだ。何事であれ標本があり、手本がなければならない」

 同志たちはこの言葉で、わたしとの別れのあいさつに代えた。

 わたしは参会者たちが全員出発するまで明月溝に残り、最後に童長栄と別れて安図に向かった。遊撃戦を開始するには、どの側面から見ても安図が適地だと思えた。

 12月の明月溝会議でも論議されたように、武装隊を組織するうえで第一に解決すべき問題は9.18事変後、満州各地で組織された中国の反日武装力である救国軍との提携を果たすことであると認めたわたしは、組織の主力を安図と汪清に置くことにした。安図と汪清は、救国軍の集結中心地であった。

 興隆村に帰ったわたしは、家族と一緒にしばらくのあいだ馬春旭の家にいたが、やがて小沙河土器店谷の葦原村に移り、反日人民遊撃隊の創建準備に本格的に取り組んだ。小沙河は組織化された村で、興隆村よりも環境がはるかに有利だった。強力な地下組織を持つこの村では、密偵が自由に出入りできなかった。敵の手先の暗躍がないので、軍警も小沙河を容易に「討伐」できないでいた。

 反日人民遊撃隊の創建は、最初からさまざまな困難に遭遇した。そこには、人、武器、教練、食糧、大衆的基盤づくり、救国軍との関係など、さまざまな軍事的・政治的難問が提起されていた。

 われわれは武装隊伍の結成で、人と武器をなによりも重要な要素とみなした。ところがわれわれには、その2つのどちらも不足していた。

 われわれがここでいう人とは、軍事的、政治的に準備された人たちを意味した。われわれには、政治を知り、軍事に通じた人、祖国と人民のために長期間、武器を取って戦う心構えのできた青年が必要であった。

 われわれは1年半のあいだに朝鮮革命軍の根幹をほとんど失った。金赫、金亨権、崔孝一、孔栄、李済宇、朴且石など革命軍の主力が1年のあいだに戦死または投獄され、1931年の1月には、朝鮮革命軍にかんするパンフレットを持って武器工作におもむいた中隊長の李鍾洛が、金光烈、張小峰、朴炳華などとともに日本領事館警察に逮捕された。軍事に明るい金利甲も獄につながれ、白信漢は戦死した。崔昌傑と金園宇は、どうなったのか消息すら知れなかった。

 革命軍には軍事経験のある隊員が残り少なかったうえ、彼らも大衆政治工作にふりむけていたので、武装隊伍に組み入れることができなかった。わたしが安図で遊撃隊の創建に取り組んでいたとき、わたしのそばにいた朝鮮革命軍の出身者は車光秀一人だけだった。

 国家権力を握っていれば、動員令や義務兵役制などの法令によって必要な軍事要員をたやすく充足できるであろうが、われわれにはそれができなかった。法制や物理的強制力によって大衆を革命に動員することはできない。かつて、上海臨時政府は、すべての国民は納税、兵役の義務があると憲法で規定したが、人民はそんな法律が採択されたことすら知らなかった。国を失い、外国の租界地で国権を行使しようとする亡命政府の法律や指令が効力を発生しえないのは自明の理である。

 植民地民族解放革命では、動員令や義務兵役制のような法的手段によって人びとに銃をになわせることはできない。そこでは、革命を導く領袖と先覚者の呼びかけが法に代わり、各人の政治的・道徳的自覚と戦闘的情熱が入隊を決定するのである。大衆は、誰かの要求や指令がなくても、みずからの解放をめざして進んで銃を取るものである。それは、自主性を生命とし、そのためには、わが身をも進んでささげるのが人民大衆の本性であるからである。

 われわれはこうした原理にもとづいて、安図とその一帯で遊撃隊の隊員になれる人たちを物色しはじめた。赤衛隊、少年先鋒隊、労働者行動隊、地方突撃隊などの半軍事組織には遊撃隊への入隊を希望する頼もしい青年が多かった。秋収・春慌闘争を通じて半軍事組織は急速に拡大し、そのなかで青年たちもたくましく成長した。

 しかし、大衆が入隊を志願するからといって、彼らの準備程度を考慮せず、無条件に入隊させるわけにはいかなかった。東満州の青壮年は、まだ軍事的に準備されていなかった。遊撃隊の人的源泉を確保するには、赤衛隊や少年先鋒隊などの半軍事組織で青年の政治的・軍事的訓練を強化しなければならなかった。

 ところが、わたしの周囲には、教練を担当できるだけの人材がいなかった。わたし1人の力では安図地区の全青年を軍事化できるはずがなかった。わたしも華成義塾で少しは学んだとはいえ、新しい型の軍隊、遊撃隊を動かす軍事実践的面では白紙にひとしかった。学生あがりの車光秀は、わたし以上に軍事に暗かった。李鍾洛まで入獄しているので、期待できる人物はどこにもいなかった。李鍾洛がいれば、彼に軍事をまかせて、わたしは政治活動に専念できるのだが、そうできないのがもどかしかった。

 困難に直面するたびに、わたしはいつも同志の不足を感じた。

 われわれがこういう苦渋をなめているとき、朴勲という黄埔軍官学校出身の有望な人物がわれわれを訪ねてきた。黄埔軍官学校の校長は蒋介石で、政治部主任は周恩来だった。この学校には朝鮮の青年が多かった。中国人は、広州暴動を「3日ソビエト」ともいっているが、その暴動で主役を演じたのは黄埔軍官学校の学生たちだった。

 朴勲と安鵬(アンブン)は、広州暴動に参加し、暴動失敗後、満州に逃れた人たちである。朴勲は、体格がよく、物腰も軍人らしくきびきびしていた。彼は、朝鮮語よりも中国語を多く話し、中国服をよく着ていた。その彼がわたしの「軍事顧問」になった。

 蒋介石の裏切り行為(4月12日事変)によって国共合作が破壊され、第1次国内革命戦争が失敗すると、南方から楊林(ヤンリム)、崔庸健、呉成崙(オソンリュン=全光)、張志楽(チャンジラク)、朴勲など黄埔軍官学校や広東軍官学校、雲南講武堂などの軍官学校を出て、中国革命に参加していた人たちが蒋介石のテロを避けて満州地方に大勢入ってきた。

 正直にいって、わたしはそのとき黄埔軍官学校と聞いて、朴勲に大きな期待をかけた。

 彼は2挺拳銃を得意とした。その射撃術には目を見はらせるものがあった。まったく神業といえるほどの腕だった。

 彼のいま一つの特技は号令であった。朴勲は、1万や2万の軍隊を肉声で簡単に動かせるほどのすばらしい声量の持ち主だった。彼が土器店谷の台地で大声を上げると、その声は全村に響き渡った。

 安図の青年は、朴勲の号令を聞くと思わず嘆声をもらし、彼に見とれた。

 「あれほどの声なら、東京にいる天皇の耳にも聞こえるだろう。思わぬ宝物が転がりこんできたものだ」

 赤衛隊員の教練を指導する朴勲を見て、車光秀は感嘆した。彼は朴勲にほれこんだ。2人は議論をよくたたかわせながらも、すっかり意気投合していた。

 朴勲が安図でおこなったすぐれた教練のおかげで、われわれの組織した部隊は汪清へ移ってからも、「大学生部隊」といわれたものだった。わたしの部隊に属する遊撃隊員は、抗日戦争の全期間、秩序正しく、規律があり、謙虚で身なりの端正なことでいつも人びとから尊敬された。楊靖宇も、わが革命軍の節度ある生気はつらつとした文化的な生活ぶりを見ては、いつもうらやましがったものである。

 そんなとき、わたしは朴勲のことが頭に浮かび、土器店谷の山あいに響いた彼の号令が耳によみがえってくるのだった。

 教官としての彼のいま一つの特質は、訓練生にたいする非常なきびしさだった。そのようにきびしかったからこそ、訓練生は軍事知識を予想外に早く身につけることができたのだと思う。

 ところが、朴勲は、ときどき隊員に体罰を加えた。制式動作を間違えるか、規律に違反する訓練生を見ると、目をむいて怒鳴りつけたり、蹴ったり、前へ立たせたりした。革命軍隊内で体罰は厳禁だといくら注意しても、改めようとしなかった。

 ある日わたしは、訓練で喉をからした朴勲と一緒に帰りながら、こういった。

 「朴勲君には、なぜか軍閥くさいところがある。どこでそんな臭いが身についたのだ」

 朴勲は軍閥くさいという言葉に苦笑して、わたしを見返した。

 「わたしの教官が、恐ろしいほどきびしかったのだ。ドイツ人の教官が、わたしにそんな遺産を残したのかも知れない。とにかく、すぐれた軍人になるには、鞭の味を知る必要があると思う」

 ドイツ式軍事教育の痕跡は、彼にいろいろな形であらわれた。彼が理論講義でもっとも多くの時間をかけたのは、プロシア軍にかんする話だった。彼は、イギリス軍の勇敢さとフランス軍の迅速性、ドイツ軍の正確さとロシア軍の頑強さについてよく話した。そしてそのたびに、われわれは、そのすべての資質をそなえた万能の軍隊にならなければならない、と強調するのだった。

 彼が指導する訓練の多くは、われわれがはじめようとする遊撃戦の性格に合わなかった。彼はナポレオン式縦隊隊形とイギリス式線型隊形がどんなものであるかを教え、20人足らずの訓練生にそんな隊形をつくらせてみようと懸命になった。

 教練を見ていたわたしは、休憩時間に、朴勲に向かって穏やかにいった。

 「君がいま教えたイギリス式線型隊形というのは、簡単に説明するだけにして訓練をはぶいてはどうだろうか。われわれがここでワーテルローのような激戦をするならいざ知らず、山に依拠して、大砲と機関銃を装備した敵と遊撃戦争をしなければならないのに、そんな旧時代の兵法を学んだところで、なんの役にも立たないだろう」

 「戦争をする以上、その程度の軍事知識は知っておく必要があるのではなかろうか?」

 「外国の一般的な軍事知識ももちろん重要だ。だが、いますぐ必要なものから先に教えるべきではないか。武官学校で習ったことを、そっくり消化させようとするのはやめたほうがいい」

 そのとき、わたしが彼にいったのは、教練で教条主義を警戒せよということだった。

 朴勲に赤衛隊員を10人ほどつけて射撃訓練をさせたところ、彼は平地に杭を立てて、終日、敵の中心下部を狙って撃てということばかり教えた。

 わたしは彼に、教練をそんなふうにしてはいけない、実情に合わないものはやめて、遊撃戦争に必要なものから先に教えよう、とくに山岳戦に必要な訓練から先にすることだ、われわれに合わないものは思い切ってつくり変え、教範にないものはわれわれの知恵を集めて、一つ一つつくりあげていこうと話した。

 朴勲は、わたしの言葉を深刻にうけとめた。

 それ以来、われわれは遊撃戦争に必要なものを基本にして教練を進めた。初歩的な制式動作や武器操作法はもちろん、擬装法、合図の仕方、銃剣術、敵情探知法、山道行軍法、棒術、武器奪取法、夜間戦闘における彼我識別法など、実用的な軍事知識を教えた。朴勲は最初、思いつくままにあれこれと教えていたが、のちには課程案を作成して計画的に教練をほどこした。

 後日、彼は当時をふりかえって、自分が黄埔軍官学校で学んだ軍事知識はどれも世界5大強国のものだった、それは古今東西の兵法を集大成した包括的で総合的な軍事知識だった、わたしは、現代中国の軍事教育の殿堂ともいえる有名な黄埔軍官学校でそのような知識を学んだことに誇りをいだき、東満州でそれを普及すれば、わたしは拍手喝采をうけるだろうと思った、しかし、それは誤算だった、わたしは、拍手喝釆どころか冷淡な対応にぶつかった、青年たちはわたしの講義を、知っても知らなくてもいい一つの常識として聞いただけで、死活にかかわるもの、必須のものとしてうけとめなかった、わたしはそれまでの数年間に学んだ軍事知識が世界的なものではあっても、遊撃戦には必要のない片端の知識であると痛感し、それを万能の法典のように絶対視した自分に幻滅を覚えた、そして、遊撃戦に必要な軍事理論を創始しなければならないと痛感した、わたしはそれ以来、ドグマから脱して朝鮮革命に適応した朝鮮式の思考方式を身につけるようになった、と告白している。

 安図地区の教官のなかで朴勲についで異彩を放ったのは金日竜だった。彼は朴勲のような現代戦の知識はなかったが、独立軍で戦ったときに身につけた実戦の経験をもって、隊員を地道に訓練した。

 赤衛隊と少年先鋒隊、少年探検隊などの半軍事組織の訓練を強化し、隊列の増強をはかっていくなかで、政治的、軍事的に準備された堅実な青年がわれわれのまわりに数十人集結した。われわれは、豆満江沿岸の各県で工作にあたっていた同志や、秋収・春慌闘争で鍛えられ、点検された青年を選んで安図に集めた。安図や敦化など東満州各地から多くの青年がわれわれを訪ねてきた。

 われわれはそれらの青年のなかから、車光秀、金日竜、朴勲、金普i金歩)、李英培(リヨンベ)など18人の中核を選んで、ひとまず遊撃隊グループを組織した。同時に、延吉、汪清、和竜、琿春などの地方にも同じ形態の武装隊伍を組むよう指示した。こうして、各県に10〜20人からなる武装隊がつぎつぎに生まれた。少数の人員で武装隊を組み隠密に活動しながら武器を確保し、経験を積み、隊列を増強し、条件が熟すれば各県別に大規模な武装隊伍を創建するというのが明月溝会議の方針であった。

 遊撃隊グループの結成過程は、武器獲得の流血の闘争をともなった。困難は多かったが、武器獲得以上の困難はなかった。

 日帝侵略軍は、本土の軍需産業が大量生産する近代兵器と装備をもって陸海空軍の戦力を不断に強化していたが、われわれには武器を供給する国家的後方も、一挺の銃を買う金もなかった。われわれに必要なのは大砲でも戦車でもなかった。当座は、小銃や拳銃、手榴弾のような軽小武器があればよかった。国内に兵器製造工場があれば、労働者の力をかりても手に入れることができたであろうが、わが国にはそんな工場がなかった。不幸にもわれわれは、自分たちを武装するうえで自国の工業に依拠することができなかった。

 そのため、「敵の武器を奪って武装しよう!」という悲壮なスローガンが生まれるほかなかったのである。

 わたしは、安図に来ると早速、父が母に預けた2挺の拳銃を地中から掘り出した。その2挺の拳銃をかざして同志たちにいった。

 「さあ、これが、父がわたしに残した遺産だ。父は義兵でも独立軍でもなかったが、世を去るまでこの銃を持っていた。なぜか? 武装闘争こそ国の独立を成就する最高の闘争形態だと認めていたからだ。父の総体的な志向は武装闘争だった。わたしは、この2挺の拳銃を譲りうけたとき、父に代わってわたしがその志を実現させずにはおかないと決心した。いまやそのときがきた。この2挺を元手にして独立行軍を開始しよう。いまはこの2挺がすべてだが、これが子を産み、孫を産んで200挺、2000挺、2万挺となる日を想像してみよう。2000挺の銃があれば十分祖国を解放できる。元手があるのだから、これを利用して2000挺、2万挺に増やそう!」

 わたしは、雄図むなしく早世した父を思い、胸がつまって話をつづけることができなかった。

 武器獲得問題が日程にのぼったとき、朴勲がわたしに、うわさでは撫松のある金持ちの息子が君に数十挺の銃を提供したということだが、それらをどうしたのかと聞いた。その金持ちの息子というのは張蔚華のことである。わたしが五家子で活動していたとき、彼が私兵の銃40挺を持って訪ねてきたことがあった。わたしは、それらを残らず朝鮮革命軍の隊員に分け与えた。

 朴勲はそれを聞いてたいへん残念がり、活路は金にあるといった。彼は、われわれがきずいた革命村をまわり、農民に訴えて金を集めようといった。

 わたしは、彼の意見に同意しなかった。金持ちに訴えて資金を集めるのならいざ知らず、貧しい労働者や農民のふところをはたいて武器を買うのは好ましい方法といえなかった。生命を賭して銃を奪い取るより、金を集めるほうがはるかに容易なことは事実であった。

 しかし、われわれは安易な方法を捨て、困難な道を選んだ。金で銃を買うのも一つの方法だとは認めたが、それを奨励する気にはなれなかった。人民に献金を求めるのは独立軍のやり方であって、われわれの方式ではない。たとえ募金をしたにしても、それが大きな元手になるはずもなかった。

 いつだったか、崔賢(チェヒョン)同志が山林隊に1500円を払って機関銃を買ってきたことがあった。牛1頭が50円くらいだった当時の市価で計算すると、牛を30頭ほど売っても機関銃は1挺しか手に入らないということになる。われわれは、その数字を重視せざるをえなかった。

 われわれは討議を重ねた末、内島山地方で独立軍が埋めておいた銃を数挺掘り出してきた。

 他の県でもきそって、独立軍が使っていた武器を回収した。

 洪範図(ホンボムド)麾下の独立軍は、青山里戦闘後、多量の銃と弾薬を大坎子一帯に埋めてソ満国境へ退却した。

 密偵の通報でそのことを知った日本軍守備隊が、数十台のトラックを動員してそれらの銃と弾薬を積んで帰った。明月溝会議のあと、汪清の同志たちは、大坎子に人を送り、日本軍守備隊が掘り返したところで5万発近くの弾薬を拾い集めた。

 何挺かの銃が手に入ると、それを元手にしてわれわれは敵の武器を奪う戦闘行動に移った。

 最初の攻撃目標は、双秉俊という地主の家だった。彼は40人ばかりの保衛団をかかえていた。団長は、のちに「新選隊」の隊長となって悪名をとどろかせ、崔賢同志の部隊によってせん滅された李道善である。

 保衛団の兵舎は、地主屋敷の土城の内と外の両方にあった。

 われわれは事前に偵察をおこなったうえで、遊撃隊グループと赤衛隊員で襲撃班を組んで小沙河本村の双秉俊の屋敷を奇襲し、十数挺の銃を奪った。

 武器奪取闘争は、豆満江沿岸の全地域で大衆的運動としてくりひろげられた。革命的大衆は、「武器はわれわれの生命だ! 武装には武装で!」を合言葉にして遊撃隊グループ、赤衛隊員、少年先鋒隊員、地方突撃隊員を先頭に老若男女の別なくこぞって立ち上がり、日帝侵略軍と日満警察、親日地主、反動官僚の武器を奪う決死のたたかいをくりひろげた。

 「要槍不要命(ヨチャンプヨミン)!」とは当時さかんに使われた言葉だった。翻訳すれば、銃が必要だ、生命は必要ないということである。税関や保衛団、公安局、地主の家へ押し入り、銃を突きつけて「要槍不要命!」と叫ぶと、臆病な官吏や反動地主、警官はぶるぶる震えて、武器を残らず差し出した。

 「要槍不要命!」という言葉は、東満州の全革命組織区で流行語となり、四方八方へ広がっていた。

 呉仲和の父親(呉泰煕)と叔父も、膳の足でつくったにせの拳銃で「要槍不要命!」といっては警官や自衛団員を威嚇して武器を奪い、赤衛隊に送ってよこした。彼らのうわさは安図にまで伝わってきた。われわれはそれを聞いて、年寄りたちの機知と大胆さに驚いたものである。

 のちに汪清で呉泰煕老に会ったとき、「どうして、そんなすばらしいことを思いついたのですか」と聞くと、老人は笑って、「晩に見ると、お膳の足が拳銃に見えてね。わしらに鉄砲があるかね、手榴弾があるかね。それでお膳の足を使ったんじゃ。窮すれば通ずるってことじゃな。渇した者が井戸を掘るっていうじゃないか」

 老人の言葉はもっともだった。実際、われわれはそのとき、渇した者が井戸を掘る、そんな心情で武器奪取闘争を果敢に展開したのである。それは、最大の創意と知恵が求められる困難なたたかいであった。

 東満州の革命家と革命的人民は、ときには憲兵に、ときには救国軍部隊の軍人や日本領事館の官吏、大富豪、貿易商に変装して臨機応変に武器を奪った。あるところでは、女性が洗濯棒や棍棒で軍警を襲って武器を奪いもした。

 武器獲得闘争は、全民抗争の序幕であり、予備戦闘であった。このたたかいには、すべての革命組織が参加し、全人民が呼応した。革命が武器を求める時期が到来すると、大衆はためらうことなく武器奪取闘争に立ち上がり、そのたたかいを通して覚醒し、自分たちの力がいかに大きいかを自覚したのである。

 自分の武器は自分で、という合言葉は、いたるところで大きな生命力を発揮した。

 もちろん、そうしたたたかいで、われわれは多くの同志を失った。そのときに獲得した一つ一つの銃には、同志たちの熱い血潮がにじみ、彼らの燃えるような愛国心がこもっていた。

 われわれは、自力更生のスローガンをかかげて、武器を自分の手でつくる運動も同時にくりひろげた。

 最初は鍛冶場で鉄を鍛えて刀剣や槍のようなものをつくり、やがては拳銃や手榴弾もつくった。

 そういう拳銃のうちでもっとも精巧で実用的だったのは、汪清県南区反帝青年同盟員たちのつくった「ピジケ拳銃」である。咸鏡北道地方の人たちはマッチをロシア語式に「ピジケ」といっていた。拳銃の名を「ピジケ拳銃」とつけたのは、薬莢に黄燐マッチでつくった火薬をつめていたからだった。銃身もブリキでつくっていた。

 東満州の兵器廠のうちとくに人びとに知られていたのは、和竜県の金谷にある神仙徳鷹岩窟兵器廠と汪清県の南区兵器廠、そして、延吉県依蘭溝南陽村の朱家谷兵器廠であった。

 鷹岩窟の兵器廠では、延吉県八道溝鉱山の革命組織から送られてくるダイナマイトを使って爆弾も製造していた。

 最初は音爆弾というのをつくったが、それは音のすさまじいわりに殺傷力がほとんどなかった。その弱点を補ってつくったのが唐辛子爆弾だった。音爆弾よりは効果があったが、それも悪臭を発散するだけで、やはり殺傷力はそれほどでなかった。

 和竜の同志たちはその後、唐辛子の代わりに鉄片を入れて殺傷力を高めた。その爆弾が有名な延吉爆弾である。延吉爆弾がつくられると、われわれは、和竜から朴永純を呼び寄せて小汪清大房子で2日間、爆弾製造講習をおこなった。東満州各地に爆弾の製造技術を普及するためである。講習会には、間島各県の兵器廠のメンバーと遊撃隊の指揮官が参加した。

 初日の講習会では、わたしが火薬の製造法を講義した。当時、遊撃隊の兵器廠では爆弾用の火薬を鉱山からひそかに購入していた。

 鉱山では火薬をきびしく取り締まっていたので、それを入手するのはつねに危険をともなった。われわれは民家から簡単に火薬の原料を集め、それで火薬をつくるのに成功した。講習会ではその秘法を伝授し、各地方に普及することにしたのである。

 朴永純は、爆弾の製造法と使用法、保管取扱法を教えた。彼らが和竜で自力更生によって開発した爆弾製造の苦心談を聞いて、講習生たちは感嘆した。鷹岩窟兵器廠を主管した朴永純と孫元金(ソンウォングム)はたいへん器用な同志たちだった。後日、その兵器廠は人民革命軍の有力な兵器製造所、修理所として抗日戦争に大いに寄与した。

 もし、武器獲得闘争で朝鮮人民が発揮したたぐいまれな犠牲精神と大胆さ、縦横の機知、すぐれた創意についてのエピソードを収集して、文学作品を書き上げるなら、おそらくそれは荘厳な一つの叙事詩となるであろう。数千年のあいだ歴史から疎外され、安価な労働力とのみみなされ、無知と蒙昧を強いられてきた人民大衆、亡国の民の悲しみに歯ぎしりし、涙に暮れながらも、それを宿命として甘受しなければならなかった素朴な人民大衆が、いまや自己の運命を自力で切り開く聖なる解放闘争に立ち上がったのである。

 地方の各組織が奪取し、または製作した武器を見るたびに、わたしは人民の力を信じ、それに依拠して朝鮮革命をおし進めようとしたわれわれの決意がいかに正しかったかを、改めて誇らしく確認したのである。

 われわれは、常備の革命武力建設の準備を急ぐ一方、抗日武装闘争の大衆的基盤をきずく活動に特別な関心を向けた。人民大衆を実践闘争のなかでたえず覚醒させ、りっぱに鍛えて、彼らを抗日戦争にそなえさせるのは、発展する革命の必須の要請であり、最後の勝利は広範な大衆がこぞって自覚的に立ち上がるときにのみ、達成できるのである。

 1930年の未曽有の凶作とそれにつづく大飢饉は、東満州で、秋収闘争にひきつづき新たな大衆闘争をくりひろげる契機となった。われわれは、秋収闘争によって高まった大衆の闘争気勢をゆるめず、日帝と親日地主を相手に春慌闘争を展開することにした。春慌闘争は、地主に米の貸し出しを要求する借糧闘争から、日帝と親日地主の穀物を没収する奪糧闘争へ、さらに日帝の手先を粛清する暴力闘争へと急激に発展した。

 春慌闘争の炎のなかで、東満州地方人民の革命化は新たな段階に達した。革命にたいする反革命の攻勢はいちだんと悪辣になっていたが、朝鮮の共産主義者は大衆のなかに深く入って、ねばり強く彼らを啓蒙し、教育した。大衆団体は、関門主義を排して門戸を広く開放し、大衆を実践闘争のなかで不断に鍛えた。

 しかし、それはどの地方でも順調に進んだのではなかった。一つの村を革命化するために何人もの革命家が命を失うこともあったし、ときには人びとからたえがたい侮辱をうけ、不信の目で見られながらも、自分が革命家であることを明かせず、それをたえしのばなければならなかった。

 わたしの富爾河村における体験もその一例だといえる。

 富爾河は、安図と敦化を結ぶ要地だった。そこを通らずには、敦化地方ばかりか南満州一帯を自由に行き来することができず、その村が革命化されなくては、小沙河、大沙河、柳樹河など近隣の村の安全もはかれなかった。

 有能な工作員が何人も送りこまれたが、誰一人成功できなかった。そこに早く組織をつくらなければならないのだが、村へ入った工作員はみなつかまって命を落としているのだから、われわれも困惑せざるをえなかった。金正竜は、富爾河を反動村と決めつけ、スパイか白色組織がひそんでいるに違いない、その正体がつかめないのが問題だといってくやしがった。彼らの話を聞くと、わたしも首をかしげざるをえなかった。

 富爾河に宋という組織のメンバーが一人いるにはいたが、彼一人の力では反動分子を摘発することも、村の革命化を遂げることもできなかった。誰であれ生命を賭して村に入り、スパイを摘発し、組織をつくって村を反動村から革命村につくり変えなければならなかった。

 そこで、わたしが富爾河へ行くことにした。

 わたしは宋を小沙河に呼んで、こう約束した。

 「村へ帰ったら、手不足だから作男を雇うつもりだといいふらしたまえ。そのあとで、わたしが作男になりすまして、君の家へ住みこむことにしよう」

 宋は目を丸くして、危険な反動村に入るのは冒険だ、それに、作男になるなんてとんでもないとかぶりをふった。わたしが富爾河へ行くことには組織も反対した。

 わたしはそれらの反対を押しきり、宋と一緒に牛そりに乗って富爾河村へ向かった。顔も洗わず、髪も刈らず、少し足りないような格好をして「反動の巣窟」へわたしは入っていったのである。

 数時間後、わたしが宋と一緒に夕食をとっていると、不意に騎馬警察隊がほこりを巻き上げて村へやってきた。誰がどう通報したのか、早くも安図から警官が急派されてきたのである。

 外で遊んでいた子どもらが騎馬隊だと叫ぶのを聞くと、わたしは庭へ出て薪を割りはじめた。蛟河の見知らぬ女性の家で体験したのと似たような状況だった。

 騎馬警官はわたしを指して、誰かと聞いた。宋が家の作男だと答えた。

 警官は、「共産党の幹部がこの村を指導に来たと聞いたが…」といって首をかしげた。りゅうとした身なりの人物を念頭において馬を飛ばしてきたのだろうが、見すぼらしいチョゴリ姿の、顔にすすのついたわたしを見ると、無駄足を踏んだと思ったらしかった。

 わたしは、われわれのなかに敵と内通している者がいるのではないか、とさえ思った。わたしが富爾河に向かったのは何人かの幹部しか知らなかったからである。

 騎馬警察隊が帰ったあと、ふりかえってみると、宋は蒼白な顔をし、額に汗をにじませていた。

 わたしは翌日から、朝早く起きて水を汲み、薪を割り、庭を掃き、飼い葉を煮こんだ。そのあとで宋と一緒に牛そりを引いて毎日、山へ行った。山で文書に目を通し、柴を刈り、活動上の打ち合わせもしながら、彼に一つひとつ任務を与えた。

 わたしは働き者の「作男」として村じゅうに知られるようになった。富爾河村の人たちは、わたしをばか正直な「作男」だと信じきっていた。井戸端に氷が張ると、村の女たちはわたしを手招きして氷を割ってくれと頼んだ。わたしは、それにも気持ちよく応じた。村人から多くの仕事を頼まれれば、それだけわたしの「作男」役がうまくいっていることになり、彼らの頼みごとに気軽に応じていれば、密偵もわたしが革命家だということを容易にかぎだせないだろうと思ったからである。

 ある日、宋家の前の家で祝い事があって、村人たちが餅をついてくれといってきた。わたしが作男だから、そんなことはお手の物だと思ったのだろう。

 一生百姓をした祖父は、すき起こし、押し切り、餅つきの3つを上手にやれないのは本物の百姓でないと口癖のようにいったものだった。けれども、わたしは一度も餅をついたことがなかった。わたしの一家は、餅をついて食べるほどのゆとりがなかったのである。村人の頼みを聞き入れれば正体がばれそうだったし、断れば作男らしくないと思われそうなので、迷わざるをえなかった。それで、いまはうちの仕事が忙しいからといいつくろった。

 ところが、彼らが何度もやってきて促すので、とうとう断りきれなくなってしまった。

 わたしがその家の庭にあらわれると、女主人がこれで仕事の手がはぶけるといって喜んだ。彼女は、中老のやせた隣家の人の手から杵を取って、わたしに渡し、「きょうの餅の味はおまえさんの腕にかかっているんだから、しっかり頼むよ」というのである。人の気持ちも知らずに、ふかしたての餅米を運んできながら、はしゃぐ女主人を見ると、おかしくもあり、あきれもした。村人たちは「作男」の腕前を拝見しようと、まわりに集まってきた。農村では餅つきを見物するのも楽しい生活の一こまなのである。

 わたしは杵を取った手に唾をつけ、心のなかで、えい、どうにでもなれ、とにかく力いっぱい杵をふるってみよう、これも、人間のやることだ、作男だからといってなんでもやれるわけはなかろう、せいぜい餅つきが下手だとけなされるくらいだろうと思った。そのとき、わたしの胸中を察したらしく、宋が助け船を出した。彼は、「おい、その痛んだ腕で餅がつけるのか。腕を早く治せとあれほどいったのに、聞き分けのない奴だ」と、わざと声を張り上げてわたしを叱った。そして、まわりの人たちには、「この男はきのう柴刈りに行って腕を痛めたので、餅はつけませんよ。お隣の祝い事なんだから、わたしがついてあげましょう」といいつくろった。

 村の女たちは、客に餅をもてなすときも、わたしを作男以上には扱わなかった。ほかの人たちには餅を皿に盛って出したが、わたしだけには掌にのせてくれたのである。

 わたしは、村人たちからそんなふうに扱われても平気だった。かえって、工作のためには好都合だと思った。

 富爾河村の革命化は、このように簡単ではなかった。五家子村の革命化でも難渋したが、この村にくらべればなんでもなかった。わたしはその村で一月半ほどすごして組織をつくり、中核青年を動かして密偵も摘発した。

 小沙河へ帰って、そんな苦労談を話すと、みんなが腹をかかえて笑った。わたしは同志たちに、「革命家に不可能なことはない。これまでそれができなかったのは、水に浮かんだ油のように大衆のなかへ入らず、紳士気取りで革命活動をやったからだ」といった。

 反日人民遊撃隊の組織後、わたしは部隊を率いて富爾河に立ち寄ったことがあった。馬に乗って村に入り、大衆を集めて演説するパルチザン隊長のわたしを見て、村人たちはびっくりした。

 わたしに氷を割ってくれと手招きした若い女が、演説を終えて馬にまたがるわたしを見て、「あれまあ、あの人はこの村にいた『作男』じゃないか。あの人が革命軍の隊長になるなんて」といって目を丸くした。

 われわれの前に立ちはだかっていた障害は、このようにして取り除かれた。

 しかし、最大の難間は依然として未解決のまま残されていた。それは、朝鮮共産主義者に多くの血を流させた救国軍部隊にたいする工作であった。



 


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