金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 最初の党組織――建設同志社


 卡倫会議が閉会した翌日の1930年7月3日に、われわれが新しい型の党組織を創立したことは、数年前に公開され、その会合でおこなったわたしの演説もすでに発表されている。

 党が革命において参謀部の役割を果たし、党の役割によって革命の成否が左右されるということは周知の事実である。革命が歴史の機関車だとすれば、党は革命の機関車だといえる。そのため革命家は、党を重視し、党の建設に心血を傾けるのである。

 マルクスは科学的共産主義理論を創始したあと、実践闘争の手初めとして共産主義者同盟を創立し、『共産党宣言』を発表した。それが彼の活動における最大の功績として今日までたたえられているのは、世界を改造する共産主義者の闘争において党の使命と役割がそれだけ重要な意義を有するからである。国際共産主義運動と労働運動にあらわれたさまざまな日和見主義や改良主義も、結局は党にたいする誤った見解と立場に起因するものといえる。

 共産主義が新たな時代的思潮として労働運動の舞台に登場して以来、共産主義者が地球上でなし遂げたあらゆる世紀的変革は、いずれも党という神聖な名と結びついている。

 われわれは卡倫会議が示した課題を実現するためにまず、党組織をつくる活動に取り組んだ。

 わたしが新しい型の党を創立する決心をし、その方途を全面的に模索しはじめたのは、朝鮮共産党がコミンテルンから除名されたという知らせを聞いたあとからである。

 わが国で共産党が組織されたのは1925年4月であった。各国で労働者階級の利益を代弁する政党があいついで出現し、大衆を導くのは世界的趨勢となっていた。そうした趨勢に合わせ、政治活動の自由と権利の不毛の地であったわが国で共産主義政党が創立されたことは、朝鮮人が新しい思潮と時代の趨勢に敏感で豊かな政治的感受性をもっていることを示した。

 朝鮮共産党の創立は、朝鮮の労働運動と民族解放運動の発展における必然的な帰結であり、合法則的な所産であった。

 朝鮮共産党は創立後、労働者、農民をはじめ、広範な大衆のあいだに社会主義思想を普及し、労働運動を指導して、わが国の民族解放闘争が共産主義者によって指導される新たなぺージを開いた。朝鮮の共産主義者は朝鮮共産党が存在したあいだに、6.10万歳示威闘争のような大規模の闘争を指導して民族の気概を誇示したし、民族主義者と合作し新幹会のような大衆団体を結成して、反日愛国勢力の結集にも寄与した。

 朝鮮共産党が創立され、その指導のもとに労働運動や農民運動をはじめ、各階層の大衆運動が展開されたことは、わが国共産主義運動の始原を開いた一つの歴史的な出来事であり、民族解放運動の発展をある程度促した。

 しかし朝鮮共産党は、日帝の過酷な弾圧と上層人物の派閥争いによって、1928年に組織された勢力としての存在を終えた。コミンテルンは1928年夏の第6回大会で、朝鮮共産党の承認を取り消した。これは事実上、朝鮮共産党がコミンテルンから除名されたことを意味した。

 もちろん、われわれは朝鮮共産党が存在していたときにも、派閥争いをこととする上層部にたいしては好感をもつことができなかった。しかし、その党すらコミンテルンから除名されたと聞いて残念な思いをし、恥ずかしくもあった。われわれはコミンテルンの処置を遺憾に思った。そのとき、わたしは、年も若く共産主義運動の経験も乏しかったが、われわれ自身が主人となって新しい型の党を創立するたたかいに積極的に取り組まなければならないと思った。

 純潔で清新な新しい型の党を創立するには、さまざまな障害をのりこえなければならなかった。

 最大の難点は、共産主義隊列内にセクト主義が依然として残っていることだった。セクト主義が清算されなかったため、初期共産主義者は党再建運動を統一的に進めることができず、いくつにも分裂して各派閥が別々におこなった。

 朝鮮共産党がコミンテルンから除名処分をうけたあと、わが国の共産主義者は内外で党再建運動を積極的にくりひろげた。しかし、日帝の容赦ない弾圧と妨害策動によって、どの派閥も再建に成功しなかった。火曜派とM・L派が再建運動を放棄して満州地方に組織した総局の解体を宣言したあと、ソウル・上海派が国内で再建運動に乗り出したが、それも発覚して、多くの党員が投獄され、挫折した。

 そこでわれわれは、解散した党の再建をはかったり、派閥争いの悪癖に染まった既成世代に頼ったりしては、革命的な党はつくれないと考えるようになった。

 党創建におけるいま一つの難関は、コミンテルンが1国1党制の原則を定めたことによって、朝鮮の共産主義者が満州地方で独自の党を創建することが不可能になったことである。

 コミンテルンは第6回大会で採択した規約の総則で、コミンテルン所属の個々の党は当該国の共産党(コミンテルン支部)の名称を持ち、個々の国では一つの共産党だけがコミンテルンの支部になれるという1国1党制の原則を規定した。

 コミンテルン東洋宣伝部は、1930年5月、ハバロフスクで朝中共産党代表会議を招集し、朝鮮共産党組織問題にかんするコミンテルンの決議を通告した。コミンテルンはその決議で、在満朝鮮人共産主義者に中国の党に入党して中国の党員として活動する任務を提起した。

 こうして、再建運動に熱を上げていた多くの共産主義者は解体声明を発表し、中国の党に入りはじめた。そのあおりで5.30暴動の炎が東満州に燃え広がったのである。

 朝鮮の党員が中国の党に入って活動するのは、民族的自負のとりわけ強い新しい世代の青年共産主義者にとって深刻な問題であった。この原則をめぐって、同志たちは熱論をたたかわせた。コミンテルンの指令を無責任な処置、納得できない決議だと非難する青年、その措置を公明正大なものと評価する青年、コミンテルンが朝鮮共産主義者に中国の党への入党を要求するのは、党再建の可能性を永遠に排除するものだとうっぷんを吐露する青年などさまざまだった。

 同志たちは、この問題にたいするわたしの立場を知りたがっていた。

 わたしは、コミンテルンが1国1党制の原則にのっとって朝鮮共産主義者の中国党への入党を求めたのは、非難されるべき処置ではなく、その要求が朝鮮共産主義者から党再建の可能性を奪うものでもない、と指摘した。

 「現状では、コミンテルンの要求はある程度やむをえない。朝鮮共産主義者に独自の政党があれば、なんのために間借り住まいを要求するだろうか。だから、コミンテルンの決議は尊重すべきだ。それが国際主義的立場だ。中国党員の帽子をかぶっても朝鮮を忘れず、朝鮮革命のためにたたかえばよい。しかし、コミンテルンの指示に従うからということで、独自の党建設を断念し、いつまでも間借り住まいをしているわけにはいかない。朝鮮人は、朝鮮人の党を持たなければならないのだ」

 これが、党籍を移す問題についてのわたしの見解であり、立場であった。

 しかし、その見解が1国1党制の原則にたいするコミンテルンの解釈と一致すると断言することはできなかった。

 わたしは1国1党制の原則にたいする理解を深め、党建設方針をすみやかに確定するために、1930年6月下旬、賈家屯でコミンテルンの連絡員金光烈(キムグァンリョル=金烈・キムリョル)に会った。彼は、日本で早稲田大学を卒業し、ソ連に行っていたインテリで、われわれの活動区域の孤楡樹、五家子、卡倫地方にたびたび滞在した。彼は連絡員の肩書きで、われわれとコミンテルンとの連係をつけようと努力した。彼はソ連で社会主義をいろいろと体験してきた人だ、と張小峰と李鍾洛(リジョンラク)が賛辞を惜しまなかったので、わたしも期待をかけて彼に会った。うわさにたがわず、彼は広い知識の持ち主だった。彼はロシア語と日本語に堪能で、ロシアの踊りも本国人なみに上手に踊り、しかも雄弁家だった。金光烈はわたしに、自分の個人的見解を聞くよりはコミンテルンへ行ってみたほうがよい、コミンテルンのハルビン連絡所に紹介するから、そこで1国1党制の原則問題を討議するようにと勧めた。

 金光烈に会ったあと、わたしは同志たちと1国1党制の原則についての議論をつづけた。

 わたしは、1国1党制の原則を、1国から2つ、またはそれ以上の共産党がコミンテルンに加入することはできない、ただ一つだけの共産党が加入できる、1国には1つ以上の共産党中央が存在することができない、ただ一つの共産党中央だけが存在しうる、ということだと解釈した。

 この原則の本質は、1国に同一の利害と目的をもつ党中央が一つ以上あってはならないということであった。

 コミンテルンが1国1党制の原則を示し、それを厳格に履行するよう要求したのは、国際共産主義運動からセクト主義をはじめとするあらゆる日和見主義を一掃し、隊伍の統一団結を保障するところに重要な目的があった。コミンテルンは、国際共産主義運動の歴史的教訓に照らして、1国1党制の原則をうちだし、さまざまな異端的要素が共産主義運動内に浸透しないようきびしく警戒したのである。

 コミンテルンが1国1党制の原則を示したのはまた、敵が共産主義隊列を内部から切り崩そうと悪辣に策動していたからだった。

 しかし、コミンテルンの規約は1国1党制の原則を示しただけで、外国で共産主義運動をおこなう人が居住国の党に籍を移す手続きや、その後の彼らの革命任務を設定する問題についてはふれていなかった。満州地方で活動している朝鮮共産主義者が中国の党に入る問題が、非常に複雑な論議を引き起こしたのもそのためであった。一部の人は、朝鮮の共産主義者が中国で自分の党組織を建設するのは1国1党制の原則に矛盾するとさえ判断したのである。

 コミンテルンの1国1党制の原則にたいするさまざまな解釈によって、祖国の解放をめざす朝鮮の共産主義者の活動には大きな混乱と動揺が生じ、朝鮮の革命家が祖国のためにたたかう権利さえ疑問視された時期に、わたしは党創立の方途を根気よく模索していた。

 コミンテルンの指示にもかない、朝鮮革命を力強くおし進めることもできる道ははたしてないのだろうか?

 このような模索の末にわたしが見いだした活路は、先行した共産主義運動の教訓を踏まえて性急に党中央を宣布する方法ではなく、党創立の組織的・思想的基盤を着実にかためたうえで、名実ともに朝鮮革命の参謀部の役割が遂行できる党を創立しようというものであった。階級的に目覚め準備のできた組織的根幹の育成と、隊伍の思想・意志の統一、党が依拠する大衆的基盤の構築なしに主観的欲望だけでは党の創立はおぼつかなかった。

 わたしは、分派とかかわりのない新しい世代の共産主義者を根幹にして基礎党組織を先につくり、それを拡大強化する方法で党を創立するのが、われわれにとってもっとも適切で現実的な党創立方法であると考えた。そうした方法で党を創立するならば、コミンテルンも歓迎するに違いないと確信した。

 わたしは、それまでわれわれが育成した新しい世代の青年共産主義者で党組織を先につくり、その役割をたえず高めながら、われわれの足がおよぶすべてのところで基礎党組織を拡大強化していくならば、共産主義運動と民族解放闘争にたいする指導を十分に保障し、われわれに課された国際的任務を円滑に遂行しうると考えた。

 中国領内でわれわれの党中央を別個に組織し、中国の党と併存するようなことをしないならば、コミンテルンの1国1党制の原則にも矛盾することはないはずだった。

 わたしはこうした考えを定立し、卡倫会議で党創立方針を提示した。こうして、最初の党組織を結成する運びとなったのである。

 革命的党組織の結成は、朝鮮革命発展の必然的な要請でもあった。朝鮮に党がなかったので、端川(タンチョン)農民暴動の指導者たちは、暴動の戦術的問題にかんする意見を聞くために、わざわざコミンテルンを訪ねていかなければならなかった。朝鮮に労働者、農民の利益を代表する革命的党があり、洗練された指導勢力があったとすれば、彼らは旅費を使いながらコミンテルンまで訪ねていかなかったであろう。

 1930年代の初期、わが国の民族解放運動は、その幅と深さにおいて従来の反日闘争とはくらべようもなく高い水準に達していた。

 われわれの闘争も初期にくらべてはるかに前進した。活動範囲は、吉林の域を抜け出して遠く東満州と北部朝鮮一帯まで拡大した。青年学生運動にとどまっていたわれわれの革命闘争は、地下活動の様相をおびて広範な労働者、農民大衆のあいだに広がっていった。経験が積まれ、軍事的・政治的準備が十分にととのうようになれば、常備の革命軍隊を組織し、大部隊の兵力で本格的な遊撃戦をおこなわなければならないが、共青がその指導のすべてを担当することはできなかった。それまで共青が各大衆団体の指導にあたったのは過渡的な現象であって恒久的なものではなかった。

 いまや党を組織し、その党が共青をはじめ、各大衆団体を掌握、指導し、全般的民族解放運動を指導しながら中国の党およびコミンテルンとの連係を保たなければならなかった。共青の名義ではコミンテルンとの交渉を円滑におこなうことができなかった。

 初期の共産主義者がてんでに自派を「正統派」と称し承認をとりつけようと働きかけたので、コミンテルンは判断に苦しんだ。コミンテルンは、朝鮮で分派が清算されなければ労働者階級の真の前衛が出現することは望めず、分派を根絶して新しい党を創立するには、派閥争いに無縁で権力欲のない新しい世代が進出しなければならないということをしだいに認識しはじめた。こうして、彼らはわれわれの闘争に注目し、われわれと連係を結ぼうと各方面から手づるを求めてきた。

 われわれは多年間の革命活動の過程を通じて、新しい型の革命的党組織を結成する礎石をきずいた。

 「トゥ・ドゥ」の結成は、朝鮮の共産主義運動において、従来の党と異なる新しい型の革命的党創立の起点となった。すべてが「トゥ・ドゥ」からはじまった。「トゥ・ドゥ」が発展して反帝青年同盟になり、共青となった。

 共青が育成した朝鮮革命の中核部隊=反帝青年同盟によってきずかれた革命の大衆的基盤がとりもなおさず党創立の基礎となった。共青が創立され、それが強力な前衛組織として革命運動を指導した日びに、新しい世代の共産主義者は先行世代の共産主義者の誤りを克服し、大衆獲得と指導芸術で新たな境地を開いた。新しい世代の共産主義者によって発揮された英雄的闘争精神と革命的闘争気風は、日本帝国主義侵略者を打ち破る原動力となり、後日、わが党の精神となり気概となった。

 新しい世代の共産主義者の活動においてもっとも重要な成果の一つは、卡倫会議を契機に朝鮮革命の指導思想を定立したことである。卡倫会議の決定には、「トゥ・ドゥ」と共青の綱領を実現する闘争で共産主義者が原則とすべき戦略が明示されていた。それは新しい型の党を創立する思想的基礎となり、長いあいだ挫折と失敗の苦痛のなかで暗中模索をつづけていた共産主義者の活動指針となった。

 指導思想、指導中核、大衆的基盤――これは、党組織結成の必須の要素である。われわれはこれらの要素をすべてととのえていた。

 わたしは1930年7月3日、卡倫の進明学校の教室で、車光秀、金赫、崔昌傑(チェチャンゴル)、桂永春、金園宇、崔孝一(チェヒョイル)同志たちとともに最初の党組織を結成した。会議には参加しなかったが、金利甲、金亨権(キムヒョングォン)、朴根源(パククンウォン)、李済宇(リジェウ)同志らも最初の党組織メンバーとなり、朝鮮革命軍の隊長に内定していた李鍾洛と朴且石(パクチャソク)もこの組織のメンバーとなった。

 進明学校は、村から500メートルほど離れた賈家屯前の野原にあった。学校の東側と南側には5、6ヘクタールのカワヤナギの茂みがあり、そのなかを霧開河という川が学校をめぐって東南に流れていた。

 学校の東側から村までは沼沢地がつづいていた。進明学校に出入りする通路は西側にしかなかった。それで、道路の入口に警備を立てれば学校は安全だった。危険が迫ってもカワヤナギの茂みに入れば、姿を隠すことができた。

 その夜われわれは、密偵が出没しそうな西側の通路に、2重3重に歩哨を立てて会議を進めた。いまでもそのとき、たんぼで蛙がかしましく鳴いていたことが思い出される。その蛙の鳴き声は神秘な情緒をかもしだしていた。

 最初の党組織を結成したさい、金園宇が会場をしつらえながら、演壇の横に赤旗を立てようと苦労したことが、忘れられない印象として残っている。その旗の赤い色は、最後の一滴の血がつきるまで革命のためにたたかおうというわれわれの覚悟をあらわしていた。

 いまでも最初の党組織について語るとき、進明学校のことが思い出され、進明学校を思えば演壇の横にななめに立てられたあの旗が瞼に浮かんでくる。

 わたしはその日、長い演説はしなかった。最初の党組織を結成する問題については卡倫会議の過程で十分論議したので、あらためて長々とその趣旨を説明するまでもなかった。

 ただ党組織メンバーの課題として、基礎党組織の拡大とそれにたいする統一的指導体系を確立する問題、隊伍の組織的・思想的統一と同志的な団結を実現する問題、革命の大衆的基盤をかためる問題などを提起し、その実現方途として党組織がすべての活動において自主的立場を堅持し、党組織建設活動を反日闘争と密接に結びつけることを強調することにとどめた。

 われわれは、そこでは党の綱領と規約を採択しなかった。「トゥ・ドゥ」の綱領と規約にわれわれ共産主義者の最高目標と当面の闘争課題が明記され、卡倫会議で採択された革命路線と戦略的方針にわれわれの進路と活動規範が具体的に明示されてあった。

 その後、われわれは最初の党組織に建設同志社という素朴な名をつけた。この名称には、同志の獲得から革命の第一歩を踏み出し、生死をともにする同志をたえず探し求めて結束し、革命を発展させて、最後の勝利を達成しようというわれわれの抱負と意志が反映されていた。

 建設同志社に加入した同志たちは代わるがわる立ち上がって、激情にあふれた熱弁を吐いた。金赫は「出帆だ。われわれの船は出港した。われわれは激浪をけたてて遠洋へ櫓をこいで行く」という内容の即興詩を詠んだ。

 金赫の詩の朗唱が終わると、崔孝一が一場の演説をした。彼は演説を終えてこういった。

 「成柱、ここが教室でなくて山のなかだったら一斉射撃で記念するんだがな」

 わたしは日本軍と対決する日も遠くないから、そのときに思う存分撃とうといった。わたしは最初の党組織の結成を祝って、拳銃どころか大砲でもぶっ放したい気持だった。みずからの党組織を持ち、朝鮮の党員として革命のために生涯をささげることを時代と歴史の前に厳粛に誓ったわれわれの心は、いいようのない喜びと自負でふくれあがった。

 15年後、解放された祖国で党を創立し、幼い日の体臭がしみこんでいる生家のオンドル部屋のござの上に横たわったとき、わたしはもろもろの憂いを忘れて、卡倫で最初の党組織を結成したことを感慨深く回想した。

 最初の党組織――建設同志社は、わが党の胎児であり種子であり、党の基礎組織を結成し、拡大するうえで母体としての意義をもつ組織であった。最初の党組織をもって以来、朝鮮革命は分派に影響されていない白紙のように汚れなく清新な新しい世代の共産主義者の指導のもとに、一路勝利の道をたどってきた。自主的な党建設をめざす朝鮮共産主義者の闘争は、それ以来、抗日大戦の奔流にのってひたすら前進してきたのである。

 その後、わたしは、建設同志社のメンバーを各地に派遣し、豆満江沿岸の北部朝鮮一帯と満州各地で党組織を結成した。

 国内に党組織を結成する任務はわたしが引き受けた。わたしは1930年の秋、われわれの影響が比較的強くおよんでいた咸鏡北道穏城(オンソン)郡に出むいて国内の党組織を結成した。

 結成後、日の浅いわれわれの党組織は、人民大衆と生死、苦楽をともにしながら、つねに彼らの先頭に立って抗日戦争の進軍路を切り開き、そのなかで鋼鉄の前衛に鍛えられ、大衆に絶対的に愛され信頼される不抜の勢力に成長した。

 われわれは独自の組織をもって活動したが、中国の党と緊密な連係を保っていた。われわれは朝鮮の共産主義者であったが、朝中両民族の長年の善隣関係と両国の境遇の類似性、両国革命家の時代的使命の共通性からして終始中国革命を支持し、中国の党と人民の利益を擁護してたたかった。中国の党と人民が民族解放闘争で勝利をおさめるたびに、われわれはそれをわがことのように喜び、彼らが一時的にせよ失敗と試練をなめるときには、彼らとともに心を痛めた。

 朝鮮の共産主義者は、中国で活動するだけに、中国の党と連係を保たずには中国人民の援助をうけることができず、反帝共同戦線をしっかり維持することができなかった。

 われわれが中国の党との連係を重視したのは、満州省委員会傘下の党組織に朝鮮人が多かった実情とも関連している。東満州特別委員会にも朝鮮人が多数入っており、東満州地域の県党委員会や区党委員会の指導部もそのほとんどが朝鮮人で構成され、党員の比率においても90%以上が朝鮮人であった。彼らは、東満州地域の党組織で主導的かつ中核的な役割を果たしていた。

 満州地方に朝鮮人の党員が多かったのは、間島地方で共産主義運動をはじめた先駆者の大多数が朝鮮人であったからである。

 わたしが中国共産党と関係をもつようになったのは、日帝が満州を占領したあとからだった。

 華成義塾で「トゥ・ドゥ」を組織したときや吉林、五家子などで活動した当時は、まだ中国共産党とのつながりがなかった。

 もともと革命というものは、誰かに指示されてするものではなく、自分の信念と目的に従って自主的におこなうものである。この要求からして、われわれは革命の指導思想の創出も自分の力でおこない、わが党の起源となった「トゥ・ドゥ」も独自に組織した。

 日帝が9.18事変を起こして満州を占領した結果生じた新しい情勢、日帝が朝中人民の共通の敵となった新たな環境は、われわれと中国共産党との連係問題を機の熟した要求として目前に提起した。

 1931年の冬、明月溝会議を前後した時期、わたしは、曹亜範の家にとどまっていたときにはじめて中国共産党組織と連係をもった。

 曹亜範は吉林での学生生活当時、わたしと一緒に共青の活動にたずさわり、その後は和竜地方で教鞭をとるかたわら、中国共産党組織とかかわりをもっていた。その後、遊撃隊を組織し汪清などで活動したころは、寧安県党の責任ある地位にあって東満州地区まで指導していた王潤成とつながりをもち、大連にいた童長栄が東満州特委に派遣されてきたときは、彼と親密な関係を結んだ。わたしと中国共産党とのつながりはこうして結ばれ、その過程でわたしは中国党組織の幹部としても活動することになった。童長栄が敵の手に倒れたのちは魏拯民とつながりをもった。そのほかに、わたしはコミンテルンの巡視員だった潘同志とも連係を保って活動した。

 中国共産党とのこうした関係は抗日武装闘争の全期間にわたって維持され、それは日帝に反対する共同戦線の拡大と共同闘争の発展に寄与した。

 われわれが中国共産党との緊密な連係のもとに共同闘争を発展させたのは、朝鮮の共産主義者が他国で革命闘争をしなければならなかった当時の複雑な情勢と、コミンテルンの1国1党制路線の要求に合致する主動的で柔軟性のある措置であった。われわれは中国共産党とのこうした共同闘争を大いに発展させながら、終始、祖国解放の旗、朝鮮革命の主体的路線を堅持し、それをりっぱに貫徹した。中国の戦友たちは、われわれのこうした原則的な立場と誠実な努力にたいし、革命の民族的義務と国際的義務を正しく結合したりっぱな模範であると心から称賛した。

 数千数万の朝鮮人民のすぐれた子弟がプロレタリア国際主義の旗を高くかざして、中国の共産主義者と肩を組み、試練にみちた苦難の抗日大長征に参加した。

 1963年、周恩来総理は中国を訪問した崔庸健(チェヨンゴン)同志の誕生日を祝って瀋陽で宴席をもうけたさい、印象深い祝辞を述べた。総理はそこで、東北地方における革命を切り開くうえで朝鮮人が主導的役割を果たした、それゆえ、中朝親善は決して損なわれることなく、永遠につづくであろう、抗日連軍は中朝人民のすぐれた子弟の連合した革命武装力であった、と述べている。

 東北地方における革命の開拓において朝鮮人の功労が大であったことについては、楊靖宇、周保中、魏拯民同志らも折にふれて指摘している。

 われわれが中国革命のために私心のない援助をおこなったので、中国人民もわれわれのためには生死をかえりみず誠心誠意援助してくれたのである。

 反日人民遊撃隊を朝鮮人民革命軍に改編したのち、われわれは遊撃隊のなかに朝鮮人民革命軍党委員会をおいた。それは、卡倫で組織された最初の党組織が拡大発展した結実であった。われわれの自主的な党組織は、その後、祖国光復会の国内組織である朝鮮民族解放同盟や農民組合、労働組合にも根を張った。

 われわれが祖国凱旋後1か月足らずで党創立の大業をなし遂げることができたのは、抗日革命の長い歳月、党建設偉業の実現をめざす闘争のなかで積み上げた成果と経験があったからである。



 


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