金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 きびしい春


 わたしは路上で思いがけず車光秀に出あった。その「ひょうきん者」の目は、度数のきつい近眼鏡の奥で喜びに輝いていた。わたしも遠くから歓声をあげた。

 彼は、わたしの消息を知りたくて孫貞道牧師の家に行くところだといって、わたしを両腕で抱き上げてぐるぐるまわった。

 彼は、革命のために奔走していた人たちがみな逮捕されてしまい、わびしくて気が狂いそうだったといい、吉林の情勢を知らせてくれた。そして、こんなことをいった。

 「朝鮮の労働運動は、すべての面で飛躍的な発展を遂げている。闘争のスローガンや方法、形態など、どれもみな清新なものだ。30年代の民族解放運動は、とくに闘争形態のうえで大きな変化を見せると思うが、どうだろう。激変する情勢に応じて、朝鮮革命は新しい旗をかかげて前進すべきではなかろうか」

 彼は、血走った目でわたしの顔をじっと見つめた。

 そのころは革命家が生きのびることさえむずかしい険悪な時期だったので、理想を守りとおしていく人はいくらもいなかった。彼は敵の攻勢にひるんだりおじけづいたりすることなく、変装して同志を探し歩き、共産主義者としての模索をつづけていたのである。わたしは、彼のひたむきな姿勢に深い感銘をうけた。

 「朝鮮革命が新たな旗をかかげて前進すべきだという光秀君の見解には、わたしも賛成だ。ところで、その旗はどのようなものなのか。わたしは獄中でこの問題をいろいろと考えてみたが、これからわれわれ青年共産主義者は新しい型の党を創建すべきだということと、武装闘争に移行すべきだという結論に達した。武装闘争のみが祖国を救い、民族の解放をもたらすことができる。朝鮮人民のいっさいの闘争は、党の統一的な指導のもとに武装闘争を主軸にした民族あげての抗戦に発展しなければならない」

 わたしは、獄中で考えたことを語った。

 車光秀は、わたしの意見に全幅の支持を表した。わたしは、新安屯に行って金赫、朴素心とも相談したが、彼らも賛成してくれた。武器を取らずには朝鮮を救えず、新しい路線に依拠せずには革命を前進させることができないというのは、青年共産主義者の一致した意見であった。

 武装闘争は、朝鮮の具体的現実が提起する機の熟した要請であった。

 日帝のファッショ的な強権支配はそのころ絶頂に達していた。そのため、朝鮮民族の無権利と貧困はその極に達した。1929年以来、世界を襲いはじめた経済恐慌の波は日本にも押し寄せた。日帝は大恐慌の活路をアジア大陸の侵略に求め、戦争準備を急ぐ一方、朝鮮にたいする植民地的暴圧と収奪を強化した。

 日帝が朝鮮民族の収奪と抑圧に富国強兵の道を求めたとすれば、朝鮮民族は日帝にたいする闘争に民族再生の道を求めた。経済闘争一面に偏していた労働運動と農民運動をはじめ、大衆運動がしだいに暴力的な性格をおびはじめたのは、決して理由のないことではなかった。

 わたしは当時、新興(シンフン)炭鉱労働者のストライキを深い関心をもって注視したが、そのストライキも最後には暴動へと発展した。数百人の労働者が、罷業団の指導のもとに炭鉱の検炭所と事務所、機械室、発電室、工場長私宅をうちこわし、炭鉱構内の電線をすべて切断し、ウインチやポンプなど生産設備を手当たりしだいに破壊した。日本人経営者が炭鉱の復旧に2か月を要すると嘆いたほど、罷業労働者は会社側に大きな損害を与えた。

 暴動は、武装警官隊が介入して百数十人の検挙者を出すというものものしい様相を呈し、全国を震撼させた。

 この暴動から強い印象をうけたわたしは、後日、武装闘争をはじめたとき、危険をおかして新興地区に行き、労働運動の指導者と会った。

 朝鮮労働者階級の闘争は、組織力と団結力、持久性、連帯性の面でも従来の運動にくらべて質的な発展を遂げていた。

 元山(ウォンサン)労働連合会に結集していた2000余人の労働者は、労連の指導のもとに1万余人の家族をも含めて数か月のあいだ粘り強くストライキをつづけた。

 元山ゼネストには、全国各地の労働者、農民が、激励の電報、檄文、義援金を送り、代表を送ってかれらの闘争に支持と連帯を表明している。

 洪原(ホンウォン)、会寧(ヘリョン)など国内の労組はもとより、元山から数百里離れた吉林でも、われわれが組織した反日労働組合傘下の汗誠会が元山労働連合会に義援金を送ったが、これからもわが国労働者階級の意識水準の高さをおしはかれるであろう。

 元山ゼネストは、1920年代のわが国の労働運動において頂点をなした出来事で、世界労働運動史上、朝鮮労働者階級の戦闘力と革命性を誇示したものだった。

 わたしは、獄中で元山ゼネストの全過程を慎重に注視し、その闘争がわが国の労働運動史に特筆すべき闘争であり、彼らの闘争経験は朝鮮の社会運動家がひとしく参考にし、学ぶべき経験であると思った。

 もしあのとき、入れ替わった労働連合会指導部が就業を指示せず、最後までストライキをつづけるか、全国の労働者、農民、知識人がストライキに呼応して本格的な実力闘争をくりひろげていたなら、元山労働者たちの闘争は勝利したことであろう。

 わたしは、元山ゼネストの失敗を通しても、朝鮮の労働者階級の闘争を組織し、勝利に導くマルクス・レーニン主義党を一時も早く創立しなければならないと痛感し、武装闘争が民族解放運動の中枢となって本格的に進められるとき、労働者、農民をはじめ、各階層の大衆闘争も、それに支えられていっそう熾烈にくりひろげられるであろうと確信した。

 敵が鉄拳をふるって民族解放運動を野蛮に弾圧している状況のもとで、朝鮮人民の闘争は不可避的に暴力化の方向に進まざるをえなかった。革命的暴力こそ、爪先まで武装した敵の反革命的暴力にうちかてるもっとも勝算の大きな闘争手段であった。敵が銃剣を振りまわす状況のもとで、朝鮮民族もみずからを武装せざるをえなかった。武装には武装をもって対抗しなければならないのである。

 教育、文化、経済の振興によるたんなる「実力養成運動」や労農大衆の争議、外交工作などの方法では、国の独立は達成できなかった。元山ゼネストと新興炭鉱労働者の暴動を契機にして、われわれは朝鮮の労働者階級をいっそう厚く信頼し、その過程でわたしは、わが国の労働者階級がりっぱな労働者階級であり、朝鮮民族が戦闘的な民族であることを知り、深い愛情と自負を感じたのである。問題は路線や指導にあった。時代の推移に見合った正しい路線と指導さえあれば、いかなる強敵にも勝てるという確固とした自信がついた。破壊された組織をすみやかに立て直し、大衆をたえず意識化、組織化して、一刻も早く日本帝国主義との決戦にそなえさせなければならない。

 わたしの心はいらだち、血がたぎった。

 そのうち、わたしが出獄したといううわさを聞いて、四散していた同志たちが1人、2人とわたしを訪ねてきた。

 わたしは、吉林地区の共青や反帝青年同盟、反日労働組合、農民同盟などの中核分子と膝を交えて、白色テロがはげしくなる状況のもとで、すみやかに組織を立て直し、大衆を結集する問題を討議した。

 車光秀を興奮させた武装という一言は、ここでも青年たちの支持をうけた。彼らの支持はわたしを大いに力づけた。

 われわれは、間島と朝鮮の北部国境地帯で共青活動を強化し、この地域をすみやかに革命化する対策や、党創立の準備を着実におこなう問題など当面の課題を討議した。そのあと、その実行をはかって各地にオルグを派遣した。

 わたしも新安屯で一泊したあと、すぐ敦化へ向かった。

 わたしが敦化を工作地に選んだのは、そこが東満州各県と連係を結ぶのに便利なうえ、わたしに力を貸してくれそうな知己が何人かいたからだった。わたしはそこに当分のあいだとどまって、暴動がはげしい勢いで広がっていく東満州の事態に対処する組織の活動方向を示し、獄中で練った構想を実践に移す具体的な対策を立てたいと思った。

 吉林を発つとなると、中学はぜひ卒業するようにといった父の遺志を守れなくなったことで、わたしは心が重かった。

 朴一波は(パクイルパ)、父親にわたしの復学を毓文中学校当局と掛け合ってもらうから、卒業するまで中学にとどまるようにとわたしに勧めた。

 彼は、吉林で『同友』という雑誌を発行していた民族主義者朴起伯(パクキペク)の息子だった。朴宇天(パクウチョン)は彼のペンネームである。

 わたしの毓文中学校在学中、吉林法政大学に通っていた朴一波は留吉学友会の活動を手伝ってくれた。彼の夢は法曹界に進出することだった。彼はロシア語の勉強をするのだと、白系ロシア人の将校と付き合っていた。彼が白衛軍の将校と接触するのを新生ロシアにたいする裏切り行為と見た同志たちは、彼と関係を断つようわたしに忠告した。

 わたしは彼らに、「外国語も習っておけば、革命に役立つこともあるだろう。彼が白衛軍の将校と付き合うからといって遠ざけるのは、偏狭な態度ではないか」といった。解放後、朴一波がアレクセイ・トルストイの『苦悩の中を行く』などの名作をどしどし翻訳し、世に出すことができたのは、学生時代にロシア語を熱心に勉強したおかげだといえる。

 朴一波のほかにも、金赫や朴素心も復学が可能ならもう1年勉強をつづけて中学の過程を終えるようにと勧めてくれた。

 彼らは、李光漢(リグァンハン)校長が共産主義に理解のある人だから、金成柱が1年のあいだ勉強をつづけたいと願い出れば、断らないだろうというのだった。

 わたしは、勉強は自習でもやれる、人民がわれわれを待ち、破壊された組織がわれわれを待っているのに、難局を迎えた革命に背を向けて学校にもどるわけにはいかないといって、彼らの勧めを受け入れなかった。

 中学を中退し、いざ吉林を発つとなると、わたしの心はちぢに乱れた。生前、父が祖国に行って勉強せよと、冬のさなかに単身わたしを故郷へ送ったこと、学校から帰ったわたしを机の前に座らせて朝鮮の歴史や地理を教えてくれたこと、臨終を前に、成柱だけはぜひ中学校へ通わせようと思った、わたしの志をついで日に3度草がゆをすするようなことがあっても、成柱を必ず中学校へあげるのだ、と母に遺言したことなどが脳裏に浮かんで気が晴れなかった。

 卒業を1年後にひかえて学校を中退したことを知れば、3年のあいだ指がすりへるほど、洗濯や裁縫などの賃仕事で毎月仕送りをしてくれた母はさぞかし落胆し、弟たちは残念がるだろう。わたしを息子のようにかわいがり、学費を援助してくれた父の友人やわたしの学友はどんなにがっかりすることだろう。

 だが、母は理解してくれるだろうと思った。父が崇実中学校を中退したときにも母は、学校をやめて革命運動に専念したいという父の意向を支持した。そんな母だから、息子が中学ではなく大学を中退するといっても、それが革命と祖国のためになるなら反対しないだろう、とわたしは信じた。

 毓文中学校を中退して人民のなかに入ったのは、わたしの人生において一つの転機だった。そのときからわたしの地下活動がはじまり、職業的な革命家としての新たな人生がはじまったのである。

 出獄後、家にあいさつの手紙も出さずに敦化に向かうわたしの心は乱れた。革命に専念するからといって、簡単な消息一つ書き送れないわけはないとみずからを責めてもみたが、どうしてか手紙を書く気になれなかった。

 わたしは入獄後も母に心配をかけまいと、そのことを知らせなかった。ところが1929年の冬休みをわたしの家ですごした学友が、わたしの入獄を母に知らせてしまった。

 母は、それを聞いても吉林に来なかった。息子が監獄に放りこまれたと知ったら、百里の道を遠しとせず差し入れを用意してきて、面会をさせてくれと看守に泣きつくのが母親の情というものであろう。しかし、わたしの母はそうしなかった。母はたいへんな忍耐力を発揮したのだと思う。母は、父が平壌監獄に投獄されたときは、わたしを連れてたびたび面会に行ったものである。その母が10年後、息子が入獄したときは一度も面会に来なかったのだから、不審に思われるかも知れない。

 後日、安図でわたしに会ったときも、母は面会に来なかった理由を語らなかった。

 しかしわたしは、面会に来なかったところに、母の深い愛情があると思っている。

 鉄格子のなかで母に会えば成柱がかえって苦しむかも知れない。面会に行ったところで慰めにも力にもなれない。この先数かずの難関をのりこえなければならないのに、出だしから情にひかれては、わが子が道をまっすぐ歩めるだろうか。獄中ではさびしく思うだろうが、面会に行かないほうがわが子のためではないか。

 母はおそらくそんな気持で面会に来なかったのだろう。

 わたしはそのことから、平凡な女性から革命家に成長した健気な母を発見したのである。

 出獄して広い世間に出てみると、もう学校に縛られた身ではないのだから、家に帰って何日か母と一緒にすごすのが子としての道理ではなかろうかという気もした。しかし、わたしは敦化へ向かって決然と歩き出した。

 敦化の西南方24キロほどのところに四道荒溝という山村がある。そこが、わたしの受け持った工作地であった。

 わたしの入獄後、吉林を襲った検挙旋風が撫松に波及するのを防ぐために、共青や白山青年同盟、婦女会などで活動していた数世帯の人びとが安図や敦化方面に移っていった。母も寒い冬の日に亨権(ヒョングォン)叔父や弟たちと一緒に安図へ引っ越した。

 東満州に移った数十世帯のうち、6世帯が四道荒溝に腰を落ち着けた。そのなかには、高在鳳(コジェボン)一家もあった。

 正義府の給費生として撫松師範学校を卒業した高在鳳は、白山学校で教鞭をとったり、独立軍に入隊して撫松地区別働隊の指揮官を勤めたりした。彼は、反日大衆団体のアクチブだった。

 彼の長弟高在竜(コジェリョン)は、華成義塾時代の同窓生だった。彼は、のちに楊靖宇部隊に入隊し、濛江か臨江かで戦死している。

 高在鳳の末弟、高在林(コジェリン)は白山学校を卒業して吉林毓文中学校に通い、わたしと一緒に共青活動をしたが、1930年春からは満鉄の医学専門学校で勉強した。彼は吉林にいたころ、わたしの活動をいろいろと助けてくれた。

 彼ら一家は撫松にいるときから、わたしの家族と格別親しく付き合った。彼らは宿屋を営みながら、わたしの父母を親身になって助けてくれた。

 小南門通りにあったわたしの家には、愛国の志士や独立運動家が頻繁に出入りした。なかには何日も泊まっていく人もいた。母は、彼らの世話で台所につきっきりだった。

 それがいきおい軍閥の注意を引いた。警察が父を監視していることを知った高在鳳の母親(宋桂心=ソンゲシム)は、ある日、わたしの家へやってきて、こういった。

 「金先生、お宅ではこれから客付き合いを慎んだほうがよろしいでしょう。いまのようにお宅が客でにぎわっていますと、金先生に災いが及ぶかも知れません。撫松に来る独立軍のお客はわたしたちが引き受けますから、彼らが『撫林医院』を訪ねたらわたしの家へよこしてください」

 こんなことがあってから、父は高在鳳の母親に深い信頼をよせ、わたしも高在鳳と親しく付き合うようになった。

 白山学校の廃校後、母がなんとか校舎を一つ手に入れようと奔走したときも、高在鳳の家では自宅の奥の間を教室に使うよう提供してくれた。

 高在鳳は四道荒溝に移ってきてから半年もたっていなかったが、その間、東興義塾を設立して子どもたちの教育にあたる一方、副百家長の役職を利用して四道荒溝とその周辺の村に共青と白山青年同盟を組織し、さらに反日婦女会と農民同盟を組織する準備を進めていた。

 彼の母親は、わたしを見ると涙を流して喜び、撫松にいたころを回想した。わたしは、昨年の秋に逮捕され、数日前に釈放されてまっすぐここへ来たといった。彼女は、わたしの顔をしげしげと見つめ、面ざしは以前と変わらないが、顔がむくんで体の具合がずいぶん悪そうだ、お母さんが知ったらどんなに心を痛めるだろうといった。

 わたしは、この家で1か月近く世話になった。

 彼女は、わたしの養生にいろいろと気を配ってくれた。

 彼女は、麦と粟をまぜたご飯に山菜のあえ物など、心のこもる食事をもてなしてくれた。そしていつも、食事が粗末ですまないといっていた。なじみのない山村で宿屋も営めず、初年度の農事をはじめたばかりのところへ外孫まで来ているのだから、その家の苦しい暮らし向きを考えると、食べ物が喉を通らなかった。

 撫松時代からわたしの好物を知っていた宋桂心女史は、村に一つしかない製麺機を借りてきてソバをつくってくれた。高在鳳は、敦化県城から塩づけのマスを買ってきて食膳にのせてくれた。高在鳳の義兄は、毎朝早く泉に行って、むくみをとるのに特効があるというサンゴルを取ってきた。こうした真心こもる介護によってわたしの健康は日一日と回復していった。

 高在鳳は、わざわざ安図まで出かけ、わたしの母に会って帰ってきた。四道荒溝から安図まではおよそ80キロだったが、彼はそこまで一日で歩いていったのである。彼は、小説『林巨正(リムコッチョン)』に出てくる黄天王童(ファンチョンワンドン)のように一日に120キロは歩けるというのだった。

 そのとき、わたしが出獄して敦化地方に来ていると聞いて、弟の哲柱(チョルチュ)が高在鳳に連れられて四道荒溝にやってきた。弟は、母の手紙とわたしの肌着を持ってきた。わたしはその手紙を見て、その間、撫松を離れて旧安図(松江)西門の外の馬春旭(マチュンウク)の家に間借りしていた家族が、興隆村に引っ越したことを知った。母は旧安図にいるあいだ、馬春旭の家でミシンを借りて裁縫の賃仕事をしながらいろいろと苦労をしたが、興隆村へ移ってからも暮らしを立てるため仕事の手を休めるいとまがないという。

 そのときまで哲柱は、まだ新しい土地の安図になじんでいなかった。中江、臨江、八道溝、撫松などと大きな川が流れている町に住んでいた彼にとって、平野と鉄道から遠く離れた山里の安図は、あまりにもうらさびしくなじみのない土地だった。

 「兄さん、出獄したあと撫松に寄ってみた?」

 哲柱はだしぬけにこんなことを聞いた。

 「寄りたかったが、寄れなかった。家にも寄れずにまっすぐ敦化に来たのに、撫松に行けるわけがないじゃないか」

 「撫松の人たちが兄さんにとても会いたがっているよ。蔚華さんは兄さんの便りがないかと毎日家に来ていたよ。撫松の人たちはほんとうにいい人たちだね」

 弟の声は、撫松時代にたいする懐かしさに濡れていた。

 「うん、いい人たちだった」

 「撫松の友達が思い出されてならないよ。兄さん、そこへ行くついでがあったら、ぼくの友達にきっと会ってみてよ」

 「そうしよう。おまえは、安図でも友達が大勢できたかい?」

 「まだだよ。安図には、ぼくと同じくらいの子があまりいないんだ」

 わたしは、哲柱が安図に移ってからも、撫松時代を懐かしんで落ち着けないでいることに気づいた。哀愁をおびた弟のまなざしとさびしそうな表情がそれを物語っていた。望郷の念にとりつかれたその年ごろの少年にありがちな、現実にたいする一種の反発心とでもいおうか。弟の落ち着かない心理状態はわたしの心にも影を落とした。

 「勤勉な農夫に農地のよしあしが問題にならないように、りっぱな革命家には場所柄のよしあしなど問題にならないのだよ。安図にもきっとよい友達がいるはずだ。友達は自分で見つけなければいけない。お父さんがいつもいってたじゃないか。 友達は天から降ってくるのでなくて、宝石を掘り出すように見つけ出すもんだって。 よい友達を大勢見つけて、安図をりっぱに開拓してみるのだ。おまえももう共青に入る年ごろじゃないか」

 わたしは、共青の加入準備を真剣におこなうよう、強く念をおした。

 「わかった。兄さんに心配をかけてすまなかったよ」

 弟は真顔になってわたしを見つめた。それから間もなく哲柱は共青に加入した。

 わたしは四道荒溝にとどまっているあいだ、高在鳳、高在竜と協力して、少年探検隊、農民同盟、反日婦女会を組織し、また、東満州と南満州各地に散らばっている革命組織のメンバーと連係をとった。高在鳳を通して竜井、和竜、吉林のアジトに送ったわたしの手紙を見て、金赫、車光秀、桂永春(ケヨンチュン)、金俊(キムジュン)、蔡洙恒(チェスハン)、金重権(キムジュングォン)など10余人の同志が四道荒溝にやってきた。彼らはみな共青と反帝青年同盟の幹部だった。

 わたしは彼らの話を聞いて、東満州を震撼させている暴動が予想外にはげしい段階に達していることを知った。

 この暴動の主力は満州地方の朝鮮人で、彼らを扇動して暴動に立ち上がらせたのは韓斌(ハンビン)、朴允世(パクユンセ)といった人たちである。彼らは、中国の党に入るには実践闘争で功績をつんで認められなければならないということで、大衆を暴動へ駆り立てたのであった。

 当時、中国東北地方の朝鮮共産主義者は、コミンテルンの1国1党制の原則にもとづいて党再建運動を放棄し、中国の党に転籍する工作を猛烈におこなっていた。中国の党でも、実地の闘争を通して点検し、個々の審議をへて、個人の資格で入党させる原則で朝鮮の共産主義者を受け入れるといっていた。

 そんなやさきに、コミンテルンから派遣されてきた人物まで暴動を扇動したので、中国の党に入ろうとしていた満州総局所属の朝鮮共産主義者は、政治的野心と栄達に目がくらみ、人民を無謀な暴動へと駆り立てたのである。

 彼らは打倒の対象でない者も打倒し、学校や発電所にまで放火した。

 5.30暴動は、日帝と中国の反動軍閥に、満州地方の共産主義運動と反日愛国闘争を弾圧する格好の口実を与えた。満州の朝鮮共産主義者と革命家は、過酷な白色テロにさらされた。

 大衆は、大きな犠牲を払い、農村や山間奥地に追われていった。庚申年(1920年)の大「討伐」を思わせる惨事が東満州各地方で起こった。留置場と監獄は、暴動参加者であふれた。多数の暴動関係者が朝鮮に押送され、ソウルで全員、重極刑に処された。

 奉天軍閥も日本帝国主義者の奸計に踊らされて暴動大衆を残忍に弾圧した。日帝は朝中人民の離間をはかって、朝鮮人が東満州で暴動を起こしたのは満州を占有するためだと宣伝した。

 軍閥はその宣伝を真にうけて、朝鮮人は共産党であり、共産党は日帝の手先だからみな殺してしまえと叫び、暴動大衆を手当たりしだいに虐殺した。暗愚な軍閥は、共産主義者と日帝の手先を同一視したのである。

 5.30暴動期間に逮捕・殺害された人は数千人に達したが、その大多数は朝鮮人だった。検束者のうち少なからぬ人が死刑にされた。暴動によって、革命組織は大きな被害をうけた。暴動がもとで朝鮮人と中国人の関係が悪化した。

 後日、中国の党内では、李立三路線を「妄動主義路線」「プチブル的ヒステリー」と評価した。李立三のソビエト紅軍路線は、東北地方の実情に合わない冒険主義的路線であった。同年9月の中国共産党中央委員会第6期第3回総会は、李立三の極左冒険主義路線をするどく批判した。コミンテルンも『11月16日付け書簡』で李立三の極左冒険主義的誤りを批判している。満州省党組織は、省委員会拡大会議と連席会議を開き、李立三の誤りを批判した。

 われわれもそれに先立つ1931年5月、春の明月溝会議で李立三路線を批判し、極左冒険主義的誤りを克服する対策を立てた。

 しかし、李立三の極左冒険主義の後遺症はその後も完全にいやされず、長いあいだ東北一帯の革命闘争に弊害をおよぼした。

 四道荒溝に集まった青年たちは、「朝鮮民族は無駄に血を流している」「われわれの革命はいつまで混沌とした状態にとどまっていなければならないのか」と慨嘆した。

 わたしは、彼らに勇気を与えようとして、こう話した。

 「暴動が大きな災いをまねいたのは確かだ。だからといって、いつまでも嘆いていたってはじまらないではないか。嘆くのはほどほどにして各地に出向き、組織を立て直し収拾しなければならない。肝心なのは分派分子の野心をあばき、大衆が彼らの影響をうけないようにすることだ。そのためには、彼らに朝鮮革命の進路を示さなければならない。暴動は流血に終わったが、大衆はそのなかで大いに鍛えられ、覚醒したであろう。朝鮮民族は、今度の暴動を通して戦闘力と革命性をいかんなく発揮した。わたしは、朝鮮民族の偉大な献身的闘争精神から大きな力を得た。このような人民に科学的な闘争方法と戦術、民族の進路を示すならば、朝鮮革命には新たな転換がもたらされるだろう」

 わたしはこう訴えたが、同志たちはあまり刺激をうけたようではなかった。彼らは「一星(イルソン)同志の指摘は正しい。だが大衆の共鳴が得られる新しい進路がいったいどこにあるのか」といって、もどかしそうにわたしの顔を見つめた。

 わたしは「そのような路線は天から降ってくるものでもなく、誰かがつくってくれるものでもない。われわれ自身が主人となってつくらなければならない。わたしが監獄で構想したことだが、みんなの意見を聞かせてもらいたい」といった。

 わたしは、前もって車光秀や金赫、朴素心と論議した朝鮮革命の路線問題を長時間、討議にかけた。この会合が四道荒溝会議であった。ここでも、わたしが提起した案はみんなの支持をうけた。

 東満州各地における悲惨な流血は、わたしを再び憤激させ、覚醒させた。わたしは、動乱の巷に恨みをのんで倒れた人たちの姿を瞼に描きみ、どうすれば朝鮮の革命大衆を血の海から救い出せるか、苦境に陥った朝鮮の民族解放闘争をひたすら勝利の道を歩む革命に引き上げられるかということを深く考えた。

 革命は、武装を求めていた。りっぱに組織され訓練された革命軍隊と人民を求め、2千万人民を勝利に導く綱領とそれを実行する政治的参謀部を求めていた。

 内外の情勢は、朝鮮の共産主義者が、祖国と民族を解放する聖なる戦いに転換をもたらすことを要請していた。こうした転換なしには、朝鮮民族はいっそう多くの血を流し、惨禍をこうむるだけであろう。

 わたしは、われわれがこの転換の突破口を開き、1930年夏にはそれを実現しようと決心した。そして、思索を重ね、要点をメモし整理した。

 われわれは四道荒溝を発つ組織のメンバーや工作員たちと、任務をすみやかに遂行して、6月下旬に卡倫で落ち合おうと約束した。

 その後、敦化で吉東地区党会議が開かれた。

 そこでは、暴動にかんする問題が論議された。分派分子は、またも5.30暴動のような暴動を企てていた。

 わたしは、5.30暴動が無謀な暴動であったと批判し、彼らの計画に反対した。

 その年の春、わたしは獄中生活についで5.30暴動を体験し、多くのことを会得した。

 じつにわたしの生涯において、1930年の春は忘れがたい成長の春、試練の春であった。その春、朝鮮革命は新たな転換を準備した。



 


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