金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 朝鮮革命軍


 卡倫会議が重要な課題の一つとしてうちだした党組織建設の活動は、最初の党組織−建設同志社の結成によってその第一歩を踏み出した。

 しかし、われわれはこれに満足することができなかった。われわれには、武装闘争を準備する困難な任務が残されていた。

 われわれは、武装闘争の準備活動としてまず、孤楡樹で朝鮮革命軍を結成した。

 われわれが1、2年後に常備の革命武力の創建を予定していたにもかかわらず、朝鮮革命軍のような過渡的な政治・半軍事組織を創設したのは、革命軍の活動を通して大規模な遊撃部隊を編成する準備をととのえるためだった。われわれは、朝鮮革命軍の政治・軍事活動を通して武装闘争の大衆的基盤を構築し、武装闘争に必要な経験を積もうと考えた。

 じつのところ、われわれには、武装闘争に必要な知識がなかった。自国でなく他国の領土で武装闘争をするだけに、われわれにはその経験が必要だった。しかし、われわれが参考にすべき軍事教範や経験はどこにもなかった。

 われわれに元手があったとすれば、何人かの独立軍出身の同志と華成義塾時代の同志、それに拳銃が何挺かあったにすぎない。そのほかには、なにもなかった。自力で武器を獲得し、軍事的経験を積まなければならなかった。

 そのための過渡的な組織が朝鮮革命軍だった。

 孤楡樹ではじめのころは、金園宇、李鍾洛が革命軍の結成準備にあたり、そのあと車光秀が派遣されて準備を完了した。

 革命軍結成の準備活動は、各地で同時に進められた。

 準備活動での基本は、革命軍に入隊させる青年の選抜と武器の入手であった。

 われわれがその方途の一つにしたのは、独立軍に働きかけて先進思想に同調する堅実な軍人を味方に引き入れ、人と武器を獲得するやり方だった。革命軍に軍人出身が多いと、彼らを母体にして、軍事知識のない青年にも訓練を与えることができるわけである。それで、同志たちは国民府傘下の独立軍にたいする工作を積極的におこなった。われわれの方針は、独立軍のなかで進歩的な思想をもつ軍人に影響を与えて味方につけ、思想的準備の程度によって革命軍にも受け入れようというものであった。

 国民府はそのころも、国民府派と反国民府派に分かれてヘゲモニー争いをつづけていた。国民府派は在満朝鮮人の統帥権を、反国民府派は独立軍の統帥権をそれぞれ握ることになった。それは、民衆と軍隊を分離する結果をまねいた。1930年の夏になって、両派の対立は互いに相手の幹部を暗殺するテロに発展し、両派は完全に決裂状態に陥った。

 こんな有様だったので、独立軍内部では、隊員ばかりでなく小隊長や中隊長でさえ上層部に背を向け、その指示に服従しようとしなかった。むしろ、彼らはわれわれが派遣した工作員のいうことをよく聞いた。

 車光秀は、通化、輝南、寛西一帯で独立軍の工作にあたり、李鍾洛は孤楡樹で彼の指揮する隊員を教育して革命軍に受け入れる準備をした。

 李鍾洛は、孤楡樹で正義府所属の独立軍第1中隊に勤務し、その後、華成義塾で「トゥ・ドゥ」に加入した。彼と一緒に華成義塾に推薦されてきた第1中隊出身のなかには、朴且石、朴根源、朴炳華(パクピョンファ)、李順浩(リスンホ)などの青年がいた。

 李鍾洛は華成義塾の廃校後、孤楡樹の出身中隊に帰隊し、副中隊長をへて中隊長になった。いまとは違って兵力が少なかったあのころは、中隊といえば大きな兵力であった。満州で最大の勢力といわれた国民府も、傘下に9つの中隊があったにすぎなかった。だから、中隊長といえばおのずと、独立軍のなかでたいした幹部としてあがめられた。孤楡樹で李鍾洛はたいそう威信のある存在だった。

 金赫、車光秀、朴素心らが、1928年から1929年にかけて、柳河地方で崔昌傑の影響下にあった独立軍の保護をうけながら活発に革命活動をおこなったように、孤楡樹に派遣された同志たちも李鍾洛の指揮する独立軍部隊の保護をうけながら活動した。

 李鍾洛も、そのころは革命をやろうという覚悟と熱意が高かった。彼は華成義塾の廃校後、出身中隊に帰り、われわれが樺甸で任務を与えたとおり、独立軍隊員にたいする活動を忠実におこなった。大胆さ、決断力、判断力、統率力などに富んでいるのが、彼の長所であった。

 その反面、彼は冷徹な理性と思考力に欠けていた。気分本位に行動し、過激に走り、個人英雄主義が濃厚だった。後日、彼が革命を裏切った重要な原因はそこにあったと思う。

 一部の者は、独立軍の指揮体系が乱れ、内部が四分五裂の状態にあるのだから、各地に分散している中隊を武装解除し、国民府の反動分子を粛清しようと主張した。そして、独立軍のベールを脱ぎ捨てて公然と活動し、武器を獲得し、国民府とも対決しようといった。

 わたしは独立軍との活動で極左的誤りを犯さないよう、そうした傾向をきびしくいましめた。

 亨権叔父も2つの工作グループを編成して長白地区に進出した。叔父は芝陽蓋の裏山に根拠地を定め、長白の各地に白山青年同盟支部、農民同盟、反日婦女会、少年探検隊を組織して、武器獲得工作と意識化活動をくりひろげ、地元の青年を受け入れて軍事訓練をほどこした。亨権叔父の努力によって長白地区の独立軍兵力はわれわれの影響下に入ってきた。

 隊員選抜と後進の養成とならんで武器獲得工作も活発におこなわれた。

 武器獲得での最大の功労者は崔孝一である。彼は鉄嶺にある日本人銃器商店の店員を勤めていた。当時、多くの日本人が満州で銃器を売っていた。彼らは匪賊にも中国人地主にも銃を売った。崔孝一は小学卒の学歴しかなかったが、日本語が上手で日本人なみに流暢に話した。崔孝一は、店員にしておくには惜しいくらい頭が切れ、日本語も巧みだったので、店主はすっかり彼にほれこんでいた。

 崔孝一を味方に引き入れたのは張小峰だった。卡倫を開拓するさい、長春、鉄嶺、公主嶺一帯を往来していた張小峰は、たまたま崔孝一と知り合った。何度か付き合ううちに、彼の誠実で剛直な人柄を知った張小峰は、彼を反帝青年同盟に加入させ、李鍾洛に紹介した。それ以来、崔孝一は鉄嶺で敵中工作をはじめた。彼は、李鍾洛と連係をもち、独立軍中隊に武器をひそかに売り渡した。店主は崔孝一が売った銃器が朝鮮人の手に渡るのを知りながらも、それも金儲けだということでそしらぬ顔をしていた。

 崔孝一は、最初は中国人に武器を売り、つぎは独立軍に渡し、しまいには鉄嶺の日本人商店を共産主義者に武器を供給、調達する専用商店のようにしてしまった。そうしているうちに彼の世界観もめざましく発展した。

 李鍾洛と張小峰は、わたしに会うたびに、鉄嶺にいるすばらしい青年を獲得したといっては崔孝一をほめた。それで、わたしも崔孝一にひそかに大きな期待をかけた。

 1928年だったか、それとも1929年だったか、崔孝一はわたしに会うためにわざわざ吉林にやってきた。会ってみると、彼はまるで深窓の佳人といったような色白の美青年だった。ところが容姿とは違って酒好きだった。革命家の物指しをもって測るとすれば、それがやや欠点といえた。わたしは旅館で一緒に食事をとり、長時間語り合った。彼が日本の「奥さま」言葉を真似て、日本の天皇や高位級の軍人、政治家、それに朝鮮の売国5大臣を罵倒したので、わたしは腹をかかえて笑った。

 崔孝一の妻は人がうらやむ美女だったが、彼は家庭生活に浸らず超然としていた。しかし娘のような顔立ちとは違って、革命闘争では驚くほど度胸があり、意志が強かった。

 彼が日本人商店の銃器を十挺ほど奪取して、妻と一緒に孤楡樹へ脱出してきたのは卡倫会議の直前だった。われわれが常備の革命武力建設に先立って、過渡的段階として小規模の軍事・政治組織を結成する準備を急いでいた折だったので、崔孝一の脱出は大歓迎をうけた。

 わたしは、同志たちの報告を通して革命軍の結成準備が完了したことを知った。孤楡樹に行ってみると、隊員の名簿や武器がととのっており、結成集会の場所や参加者も決めてあった。

 朝鮮革命軍の結成式は、1930年7月6日、三光学校の運動場でおこなわれた。

 武器を授与する前に、わたしは簡単な演説をした。わたしは、朝鮮革命軍は抗日武装闘争の開始を準備するための朝鮮共産主義者の政治・半軍事組織であると規定し、朝鮮革命軍を土台にして今後、常備の革命武力が創建されるであろうと宣言した。

 朝鮮革命軍の基本的使命は、都市と農村で人民大衆を教育し覚醒させて、彼らを抗日の旗のもとに結集しながら武装闘争の経験を積み、本格的な武装隊伍を結成する準備を進めるところにあった。

 わたしは演説のなかで、朝鮮革命軍の当面の課題として、抗日武装隊伍の結成に必要な根幹を育成する問題、革命軍隊の大衆的基盤をきずく問題、武装闘争の軍事的準備を着実に進める問題を提起した。

 われわれは、朝鮮革命軍に第1隊、第2隊、第3隊などいくつかの隊をおいた。

 わたしの発議によって、朝鮮革命軍の隊長には軍事的経験が豊かで統率力のある李鍾洛が推薦された。

 一部の歴史家のなかには、国民府がつくった朝鮮革命軍とわれわれが孤楡樹で組織した同名の朝鮮革命軍を同一の軍事組織と混同する人もいる。国民府がつくった朝鮮革命軍メンバーのなかで少なからぬ人が、われわれの革命軍にも参加したので、そう推測するのもあながち無理ではなかった。

 2つの軍事組織は名称は同じでも、指導理念と使命は異なっていた。

 国民府の朝鮮革命軍は、国民府の内部矛盾をそのまま反映して、実地の活動過程で対立と紛争がたえず、その名称や幹部の顔ぶれが3日にあげず変わるので、事実上、実体をつかみようがなかった。

 われわれの朝鮮革命軍は、共産主義の理念によって導かれ、大衆政治活動や軍事活動をともにおこなう政治・半軍事組織であった。

 われわれは朝鮮革命軍の結成にあたり、名称問題について論議を重ねた。朝鮮で共産主義者が組織する最初の武装力であったので、名称も斬新でなければならないと、みんなが熱心に発言し、いろいろな案が出された。

 わたしは国民府がつくった朝鮮革命軍の名称をそのまま使って、われわれの軍隊の名を朝鮮革命軍とすべきだと彼らを説いた。「トゥ・ドゥ」の結成にあたっても、民族主義者を刺激しないように、共産主義の匂いのしない打倒帝国主義同盟と呼称したように、われわれの軍隊も朝鮮革命軍のベールをかぶれば民族主義者の感情もそこねず、活動にも便利だといった。

 実際、朝鮮革命軍のベールをかぶったおかげで、その後われわれの軍隊は活動上の利点が多かった。

 朝鮮革命軍は組織後、多くのグループに編成されて、各地に派遣された。国内にもいくつかのグループが進出した。

 われわれが革命軍のグループを朝鮮に派遣したのは、武装闘争の大衆的基盤をきずき、国内の革命闘争をもりあげるためでもあったが、国内における武装闘争の可能性を検討するためでもあった。

 われわれは朝鮮革命軍の結成式に参加できなかった人のうち、李済宇、孔栄、朴振栄を中心にして国内工作グループを一つ編成し、彼らにシンガルパから狼林(ランリム)山脈を伝って平安北道一帯に進出し、広範な大衆のあいだで革命組織を結成する任務を与えることにし、そのグループの責任者として李済宇を任命した。

 われわれは1928年にすでに、撫松周辺と内島山一帯で活動していた彼らにたいし、朝鮮人が多く住んでいる長白地区に活動根拠地を移すよう指示した。それで、李済宇は長白県一帯で大衆を組織に結集し、国内深くにまで入って大衆を意識化する活動をおこなった。

 われわれは亨権叔父を責任者とし、崔孝一、朴且石などを隊員とするいま一つの工作グループを国内に派遣することにした。このグループには、長白から鴨緑江を渡り、豊山、端川、咸興をへて平壌付近まで進出する任務が与えられた。

 朴且石がこのグループに加わったのは、亨権叔父と親交を結んでいたからである。朴且石は、吉林市周辺の農村で教員をしながら地下活動に従事し、1928年の冬に桂永春、高一鳳(コイルボン)らとともに撫松一帯で革命組織の結成に努めた。そのさい、どういういきさつがあったのか、朴且石と亨権叔父は無二の親友となった。叔父が国内に派遣されるということを知った朴且石は、自分も同行したいと願い出た。われわれは彼の気持を察して、その申し出を快諾した。

 朝鮮革命軍隊員は、それぞれの活動区域で大胆に活動した。

 四平街と公主嶺一帯を活動区域にしていた朝鮮革命軍に玄大洪(ヒョンデホン)という隊員がいた。彼は四平街で大衆工作中逮捕され、長春に押送されたが、逮捕される寸前に敵の目を盗んで、体に隠していた武器を同志に引き渡した。

 警察では、武器の隠し場所をいえと残忍な拷問が加えられた。

 玄大洪は、ある鉄道駅の名をあげ、その駅の近くのドロノキの下に埋めたと「自供」した。脱走の機会を得ようとしたのである。それにのせられた警官は、玄大洪を汽車に乗せ、拳銃を埋めたという現場へ向かった。

 その途中、玄大洪は手錠を振るって2人の護送警官を殴り倒し、疾走する汽車から飛び降りて、革命組織のある卡倫まで這って帰ってきた。卡倫の同志たちは、やすりを使って彼の手錠をはずした。

 彼はこうした試練をなめながらも、健康が回復すると再び公主嶺で活動し、今度は日本警察に逮捕された。公主嶺は、日帝が中国から奪い取った租借地で、日本人が管轄していた。玄大洪は法廷でも屈することなくたたかった。彼は無期懲役刑を言い渡され、ソウル西大門刑務所で苦役の末、日帝の野蛮な拷問がたたって死んだ。

 李済宇のグループは、1930年代に入ってメンバーが数十人に増えた。彼らの努力によって長白には反日組織があいついで結成された。各村に学校と夜学が設けられ、弁論大会、演芸公演、運動会などがしばしば催されて村人たちを革命的情熱でわきたたせた。

 こうしたとき日帝は、馬賊団を装った武装団を送って、朝鮮人村落を略奪する謀略劇を演出し、李済宇のグループをおびきだそうとした。しかし、われわれが馬賊団には注意するようにと警告しておいたので、彼らは敵の欺瞞策にのらなかった。そこでは、ちょっとした紛争が起きて若于の負傷者が出ただけで、事件は全面的な戦闘に拡大しなかった。

 その後、李済宇の武装グループは、日帝の馬賊団と結託した反動軍閥軍隊の不意討ちにあって大きな被害をこうむった。朴振栄は戦闘で壮烈な最期を遂げ、李済宇は不幸にも逮捕された。

 李済宇は死をもって恥辱をすすごうと、手足が縛られた状態で包丁を喉に刺したが死ねなかった。現場で日本の警察に引き渡され、ソウルに押送された彼は死刑を宣告され、間もなく獄中で死んだ。孔栄は、満州地方の反日運動家を誘導、拉致しようとして日帝がおとりに使った偽共産主義者に接近して統一戦線工作をおこない、殺害された。

 わたしが、孔栄、李済宇、朴振栄らの悲劇的な最期を知ったのは、端川農民の大衆的暴動があった直後のことであった。連絡員からその話を聞いたわたしは、しばらく気持を静めることができなかった。なによりも親不孝の罪を犯したようで頭が上げられなかった。

 彼らはみな、父がもっとも目をかけていた独立軍隊員で、民族主義運動から共産主義運動への方向転換を真っ先に実践した人たちだった。

 わたしが、李済宇、孔栄、朴振栄の悲劇的な最期にそれほどまで心を痛めたのは、卡倫会議の決議を実行する強力な国内工作グループの一つがなくなったためでもあったが、父の遺志を貫くためにたたかう方向転換の先駆者たちを失ったくやしさのためだった。

 孔栄と朴振栄は、父が死去したとき柩輿の先棒をかついだ人たちだった。彼らは母に、喪服は自分たちが着るからわたしには着せないようにといった。14歳のわたしが喪服を着れば、痛ましくて見るにしのびなかったのだろう。そのときから、彼らは3年ものあいだ麻の冠に喪服を着てすごした。

 そのころ、独立軍訓練所は、撫松市街から少し離れた万里河にあった。孔栄は週に1、2度、背負子で柴を運んできては母を見舞ったものだった。彼の妻もタラの芽やミツバヒカゲゼリなどの山莱を持って、しばしばわたしの家を訪れた。ときには孔栄が米をかついでくることもあったが、そうした心づくしがわが家の貧しい暮らしをかなりおぎなった。

 母も彼らとは、弟のようにうちとけて付き合った。ときには姉のように彼らの過ちをきびしくさとすこともあった。

 孔栄が独立運動のため満州に渡ったあと、彼の妻は碧潼(ピョクトン)で一人で暮らしていたが、やがて夫を慕って撫松にやってきた。孔栄は、すいとんを煮ていて火傷を負った妻の顔を見ると、それが醜いからと、別れるといいだした。母は立腹して、彼を叱った。

 「なんということをいうのです。夫を慕ってはるばる訪ねてきた奥さんを金の座布団に座らせられないまでも、別れるなんて、あなたはそんな人でなしだったの」

 孔栄は、わたしの母のいうことはなんでもよく聞いた。その日も彼は母に頭を下げて、自分が悪かったと謝った。

 わたしが国内に進出した亨権叔父の武装グループの活動状況をはじめて知ったのは、新聞を通してであった。ハルビンだったか、どこだったか定かでないが、同志たちが興奮して持ってきた新聞を見ると、豊山にあらわれた4人の武装団が巡査部長を射殺し、北青から来た自動車を乗っ取って厚峙嶺(フチリョン)の方に姿を隠したという記事があった。

 新聞を持ってきた同志は、国内で銃声が上がったのが痛快でならないと喜んでいたが、わたしはその銃声のためにかえって不安に駆られた。どうして、国内進出のしょっぱなともいえる豊山で銃声を上げたのだろうか?

 わたしはそのとき、叔父の激情に駆られやすい性分を思い出した。なぜかわたしは、叔父がその激情をおさえられず、銃声を上げたのではなかろうかと思った。

 叔父は小さいときから、いったんこうと思ったら、なにがなんでもやりとおさずにはおかない、男らしい気質を持っていた。

 亨権叔父といえば、わたしは真っ先にひき割り粥の出来事を思い出す。わたしが万景台にいたころだから、叔父が11か12のときである。

 わたしの家では毎晩モロコシのひき割り粥をすすっていた。それは、モロコシを殼ごとひき臼でひいたのを炊いたもので、おいしくもなかったが、それよりも、飲みこむたびにモロコシの殻が喉をちくりちくり刺激するので、とても食べづらかった。わたしもひき割り粥は大嫌いだった。

 ある日、お膳の前に座った亨権叔父が、祖母の持ってきた熱いひき割り粥のどんぶりを頭ではねとばしてしまった。なんとも勢いよくはねとばしたので、どんぶりは土間に転がり、叔父の額からは血が流れた。まだ物心がつかないころのことで、粥をすすって空腹をしのぐ貧しい暮らしに腹を立てて、どんぶりに腹いせをしたのだった。

 祖母は「食べ物のことでとやかくいうのをみると、行く末が思いやられる」といって叔父を叱ったが、目には涙がにじんでいた。

 亨権叔父は物心がつくと、額の傷を気にするようになり、中国に来てわたしの家にいたときは、前髪をたらして傷を隠していた。

 亨権叔父が中国に来たのは、わたしたちが臨江にいるときだった。父が叔父を家に引き取ったのは、勉強をさせるためである。父が教育者だったので、叔父はわたしの家にいれば、学校に通わなくても中学の課程は学ぶことができた。父は、ゆくゆく叔父を革命家に育てるつもりだった。

 父が生きていたあいだ、亨権叔父は父の薫陶でかなり堅実に成長した。

 しかし、父が死去すると自制心を失い、気まかせにふるまいはじめた。頭で引き割り粥のどんぶりを割った小さいころの習癖がよみがえって、みなを唖然とさせた。亨権叔父は父が死去してからは家にじっとしていようとせず、臨江、瀋陽、大連などをさまよい歩いた。

 わたしの家の内情を多少知っている人は、叔父が故郷に帰って両親が決めた女性と婚約をしたが、許嫁が気に入らなくて、ああして落ち着かないのだろう、といった。

 もちろん、それも原因かも知れない。しかし、叔父が落ち着きをなくした主な原因は、父の死去からうけた絶望と悲憤をぬぐい去ることができなかったからである。

 わたしが華成義塾を中退して家に帰ってみると、叔父は依然として酔漢かなにかのような乱れた生活をしていた。わたしの家の暮らしは、母が洗濯や裁縫の賃仕事をして稼ぐわずかな収入に頼っていたので、たいへん苦しかった。そんな暮らし向きを見るにしのびなかったのか、李寛麟もいくらかの金と米を持ってきて母の手助けをしていた。叔父は、亡くなった父に代わって家長の役目を果たすべき立場にあった。家で叔父のやれる仕事がないかというと、そうでもなかった。家には父が残した薬局があった。そこには多くはないが、うまくやりくりすれば暮らしの足しにできる薬剤もあった。しかし、叔父は薬局を見向きもしなかった。

 正直にいって、わたしは叔父のやることがじれったかった。それである日、わたしは家に閉じこもって叔父に長文の手紙を書いた。もっとも正義感が強いといわれる中学時代なので、道理に反することには目上の人でも我慢ができなかった。わたしは、その手紙を叔父の枕の下に置いて吉林へ発った。

 母は、わたしが手紙で叔父に意見をするのが気に入らなかった。

 「いまは叔父さんが気持が落ち着かなくて家にいつかないけれど、そのうちよくなるよ。いくらなんでも本元を忘れるものかね。思う存分出歩いて、嫌気がさしたら家に帰ってくるよ。だから意見なんかすることはない。甥が叔父をいましめるなんてことはするんじゃないよ」

 母は、こうわたしをさとした。母らしい考えだった。それでも、わたしは手紙を書き残した。

 1年後、吉林毓文中学校に通っていたわたしが学期末休みに撫松へ帰ってきてみると、驚いたことに亨権叔父は家に落ち着いていた。母の予言が当たったのである。叔父はわたしの置き手紙については一言も口にしなかったが、その手紙が叔父にかなり刺激を与えたことは確かだった。

 その年の冬、叔父は白山青年同盟に加入した。

 わたしが撫松を発ったあと、叔父は白山青年同盟を拡大する活動にうちこんだ。翌年は同志の保証で共青にも加入した。こうして、叔父は革命隊伍に加わり、1928年からは共青の指示で、撫松、長白、臨江、安図地方の白山青年同盟の活動を指導した。

 新聞を見た近所の人たちから、豊山で日本人巡査部長を射殺した事件を聞いて、万景台のわたしの生家でも亨権叔父が逮捕されたことを知った。

 祖父は「亨稷がそんなことをしていたのに、今度は亨権も日本人を撃ち殺したんだな。先のことはどうなるか知れないが、とにかくあっぱれなことじゃ」といった。

 後日、わたしは豊山で国内工作グループが展開した活動の全貌を知った。

 鴨緑江を渡ったグループは端川方面に進出する途中、1930年8月14日、豊山郡把撥里(パバルリ)付近にある黄水院(ファンスウォン)のクロマメノキの茂みのなかでしばらく休んでいた。そこへたまたま自転車に乗って通りかかった「クマンバチ」巡査部長(本名は松山)が一行に不審の目を向けた。彼は1919年に豊山地方に転任して以来、朝鮮人の一挙一動をきびしく取り締まっている悪質警官だった。地元の人たちは彼に「クマンバチ」というあだ名をつけ、彼をひどく恨んでいた。

 「クマンバチ」は、工作グループが駐在所の前を通りかかったとき、一行を駐在所のなかへ呼び入れた。

 亨権叔父は駐在所に足を踏み入れたとたん、すばやく彼を撃ち倒した。そして、公然と人びとの前で反日演説をした。その日、数十人の人たちがその演説を聞いた。非転向長期囚として世界に広く知られた前人民軍従軍記者李仁模(リインモ)もそのとき、把撥里でその演説を聞いたという。

 工作グループは敵の追撃をうけながらも、農民暴動の炎が燃え上がった地域に接近しようと試みた。

 当時、われわれは端川農民暴動をきわめて重視していた。暴動が起きた地域には必ず大衆運動の指導者がいるものであり、政治的、思想的に目覚めた積極的な革命的大衆の組織された大部隊が存在するものである。

 敵は暴動地域で主謀者を探し出そうと血眼になっていたが、われわれは暴動大衆のなかにいる汪清の呉仲和(オジュンファ)、竜井の金俊、穏城の全長元(チョンジャンウォン)のような中核分子を探し出そうと努めた。彼らのような中核分子と連係を保って影響を与えるならば、国内の革命闘争をもりあげる基盤をきずくことができる。端川地区の開拓に成功すれば、その地方をへて城津、吉州、清津方面にも手を伸ばし、咸興、興南、元山をへて平壌にも進出することができるはずであった。

 われわれが亨権叔父の国内工作グループに、端川農民暴動の主人公を訪ねあてる任務を与えたのもそのためだった。

 把撥里で銃声を上げたあと、そこを発った武装グループは、峰五洞(ポンオドン)のはずれで豊山警察署の司法主任が乗った乗合タクシーを抑留し、彼の武装を解除したあと、主任とその他の乗客に反日宣伝をした。ついで、利原郡文仰里(ムンアンリ)一帯に進出して、培徳谷(ペドクコル)と大岩谷(テバウィコル)など各地点で炭焼き労働者を相手に政治工作をおこなった。困難な状況にもかかわらず、つねに彼らは積極的に行動した。

 武装グループはその後、北青方面に進出する途中、2組に分かれて行動した。亨権叔父と鄭雄(チョンウン)が1組になり、崔孝一と朴且石が他の1組になった。2つの組は洪原邑で落ち合うことにし、それぞれ別の方向に向かった。

 9月の初め、亨権叔父は、鄭雄とともに敵の捜索隊がたむろしている北青郡大徳山の広済寺(クァンジェサ)を襲撃したあと、洪原、景浦(キョンボ)の方向に進出したが、節婦岩(チョルブアム)付近で敵と遭遇し、前津警察官駐在所の所長を射殺した。

 叔父は、その日のうちに洪原邑に入って集結場所の崔辰庸(チェジンヨン)の家を訪ねた。

 崔辰庸といえば、亨権叔父ばかりでなく、わたしもよく知っている独立軍関係者だった。彼は撫松で安松総管所の総管をしていたとき、わたしの家にもたびたび出入りした。

 朝鮮で面長を勤めていた彼は、金を横領して発覚し、人びとの指弾をうけると、夜逃げして東北に渡り、正義府に加わった。一時彼は、わたしの家で何か月も居候をした。ところが日帝が満州を侵攻する気配を見せると、もう年をとって独立軍の仕事をするのが力に余るといいだして、撫松を発った。小さな果樹園でも手に入れて清く余生を送りたいといって洪原に行った彼は、そこですぐ日帝の密偵になりさがった。

 亨権叔父が、それを知るはずはなかった。崔辰庸は敵の警戒がきびしいからと、叔父に庭の片隅に隠れているようにといって警察署に駆けつけ、満州の武装団が自分の家に来ていると密告した。

 叔父が警察署に連行されていくと、一足先に崔孝一も捕えられていた。崔孝一を密告したのも崔辰庸だった。

 そのときはじめて、叔父は崔辰庸が日帝の手先であることに気づいた。彼の裏切りはあまりにも突然で思いがけないことだった。数か月のあいだ、日に3度あたたかいご飯に酒までそえてもてなしてくれた、成柱のお母さんの恩は死んでも忘れないと口癖のようにいっていた男が、汚らわしい背信行為をするとは誰が想像できたであろうか。わたしも彼が叔父を密告したと聞いたとき、耳を疑ったほどだった。

 それで、わたしはいまも、人を信じるのはよいが、幻想をいだいてはいけないといっている。幻想は非科学的であるので、それにとらわれると、千里眼を誇る人でもとりかえしのつかない失策をしかねないのである。

 日帝の包囲網から抜け出したのは鄭雄だけだった。彼はグループが国内に向かうさい、叔父の道案内をつとめた。彼の郷里は利原で、東海岸一帯の地理に通じていた。しかし彼もその後、春川(チュンチョン)で、密偵のために逮捕された。

 亨権叔父は、しばらく洪原警察署に留置されたあと、咸興監獄に押送され、そこでまた中世的な拷問をうけた。

 わたしは、咸興地方法院における法廷闘争の消息を人づてに聞いた。

 亨権叔父は、法廷で日帝の罪状をするどくあばき、武装した強盗とは武装して戦わなければならない、と大声で叫んだという。

 いかにして叔父は、法廷でこのように毅然たる態度をとることができたのだろうか。それは、叔父が革命を信念とし、それに忠実であったからだと思う。叔父にとって死よりも恐ろしいものがあったとすれば、それは人間に正義感と勇気を与え、人間をこの世でもっとも尊厳のある存在にさせる信念を裏切ることであったろう。

 裁判で、崔孝一は死刑を言い渡され、叔父には15年の懲役刑が宣告されたという。

 叔父と戦友たちは、法廷で革命歌を力強くうたい、スローガンを叫んだ。

 彼らは、法廷闘争をつづけるためにソウル覆審法院に控訴した。咸興法院で驚かされた日帝は、ソウルではいっさい傍聴を禁じ、非公開裁判で咸興地方法院の判決を確定した。

 崔孝一の絞首刑は、判決の数日後に執行された。崔孝一は、しっかりたたかってくれと言い残し、泰然として刑場に向かった。

 亨権叔父は、主に10年以上の長期囚を収監するソウルの麻浦(マポ)刑務所に投獄された。そこでも叔父はたたかいつづけた。敵が重刑に服している「政治犯」を転向させようとしたとき、叔父は大勢の囚人の前で、思想転向に反対する熱弁をふるって彼らを感動させた。そして、囚人の待遇改善闘争の先頭に立って断固とたたかった。それらの事実はすでに世に広く知られていると思う。

 戦争の準備を急ぐ日帝は、弾丸箱をつくる作業に囚人を狩り出した。囚人は7等食をあてがわれて、殺人的な労働を強いられた。

 憤激した亨権叔父は、10月革命記念日を契機に刑吏の殺人的な強制労働に反対する獄内工場囚人のストライキを指導した。これには多数の囚人が参加した。

 日帝は、叔父の影響を防ごうと暗い独房に移し、手かせ、足かせをして、少しでも動けばそれが体に食いこむようにした。そして、大豆を入れた子どものこぶし大の握り飯を日に1度しか与えなかった。

 そんな苦しみのなかでも叔父が闘争をつづけたので、監獄当局は金亨権が麻浦刑務所を赤化すると憂えたほどである。

 ある日、獄内工場で働いていた朴且石が、われわれが満州各地で武装闘争を活発にくりひろげているという消息を聞いて、それを亨権叔父に伝えた。

 叔父はそれを聞いて入獄後はじめて涙を流し、朴且石の手を取って喉をつまらせながらこういったという。

 「わたしはいくらも体がもちそうにない。生き残った同志たちが最後までたたかってくれ。満期に生きて出獄できたら、万景台の母を訪ねてわたしのことを話してくれ。…成柱に会ったらわたしの消息を伝えて、最期の瞬間まで屈せずにたたかったといってくれ。これが最後のお願いだ」

 叔父がすっかり衰弱して、起き上がることもできなくなったときのことである。

 叔父が重態に陥ったので、刑務所では万景台に面会許可の通知を出した。

 亨禄(ヒョンロク)叔父は40円の金を工面して親戚の鳳周(ポンジュ)と一緒にソウルに行き、亨権叔父と最後の面会をした。

 「刑務所に行くと、病監に案内された。ほかの囚人はみな座っていたが、亨権は骨と皮ばかりの体を横たえていた。あのときはまったく胸がしめつけられた。…わたしを見てもすぐには声が出せず、口をもぐもぐさせるだけだった。あまりにもむごたらしくて、それが弟だとはとても信じられなかった。そんな弟がかえってわたしに笑ってみせて、『兄さん、わたしは志をとげずに逝くが、日帝は必ず滅びます』といったときは、さすがにうちの亨権だと思った」

 これは、わたしが祖国に凱旋して生家を訪れたとき、亨禄叔父から聞いた話である。わたしはその回顧談を聞いて、亨権叔父をしのび涙を流した。そして以前、手紙で叔父に意見したことがくやまれた。

 弟の悲惨な姿を見て、気を失わんばかりになった亨禄叔父は看守に頼んだ。

 「わたしの弟の亨権を家で治療させたいから、出してください」

 しかし看守は、「だめだ。貴様の弟は生きても監獄で生き、死んでもここで死んで監獄の亡霊になるほかないのだ。家に連れていくことはならん」といった。

 「じゃ、わたしが弟の身代わりに監獄に入ります。弟を家で養生させて、よくなったらまた来ればいいじゃありませんか」

 「こら、懲役の身代わりだなんて法がどこにある」

 「法はあんたらがつくるのだから、その気になったらやれんことはないでしょう。頼むからそうさせてください」

 「こら、ふざけたことをいうな。弟が悪党だと思ったのに、兄も悪党だな。おまえの一族はみな悪党だ。とっとと出てゆけ」

 看守はこう怒鳴って亨禄叔父を監獄から追い出した。

 亨禄叔父は考えあぐねて看守に16円を差し出し、「うちの亨権をよく見てやってください」と頼んで、万景台に帰った。それくらいの金で刑吏の心を動かせるはずがなかったが、叔父には金がそれしかなかったのである。

 監獄から帰った叔父は、1か月のあいだ眠ることができなかった。目をつぶれば弟の姿が瞼に浮かんで、どうしても眠れなかったという。

 3か月後に亨権叔父は獄死した。1936年初のことだから、わたしが第2次北満州遠征を終え、部隊が南湖頭地方へ向かっているころだった。そのとき、叔父は30歳だった。

 父も母も亡くなり、弟も叔父も亡くなったのだから、革命に身をささげてたたかったわたしの肉親はみな亡くなったことになる。わたしは、山で叔父が死亡した消息を聞き、わたしは死なずに生き残り、亡国の恨みをのんで故国の名も知らぬ丘で無縁仏となった叔父の仇を討ち、国を取りもどさずにはおかないと誓った。

 死亡通知は届いたが、旅費の工面がつかずに引き取れなかった叔父の遺体が、麻浦刑務所の共同墓地に葬られた胸の痛む話はすでにふれた。

 亨権叔父はいまわのきわに、囚人たちにこう打ち明けた。

 「金日成は、わたしの甥だ。甥はいま満州で大きな革命部隊を率いて日帝を討っている。その部隊が国内に進撃する日は遠くない。彼らを迎えるために武器を取って戦うのだ。武器を取って戦わずには、日帝を追い出して国を解放することができない」

 わたしは亨権叔父を回想するたびに、卡倫会議の決定を実行するために惜しみなく青春をささげた数多くの戦友の姿が瞼に浮かんでくる。

 亨権叔父には英実という一人娘がいて、解放後、万景台革命学院に通った。わたしは、その子をりっぱに育てて父の後をつがせたいと思った。ところがその子も朝鮮戦争のとき、爆撃で死んでしまった。

 朝鮮革命の行軍路を血潮をもって切り開いた朝鮮革命軍隊員は、じつに偉大かつ崇高な業績をつみあげた。

 彼らの英雄的な闘争経験と教訓を踏まえた朝鮮人民革命軍は、彼らの流した貴い血によって常備の革命武力として誕生したのである。



 


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