金日成主席『回顧録 世紀とともに』

8 豆満江を渡って


 父は折にふれて、間島の人たちは闘争力が強いという話をしたものである。わたしも5.30暴動と8.1暴動を経験してからは、間島地方の朝鮮人がぬきんでた革命性をもっていることをはっきり知ることができた。

 間島や北部朝鮮一帯は、早くから義兵や独立軍の活動舞台となっていた。ロシアにおける10月社会主義革命の影響のもとに、マルクス・レーニン主義思潮も早くからこの地域に広がった。間島一帯における共産主義運動は、指導者が犯したプチブル的焦りのために多くの紆余曲折をへたが、人民大衆の革命的進出はつづいていた。

 それだけに、わたしは獄中にいたときから、武装闘争をはじめれば、白頭山を中心にして朝鮮の北部国境地帯と間島一帯を重要な戦略的拠点にする考えだった。

 日本帝国主義者も久しい前からこの一帯に目をつけていた。われわれは白頭山を中心にした朝鮮の北部国境地帯とともに、間島を抗日武装闘争の主な拠点にしようとしたが、彼らはその一帯を満蒙侵略の戦略的要衝にしようとしたのである。日本帝国主義者が20世紀の初頭から東満州でさまざまな事件を起こしたのは、その野望を実現する布石であった。

 1907年8月、日帝は「朝鮮人保護」の名のもとに延吉県竜井に軍隊を送り、そこに「朝鮮統監府派出所」を設けた。そして、1909年には中国反動政府を抱きこんで間島協約を締結し、つづいて吉会線鉄道工事権も手に入れた。その後、竜井の「朝鮮統監府派出所」は、日本総領事館に昇格した。日帝が竜井に総領事館を置き、その管下に5つの領事分館を開設したのは、間島在住朝鮮人のためにとった措置ではなかった。彼らは、それらの領事機構のほかにも各地に警察署を配置し、朝鮮人居留民会などの御用団体を数多く組織して、間島在住朝鮮人の一挙一動にするどく目を光らせた。東洋拓殖会社出張所や金融界も当地に手をのばしていた。東満州は、政治的にも経済的にも完全に日本帝国主義の統制下に置かれた。

 このように東満州地方は、革命と反革命のするどい対決場と化しつつあった。

 それだけに、白頭山の大山林地帯とともに、東満州に武装闘争の拠点を設けるべきだという考えが、しばしばわたしの頭に去来した。8.1暴動後、日帝の満州侵略が目前に迫っていると感じていたわたしは、革命性の強い東満州の人民を結集して、一日も早く武装闘争を展開しようという決心をかためた。それで東満州に向かったのだった。

 わたしが東満州に行くというと、同志たちが引き止めた。日帝の弾圧機構と情報網が網の目のように配置されたところへ行くのは、たきぎを背負って火中に入るような冒険だというのである。しかし、わたしは、労働者、農民のなかに入って革命運動をおこなう決心をかため、思いきって東満州へ向かった。

 それまでのわたしの活動は、主に都市の青年と学生に重点がおかれていたといえる。卡倫会議で採択された革命路線の要求に応じて、闘争を新たな高い段階に引き上げるには、われわれ自身が、労働者、農民をはじめ各階層大衆のなかに深く入り、彼らを日帝との抗戦にすみやかに対応させなければならなかった。

 コミンテルンもわたしが東満州に行くことに賛成した。

 わたしはまず、敦化に向かった。その一帯が8.1暴動の最大の被害地だったからである。敦化は、この暴動の根源地であり、中心舞台だった。

 そこには、日本軍の一つの守備隊本部と吉林総領事館管下の領事分館があり、旧東北軍の第677連隊本部があった。敵の弾圧網がこのように稠密に配置されたところで8.1暴動のような無謀な暴動が起きたのは、この一帯で極左冒険主義者が大勢活動していたからだった。敦化は、磐石とともにM・L派の本拠地で、朝鮮共産党再建運動の一つの中心地でもあった。朴允世(パクユンセ)、馬建(マゴン)のような8.1暴動の主謀者もここに活動基地を置いていた。

 敦化には、党および共青、反帝青年同盟をはじめ、われわれが組織した各種の革命組織があり、陳翰章、高在鳳、高一鳳のような信頼できる同志たちがいた。

 わたしは、敦化で陳翰章の家に泊まり、中国の山東服を着て暴動の後遺症を取り除く活動をおこなった。わたしが吉林で共青グループを各地に組織したとき中学に通っていた陳翰章も、敦化でわれわれの組織に参加して活動した。彼は、日帝の満州占領後は、呉義成部隊の総司令部で秘書長として活躍し、東北抗日連軍で師団参謀長、師団長、方面軍軍長、南満州党委員会書記を歴任したが、そのころは素朴でおとなしい共青員だった。

 陳翰章は、張蔚華と同様、資産家の息子だったが、革命にたいする情熱をいだいて共青生活を忠実におこなった。彼の父親は大した富農で、数百頭の馬や多くの銃を持っていた。彼の邸宅はまわりに高い塀をめぐらし、あたりに威風を払っていた。彼は冗談まじりに、自分の家はもともと打倒対象で、家の周辺がみな自分の所有地だから、他人の土地を踏まないで暮らしている、と語ったものだった。所有地がどれほどか、くわしいことはわからないが、富豪だったことだけは確かである。

 陳翰章は、共産主義を教えてくれた先輩だといってわたしを歓待した。暮らしが豊かだったので、彼の家ではわたしが居候をしても気にしなかった。

 わたしは、陳翰章と高在鳳を先頭に立たせ、散らばった組織を探し出す活動に取り組んだ。昼は中国服を着て、中国語を話しながら同志たちを探し歩き、夜は朝鮮服を着て、朝鮮語を話しながら組織を立て直した。このようにして暴動の後遺症をあらかた取り除いたあと、コミンテルンの委任にもとづいて、敦化で吉東地区共青委員会を組織した。

 その後わたしは、高在鳳など数人の共青員に、豆満江沿岸の都市と農村に出向いて大衆を革命化し、党組織を結成する任務を与え、彼らを活動区域に送り出した。

 そして、陳翰章に敦化中学校に入って共青活動をするよう任務を与えて、わたしも敦化を発った。

 わたしが、東満州で最初に立ち寄ったのは和竜だった。

 そこには、吉林師範学校在学中、われわれの共青組織に参加して活動した曹亜範という中国人の同志がいた。蔡洙恒のような朝鮮の同志もいた。わたしは、そうしたルートをたどっていけば暴動の後遺症をいやし、組織も拡大できると思った。

 わたしは、まず大拉子へ行って曹亜範に会った。

 曹亜範は、8.1暴動による被害がはなはだしいといい、暴動後、朝鮮の同志たちがどこへ隠れたのか一人も見かけることができないといった。そして、投獄された同志たちが間もなく釈放されそうだから、彼らに会ってみるようにと勧めた。

 数日後、蔡洙恒が連絡をうけてわたしを訪ねてきた。彼は、竜井で東興中学校に通った人である。彼は、わたしが文中学校に通っていたころは吉林の師範学校で勉強し、そのときからわれわれの影響をうけて革命運動に乗り出した。彼は、サッカー選手で吉林の青年学生のあいだで人気があった。そのころ、和竜出身の青年が数人、吉林で勉強していた。金俊は竜井と穏城一帯でわれわれのことを宣伝し、蔡洙恒は和竜と鐘城地方を往来しながらわれわれの革命思想を宣伝した。彼は後日、県党書記として活動し、はからずも「民生団」関係者の汚名を着せられて殺された金日煥(キムイルファン)同志とともに共青を組織し、さらに反帝青年同盟、農民協会、反日婦女会などの革命組織を結成し、そこへ多くの大衆を結束した。延吉爆弾製造のベテランとして知られた朴永純(パクヨンスン)同志も、延吉県の八道溝鉱山で反帝青年同盟員として活動した。

 ところが、せっかく結成した組織が2度の暴動ですっかり破壊されてしまった。多数の中核分子が逮捕されたり、地下にもぐったりし、残り少ない組織のメンバーも鍛練が足りないので不安におののき、なすすべを知らずにいた。

 こうした事態を見て、わたしは革命家の信念について多くのことを考えた。卡倫を発ってから吉林、海竜、清原、蛟河、ハルビン、敦化をへて和竜に来るあいだに、わたしは反革命の攻勢に恐れをなし、革命勝利の信念を失って動揺する人をしばしば見かけた。革命勝利の確信は、万人の共感をかちとり、彼らを奮起させうる正しい革命路線と戦略戦術があり、みずからの革命勢力が存在することを原理的に体得するときに生じ、闘争を通じて強固になるものである。

 ところが暴動を扇動した人たちは、大衆の旗印となるべき綱領や戦略戦術を示すことができなかった。われわれが卡倫で採択した革命路線は、まだ人民のあいだに広く知られていなかった。わたしは蔡洙恒をはじめ数人の共青および反帝青年同盟の幹部と協議会を開き、彼らに卡倫会議で採択された革命路線をくわしく説明した。

 そして、闘争を通して点検された信望のある同志で指導中核をかため、破壊された大衆組織をすみやかに立て直し、その隊伍をたえず拡大するよう強調した。豆満江沿岸の各県に革命組織区をつくる課題もこのときに与えた。

 監獄や絞首台を恐れた暴動組織者たちは、大衆を敵の銃剣の前に置きざりにして逃亡したが、われわれは暴動の後遺症をすみやかに取り除かなければならない、とわたしは強調した。わたしが山東服を着ていたので、和竜の同志たちはわたしを「山東の青年」と呼んだ。

 わたしが、つぎに訪ねたのは汪清であった。わたしが汪清におもむいたのは、呉仲和に会うためだった。

 わたしに呉仲和のことを話してくれたのは、金俊と蔡洙恒同志だった。彼らは吉林に出入りしたころから、わたしに、どこそこに誰それがおり、どこそこに行けばこれこれのことをしている誰それがいる、誰それはどういう人で、誰それはかくかくしかじかでしっかりしていると、多くの人物を紹介してくれた。それで、わたしは吉林にいながらにして間島一帯の実情にかなり通ずることができた。

 わたしは彼らの話を注意深く聞き、堅実だという人にたいしてはしっかり覚えておいた。

 りっぱな人がいると聞けばどこへでも訪ねていって同志を獲得した父の姿は、わたしに人材がすべてを決定するということ、真の同志をどれだけ多く得るかによって革命事業の成否が決まるという真理を悟らせてくれた。

 1人の同志を得るためには、3日でも10日でも、なにも食べられなくてもいいというのがわたしの心情だった。こうした心情で、わたしは汪清にも行った。蔡洙恒が、和竜から汪清の石峴までわたしと同行した。

 わたしは石峴で呉仲和と呉仲洽(オジュンフプ)に会い、呉泰煕(オテヒ)老にも会った。

 呉泰煕老の一家は、珍しいほどの大家族だった。呉泰煕ら4人兄弟は、もと咸鏡北道穏城郡古作谷(コジャクコル)に住んでいたが、1914年ごろ汪清に移った。その4人兄弟の子孫が数十人に増えた。彼らは豆満江をはさんで汪清と穏城に分かれて住み、革命運動に従事した。当時、呉仲和は汪清5区の党書記として活動し、呉仲洽は汪清県春華郷元家店で共青活動を進めていた。呉仲和の弟呉仲成(オジュンソン)は、汪清県石峴で共青活動に従事し、1929年の初めに穏城郡豊利洞(プンリドン)に引っ越して普文学堂の教師をしながら革命運動をしていた。

 呉仲和は中学校を卒業し、和竜の私立化成学校で教師を勤めていた。

 わたしは石峴で呉仲和同志に、大衆を革命化するためにはまず自分から革命家になり、それから家族と村人を革命化しなければならないといった。

 呉仲和はその後、家庭をりっぱに革命化した。彼の兄弟と近い親戚のうち10余人が忠実な革命家になって活動し、革命に生命をささげた。彼らのなかから、呉仲和、呉仲成、呉仲洽のようなりっぱな共産主義者が輩出したのは、いわれのないことではない。

 石峴で仕事を終えたわたしは、ただちに穏城地区へ行くことを決心した。西道地方で生まれ、幼いころから異国で生活したわたしは、豆満江以南の六邑一帯についてはよく知らなかった。

 六邑一帯は、李朝時代に官職を奪われた両班たちが流された土地である。穀物が不足がちで気候がきびしいうえに上役の専横がはなはだしいので、辺境の守備に送られてきた軍人も、すぐほかへ去ってしまった。官吏もこの一帯に赴任するのをきらった。彼らは任命状をもらっても、あれこれと口実をもうけてソウルでぶらぶらした。そんなわけで、封建支配者は500年のあいだ手を焼いたという。

 わたしは金俊が六邑の話をするたびに、先祖はその一帯を不毛の地だといってかえりみなかったが、われわれは血と汗をささげ、革命のとりでにつくり変えようといった。わたしはそうした遠大な計画のもとに、そこへ同志たちを送りはじめた。

 穏城は、われわれの影響のもとに、1920年代の末から、金俊、蔡洙恒、呉仲成などが本格的に開拓しはじめたところだった。われわれはすでにそのころ、朝鮮革命を発展させるうえで白頭山地区と穏城など豆満江沿岸の六邑一帯がしめる位置の重要性を見抜き、その一帯を抗日革命戦争の戦略的拠点に仕上げる計画を立てていた。国内の革命をもりたてる突破口もここで開くつもりだった。当時、穏城地区からは100人ないし150人の青年が竜井に行って学校へ通っていた。彼らは学期末休暇に帰省しては、われわれとつながりの深い金俊、呉仲成などの先覚者の指導のもとにこの一帯に「吉林の風」を吹きこんだ。穏城には、朝鮮共産主義青年同盟と反帝青年同盟の支部があった。それは、われわれが国内に勢力をのばす格好の踏み台だった。それを通してわれわれの思想がかなり浸透していた。

 わたしが穏城地区に行ったのは、国内に党組織を結成し、卡倫会議の方針を実現する対策を立て、全般的な朝鮮革命を拡大発展させるためである。

 石峴からわれわれと同行した呉仲和の従弟が一足先に、われわれが行くことを知らせるために呉仲成のいる豊利洞に行った。

 われわれは穏城郡南陽(ナムヤン)対岸の灰幕洞(フェマクドン)の谷間のはずれで、連絡をうけてやってきた呉仲成同志とその他の組織メンバーと会った。呉仲成とは初対面だった。兄の呉仲和にくらべて大柄で、豪放な性格だった。呉仲和は、弟が踊りや歌や詩の朗誦が上手だといった。

 われわれは、夜分に船に乗って静かに豆満江を渡った。呉仲成は、威勢よく櫓をこいだ。暗がりに沈んでいる山野を眺めると、5年ぶりに祖国の地を踏む感激で胸が熱くなった。

 わたしは南陽上灘(サンタン)で船を降り、呉仲和に、国の独立をなし遂げてこの川を渡ればどんなにすばらしいだろうかといった。呉仲和はうなずいて、自分も豆満江を渡るときはいつもそうした感情にとらわれるといった。

 南陽上灘村をすぎ、南陽山に通ずる峠道にさしかかったわれわれは、呉仲成が準備した草屋に入って、穏城地区革命組織の活動状況と大衆の動向について説明を聞いた。

 穏城の人たちは、大衆組織を結成するうえでかなりの成果をおさめていた。

 わたしは1週間、国内地下革命組織の活動を指導した。その過程で、穏城地区の革命家は国内各地に多くの組織を結成したが、その組織を拡大発展させるうえではきわめて消極的であることを知った。

 この一帯では、把握ずみの何人かの精粋分子で組織を結成したあと、門戸を閉ざして隊伍を拡大しないのが普遍的な現象となっていた。そのために、組織は広範な大衆のあいだに深く根をおろしていなかった。

 1929年の春、朝鮮共産主義青年同盟の傘下組織として結成された穏城共青も、数人のメンバーだけで垣根を高く張りめぐらし、大衆のなかに入ろうとしなかった。地方会、振興会、新幹会、党再建派など、さまざまな団体と派閥が青年たちを引き入れようと競い合っているので、悪い影響が組織におよぶのを防ごうと現状維持にあくせくしていたのである。

 わたしが豊利で会ったある共青活動家は、敵の策動が激化するので、人びとが自分たちと腹を割って話そうとしないといい、またある共青活動家は、青年同盟や新幹会に関係した青年をどう扱ってよいかわからないと訴えた。豊仁洞(プンインドン)農民協会の責任者だった全長元は、区長や面長、巡査を勤めている親戚が多いので、彼らを通して敵の魔手が革命隊伍のなかにのびるのではないかとひそかに神経をとがらせ、近い親戚であっても敵の統治機関で働いている人には心を許さなかった。

 これはいずれも、大衆を信じていないことのあらわれであった。

 こうした弊害をなくさずには、穏城地区で新たな情勢の要請に合わせて革命を発展させることができなかった。

 革命家の一生は、大衆のなかに入ることからはじまり、革命の失敗は人民大衆の力を信じず、人民大衆のなかに入らないことからはじまるといえる。

 わたしは、呉仲成にこう言い聞かせた。

 出身階級の好ましい人だけでは革命ができない。大衆を大胆に信じ、彼らに組織の門戸を広く開かなければならない。さまざまな看板の青年団体がそれぞれ青年を誘いこんでいるこんなときほど、共青組織は受け身にならず、積極的に攻勢をかけて多くの青年を獲得しなければならない。青年同盟や新幹会などの組織に関与した青年や党再建派に追従したり、心ならずも利用されている青年も正しく導いて、一人ひとりかちとっていかなければならない…

 わたしは全長元同志にも、敵の機関に勤めている人たちとどのように活動すべきかという戦術的原則を教えた。

 革命家は、家門に区長や面長、巡査がいるからといって驚いたり、萎縮してはいけない。君はむしろそうした親戚関係を利用して敵の統治機関にくいこみ、日帝の末端支配機構を麻痺させ、大々的に活動するように心がけなければならない。穏城をはじめ六邑一帯を武装闘争の戦略的拠点につくり変えるには、大衆を革命化すると同時に、敵の統治機関に勤める人たちを大胆に味方に引き入れなければならない。彼らをかちとる活動で経験を積んでみるのだ。

 穏城でもっとも忘れられないのは、金俊や呉仲和、呉仲成同志と連れ立って美浦面月坡洞(ミポミョンウォルパドン)鉄道敷設工事場に行き、労働者たちに会ったことである。

 日帝は、1929年の初めから豆満江沿線で鉄道敷設工事をおし進めた。三南地方をはじめ国内各地と間島から1000余人の人夫が集まってきて、月坡村に開風(ケプン)通りというたてこんだ住民地区を形成した。吉会線鉄道敷設工事場で働いていた人夫たちもやってきて、生活の糧を稼ごうと苦役に従事していた。

 以前吉林にいたとき、そのことを知ったわたしは、金俊に月坡洞で鉄道敷設工事がおこなわれていたら、労働者のなかに入って組織を結成するようにといったことがあった。

 彼もやりがいのある仕事だといって、好奇心をかくせなかった。その後、彼はわたしと約束したとおり、穏城におもむいて月坡洞に労働青年会と反帝青年同盟を組織した。

 わたしが鉄道敷設工事場に行くというと、穏城の同志たちは敵の警戒がきびしいから、それだけは思いとどまるようにといった。

 彼らは、「コミンテルンの派遣員が来た」とふれこんでわたしの身辺保護に気を配っていた。

 彼らがわたしに「コミンテルン派遣員」という肩書きまでつけて抜かりなく護衛してくれたのは、国内で革命家にたいする日本警察の監視と警戒がとりわけきびしかったからである。

 もちろん、わたしも朝鮮国内ではすべてに気をつけ、警戒心を高めなければならないことは承知していた。しかし、わたしは労働者のなかに入って、すぐには大きな活動ができないまでも、彼らの手を取って激励の言葉でもかけてやりたかった。それまでわたしが青年学生のあいだで活動をおこなったのはすべて、労働者階級のなかに入る橋を渡すためだった。わたしの終局の目的は、労働者階級をおしたてて朝鮮革命を開拓し、完成することにあった。労働者階級の解放を綱領としてうちだし、そのためには生命をささげることもためらわないと誓ったその日から、われわれは朝鮮の労働者階級に熱い思いをよせてきたのである。

 わたしは工事場で1日半、労働者たちと一緒に車から砂利を下ろしたり砂を運んだり、飯場で食事をしてみたりした。金俊はわたしを、延吉からアルバイトに来た学生だと紹介した。

 わたしはいまでも、あのとき労働者のなかに入ったのがたいへん有益だったと思っている。飯場や工事場で見たのは、わずかな賃金を稼ごうとあくせくする労働者の悲惨な群像だけではなかった。わたしはそこで、闘争を渇望する労働者たち、自分の運命を守り、切り開いていくための正しい道を模索している労働者を見たのである。

 その姿を見て、わたしは強い衝撃をうけた。わたしの胸は、労働者階級の幸せのために生涯をささげたいという熱望に燃えた。

 わたしは鉄道敷設工事場で、穏城出身で後日の抗日闘士、崔春国、崔鳳松(チェボンソン)同志ともはじめて会った。

 崔春国は、宿所にわたしを案内したとき、自分が発破工をしているあいだに、ひそかに火薬を集めておいたが、工事の竣工日にそれでトンネルを爆破するつもりだといった。

 わたしは彼に、現状ではトンネルを爆破するような冒険をするよりも、組織をしっかりかため、労働者を意識化、組織化することのほうがもっと重要だ、火薬はとっておいて、この先武装闘争をするときに大事に使おうといった。

 わたしは、労働者たちとすごしながら多くの話を交わした。

 わたしは彼らに、武装闘争や党創立、反日民族統一戦線の問題についても語った。国内に来て労働者に卡倫会議の趣旨をしっかり認識させるだけでも大きな成果だった。1人にいったことが10人に伝わり、それがまた100人、1000人と口伝えに伝わって1万人の耳に入り、ひいてはわれわれの思想が国内人民の信念となり、旗印になるであろうことは疑う余地がなかった。

 われわれの路線を知った鉄道工事場の労働者たちは、それを積極的に支持した。

 彼らはわれわれの路線から自信を得たようだったが、わたしはその路線を知って喜ぶ彼らの姿から自信を得た。

 穏城でおさめた最大の成果は、1930年10月1日、頭婁峰(トゥルボン)で党組織を結成したことであった。

 穏城の革命組織を見てまわるなかで、わたしはこの一帯の革命家が戦略的問題の理解でいくつかの誤りを犯し、大衆との活動で小心になっているが、彼らの闘争の覚悟や準備程度は予想よりはるかに高いことを知り、穏城地区に党組織を結成できる基礎があるという結論を得た。

 会議に参加する穏城地区の革命家たちはそろって木こりの身なりをして頭婁峰に集まった。全長元は、月坡洞の組織責任者に頼んで、会場近くに牛そりを引いてきておいた。

 われわれは、月坡川をひかえた頭婁峰の奥まった空き地で、国内の党組織を結成する集会を開いた。

 わたしはまず参会者に、卡倫で採択された路線を知らせ、その路線を実行するうえでの第一義的な課題は革命的な党を建設することであると指摘し、穏城地区に新しい型の党組織を結成する趣旨を説明した。そして、組織生活と実践を通して点検された優秀な先進分子で党の隊伍をたえず拡大強化し、大衆を反日闘争に奮い立たせる穏城地区党組織の課題を示した。

 わたしの提議によって、呉仲成、全長元、全昌竜(チョンチャンリョン)、崔春国、崔鳳松、崔根柱(チェグンジュ)同志らが穏城地区の党組織に加入した。党組織の責任者には呉仲成同志が選挙された。

 党員の栄誉をになった同志たちは、つぎつぎに立ち上がって自分の経歴を紹介し、手短に決意を披瀝した。

 彼らが述べた決意はほとんど覚えていないが、全長元が述べた決意は、いまもわたしの記憶に生き生きと残っている。

 全長元は、自分のように家庭の階級的成分が複雑な人間を党に受け入れてくれたことを死んでも忘れない、革命のために必要とあれば骨も肉も肝もすべてささげると誓った。そして、もし自分がこの誓いを破る愚劣な人間になりさがったら、この身を八つ裂きにして川に投げ捨ててくれといった。過激ながらも飾り気のない発言だったが、自分の気持ちを素直に述べたものである。

 全長元は後日、その決意どおり穏城地区を半遊撃区につくりあげ、朝鮮人民革命軍を援護するうえで大きな功を立てた。

 秘密を守るために、集会で討議された内容はいっさい記録に残さなかった。会議では、創立宣言文や趣旨書なども採択していない。

 集会に参加した穏城の人たちは、党組織を結成する歴史的な会合であるにもかかわらず、簡素で格式をととのえないのがもの足りない、衡平社のような賤民の組織でも発起趣旨文を発表して配布するのに、簡単な決意を述べるだけで会議を終えたのがひじょうにもの足りないといった。

 わたしは、諸君がいましがた述べた誓いは数百ぺージの宣言文や趣旨書よりも実質的だ、文書ばかりつくっても用をなさない、うわさを立て、名を出すのが党組織だと考えてはいけない、うわさは立てずに多くの仕事をするのが党員なのだから、諸君は実践闘争を通して党性と愛国心を発揮しなければならない、と励ました。

 穏城地区における党組織の結成は、国内に党建設の基礎を構築する突破口となり、国内人民の反日闘争をおし進めるうえで重要な転機となった。

 穏城地区党組織の活動によって、六邑一帯では、大衆の意識化、組織化の過程がすみやかに進み、反日闘争がもりあがった。

 大衆がわれわれに従い、革命が新たな様相をおびてもりあがったので、この一帯で自派の勢力を広げようと努めた崔昌益(チェチャンイク)も、故郷を離れてソウルヘ行ってしまった。解放後、彼は当時のことをわたしに率直に告白した。「穏城が故郷だったので、そこにM・L派が入りこんでいるだろうと思ったが、実際に行ってみると、われわれの勢力はなく吉林の風が吹いていました。その風がなんとも激しく、金日成同志の人たちにすっかり牛耳られていたのです。それで金日成同志を年配者だと思ったのですが、人の話ではそうでなく、20代の青年で、なかなか手ごわいというではありませんか。それで訪ねていこうと思ったのですが、やめました」といった。

 崔昌益が穏城を去ってソウルへ行ったのは、われわれが分派をきらい、自分たちのように分派活動をする者とは妥協しないことを知っていたからである。

 わたしは党組織の結成後、そこで六邑一帯など各地の工作員と地下革命組織責任者の会議を指導し、そのあと帰路についた。於汀(オジョン)渡し場で渡し船に乗り川を渡ったが、帰りは行くときより心が軽かった。仕事が思いどおりに運んだので、天にも昇るような気持ちだった。死線を乗り越え冒険をしながら祖国を訪ねたかいがあった。

 祖国ですごした1週間は、われわれが卡倫で示した革命路線が全人民の支持をうける正しい路線であることを実証する重要な契機となった。それは、祖国の人民からわれわれの路線を判定してもらったようなものだった。

 それ以来、穏城の人たちは、変わりなくわれわれと運命をともにした。

 豆満江を無事に渡ったわたしは、呉仲和の案内で対岸の涼水泉子から長洞をへて延吉県朝陽川に着いた。朝陽川は、竜井とともに、延吉地方でわれわれの影響がもっとも大きくおよんでいる土地であった。

 朝陽川では、間島地区党および共青書記処のメンバーである馬得漢(マドゥクハン)と羅一(ライル)同志が活動していた。後日、朝鮮人民革命軍党委員会委員として活躍した林春秋(リムチュンチュ)も、この村で「逢春堂薬房医師林春逢」の看板を出して革命活動をおこなっていた。

 彼は延吉に来る前、学生事件で検挙されたことがあった。彼は、東医師を勤めながら間島地区党および共青書記処と各県のあいだの連絡任務を遂行していた。

 わたしは、朝陽川ではじめて林春秋同志に会った。若くして東医術を修得した彼は印象的だった。抗日武装闘争の全期間、遊撃隊員は大いに彼の東医術の世話になった。

 5.30暴動と8.1暴動は、延吉の革命組織にも多くの被害をおよぼした。そこは、敦化よりも敵のテロがはげしかった。革命運動にたずさわった人は萎縮し、動揺していたし、自覚の足りない大衆は「共産党のために破滅する」と騒ぎ立てた。

 わたしは、馬得漢、羅一、林春秋など党と共青の指導的幹部らと、極左冒険主義的策動の後遺症をすみやかに取り除き、革命闘争を拡大強化する問題を討議した。

 わたしが穏城から五家子に直行せず涼水泉子をへてわざわざ朝陽川に立ち寄ったのは、この、一帯が今後われわれの武装闘争の舞台になると見たからである。

 わたしとしては、武装闘争にそなえて穏城や汪清、延吉で大衆的基盤をきずく基礎作業をしたわけである。

 その後、われわれが予想したように、この一帯は抗日戦争のもっとも有力な根拠地となった。



 


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