金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 9.18事変


 安図の革命組織が活発に動きはじめると、その成果を広げるために1931年の夏から初秋にかけて、わたしは、和竜、延吉、汪清一帯に出かけて5.30暴動以後、四散していた大衆を結集する活動をおし進めた。

 わたしが、敦化を拠点にして安図、竜井、和竜、柳樹河、大甸子、明月溝などの同志たちと連係を保って活動を進めていたとき、9.18事変が勃発した。そのとき、わたしは敦化近くの一農村で共青のアクチブたちの活動を指導していた。

 そうした9月19日の早朝、陳翰章がわたしのところへ駆けつけてきて、関東軍が奉天を攻撃したと伝えた。

 「戦争だ! 日本軍がついに火ぶたを切った!」

 彼は重い荷物を背負った人のようにあえぎながら、縁先にへなへなと座りこんだ。「戦争」というその一言は、涙ぐましいまでに悲壮な響きをもって彼の口からほとばしりでた。

 かなり以前から予想していた事変であり、その時期もほぼ適中してはいたが、それが、朝鮮民族と数億の中華民族にはかり知れない災難をおよぼし、わたし自身の運命をも大きく左右するであろうと思うと、息づまるような緊張を覚えた。

 その後、われわれは、いろいろな経路を通じて事態の真相をつかむことができた。

 1931年9月18日の夜、瀋陽北大営の西方にある柳条溝で日本満鉄会社所有の鉄道が爆破された。日帝は、張学良軍が鉄道を爆破し日本軍守備隊を攻撃したと喧伝して不意の侵攻を開始した。日本軍は北大営を一挙に占領し、翌19日朝、奉天飛行場を手中におさめた。

 瀋陽についで、安東、営口、長春、鳳城、吉林、敦化など東北地方の大都市が、関東軍と鴨緑江を渡った朝鮮駐屯軍によってつぎつぎに占領された。わずか5日足らずのあいだに、日本侵略軍は遼寧省と吉林省の広大な地域をほとんどしめ、戦域を拡大しつつ錦州へ肉迫した。

 文字どおり電光石火の進撃だった。

 日本帝国主義者は、事件の真相を隠蔽し、中国側に責任を転嫁したが、それを真にうける者は誰もいなかった。狡猾な日帝の本性をあまりにもよく知っていたからである。後日、事件を引き起こした当事者も認めたように、満鉄会社の鉄道を爆破して9.18事変の導火線に火をつけたのは、関東軍の特務機関だった。われわれは当時、出版物を通して柳条溝事件は、満州占領を画策する日帝の謀略であると暴露した。

 関東軍が満州事変をひかえて待機状態に入っていた1931年9月18日の朝、その画策者の一人、土肥原賢二大佐(瀋陽特務機関長)が突然ソウルにあらわれた。彼は朝鮮駐屯軍司令部の高級参謀神田正種に会って、記者連中がうるさくて君を訪ねてきたと、その朝鮮訪問理由をほのめかした。満州事変が起きれば、記者たちのうるさい質問攻めにあうだろうから、事前にそれを避けて朝鮮に来たというわけである。

 同じころ、日本航空本部長渡辺錠太郎大将はソウルを訪れ、朝鮮駐屯軍司令官林銑十郎大将とともに白雲荘という料亭で宴会を開いたりして休息していたという。満州事変のような大事変を引き起こした男の行動としては、あまりにも安穏で余裕のある行動だったといえるのではなかろうか。

 この歴史の記録をひもとくと、なぜか、朝鮮戦争の勃発当時、トルーマンが別荘で休暇をすごしていたことが想起される。われわれが9.18事変と朝鮮戦争という相異なる二つの戦争を比較してみるのは、二つの戦争がいずれも宣戦布告なしに突発的に開始されたということのためだけではない。それらの事変を引き起こした者たちには、ともに帝国主義者に特有な狡猾さと破廉恥さ、侵略的野望と支配主義的本性が見いだされるからである。

 歴史を、くりかえされない事件の累積だという人もいるが、その個々の事件のあいだに類似性や共通した傾向が見られるのも、また無視できない事実である。

 われわれは、日本が9.18事変のようなことを引き起こして満州を占領するだろうということは、すでに予想していた。日本帝国主義者が張作霖の爆死事件を引き起こしたときにもそれを予感したし、万宝山事件によって朝中人民の険悪な対決状態がかもしだされたときにもまた、それを予感した。そして「農学士」の肩書きをもってスパイ活動をしていた関東軍参謀本部付きの中村大尉の「失踪」事件が起きたときにも同様なことを予感した。

 わたしはとりわけ、万宝山事件が起きたとき大きな衝撃をうけた。

 万宝山は、長春の西北方30キロほどのところにある小さな農村である。万宝山事件というのは、その村で用水路問題をめぐって朝鮮人移住民と中国原住民とのあいだに生じた紛争のことである。朝鮮人移住民が水田をつくるさい、伊通河から用水路を引いたのだったが、その用水路が中国人の畑地を侵した。それに、伊通河をせきとめれば、雨期に川が氾濫するおそれがあったので、原住民は水路工事に反対した。

 そんなときに、日本人が朝鮮人に工事を強行するようそそのかした。こうして、紛争は拡大し、それが朝鮮国内にまで波及して人命や財産にも被害をおよぼす騒ぎとなった。農村によくある小さないざこざが、民族離間策にうまうまと乗せられて大きな事件に拡大したのである。

 もしあのとき、日本人が離間をそそのかさず、また朝中農民のなかに先覚者がいて、少しでも理性的に判断をしていたなら、紛争は口論程度で終わり、暴力沙汰にまで発展することはなかったであろう。この事件の結果、朝中人民のあいだには大きな誤解と不信が生じ、反目し合うまでになった。

 そのとき、わたしは、夜も眠らずに考えつづけた。日本帝国主義者のために同じような不幸をなめている両国の人民が、なんのために対立し、血の雨を降らさなければならないのか、抗日という大前提のもとに両国人民が手を握って共同闘争に奮い立たなければならないときに、用水路のような些細な問題をもって「骨肉の争い」をくりひろげるとはいったいなんとしたことか、なんのために、誰のためにそんな惨事が引き起こされたのか、はたしてそれは誰の利益となり、誰の損害となるのか、と考え、そして、また考えた。

 ふとわたしは、その事件があらかじめ仕組まれたドラマ、さしせまった重大事件の序幕ではないかと思った。なによりも、長春領事館が農民の偶発的な衝突に介入して、朝鮮人の権益「擁護」をうんぬんしたことからして解せないことだった。「土地調査令」という略奪的な法規をもって朝鮮の農土を奪い、殺人的な農政を実施している者たちが、突然、保護者に変身して朝鮮農民を「擁護」するなどというのは、世人の嘲笑を買う一つの政治戯画にすぎなかった。長春の『京城日報』支局があわただしく本社へ万宝山の紛争を知らせたのも、それをいち早くうけて国内で号外を出す騒ぎを起こしたのも、やはり見逃せないことであった。

 朝中両国人民の離間を策していた日帝の謀略機関が、局地的ないざこざを機敏に利用して大謀略事件をでっちあげたのではなかろうか? だとすれば、彼らは、なんのためにそのような謀略をめぐらしたのだろうか? われわれが間島奥地で革命組織を立て直していたとき、日本帝国主義者は明らかに何事かを大急ぎで準備していたのである。

 万宝山事件の余波がまだ消えやらぬその年の夏、突如として中村大尉の「失踪」事件がもちあがり、中日関係を戦争瀬戸際へと追いやった。「失踪」事件につづいて日本本土では連日、ただならぬ出来事が起こった。東京の青年将校が、靖国神社に集まって中村の慰霊祭を催し、各人の血をもって日章旗を染め出した。そして、それを社頭にひるがえして国民の戦争熱をあおった。また、さまざまな満州関係団体が満蒙問題各派連合大会なるものを開き、実力行使によってのみ満蒙問題の解決が可能であると喧伝した。

 わたしはそのとき、日帝の満州侵略は、もはや時間の問題だと判断した。判断の根拠には事欠かなかった。

 朝鮮占領後は、満蒙を攻略し、ついで中国を掌握し、さらにアジアを制覇するというのは、「田中上奏書」にももられているように日本の基本的国策であった。東亜の盟主を夢見る軍国主義日本の鉄輪は、そうした国策にそって休むことなく回転していたのである。

 日本帝国主義者は、中村大尉の「失踪」事件を口実に、関東軍兵力を瀋陽に集結し、攻撃態勢をとった。

 そのとき陳翰章は、日本軍の満州占領は目前に迫っているが、徒手空拳にひとしいわれわれはどうすればよいのか、と不安の色をかくせなかった。彼は、国民党軍閥の張学良になにがしかの期待をかけていた。彼らはこれまで優柔不断な態度をとってきたが、いったん国権が侵される事態になれば、中華民族にたいする体面を考え、さらには数億人民の圧力に押されて、抵抗に踏み切るだろう、というのだった。

 わたしは彼に、国民党軍閥の抵抗を期待するのは妄想だといった。

 それは、張作霖の爆死事件を想起すればわかる。それが関東軍の謀略であることは明白であり、ゆるがない証拠まであるというのに、東北軍閥は真相の究明はおろか、関東軍に一言の抗議もしなかった。そればかりか、日本人弔客まで故人の霊前に招き入れたのである。それをたんなる慎重さ、脆弱さ、優柔不断と見るべきだろうか。国民党は、共産党の撲滅と労農紅軍の「討伐」に血道をあげ、数十万の大軍を江西中央ソビエト区に投入している。日帝に国土の一部を割譲するようなことがあっても、共産党と労農紅軍を撲滅しようというのが国民党の本心だ。外部の敵と戦う前に共産主義勢力を粛清し、国内の政局を安定させようというのが国民党の路線なのである。ところが、張学良は父親の爆死後、国民党側に完全に傾き、その呪うべき路線に盲従している。だから、抵抗はありえないし、彼に期待をかけるのは愚かなことである。

 陳翰章は、わたしの説明を慎重に聞きながらも、同意はしなかった。張学良がいかに国民党の路線に追従していようとも、彼らの政治的・経済的・軍事的地盤である東北地方を完全に失う危機に陥れば、侵略者に抵抗しないわけがあろうか、と軍閥にたいする期待を捨てようとしなかった。

 そのやさきに9.18事変が勃発し、数十万を数える張学良軍がなんの抵抗もせずに瀋陽を明け渡したのである。それで陳翰章も顔色を変えて、わたしのもとへ駆けつけてきたのだった。

 「わたしは、愚かな妄想家だった。まったくの世間知らずだった」

 彼はこういって、身震いした。彼の興奮はおさまらず、なおも自分を責めたてた。

 「張学良のような男が東北地方を守ってくれると考えたのだから、わたしはなんて愚かな人間だろう。張学良は、中華民族の信頼を裏切り、抗日を放棄した卑怯な敗戦将軍だ。以前、瀋陽に行ってみると、全市に彼の軍隊がひしめいていた。どの通りを見ても新式銃を持った軍隊の姿があった。ところがその多くの軍隊が銃を一発も撃たずに退却したのだから、こんなくやしいことがどこにある。いったいこれをどう理解すべきだろうか」

 いつもは沈着で温和な陳翰章が、その朝は興奮をおさえることができず、喉をからして叫びつづけた。

 張学良は、のちに抗日を主張し、国共合作にも寄与したのだが、満州事変当時は評判がよくなかった。

 わたしは陳翰章を部屋に招き入れて穏やかになだめた。

 「気を静めたまえ。日本軍の満州侵攻はすでに予想していたことではないか。だから、いまさらそんなに騒ぐことはない。われわれは事態のなりゆきを冷静に見守り、それに対処する準備をととのえるべきだ」

 「もちろんそうすべきだ。だが、こんなにくやしいことがどこにある。わたしは、張学良に期待をかけすぎたようだ。ゆうべはまんじりともしなかった。一睡もできず苦しみもだえたあげく、駆けつけてきたのだ。張学良の東北軍がどれくらいになるか知っているかね。ざっと見て30万はいる。30万! 30万というのは簡単な数字ではない。ところが、その30万が銃一発撃たずに、一晩のうちに瀋陽を明け渡したのだ。…ああ、わが中華民族がそんなにもろくて無気力だというのか。孔子と孔明、杜甫と孫文の中国がこんなにたやすく滅びるというのか!」

 陳翰章は、胸をたたいて痛嘆した。目からはとめどなく涙が流れ落ちていた。

 彼が民族の悲運を前にしてあれほど胸をかきむしり、悲嘆に暮れたのは当然のことだった。それは、祖国を愛する人だけがいだく清い感情であり、神聖な権利であった。

 わたしもいつだったか、郷里の松の根方で日帝に踏みにじられた祖国を思い、人知れず涙を流したことがあった。それは、平壌市内で日本の警官に足蹴にされ、傷だらけになってうめきもだえていた老人の姿を見て、家へ帰ってからも終日憤りをおさえることができず、万景峰で一日をすごしたある日曜日の夕方のことである。

 わたしはその日、陳翰章と同じように、わが国の歴史が5000年にもなるというのに、その悠久な歴史を誇る国がどうして一朝にして亡国の屈辱をさらしたのか、この屈辱をなにをもってそそぐべきかと憤り、悲しみながら考えた。

 そうしてみると、わたしと陳翰章はまったく同じ亡国の屈辱を体験したことになる。それまで、われわれは共通の理念によって接近したのだが、その日からは共通の境遇によって友情をさらにあたためることとなった。同病相憐れむという言葉もあるとおり、人間は不幸なときほどより親密になり、友誼と愛情を深めるものである。かつて、朝中人民と共産主義者があれほど容易に兄弟のように親しみ合えたのは、境遇と目的、偉業の共通性によるものであった。帝国主義者は利潤のために一時的に結びつくが、共産主義者は共通の闘争目標である人間の解放と福祉を実現するために、強固な国際主義的団結をなし遂げるのである。わたしは、陳翰章の悲しみを自身の悲しみとし、中華民族の受難を朝鮮民族の受難としてうけとめた。

 もし、数十数百万の大軍を動かせる位置にあった蒋介石や張学良など政界や軍部の首脳に、敦化の素朴な一青年と同じ愛国心や洞察力があったとしたら、事態は変わっていたであろう。彼らが民族の運命を自分一個人やその党派の利益よりも上において連共に踏み切り、全民衆と軍隊を抗戦へと呼び起こしていたなら、日帝の侵略をその第一歩から挫折させ、領土と人民をりっぱに守り抜いたことであろう。

 しかし彼らは、祖国も民族も眼中になかった。

 日本が満州事変を引き起こす前にすでに、蒋介石は、張学良の東北軍に「日本軍側からの挑戦があった場合、慎重を期し、あらゆる手をつくして衝突を避けること」という内容の命令書を送り、軍隊の抵抗を事前に抑制した。それは、のちに中国数億人民の憤激を呼んだ。

 9.18事変勃発後も蒋介石の南京政府は、中国人民と中国軍は日本軍に抵抗することなく平静と忍耐を発揮せよ、という投降主義的な声明を発表して軍隊と人民の士気を落としていた。満州の運命は、すでに9.18事変前に決まっていたわけである。そればかりか、蒋介石政府は代表を東京へ送って日本政府と秘密交渉を進め、日本が中国の他の地域を占領しないという条件つきで、中ソ国境地帯の日本帝国主義者への割譲に同意する売国行為をあえてしたのである。

 蒋介石が、数億の人口と数百万平方キロの領土を誇る一国の主席としての自尊心まで投げ捨てて、日本人に国土のかなり大きな部分を譲渡する軽挙妄動をあえてしたのは、彼が日本の大砲よりも、地主、買弁資本家、国民党の官僚に抵抗する国内人民の銃口をより恐れたからであった。

 こうして、30万の東北軍は、その25分の1にもみたない関東軍に追いまくられ、無尽蔵の天然資源を持つ広大な満州全土を捨てて敗走したのである。

 わたしは、亡国の悲憤に慟哭する陳翰章にこういった。

 「もはや、どの党派や軍閥、政治勢力も頼りにならなくなった。ただ、自分自身と自分の力に頼るほかない。大勢は、われわれ自身が民衆を武装させて反日戦に踏み切ることを求めている。生きる道は武器を取ることにある」

 陳翰章は、無言でわたしの手を握った。

 わたしはその日、陳翰章の気分を転換させようと、終日、彼と一緒にすごした。亡国の悲しみなら、実際にはわたしの方がもっと大きかった。陳翰章は祖国の一部を失ったにすぎないが、わたしは祖国のすべてを失った亡国の子だからである。

 陳翰章から、ぜひ家へ行こうと誘われて、翌日、わたしは彼と一緒に敦化へ向かった。

 9.18事変は、朝鮮と中国のみならず、世界を震憾させた。日本の朝鮮占領に驚愕した世界が、9.18の砲声にまたも驚かされたのである。人類はそれを第2次世界大戦の開始と見た。

 日本は、9.18事変を中日間の交渉によって解決できる局地的な突発事件であるかのように宣伝したが、それを真にうける者はいなかった。世界の公正な世論は、日本の満州侵攻を主権国家にたいする乱暴きわまる侵略行為として糾弾し、占領地帯からの日本軍の撤兵を要求した。

 だが、アメリカをはじめとする帝国主義者は、日本の銃口がソ連に向けられることをひそかに期待して、日本の侵略行為に同調する態度をとった。国際連盟はリットン調査団を満州に送ったが、彼らは正義の側に立って是非を明らかにしようとせず、曖昧な態度をとって日本を侵略者とは断定しなかった。

 砲声が大陸をゆるがし、日本軍の猛攻にさらされた張学良の大軍が一朝にして崩壊し総退却すると、数億の人民は意気消沈した。日清、日露の戦争が生んだ「無敵皇軍」の神話はまたしても目の前の現実となったのである。やるかたない怒りとともに恐怖の波が朝鮮と満州、そして、全アジア大陸をおおった。そうした恐怖の波のなかで、すべての武装力と政治勢力、革命団体、そして、あれこれの憂国の士や著名人士がその正体をあらわしはじめた。

 9.18事変が勃発すると、すでに崩壊状態にあった独立軍の残存勢力はほとんどが山間奥地に追い立てられ、実力培養を叫んでいた人たちは日帝の前に膝を屈した。独立軍の兵士たちが、銃を地中に埋め、肩を落として故郷に帰っていたとき、民族改良主義者は親日を唱えだした。そして、独立宣言を連発して救国抗争を訴えた憂国の士は、『望郷歌』をうたい、倉皇として海外へ亡命した。退却する張学良軍のあとを追い錦州や長沙、西安などに避難する独立運動家もいた。

 愛国と売国、反日と親日、自己犠牲と保身を分かつ錯綜した分化過程が、9.18の砲声とともに民族内部で急速に進行した。各自がその人生観に従って、あるいは陽極に、あるいは陰極に引きつけられていった。満州事変は、民族一人ひとりの動向と本心を識別する一つの試金石となったのである。

 わたしはそのとき敦化で、陳翰章と数日にわたって9.18事変にたいする論議をつづけた。最初は、われわれもかなりあわてた。武器を取る時機が到来したことは容易に判断できたが、日本軍がなだれのように押し寄せる状況のもとで、なにからどうはじめるべきかについては迷わざるをえなかった。しかし、われわれはすぐ冷静にかえり、事態のなりゆきを注視した。

 とりわけわたしは、日帝の満州侵略が朝鮮革命におよぼすであろう影響についていろいろと考えた。

 日本軍の満州出兵が現実となり、満州占領が既成の事実となったため、われわれは敵と直接対峙することになった。「三矢協約」にかこつけて、日本の官憲はここ数年、中国反動軍閥の支援をうけながら朝鮮の独立運動家と共産主義者をきびしく弾圧したが、朝鮮国内の軍警が国境をこえて満州に入りこむことはまれだった。協約は、日本軍警の越境を原則として禁じていた。

 満州地方で朝鮮の革命家を捜査し逮捕するのは、だいたい日本領事館警察が担当していた。

 満州事変以前は、朝鮮占領軍も満州へ入ってこられなかった。ロシアの国内戦当時、シベリアへ出兵した日本軍が撤退するさい、中国側の了解を得て琿春に残った2個中隊が東北地方に駐屯している朝鮮占領軍のすべてであった。

 だが、9.18事変によって、満州は日本軍がばっこする地帯となった。朝鮮からも上海からも、そして、日本からも数万を数える日本軍がぞくぞくと満州へ入りこんできた。満州全土は一時、彼我入り乱れる最前線となった。朝鮮と満州を分けていた国境は、日本軍の侵攻によって事実上除去された。

 日本軍の満州占領によって、そこを活動拠点にしていたわれわれのたたかいは大きな困難に直面した。日本の満州侵攻目的の一つが、満州一帯で高まる朝鮮人民の民族解放闘争を圧殺し、朝鮮国内の治安維持を容易にすることにあったのであるから、われわれの活動が常時、日本軍警の脅威にさらされることを覚悟しなければならなかった。

 朝鮮国内で適用されていた「新治安維持法」は、満州地方の朝鮮人にもそのまま適用されるに違いなかった。

 日本が満州にかいらい政府を立てれば、それもわれわれにとって大きな障壁となるのは明らかであった。実際にその後、日本がつくりあげた「満州国」は、われわれの活動にとって大きな障害となった。

 日本の満州占領はまた、その一帯に定着した数十万にのぼる朝鮮人の生活を塗炭の苦しみに追いこむに違いない。日本の侵略者がいないところで、総督政治の首かせを取り除こうとした朝鮮移住民の自由への期待は一場の夢と化し、なじみのない異国に生きる道を求めた彼らの離郷は無意味なものとなってしまうであろう。

 しかしわれわれは、9.18事変をめぐって不利な点のみを考えたのではなかった。もし、われわれがそのようにして悲嘆の涙に暮れていたなら、二度と立ち上がることができず、絶望のふちに落ちこんでしまったことであろう。

 わたしはふと「虎穴に入らずんば虎児を得ず」ということわざを思い浮かべた。われわれの祖先が数千年の歴史的経験によって体得したその人生哲学が、わたしに深奥な真理を明かしてくれたのである。

 (満州は虎の穴に変わった。その穴で日本帝国主義という虎を捕えるのだ。いまこそ武器を取って戦うときなのだ。いま敵と戦って決着をつけなければ、われわれは永遠に人間扱いをされないだろう)

 わたしはこう考え、機会を逃さずに立ち上がるべきだと決心した。

 日帝は、戦争勝利のために朝鮮における植民地支配を強化し、戦略物資の補給をはかって経済的収奪に血道を上げるであろう。民族的矛盾と階級的矛盾は極限に達し、朝鮮民族の反日気運はさらに高まるに違いない。われわれが武装隊伍を組んで抗日戦争に突入すれば、人民大衆は物心両面からわれわれを極力支援するであろう。

 中国の数億の人民大衆も、全民族的反日抗戦に立ち上がるはずである。

 きょうの満州侵攻は、あすの中国本土侵略につながり、中国大陸は全面戦争の炎に包まれるであろう。自主精神の強い中国人民が祖国の前に迫った危機を腕をこまぬいて傍観するはずはない。われわれの側には、帝国主義の侵略を許さず、民族の自主権を擁護しようという一念に燃える中国の数多くの共産主義者と愛国者、自由と独立を愛する数億の兄弟がいるのだ。これまで朝鮮人を亡国の民として哀れんだ彼らが、いまやたんなる同情者から信頼すべき同盟者となって、同じ塹壕で同一の目標に銃口を向けることになるであろう。

 われわれの一翼には、つねに中国人民という偉大な同盟者、同盟軍がいるのだ。

 日本が中国本土へ戦争を拡大すれば、欧米列強の利害とも全面的に衝突し、それは新しい世界大戦を引き起こす導火線となるであろう。中日戦争が長期化し、日本が世界大戦に巻きこまれれば、彼らは人的・物的資源の欠乏と枯渇に悩むはずである。

 日本が満州を占領すれば、その支配区域が拡大する反面、支配力は必然的に弱化する。日本は植民地支配において従来の統轄密度を保てなくなるであろう。

 こうして、世界が日本帝国主義を侵略者として糾弾し、日本は国際的に孤立するほかなくなるであろう。

 わたしは以上のすべてが、朝鮮革命に有利な戦略的局面を開くことになるだろうと確信した。

 張学良軍が総退却し、日帝侵略軍が怒濤の勢いで侵攻してくると、われわれの周囲では驚くべき事態が発生した。官公署の官吏や公安局の警官が業務を中断して、われ先に逃亡し、何日もたたないうちに軍閥の地方統治機関はすべて門を閉ざしてしまった。張学良軍の敗走によって軍閥の支配体制が麻痺したのである。

 日帝侵略軍は戦果の拡大にきゅうきゅうとして、治安の維持に力を入れることができなかった。こうして、満州地方ではひところ無政府状態がつづいた。われわれは、日帝が大陸で支配体制を確立するまでそのような状態が当分つづくものと判断した。この空白状態こそ、われわれが自由に武装隊伍を組織する絶好の機会であった。この好機を逸してはならなかった。

 革命はまさに転機を迎えていた。

 朝鮮革命に課された任務を果たすには各自がなにをすべきかを決断し、その実現に向けて全力をつくすときがきたのである。

 9.18事変は、中国人民にたいする侵略であり、同時にその一帯に居住する朝鮮人民と朝鮮共産主義者にたいする攻撃でもあった。われわれは、朝鮮の共産主義者として、当然それにこたえなければならなかった。

 わたしは、武装隊伍の組織を急がなければならないと考えた。



 


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