金日成主席『回顧録 世紀とともに』

7 1930年の夏


 M・L派系の分派分子は、5.30暴動の失敗から教訓をくみ取ろうとせず、1930年8月1日、国際反戦デーと前後して吉敦鉄道沿線地方を中心に、またも無謀な暴動を起こした。

 暴動によって、革命の前には重大な難関が立ちはだかった。5.30暴動以来、地下に深く入っていた残り少ない組織も露呈した。わたしが出獄して各地を巡り、かろうじて立て直した組織も、再度の打撃で破壊された。満州各地で、すぐれた指導中核が大挙逮捕され、処刑された。敵は、共産主義を中傷し、共産主義運動を弾圧する格好の口実を得た。

 この暴動が日帝の民族離間策をどれほど助けたかということは、多言を要しないであろう。2回の暴動によって、中国人は、朝鮮人を不信の目で見るようになった。その後われわれは、遊撃闘争をしながら苦労して中国人の信頼を回復した。

 東満州の朝鮮人は、8.1暴動を経験したあとで極左冒険主義の危険性をしだいに悟り、大衆を無謀な暴動に駆り立てる分派事大主義者を遠ざけるようになった。

 わたしは、ただちに暴動のあった地域に工作員を派遣し、これ以上革命大衆が分派分子の扇動にあざむかれないよう措置を講じた。

 わたしも吉林をへて敦化へ行き、しばらくのあいだ組織を収拾するつもりだった。

 吉林に行ってみると、そこにも5.30暴動直後のような殺伐とした雰囲気がただよっていた。

 わたしは日に何度も変装して、組織に関係していた人たちを探し歩いた。

 吉林の駅や城門、道路交差点には、もれなく敵の検問所が配置されていた。日本領事館の密偵が、街で朝鮮の革命家を捜索していた。民族主義運動が終焉を告げようとしていたときだったので、敵は安昌浩事件のときとは違って、独立軍の老輩には見向きもせず、共産主義運動をする青年たちを逮捕しようと方々に網を張っていた。

 吉会線鉄道敷設反対闘争でわきたっていた吉林市で、顔なじみに会うのもむずかしくなったと思うと痛恨にたえなかった。

 同志たちは、わたしと別れるとき、吉林に立ち寄ってもぐずぐずせずに海竜か清原へ行くようにと勧めた。しかしそうかといって、すぐに吉林を発つことはできなかった。革命の新しい道を開拓しようと満3年のあいだ夜を日につぎ、心血をそそいで奮闘したことを考えると、後ろ髪を引かれる思いがした。吉林で投獄までされながら革命のために苦労しなかったとしたら、この都市にそれほど愛着を覚えはしなかったかも知れない。人間は、心魂を傾けただけ、その土地を愛するものである。

 わたしは幸いに共青活動をしていた同志に会えて、数人の組織メンバーの行方を知った。わたしは彼らを集めて、これからは決して組織が露呈しないようにし、吉林少年会、留吉学友会などの合法組織も当分地下に入るよう指示した。

 卡倫会議の方針を実行する対策も討議した。把握ずみの同志には、革命組織を立て直す任務を与えて、活動地域へ送り出した。

 わたしも吉林を発つ決心だった。わたしには、なすべきことがあまりにも多かった。吉林における活動をあらかた収拾してみると、東満州の破壊された組織を立て直そうという欲求に駆られた。

 わたしは、清原か海竜でしばらく中国の同志の家に身をひそめ、それから被害の多い地方をまわってその収拾にあたることにした。海竜、清原方面に行けば、卡倫会議以来会っていない崔昌傑と連絡をとり、そうすれば彼と一緒に南満州へのルートが開拓できそうだった。その一帯は、柳河とともに彼の活動区域だった。

 崔昌傑は、柳河、海竜、清原一帯で基礎党組織をつくり、共青と反帝青年同盟など各種大衆組織を拡大していた。この地域の革命運動は、国民府派と反国民府派との対決がたたって大きな試練をなめていた。そんなときに8.1暴動の余波まで重なり、多くの革命組織が一挙に破壊された。

 海竜と清原のあたりに、わたしの吉林時代の同窓生が1人いた。彼は遊撃隊の草創期にわれわれの部隊にいたが、南満州遠征後郷里に帰った中国人の同志だった。彼の家にしばらくとどまっていれば、白色テロの旋風がいくらかおさまるだろうし、そうなればわたしも窮地から抜け出せそうだった。

 吉林を発つ日、数人の女性の同志が駅までわたしを見送ってくれた。財産家の令嬢のような身なりをしていたので、わたしは疑いをかけられずに汽車に乗ることができた。当時、軍閥は紳士のような人間は、共産主義運動などしないものと思っていた。

 わたしは吉林の本駅を避け、敵の警戒が薄い周辺の駅で乗車した。ところが、思いがけないことに車内で張蔚華に会った。

 瀋陽に勉学に行くところだという。瀋陽へ行く前に革命運動の手づるを求めてわたしを吉林に訪ねたのだが、そこの空気は殺伐としていたといった。「知っている朝鮮人はみな隠れてしまい、目につくのは軍隊や警官、それに日本人の狗だけだった。成柱に会いたかったが、それができず、知人もいなかったので、そのまま瀋陽に行くところなんだ」といって、有無をいわせずわたしを一等室に連れこんだ。彼は、わたしがテロを避けて忍び歩いていることに気づいたようだった。

 その日、警官の乗客取り締まりはきびしかった。列車の出入口をすべて封鎖し、乗客の身分をいちいち確認し、ときには所持品を調べもした。車掌の検札もいつもより念入りだった。8.1暴動の影響は、都市や農村ばかりでなく、列車にもおよんでいたのである。

 張蔚華のおかげで、わたしは海竜駅に無事に着くことができた。警官は車内で乗客をきびしく取り調べたが、中国の紳士服を着ている張蔚華には声もかけなかった。わたしも張蔚華と同席していたので尋問をうけずにすんだ。検札にあたっていた車掌もわれわれには乗車券の呈示を求めず、黙って通りすぎた。張蔚華が勢力家の子弟だったからであろう。

 わたしのふところには、文書や秘密資料があった。もし、身体検査をうけていたら、どんなことになったかわからない。

 海竜駅に到着すると、ホームと改札口のそばに日本領事館の警官が頑張っていた。殺気だった風景だった。わたしは危険が迫っていることを直感した。

 海竜駅で目を光らせているのが日本の警官だったので、わたしは緊張した。中国の警官だろうが、日本の警官だろうが警官には変わりないが、日本の警官にひっかかれば手のほどこしようがなかった。そのころ、日帝は満州で朝鮮の革命家をつかまえると、容赦なく国内へ押送するか、関東都督府法院で裁判にかけ、旅順、大連、吉林などの監獄にぶちこんだ。

 決心がつかず車窓の外をじっと見つめていると、張蔚華が、よかったら自分と一緒に行こうと誘ってくれた。父にも会い、自分の今後のことも相談したいというのである。

 わたしは、草市駅で下車して目的地に行くつもりだった。草市駅までは、まだ駅が5つか6つあった。張蔚華が海竜駅で降りれば保護者がいなくなるので、どんな危険に陥るか知れなかった。

 わたしは彼の誘いに応ずることにした。

 折よく駅前に彼の父親が出迎えにきていた。営口で朝鮮人参を売りさばいて帰る途中、息子が海竜に到着すると聞いて迎えにきたのである。腰にモーゼル拳銃をさげた数十人の私兵が、われわれの前に豪奢な馬車を横付けにした。ものものしい行列だった。領事館警官はそれに気をそがれて、われわれに近づくこともできなかった。

 われわれは高級馬車に乗り、私兵の護衛をうけながらさっそうと駅前通りを駆けていった。わたしはその日、高級ホテルに泊まり、張蔚華と一緒にくつろいだ。ホテルの周囲には張蔚華家の私兵が二重三重に立っていた。

 張蔚華の父親は、久し振りに会えてうれしいといって、わたしを特等室に入れ、料理をたくさん注文した。彼は、撫松時代からわたしをかわいがってくれた。客に誰かと聞かれると、冗談まじりに養子だと紹介した。はじめは冗談でそういったのだが、あとからは本気でそう呼んだ。

 わたしは張蔚華が富豪の息子ではあったが、撫松にいたころから彼と親しく付き合った。わたしは小さいときから、地主が搾取者であるという一般的観念をもってはいたのだが、張蔚華との関係ではそれにこだわらなかった。彼は善良で良心的なうえ、反日感情が強かった。それで、彼と分けへだてなく親交を結んだのだが、こうして危険なときに救われてみると、感無量の思いだった。わたしが平素、地主の子だといって彼を遠ざけていたとしたら、あの危険な瞬間に、彼らがそれほどの誠意をもってわたしを守ってくれなかったであろう。

 革命に参加したり支持したりしなくても、一生ぜいたくに暮らせる張蔚華のような大金持の息子が、危機一髪の瞬間に、父親と協力してわたしを助けてくれたのは、彼がわたしとの義理を重んじたからだった。

 わたしが撫松で小学校に通っていたころから、張蔚華は富める者と貧しい者、中国人と朝鮮人というへだたりをおかずにわたしと親しく付き合った。彼は国を奪われたわれわれの悲しみを誰よりも深く理解し同情もして、祖国を解放しようというわれわれの決意と理想を心から支持してくれた。それは、彼が祖国と中華民族を熱愛する愛国者であったからである。彼は、朝鮮民族の悲運から中華民族の不幸を読み取っていた。

 張蔚華の父親も財産家ではあったが、外部勢力を排撃し民族の自主権を主張する志操堅固な愛国者であった。彼の愛国の衷情は、彼が命名した子どもたちの名前にもよくあらわれている。彼は長男が生まれると蔚中と名づけた。蔚中の2番目の「中」は「中華民国」という国号の最初の文字からとったものだった。次男には蔚華、3男には蔚民という名をつけ、4番目が生まれたら蔚国と呼ぶことにしていた。ところが、4番目はもうけることができなかった。4つの名前の2番目の文字を合わせると「中華民国」という国号になる。

 張蔚華はわたしに、来年の春か秋ごろに日本軍が攻めてきそうだが、そうなったらどうするつもりかとたずねた。

 わたしは、「日本軍が攻めてくれば、立ち向かって戦うつもりだ。武装闘争をしようというのだ」と答えた。張蔚華は、自分も戦いたいが、家で許してくれるかどうか心配だといった。

 それで、わたしはいった。

 「国が滅ぶというのに家どころの騒ぎではない。君も古い社会に反対してたたかおうと決心したのなら革命運動をやるべきだ。いまやほかに活路はない。そうでなければ、愛国の志士気どりで共産主義を口にし、家で書物でもひもとくほかないではないか。道はこの2つしかない。だから、両親の顔色をうかがうことなく革命運動をやるのだ。それが、中国を思う道であり、中華民族を救う道だ。君にはほかの道がない。中国人と一緒に革命運動をやるべきだ。日本軍が攻めてくれば、そのときは朝鮮人ばかりでなく、中国人もこぞって奮起するだろう」

 わたしはホテルに2、3日泊まっているあいだ、張蔚華に反日思想を吹きこんだ。張蔚華はわたしの勧告を聞いて、学校を卒業したら自分も革命運動に乗り出すといった。

 わたしは彼に「もしかのときに、また君の助けを借りるかも知れないから、瀋陽の行き先を書いてくれないか」といって、住所を書いてもらった。そして、目的地に無事に行き着けるよう力を貸してほしいといった。

 張蔚華は、君を助け、守ることなら、なんでもするといって、わたしを馬車に乗せ、海竜県と清原県の境にある中国人同志の家まで連れていってくれた。

 わたしが訪ねていったその家も、張蔚華のような金持ちだった。中国革命の先覚者のなかには、そうした人が少なくなかった。それで、わたしはつねづね、中国革命は特異な革命だと考えている。労働者階級や農民とともに、知識人や金持ちも革命運動、共産主義運動に多数参加した。

 富裕な家庭出身の人も、人間の自主性と社会の発展を抑制する矛盾点を発見すれば、それを除去する革命運動に参加する覚悟をもつものである。資産家出身のなかで、勤労者大衆の利益を擁護してたたかう闘士や先覚者が輩出するのはそのためであると思う。

 要は出身ではなく、世界観である。人生を一つの道楽だと思えば、革命はやれずに富を楽しむことにとどまり、道楽はできなくても人間らしく生きるべきだと思えば、資産家も革命運動に参加するのである。階級革命だということで、こうした先覚者を遠ざけるなら、革命は大きな損失をこうむるであろう。

 わたしは、その中国人の同志の家に数日間泊まったが、彼も張蔚華同様、わたしを親切にもてなしてくれた。彼の姓が王だったか魏だったか、記憶がうすれていまは思い出せない。彼に頼んで何日か崔昌傑の行方を探したが、無駄だった。崔昌傑は8.1暴動後、地下に深くもぐったという。

 わたしは草市付近の共青員に会って、海竜と清原一帯で破壊された組織をすみやかに立て直し、武装闘争の準備を積極的におし進めよ、という内容の手紙を託して崔昌傑に届けてもらうことにした。

 中国人同志の家で、何日か客のもてなしをうけながらすごしていると気づまりだった。身辺が危くても大地を闊歩し、自由奔放な活動に身を投じたくてならなかった。工作のためにはまた変装して活動しなければならないが、軽率に動くと災いをまねくおそれがあった。吉林にもどるのもむずかしく、それに南満州鉄道は日本人の管轄下にあって、汽車に乗るのも危険だった。間島に行きたかったが、共産党検挙旋風が吹き荒れるところへ行っては、どこにも居着けそうになかった。だが、それでも行こうと思った。わたしはどんなことがあっても東満州へ行って、武装闘争の準備を進めようと決心した。

 わたしは中国人の同志と連れ立って海竜で汽車に乗って吉林まで行き、そこでまた他の汽車に乗って蛟河に向かった。蛟河にはわれわれの影響下にある組織がかなりあった。吉林時代から親しくしていた韓英愛と彼女の叔父韓光(ハングァン)もそこにいた。

 わたしは彼らの力を借りて、当分のあいだ軍閥の追跡をまぬがれる隠れ家を見つけ、組織を立て直す活動をするつもりだった。韓英愛に会って、ハルビンにある国際共青傘下の上級組織との連係もつけたかった。

 韓英愛は、1929年の初めに家庭の事情で吉林の学校を中退し、蛟河に帰ってからも、わたしたちとの連係を保っていた。

 わたしは誰から先に訪ねるべきか決心がつかずためらった末、独立軍時代に中隊長をしていた張戊M(チャンチョルホ)の家にまず立ち寄った。

 国民府ができてから独立軍の上層部と決別し、軍服を脱ぎ捨てた彼は、蛟河で精米所を経営し、その営業に専念していた。わたしが彼を訪ねたのは、彼が父の親友であり、わたしをたいそうかわいがってくれた、信頼のおける愛国志士だったからである。わたしには、組織のメンバーに会うまで一時身を寄せる居所が必要だった。

 彼はわたしを好意をもって迎えはしたが、家にかくまってくれようとはしなかった。彼が少しおじけづいているようだったので、わたしは訪ねてきたわけを打ち明けなかった。わたしは李載純(リジェスン)の家に足を向けた。わたしの父の生前、旅館業を営みながら、独立運動家を積極的に後援した人である。彼もやはりわたしを喜んで迎えてくれたが、中華料理店へ連れていって餃子を一皿おごってくれただけで、別れようといった。

 わたしには1、2度の食事よりも、隠れ家が必要だった。彼もわたしが訪ねていったのだから、そのへんの事情を察したはずだったが、一晩泊まっていくようにともいわず、気をつけていくようにというだけだった。彼は自分に災いがおよぶことを先に考え、過去の義理や友誼などは捨ててかえりみなかったのである。

 わたしは、ここで一つの深刻な教訓をくみ取った。思想的結合でなくては、父の友人といってもあてにならない。過去の親交や人情だけでは革命闘争をともにできないというのは、そのときに得た深刻な教訓であった。

 思想や信念が変われば、義理や人情も同時に変わるものである。それまで刎頸の交わりを結んだ者のあいだにひびが生じ、不和になるのも、ある一方の思想が変わるからである。永遠に変わらないと誓った友情や同志的連係も、ある一方が思想的に変質すればひびが入るものである。思想を守らなくては義理や友誼も守れないというのが、その後の長期にわたる革命闘争のなかで得た一つの教訓であった。

 李載純と別れたわたしは、韓光の家に向かった。彼はどこかへ身を隠しているかも知れないが、韓英愛は女性だから家にいるだろう、彼女がわたしの事情を知れば、生命を賭して助けてくれるだろうと思った。

 しかし、韓光も韓英愛も家にいなかった。隣家の婦人に行方をたずねたが知らないという。朝鮮青年のなかで運動に少しでも関係した者はみな身を隠してしまったのだから、もう訪ねるあてがなかった。

 そんなところへ、誰が密告したのか、警官が追跡してきた。もはや逮捕されるほかないと観念したとき、韓光の隣家の主婦がわたしを救ってくれた。彼女はわたしに「どなたか知らないが、身辺が危いようだから、台所に入っていてください」といって、自分がおぶっていた幼児を手早くわたしに背負わせた。そして、「受け答えはわたしがしますから、先生は黙って火を焚いてください」というのだった。わたしが子持ちの男になりすましても、おかしくないほど老けて見えたらしい。

 幼児を背負ったわたしは、火掻き棒を持って台所の土間に座り、彼女にいわれたとおりにした。革命運動をはじめて以来、たびたび困難にぶつかり、胸がどきどきする危険な瞬間にもよく出あったが、こんなことははじめてだった。

 警官が戸を開け放ち、「いましがたここへ来た若者はどこへ行ったか?」と主婦にたずねた。

 彼女は「若い人ですって? どんな人ですか? 家には誰も来ませんでしたが」ととぼけた。そして中国語で、誰もいないから、よかったら部屋に上がって食事でもなさっては、と低い声で勧めた。

 背中の幼児は、人見知りをして火がついたように泣きわめいた。あやそうにも動作がぎこちなくぼろが出そうで、進退きわまったわたしは、しきりに火掻き棒で焚き口を突っついた。

 警官は、どこへ逃げたのだろう、勘違いしたのではないかといって、ほかの家の方へ行った。

 警官が立ち去ると、主婦は笑いながらこういった。

 「巡査が村を離れるまで主人役をつづけてください。野良に出ている主人に帰るよう知らせてきますから、ゆっくりなさって、主人が帰ったら、先のことを相談してみましょう」

 彼女はわたしの食事をととのえたあとで、野良へ行ってきた。

 しばらくして警官がまたやってきて、わたしに使いをさせることがあるから外へ出てこいと怒鳴った。主婦は落ち着きはらって、「患者だから使いは無理です。急用でしたら、わたしが代わりに行ってきましょう」といい、彼らの使い走りをすませて帰ってきた。

 このように、わたしは彼女のおかげで窮地を脱することができた。

 素朴な農村婦人だったが、気転がきき、知恵があった。革命意識もかなり高い女性だった。

 わたしは、この名前も知らない婦人から、忘れえぬ印象をうけた。危険をかえりみずわたしを救ってくれたのは、昔の友誼を頼りに訪ねた父の親友ではなく、一面識もないその主婦だったのである。彼女は革命家を助けようという純粋な気持ちから、自己犠牲的にわたしを救ってくれたのである。人間は困難にぶつかったときに、その真価があらわれるものである。

 革命家がためらいなく生命をも託せる清く堅実な道義は、やはり勤労人民のなかにあった。それで、わたしはつねづね戦友たちに、革命運動で困難にぶつかれば人民を訪ねるようにといった。ひもじくても、喉が乾いても、悲しいことがあっても人民を訪ねるようにといった。

 彼女はりっぱな人だった。いまでも彼女が生きているなら、その前で深々とおじぎをしたい気持ちである。

 その年の冬、満州地方で活動している朝鮮革命軍指揮官と地下組織責任者が五家子に集まって会議をしたとき、わたしはその女性の話をした。

 同志たちはそれを聞いて「とにかく、成柱同志は運が強い。運が強いから天が助けたのだ」といった。

 わたしは運がよくて災いをまぬがれたのでなくて、りっぱな人民のおかげで軍閥につかまらなかったのだ、人民は天であり、民心は天心だ、といった。それ以来「蛟河のおばさん」という言葉は英知に富む自己犠牲的な朝鮮人民を象徴する一つの代名詞、危機にさいしておのれを犠牲にし、革命家を救うのが体質化している女性を象徴する意味深い代名詞となった。

 わたしはいまも焼けつくような陽光にさらされ、血にいろどられた1930年の夏を想起するとき、蛟河に思いをいたし、忘れえぬ蛟河の主婦を瞼に描いてみる。数十年のあいだ探しつづけたが、いまもって行方の知れないその女性を回想するたびに、わたしは60年前のその日、彼女の名前を聞かずに早々と蛟河を発ったことで、胸のうずく自責の念に駆られるのである。

 あのとき名前を聞いておいたなら、広告を出して探すこともできたではないか。

 解放後、いろいろな経路を通して多くの恩人がわたしを訪ねた。異国で別れてから半世紀がすぎ、白髪の老人になってあらわれた恩人もいた。困難なときにわたしを助けてくれた少なからぬ恩人がわたしに会い、解放された祖国に帰ってきた。わたしは、彼らに心からの謝意を表した。

 しかし、蛟河の主婦はどうしてもあらわれないのである。彼女自身は1930年の夏にあった劇的な瞬間をなんでもないことと思って、忘却の彼方に葬ってしまったのかも知れない。

 60年前の恩人は、なんの消息も、痕跡も残さず、ひっそりと大地のなかに隠れてしまった。りっぱな宝石ほど地中深く埋もれるものである。

 野良から主人が帰ってはじめて、主婦はわたしの背中から幼児を抱きおろした。あのときのひとこまひとこまは、そのままミステリーのような出来事である。

 わたしは本名を告げることがはばかれて仮名を告げ、革命運動をやっている者だといい、主人にあいさつをした。

 主人は自分も革命運動にたずさわっていたが、組織との連係が断たれ、無為無策に毎日をすごしているといい、隣に大きな犬(密偵)がいるから気をつけるようにといった。彼は、韓光は北満州に逃れ、韓英愛は弾圧を避けて潜行しているので、彼女には会えないだろうといった。

 それを聞いてわたしは暗い気持ちになった。隣に密偵がいるのでは、この家にとどまっていることもできない。しばらく家に隠れていて、情勢を見はからって再び敦化方面に行こうかとも思ったが、敦化は日本人の拠点であり、共産党火曜派の本部があった関係で捜査が厳重だった。頼りになりそうな朝鮮人はすでに5.30暴動直後ほとんど検挙され、女性しか残っていなかった。そんなところへ行って足がかりをつくれるかどうかが問題だった。

 あたりが暗くなってから、主人の案内で蛟河市内から6キロほど離れた村はずれの草庵に行った。その家の年老いた夫婦も親切な人たちだった。

 その夜、わたしは、革命家がつねに信じ、頼りにできるのは人民であると改めて痛感した。

 夜、床を敷いて横になったが、目がさえ、いろいろな考えが頭のなかでうずまいた。たずねる人たちには会えず何日も無駄骨をおるとはなんということだ、こんなときほど受け身にならず逆境を打開していかなければならない、守勢に陥ったら破滅だ、なんとしても活動をすべきで、こんなところを隠れてまわるようではなにができよう、必ずこの難関を乗りこえて東満州へ行き、革命運動をもりたてようとわたしは思った。

 朝、思いがけないことに韓英愛がその家にあらわれた。わたしが東満州に来るという知らせをうけた彼女は、隠れ家を探して家を出るとき、右の頬にえくぼのある方が訪ねてきたら、自分に知らせてほしいと母に頼んでおいたという。1年ぶりの再会だった。

 苦労の末に彼女と会えたうれしさに、しばらくは口もきけず互いに顔を見つめるばかりだった。一度笑い出すとおなかをかかえて笑いころげていた彼女も、この1年のあいだにすっかりやつれていた。

 韓英愛の話では、間島の雰囲気も殺伐なものだという。

 わたしは彼女に、「こんなふうに隠れてばかりいるのは、意気地のない人間のすることだ。それでも、なんとか運動をしなくてはね。日本軍がいまにも攻めてこようとしているのに、腕をこまぬいていないで、戦う準備をするのだ。組織を早く立て直し、人民を目覚めさせるのだ。恐怖心にとらわれて閉じこもっているわけにはいかないではないか」といった。

 彼女は、自分も同感だ、困難なときにそういわれると勇気が湧くといった。

 「誰もいないこんなところに引きこもっていてはなにもできやしない。組織との連係をつけてやるから、ハルビンに行こう」

 韓英愛は、組織との連係が切れてどうしてよいかわからず、いらいらしていたけれど、ちょうどよかったといって喜んだ。

 コミンテルンとの連係をつけるために金赫をハルビンに送っていたのだが、わたしは彼の報告を待たずに、わたし自身が早くそこへ行ってコミンテルンの人に会おうと思った。わたしは暴動ですっかり破壊された組織と、戒厳状態を思わせる殺気だった緊張感におしひしがれた都市や農村の様子を見て、極左冒険主義者が革命におよぼした弊害の深刻さを改めて痛感した。そしてそれを克服せずには、1930年代のスタートから革命が大きな犠牲を強いられるであろうことを悟った。

 理論闘争だけでは、分派事大主義者と極左冒険主義者の妄動を阻止することができなかった。彼らは、われわれの道理にかなった主張も、革命に有利な主張もなかなか受け入れようとしなかった。われわれの意見には、頭からとりあおうとしなかった。われわれの憂慮をよそに、5.30暴動をむしかえした8.1暴動がついに火の手を上げたのも、吉東地区党会議で出したわれわれの意見をかれらが黙殺したことを示していた。

 満州の大地をはばかりなく転がっていく極左冒険主義の車輪にブレーキをかけるためには、コミンテルンの援助が必要だった。

 わたしは暴動にたいするコミンテルンの見解が知りたかったし、それがコミンテルンの指令によるものか、あるいは一部の人の恣意による妄動であるかを確認したかった。もしも、コミンテルンがその指令を出したのだとすれば、論争をしてでもその車輪にブレーキをかけたいと思った。

 敵の警戒がきびしいので、2人は中国人に変装して汽車に乗ることにした。

 その日、韓英愛は終日蛟河一帯を駆けまわって、2人が着ていく紳士服と履き物をそろえ、旅費を工面した。軍警から疑いをかけられないよう、トランクには化粧品も入れた。そのおかげで、わたしはハルビンに無事到着した。

 わたしはハルビン埠頭近くの尚埠街のはずれにあるコミンテルン連絡所を訪ねて連係を結び、彼らに韓英愛を紹介した。そして5.30暴動と8.1暴動によって東満州にかもしだされた事態を通報し、卡倫会議の内容を知らせた。

 コミンテルン連絡所でも、2度の暴動を冒険主義だと評価した。連絡所でわたしに会った人は、自分個人の見解では、卡倫会議で採択した決議はすべて朝鮮の実情に合い、革命の原則にも合っていると思う、マルクス・レーニン主義に創造的に対応しようとするあなた方の立場は鼓舞的である、といった。われわれが卡倫会議で新たな党創立方針を示し、その母体となる基礎党組織として建設同志社を結成したことにたいしても、それは1国1党制の原則に矛盾しないと、言明した。

 こうして、わたしはコミンテルンから、朝鮮革命の生命ともいえる自主性の原則、創造性の原則、そして、われわれのすべての路線にたいして全幅的な支持を得た。

 そのとき、彼らはわたしに、コミンテルンが運営しているモスクワの共産大学に留学する意向はないかとたずねた。

 わたしはモスクワにそんな大学があることも、朝鮮共産党の推薦で共産主義を志向するわが国の青年たちが、その大学で勉強をしていることも知っていた。゙奉岩(チョボンアム)、朴憲永(パクホンヨン)、金溶範(キムヨンボム)などもその大学に通った。当時、モスクワ留学にあこがれる風潮が強かったので、満州地方の青年のあいだでは、『モスクワ留学歌』という歌がうたわれていたほどである。

 わたしは革命実践から離れたくなかったので、「行きたいが、いまは状況が許さない」と答えた。

 1989年に文益煥(ムンイクファン)牧師に会ったさい、余談にハルビンの話をしたところ、彼は自分の父親もそのころハルビンで、コミンテルンが選抜した留学生をソ連に送る仕事をしたといった。

 コミンテルンは、わたしに吉東地区共青責任書記の仕事を委任した。

 金赫が3階から飛びおりて監獄に引かれていったことも、コミンテルン連絡所を通して知った。

 金赫が逮捕されたと知って、わたしと韓英愛はハルビンに滞在中、ずっと沈痛な気持ちにとらわれていた。金赫が鉄鎖につながれたことがあまりにも無念で、彼が飛びおりたという道裡の3階建て建物の前に行ってみた。

 道裡の商店や料理店には、おいしそうな食べ物がたくさんあったが、われわれには、それらは高嶺の花だった。

 コミンテルンは一日の雑費として15銭をくれたが、ハルビンでは15銭ではとてもやっていけなかった。普通の旅館では宿帳をきびしく調べるので、革命家はとても泊まることができなかった。警官の出入りがなく、宿泊届けをしなくてもすむ旅館は、白系ロシア人の経営するホテルだけだった。だが、そこでは食費と宿泊費がたいへん高かった。富裕な資本家などが泊まるところで、われわれのような者はとても寄りつけない豪華なホテルだった。わたしはいろいろと考えた末、1日1食ですましても安全な高級ホテルで泊まることにし、韓英愛は女性の取り締まりがきびしくない一般旅館に泊まるようにした。

 ホテルに泊まってみると、内部はたいへん豪奢だった。そこには、ショップ、レストラン、娯楽場、ダンスホールなどの施設はもちろん、映画館もあった。

 わたしは、金もなしにこのホテルに宿をとってたびたび困惑した。初日、わたしがホテルに入ったとき、ロシア人の案内係がついてきて、爪を切ってくれるといった。爪を切ってもらうと金を払わなければならないので、わたしは爪がのびていないので必要ないといった。彼女が出ていくと、こんどは入れ違いにホステスが入ってきて、食事の注文を聞いた。わたしは面映ゆかったが、友人の家ですませたと答えるほかなかった。

 毎日こんな気苦労をしたが、金がないのでホテルでは食事をせずに、泊まるだけにした。食事は1日の仕事を終えてから、夕方、韓英愛と一緒に街に出かけ安いお好焼きを1、2枚食べてすませた。

 いつぞや、わが国を訪れた劉少奇にその話をすると、彼は自分もその年ハルビンにいたといった。中国人の党員はいなくて朝鮮人の党員を何人か連れていたが、そのときわたしがコミンテルンと関係しなかったかとたずねた。時期からみて、劉少奇がハルビンから帰った直後に、わたしがそこでコミンテルンの人に会ったようである。

 わたしは韓英愛に、分散している組織のメンバーを探し出してもらうことにした。

 彼女は吉林時代から連係を保っていたハルビン共青支部の韓という人と連絡をとって、地下にもぐっていた組織のメンバーを1人、2人と探し出し、卡倫会議の方針を説明した。

 わたしも金赫が工作していた鉄道と港湾に行き、革命組織の影響下にある労働者たちに会った。このようにハルビンで地下組織を立て直し、同志たちのあいだの連係をつけたあと、韓英愛をそこに残して、わたし1人で敦化に向かった。緊迫したときだったので、韓英愛には満足に謝意も述べることができずに別れた。わたしが発つとき、彼女はわたしと一緒に行きたいといった。けれども、ハルビンの同志たちが彼女を残してほしいと懇請するので、彼女の希望をかなえてやることができなかった。

 東満州へ行って、そのことがずっと気になったが、地下工作の規律上、手紙を出すこともできず、消息を知らずにすごした。

 韓英愛のその後の運命については、党歴史研究所が収集した資料を見て、ずっとあとになって知ることができた。

 わたしは革命組織に書簡を残して敦化に向かったが、彼女はその書簡でハルビンの同志たちに与えた任務を実行するために奔走し、1930年の秋、警察に逮捕された。普通の女性なら家恋しさにも蛟河に帰っただろうが、彼女はハルビンにとどまって、夜もろくに眠らずにわたしが与えた任務を遂行した。口数の少ないおとなしい娘だったが、革命活動ではねばり強く勇敢だった。

 彼女は逮捕されるとただちに新義州監獄に押送され、そこで服役した。それは李鍾洛、朴且石など「トゥ・ドゥ」時代の縁故者が、大勢逮捕、投獄された時期だった。そんなわけで彼女は李鍾洛と同じ監獄にいた。

 ある日、李鍾洛が韓英愛に会ったとき、「わたしも金成柱とはよく知っている仲だし、あんたも、金成柱の指導をうけた女性だから、一緒に力を合わせて彼を帰順させようではないか。よかったらわたしらの帰順工作隊≠ノ入ってこないか」といった。

 彼女は、即座に李鍾洛を面詰した。そんなことをしてはいけない、われわれが金成柱を助けてやれないまでも、そんな汚らわしい背信行為ができるものか、出獄して革命運動ができないのは仕方がないとしても、そんなことはできない、と彼女はいった。

 1938年の冬、われわれが南牌子で会議をしていたとき、わたしを「帰順」させようとして会場にあらわれた李鍾洛がそのことを告白した。

 そうしてわたしは、それまで知りようがなかった韓英愛の消息を知り、彼女が投獄されて残忍な拷問をうけながらも革命家の節操を守り通したことを知った。李鍾洛や朴且石のような男は投獄されるとすぐに転向書に捺印したが、韓英愛は女性の身でありながらその苦痛にたえぬいた。

 「恵山(ヘサン)事件」後、各地で多数の革命家が逮捕され、闘争の道を歩んでいた人びとのなかから背信者が生まれ、革命運動に重大な損失をきたしていたときだっただけに、その消息を聞いて、わたしは深く感動し勇気づけられた。

 韓英愛は一時、中国丹東市のゴム工場で製靴工として働いた。彼女は労働をしながら同胞たちに吉林時代にうたった革命歌を教え、労働者の権益を守っていろいろな要求をかかげ、それを貫徹する闘争へと人びとを決起させた。

 彼女はその後、ソウルで数年間、洪命熹(ホンミョンヒ)先生の息子の家で娘時代をすごした。

 彼女は、組織のルートを探して再び満州へ行こうと何年も苦心し、晩婚をした。彼女は家庭に埋もれてはいたが、われわれと革命運動をともにしたころの良心と節操を捨てなかった。われわれが武器を取って白頭山一帯でさかんに敵を討っていたとき、ソウルでその消息を聞いた韓英愛は吉林時代の同志たちを思い浮かべ、心からわれわれの勝利を祈ったという。

 彼女の夫は解放後、南朝鮮労働党員として地下活動をしたが、後退の時期に敵に殺害された。

 韓英愛も戦争中、ソウル付近で女性同盟組織の責任者として前線援護活動を積極的にくりひろげた。夫が殺害されたあと、わたしに会おうと子どもを連れて平壌に来た。ところがわたしに会えずに、1951年8月14日の夜、2児とともに敵の空襲で惜しくも死亡した。

 わたしは、彼女が清らかな一生を送ったと思う。彼女は、吉林時代の意志を曲げずに一生をすごした。歌をうたっても吉林時代の歌をうたった。

 革命家は韓英愛のように、絶海の孤島でも信念を失わず、良心を守りつづけなければならない。

 韓英愛も忘れられないわたしの生涯の恩人である。彼女は困難なときにわたしを訪ねてきて、危険をかえりみず助けてくれたありがたい女性だった。

 解放後、祖国に帰って彼女の行方を探したが、共和国の領域内にはいなかった。

 解放前は、抗日戦争で彼女に再会できなかった。しかし、彼女がわたしの変装用の中国服を手に入れようと、暑い日ざしのなかを汗を流して駆けまわったこと、列車のなかで軍閥軍警の調査をうけるたびに、臨機応変に危険な瞬間を切り抜けてわたしの身辺を守ってくれたこと、お好焼きを半分ちぎって、その一片を黙ってわたしの方に押しやってくれたことなど、わたしは片時も忘れることができなかった。

 彼女のわたしにたいする心づくしは、愛情や恋慕のような感情を超越した、清らかで私心のない同志愛からきたものだった。

 彼女が平壌まで来て、わたしに会えずに爆撃で犠牲になったことを考えると、哀惜の念にたえない。

 幸い彼女の若いころの写真が奇跡的に残っていて、わたしの手に入った。わたしは、この世にいない恩人たちが思い出されるたびに、わたしの青年時代に大きな痕跡を残した韓英愛の写真を見つめ、彼女の美しい同志愛に心から感謝している。



 


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