金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 受難の大地


 5.30暴動と8.1暴動を契機にはじまった白色テロの旋風は、1931年に入るといっそうはげしく満州の大地に吹き荒れた。敵は、朝鮮の共産主義者と愛国者が何年もかけて育てた革命勢力を根こそぎにしようと、いたるところで血なまぐさい弾圧を強行した。

 東満州は、南満州や中部満州よりも情勢が険悪だった。暴動の結果も悲惨をきわめた。敦化の南門で竿につるされた暴動参加者のさらし首を見て、わたしは敵の反革命攻勢がいかに悪辣きわまるものであるかを知った。

 教条主義とプチブル的英雄主義にとりつかれた分派事大主義者は、5.30暴動と8.1暴動のあとにも、国恥日、10月革命記念日、広州暴動記念日などを契機に記念暴動、収穫暴動、恐怖暴動などと称してひっきりなしに暴動を引き起こしたが、その延べ回数はじつに数百回に達した。年がかわってもテロ旋風がおさまらなかったのはそのためでもある。

 間島の革命組織は、壊滅状態に陥り、先頭に立ってたたかった中核分子はもとより、暴動参加者に食事を運んだ人たちまで検束、処刑された。1年前にわれわれが豆満江一帯で立て直した組織もかなり被害をうけた。暴動参加者の一部は自首し、あるいは革命組織から離脱した。

 地下にもぐった組織のルートを求めて村へ行くと、人びとはわれわれに疑わしそうな目を向けて心を許そうとしなかった。「間島は共産党のために滅んだ」「共産党の妄動がたたって間島は血の海、火の海になった」「共産党に踊らされたら一家が絶滅する」といって、所属や系列にかかわりなく頭からかぶりをふり、共産主義者を敬遠する人たちが少なくなかった。

 わたしが明月溝へ行ったとき、甕区党委員会の委員李青山(リチョンサン)は暴動後の苦衷をこう語った。

 「上部では、大衆のなかへ入って組織を立て直し、拡大せよと督促するが、はっきりいって、もう人びとに会う気になれず、そんな勇気も湧かない。わたしを革命家だからといって尊重してくれた人たちやわたしの推薦で組織に入った人たちまで、数か月前からは、わたしを見ると避けようとするのだから、気落ちして革命をやる意欲が湧かない。暴動を何度もつづけたとどのつまり、間島の民心はすさんでしまった。こんなに冷たい目で見られるくらいなら、いっそ革命を放棄して、どこかで生活の糧でもかせぐ方が気が休まると思うときさえある。だからといって、革命家がそうやすやすと初志を放棄できるものではなかろう。とにかく、なんとかしなくてはいけないんだが、それがどうにもうまくいかないんだから、この騒々しい時局を恨めしく思うほかない」

 それは、李青山の苦悩であると同時にわたしの苦悩でもあった。間島のすべての革命家が1930年から31年にかけて同じような苦しみを体験した。李青山のように黙々と誠実に働く老革命家でさえこんな弱音を吐くのだから、当時の事態がいかに険悪で暗たんとしていたかは察して余りあるであろう。

 李青山は、もちろん革命を放棄しなかった。

 わたしはその後、安図で彼に会った。わたしが豆満江沿岸の各県を巡っているあいだに、彼は安図区党委員会に異動していたのである。甕声磖子(おうせいらし・明月溝)にいたときにくらべて表情が明るかった。彼は、新しい任地ではすべてがうまくいっていると満足そうにいった。

 「悪夢のような時代は過ぎ去った」

 彼は、その生活における変化を簡単にこう表現した。人びとから敬遠されていると訴えたときの、あの沈うつな表情はもうどこにもなかった。

 しかし、わたしが甕声磖子で彼に会ったころは、満州地方の革命家は白色テロにさらされ、人民から遠ざけられて苦しみ悩んでいた。

 わたしも例外ではなかった。わたしがカラシナの漬物でトウモロコシの薄がゆをすすり、夜ともなれば、冷たい隙間風が吹きこむ他人の家で木枕をして横になり、ひもじさとたたかったのもそのころのことである。当時、われわれをさいなんだ最大の苦痛の一つは空腹だった。実際、われわれはあのころ間島で、寒さと飢えにはひどく悩まされたものだった。

 わたしは綿入れもなく、ほとんど洋服のままで冬をすごしたので、他人よりも寒い思いをした。布団のない家では、夜、洋服を着たまま寝るほかなかった。李青山の家には、枕も布団もなかった。それで、洋服も脱げずに一晩をすごしたのだったが、あまりの寒さに一睡もできなかった。

 その夜のひどい寒さが忘れられず、後日、安図のわが家へ行ったときにそのことを話すと、母は数日後、馬丁などが着る大きな綿入れを一着つくってくれた。それを着るようになってからは、夜具のない家ではハンカチで木枕を包み、足を縮め、綿入れをかぶって寝たものである。

 しかし、そんな苦労はものの数ではなかった。その年の春、間島でわたしは1日として安らかに眠ったことはない。夜、床についても寒く、ひもじくてなかなか寝つかれなかったうえに、同志たちの死がいたまれ、破壊された組織のことが気がかりで心を落ち着けることができなかった。

 人民に冷たくあしらわれては絶望し、孤独感にさいなまれた。われわれに気を許そうとしない人びとに会ってから宿所に帰り、寒ざむとした部屋で肘枕をして横になると、彼らに白い目で見られたときの光景が思い浮かんで、眠ることができなかった。

 われわれは以前から、間島地方に大きな期待をかけていた。延吉は分派の影響をかなりうけていたが、他の地方はそれほどでなかった。間島地方は、新しい世代の共産主義者を早く育成し、新たな方法で革命を展開しうる有利な条件がととのっていたのである。同志たちは何年も地道な努力を傾け、この一帯で抗日革命をさらに高い段階へと引き上げる準備を着実に進めていた。

 ところが2回もの暴動がたたって、せっかく積み上げた成果はまたたくまに崩れてしまった。左傾日和見主義者は超革命的な言辞やスローガンで大衆を一時眩惑させたが、その弊害ははかり知れないほど大きかった。左傾は右傾の裏返しだというのは決して誤りではない、とわたしは思った。われわれが万事をあとまわしにして間島へ急行したのも、この左傾日和見主義がもたらした損失を埋め、一日も早く武装闘争へ移行する準備を急ぐためだった。

 大きな期待をかけて訪れたのだったが、間島の破壊ぶりは予想外にひどく、人民は革命家に不信の目を向け、敬遠していたのだから、ショックは大きかった。

 人民のためにたたかう闘士が産みの親の人民から見離されるとすれば、それ以上の悲しみがまたとあろうか。たとえ一日でも人民の信頼を失い、人民の支持を得られないなら、革命家の生命はもはや喪失したにひとしいのである。

 大衆が誰かれの見境なく革命家一般を白眼視したとき、われわれが深く胸を痛めたのは、暴動がもとで共産主義者の権威が失墜したこと、大衆が指導者を信頼せず組織から離脱したこと、そして朝中人民のあいだに不信と誤解の壁が生じたことである。それが、われわれの最大の悩みだった。

 だが、われわれは苦しみもだえてばかりいたのではない。革命家の前途に困難がないとすれば、それはもはや革命とはいえないであろう。革命家は、苦しいときほど不屈の意志をもち、確信にみちて困難をのりこえていかなければならないのである。

 われわれは1931年にも間島一帯で、5.30暴動の後遺症をいやす活動をねばり強く進めた。卡倫会議の方針を貫くうえで、第一の障害がこの暴動の後遺症であった。その障害を至急取り除き、革命隊伍を再整備せずには、革命を危機から救い、発展させることができなかった。

 五家子会議を終えて東満州に向かうとき、わたしは、わたし自身と同志たちに2つの課題を提起した。

 その一つは、5.30暴動を総括することだった。暴動を計画し指揮した当事者ではなかったが、われわれはそれをいろいろな角度から科学的に分析し、総括する必要を感じていた。

 暴動は失敗を重ねたにもかかわらず、東満州では、いまだに狂信的なテロリストや李立三路線の支持者が無謀な暴動へと大衆を駆り立てていた。

 1国における社会主義革命勝利の可能性を指摘しているレーニンの命題を教条主義的に適用した「1省または数省における最初の勝利」という李立三の路線は、大衆を暴動へと突進させる強烈な起爆剤となった。

 中国共産党の実権を握っている人物がうちだした路線であり、それが組織のルートを通じて下達されたのであるから、李立三が党職をしりぞき、その主張に極左冒険主義の烙印が押されるまで、人びとは長年彼の路線に追従した。彼らは失敗と挫折の苦杯をなめながらも、李立三が描いてみせる甘い夢からさめることができなかった。

 5.30暴動を総括すれば、人びとはその夢からさめるに違いなかった。そこで5.30暴動を総括することによって、分派事大主義者の栄達主義と功名主義、プチブル的英雄主義に警鐘を鳴らすことにしたのである。

 暴動の総括はまた、満州地方の革命家に科学的な戦略戦術と大衆指導方法を体得させる一つの歴史的な転機になるだろうとも考えた。

 いま一つの課題は、広範な大衆を一つの政治勢力に結集する正確な組織路線をうちだし、それによって新しい世代の共産主義者を武装させることである。

 間島地方の共産主義者には、破壊された組織を立て直し、拡大強化する明確な組織路線がなかった。

 東満州地方の分派事大主義者は、大衆を組織化する活動でも大きな極左的誤りを犯していた。彼らは「階級革命論」を唱えて、貧農と雇農、労働者だけを組織に加入させ、その他の階層はいずれも革命とは無縁の存在とみなした。そのため組織に入れなかった人たちは、共産主義者というのはあんな人でなしなのだ、白米にまじったもみ殻のようにかすばかり寄り集まってこそこそ立ちまわり、ほかの者はつまはじきにするのが共産主義だ、といって憤慨した。

 このような排他的傾向を打破して各階層の愛国勢力を一つに結集するには、古典の命題や外国の経験にこだわる事大主義的、教条主義的な傾向を克服し、すべての愛国勢力をもれなく包容する正しい組織路線をうちだし、すみやかに実行しなければならなかった。

 わたしは、これらの課題を間島における第一段階の活動目標とし、東満州への道を急いだ。ところが、孤楡樹で大衆組織の活動を指導したあと、柳鳳和(リュボンファ)、崔得永(チェドゥクヨン)とともに長春方面に向かう途中、不用意にもスパイの密告で反動軍閥当局に逮捕されてしまった。そのころ、軍閥当局はわれわれの活動に目を光らせていた。彼らは日本の警察に劣らぬするどい嗅覚をもち、われわれが武装闘争の準備のため東満州へ向かっていることまで探知していたのである。

 孤楡樹が中部満州地方における朝鮮共産主義者の主な活動拠点であることをかぎつけた軍閥当局は、伊通県の県公署に指示して村に督察員を送り、われわれの一挙一動を監視していた。

 孤楡樹には、県公署の督察員と結託して、われわれの活動を内偵していた李出流という中国人地主がいた。

 われわれが孤楡樹を発って、長春方面に向かったことを督察員に告げたのがこの男である。われわれは大南屯で、督察員の通報をうけて出動した保衛団員に逮捕され、県公署の留置場で何日か尋問をうけたあと長春へ護送され、20日ほど獄中生活をした。わたしの生涯における3度目の入獄だった。

 そのとき長春には、たまたま吉林毓文中学校の李光漢校長と河先生が来ていた。彼らはわたしが逮捕されたことを知ると軍閥当局を訪ねて、「金成柱は吉林監獄でも無罪釈放されているのに、なぜまた逮捕したのか。金成柱はわれわれが保証する」と強く抗議した。彼らの尽力で、幸いにもわたしは釈放された。

 2人の恩師がともに容共人士であったからこそ、あの危急にさいしてためらいなくわたしを救ってくれたのだと思う。

 以前と変わりなくわたしに心から同情し、われわれの偉業を理解してくれる彼らに、わたしは生涯忘れえぬ大きな感動を覚えた。

 東満州におけるわれわれの活動は、朝鮮革命軍の隊員と革命組織の中核を対象に敦化講習会を開くことからはじまった。

 そこでは、武装闘争の準備を本格的に進める課題と実行方途、基礎党組織にたいする統一的指導で提起される原則的な問題、分散した革命大衆を組織に結束する問題などが扱われた。それは、同年12月の冬の明月溝会議の予備作業ともいえる講習会だった。

 講習会を終えたあと、わたしは、安図、延吉、和竜、汪清、鐘城、穏城などの革命組織の活動を指導した。

 間島と豆満江沿岸六邑一帯の実態を十分に把握したわたしは、1931年5月中旬、甕声磖子の李青山の家で党および共青幹部会議を招集した。歴史上、この会議は「春の明月溝会議」と呼ばれている。

 甕声磖子とは甕器の音がする岩という意味である。日本が満州を占領する以前、明月溝は甕声磖子と呼ばれていた。日本人が満州占領後に鉄道駅を設けたさい、甕声磖子を明月溝と表記したのが定着し、その後、人びとは甕声磖子を明月溝と呼ぶようになったのである。

 いまは明月溝が安図県の県都であるが、われわれが会議を開いた当時はまだ延吉県に属していた。

 春の明月溝会議には、党と共青の幹部、朝鮮革命軍のメンバー、地下工作員など数十人が参加した。間島地方の青年共産主義者のうちで、白昌憲(ペクチャンホン)のようなそうそうたる革命家は、ほとんどこの会議に参加したと記憶している。

 『極左冒険主義路線を排撃し、革命的組織路線を貫徹しよう』は、この会議におけるわたしの演説を整理したものである。そこには、わたしが東満州に向かうさいに提起した2つの課題が含まれている。

 あらかじめ計画したとおり、われわれはこの会議で、5.30暴動の本質を深刻に分析、総括するとともに、勤労者大衆を結束し、そのまわりに各階層の反日勢力をかたく団結させて、全民族を一つの政治的勢力に結集するという革命的組織路線を提示した。

 そして、組織路線を貫く課題として、指導中核をかため、その自立的役割を高める問題、破壊された大衆団体を立て直し、それに各階層の大衆を引き入れる問題、実際のたたかいを通じて大衆を鍛える問題、朝中人民の共同闘争と友好団結を強化する問題などが討議され、さらに、小規模の闘争から大規模の闘争へ、経済闘争を漸次政治闘争へと発展させ、合法闘争と非合法闘争を巧みに結びつけるなどの戦術的原則を定め、最後に極左冒険主義的傾向を徹底的に克服する問題がとくに強調された。

 1931年5月に開かれた春の明月溝会議は一言でいって、大衆獲得をめざした会合だったといえる。大衆獲得における最大の障害は、極左冒険主義路線であった。それでわたしは、あえてその路線をたたいたのである。

 わたしが極左路線をたたき、幅広い組織路線を提起すると、会議の参加者たちはそれに全幅的な支持を表明した。

 会議では多くの人が発言したが、それはみな革命的な内容にみちていた。彼らは一様に、日本の満州侵略は時間の問題だから万全の準備をととのえ、時期が到来すれば決戦をくりひろげようと強調した。老練な革命家が大勢参加していたので、参考にすべき有益な発言が多かった。

 わたしは、この会議から多くのことを学んだ。会議後、間島全域と国内に向けて工作員たちがつぎつぎに出発した。

 わたしは、しばらく明月溝一帯の党組織と大衆団体の活動を指導し、そのあと安図に向かった。当分のあいだ安図を活動拠点にして、間島と国内の革命活動をもりたてるためだった。

 安図は、鉄道や大道路、そして都市から遠く離れた山間地帯で、険しい山や密林にとりかこまれ、日帝の触手もそれほどのびていなかった。それに延吉、和竜、汪清、琿春などの地区や撫松、敦化、樺甸などの地区はもちろん、六邑一帯をはじめ、国内の各組織とも連係を保つのに有利な地点であり、遊撃隊を組織して訓練をほどこし、党組織の建設を進めるうえでも格好の土地だった。住民の構成もきわめて良好だった。

 さらに祖宗の山――白頭山が近かったので、祖国を瞬時として忘れることのできなかったわれわれは、その荘厳な山容から大きな精神的な慰みと鼓舞をうけたものである。すがすがしく晴れ渡った日には、遠く西南の空に銀灰色の白頭連峰が望めた。はるかなその遠景に見入っていると、早く武装をととのえて祖国のふところにいだかれたいという衝動に駆られた。たとえ、祖国を離れ異国で武装闘争を開始するとはいえ、白頭山が望めるところで抗日の銃声を上げたいというのは、われわれの一致した念願であった。

 わたしは敦化での講習会を終えたのち、4月にすでに安図へ行って大衆団体の活動を指導したことがあった。

 そのころ、母は病気がちでかなり衰弱していた。医術が未発達なころだったので病名もわからず、母は「癪」だろうといっては、煎じ薬を飲んでいた。

 母は自身の病気は一向にかまおうとせず、一銭の金も持たずに各地を巡り歩くわたしのことを気にかけながら、婦女会活動にうちこんでいた。

 2か月ぶりに安図に向かうわたしは、母への思いが脳裏から離れなかった。

 安図に着いたわたしは、思いのほか明るい母の顔色を見て胸をなでおろした。家のことは心配せず、祖国解放のたたかいに専念するようにといつもいいながらも、わたしに会うと喜びをかくせず、明るい表情をつくってみせる母だった。

 わたしが帰ったと聞いて、万景台の祖母が履き物もはかずに飛び出してきて、わたしを抱きしめた。父が亡くなった年に満州へやってきた祖母は、その間、郷里へ帰らず、撫松で母と貧しい暮らしをともにしていた。わたしたち一家が撫松から安図へ移ったときも、祖母は母に同行した。安図では、興隆村の英実の母の実家に身を寄せ、両家を行ったり来たりしていた。

 英実は亨権叔父の一人娘だった。

 亨権叔父が逮捕されてから、叔母(蔡燕玉)はノイローゼにかかっていた。結婚して娘をもうけたばかりで、むつまじく暮らそうとしていたやさきに、不幸にも夫が監獄に捕われる身となったのだから、無理もないことだった。

 亨権叔父が15年の懲役刑を言い渡されたので、わたしは手紙で叔母に、子どもを人にあずけて再婚するようにと勧めた。しかし、叔母はそれに従わなかった。夫を亡くした兄嫁も1人で苦労しながら3人の子を育てているのに、どうして生きている夫を捨てて再婚などできるものか、自分が再婚すれば監獄の夫はどんなに気を落とすだろう、それに、自分が英実を手放して再婚したとしても、それで気持よく眠れ、食事が喉を通るだろうか、だからそんなことは二度といわないでほしい、というのだった。叔母は、貞節で気丈夫な女性だった。

 母は安図に転居したとき、気晴らしをするようにといって、それまで一緒に暮らしていた叔母を興隆村の実家に帰したのだった。

 祖母は、その英実の母の実家で起居しながら嫁の介護をし、話し友達にもなっていた。そして、病身のわたしの母のことが気になると、急いでやってきて、薬を煎じたり、台所仕事をしたりするのだった。病弱な2人の嫁の世話をやかなければならなかったのだから、祖母もずいぶん気苦労したであろう。

 祖母が郷里に帰らず異国の地で何年もすごしたのは、孤独な2人の嫁を哀れんだからに違いない。

 わたしが安図に到着した日の晩、祖母はわたしと枕を並べて寝た。

 深夜、目をさますと、祖母がわたしの頭を腕に抱いていた。わたしが眠っているあいだに、枕を押しのけてわたしを抱き寄せたのだろう。わたしは祖母の気持を思うと、枕の方へ頭を移すことができなかった。

 そのときまでも、まだ眠っていなかった祖母が、わたしにそっと話しかけた。

 「おまえ、里のことを忘れたのではないかい」

 「忘れるはずがあるものですか。わたしは片時も万景台のことを忘れたことがありません。国もとの一家親族のみなさんが懐かしくてたまらないのです」

 「わたしが満州へ来たのは、おまえたちをみんな連れて帰ろうと思ったからだよ。おまえは連れていけないにしても、母さんや弟たちをみんな連れて帰るつもりだった。でも、おまえの母さんが承知しないのだよ。国を取りもどすまでは二度と鴨緑江を渡るまいと誓ったのに、成柱の父さんが亡くなったからといって、どうしてその決心をひるがえせようかというのだよ。どんなに強く決心したものか、撫松を発つとき、一度も後ろをふりかえろうとしなかった。だから、くにへ帰ろうとは二度といいだせなかったよ。ここに残るほうが朝鮮の独立にもっとためになるのなら、わたしはなにもいわずに一人で万景台へ帰る。くにのことを思い出して、おじいさんやおばあさんに会いたくなったら、ときどき手紙を出しておくれ。そしたら、おまえたちに会ったと思えるからね。わたしは、ここへはしょっちゅう来られないのだから」

 その後、わたしは祖母の希望に一度も添うことができなかった。

 祖国の新聞にたびたび掲載されるわたしの名と抗日遊撃隊の戦果が、わたしの消息を伝えているのだと思って、あえて手紙を書こうとしなかったのである。祖母は、おまえが仕事にうちこもうとすれば、母さんが達者でなければならないのに、病気はつのる一方だし、それでも仕事には身を惜しまないのだから困ったものだ、とそっと溜息をもらした。

 それを聞くと、わたしは母のことが心配で眠れなかった。一家の責任を負った長男として、万景台の家門を引き継ぐ長孫として、考えさせられることが多かった。

 当時、われわれとともに革命に参加した青年のあいだには、戦いの道に立ったからには当然、家のことなど忘れるべきだという心情が支配していた。家のことを考えるようでは大事をとげることができない、というのが青年革命家たちの心情だった。

 わたしは早くからそんな見解を批判し、家庭に愛着を覚えない者は、祖国も革命も心から愛せるものでないといってきた。

 ところが、わたしは、わが家をどれほど愛し、そのためになにをしたというのだろうか。革命に献身することこそ親兄弟を真に愛することだというのが、当時のわたしの孝行についての考え方だった。わたしは、革命を離れた純粋な孝心というものを考えたことがない。なぜなら、家庭の運命と祖国の運命は切っても切れない密接な関係にあるからである。国が平安なら家庭も平安であるというのは一つの常識である。国の悲運は、それを構成する数百万の家庭にもおよぶものだ。したがって、家庭の安泰と幸福を守るためには国を守らなければならず、国を守るには各人が公民としての義務をりっぱに果たさなければならないのである。

 しかし、革命をおこなうからといって家庭を忘れることはできない。家庭を愛する心は、革命家をたたかいへ奮い起こす一つの原動力である。家庭を愛する心が冷めるとき、革命家の闘争意欲も同時に冷めるのである。

 わたしは家庭と革命のこのような相関関係を原理的には理解していたが、革命に一身をささげた革命家の場合、家庭をどのように愛するかということでは、まだはっきりした見解をもてずにいた。

 朝、目をさまして家の内外を注意してみると、男手の必要なところがいろいろとあった。たきぎもほとんどなかった。

 わたしは、今度帰った機会に母の手助けをし、できるだけ家族の面倒をみようと決心した。その日は、ほかのことはなにもしないことにして哲柱と一緒に山へ登った。柴を刈ることにしたのである。

 ところが、どうしてそれに気づいたのか、井戸端へ行っていた母がトワリ(頭に物をのせるときの敷き物)と鎌を持って、あとを追ってきた。家へ帰るようにといくら頼んでも聞き入れなかった。

 「手伝ってあげようとして一緒に行くんじゃない。山へ行っておまえと話をしたいのだよ。ゆうべは、おばあさんがおまえと長いこと話したじゃないか」

 母はこういって、明るく笑った。

 わたしは母の気持ちが理解できた。家では、祖母がわたしをほとんど一人じめにした。祖母がそばを離れると、今度は弟たちがまつわりついた。

 母は柴を刈りながら、ずっとわたしと語り合った。

 「おまえ、崔東和(チェドンファ)という人を知っているかい?」

 「知っていますとも。共産主義運動をしている人のことでしょう」

 「先日、その人が訪ねてきてね、おまえがいつごろ安図へ帰ってくるのか、帰ってきたら知らせてほしい、おまえとひとつ論争をしてみたいというのだよ」

 「そうですか。その人がどうして、わたしと論争をしたいというのでしょうか?」

 「おまえが、ほうぼうで5.30暴動は間違った暴動だったと宣伝しているのが気に入らないんだって。上部が支持し、後押しをした暴動なのに、成柱のような分別のある人間がなぜそれを非難するのかわからないって、頭を振っていたよ。おまえは、もしかしたら人びとに嫌われてるんじゃないの?」

 「そうかも知れません。わたしの主張を快く思わない人たちがいるようです。で、お母さんはそのことをどう思います?」

 「わたしに世間のことがわかるものかね。ただ、人びとが大勢殺され、つかまっていくので、たいへんなことになったと思ってるんだよ。中心になる人たちがみんないなくなったら、革命は誰がするのだろうかってね」

 わたしは、素朴ながらも明快な母の考え方が気に入った。人民の目はつねに正しい。人民が判断できない社会現象などありえないのである。

 「お母さんのおっしゃるとおりです。崔東和よりお母さんのほうがよっぽど正しく問題を見ています。暴動の被害はいまだになくなっていません。わたしはその被害を収拾しようと、今度また安図へ来たのです」

 「じゃ、おまえは、この前の春のように今度もまた忙しいんだね。それなら、きょうみたいに二度と家のことなんかにかかずらっていないで、その方の仕事を一生懸命にするのよ」

 母がわたしにいいたかったのはこれだった。そのことをいいたくて、母はわたしに崔東和の話を引き出したのである。

 わたしは母の望みどおり、組織づくりに専念した。安図でも5.30暴動の被害は大きかった。それにもかかわらず大衆を組織化する活動は円滑に進んでいなかった。安図を革命化するにはなによりもその一帯で党組織を拡大し、党員を増やし、党の組織指導体系を確立しなければならなかった。

 われわれは、1931年6月中旬、金正竜や金日竜などのアクチブたちで安図県小沙河区党委員会を組織し、さらに二道白河、三道白河、四道白河、大甸子、富爾河、車廠子などにオルグを送って基礎党組織をつくるよう任務を与えた。

 区党委員会を組織したわれわれは、その後、柳樹河、小沙河、大沙河、安図などで共青組織を拡大する一方、農民協会、反帝同盟、革命互済会、少年探検隊などの反日団体もつくった。

 こうして、その年の夏、安図地方では大衆を組織化する基礎作業が完了した。組織づくりがなされなかった村は一つもなかった。

 安図を革命化するうえでの最大の障害は、革命の隊伍が四分五裂していることであった。

 安図は、川をはさんで江南、江北の二つの集落からなっていた。ところが、それらの集落には別個の青年会組織がつくられていた。江北の青年組織は正義府の流れをくむ者が、江南の青年会は沈竜俊(シムリョンジュン)など参議府系の者がそれぞれ統轄していた。この2つの組織が張り合っているところへ、崔東和の指導するM・L系青年組織が割りこんで、青年運動内部は錯綜していた。

 そこでわれわれは、青年組織の再建にとどまらず、それらを一つの組織に統合する方向へと青年を啓蒙し、導いていった。われわれが、青年運動の分裂をはかるささいな企図にたいしても仮借のない批判を加え、警戒を怠らなかったので、崔東和のような派閥争いをこととする人たちでさえ、安図地区に統一的な青年組織をつくろうというわれわれの見解に慎重に対応せざるをえなかった。

 安図の革命化では、敵対分子の妨害策動もまた激しかった。

 卡倫や五家子では村長もわれわれの影響下にあったが、興隆村では、村長が悪質地主の穆漢章とぐるになってスパイ行為を働いた。彼は、村人や大衆団体の動静を探っては城市へ報告に駆けつけた。そこでわれわれは、興隆村で、大人から子どもまで全村民が参加する弾劾集会を開いて、村長を追放してしまった。

 すると数日後、穆漢章がわたしを訪ねてきて、こんなことをいった。

 「金先生が共産主義者であることは、わたしも前から気づいていました。ところが、わたしはふだん旧安図におり、ここには配下の保衛団だけがいるので、どうにも気がかりでなりません。あの無知な者どもが金先生の正体を知って危害を加えでもしたら、わたしはすべての共産主義者を敵にまわすことになりかねません。だからといって、いままでどおりにすごすわけにもいきません。日本人に知られたら、わたしの首が危ないのです。ですから、お互いに悪くないようはからうのがよくないでしょうか。それで、金先生はここを去っていただきたいのです。旅費が必要ならいくらでも都合してさしあげますから」

 わたしは彼の言い分をすっかり聞いてから、こういった。

 「ご心配にはおよびません。わたしは、あなたが地主であっても、中国人の良心があると信じており、中国を奪おうとする日帝を憎んでいると思います。だから、あなたがわたしたちに反対し、危害を加えるわけはないと思っています。わたしもまた、あなたや中国人青年の保衛団員を悪く思っていません。あなたが愚劣な人間なら、こんなことはいいません。わたしのことを心配するより、まずあなた自身が日本人の狗だといわれないよう気をつけたほうがよいでしょう」

 穆漢章はこういわれると、黙って興隆村を去った。

 その後、穆漢章と保衛団は、およそ中立的な立場に立ってわれわれに慎重な態度をとり、新任の村長もわれわれの顔色をうかがいながら、やむをえない場合だけ行政任務を遂行した。

 もし、われわれが安図で大衆組織化の方針を適時に実行しなかったとしたら、白色テロの吹き荒れた間島で穆漢章のような大地主を屈伏させて、中立を守らせ、有名無実な存在に変えることはできなかったであろう。

 組織化された大衆の力はじつに大きく、その力の前では不可能という言葉が通用しないものである。

 興隆村とその一帯の革命組織は活気にみちて、勢力を広げていった。



 


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