金日成主席『回顧録 世紀とともに』

9 「理想村」を革命村に


 ひところわが国の独立運動家は、「理想村」建設の構想を実現するためにいろいろと苦心した。

 「理想村」といえば誰でも、搾取も抑圧も不平等もなく、万人がひとしく自由に、そして幸せに暮らす世界(村)を連想するであろう。昔から朝鮮民族はそうしたユートピアのような世界を夢みてきた。

 民族主義者の「理想村」建設の主張は、万民が豊かにむつまじく、平和に暮らしたいという先祖の志向と念願を反映したものだといえよう。

 「理想村」建設を主張し、その実現をめざして多くの力を傾けた主要人物は安昌浩である。「韓日併合」条約の公布直後、安昌浩、李東輝、申采浩、柳東悦(リュドンヨル)らは中国の青島で会合し、そこで安昌浩がもちだしたのが「理想村」建設の青写真であった。慎重な討議の末、独立運動の指導者たちは、アメリカ人が経営していた大同実業会社(密山県)の土地を買い取って開墾し、武官学校を設けて独立軍を養成することにした。このような「理想村」をつくって、そこから資金を捻出し、人材も養成して、独立運動の物的・人的・財政的基礎をきずこうというのであった。

 この計画が流産したあとも、安昌浩は多年間、「理想村」建設の資金を工面し、適当な候補地を物色するために苦労した。彼が「理想村」建設に心血をそそいだのは、「実力養成論」を物質的に支える独立運動の基地が必要だと見たからである。

 「理想村」建設の試みは、当時の独立運動で一つの風潮となっていたようである。荒れ地を開拓して農場をつくり、武官学校を建てて実力養成の素朴な夢を実現しようと企てた民族主義者は少なくなかった。

 遼河村もそうした風潮の産物であった。

 遼河村をはじめて開拓したのは、南満州地方で活動した民族主義者たちである。宋碩潭(ソンソクタム)、辺大愚(辺昌根)、金海山(キムヘサン)、郭尚夏(クァクサンハ)、文尚穆(ムンサンモク)など南満州における民族主義勢力の一部の人が西部に向かって放浪の末、遼河のほとりで旅装をといた。彼らは朝鮮の理想村を建設するというふれこみで、ここに300余戸の同胞を移住させ、外界とは交渉を断って別天地を建設しはじめた。先にあげた5世帯が草分けだという意味で、彼らが定着した土地に五家子という地名をつけた。

 そのころ吉林の文光中学校に通っていた者のなかに、孤楡樹と五家子地方の青年が何人かいたが、彼らはしきりに五家子の自慢をした。

 それで、わたしは五家子に関心をいだき、その村を革命村に改造しようと思い立ったのである。

 わたしが東満州から五家子へ行ったのは、1930年10月のことだった。元来、わたしは武装闘争準備と関連して、規模の大きい会議を東満州で開くつもりだった。しかし当時の情勢から見て、そこで会議を開くのは合理的でなかったので五家子に会場を移すことにした。わたしは、何か月か五家子にじっくり腰をすえて会議の準備をしながら、村の革命化をおし進めようと決心した。そこは、うわさにたがわず風習もよく、人情も厚かった。

 その一帯は、風が強いので屋根に瓦をふかずに粘土を塗っていた。塩分を含んだ粘土を塗れば雨が漏らないからである。五家子の人たちは、塀も土で格好よく築いた。粘土を槌でたたき、石のように固くなると適当な規格に切って塀を積み上げるのだが、こういう方法でつくった土ブロックは弾丸も跳ね返す、と地元の農民はうけあった。

 五家子を開拓した有志たちは、自分の理念や主義主張と合わない毛色の変わった思想潮流が村に入るのを決して許さなかった。

 彼らは、農民と心を合わせて沼地を田につくりかえ、村に学校を建てた。また、農友会や青年会、少年学友会などの大衆組織をつくり、村公会という自治機関を組織した。そして、日本が「韓日併合」を宣布した8月29日がめぐってくると、村の住民を集めて『国恥日歌』をうたった。日本軍と中国反動軍閥の触手がそれほどおよんでいない自分たちの土地を「天国」とみなしたのは、決して不思議なことでなかった。

 五家子の住民の大半は、平安道と慶尚道の出身だった。慶尚道出身の人たちは、南満青総系のM・L派の影響下にあり、平安道出身の人は主に正義府の影響をうけていた。

 わたしは平安道出身だったので、五家子へ行っても卡倫でのように主に慶尚道出身の人の家に泊まった。そうしなければ、慶尚道出身の人たちが神経をとがらせるおそれがあった。

 われわれは卡倫にいたころ、朝鮮革命軍の隊員を何人か工作員として派遣したことがあったが、彼らは五家子で思うように活動することができなかった。頑固なうえ地盤の確かな村の有志を説得できなかったのである。

 わたしは同志の紹介で、その年の冬を当地ですごした。1、2週間でもなく何か月も1か所に滞在したのは、それだけ五家子を重視したからである。

 われわれは、五家子を中部満州一帯における民族主義勢力の最後のとりでと見ていた。ここで着実に活動して五家子を農村革命化のモデルに仕上げれば、その経験を生かして、満州全域と朝鮮北部国境一帯で農村をわれわれの影響下におくことが可能であった。

 われわれが革命の基本的原動力を労働者や農民、勤労インテリと見、わけても農民の革命化に多くの力をそそいだのは、わが国の階級構成において農民のしめる位置と関連していた。農民は、朝鮮の人口の80%以上をしめていた。間島地方も同様で、人口の80%以上が朝鮮人で、そのうちのおよそ90%は農民であった。軍閥の迫害と地主や高利貸しの過酷な収奪のために、彼らは極度の貧困と無権利にあえぎ、地代を通した搾取のほかにも奴婢や奴隷に加えられるような経済外的搾取に苦しんだ。

 国内農民の境遇も大同小異であった。それは、農民大衆が労働者階級とともに革命をもっとも切実に求める階級であり、わが国の革命では農民が労働者とともに主力軍にならなければならないということを示していた。

 農村の革命化は、抗日武装闘争の大衆的基盤をきずく活動で真っ先に解決すべきカギといえた。

 工作員の活動によって、青年のあいだでわれわれを支持する気運が急速に高まると、五家子の有志たちはキセルを振りまわしながら、近ごろの若い者がよからぬ風潮に染まり出した、遼河原に社会主義を引き入れるならず者は向こうずねをへし折ってやる、と青年たちをおどした。間島も共産党のせいで滅びたのに、その狂風が五家子に吹きこんだら遼河の農村も無事ではない、という有志もいた。

 軽はずみなことをしては、有志のキセルにうたれるおそれがあった。

 青年のあいだに動揺が起きた。共産主義の行進曲に歩調を合わせたかったが、年寄りの逆鱗に触れてはと、引っ込み思案になった。しかし、筋を通す青年は有志にたてついた。

 わたしは工作員の報告を聞いて、五家子革命化の先決条件はなによりも有志を説得することだと判断した。有志たちの頭を切り換えなければ五家子を「理想村」建設の幻想から目覚めさせることも、遼河の農村を中部満州のモデル農村につくり変えようというわれわれの構想も実現することはできない。有志さえ心をひるがえすようになれば、あとの人たちはわれわれの活動いかんにかかっていた。

 ところが、工作員は3か月ものあいだ彼らに近づくことができず、周辺をぐるぐるまわっていた。五家子の有志たちは、それほど手ごわい人たちだった。彼らは独立運動の戦績に加えて、学識があり理論の立つ年寄りたちで、並大抵の手腕では彼らに言葉すらかけられなかった。そのような有志の集団が村を牛耳っていたのである。

 村公会を陰であやつり、村の大小のことを監察していたのは、辺大愚という老人だった。彼は、村の実権者で有志を操っていた。村では彼を「辺トロツキー」老と呼んだ。そのあだ名は、彼がトロツキーの話を好んでしたことに由来している。

 辺老は、早くから独立運動のため国内と満州各地を歩いた。初期には、故郷の漢川(ハンチョン・平安南道)と慈城(チャソン)、道清溝(臨江県)などに学校を建てて、教育事業にたずさわった。彼が武装活動に関与したのは1918年、臨江の帽児山に根拠地のあった独立軍部隊に入隊したときからだった。当時、彼はわたしの父と連係をつけようと、臨江のわたしの家にしばしば出入りした。辺老が来られないときは、外伯父の康晋錫(カンジンソク)が彼と父との連係をとった。

 大韓独立団宣伝部長、民族独立軍副総裁、光復軍軍法部長兼第1営長、統義府実業部長などを歴任し、独立軍運動をもりたてようと東奔西走した彼は、1926年に軍職からしりぞき、「理想村」づくりに乗り出した。

 彼は一時、共産主義運動をするのだといってソ連の極東地方にも出入りした。彼は、高麗共産党に関与したときにもらったという青表紙の党員証を持っていた。

 辺大愚老の心をひるがえさせなくては、頑固な有志集団を引きつけることも、村を革命化することもおぼつかなかった。

 わたしが五家子に来たと聞いて、農友会の責任者であった辺老の息子辺達煥(ピョンダルファン)が訪ねてきた。彼はわたしに、民族主義者を押しのけて五家子を「理想村」から革命村に改造しようとしても、自分の父親や村の有志に妨げられてなにもやれないとこぼし、金先生が来たから、あの頑迷な邪魔者の年寄りたちを打倒しようといった。

 わたしはあきれて辺達煥にたずねた。

 「打倒ですって? それはどうしようというのです」

 彼の返答がふるっていた。

 「年寄りたちがなにをいおうと取り合わずに、わたしたちだけで組織をつくり、別の釜の飯を食いながら五家子を社会主義村にしようというのです」

 「それはいけません。そんなことをしては五家子が二つに割れてしまう。それは、われわれの路線とも合いません」

 「じゃ、どうすればいいのです。五家子をあの古くさい年寄りたちにまかせることもできないし…」

 「要は有志たちが、われわれを支持するように仕向けることです。会長先生のお父さんと話し合ってみようと思うのですが、どうでしょうか」

 辺達煥は、誰が会っても無駄だといった。それまで国民府や上海臨時政府、M・L系の共産党再建委員会の人物などが来て、五家子に足がかりをつくろうと努力したが、みな父親に冷たくあしらわれて引きあげた、普通の人には会ってもやらず、たとえ名のある民族主義の巨頭でも、訓戒を垂れて追い返してしまった、というのである。

 「会長先生のお父さんは、わたしの父とよしみがあり、また会長先生とわたしも顔見知りなのですから面識のない人よりはそれでもましではないでしょうか」というと、辺達煥は、あの一徹な父親には縁故関係も役に立たない、といって困りきった顔をした。彼は10年前わたしの父にあてた辺老の手紙をもって臨江に来たことがあった。

 わたしは、村の有志のたまり場になっている辺達煥の家で何日も「辺トロツキー」老と語り合った。

 初日は、主に辺大愚老が話した。あぐらをかいてしきりにがん首を灰皿にたたき、いかにも人を見下ろすような態度だった。金先生の息子が来てうれしいといいながらも、わたしを子ども扱いにした。二言めには「おまえたち」「おまえたち」といって訓示を垂れた。男らしい容貌で性格が激しやすく、理論水準も高かったので、最初から威圧感を覚えさせるものがあった。

 それでわたしは、辺老がわたしの年を聞いたとき、5つ増やして23だと答えた。18だといえばまったく子ども扱いをされるかも知れなかった。わたしは年よりは老けて見えるので、23といっても通ったのである。わたしは、ほかでも年を聞かれると、23だとか24だとかと答えていた。そうしたほうが有志たちや青年たち相手の活動に有利だった。

 わたしは辺老が理屈に合わないことをいっても、反駁したり、話の腰を折ったりせずに、最後まで礼儀正しく聞いた。

 老人は、近ごろの若い者はこちらのいうことは十のうち一つも聞こうとせず、封建的だのなんだのといってけちをつけたがるが、成柱とは話がいがあるといった。

 ある日、辺老は、わたしを夕食に招いた。金亨稷先生のご存命中は、臨江でたびたび供応にあずかったが、きょうは粗末なものだが食事を用意した、というのだった。

 そして、しばらく話しこんでいた老人が、だしぬけにこんな質問をした。

 「おまえたちは、わしらの理想村をひっくりかえしに来たというが、ほんとうかな」

 父親が共産主義者をいちばん警戒しているといった辺達煥の言葉はあたっていた。

 「理想村をひっくりかえすなんてとんでもないことです。お力添えはできないまでも、ご老人方が苦労して築かれた理想村をひっくりかえすなんて、誰にそんなことができましょうか。わたしたちにはそんな力もありません」

 「ふむ、そうか。ところがうちの達煥など五家子の若いもんは、しょっちゅう理想村がどうのこうのといって年寄りを引き下がらせ、この村に赤旗をひるがえすのだと力んでいる。人のうわさでは、五家子で青年を指導しているのは成柱じゃそうだから、ひとつ聞くが、吉林の青年もあいつらみたいに理想村が気に入らないのかな。ひとつ、わしらの理想村をどう思っとるか率直にいってみてくれ」

 「わたしは、理想村を悪いとは思いません。異国に追われてきてさすらっている朝鮮同胞を集めて、むつまじく豊かに暮らそうとしてつくったのが理想村だと思いますが、それをどうして悪いといえましょうか。荒れ果てた遼河の沼地に、これだけの朝鮮村をつくったのはまったくすばらしいことです。ご老人方はこの村をつくるためにずいぶん苦労なさったことでしょう」

 辺老は、満足して口ひげをひねった。言葉づかいも「おまえ」から「君」に変わった。

 「うん、もっともだ。君もいまにわかるだろうが、わしらの村には警察も牢獄も官庁もない。村公会という自治機関を通して朝鮮人同士が万事、民主的にやっておる。こんな理想的な村がまたとあるかね」

 わたしは、「理想村」にたいするわれわれの観点と立場を明らかにする好機だと思った。

 「ご老人、自治機関を設けて民主的な方法で朝鮮人の生活上の便宜をはかる村をおつくりになったのは、ほんとうに愛国的だと思います。しかし、理想村をつくるというやり方で国の独立がとげられるでしようか」

 あぐらをかいてがん首をしきりにたたき、威厳をつくろっていた老人がふいに黙りこんで、眉をひくひくさせていたが、やがて大きく溜息をついた。

 「独立はできん。確かに君はわしの痛いところを突いた。理想村はつくったが独立運動の役には立たん。それでわしも悩んどる。理想村をつくって国の独立がなるなら願ったりかなったりじゃがな」

 わたしは、ときを逸せず「理想村」の建設が幻想にすぎないことを説いた。国を奪われた民族が異国に「理想村」を建設するのは不可能だ、老人方の努力で五家子がよその朝鮮人部落にくらべて暮らしよい村になったのは確かだが、だからといって朝鮮人の理想が実現したとはいえない、朝鮮民族の理想は、日本人も地主も資本家もいない独立した祖国で、搾取と抑圧をうけずに生きることだ、ところが地主の借金を背負っていては理想的に暮らしているといえようか、日本人が満州に攻めてくれば五家子も無事ではなかろう、日帝が満州を攻めとるのは時間の問題だ、日本人は朝鮮民族が理想的に暮らすのを望んでいない、と説いた。

 「だから理想村なんかやめてしまえというのかね」

 辺老はいらだたしそうに返事を促した。

 「この村を現状維持に満足してひっそりと暮らす村ではなく、祖国の解放のためにたたかう村に、革命をおこなう村に改造したいと思うのです」

 「それじゃ、五家子に社会主義を広めたいというのじゃな。それはいかん。わしは社会主義が大きらいじゃ。己未年(1919年)の夏、君のお父さんが寛甸で共産主義運動へと方向を転換すべきだと主張したとき、わしらはそれを支持した。ところがその後、高麗共産党に入ってみると、共産主義者というのは、どいつもこいつも分派活動に熱をあげている、気違いみたいな奴らじゃった。それからはもう共産主義と聞くだけで虫ずが走るのじゃ」

 辺大愚老が高麗共産党からもらった青表紙の党員証を出してみせたのは、このときだった。

 「成柱がいくら革命をやると力んでいても、こんな党員証は持っておらんじゃろう」

 こういって、老人はひそかにわたしの顔色をうかがった。

 党員証を広げて見たわたしは、それをいきなりふところにしまった。老人はあっけにとられて、わたしを見守った。

 「分派活動がこうじて解散した高麗共産党の党員証ですから、じっくり見たいのです」

 党員証を返せというかと思ったが、老人はなんともいわなかった。

 彼は、君たちは五家子を革命村につくり変えたいといっているが、そんな方略があったら聞かせてもらおうといった。

 わたしは、江東、新安屯、内島山、卡倫、孤楡樹などの村を革命化した経験を長時間話した。老人はそれに注意深く耳を傾けた。

 彼はわたしが話し終えると、「君たちの話を聞いてみるとスターリン主義者らしいが、わしは反対せん。だがスターリンばかりもちあげちゃいかん。トロツキーの主張にも一理がある」といってトロツキーの理論を説きはじめた。だからといって、彼がマルクス・レーニン主義に反対しているようではなかった。

 彼がトロツキーにかなりひかれていることはよくわかった。わたしは、それまで共産主義理論に通暁しているという人に少なからず会ったが、彼のようにトロツキーを擁護する人に会うのははじめてだった。

 わたしはそれが不審で、辺老にたずねた。

 「どうしてトロツキーをそれほどあがめるのですか」

 「いや、わしはトロツキーをあがめとらん。近ごろの若い者がむやみに大国の人間をあがめるのが気に入らんので、そういったまでじゃ。トロツキーやスターリンがなんじゃ。いまの若い者はなにかというとすぐ、大国の人間の命題を引き合いに出し、ああだこうだといっとるが、なにも感心することはない。スターリンの命題がどうの、トロツキーの主張がどうのというのはロシア人がいうべきことで、朝鮮人は朝鮮の魂をもって自分の国の革命をりっぱにすることを話すべきじゃないか」

 老人の言葉には一理があった。数日間「辺トロツキー」老と語り合っているうちに、わたしは彼が平凡な年寄りではないことを知った。

 わたしは最初、彼がトロツキー派ではないかと思ったが、実際はトロツキー派などではなく、派閥争いを嫌悪して青年に警鐘を打ち鳴らしているのだと判断した。おまえたちは無分別に他人に追従してはいけない、どうしてロシアがどうの、スターリンがどうのと他国のことばかり口にするのだ、なんでもロシアの真似をせねばならんという理由はない。老人がわれわれにいいたかったのはこれだった。要するに、自分の信念をもって生きろということである。

 「わしは、若い人のやることには于渉せん。わしの息子のやることにも、とやかくいうつもりはない。達煥がなにをしようと、それは勝手じゃ。だが、若い者が自分の魂をもたず、他人の命題をやみくもに暗唱して知ったかぶりをするのは、ほっとかんつもりじゃ」

 わたしは老人の話を聞いて、分派主義や事大主義、教条主義に一貫して反対してきたわれわれの立場が正しく、自分の力を信じ、自国人民の力で革命闘争をおこなうべきだというわれわれの見解が正しかったことをいま一度確信した。

 つぎの日は、辺大愚よりも主にわたしが話をした。わたしは、卡倫会議で採択したわれわれの路線についてくわしく説明した。新しい型の党と軍隊を組織し、思想、信教、財産の程度、老若男女の違いを越え、各階層の人びとが参加する反日民族統一戦線を形成し、2千万の抗戦によって国を取りもどすべきだというわたしの主張に、老人は強い衝撃をうけたようである。彼はとくに、反日民族統一戦線を結成しようというわれわれの意向に諸手をあげて賛成した。

 辺老は、妻に先立たれ、息子の達煥はまだ妻帯していなかった。家事は娘が取り仕切っていたが、家のすみずみにただよううらさびしい空気はぬぐいようがなかった。

 わたしは、同志たちにはかって花嫁を物色し、五家子近くの農村に住む沈という娘と辺達煥の縁談をまとめた。そして、同志たちの世話で婚礼もした。未婚者が年長者の媒酌をするのはさしでがましく、気おくれもしたが、婚儀をとどこおりなくすませると、村人たちも自分のことのように喜び、口をきわめてわれわれをほめた。

 そんなことがあってから、村の有志たちはわれわれをいっそう信頼するようになった。

 ある日、辺達煥はわたしのところへやってきて、父親の様子を知らせてくれた。父は、村の有志たちに「わしらに代わって理想村の世話をする主人があらわれた。成柱がその主人だ。彼らのやり方が社会主義だとすれば、わしらも安心して受け入れられる。成柱を若いとばかり思ってはいけない。わしらは年をとり、時代に立ち後れた骨董品だから、若い者たちに五家子をそっくりまかせて、せいぜい成柱のやることを助けることだ」といったという。ほかの有志もわれわれの主張が正しいと認めて感嘆したらしい。

 彼の話を聞いて、わたしは辺老を訪ねた。

 「高麗共産党の党員証をお返しに参りました」というと、彼は党員証には目もくれず、そんなつまらぬものはいらないといった。

 いらないといわれたので返すわけにはいかず、だからといって捨てるわけにもいかないので困ってしまった。その後何日か、党員証は同志たちの手から手に渡った。

 祖国が解放された翌年の1946年に平壌に来た辺大愚老にそのことを話すと、彼は苦笑して感慨にひたった。彼は、北朝鮮全体が一つの理想村、理想天国となったのを見た、いまはもう死んでも思い残すことがないといって、五家子でわれわれが会ったときのことを回顧した。それは彼が67歳のときだった。わたしと会ったその年、彼は吉林省伊通県で死去したが、わたしはその悲報をずっとあとになって聞いた。

 辺老の息子辺達煥は、五家子で農民同盟の責任者として活躍した。彼は、われわれの指導のもとに反日闘争をした「罪」で1931年から数年間、新義州(シンウィジュ)刑務所で服役した。

 五家子の革命化の突破口はこうして開かれた。それ以来、有志たちは、村に来ている朝鮮革命軍の工作員をそれまでとは違った目で見るようになり、競って料理をつくって招待したものである。

 わたしは五家子を革命化するとき、中国人と手を握るためにも多くの努力を傾けた。中国人の有志を味方にできなければ、われわれは中部満州地方に安心して足がかりをつくることができなかった。それで、われわれはそれがたとえ地主であっても、可能性があればためらいなく包容し利用した。

 当時、五家子の近くに趙家鳳という地主がいた。彼は土地問題で他の地主と争ったあげく、訴訟を起こす決心をした。

 ところが、趙家鳳は訴状が書けないのでやきもきしていた。地主の息子が都市の中学校を卒業したが、訴状は書けなかった。中学校でしっかり勉強しなかったようである。

 趙家鳳は、五家子で漢方医をしている金海山に、訴状を書ける人を紹介してほしいと頼んだ。

 ある日、金海山がわたしを訪ねてきて、訴状が書けるかと聞いた。

 わたしが地下革命活動をしていたころ、中国では一般住民と学生の便宜をはかって、手紙や祭文、訴状などの書き方を解説した参考書が出版されていた。

 金海山にともなわれて趙家鳳の家へ行くと、地主は中華料理をふるまい、土地の件で訴訟を起こすことにしたいきさつをながながと話した。

 わたしは、中国語の訴状を書いてやり、県都にも出かけて、彼が裁判で勝てるよう知恵を貸してやった。彼はその訴状のおかげで裁判で勝つことができた。もし敗訴していたら、数十ヘクタールの土地を失ったに違いない。

 それ以来、趙家鳳は、金先生が共産党だというのは真っ赤なうそだ、金先生は共産党ではなくてよい人だ、金先生の援助がなかったら敗訴しただろうといい、わたしを積極的に擁護した。彼は、祝祭日には欠かさずわたしを招待してご馳走してくれた。

 わたしは彼の家庭を訪れるたびに、その家を訪ねる多くの中国人有志と近づき、彼らに反帝宣伝をした。

 それ以来、わたしは五家子で革命活動を公然とできるようになり、朝鮮人学校の運営も合法化され、この一帯でわれわれの革命闘争の基礎がかためられていった。

 われわれは村の有志をかちとったあと、大衆団体を革命的につくり変える活動に取り組んだ。

 まず、青年会を反帝青年同盟に改編した。青年会ももとは民族主義の影響下にあった。朝鮮革命軍グループが五家子に入りこんでから青年会の中核分子は多少目を開いたが、まだすべての面で民族主義の名残を一掃してはいなかった。まず、闘争目的と課題が明確にされていなかった。会員は少なく、活動方法も正しく立てられてはいない。看板ばかりでなんの動きも見られない有名無実の組織で、青年大衆を結束する活動はほとんどなされていなかったのである。

 五家子地区は4キロ、8キロ、遠いところは24キロも離れた村から成り立っていたが、青年会はどの村にも支部を置いていなかった。こうした実情では、青年組織が大衆のなかに根をおろせず、青年大衆を動かすことができなかった。

 青年会をただちに反帝青年同盟に改編すべきだと主張する者もいたが、多くの青年がまだ民族主義者の影響下にあり、青年会に期待をかけている実情では、彼らの政治的・思想的準備程度を考慮しないで既成組織を新しい組織に改編するのは無理だった。

 朝鮮革命軍隊員は、青年会の幹部と一緒に各村落に出向き、反帝青年同盟を結成する教宣活動をおこなった。こうして、おのずとわれわれの革命路線が青年大衆のなかに入りこんだ。わたしも、毎日青年たちと語り合った。

 そのような準備段階をへて、われわれは三星学校の教室で五家子反帝青年同盟を結成した。同盟は各村落に支部を置いた。同盟委員長には崔一泉、組織部長には文朝陽(ムンヂョヤン)が選挙された。

 その後、農友会が農民同盟に変わり、少年学友会は少年探検隊に、南満女子教育連合会五家子支部は婦女会にそれぞれ改編されて、五家子大衆団体の活動には新たな転換がもたらされるようになった。

 改編後、各組織は会員を多数加入させた。五家子のほとんどすべての住民がそれぞれの組織に参加して政治生活をおこなうようになった。

 われわれは、地方自治行政機関である村公会も革命的な自治委員会に改編した。五家子の先覚者が村公会を設立したのは1920年代の前半期である。村公会は、主に経済・教育事業を進め、中国官憲と交渉をもち、傘下に公主嶺米穀販売所のような機関を置いて、農民の生活上の便宜をはかっていた。

 ところが五家子の人たちは、村公会の職員が大衆奉仕の精神に乏しく、清廉潔白でないとおおっぴらに非難していた。

 わたしは農民との対話を通して、村公会の職員が公主嶺米穀販売所から入ってくる一部の食品と生活必需品を農民に均等に割り当てず、私利私欲をはかって裏口から処理していることを知った。事実いかんを確認するために、公主嶺に人を送ったところ、彼も帰ってきて村公会が腐敗していると報告し、村公会の職員が農民から集めた金を乱用し、私腹を肥やしているのは事実だと伝えた。

 村長が村公会の仕事を勝手に処理していたので、独断に走り、大衆の意思が無視されていた。大衆が関与できないので、村公会の内部に欠陥があっても外部の人にはわからない仕組みになっていた。人間も生活も仕事ぶりもすべて革命的に改造されている状況のもとで、従来の組織機構と古い活動方法をもってしては、村公会が大衆の要求どおりに活動することは望めなかった。

 われわれは、村公会の幹部と各村落の責任者、農民同盟委員長の参加のもとに協議会を開き、村公会の事業を総括した。この協議会で村公会が自治委員会に改編された。

 自治委員会は、われわれが意図したとおり、主観と独断を排し、民主主義を最大限に発揚させながら、着実に活動した。

 われわれは、自治委員会傘下の公主嶺米穀販売所の活動にも大きな関心を向けた。五家子の農民は馬車や牛車を引いて40キロ先の公主嶺へ行き、そこで米を売らなければならなかった。米価が下がったときは適当な場所に米を保管しておき、上がるのを待って売るのが利益だった。ところが、公主嶺には五家子の農民が米を預けるところがなかった。保管するところがなかったので、価格には関係なく米を売り払った。こうした弊害をなくすために、五家子の農民は1927年の秋、公主嶺に米穀販売所を設けたのである。

 われわれは五家子の大衆組織の活動家のうちで、もっとも評判のよい人を米穀販売所に派遣した。朝鮮革命軍隊員のなかでは、桂永春、朴根源、金園宇などが販売所の仕事を手伝うために公主嶺に派遣された。われわれが米穀販売所を掌握したあと、この販売所は、農民の生活上の便宜をはかる合法的商業機関としての機能を遂行すると同時に、革命組織との連係を保障し、朝鮮革命軍に活動資料を渡す秘密の使命も果たした。

 われわれが村公会を自治委員会に改編し、その傘下に公主嶺米穀販売所のような革命運動を助ける合法的な商業機関を設けたのは、1930年代初の革命闘争でつんだ一つの経験であったといえる。

 われわれは五家子にいたとき、満州各地に工作員を派遣して組織を拡大し、活動範囲を広げた。開魯地方にも工作員が数人派遣された。「トゥ・ドゥ」出身で華成義塾卒業生の朴根源もその一帯でしばらく活動した。

 開魯地方には、モンゴル族が大勢住んでいた。

 文明世界から隔絶されていた開魯の人たちは、病気にかかっても治療がうけられず、神に祈るだけだった。それで、同志たちは、そこへ行くときは必ず医薬品を持っていって患者に与えた。それが大いに効を奏した。それ以来、開魯地方では朝鮮人が行くといつも歓待してくれた。

 われわれは組織責任者の政治実務水準を高めるために、各組織責任者とアクチブを参加させて講習会を開いた。

 わたしは、車光秀、桂永春らとともに毎晩2、3時間ずつ交替で、卡倫会議で示した主体的な革命路線と戦略戦術的方針、大衆のなかでの政治活動方法、組織を拡大し質的に強化する方法、組織員にたいする教育活動方法と組織生活の指導方法などについて講義した。

 講習会が終わったあとも組織責任者と一緒にすごしながら、組織の結成、中核の育成、任務の分担と総括、会議の進行法、対話などのさまざまな活動方法を教えた。こうして五家子の指揮幹部たちは、自信をもって大衆のなかに入っていった。

 われわれは、五家子住民の啓蒙と教育にも大きな力を注いだ。まず、教育事業に第一義的な力を傾けた。

 われわれは、朝鮮革命軍隊員と地下組織メンバーのなかから有能な青年を選んで三星学校の教員に任命し、彼らが中心になって学校の教育内容を革命的に改編するようはからった。民族主義思想や封建的儒教思想を説く古い課目は廃止され、政治課目が新たに選定されたのも、われわれが、学校の運営にあたったときからである。三星学校で授業料が廃止されたのもそのころだった。学校の維持費は、自治委員会が支給した。こうして五家子の学齢児竜は、みなその年の冬から無料教育をうけるようになった。

 後日、われわれは祖国光復会10大綱領に義務的な免費教育の条項を一つ入れたが、実際上、朝鮮の共産主義者が無料教育を真っ先に試み実践に移したのは、孤楡樹、卡倫、五家子においてだった。五家子の三星学校は、卡倫の進明学校や孤楡樹の三光学校とならんで、わが国の教育史上、最初の免費教育が実施された意義深い教育機関である。

 われわれは、学校教育をうけることのできない青壮年や婦女子のために夜学にも力を入れた。

 わたしは中心部の村落ばかりでなく、周辺の村落にも夜学を設け、そこで、すべての青年が学べるようにした。

 われわれは卡倫で『ボルシェビキ』を発刊した経験を生かし、五家子でも『農友』という雑誌を発行した。『農友』は、農民同盟機関誌の役割を果たした。『ボルシェビキ』はやや難解だったが、『農友』の記事は、農民が容易に理解できるよう簡潔で平易な文体で書いた。『農友』も『ボルシェビキ』と同じように間島にまで配布された。

 われわれはまた、学生を通じて村人たちに多くの革命的な歌を普及した。『赤旗の歌』や『革命歌』のような歌も、学校で教えると、その日のうちに村じゅうに広まった。

 五家子には、われわれが組織した演芸隊があった。演芸隊は、桂永春の指導で三星学校を本拠に活発に活動した。

 わたしも吉林時代に書きはじめ、何度かリハーサルをしてみた『花を売る乙女』の脚本を完成させる作業に取り組んだ。そして、脚本が完成すると、桂永春が三星学校の演劇サークル員を指導して、稽古をはじめた。

 われわれは、10月革命13周年記念日に三星学校の講堂でこの歌劇を上演した。

 この作品は解放後、長年埋もれていたが、1970年代の初期になって、党中央組織担当書記の指導のもとに、作家、芸術家によって映画、歌劇、小説にそれぞれ完成されて公開された。当時、組織担当書記がたいへん苦労をした。

 われわれは、五家子住民の絶大な支援のもとに、短期間に遼河の農村を朝鮮革命軍の頼もしい活動基地に築き上げた。われわれは吉林周辺や長春近郷でも農民のなかに入って活動したが、五家子でのように農村を徹底的に革命化したのははじめてである。

 われわれが五家子でおこなったすべての活動にたいしては、コミンテルンの連絡員金光烈も驚異の目を見張った。

 われわれが独創的な革命路線をうちだし、自主的な方法で革命を切り開いていったので、コミンテルンも関心をもってそれを注視した。コミンテルン東方部では、われわれの活動にたいする論議が多かったようである。朝鮮に従来の共産主義者とは、まったく異なった新しい世代の革命家たちがあらわれた。どの派閥にも属さず、うわさも立てずに独自に活動する勢力で、大衆的基盤も強固であるという。いったい彼らはどのような人たちなのか? おそらくこういう好奇心をもって連絡員を送ったらしい。

 金光烈はハルビン連絡所に立ち寄ったあと五家子にやってきて、われわれの同志や革命組織の責任者、有志たちにも会った。彼は多くの人たちに会ったうえでわたしにも会ったが、われわれの活動にたいしていろいろと励ましてくれた。彼は、朝鮮の青年共産主義者が共産主義運動と植民地民族解放闘争で独創的な道を切り開いており、そのなかで多くの経験をつんだといい、われわれが提示した革命路線と方針を全幅的に支持した。

 彼はとくに、われわれの反日民族統一戦線路線にたいへん驚いたようだった。連絡員は、いま国際共産主義運動では、革命の支持者、共鳴者を規定する問題をめぐって深刻な論議がつづいているが、あなたたちは頑固な民族主義勢力や宗教者、ひいては資産家層とも提携しているが、これをどう理解すべきかとたずねた。

 わたしは、少数の共産主義者や労働者、貧農、雇農の力だけでは革命はできない、日帝を打倒するには中間勢力も残らず動員しなければならない、他国はどうか知らないが朝鮮では大多数の民族資本家や宗教者が外部勢力に反対している、革命を喜ばない勢力はひと握りの地主、買弁資本家、親日派、民族反逆者にすぎない、それ以外の人はみな結集して民族あげての抗戦を組織しようというのだ、朝鮮人の力で朝鮮の独立を達成する秘訣は、すべての反日勢力をかちとることにある、と述べた。

 連絡員はわたしの説明を聞いて、「あなたは古典にこだわらず、すべてを独創的に処理しているが、わたしはそれがなによりも気に入った」といった。そして、わたしにモスクワ留学を勧めた。

 「あなたは前途洋々たる人だから、実践も大事だが、勉強をすべきだ」

 金光烈は、洋服とワイシャツ、ネクタイ、靴をつめたトランクを開けて見せ、コミンテルンではあなたに大きな期待をかけて再三勧めているのだから、それに応ずるのがよいといった。彼はコミンテルン本部で、わたしを説得してモスクワに送るよう指示されたらしかった。

 わたしは「あなたたちがわたしに関心をよせてくれて感謝にたえないが、わたしは東満州で人民のなかに入るつもりです。わたしがソ連に行ってロシアのパンを食べれば、ロシアびいきになるかも知れないが、わたしはそれを望みません。それでなくても朝鮮にはM・L派とか火曜派、ソウル派といった派閥が多くて心痛にたえないのに、わたしがそのような人たちの前轍を踏むわけにいかないではありませんか。マルクス・レーニン主義は、読書によって勉強したいと思います」と答えた。

 車光秀や朴素心をはじめ同志たちもトロズで、留学に必要な身の回りをいっさい整えてくれて、わたしにモスクワヘ行くよう勧めたことがあった。

 わたしはその年の12月下旬、五家子で朝鮮革命軍指揮メンバーと革命組織責任者の会議を招集した。会議を招集したのは、卡倫会議の方針の実行過程で得た経験と教訓を総括し、情勢の要求に合わせて革命運動をさらに拡大発展させるためであった。

 日本は軍国主義の鉄拳を振りかざし、国力を総動員して新たな植民地を確保し、領土を広げるために侵略戦争の準備に拍車をかけていた。そして、その妨げになると認めたものは容赦なく掃滅した。

 われわれは日本が満州を侵攻する前に東満州に拠点をつくり、侵略に対抗する準備を進める計画だった。東満州に行くには、中部満州地方における活動を総括し、武装闘争の準備に必要な対策を立てなければならなかった。五家子会議は、そういう目的で招集されたのである。

 この会議には、朝鮮革命軍の中核分子と革命組織の責任者が全員参加した。間島と穏城、鐘城地区から蔡洙恒をはじめ多くの革命組織責任者が零下30度の酷寒にもめげず五家子に集まった。面識のなかった多数の青年革命家がこの会議を契機に顔を合わせ、友誼をあたためながら朝鮮革命の将来について真剣に討議した。

 論議の焦点は、東満州における活動を決定的に強化する問題であった。闘争の基本的舞台を東満州に移すのは、われわれの確固とした志向であった。それは、革命情勢に照らしても引き延ばすことのできない問題だった。わたしが五家子にいながらも東満州を忘れず、そこへ行く日を待ち焦がれたのもそのためである。

 わたしは会議で、抗日武装闘争の準備をおし進め、国際革命勢力との連帯を強化する課題も提起した。

 会議の全過程は、青年学生運動と農村地下運動から武装闘争の段階に移行して、敵に決定的攻勢をかけようというわれわれの決意をはっきり示していた。卡倫会議では、武装して日帝を打倒し、祖国を解放しようとする朝鮮民族の意志が集大成されたが、五家子会議ではその意志を再確認し、抗日戦争への近道が明らかにされた。

 五家子会議は、われわれ青年共産主義者が卡倫会議から1931年の春の明月溝会議と松江会議、冬の明月溝会議をへて日帝との決戦場におもむく橋渡しの役割を果たした。

 われわれの青年学生運動は1930年代にいたって、ついに武装闘争段階へと発展した。五家子はここで跳躍台の役割を果たしたといえる。

 わたしが五家子を発つとき、文朝陽は4キロ先まで涙ながらにわたしを見送ってくれた。



 


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