金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 孫貞道牧師


 わたしは満州の情勢がきわめて険しいときに出獄した。

 反日読書会事件で全市が騒然とした1929年の秋と同様、吉林の街には、戒厳状態を思わせる緊迫した雰囲気がただよっていた。道路の四つ角や官庁の建物の周辺では督軍署の憲兵が通行人を検問し、あちこちの路地で家宅捜索をする武装軍警の姿も目についた。

 李立三の極左路線が災いし、満州全土が苦痛にあえいでいた時期で、殺伐とした空気が支配していた。そのころ、満州地方では5.30暴動が絶頂に達していた。

 わが国の史家が5.30暴動と呼ぶこの闘争を、中国人は「赤色5月闘争」といっている。われわれがそれを5.30暴動というのは、上海における5.30惨殺5周年にさいして展開された闘争であり、また5月30日にこの闘争が絶頂に達したからである。

 中国共産党の指導権を握っていた李立三は、1925年5月の上海市民の英雄的闘争を記念して、全国の労働者、学生、市民の3派がストライキを決行し、同時に暴動を起こしてソビエト遊撃隊を創建するよう全党に指示した。

 この路線が伝えられると、満州省委員会傘下の革命組織は李立三の提唱した「1省または数省における最初の勝利」というスローガンをかかげて大衆を動員し、各地で「突撃隊式」集会を開き、暴動を起こした。

 東満州の市街地と農村には、暴動を呼びかけるビラや檄文が張られた。

 5.30暴動がはじまると、共産主義者にたいする敵の攻勢はいつにもまして強化された。

 その波は、吉林にもうち寄せていた。

 わたしが出獄して真っ先に訪ねたのは牛馬巷の孫貞道牧師の家だった。7か月のあいだ、獄中のわたしの面倒を見てくれた孫貞道一家に礼を述べて発つのが道理だと思ったからである。孫貞道牧師は、わが子が出獄したかのように喜んで迎えてくれた。

 「軍閥がおまえを日本側に引き渡しはしまいかとずいぶん気をもんだ。懲役をまぬがれて無事釈放されたのは、まったく幸いだ」

 「先生が援助してくださったおかげで、獄中でもそれほど苦労しませんでした。わたしのため看守たちにもずいぶんお金を使われたそうですが、どうお返しをしたものかわかりません。先生のご恩は一生忘れません」

 そのころ牧師は、中国本土へ転居する準備をしていた。わたしは、孫貞道牧師に、なぜ急に吉林を発つのかとたずねた。

 孫牧師はため息をつき、さびしそうに笑った。

 「張作相も頼りにならなくなったから、もうこの吉林でわたしを保護し、後援してくれる人はいない。張作相が朝鮮人を見離したのだから、日本軍が攻めてきたらどうなる?
3府が統合すれば独立運動が翼の生えた竜馬になると思ったのに、竜馬はおろか内輪もめで一日として安らかにしていられないのだから、ここでがんばっていたってしようがないではないか」

 中国本土には、彼が上海臨時政府の議政院副議長や議長をしていたころ、親交のあった人もおり、興士団時代の同僚もいた。孫貞道が本土行きを思い立ったのは、彼らともう一度手を取って独立運動をさらに積極的に進めようとしたからではなかろうか、とわたしは思った。

 孫貞道牧師は、日帝の満州侵略は時間の問題だが、成柱はこの先どうするつもりかとたずねた。

 「わたしにはほかに道がありません。軍隊を大きくつくって日帝と戦うつもりです」

 孫牧師は驚いて、わたしを見つめた。

 「武器をとって日本に立ち向かうというのか?」

 「そうです。ほかに活路がないではありませんか」

 「日本が世界の5大強国の一つだということを忘れてはいけない。義兵や独立軍も日本の新式兵器の前では歯が立たず、みなつぶれてしまった。だが、どうせ決心したことなら、大胆にやってみることだ」

 わたしが吉林に来たころにくらべ、牧師の家は雑然として冷えびえとした感じがして、わたしはうらさびしくなった。以前この家では、蓄音器の音や時局を論ずる独立運動家の活気にみちた声が絶えなかった。孫牧師を訪ねる敬虔な信者の姿も見られ、少年会員のうたう『風よ吹くな』というもの悲しいメロディーも聞かれたものだった。

 しかし、それらすべては跡形もなく消え失せてしまった。牧師の家に集まる常連はみな、柳河や興京、上海や北京などに去り、『皇城の旧址』や『放浪の歌』の切々としたメロディーを流していた蓄音器も黙ってしまった。

 孫貞道牧師もしばらく北京に行っていた。北京は、上海臨時政府の創設期に、牧師と志を同じくした著名な歴史学者で文筆家の丹斎申采浩(タンジェシンチェホ)が活躍したところであった。そこにはほかにも孫貞道先生の同志が多かった。

 牧師が北京へ行ったときは、申采浩が東方連盟との連係を結ぶため台湾に渡ったところを逮捕され、旅順監獄に投獄されたあとだった。申采浩のいない北京はさびしくひっそりとしていた。牧師と申采浩は、それほど厚い友情で結ばれていたのである。

 申采浩は、青少年に朝鮮民族の悠久な愛国伝統と輝かしい文化を紹介し、祖国愛を鼓吹するために、国史の著述に多くの時間と精力をつぎこんでいた。彼は民族の啓蒙をはかって一時、出版事業にも情熱をそそいだ。『海潮新聞』は、彼がウラジオストックで亡命生活をしたときに発行した人気のある新聞だった。朴素心(パクソシム)が『海潮新聞』にときどき論文を投稿したのも、それを主管していた申采浩の名声が同胞社会に広く知られ、多くの人びとが彼の人格と文章に引きつけられたからである。

 路線から見れば、申采浩は武力抗戦の提唱者であった。彼は、李承晩(リスンマン)の外交論と安昌浩(アンチャンホ)の準備論をともに現実性のない危険な路線であるとみなした。そして、朝鮮の民衆と日本の強盗が食うか食われるかの命がけの闘争を迫られている状況のもとで、われわれ2千万民衆は打って一丸となり、暴力、破壊の道を選ばなければならないと力説した。

 一部の人たちが李承晩を上海臨時政府の首班にかつぎだしたとき、申采浩が憤激して真っ向から反対したのも、平素から李承晩の委任統治論と自治論を快く思っていなかったからである。

 「李承晩は、李完用(リワンヨン)にまさる逆賊だ。李完用は存在している国を売ったが、李承晩はまだ国を取りもどしもしない前から売り払った男だ」

 これは臨時政府を組閣する席上で、彼が投げつけた爆弾のような有名な言葉だった。彼は、臨時政府を脱退して発表した「朝鮮革命宣言」でも、李承晩を痛烈に批判した。

 孫貞道牧師は、ときどき当時を回想し、「申采浩はカミソリのような性格で、鉄のような重みのある主張をしたものだった。彼が李承晩を李完用にまさる逆賊だと弾劾したときはじつに痛快だった。申采浩の言葉は民心を代弁したものだった。彼の気持はとりもなおさずわたしの気持だった。それでわたしは申采浩とともに臨政と袂を分かったのだ」と語っていた。

 こうした発言を参酌すれば、牧師の政見をある程度おしはかることができるだろう。 彼は、自治論も委任統治論もともに妄想であると断じた。安昌浩の実力養成論にたいしては半信半疑の立場だったが、大衆を動員し民族あげての抗戦で国の独立を達成すべきだという、われわれの全民抗戦論にたいしては全幅的に支持した。彼はこうした革新的立場に立っていたので、李承晩のような事大主義者、野心家が君臨する上海臨時政府の閣僚の地位にとどまることを潔しとせず、臨政と決別して吉林に活動舞台を移す勇断をくだしたのであった。

 孫牧師は吉林に来て以来、日本警察が「第3勢力」と規定した革新派の人物と連係をとり、独立運動に積極的に参与した。彼は、新しい世代の青年ともうちとけて付き合い、若い人のやることならなんでも誠意をつくして後援した。彼が牧師を勤めた大東門外の礼拝堂は、われわれの専用集会場のようなものだった。わたしは礼拝堂にたびたび行ってオルガンをひいたり、演芸宣伝隊の活動を指導したりした。孫貞道牧師がわれわれの頼みをなんでも聞き入れてくれ、われわれの革命活動を心から支持してくれたので、わたしは彼を父親のように慕い、尊敬した。

 孫貞道牧師もわたしを息子のようにかわいがってくれた。わたしが獄中で苦労していたとき、張作相に賄賂を使って、わたしの釈放運動をくりひろげた主導者も孫牧師である。

 孫牧師はわたしを親友の息子としてばかりでなく、一家言をもつ革命家として扱ってくれた。 彼は独立運動家のあいだで論議されながらも、解決をみていないむずかしい家庭の問題までためらいなくわたしに打ち明けて、助言を求めた。

 孫牧師は、長女孫真実(ソンジンシル)と尹致昌(ユンチチャン)の縁談のことで頭を悩ましていた。吉林の独立運動家は、みなこの縁談に強く反対していた。孫牧師も娘が配偶者の選択を誤ったと不満げだった。彼は、娘が尹致昌に嫁ぐのは家門の恥だと考えた。尹致昌が親日派の買弁資本家尹致昊(ユンチホ)の弟だったからである。牧師が娘を説き伏せることができず心を痛めていたとき、独立軍の保守派が資金を引き出そうと尹致昌を1週間、軟禁した。

 「いったい、この問題をどうすればいいのだ」

 孫貞道牧師は、わたしの意見を求めた。わたしは、大人たちの縁談に口をはさむのは差し出がましいと思ったので、ためらいがちに答えた。

 「お互いに好き同士なら、仲を裂くこともできないではありませんか。当人たちの気持ちにまかせるのがよいと思います」

 こんな助言をしたあと、独立軍保守派の人物を説いて尹致昌を釈放させた。

 北京に移った孫貞道牧師は、たしか翌年、吉林にもどった。それは、呉仁華(オインファ)、高遠岩(コウォンアム)など革新系人物の要請によるものだという人もいたが、それにどれほどの信憑性があるのかはわからない。いずれにせよ牧師が死去するまで吉林にとどまっていたことからおして、北京の方の独立運動状況も思わしくなかったろうし、彼の健康もすぐれなかったのだろう。

 出獄して孫貞道牧師に会ったとき、彼はわたしがやつれたといって心配してくれたが、わたしはかえって彼の顔色がすぐれないのを見て心配した。彼は持病がこうじて食事も満足にできなかった。

 「国が滅んだのに、体まで衰えて一日中溜息ばかりついているのだ。全知全能の父なる神も、わたしには福音をくださらない。あのときの島流しがわたしの体をこんなふうにしてしまった」

 孫貞道牧師の言葉だった。牧師は1912年、満州で布教中、桂太郎暗殺陰謀の嫌疑で逮捕され、珍島に2年間島流しにされたことがあった。そのとき、牧師は流刑地で病を得たものらしい。迷信のようだが、大衆から愛される人には病魔も容易に取りつくものらしい。

 わたしは翌年の春、明月溝で、孫貞道牧師が病死したという思いがけない知らせを聞いた。わたしにその消息を伝えてくれた人は、孫牧師が吉林の東洋病院で非業の死を遂げたといった。

 わたしはまさかと思った。牧師が病気で急死するなど信じられないことだった。半年前に会ったときも病床にあったのでなく、独立運動の将来を論じていたのに、胃潰瘍で急逝することはありえないと思ったのである。しかし、不幸にもそれは事実だった。地下組織を通して確認したところによると、牧師は入院した日に吐血して息を引き取ったという。

 同胞のなかでは、孫牧師の死を謀殺と見る人が少なくなかった。その第1の論拠は、入院直前の孫牧師の病状が危篤状態ではなかったというのである。また、東洋病院が日本人の経営する病院だというのが、いま一つの有力な論拠とされた。朝鮮人をためらいなく細菌戦の実験対象とする者たちであってみれば、謀殺以上の陰謀もこらしかねないというのが同胞たちの一致した見解だった。

 もっとも確かな論拠は、孫貞道牧師が著名な愛国志士であったということである。彼は、日本警察がつねに監視の目を光らせている要視察人であった。桂太郎の暗殺嫌疑もそうだが、上海臨時政府議政院の議長、臨時政府の交通総長、時事策進会の会員、興士団の団員、労兵会の理事という抗日に貫かれた牧師の経歴は、日本の警察が彼を目の上のこぶと見るのに十分であった。日本人が孫貞道牧師をどれほど執拗に監視したかは、牧師の急死直後、吉林総領事が本国の外務大臣に『不逞鮮人孫貞道の死亡にかんする件』という文書をとくに作成して発送したことにもうかがえる。

 海石という孫貞道牧師の号に彼の特徴がそのまま示されているという人もいるが、彼は表面には出ず、聖職者の肩書きで一生を抗日の聖業にささげた志操堅固で良心的な独立運動家であった。孫牧師は吉林へ来ても、正義府の革新系人物とともに、時代の変遷に順応する独立運動の方向転換と愛国勢力の団結に意をつくした。われわれが朝鮮人吉林少年会と朝鮮人留吉学友会を組織したころは、満州農民互助社の結成発起人になり、その実現のために努めた。

 孫貞道牧師は、弟(孫敬道=ソンギョンド)の名義で額穆県鏡泊湖一帯の50ヘクタールの土地を買い、農業公社を経営した。これは、安昌浩先生が提唱した「理想村」の一部だともいえるだろう。鏡泊湖のほとりは、安昌浩先生がかつて理想郷建設の第一の候補地に見立てたところである。牧師は、農業公社の収益から独立運動資金を得ようとした。

 孫貞道牧師の葬儀は、奉天会館でキリスト教式におごそかにとりおこなわれた。併合以前から数十年の歳月を独立運動にささげた牧師の霊前には、日本警察の妨害で40数人の弔客しか集えなかったという。生前あれほど多くの人びとに取り巻かれ、愛国の魂で彼らを感化した牧師だったが、告別式はあまりにもひっそりとしていた。国父が死んでも泣くことさえままならない時節であってみれば、警察が立ち合った式場で泣こうにも泣けなかったのではなかろうか。

 わたしは、間島ではるか吉林の空を仰ぎ、涙を流しながら故人の冥福を祈った。

 孫牧師を思い、父を思いながら泣いた。そして、この国の父親たちの英霊を守り、恨みを晴らすため、必ず国を取りもどそうとかたく誓った。

 わたしは国を取りもどすことが、彼らの恩顧に報い、彼らの不幸をやわらげ、人民の手かせ、足かせを取り去る道だと思った。

 その後、わたしと孫貞道牧師の遺族は、互いに異なった道を歩んだ。現世紀があと何年も残らなくなった今日でも分断の悲劇はつづき、われわれは有刺鉄線とコンクリート障壁、波高い大洋によって無慈悲に引き離されている。わたしは平壌、孫仁実はソウル、孫元泰(ソンウォンテ)はオマハ(アメリカ)というふうに、われわれは半世紀以上も互いに安否すら問うことができずに生きてきた。

 しかし、わたしは一日として孫貞道牧師とその遺族を忘れたことがなかった。彼らへの追憶は、時間と空間がたえず交差するなかでも、風化し、色あせることなく、わたしの心のなかで歳月とともに連綿とつながってきた。

 民族の悲劇が深まり、われわれを引き裂いている障壁が高くなればなるほど、この地のために涙を流し、この国のために鮮血を流した恩人や烈士を慕う心はいっそうつのるばかりである。

 歴史は、その懐旧の情に顔を背けなかった。

 1991年5月、アメリカのネブラスカ州オマハ市で病理学の医師をしていた孫貞道牧師の末子孫元泰が、海外同胞迎接部の招待をうけて夫人(李有信=リユシン)同伴でわが国を訪れた。松花江の砂浜で少年会員と留吉学友会員が「地」と「海」の2組に分かれて兵隊ごっこをしたとき、いつもわたしの組に入るのだとだだをこねていた10代のかよわい小学生孫元泰が、80歳を目前にした白髪の老人となって、わたしの前にあらわれたのである。60年の世の荒波も、白髪の下に刻まれた吉林時代の痕跡を消し去ることはできなかった。

 「主席!」と叫んでわたしに抱きついた孫元泰の目からは涙がとめどもなく流れ落ちた。数万言の言葉が集約されている涙、じつに多くを語る涙であった。長い歳月、われわれは懐かしさにもだえながらも、どうして白髪の老人になったきょう、はじめて会うことができたのか。なぜわれわれは、きょうのめぐりあいを半世紀以上も引き延ばさなければならなかったのか。

 60年は一生にひとしい長い歳月である。超音速の飛行機が大空を飛ぶ文明時代に、10代のときに別れた人たちが80近くになってはじめて会うのだから、われわれをたえず老年期におしやった時間の累積は、あまりにも非情でむなしいものではないか。

 「孫先生、どうしてこんなに髪が白くなったのです」

 わたしは、かつての少年会員ではなく、アメリカの市民権をもつ老学者に語りかける儀礼的な言葉で孫元泰にたずねた。

 孫元泰は吉林時代にそうであったように、やや甘えるような表情でわたしを見つめた。

 「金主席にお会いしたくて心を痛めたものですから、こんなに白くなりました」

 彼は、自分が吉林時代に金主席を兄のように慕い、主席も自分を弟のようにかわいがってくれたのだから、どうか「先生」という呼び方だけはやめてほしい、といった。

 「それなら、昔のように元泰と呼びましょう」

 わたしは笑いながらいった。

 ぎこちない感情は一瞬に消え去った。われわれは、吉林時代に帰ったような気分だった。わたしは平壌の応接室ではなく、吉林の昔の下宿で孫元泰に会ったような気がした。吉林時代には、わたしも孫牧師の家をしばしば訪ね、孫元泰もわたしの下宿によく遊びにきたものである。

 車光秀のように、いつも首をややかしげて歩いていた小柄で口数の少ない少年。だがいったん口を開けば、機知に富むジョークやユーモアを連発してみんなを笑わせた第4省立小学校の児童。その孫元泰が病理学の医者になったというのも意外だったが、人生のたそがれを迎えた白髪の老人になったのはさらに驚くべきことだった。わたしは、いまさらのように隔世の感にうたれた。吉林で別れたのがついきのうのようなのに、あの多感な少年時代はどこへ行き、われわれはこうして老人になって、そのころを昔語りにしているのだろうか。

 わたしは、孫元泰とともにすごした吉林時代のつきない思い出にひたった。少年会のことはいうまでもなく、町の鼻たれ小僧の小遣いを巻き上げていた飴玉売りのことまで話題にのぼった。

 吉林の飴玉売りは、まったくずるがしこかった。飴が食べたくなると、箱のなかから一つ取り出してそっと口に入れ、さんざんなめたあと、それをまた箱にもどして人に売りつけたのである。子どもたちは、飴玉売りがなめた飴とも知らずに買ったものだった。

 わたしたちはそんなことを回想しながら、もろもろの心配事を忘れ、大きな声で笑った。

 孫元泰は、西側のうわさとは違って、主席がかくしゃくとしているといい、わたしの手を無造作に引き寄せて手相を見た。わたしは唖然とした。

 「生命線がこんなに長いのですから、きっとご長寿なさるでしょう。それに大統領線がこんなにはっきりしているのですから、国の領袖として深い尊敬をうけておられるのです」

 孫元泰はこう言って笑った。

 わたしは手相を見てくれる人に会ったのははじめてのことだし、掌の筋に大統領線があるというのもはじめて聞くことだった。孫元泰がわたしの手相を見て生命線が長いといったのは、わたしの長寿を願う気持ちからであっただろうし、大統領線がはっきりしているといったのは、われわれの事業にたいする支持の表明であったのだろう。

 孫元泰には、一国の元首と会見をしているというこだわりが少しもなく、こんなことまでいいだした。

 「主席、いつ、わたしに漿汁果子(ジャンジイクオズ)を買っていただけるでしょうか。吉林にいたころ主席と一緒にいただいた氷糖葫蘆(ピンタンフル)も食べたいもんです」

 わたしは彼の言葉に胸が熱くなった。

 実の兄弟でなくては、そんなことを言いだせるものではない。彼は、ほんとうにわたしを実の兄のように思っているのである。孫元泰に兄がいないという考えが、ふとわたしの頭に浮かんだ。孫元泰の兄孫元一は、いっとき南朝鮮で国防部長官を勤めたが数年前に亡くなった。わたしがいかに真心をつくして孫元泰をもてなすにしても、孫元一が自分の弟をいとおしむその愛の深さにはおよばないだろう。

 しかし、漿汁果子や氷糖葫蘆を食べたいという彼の願いをかなえてやれないはずはない。漿汁果子は豆乳と油で揚げたドーナツに似た中国の食べ物である。わたしは吉林にいたころ、孫元泰と孫仁実を連れて街を歩き、彼らに何度か漿汁果子をおごってやったことがあった。

 わたしが漿汁果子を買ってやると、幼い兄妹はいつもおいしそうに食べたものである。孫貞道先生に世話になっていることを考えれば、有り金をはたいても彼らの好きな食べ物を買ってやりたかった。しかし、わたしのふところには学費にも足りない端金しかなかった。

 わたしは孫元泰がほんとうに漿汁果子がほしくて、そんな注文をしたとは思わない。彼は漿汁果子という一言で、われわれが兄弟のように親しく付き合った吉林時代への懐かしさを表現したかったのであろう。

 「漿汁果子が食べたいのなら、このつぎにつくってあげよう」

 孫元泰は冗談でいったことだが、わたしは彼にほんとうに漿汁果子を食べさせたくなった。

 それもまたの機会ではなく、すぐにでもつくって出してやりたい気持ちに駆られた。彼がわたしに、いつ漿汁果子を買ってくれるのかとすっかりうちとけていった言葉に、わたしは深く心を動かされた。

 2日後、調理師がこしらえた漿汁果子が、孫元泰夫妻に届けられた。朝食前にそれを受け取った孫元泰は、金主席のおかげで幼いころおいしく食べた漿汁果子の味を楽しむことができるといって、目をうるませたという。

 人情は、時の流れよりも強い力をもっている。時の流れの前では、すべてが色あせ、衰えてしまうが、人情だけは葬り去ることができない。真実の友情や愛には老衰も変質もない。

 異なった道を歩んだがゆえに、一時断ち切られていたわれわれの友情は、60年という時間の空白を埋めて、このように再びつながったのである。

 われわれは吉林時代にうたった『思郷歌』も一緒にうたった。驚いたことには、わたしも歌詞を忘れていなかったし、彼も歌詞をそっくり覚えていた。

 孫元泰は、民族のためになにもつくせなかったので、わたしと顔を会わせる面目がないといったが、それは謙遜であった。彼は北京で大学に通ったころ、学生会の監察部長をして学生運動にも参加し、日本商品排斥運動にも参加した愛国青年である。それで彼は後日、長崎刑務所に投獄される羽目になった。
 後半生、政治と隔絶した生活をしてきた彼の姿には、吉林時代の清らかで純真な人柄がそのまま残っていた。食うか食われるかの生存競争がくりひろげられている風土で、良心を失わず清廉潔白に生きるというのは容易ではない。

 孫元泰は、われわれがなし遂げたすべての業績に心からの共感を示し、わが祖国を「美しい気高い国、子孫のために建設する国」だと激賞した。

 わたしは遅ればせながら孫元泰がわたしを訪ねてきて、吉林時代をともに回想したことを幸いに思った。

 祖国愛と民族愛、人間愛にあふれる孫元泰の姿は、そのまま孫貞道の姿であり、孫仁実の姿でもあった。彼はわたしに会うごとに「主席、どうかお年を召さずに長生きしてください」といった。わたしの健康を心から案じてくれる彼の姿は、60年前、わたしが最後に会った孫貞道牧師の姿をほうふつとさせた。

 その日、孫牧師はわたしを見送りながらこういった。

 「情勢がきびしいから、吉林にこれ以上とどまっていてはいけない。この地方の形勢はかなり険悪だ。時局が時局だけに、どこへ行っても身辺に注意しなさい。間島に行っても当分は僻村に身を隠して静養するのがよいだろう」

 わたしは、わたしの身辺を案じてくれる厚い人情に感謝を禁じえなかった。孫牧師の助言がいかに時宜にかなっていたかは、9.18事変後の満州の情勢が雄弁に物語っている。吉林を占領した日本の軍警は真っ先にわたしを追った。彼らは吉林監獄の名簿をめくって、金成柱を引き渡すよう軍閥に要求した。

 孫貞道牧師をはじめ、高遠岩、呉仁華、黄白河など独立運動家の支援で出獄していなかったとしたら、わたしは日帝につかまってさらに10年は投獄されていたことだろう。そうなれば武装闘争はできなかったはずである。

 わたしが孫牧師を命の恩人であるというのは、そのためである。

 吉林時代にわたしを助け、わたしの革命活動を心から支持してくれた人は数えきれない。そんな人のなかには崔万栄(チェマンヨン)、呉尚憲(オサンホン)、金基豊(キムギプン)、李基八(リギパル)、崔日(チェイル)など前世代の運動家もおり、崔重淵(チェジュンヨン)、申永根(シンヨングン)、安信英(アンシンヨン)、玄淑子(ヒョンスクチャ)、李東華(リドンファ)、崔峰(チェボン)、韓周彬(ハンジュビン)、劉振東(リュジンドン)、崔真恩(チェジンウン)、金学錫(キムハクソク)、禹錫允(ウソクユン)、金温順(キムオンスン)、李徳栄(リドクヨン)、金昌述(キムチャンスル)、崔寛実(チェグァンシル)、劉繍景(リュスギョン)など同年輩の先覚者もおり、李東鮮(リドンソン)、李敬恩(リギョンウン)、尹善湖(ユンソンホ)、黄貴軒(ファンギイホン)、金炳淑(キムピョンスク)、郭淵奉(クァクヨンボン)、全恩深(チョンウンシム)、安炳玉(アンピョンオク)、尹玉彩(ユンオクチェ)、朴正元(パクチョンウォン)、郭基世(クァクキセ)、鄭行正(クァクヘンジョン)など愛国少年もいる。

 わたしは情勢の動きからおして、これ以上吉林にとどまっていてはいけないと判断した。獄中でもある程度予想したとおりだった。孫牧師は自分の家で、わたしを保養させることができずに発たせるのをたいへん心苦しく思った。しかし、牧師の助言をありがたく受け入れたわたしは、昼食をご馳走になってすぐ新安屯へ向かったのである。



 


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