金日成主席『回顧録 世紀とともに』

6 革命詩人 金赫


 革命は同志を得ることからはじまる。

 資本家の元手は金であるが、革命家の元手は人間である。資本家が金を元手にして財貨の塔を築いていくとすれば、革命家は同志を元手にして社会を変革し改造していくのである。

 青年時代、わたしのまわりには同志が多かった。彼らのなかには人間的に親しくなった親友もおり、闘争のなかで志を同じくして同志になった人もいる。その一人ひとりの同志たちはみな、千金万金をもってしても換えられない貴重な人たちであった。

 いま若い世代が革命詩人と呼んでいる金赫(キムヒョク)も、そうした同志の一人だった。金赫は、わたしの青春時代に強い印象を残した人で、彼が死去して半世紀がすぎたいまも、わたしは彼を忘れられないでいる。

 わたしが、金赫にはじめて会ったのは1927年の夏だった。

 漢文の授業が終わって廊下で尚鉞先生と話をしているところへ権泰碩(クォンテソク)が来て、客が訪ねてきたという。見知らぬ人で、車光秀というメガネの男と一緒に正門にいるというのだった。

 はたして正門には、女の子のようにきれいな顔をした青年がトランクをさげて、車光秀と一緒に立っていた。車光秀がいつも、才子だと賛辞を惜しまなかった金赫だった。彼は車光秀の紹介を待たずに、わたしに手を差し出し「金赫です」といって気安く握手を求めた。

 わたしは彼の手を取って、自己紹介をした。

 わたしがその場で金赫に親しみを覚えたのは、車光秀から彼の「広告」を耳にたこができるほど聞かされたことにもあったが、金赫の顔形がどこか金園宇に似ていたからでもある。

 「金赫兄を寄宿舎に案内して、授業が終わるまで一時間ほど待ってくれないか。ほかの授業ならサボるのだが、あいにく尚鉞先生の文学の時間でね」

 わたしは金赫に了解を求めて、車光秀にこう頼んだ。

 「ほほう、尚鉞先生の文学の時間というと、みなそんなに夢中なんだね。成柱も金赫のように文士になるつもりじゃないのかい」

 車光秀はメガネを押し上げながら冗談をいった。

 「金成柱だからって文士になれないわけはないだろう。革命をやるには、どうしても文学をやる必要があると思うがね。どうだい金赫兄、そうじゃないだろうか」

 金赫は、わたしの言葉を聞いて歓声をあげた。

 「吉林に来て、はじめてうれしいことを聞くじゃないか。文学をぬきにした革命は語れない。革命そのものが文学の対象だし、母体なんだからな。文学教師がそんなにすばらしい先生ならぼくも会いたいね」

 「じゃ、折をみて紹介しよう」

 わたしはこう約束して、教室へもどった。

 授業が終わって出てみると、車光秀と金赫は正門で、不変資本がどうの可変資本がどうのと論じ合いながら、わたしを待っていた。

 2人の親友の熱気がわたしにも伝わってきた。わたしは、金赫が生まれながらの情熱家だと口をきわめてほめそやしていた車光秀の言葉を思い出し、りっぱな同志をまた得たとひそかに喜んだ。

 「寄宿舎で待ってくれといったのに、どうしてこんなところに立っているんだ」

 金赫は、片目を細めて金色の日ざしが降りそそぐ空を見上げた。

 「このよき日にゴキブリみたいに部屋にへばりついていてもしょうがない。吉林市内を1日じゅう歩きながら話そうじゃないか」

 「金剛山も食後の眺めというから、昼食をとって北山か江南公園へ行こう。上海からはるばる訪ねてきた初対面の客に、食事もおごらないようでは非礼だからな」

 「吉林で成柱君に会えたのだから、何食抜かしてもがまんできそうだよ」

 金赫は、性格も情熱的だが、物腰もきびきびしていた。

 あいにくわたしの財布には金がなかった。そこで、金を払わなくても喜んでもてなしてくれる三豊旅館に彼らを案内した。そこの人たちは、愛想がよく、それにうまいソバを出した。旅館の女主人にわけを話したところ、ソバを6人前出し、1人に2杯ずつふるまってくれた。

 金赫は丸3日間、わたしの部屋で夜通し話しこんだ。そして4日目に、吉林一帯の様子を知りたいといって車光秀のいる新安屯に出かけた。

 わたしは一目で、彼が情熱家だと思った。車光秀がひょうきん者だとすれば、金赫は情熱家だった。いつもは女の子のようにもの静かだが、いったんなにか刺激をうけると、釜のように沸き立って熱気を吹き出すのである。車光秀と同様、東洋3国をまわり、世の辛酸をなめつくしたという風雲児だが、それにしては、性格が淡白だった。話をしてみると、見聞も広く理論水準も高かった。とくに、文学と芸術に造詣が深かった。

 われわれは、文学と芸術の使命について多くを語り合った。金赫は、文学と芸術は当然、人間賛歌となるべきだと力説した。吉林ですごすうちに、その考えはさらに洗練されて、文学は革命賛歌となるべきだといった。文学観も革新的だった。われわれは金赫のそうした長所を参酌して、一時、彼に主として大衆文化啓蒙の仕事をまかせた。彼が演芸宣伝隊の活動をたびたび指導したのもそのためである。

 金赫は詩作にたけていたので、われわれは彼をウジェーヌ・ポティエと呼んだ。彼をハイネと呼んだ人もいる。実際、金赫はハイネやウジェーヌ・ポディエをどの詩人よりも高く評価した。わが国の詩人のなかでは李相和(リサンファ)をもっとも愛した。

 彼が好んだ詩は、おおむね格調の高い革命的な詩編だった。しかし、おもしろいことに、小説では激情的な崔曙海(チェソヘ)の作品よりも叙情的な羅稲香(ラドヒャン)の作品を好んだ。

 わたしは、金赫のそうした趣味を見て、世のことわりは妙なものだと思った。実際、われわれの生活には、対照的なものが結び合ってうまく調和する場合が多い。車光秀は、そんな現象を「陰と陽の結合」と適切に表現した。彼は金赫の場合も、陰と陽が適切に結合して独自の文学的個性を生み出しているのだといった。

 金赫は複雑多端な革命活動のかたわら、りっぱな詩を多くつくった。われわれの革命組織に参加した吉林の女学生たちは、彼の詩を手帳に書きとって、好んで詠んだものである。

 金赫の詩のつくり方は一風変わっていた。紙に書きはじめるのでなく、最初から最後の行まで頭のなかでそらんじながら完成していき、これでよいと思うと拳で机をドンとたたいて、おもむろにペンを取り上げるのである。彼が机をたたくと詩が一編できあがるのを知っていた同志たちは、「金赫がまた卵(詩)を一つ生んだ」といって喜んだ。彼が詩を脱稿するのは、われわれ共通の慶事でもあった。

 金赫には、共青員の承少玉(スンソオク)という美貌の恋人がいた。すらりとした体つきに福々しい顔をしていたが、正義感が強く、死をも恐れない気概と胆力のある女性だった。

 承少玉は、共青の組織生活に忠実だった。

 吉会線鉄道の敷設に反対する大衆的闘争の起こった年の秋、わたしは街頭で彼女の扇動演説を聞いたことがあるが、なかなかの達弁だった。

 手帳に金赫の詩を書き取って、人一倍愛誦していた女学生が承少玉である。彼女は詩の朗誦も歌も演説も上手で、年中白いチョゴリに黒いチマを着ていたので、承少玉といえば吉林市内で知らない青年がいなかった。

 生活を情熱的にうけとめて詩作していた金赫は、愛情の面でも情熱的だった。青年共産主義者は、革命運動にたずさわりながら恋愛もした。一部の人は、共産主義者には人間性も人間らしい生活もなく、人間らしい愛情もないといっているが、それは共産主義者を知らない人がいうことである。われわれの多くの同志は、革命運動をしながら恋愛をし、戦火のなかで家庭生活も営んだ。

 わたしは学期末休暇になると、金赫と承少玉に大衆工作の任務を与えて孤楡樹へ派遣した。孤楡樹に彼女の家があったからである。

 2人は大衆活動の合間に、柳の生い茂る伊通河の川辺で散歩をしたり釣りを楽しんだりした。釣り糸を垂れる金赫のそばで承少玉は釣り針から魚をはずしたり、餌をつけたりした。景色のうるわしい北山や松花江のほとりで、そして、伊通河の岸辺で2人の革命的愛情はいっそう深まっていった。

 ところが、なぜか承少玉の父親の承春学(スンチュンハク)は2人の仲を喜ばなかった。

 承春学は、三光学校の前身といえる彰信学校の創設者で、校長だった。数年間ソ連に滞在し、沿海州地方を流れ歩いて勉強もし、文明にも接していたので、当時としてはかなり開けた人だった。われわれが孤楡樹で彰信学校を三光学校に変え、民族主義者の大衆組織を共産主義組織、革命組織に改編するときも、彼は真っ先にわれわれの活動に理解を示し、協力を惜しまなかったものである。

 そのような彼が2人の仲を許そうとしなかったので、さすがの金赫も途方にくれていた。

 承少玉の母親は、金赫が気に入って娘との交際を黙認し、夫の前ではそれとなく娘の肩をもった。その後、しばらく金赫の人柄を観察した承春学は、彼がりっぱな革命家であることを知り、2人の仲を許した。父親の承諾を得た日、2人は婚約写真を撮った。承少玉の家にはカメラがあった。

 のちに金赫が犠牲になったことを聞いて悲嘆にくれた承少玉は、伊通河に身を投げようとした。同志たちは、川辺で彼女を引きとめて気を取り直させた。

 承少玉は、その後も忠実に革命活動をつづけ、『海外朝鮮革命運動小史』の著者崔一泉(チェイルチョン)の後妻になった。継子を育てても、金赫のような革命家に連れ添うのが彼女の理想であったのである。

 金赫の炎のような性格は、革命実践における忠実性にあらわれた。彼は、強い責任感と忠実性をそなえた革命家であった。彼はわたしより5つも年上で、日本に留学したが、そんなそぶりは少しも見せず、わたしの与える任務を誠実に果たした。それで、わたしは金赫をとりわけ大切にし、愛したのである。

 金赫は、1928年の夏から車光秀と一緒に柳河県一帯で活動した。彼らの指導で孤山子の東盛学校に社会科学研究会(特別班)が設けられ、反帝青年同盟支部が組織されたのもそのころだった。

 金赫は、人類進化史、世界地理、文学、音楽の授業を担当し、孤山子の青年学生のあいだでたいへんな人気だった。

 わたしが出獄して東満州へ行くころ、金赫は孤楡樹と吉林を往来しながら組織の任務を遂行していた。わたしは敦化に行くさい彼に手紙を送り、江東、吉林、新安屯の革命組織を指導するほかに、新たな出版物の発刊準備をするようにといった。

 しばらくして敦化での仕事を終えて卡倫に帰る途中、金赫を訪ねると、彼は任務を忠実に遂行していた。わたしが獄中で練った構想と卡倫の活動予定を話したところ、彼は興奮して、自分も一緒に卡倫へ行くといいだした。わたしは、仕事をやり遂げたあとでゆっくり卡倫に来るようにといった。金赫はたいへん残念がったが、わたしにいわれたとおり新安屯にとどまり、新しい出版物の発刊準備を進めたあと、卡倫へやってきた。

 卡倫会議後、われわれは新しい出版物の発刊準備を本格的に進めた。新たな革命路線が示され、その実現へと大衆を奮い立たせる使命を担った最初の党組織が結成された現状で、その思想的代弁者の役割を果たす出版物の発刊は、緊切な課題となっていた。

 そんな事情をよく知っていた金赫は、卡倫へ来てからも夜を徹して出版物に載せる原稿を書いた。彼の提議で、新しい出版物の名は『ボルシェビキ』に決まった。

 われわれは『ボルシェビキ』を雑誌の形で発行し、大衆に革命思想を植えつけながら物質的準備が十分ととのったあと、しだいに新聞の形に拡大し、部数も増やすことにした。1930年7月10日、ついに『ボルシェビキ』の創刊号が発行された。

 この雑誌を共青と反帝青年同盟の支部、そして、各反日革命組織や朝鮮革命軍グループに配布し、われわれが掌握している学校にも送って教材に使うようにした。わたしが卡倫でおこなった報告の解説記事も雑誌に載った。卡倫会議の方針を紹介し宣伝するうえで、『ボルシェビキ』はじつに大きな役割を果たした。しばらくのあいだ月刊誌の形で発刊された『ボルシェビキ』はその後、発展する革命の情勢と読者の要望にそって週刊紙になった。

 金赫は『ボルシェビキ』の初代主筆として、卡倫を発つまで、毎日夜を明かして原稿を執筆した。炎のような情熱家だった彼は休息というものを知らなかった。

 そのうち、彼は朝鮮革命軍グループの責任者としてハルビンに行った。彼がハルビンに派遣されたのは1930年8月初旬のことだった。主に、吉林、長春、柳河、興京、懐徳、伊通一帯で活動してきた彼にとって、ハルビンはなじみのない土地だった。わたしもその都市についてはあまり知らなかった。

 わたしは、吉林にいたころからハルビンを重視していた。

 この都市には労働者が多かった。労働者のなかに入るには、長春やハルビンなど大都市に大胆に進出して、われわれの勢力をのばさなければならなかった。吉会線鉄道敷設反対闘争や中東鉄道を攻撃した軍閥の背信的反ソ行為を糾弾する闘争を通してもわかるように、ハルビンの労働者と青年学生は革命性が強かった。こうしたところでうまく手づるをつかめば、多くの大衆を組織に結束することができた。

 われわれがハルビンを重視したのは、そこにコミンテルンの連絡所があるからでもあった。わたしが吉林毓文中学校に組織した共青と連係を保っていたコミンテルン傘下の共青組織もハルビンにあった。コミンテルンとの連係を保つためには、この都市にわれわれのルートをつくり、われわれが自由に出入りできるように開拓しなければならなかった。

 金赫をハルビンに派遣した重要な目的は、ハルビン一帯でわれわれの革命組織を拡大するかたわら、コミンテルンとの連係を実現することにあった。

 金赫がわたしから任務を与えられて興奮し、喜んでいたことが忘れられない。

 そのとき、コミンテルン宛の紹介状を書いたのは金光烈(金烈)だった。

 金赫は出発にあたって、わたしの手を長いこと握り、別れを惜しんだ。わたしの与える任務は軽重を問わずなんでもきびきびとやってのける彼だったが、単独任務をうけて出かけるときは、いつもこのように名残を惜しんだものだった。彼はなんでも大勢でやるのを好んだ。彼のもっともきらいなことは孤独だった。

 詩人がしばしば孤独を体験するのも文学修業に役立つはずだが、君はどうしてそれほど孤独がきらいなのか、といつかわたしは聞いたことがあった。すると金赫は、かつて、うつうつとして放浪していたときは孤独も一つの道づれだったが、そうした生活と縁を切ったいまはそれがきらいになった、と率直にいうのだった。江東で何か月もわびしくすごした彼は、卡倫に来て同志たちと徹夜をしながら仕事をする楽しみを味わったばかりなのに、またみんなと別れることになったと残念がった。

 わたしは彼の手を取って、子どもをあやすようにいった。

 「革命運動をする以上、こんな離別もしなくちゃならないのだよ。ハルビンから帰ったら一緒に東満州に行って活動しよう」

 金赫はさびしそうに笑った。

 「ハルビンのほうのことは心配しないでくれ。どんなことがあっても組織の任務を果たして笑顔で帰ってくる。東満州に行くときは真っ先にぼくを呼んでくれよ」

 それが金赫との永遠の別離となった。

 彼と別れたわたしの心もわびしかった。

 われわれのルートが、はじめてハルビンにのびはじめたのは1927年の末からだった。吉林第1中学校で苦学をしていた数人の学生が、授業時間に朝鮮民族を冒涜した反動的な歴史教師と大げんかをして学校をやめ、ハルビンに行ってしまったことがあった。彼らのなかには、われわれの指導をうけていた留吉学友会のメンバーもいた。

 われわれは彼らに、ハルビンで組織を結成する任務を与えた。彼らは、ハルビン学院、ハルビン高等工業学校、ハルビン医学専門学校などの朝鮮人青年学生を中心にして、朝鮮人学友親睦会と読書会を組織し、この組織の中核分子で、1928年の秋には反帝青年同盟ハルビン支部を、1930年の初めには朝鮮共産主義青年同盟ハルビン支部を結成した。われわれは、学期末休暇のたびに韓英愛を派遣してハルビンの組織を指導した。吉会線鉄道敷設反対闘争が満州に広がったとき、ハルビンの青年学生がそれに呼応して大規模の闘争をくりひろげることができたのは、それらの組織が大きな役割を果たしたからである。

 ハルビンの革命組織には多くの頼もしい青年がいた。現在、党中央委員会政治局員の徐哲同志もそのころハルビンの共青支部にいた。

 金赫を責任者とする朝鮮革命軍グループが到着したときのハルビンの空気は、きわめて殺伐としていた。学友親睦会や読書会のような合法組織さえ地下にもぐり、共青など非合法組織は用心深く偽装しなければならなかった。

 金赫はハルビンの同志たちとともに組織を守り、組織のメンバーを保護する対策を討議した。彼の提議にもとづいて、この都市のすべての革命組織は、いくつかのグループに分散して地下にいっそう深くもぐった。

 金赫は武装グループのメンバーとともに、埠頭労働者や青年学生など各階層大衆のなかに深く入って、卡倫会議の方針をエネルギッシュに解説した。彼は巧みな組織的手腕と胆力をもって青年を教育し、組織を拡大する一方、基礎党組織を結成する準備と武器確保の活動も力強くおし進めた。敵のきびしい監視網をくぐって、コミンテルン連絡所と連係をとることにも成功した。

 ハルビンにおける活動をもりたてるうえで、金赫の功労は大きかった。彼は、革命の一地域を担当した責任者にふさわしく縦横無尽に活躍したが、ハルビン道裡のアジトを奇襲され、銃撃戦をくりひろげた末、最期を覚悟して3階から飛びおりた。しかし、頑丈な体が彼の意志を裏切った。金赫は、自決に失敗して旅順監獄に押送された。そして、残酷な拷問と迫害に苦しみながら獄死したという。

 金赫は、われわれの革命隊伍で白信漢とともに祖国と民族のために若い生命をささげた最初の世代の代表者の一人であった。

 一人の革命同志が千金よりも貴かったあのころ、金赫のようなすぐれた人材を失ったのは、朝鮮革命にとって胸の痛む損失であった。彼が逮捕されたと聞いて、わたしは何日も眠れなかった。その後、わたしはハルビンに行った折に、金赫の足跡が印されている街や船着き場を心うつろに歩きながら、生前彼がつくった詩を低く口ずさんだ。

 車光秀や朴勲(パクフン)と同様、金赫も朝鮮の進路を模索して遠い異郷を放浪した末、われわれと手を握った人だった。上海のフランス租界地の下宿屋で、他人の世話になりながら、うつうつと歳月を送っていた彼に、車光秀がわたしのことを手紙で知らせた。上海でくさっていないで吉林に来い、吉林に来れば君の求める指導者がおり、理論も運動もある吉林は君の理想郷だ!… こんな手紙を3回、4回と書き送った。そうしたいきさつで、金赫がわれわれを訪ねてきたのである。わたしと初対面のあいさつをしたあと、吉林市内を何日か歩きまわった彼は、わたしの手をぐっとつかんで「成柱! ぼくはここに錨をおろすことにした。ぼくの人生はこれからだ」といった。

 車光秀と金赫が莫逆の交わりを結んだのは東京留学時代だという。

 わたしはいまも、共青を創立した日、涙を流しながら『インターナショナル』の音頭をとった金赫の姿が忘れられない。

 その日、金赫はわたしの手を取ってこういった。

 …わたしは一時、上海で中国の学生とともにデモに参加したことがある。彼らが反日スローガンを叫びながら行進するのを見て、わたしも心を動かされてデモの隊列に加わった。デモが挫折したあと宿所に帰って、これからどうすべきか、あすはどうしたらよいのかと、1人で思い悩んだものだった。どの党派にも組織にも参加していない無所属の青年だったので、どこへ集まれと知らせてくれる人も、あすはどこでどのような方法でたたかえと指示する人も、相談をもちかけてくれる人もいなかった。

 わたしはデモをしながら、わたしがこうしてデモをしていて、ひるむようなことがあったらがんばるのだと励ましてくれる人がいればいいのに、デモを終えて家に帰るとき、あすはどうしろと知らせてくれる組織があり、指導者がいれば元気が出るだろうに、弾に当たって倒れたらわたしを抱き上げて「金赫」「金赫」と呼んで涙を流してくれる同志がいたら幸せだろうに、そして、それが朝鮮人で朝鮮の組織だったらいいのにと思った。銃口に向かって突進しながらもこんなことを考えると胸がうずいたものだったが、吉林に来てりっぱな同志たちに会う幸運にめぐりあい、いまは共青にも加入したのだから、ほんとうに誇らしくてならない…

 金赫の言葉は誇張ではなかった。彼はつねに、自分の人生で最大の幸運はりっぱな同志にめぐりあったことだ、といっていた。彼はそうした人生体験があったから、『朝鮮の星』という歌をつくって革命組織に普及したのである。

 最初わたしは、そのことをまったく知らなかった。新安屯へ行ったところ、当地の青年がそれをうたっていた。

 金赫はわたしには内緒で、車光秀や崔昌傑とはからって吉林一円にその歌を普及した。わたしを星になぞらえた歌をつくってうたってはいけないと、わたしは彼らをきびしくいましめた。

 『朝鮮の星』が普及されたころから、同志たちは、わたしの名前を改めて「一星(ハンビョル)」と呼んだ。彼らは勝手にわたしの名前をつくり、わたしの意向は聞きもせずに「一星」と呼んだのだった。

 わたしの名前を「金日成」と改めようと発案したのは、辺大愚(ピョンデウ)など五家子の有志と崔一泉ら青年共産主義者たちである。

 こうしてわたしは、「成柱(ソンジュ)」「一星」「日成(イルソン)」と3通りの名前で呼ばれるようになった。

 金成柱は、父がつけたわたしの本名である。

 幼年時代は「ツンソニ(曽孫)」と呼ばれた。曽祖母が生前、わたしを「ツンソニ」と呼んだので、家族もそれにならって「ツンソニ」と呼んだのだった。

 わたしは父が命名した本名を大切にしていたので、ほかの名で呼ばれるのが気に入らなかった。ことに弱年のわたしを星や太陽になぞらえ、おしたてることを容認したくなかった。

 しかし、いくらきびしく取り締まっても、説得しても無駄だった。同志たちは、わたしが喜ばないことを知りながらも、「金日成」と呼ぶのを好んでいた。

 「金日成」というわたしの名が出版物に最初に載ったのは、1931年の春、わたしが孤楡樹で軍閥に逮捕され、20日ほど投獄されていたときだった。

 しかし、以前からわたしと知り合っている大多数の人は、呼びなれた「成柱」の名で呼んだ。

 わたしが同志たちのあいだで「金日成」という一つの名で呼ばれるようになったのは、後日、東満州で武装闘争をはじめたときからである。

 このように同志たちは新しい名前をつけ、歌をつくってうたい、わたしを指導者におしたてた。わたしをおしたてようとする彼らの心づくしはたいへんなものだった。

 わたしは、年も若く、闘争経歴も短かったが、彼らがわたしをおしたてようと努めたのは、統一団結の中心に欠け、各党、各派がてんでに英雄豪傑気どりで派閥争いに憂き身をやつし、革命運動を破綻させた前世代の運動から深刻な教訓をくみ取ったからであり、国を取りもどすには2千万民衆が心を合わせなければならず、そのためには指導の中心、統一団結の中心がなくてはならないという真理を骨身にしみて悟ったからであった。

 わたしが、金赫、車光秀、崔昌傑らの同志を愛し、忘れることができないのは、彼らがわたしの歌をつくり、わたしを指導者に推戴したからではない。彼らが、朝鮮民族が切願しながらも実現できなかった統一団結、朝鮮人民の誇りであり、光栄であり、無限の力の源泉である真の統一団結の始原を切り開き、わが国の共産主義運動で指導者と大衆の一心同体を実現した統一団結の新たな歴史を血潮をもって切り開いた先駆者であったからである。

 われわれとともに革命運動にたずさわった新しい世代の共産主義者は、地位争いで隊伍に不和をかもしたこともなく、意見の相違で、われわれが生命のように大事にした統一団結を破壊したこともなかった。統一団結は、われわれの隊伍で真の革命家と、えせ革命家を分ける試金石であった。だからこそ、彼らは監獄や絞首台に引かれていっても、この統一団結を生命を賭して守った。そして、次の世代の共産主義者に財宝として譲り渡した。

 彼らの最大の歴史的功績はここにある。指導者をおしたて、その指導者を中核にして統一団結した新しい世代の共産主義者の気高く美しい精神は、こんにち、わが党が一心団結と呼んでいる統一団結を生む偉大な伝統となった。

 青年共産主義者が指導者をおしたて、そのまわりに一心団結して革命闘争をおこなったそのときから朝鮮の民族解放闘争は派閥争いと混乱にいろどられた過去の歴史に終止符を打ち、新たなぺージを開いたのである。

 金赫が逝ってから半世紀以上の歳月がすぎ去った。しかし、夜を明かし、飢えにたえ、足を凍らせ、骨をえぐるような満州の寒風にさらされながら革命のためにたたかった金赫の姿は、いまもわたしの脳裏に焼きついている。

 彼が生きていたら、われわれとともに多くのことをしたであろう。わたしは、革命が試練にあうたびに、愛国の一念に胸を燃やし、たたかいのなかで青春を輝かせた、情宜に厚い同志金赫をしのび、彼の早世を惜しむのである。

 われわれは金赫の姿を末永く後世に伝えようと、大城山革命烈士陵の最前列に彼の胸像を安置した。

 金赫の写真が一枚も残されておらず、彼と一緒にたたかった同志たちもみな世を去ったので、彼の顔形を知る術がなく、彫刻家たちが苦労した。それで、わたしが金赫の顔形を彼らに教えて胸像を完成させたのである。



 


inserted by FC2 system