金日成主席『回顧録 世紀とともに』

9 旺清門の教訓


 1929年の秋、国民府は興京県旺清門で東満青総と南満青総を統合する大会を招集した。これを南満青総大会と呼んだ。

 国民府の指導者たちは3府合作が実現した客観的条件に即応して、青年運動でも分散性を克服し統一的指導を保障すべきだとして、両青年団体の統合大会を招集し、そこで朝鮮青年同盟という単一組織を結成しようと企図した。彼らは大会を通じて、青年組織内に浸透しつつあった新思潮の影響を防ぎ、満州一帯の朝鮮青年団体をすべて自己の掌中におさめようとした。

 われわれは東満青総や南満青総のような青年組織とは関係なく独自に活動していたので、この大会に参加する必要はなかった。だが、大会を国民府の人たちにまかせきるわけにはいかなかった。南満青総と東満青総には、分派分子の影響も少なからずおよんでいて内部が複雑だった。まかり間違えば、大会を契機にかえって青年運動の分裂をいっそう深めるおそれがあった。

 われわれは、大会に主動的に参加して青年の分裂を防ぎ、青年団体の代表たちによい影響を与える必要があると考えた。

 わたしは白山青年同盟の代表として南満青総大会に参加することにし、金史憲と一緒に吉林を発った。

 金史憲は、朝鮮革命党の会議に参加するため旺清門へ行くところだった。彼は、わたしの旅費を負担してくれた。朝鮮革命党は、国民府の成立後、その憲章にもとづいて独立軍が結成した政党である。民族主義者は、国民府は自治行政機関で、朝鮮革命党は民族主義陣営全般を指導統制する民族唯一党と称していたが、実際上は国民府の変身にすぎなかった。

 わたしは旺清門へ直行するつもりだったが、金赫、車光秀、崔昌傑に会いたくて、彼らが活動している柳河県にしばらく立ち寄った。

 彼らは、柳河一帯の反帝青年同盟組織を拡大しつつ、猛烈な活動を展開していた。車光秀は、孤山子東盛学校に特別班を設け、共産主義者を育成していた。表向きは特別班と呼んでいたが、内部での名称は社会科学研究会であった。この研究会には、反帝青年同盟の支部が組織されていた。

 彼らは孤山子にかぎらず、南満州の各農村にそういう形式の研究会を設け、数多くの青年を教育して共青と反帝青年同盟組織を結成した。

 わたしは現地に行ってはじめて、彼らがわたしに報告した内容をはるかにしのぐ活動をしていることがわかった。

 柳河での日程を終えて旺清門へ向かおうとすると、車光秀が同行するといいだした。国民府の上層部の人物が共産主義に同調する青年の行動に目を光らせているから、わたしを一人で行かせては安心できないというのである。われわれが旺清門に到着したときは、すでに吉林青年同盟、吉会青年同盟、三角州青年同盟など各青年組織の代表たちが来ていた。

 わたしは到着するとすぐ玄黙観を訪ねていった。玄黙観は国民府の結成後、吉林から旺清門に移っていた。彼は、国民府本部が成柱に大きな期待をかけているから、今度の大会で重要な役割を果たしてほしいといった。そして、会議の期間は、自分の家に寝泊りして、青年運動の将来について語り合おうといった。

 わたしは彼の誠意がありがたかったが辞退して、母方の遠縁にあたる康弘楽(カンホンラク)の家に泊まることにした。大会の準備メンバーがせわしなく出入りする玄黙観の家は、わたしが泊まれるような状態ではなかった。

 康弘楽は、民族主義左派に属する知識人で、化興中学校で教鞭をとっていた。この学校は東満州の大成中学校と同様、独立軍が民族主義の教育をほどこしている学校だった。

 ところが、彼らがいくら民族主義教育を実施しても、出てくるのは共産主義者ばかりだった。看板は民族主義だが、内容は共産主義だったのである。

 康弘楽の妻の呉信愛(オシンエ)は、容姿端麗なモダン女性だった。歌が上手で、南満州地方の組織では「ウグイス」という愛称でとおっていた。

 国民府は大会に先立って、各地域から来た青年組織の代表たちで予備会議を開き、大会準備委員を選出した。準備委員会には崔峰(チェボン)をはじめ、われわれの同志も何名か加わった。崔峰とは華成義塾時代に知り合った仲だった。南満青総で幹部として活動していた彼は、当時、朝鮮人居住地域をたびたび演説して歩いた。華成義塾に来て講演をしたときも、なかなかの好評だった。理論水準が高く、仕事熱心なしっかりした青年だった。その後、彼は、われわれと親しくしているうちに共産主義に同調するようになった。

 わたしも準備委員に選ばれた。準備委員会では十分な討議をへて、誰にも受け入れられる大会決議案を作成した。その他の文章もわれわれの意図どおり準備された。

 わたしは旺清門に到着した翌日から、青年代表に働きかけた。その手はじめとして、化興中学校の校庭で青年の集会を開いた。いろいろな青年組織の代表が一堂に会した機会に知り合って、影響を与えようという考えからである。あらかじめ話をしておかなければ、彼らが国民府の指導者たちに翻弄されるおそれがあった。わたしはこの集会で、朝鮮青年運動が真の統一を遂げるためには、思想、意志のうえで団結すべきであり、それは新たな先進思想にもとづく団結であるべきだと強調した。ところが、その演説内容がすぐ国民府の指導者たちに知らされたようである。わたしは金利甲を通じて、彼らがわたしの動きに神経をとがらせていることを知った。柳河を発つとき、車光秀が心配したのは根拠のないことではなかったのである。

 「トゥ・ドゥ」の最初のメンバーの一人であった金利甲は、華成義塾の廃校後、旺清門からほど遠くない全京淑(チョンギョンスク)という婚約者の家に身を寄せて、その一帯の革命化に努めていた。展開力があり胆が太くて、仕事の進め方も大胆だった。「反共」を旗印のように振りかざしている民族主義者の活動地域で、人びとに共産主義を宣伝するのは容易なことではなかった。

 金利甲は、大会を傍聴するため旺清門に来ていた。わたしが化興中学校で演説をした翌日、彼はわたしを訪ねてきて、全京淑の家で夕食を用意したから一緒に行こうといった。彼がわたしを招いたのは、国民府の動静を知らせるためだった。

 彼は、国民府は大会準備委員の全員逮捕をもくろんでいるといった。そして、国民府が手を打つ前に早く身をひそめるほうがいいと勧め、自分も様子を見てどうしても危なかったら、その晩のうちに旺清門を去るつもりだといった。彼の話によると、玄黙観が国民府の幹部の集まった場所で、成柱はもう自分たちとは思想が違うのだから、このさい決着をつけるべきだといったそうである。

 しかしわたしは、あらかじめ身をひそめるつもりはなかった。なにも国民府を害した覚えのないわたしを、まさか捕えるようなことはしないだろうと高をくくっていたのである。共産主義の宣伝をするからといって、玄黙観がわたしを問題にするというのも論外だった。わたしが共産主義運動をしているのは、吉林の民族主義者がみな知っていることだった。もちろん、玄黙観自身もしばらくのあいだ同じ屋根の下で起居をともにしたのだから、それを知らないはずがなかった。だというのに、いまさら逮捕するというのはなんということか。われわれは国民府の打倒を叫んだわけではなく、新しい思想にもとづいて、すべての朝鮮青年が団結しようと訴えただけなのである。それが迫害の理由になるというのだろうか。

 わたしは、必要なら国民府の幹部と談判をしてみる腹だった。わたしが康弘楽の家へもどると、外出先から帰った呉信愛がまた不吉な知らせをもってきた。崔峰をはじめ数人の大会準備委員が国民府の軍隊に逮捕されたというのである。そして、わたしも彼らが捜している者の一人だから、早く身をひそめるようにというのだった。

 わたしは憤激をおさえることができなかった。われわれは、旺清門に来た当初から、南満青総大会を民族主義者との統一戦線実現の重要な契機にするため最善をつくした。大会の決議案もそういう方向で作成されていた。

 それにもかかわらず、国民府の上層部は、われわれの誠意ある努力にテロをもってこたえようとしているのである。

 わたしは、国民府の青年活動の責任者高而虚(コイホ)と会って談判しようと思った。車光秀も国民府の動きを知って、数人の反帝青年同盟員と一緒に康弘楽の家に駆けつけてきた。

 彼らは、まず国民府に狙われている大会準備委員たちが旺清門から抜け出すべきだと主張した。

 しかし、身辺が危ないからといって逃げ隠れしているわけにはいかなかった。

 今度の大会を通じてわれわれの目的を達成することができなくなったいま、残された方法は、国民府のテロ分子と談判して、われわれの正当な立場を明らかにすることだとわたしは考えた。民族主義者との合作を果たすためには、いつか一度は腹を割って話し合う必要があった。雰囲気は殺伐としていたが、いまがその好機だといえた。逮捕された同志を救い出すためにも、ぜひ彼らに会わなければならなかった。それも、わたしが、じかに行かなければならなかった。

 わたしはみなを説き伏せ、車光秀にあとのことを頼んで高而虚を訪ねていった。

 高而虚は、国民府の保守派のうちでも、もっとも傾向のよくない人物だった。民族主義陣営では「理論家」といわれていた。わたしが部屋に入ると、彼はびっくりした。まさか、わたしがやってくるとは思わなかったようである。

 わたしは高而虚に、崔峰などの大会準備委員を逮捕した理由をただした。ところが彼は、自分たちもいま彼らの行方を探しているところだとしらを切った。

 わたしは裏表のある彼の態度にいっそう憤りを覚えたが、気を静めて説得に努めた。

 国民府は青年運動の統一をめざして会議を招集したはずなのに、会議で青年の言い分を聞きもせず決議案を見て驚き、代表たちを逮捕するというのはあまりにも性急で独善的な行為ではないか、大会の文書が気に入らないので委員たちを逮捕したとのことだが、どこが気に入らないのか指摘してもらいたい、草案なのだから気に入らなければ手を加えよう、あなたがたは大会の主催者なのだから、気に入らないところがあれば委員たちを呼んで相談すべきであって、なんの罪もない人たちをみだりに捕えていくようでは、青年がどうして安心して新思潮を摂取し、不屈の反日闘士に育っていけるというのか、と追及した。

 高而虚は、青年たちが過激に走っているようなので、それを遺憾には思っているが、逮捕の件についてはあずかり知らないことだと言い張った。

 わたしは彼に、あなたもソウルで学生運動をした経験があり、日本警察の網をくぐってソ連へ行こうとしたくらいだから、共産主義がどんな思潮で、それがどの程度世界に伝播しているかを知らないはずがない、いま革命を志す人で共産主義を理解しない人はほとんどいない、わたし自身にしても同様だ、わたしは独立運動家が設立した華成義塾に通い、吉林に来てからも独立軍指導者たちの家に3年も身を寄せていた、そんなわたしでさえ民族主義運動ではなく共産主義運動をはじめるようになったのだ、青年が新しい思想を信奉するのは、共産主義の理念に従う道が祖国の解放を早める道であり、わが民族の将来に幸福をもたらす道だと確信するからだ、あなた方も祖国独立のために立ち上がった人たちであるのに、国と民族の未来のために奮闘している青年を援助できないまでも、逮捕するというのはもってのほかだ、と抗議した。

 そして、新しい思潮に従う青年を迫害しようとせず、手をとりあって反日共同闘争を展開すべきだと訴えた。

 事実、共産主義を信奉する青年を除いてしまえば、南満青総そのものが存在できない状態であった。

 高而虚は鼻で笑いながら、国民府はたとえ南満青総を捨てるようなことがあっても、共産党の手に渡すわけにはいかないというのだった。

 わたしが、どうしてかと反問すると、彼は、磐石県でM・L系の分派分子らが棍棒団というテロ団を組織して民族主義者を襲撃した事件を例にあげ、そういう者たちとどうして手をとれるのか、とあざけった。

 わたしも、1929年の夏、M・L派が三源浦一帯で民族主義者を倒そうとして、国民党軍閥の警察に朝鮮の独立運動家たちが反乱を企てているという虚偽の密告をした事実があったことを知っていた。

 M・L派は、民族主義者との統一戦線を主張するわれわれのことも快く思わず、棍棒団をくりだして反帝青年同盟の幹部を襲撃する暴挙をあえてした。柳河一帯の反帝青年同盟員が崔昌傑の率いる武装グループの護衛をうけるようになったのも、棍棒団の暴行のためだった。

 わたしは高而虚に、われわれはそういう分派分子とは全然無関係な青年たちだと、また説得に努めた。分派分子は民族主義者ばかりでなく、われわれにも争いを挑み、彼ら同士でも派閥をつくってたえずいがみあっている醜悪なやからだ、そういう連中とわれわれを同じ秤で計ろうとしてはいけない、と強調した。しかし、高而虚はわたしの誠意ある説得を最後まで受け入れようとしなかった。

 わたしは、もしあなたたちがあくまで青年の気勢をくじこうとするなら、歴史にぬぐいがたい罪悪を残すことになるだろう、あなたたちは何人かの手足を縛ることはできても、共産主義をめざす青年の思想はおさえることができない、よし、わたしを殺すなら殺せ、わたしは死ぬ覚悟ができている、と迫った。

 あれほどいったのだから多少は刺激をうけただろうと思ったのだが、国民府の指導者たちはますますかたくなな対決姿勢をとり、その日の夜、旺清門駐屯独立軍部隊を非常呼集してわれわれを逮捕しようとした。

 わたしは流血を防ぐため、車光秀を急いで三源浦へ送り帰した。

 国民府の指導者たちが、柳河県の同志たちにまで手をのばすおそれがあったからである。南満青総大会に参加するためにやってきた共青員と反帝青年同盟員もその夜のうちに旺清門を抜け出させた。わたしは同志たちに、国民府が南満青総大会を招集しておきながら、進歩的青年に危害を加えようとしているから大会をボイコットし、彼らのテロ行為にたいしては檄を飛ばして広く告発しようといった。

 こうして南満青総大会は流産してしまったのである。

 わたしも旺清門を去ることにした。

 同志たちは、崔昌傑の活動している柳河県三源浦へ行き、そこで檄文を書いて満州各地へ送り、われわれだけで大会を開こうといった。しかし、独立軍の勢力圏にある三源浦へ行くのは危険だった。

 わたしは、三源浦と陵街のどちらへ行くべきかと考えた末、陵街へ行ってつぎの活動方向を決めることにした。陵街で少々息を入れてから吉林に帰り、そこにもいられないようであれば撫松へ行って、国民府のテロ旋風がおさまるまで大衆組織の指導にあたることに決めた。

 わたしはその晩、康弘楽の家に帰って「わたしがここに泊まっていてはつかまりそうです。陵街へ行くつもりですから旅費を少し都合してください」と頼んだ。

 康弘楽は、わたしの話を聞いて心配そうに溜息をついた。

 「道もわからないのに、どうやって行くつもりだ?」

 「道路にそって8里ぐらい突っ走ればいいのですから、心配いりません」
 陵街へ行けば文光中学校出身の組織メンバーがいるから、しばらくはなんとかなるだろうというと、康弘楽夫妻はやっと安心したようで、弁当と薄板の飴をいくつか包んでくれた。

 文光中学校出身の組織メンバーというのは申永根(シンヨングン)のことである。申永根は陵街の韓興学校の校長を勤めていた。

 わたしは、翌日の昼どきになって陵街にたどりついた。

 韓興学校高等科の女学生たちは、わたしに心のこもった接待をしてくれた。江東当時の反帝青年同盟員だった申永根の愛人安信英は、学友と一緒にブンドウのゼリーやさっぱりした冷やし汁など心づくしのご馳走をつくってくれた。そのときの昼食のおいしかったことはいまも忘れられない。

 わたしは食事を終えたあと、綿のように疲れていたが学校の運営状況を立ち入って聞いた。そのうち、わたしはつい眠りこんでしまった。夜通し8里の道を歩き通したので、くたくたになってしまったのである。申永根は、わたしが目をさましはしまいかと始業の鐘も鳴らさず、校庭の生徒を一人一人手招きして授業をはじめたという。

 わたしが陵街にとどまっているあいだ、国民府に逮捕された大会準備委員たちがついに処刑されたという悲報が届いた。彼らは、崔峰、李泰熙(リテヒ)、池雲山(チウンサン)、李蒙烈(リモンリョル)、李光先(リグァンソン)、趙熙淵(チョヒヨン)など21、2歳の若い6人の青年を旺清門槐帽地区の谷間で虐殺してしまったのである。

 崔峰をはじめ6人の青年は最期を前にして、「われわれは勤労者大衆の立場で自分が犠牲になることをすでに覚悟していた。だが、おまえたちの手にかかって死ぬのは無念千万だ」といって国民府の罪業を糾弾し、『革命歌』をうたい、「革命勝利万歳!」を叫んだという。

 国民府のテロ分子はその後、その6人の青年の家族をも皆殺しにしようと企んだ。高而虚は、殺人陰謀をわたしに知らせた呉信愛まで引きずりだして無惨にも殺害した。

 われわれは陵街で、国民府指導部の罪業を告発する檄文を涙ながらに書きつづった。その檄文を崔昌傑が活動している三源浦で謄写して発表し、各地の革命組織にも送って弾劾大会を開くようにした。

 われわれは、青年大衆の前衛闘士を共産青年だという理由で虐殺したいわゆる国民府とは、ひと握りの反革命分子の営利の場であり、殺人謀議所であり、中国の労働者、農民を虐殺した蒋介石の手下と変わりない反逆集団であると糾弾した。

 この檄文が発表されて以来、新しい世代の共産主義者と国民府は、真っ向から対立するようになった。国民府のテロ分子は、われわれの系列の青年に会いさえすれば、見境なく「討伐」した。当時、多くの頼もしい青年が彼らの手にかかって犠牲になっている。

 われわれの胸には、国民府にたいする恨みが炎のように燃えさかった。

 旺清門事件があってから、わたしは胸が痛んで幾夜も眠れなかった。国を取りもどそうと革命の道を選んだのに、同じ民族から被害をうけることになったのがくやしく、無念でならなかった。

 われわれは「トゥ・ドゥ」結成の当初から、つねに民族主義者との共同闘争を模索してきた。安昌浩の思想が改良主義的なものであると知ったとき、われわれはその思考方式を批判しながらも、彼が逮捕されたときにはためらうことなく釈放闘争を展開した。3府統合会議が権力争いでずるずる長引いたときは、愛国勢力の団結を願うわれわれの気持ちをこめた演劇で民族主義者に警鐘を鳴らし、独立運動団体が国民府に統合されたときは、それを心から歓迎した。しかし、国民府の指導者たちはわれわれの誠意に顔をそむけ、野蛮な殺戮をもってこたえたのである。

 わたしはあのとき陵街で、「朝鮮人は3人集まっても団結して日帝と戦わねばならない」といった車千里老人の言葉をあらためて思い起こした。

 独立運動家のなかにも、団結を唱える人は少なくなかった。大衆は、すべての愛国者が主義や団体、信教の違いにかかわりなく、互いに手をとり、力を合わせて反日抗争に決起することを期待した。

 しかし、国民府のテロ分子は、民衆の期待を容赦なく踏みにじってしまった。

 いまでも旺清門の惨事を想起するたびに、当時の憤怒がそのまま全身によみがえってくる。わたしはあの悲劇をふりかえるたびに、わが民族内部であのように残酷で無意味な殺戮がこれ以上くりかえされてはならないと考える。高而虚や玄黙観もこの世の人であるなら、そう考えるに違いないと確信する。わたしと人間的にあれほど親しみながら、理念の違いによって同じ道を歩めなかった玄黙観は、その後、長沙でテロ分子に殺害された。結局は、彼自身もテロリズムの犠牲になったのである。

 彼の娘、玄淑子が解放後、上海臨時政府の人士について祖国に帰り、ソウルの半島ホテルから自分の母親あてに送った手紙が、現在、党歴史研究所に保管されているはずである。

 彼女の子どもたちは、分断された祖国の北側で幸せに暮らしている。

 朝鮮の民族解放闘争の歴史は、共産主義者の進む道が愛国愛族の道であり、共産主義者こそは祖国と人民をもっとも愛する真実で堅実な愛国者であることを証明している。

 こんにち、国土が分断され、外部勢力の干渉がはなはだしい状況のもとで、民族の団結が第一の生命であることを痛感するたびに、わたしは旺清門の悲劇を思い起こすのである。



 


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