金日成主席『回顧録 世紀とともに』

10 鉄格子の中で


 「吉林の風」が満州各地に吹き込むと、日帝と中国の反動軍閥は、しだいにわれわれの存在に気づくようになった。吉林で起こった激烈な青年学生運動と中東鉄道事件、南満青総大会事件などによって、われわれのうわさが各地に広がると、彼らは、吉林を騒がす張本人は青年学生であると断じ、われわれに捜査の手をのばしたのである。

 日帝は満州を侵略するため、いたるところにスパイを潜入させて朝鮮人の一挙一動をきびしく監視する一方、中国の反動軍閥をそそのかし、共産主義者と反日独立運動家を手当たりしだいに検挙、投獄した。吉林の形勢はきわめてきびしく、われわれの前途には試練が迫りつつあった。

 事態が険しくなってくると、吉林の分派分子は、竜井、磐石、敦化など各地に身をひそめ、独立運動家は国籍を中国籍に変えて中国本土に移っていくか、旺清門あたりに逃避した。1929年秋の吉林はもはや、かつて反日運動家が雲集していた朝鮮海外政治運動の中心地ではなかった。

 そうしたなかで、吉林第5中学校の学生たちが読書会で不用意に起こした騒ぎが端緒になり、同志たちが逮捕されはじめた。旺清門から帰って事態の収拾に取り組んだばかりのわたしも、反動軍閥当局の手にかかってしまった。第5中学校の学生が毓文中学校の共青組織まで自供したのである。

 警察は学生運動のリーダーたちを一網打尽にしたといって、連日、われわれに残酷な拷問を加えた。それまでのわれわれの闘争内容と吉林市内に張りめぐらされた組織網をあばきだし、その背後関係を洗おうとしたのである。

 われわれは、左翼系の書籍を読んだということ以外はいっさい口外しないことにした。尋問にあたった刑吏には、学生が本を読んでなにがいけないのか、われわれは本屋で売っている本を読んだだけだ、罪を問うなら本の出版と販売を許可した当局に問うべきだと抗議し、あくまでがんばりとおした。

 わたしが手の指をひねる拷問をうけていたある日、元華成義塾塾長の崔東旿先生が、尋問室の片隅のついたての陰からこちらをちらりとのぞいて立ち去った。まったく意外なことだったので最初は、もしや錯覚ではなかろうかとわが目を疑った。

 だが、それは崔東旿塾長に間違いなかった。彼らが華成義塾当時の師まで尋問室に召喚したのをみると、わたしの経歴をかなり調べているようだった。

 崔東旿先生の出現によって、わたしは非常に複雑な気持にとらわれた。

 崔東旿先生は中国語が堪能で外交活動にもすぐれていたため、国民府の外交委員長の職責についていた。先生は国民党の反動軍閥当局との関係を調停するため、主に吉林に駐在して青年学生とも一定のつながりをもっていたのである。

 もし彼が、われわれが何者であるかをありのまま反動軍閥当局に告げるなら、事件の拡大を防ごうとするわれわれの努力は水の泡になりかねなかった。ことに中東鉄道事件のさい、われわれがソ連を擁護してたたかったことが少しでも知れたら、とても無事にはおさまりそうになかった。

 イギリス、アメリカ、フランス、日本など帝国主義者に操られた中国国民党政府と奉系軍閥は、1920年代末期にいたって背信的な反ソ策動を執拗にくりかえした。広州人民蜂起が失敗に終わったのち、蒋介石政府は広州駐在ソ連領事を銃殺してソ連と国交を断絶した。反ソは帝国主義列強におもねり、その保護と支持をとりつけようとする蒋介石の切り札であった。

 軍閥たちの口からは「赤色帝国主義に反対する」というスローガンがたびたび唱えられた。彼らは、中国人民の民族感情を巧みに利用して帝国主義者の侵略の真相を隠蔽し、反ソ思想を執拗に鼓吹した。

 軍閥の宣伝にのせられた大学生と青年インテリも、「ウラル山を占領し、バイカル湖を手に入れよう!」「バイカル湖で馬に水を飲ませよう!」といった好戦的で挑発的な暴言を吐いてソ連領土をうかがった。

 こうした雰囲気に便乗した軍閥は、反ソ挑発の口火として中東鉄道を攻撃した。中ソ両国は協定によって財産、設備を半分ずつ所有し、管理機構の理事会を通じて共同で鉄道を経営していた。軍閥は兵力をくりだして無線電信局と管理局を占拠し、鉄道を完全に奪取してソ連側の権益を一方的に取り消した。中東鉄道を掌握した彼らは、ただちに国境を越えて3つの方面からソ連に侵攻した。こうして、ソ連軍と中国反動軍閥軍のあいだに武力衝突が起こったのである。

 そのとき、反動派にそそのかされた馮庸大学と東北大学の一部の右翼系学生は、武装までしてソ連と対決した。

 われわれは国民党政府と反動軍閥の反ソ策動を阻止するため、共青員と反帝青年同盟員を決起させ、社会主義国ソ連を擁護してたたかった。

 覚醒していない一部の中国青年は、われわれを中華民族の利益の「侵害者」に手を貸す悪者だといって遠ざけた。われわれは苦しい立場に立たされた。

 われわれは、市内のあちこちに軍閥の反ソ策動の本質を暴露するビラをまき、中国人のあいだで宣伝活動を展開した。そして、軍閥軍の中東鉄道奪取とソ連侵攻は、10月革命後、中国とのいっさいの不平等条約を廃棄して、中国を物心両面から援助したソ連にたいする許しがたい裏切り行為であり、帝国主義者から借款を得るための術策であると暴露した。

 国民党反動派と軍閥の宣伝にのせられ、ソ連を敵視していた人たちも、われわれの宣伝を聞いて反ソ侵攻の危険性と本質を知り、それに反対する方向へ態度と立場を変えた。

 われわれは中国の進歩的青年と共同で、ソ連を攻撃しようと企てる馮庸大学の学生にも痛撃を加えた。

 中東鉄道事件を契機に進められたわれわれのたたかいは、ソ連を政治的に擁護する国際主義的なたたかいであった。われわれはそのとき、地球上にはじめて樹立された社会主義制度を希望の灯台と仰ぎ、それを擁護するためにたたかうことを共産主義者の聖なる国際主義的義務とみなした。

 中東鉄道事件をめぐるわれわれの闘争を通じて、中国人民は軍閥の正体を明確に把握し、その背後で彼らを反ソ行動へとあおる帝国主義者の本心がなんであるかを知るようになった。朝中人民は、中東鉄道事件を契機に大いに覚醒した。

 当時、国民党軍閥は、ソ連を擁護する者にたいしては容赦しなかった。

 崔東旿先生があらわれたあとも、尋問者は依然としてわたしを読書会事件の主謀者としてのみ扱った。軍閥当局は崔東旿先生を召喚してわたしの身元を確認し、わたしがソ連とつながりをもっているのか、どのような運動をしたのかをただしたようだった。だが崔東旿先生は、わたしに不利なことはいわなかったらしい。

 われわれは、しばらくして吉林監獄に移された。吉林監獄は、看守が真ん中に座って四方を監視できるように東西南北に廊下があり、その廊下の両側に監房がある十字形の建物だった。

 わたしが収監されていたのは、北側廊下の右から2番目の監房だった。北側なので年じゅう日が差し込まず、かびの臭いが鼻をつき、冬は壁が白く霧氷でおおわれた。わたしがここに移送されたのは秋だったが、監房は冬のように冷えびえとしていた。

 軍閥当局は、囚人の扱いで、はなはだしい民族的差別をおこなった。看守は「朝鮮人め」だの「朝鮮亡国奴」といった侮辱的言辞を弄し、鉄の重りのついた足かせを朝鮮人学生の足首にはめた。食事や獄内の粗末な医療施設の利用でも、中国人政治犯と差別した。

 わたしは、獄中でも闘争を中断しないことにした。

 革命家にとって監獄は一つの闘争舞台であるといえる。監獄をたんに幽閉場と考えるなら、受け身になってなにもできない。だが、監獄を世界の一部分と考えれば、その狭い空間でも革命に有益なことができるものである。

 わたしは、心を引き締めて闘争の方途を考えはじめた。なによりも、外部との連係をとって破壊された組織を早急に立て直し、活動させるべきだと思った。そして、軍閥当局とたたかって出獄の日を早めようと決心した。

 獄中闘争を展開するにしても、外部との連係をとるのが問題だった。この問題を解決するためには、看守を説得してシンパに変えなければならなかった。

 看守をかちとろう、というわたしの意図は、予想外にたやすく実現した。監獄当局は監房を修理するとき、しばらくわれわれを一般囚と同じ監房に収容した。これが、われわれにとって有利な機会となった。

 ある日、わたしと同じ監房にいた中国の囚人が急に風邪をひいて寝こんでしまった。彼は強盗犯で非常に粗暴だった。

 わたしが一般囚の監房に移された日、上座にあぐらをかいていた「カントゥル」(牢名主)と呼ばれるその囚人は、われわれに向かって、金か食べ物をあいさつ代わりに出せと脅した。新入りは誰でも守らなければならない掟だから、おまえたちも守るべきだというのだった。見るからに凶暴な男だった。

 わたしは彼に、ひどい取り調べを何日もうけてきた人間に金や食べ物があるはずがないではないか、おごるなら監獄に長くいるあなたたちがおごるべきではないか、とやりかえした。

 言葉につまった「カントゥル」は、顔色を変えてわたしをにらみつけるだけだった。

 ふだん暴君のようにふるまっている囚人なので、彼が高熱にうかされ、食事もとれず、夜も眠れない状態になっても、誰一人彼を介抱する者はいなかった。

 わたしは監獄に移されるとき、孫貞道牧師の家から差し入れてもらった布団を彼にかけてやり、看守を呼んで監獄病院から薬をもらってきてくれと頼んだ。

 乱暴で取っ付きの悪いこの囚人を快く思っていなかった李という看守は、朝鮮人が中国人を身内のように世話するのを見て不審に思った。誠意をこめた看護のかいがあって、囚人は間もなく床を上げた。それ以来、わたしにたいする彼の態度に変化が生じた。看守でさえ手を焼いていた偏屈で粗暴な強盗犯が、中学生のわたしの前で急におとなしくなったのを見た李看守は、たいへん不思議に思い、わたしにたいする物腰が変わってきた。

 彼は、この監獄の看守のなかでは、かなり温順で民族性のある人だった。獄外の組織メンバーから、李看守が賤民出身で、口すぎをするために看守になった人間であるという通報が入った。わたしは李看守を観察した末、味方に引き入れることにし、彼と話し合う機会を多くつくった。そのうち、彼が弟の婚約をひかえて結納の支度ができなくて困っていることを知った。わたしは同志たちが面会にきたときにそのことを話して、組織の力でそれを解決してやるようはからった。

 数日後、李看守がわたしを呼び、結納をととのえてもらって感謝しているといった。そして、監獄当局は君のことを共産主義者だといっているが、ほんとうかとたずねるのだった。

 わたしが共産主義者だと答えると、彼は、解せないことだ、共産主義者はみな「匪賊」だというが、君のように善良な人たちがまさか他人の物を強奪するとは思えない、君が共産主義者であるのが間違いないなら、共産主義者を「匪賊」呼ばわりするのはもってのほかだ、と熱っぽくいうのだった。

 それでわたしは、共産主義者は、搾取と抑圧がなく、すべての人が幸せに暮らせる社会をつくるためにたたかう人たちだ、われわれ朝鮮の共産主義者は朝鮮から日帝を追い出し、奪われた祖国を取りもどすためにたたかう人たちだ、金と権勢のある者が共産主義者を「匪賊」呼ばわりするのは、共産主義者が、地主、資本家や土豪、売国奴が羽振りをきかせる腐りきった世の中をくつがえそうとするからだ、と説明した。

 李看守は大きくうなずいて、自分はなにもわからないのでこれまで当局のデマ宣伝にだまされてきたが、これからはそんな話を真にうけないことにするというのだった。

 それ以来、李看守は勤務を終えて帰るとき、いつもわたしのところへやってきた。そして、わたしが他の監房になにか連絡を頼むと黙って引き受けてくれた。やがて、彼を通じて外部との連絡もとれるようになった。こうして、わたしの獄中生活は比較的自由になった。

 しかし、すべての看守が李看守のようにわれわれに好意をよせたわけではない。彼らのなかには、のぞき穴から監房の中をのぞいては、囚人をいじめる蛇のような看守長が一人いた。

 吉林監獄の看守長は3人だったが、この看守長がもっとも嫌われていた。彼が当番のときなど、囚人は監房であくびも思うようにできないほどだった。

 ある日、われわれはその看守長をこらしめてやることにし、それを誰にやらせるかを相談した。そのとき、吉林第5中学校3年生の黄秀田という中国人学生がその役を買って出た。読書会事件に連座して捕えられた者のうち、朝鮮人は2人で、あとはみな中国人だった。

 わたしは彼に、看守長に下手な手出しをすると、少なくとも5か月は独房生活を覚悟しなければならないが、それでもかまわないのかと尋ねた。黄秀田は、みんなのために犠牲になるつもりだ、なんとしても看守長をこらしめてやるといった。そして、いまに奇抜な手で看守長の根性を叩き直してやるから、みな黙って見物するようにというのだった。やがて、彼は先をとがらせた竹箸を用意して、看守長がのぞき穴から監房の中をのぞいたときにその目を刺した。看守長の目からは血とともに墨のような水がしたたり落ちた。誰も予想しなかったことだった。

 監房内の学生たちはみな、黄秀田を英雄のようにほめそやした。だが、その罰として黄秀田は、寒い冬のさなかに暖房装置のない独房に閉じこめられて、数日間ひどい目にあった。

 学生たちは、黄秀田を独房から出さなければおまえたちの目もつぶしてやる、彼を早く出せ、と看守たちに迫った。こうして、監獄当局は学生たちの要求に屈した。

 それ以来、われわれは監房内でなんでも自由にやれるようになった。会合をしたければ会合をし、必要に応じて他の監房にも行き来できるようになった。わたしがどの監房へ行ってくるというと、看守は一も二もなく扉を開けてくれた。

 わたしは獄中生活の期間、孫貞道牧師にいろいろと世話になった。

 孫貞道牧師は、わたしが吉林で革命活動をした全期間、肉親のようにいろいろとわたしを支援してくれた。彼は国内にいた当時から、わたしの父と親しい間柄だった。出身校(崇実中学校)が同じだということもあったが、それよりも思想と理念の共通性が父と彼を深い友情で結びつけたのであろう。

 父は生前、孫牧師の話をよくしたものだった。

 孫貞道は3.1運動直後、中国に亡命し、上海臨時政府でひところ議政院議長を勤めた。また一時は、上海で金九、趙尚燮(チョサンソプ)、李裕弼(リユピル)、尹g燮(ユンギソプ)らとともに武力抗争を担当する軍事幹部養成の使命をおびた労兵会を組織し、その労工部長としても活躍した。

 しかし労兵会が解散し、臨時政府内の派閥争いがはげしくなると、彼はそれに幻滅を感じて吉林に居を移した。

 吉林に来てからは、礼拝堂を建てて独立運動をつづけた。われわれが大衆啓蒙の場として大いに利用したのがその礼拝堂である。孫貞道は信心深いキリスト教信者だった。彼は、吉林のキリスト教信者と独立運動家のあいだで無視できない存在だった。

 わが国のキリスト教信者のなかには、孫貞道のように一生涯、独立運動に献身したりっぱな愛国者が多かった。彼らは朝鮮のために祈祷し、亡国の苦しみをやわらげてくれるよう神に祈った。彼らの純潔な信仰心は、つねに愛国心と結びついていた。平和と和睦と自由の楽園の建設を念願した彼らは、終始、祖国の解放をめざす愛国闘争に安息の場を求めた。

 天道教と仏教の信者も、その絶対多数は愛国者であった。

 孫貞道が留吉学友会の顧問であった関係上、わたしはたびたび彼と会う機会があった。彼はわたしと会うたびに、わたしの父があまりにも若くして世を去ったことを残念がり、父の遺志をついで独立運動の先頭に立ち、民族のために奮闘するよう励ましてくれた。

 わたしが吉林に来て、毓文中学校に3年間も通えたのも、孫貞道のような父の友人がいろいろと援助してくれたからである。

 孫貞道牧師は、母が洗濯や裁縫などの賃仕事でほそぼそと暮らしを立てているわが家のことを心配して、わたしに幾度も学資を援助してくれた。牧師の夫人もわたしをたいへん可愛がってくれた。祭日になると夫人はわたしを招いて、朝鮮料理をご馳走してくれた。兎肉を入れた豆腐の煮込みとチョントギ餅の味は格別だった。チョントギという草は、葉にやわらかい毛茸があって無臭無毒だった。孫牧師の家族は平壌にいたころから、これで草餅をつくって食べたという。その日、わたしが牧師の家でご馳走になった餅は、北山公園で摘んだチョントギでつくったものである。

 孫貞道には、2人の息子と3人の娘がいた。吉林でわれわれの運動に関与したのは、次男の孫元泰(ソンウォンテ)と末娘の孫仁実(ソンインシル)だった。

 当時、孫仁実は、黄貴軒、尹善湖(ユンソンホ)、金炳淑(キムビョンスク)、尹玉彩(ユンオクチェ)などと一緒に朝鮮人吉林少年会の会員として活動した。彼女は、わたしが青年学生運動をしたころと獄中生活をしていたとき、いろいろとわたしを助けてくれた。

 ある日、看守が新入りの囚人を1人、わたしの監房に放りこんでいった。ひどい拷問をうけて顔形も見分けられないほどだった。

 それは麗新青年会の組織部長姜明根だった。彼は1929年の春、突然、軍閥当局に逮捕され、生死さえわからなかったのだが、わたしは、その彼に監獄で会って驚きもし、うれしくもあった。彼が逮捕されたのは、分派分子がでっちあげの密告をしたためだった。姜明根は、駐中青総事件のことで分派分子の報復をうけたのである。

 分派分子は、麗新青年会の代表が集廠子で開かれた駐中青総大会をボイコットし、彼らの無謀な行動を暴露する檄を飛ばしたことを根にもって報復の機会をねらっていた。そして蛟河で一人の青年が病死すると、姜明根らが毒殺したかのように仕組んで軍閥当局に密告したのだった。

 わたしは、無実の罪で処刑される破目になったと涙を流す彼に、大志をいだいて革命の道に踏み出した人間が、それくらいのことでへこたれてはいけない、人間はひとたび死を覚悟すればできないことはない、軍閥当局と最後までたたかって無罪を証明すべきだ、と励ましてやった。

 姜明根はその後、法廷で、わたしから励まされたとおり決死の覚悟でたたかった。

 彼は日帝によって朝鮮が占領されていた全期間、清らかに生きぬいて、解放後祖国に帰ってからはわが党の任務をうけて友党にたいする活動に専念した。

 長い歳月が流れたあとで、やっとわたしは姜明根が近くにいることを知った。それで彼に人を差し向けて、再会の約束をした。

 この知らせが、彼に強い衝撃を与えたようだった。彼はわたしとの再会をひかえて、無念にも脳出血で倒れてしまった。

 あのとき彼が死ななかったら、われわれは吉林時代をふりかえって旧懐の情を分かち合うことができたであろう。

 わたしは獄中で、わが国の民族解放闘争と共産主義運動の経験と教訓を分析し、他の国での革命運動の経験も吟味した。

 わが民族は日帝の植民地支配に抗してデモをおこない、ストライキや義兵闘争、独立軍運動もくりひろげた。

 だが、それらの闘争は、すべて失敗の運命をまぬがれなかった。

 運動をさかんに展開し、血も多く流したが、なぜたたかいは勝利せず、ことごとく挫折せざるをえなかったのか?

 わが国の反日闘争の隊列内には派閥が形成され、民族解放闘争に大きな弊害をおよぼした。

 反日抗争の最初の烽火を上げ、朝鮮8道を駆けめぐった義兵の隊伍は、上下一致がならずに分裂していた。王政の復活を夢みる儒生出身の義兵隊長と、既存秩序の改革を唱える平民出身の義兵のあいだには深刻な理念上の対立と矛盾が存在していたが、これは義兵の戦闘力の向上を阻害した。

 旧制度の復活を絶対理念としていた一部の義兵隊長は、政府から官職を得るため戦功争いまでして隊伍を分裂させた。また平民出身の義兵隊長は、儒生出身の義兵隊長とは連合しようとしなかった。これは義兵の力を弱める結果をもたらした。

 独立軍の実態もこれと異なるところがなかった。独立軍は、組織からして分散性と散漫性を露呈した。

 満州地方で活動していた各独立運動団体が3府統合を果たしたあとも派閥争いはつづいた。3府の統合によって国民府が誕生したものの、その上層部は国民府派と反国民府派とに分かれて権力争いをつづけた。

 民族主義者は、こうしていくつもの派に分かれ、大国を頼りにして愚にもつかぬ口論に終始したのである。

 独立運動の指導的ポストにあった人物のなかには、中国に頼って朝鮮の独立を達成しようとする者もいれば、ソ連の力を借りて日本を倒そうと考える者もおり、また、アメリカが朝鮮の独立を「贈り物」してくれるのではないかと期待する者もいた。

 民族主義者が事大主義に走ったのは、人民大衆の力を信頼しないためだった。民族主義運動は、人民大衆から浮き上がって上層部の運動にとどまっていたため、強固な基盤をもてず、人民の支持を得ることもできなかった。

 人民から離脱して上層部の少数の者が、空論と権力争いに明け暮れ、大衆を革命闘争に立ち上がらせることができない本質的弱点は、共産主義運動家と称する人たちのあいだにもあらわれた。

 初期の共産主義者たちは、人民大衆のなかに入って彼らを啓蒙し結集して闘争に奮い立たせようとするのでなく、人民とかけ離れ、空論と「ヘゲモニー」争奪戦に熱をあげていた。

 初期の共産主義運動は、運動内に発生した分派を克服することができなかったのである。

 わが国の分派分子は、民族主義系のブルジョアジーやプチブルインテリと没落した封建貴族、両班出身のインテリであって、10月社会主義革命以後、労働運動が急速に高揚し、マルクス・レーニン主義が大衆の熱烈な支持をうけるようになった時代の趨勢に便乗してマルクス主義の看板をかかげ、革命の潮流に巻きこまれてきた人たちであった。

 彼らは最初から派閥をつくり、「ヘゲモニー」争奪戦をはじめた。

 分派分子は、あらゆるペテンと権謀術数を弄したあげく、暴力団をつくり愚劣な暴力沙汰まで引き起こした。

 分派分子の策動によって結局、朝鮮共産党は隊伍の統一を保つことができず、日帝の弾圧をはねのけることができなかった。

 初期の共産主義者は、事大主義にとらわれて、自力で党を建設し革命を進めようとはせず、各自「正統派」をもって任じ、ジャガイモの印鑑までつくってコミンテルンの承認を得ようと駆けずりまわった。

 わたしは、わが国の民族主義運動と初期共産主義運動のこうした実態を分析し、革命をそういうやり方で進めてはならないと痛感した。

 こうしてわたしは、自国の革命はみずからが責任をもち、自国人民の力に依拠して遂行してこそ勝利するのであり、革命で提起されるすべての問題を自主的に、創造的に解決していかなければならないという信念をいだくようになった。これが、いまいっているチュチェ思想の出発点となったのである。

 わたしは獄中で、この先、朝鮮革命をいかに導いていくべきかについてもいろいろと考えた。

 日帝侵略者を撃退して祖国を解放するためには、いかなる形式と方法でたたかい、反日勢力をどのように一つに結束すべきなのか、革命の指導機関としての党はどう創建すべきか、などの問題でいろいろと考えをめぐらした。そして出獄すれば、まずなにからはじめるべきかという問題についても考えた。

 当時わたしは、わが国の具体的現実と社会的・階級的諸関係からして、朝鮮革命の性格を反帝反封建民主主義革命と規定し、武装した日帝を打倒して祖国を解放するためには武器をとって戦うべきであり、労働者、農民、民族資本家、宗教者をはじめ、すべての愛国勢力を反日の旗のもとに結集してたたかいに決起させ、派閥争いのない新しい革命的党を創建すべきだという闘争方針を確定した。

 朝鮮革命の遂行で堅持すべき立場と観点が明白になり、路線と方針も鮮明に描けるようになると、一日も早く監獄から出なければならないという衝動をおさえることができなかった。わたしは出獄を早める闘争をはじめることにした。

 われわれは、「学生事件」で投獄された同志たちとともに、出獄闘争の準備を一つひとつととのえた。

 われわれが考え出したのはハンストであった。われわれは、われわれの正当な要求が貫徹されるまで座を立たないという悲壮な決意をいだいて闘争に突入した。

 ハンストを開始するときまで、わたしは一般囚まで参加させる今度の闘争で統一行動を保障するのはむずかしいだろうと思った。ところが断食がはじまると、どの監房からも手のつけられていない食事がそのまま外へ出された。つい先ごろまで、一杯の食事のことでけんかをした一般囚までが食事に手をつけなかったのである。「学生事件」で収監された同志たちが地道に工作してきたかいがあった。

 獄外の同志たちも、われわれの出獄闘争を積極的に援助した。彼らは、われわれの獄中闘争に呼応して、吉林監獄の囚人にたいする非人道的な扱いを暴露し、世論を喚起した。やがて軍閥当局は、かたく団結してたたかったわれわれに屈服した。

 わたしは、1930年の5月初旬、吉林監獄から出獄した。アーチ形の監獄の門を出たわたしの胸は、信念と熱情にあふれた。

 わたしは獄中で、初期共産主義運動と民族主義運動を総括し、その教訓にもとづいて朝鮮革命の前途を青写真に描いた。

 思うに、わたしの父は平壌監獄で民族主義運動から共産主義運動への方向転換を模索し、わたしはこうして吉林監獄で、われわれの進むべき朝鮮革命の前途を構想したのであった。

 不幸な亡国の民の息子であったがゆえに、父もわたしも、獄中で国と民族の前途を考えなければならなかったのである。



 


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