金日成主席『回顧録 世紀とともに』

8 車光秀が求めた道


 吉林時代を回想すれば、忘れがたい多くの人たちの顔が思い浮かぶ。彼らの前列には、つねに車光秀が立っている。

 わたしが彼とはじめて会ったのは、1927年の春であった。

 わたしに車光秀を紹介したのは崔昌傑だった。崔昌傑は華成義塾が廃校になったあと、正義府の本拠の一つであった柳河県の三源浦で独立軍に服務していた。

 ある日、彼の連絡員が手紙を持ってわたしを訪ねてきた。手紙は、車光秀という人物が吉林に行くから会ってほしいということと、自分もおっつけ吉林に出向くという内容だった。

 数日後、わたしがキリスト教青年会館での講演を終えて帰ろうとしたときである。首がやや横に傾いたメガネの青年がわたしの前にあらわれ、だしぬけに、崔昌傑を知っているかとたずねた。わたしが知っていると答えると、彼はやにわに手を差し出した。それが車光秀であった。

 その日、車光秀は、あまり語ろうとせず、しきりに、わたしに話をさせた。それで、おのずと彼が質問し、わたしが答えるという形の対話になった。

 彼はなんとも無愛想で、取っ付きにくいという印象を残して、どこへ行くともいわずに立ち去ってしまった。

 しばらくして、約束どおり崔昌傑が吉林に来た。吉林には、正義府の指導部があり、彼らを護衛する中央護衛隊が新開門の外に幕舎を張っていた。崔昌傑は、自分の中隊から中央護衛隊に連絡する用務ができたのを幸いに、吉林へやってきたのである。

 わたしは崔昌傑に、車光秀との対話の内容や彼の初印象について語り、彼がまだ心を許そうとしていないようだと話した。

 崔昌傑は、自分がはじめて彼に会ったときもやはりそういう印象だったが、付き合ってみると情義に厚い人間だといった。

 ある日、崔昌傑が所属している独立軍の中隊長に、柳樹河子学校に共産主義の宣伝をする教員がいるという通報が入った。

 中隊長はただちに、その教員の逮捕を命じた。

 崔昌傑は、共産主義といえばあたまから異端視する独立軍に車光秀が乱暴されるのではないかと思い、自分の影響下にある隊員たちによく言い含めて任務につかせた。

 隊員たちは車光秀の下宿先で夕食をとることになったのだが、出された食事はずいぶん粗末であったようである。粟飯をひとさじすくって水に入れると、死んだコメムシや粟がらが浮き上がってきたという。

 行く先々で供応をうけるのが当然のことと思っていた隊員たちは、これでも飯か、独立軍をなんと心得ているのか、とわめきだした。

 そのとき、車光秀が主人をかばった。

 「当家の主人はここ数日来、穀物を切らして菜っ葉で口しのぎをしているのだ。それでも独立軍をもてなそうと、地主から穀物を借りてきて飯を炊いてくださったんだ。それが無礼だというなら、そんな粟をくれた地主が悪いのであって、心をこめてもてなす主人になんの罪があるというのだ」

 額に青筋を立てて息まいていた独立軍の隊員も、車光秀の話を聞いて口をつぐんでしまった。もっともな話で、難癖のつけようがなかったのである。

 最初は、独立軍をなんと思っているのかとわめいていた彼らであったが、しまいには、車光秀の人柄にすっかり惹かれ、逮捕はおろか手ぶらで帰り、車光秀という人は共産党ではなく、たいへんな愛国者だと中隊長に報告した。

 崔昌傑自身も、車光秀に会ってみると、たしかに付き合ってみるだけの人物だというのであった。もともと崔昌傑は、いったん気に入った人間には最後まで真摯に誠意をつくす性分だった。

 わたしは、彼が気に入ったのなら、車光秀はよい人物に違いないと信じた。

 崔昌傑が帰って1週間ほどしてから、車光秀がまた前ぶれもなくあらわれた。彼は、しばらく吉林を見物して歩いたと一言いってから、やぶからぼうに、民族主義者との同盟問題をどうする考えなのかと聞いた。

 蒋介石の中国共産党にたいする背信行為をめぐって、当時、共産主義運動内部では、民族主義者との同盟問題がさかんに論議されていた。この問題にたいする見解は、真の共産主義者と日和見主義者とを識別する一つの試金石となっていた。そのため、車光秀も会うや否やわたしの見解をたずねたに違いない。事実、蒋介石の変節によって中国革命には複雑な事態が生じていた。

 蒋介石の背信行為以前までは、中国革命がめざましい高揚期にあった。中国共産党と国民党の合作は、革命推進の強力な要因であった。

 1920年代の後半期から、中国革命は革命戦争の方法で全国の反動支配をくつがえす方向に進んだ。帝国主義打倒、軍閥打倒、封建勢力粛清のスローガンのもとに、1926年の夏から北伐を開始した国民革命軍は、湖南、湖北、江西、福建などの各省を掌握して揚子江流域の主な都市をあいついで占領し、日帝の肩入れで華北地方まで手中に収めていた張作霖反動軍閥に強力な圧力を加えていた。

 上海の労働者は3回にわたる英雄的蜂起によって都市を掌握し、武漢と九江の人民は北伐革命の勝利に励まされて、イギリス帝国主義者から租界地を奪い返した。労働者はゼネストによって北伐軍の進攻に呼応し、農民は労働者とともに死を決して大挙北伐戦争に参戦した。

 こうしたときに、蒋介石は、国共合作をくつがえし、革命を裏切ったのである。彼は革命の指導権を独占するために、陰謀をめぐらして国民党指導部と政府から共産主義者を除去しはじめ、帝国主義列強の支持を得るための裏工作を猛烈に展開した。

 蒋介石の背信行為がなかったなら、中国革命はより長足の前進を遂げていたはずであり、したがって、民族主義者との同盟問題もいまのようにするどく提起されはしなかっただろう、といって車光秀はたいへんくやしがった。

 広東革命根拠地が強固になり、北伐革命が日程にのぼると、蒋介石はすかさず軍事独裁を樹立し、共産党にたいするファッショ的なテロ戦に移った。1926年3月、彼は中山艦事件を起こし、それを契機に黄埔軍官学校と国民革命軍第一軍から周恩来をはじめ、すべての共産党員を締め出し、1927年3月には孫中山の3大政策を支持する国民党南昌市党部と九江市党部を武力で解散させ、3月31日には重慶で大衆集会場を襲撃して数多くの市民を虐殺した。

 さらに1927年4月12日には、上海で野獣のごとく革命大衆を虐殺した。この血なまぐさい大虐殺は地方にまで波及した。

 この事件を境にして、中国革命は一時、退潮期に入った。

 国際共産主義運動内部では、中国革命のこうした実態から教訓を汲みとるべきだとして、共産主義者は民族主義者と手を握ってはならないという極端な主張まで一部にあらわれた。

 こうした雰囲気がたぶん、車光秀に刺激を与えたようである。

 朝鮮の共産主義者が祖国解放のため民族主義者とも手を結ぶべきだというのは、「トゥ・ドゥ」結成当時からのわれわれの立場であった。

 その日、わたしは車光秀に、朝鮮の一部の堕落した民族主義者が日帝に屈して「自治」や民族改良主義を説いているが、良心的な民族主義者と知識人は国内と海外で志をまげず、朝鮮独立のためにたたかっている、日帝の野蛮な植民地支配を体験している朝鮮の民族主義者は反日精神が強い、したがって、そういう民族主義者、民族資本家とは手を結ぶべきだ、と話した。

 民族主義者との同盟問題にかんするこのような見解は、民族主義にたいするわたしなりの独自の解釈にもとづいていた。現在もそうであるが、当時も、わたしは民族主義を民族解放闘争の舞台に真っ先に登場した一つの愛国的な思潮とみなしていた。

 もともと、民族主義は、民族の利益を擁護する進歩的思想として発生した。

 没落の下り坂を歩んでいた王政の末期に、内憂外患がつづき、外部勢力の強要による開国の陣痛のため国運が旦夕に迫っていたとき、開化ののろしを上げ、「自主独立」「輔国安民」「斥洋斥倭」を唱えて歴史の舞台に登場したのがほかならぬ民族主義であったといえる。民族の自主権が外部勢力によって無惨に踏みにじられ、国土が利権争奪をめざす列強の角逐の場と化していたとき、民族の利益を擁護する思潮が登場して大衆の指導思想となったのは、歴史の発展法則に合致する必然的な現象である。

 新興ブルジョアジーが、民族主義の旗をかかげ、民族運動の先頭に立ったからといって、民族主義が最初から資本家階級の思想であったとみるのは、公正な見解とはいえない。

 封建主義に反対するブルジョア民族運動の時期には、人民大衆の利益と新興ブルジョアジーの利益は基本的に一致していた。したがって、民族主義は民族共通の利益を反映していた。

 その後、資本主義が発達し、ブルジョアジーが反動的支配階級になってから、民族主義は資本家階級の利益を擁護する思想的道具となった。したがって、民族の利益を擁護する真正な民族主義と、資本家階級の利害を代弁する思想的道具としてのブルジョア民族主義は、つねに区別して見なければならない。これを同一視するなら、革命実践上、大きな過ちを犯すようになる。

 われわれは、ブルジョア民族主義には反対し警戒するが、真正な民族主義にたいしてはこれを支持し歓迎する。なぜなら、真正な民族主義の基礎をなす思想・感情は愛国心であるからである。愛国心は、共産主義者と民族主義者に共通の思想・感情であり、両者が民族のための一つの軌道で互いに和合し、団結して協力できる最大公約数である。

 愛国愛族は、共産主義と真正な民族主義とを結びつける大動脈であり、真正な民族主義を連共の道へ導く原動力である。

 かつて、真正な民族主義者は、この愛国愛族の旗のもとに、国の近代化と外敵に奪われた国土を取りもどすたたかいで少なからぬ功績を積みあげた。

 現在、北と南に相異なる体制と思想が存在する分断状況のもとでも、われわれが祖国統一への確固不動の信念をいだき、その実現をめざして頑強にたたかっているのは、まさに共産主義者と真正な民族主義者が共有する愛国愛族の精神に、民族和合の大業成就を可能にする絶対的な源泉を見いだしているからである。

 単一民族国家であるわが国において、真正な民族主義はとりもなおさず愛国主義であるというのは、動かしがたい一つの原理である。こうした原理からして、わたしはつねに愛国的な真の民族主義者との団結と協力を重視し、それを朝鮮革命の勝利の確固たる裏付けとみなした。

 これは、青年学生運動のころから今日にいたるまで、わたしが変わることなく堅持してきた見解であり立場である。

 わたしは、車光秀に会ったその日も、真正な民族主義とブルジョア民族主義は区別しなければならない、と強調した。

 話を終えると、車光秀はいきなりわたしの手をとり、高ぶった声で「成柱!」とわたしの名を呼んだ。

 わたしが理論にすぐれていて彼を納得させたのだとは思わない。すべての問題を朝鮮の具体的現実にもとづいて判断し、空理空論ではなく、革命という実践を重視するわたしの立場と思考方式が車光秀の共鳴を呼んだのであろう。

 それ以来、車光秀は腹を割って話すようになった。わたしにたいする彼の態度は一変した。それまでは、わたしが主に話をし、彼は聞き手にまわっていたのだが、そのときからは、わたしの方から聞かなくても自分から進んで話した。

 うちとけて付き合ってみると、車光秀はなかなか粋な人間であった。年はわたしより7つも上で、日本へ渡って大学にも通った人だった。文章家で演説も達者だったが、心根がたいへんよくて青年を多く引きつけ、マルクス主義の専門家としてもきわめて人気があった。彼と朴素心がマルクス主義の諸問題をめぐって論争するときなどは、互いに一歩もゆずろうとしなかった。

 火曜派のリーダー金燦(キムチャン)も、車光秀の前ではしどろもどろの体だった。彼は、マルクス主義にかんする論争では車光秀の敵ではなかった。車光秀は最初、金燦が共産党の大物だというので一目おいていたが、何回か会ってからは中学生なみにあしらうようになった。車光秀にソウル・上海派の申日鎔(シンイリョン)とも論争させてみたが、彼も車光秀の相手ではなかった。

 車光秀は、首をやや左に傾けて歩く癖があった。幼いころ首に腫れ物ができて、首を曲げて歩いたのが癖になってしまったそうである。

 車光秀は、平安北道の出身だった。幼いころから頭がよくて郷里の人にほめそやされた彼は、10代で日本へ渡って苦学をした。彼がマルクス・レーニン主義書籍を読んで共産主義に引かれるようになったのは、そのころのことだった。

 車光秀が新思潮を摂取しながら苦学をしていたころ、日本の共産主義運動は下り坂にさしかかっていた。創立して間もない日本共産党は、1923年6月の党指導部にたいする第1次検挙と関東大震災当時の白色テロによってかなり弱体化し、その後、指導部に潜入した日和見主義者の策動によって解散を余儀なくされた。したがって、共産主義運動が退潮期にある日本に居座ってなんらかの運動を模索し、マルクスの書籍をあさっているのは味気のないことだった。

 車光秀はソウルへもどってきた。ソウルに来ては共産主義運動家たちに会ってみた。ところが、同じマルクス・レーニン主義を唱えながら、派閥や支流があまりにも複雑で、皆目見当がつかない有様だった。

 車光秀は各派の主張の正否をただし、自分の進路を求めようと、わが国における初期共産主義運動の歴史とその系譜、派閥関係などをじっくりと研究しはじめた。だが、それは迷路をさまようようなものであった。

 3人1党、5人1派式に派閥や支流は数えきれないほどだった。各派はするどく対立していたが、実際上、思想的立場や政治的見解では本質的な違いはなかった。

 車光秀は、自分が国内にいたとき、分派分子の策動のうちでもっとも汚らわしく思ったのは洛陽館事件だったといった。洛陽館事件というのは、火曜派系と北風会派系が洛陽館という料亭で会合を開いたとき、両派の結託に反感をいだいていたソウル派が会場を襲って暴力をふるい、数人に重傷を負わせた事件である。重傷を負った方では、ソウル派の加害者を相手どって、日帝の裁判機関に刑事訴訟を起こした。この事件の数日後、北風会派がソウル派の人物に暴行を加えて重傷を負わせた。すると今度は、ソウル派の被害者が日帝の裁判機関に北風会派の加害者を相手どって刑事訴訟を起こしたのである。

 こうした派閥争いがこうじて、ついには、それぞれテロ団を組織して他派と対決するまでにいたった。

 共産主義運動家と称する人たちがなぜ、あれほどまで堕落しなければならないのだろうか、と四六時中嘆いていた車光秀は、考えぬいた末にソウルを離れて満州にやってきた。満州はソ連に近いから、そこへ行けばコミンテルンのルートを探り当て、朝鮮共産主義運動の新しい道が求められるのではなかろうかという、一縷の望みからである。

 満州で、彼は政友会宣言というものを読んだ。

 分派分子は政友会宣言で、朝鮮共産主義運動を分派闘争から救い出すため、互いに中傷することをやめて公開討論を進め、理論闘争によって大衆に正しい進路を示すべきだと力説した。しかし、もし政友会の主張どおり公開論争をおこなえば、利益を得るのは朝鮮共産主義運動ではなく日帝の特高の方だった。

 朝鮮共産党が創立されたのち、火曜派は、ソウル派と対立して派閥争いをつづけながら、自派の優勢を誇示するため、彼らが準備していた民衆運動家大会の準備委員72人の名を新聞紙上に公開したことがある。それは、ヘゲモニー争いに血眼になった分派分子が、共産党幹部の名簿を日帝にそっくり引き渡した公開密告書にひとしいものであった。日帝は、それを手がかりに共産党の幹部を大々的に検挙した。この検挙旋風によって、火曜派の人物はほとんど獄につながれる破目になったのである。

 その教訓を忘れ、分派分子の主張どおり、これからまた公開論争を展開するとなれば、いかなる事態になるかは火を見るより明らかだった。

 日本の実情に明るい車光秀は、政友会宣言が日本共産主義運動内にあらわれた日和見主義的思想潮流である「福本主義」の焼き直しであると糾弾した。

 福本は、党再建のためには「理論闘争」を通じて純粋な革命意識をもった者とそうでない者とを選り分け、純粋な要素のみを結合すべきだと説いたのであるが、彼の分裂主義的でセクト主義的な主張は日本の労働運動に大きな弊害をもたらした。

 車光秀は、福本の理論をうのみにして文章まで引き写した政友会宣言に唾を吐いた。

 彼は、分派分子の犯罪行為に幻滅を感じて柳河へ行った。田舎教師になって、子どもたちに民族の精気を植えつけ、静かに生きていこうと決心したのだった。そうこうしているうちに崔昌傑に出あい、彼の紹介で吉林にやってきたのである。

 異国で雨に打たれて歩くとき、力と希望を与えてくれる正しい闘争路線と指導者を渇望してやまなかった、と車光秀は率直に吐露した。

 彼は自分の経歴を紹介してから、訴えるようにこういった。

 「成柱、ぼくらは、互いに信じ合い、愛し合いながら共産主義運動ができないものだろうか? 分派とヘゲモニー争いをせずにだ!」

 車光秀のこの叫びは、革命の道を求めて他郷万里をさまよい歩いた末に得た人生の総括であり、教訓でもあった。

 わたしも彼の手をとり、われわれ新しい世代は分派分子のように分裂の道を歩むのでなく、一心同体となって革命の道をまっすぐに歩んでいこう、と高ぶる声でいった。

 車光秀は、崔昌傑からわたしを紹介されたときの気持も率直に打ち明けた。吉林で学生運動をしているわたしのことを聞いた彼は、中学生がマルクス・レーニン主義を理解し、共産主義運動をするといったところで程度は知れていると思ったが、ともかく一度会ってみようという気になった、と率直にいった。だからわたしは、人付き合いがよくてひょうきん者の彼を、最初は無愛想な男だと思うほかなかったのである。

 車光秀はその後まもなく、「トゥ・ドゥ」の同盟員になった。

 その年の夏、わたしは、車光秀を新安屯へ派遣した。新安屯は、吉長線の沿線西方のさほど遠くないところにある小さな村で、朝鮮の愛国志士たちが理想郷として開拓した土地だった。満州の朝鮮人居留地域のなかでも有数の政治運動の策源地だった。この村を革命化すれば、農民大衆のなかに入る最初の通路が開かれるはずであった。わたしは、車光秀にその任務をまかせたかった。

 わたしが新安屯村へ行って活動してもらいたいというと、車光秀はけげんそうな顔をした。田舎から運動のルートをやっと見つけてやってきた人間を、なぜまた田舎へやろうとするのか、と冗談まじりにたずねた。他人はソウルだ、東京だ、上海だと大都会を舞台に運動するのもあきたらず、コミンテルンまで訪ねていって意気さかんなところを示しているのに、ちっぽけな村へ行っていったいなにをするというのか、というのだった。彼は古い運動方式に反対しながらも、既成観念から脱皮できずにいたのである。

 わたしは車光秀に、つぎのような内容の話をした。

 大都市でなくては革命ができないと考えるのは間違っている。われわれは、都会であれ田舎であれ、人民のいるところならどこへでも行かなければならない。わが国では人口の絶対多数が農民だ。満州地方の朝鮮人もそのほとんどが農村に住んでいる。農民のなかに深く入っていかないことには、祖国解放の偉業に人民を立ち上がらせることができないし、わが国での共産主義運動の勝利についても考えることはできない。わたしも学校を出たら農村へ行って活動するつもりだ。コミンテルンとのつながりがなくては、共産主義者の名分が立たないかのように思うのも正しくない考え方だ。共産主義者がコミンテルンを尊重するのは、労働者階級の偉業が国際的性格をおびているからであり、労働者階級が国際的に団結せずには、国際的に結びついた資本の鉄鎖を打ち砕くことができないからだ。ひたすら自分に負わされた民族的義務と国際的義務を果たすために誠実にたたかうならば、コミンテルンの承認もうけられるはずであり、われわれが渇望してやまない祖国解放の日も早めることができるだろう…

 いま運動家と称する人たちは、みな上の方へばかり行こうとしている。田舎から地方都市へ、地方都市からソウルへ、ソウルからコミンテルンへと上へあがって行かなくては数のうちに入れず、認められもしないと考えている。無産大衆のための革命を叫びながら、大衆から浮きあがって上にばかりあがろうとしてはどうするのか。われわれは下へおりていこう。おりていって労働者、農民のなかに入ろう…

 「上へあがるのでなく、下へおりていこう」

 車光秀は深刻な面持ちで噛みしめるようにこうつぶやくと、しばらく考えこんでいたが、いきなり拳骨で机をドンとたたき、「まったくすばらしい発見だ!」と叫んだ。

 車光秀の出現によって「トゥ・ドゥ」の中核は新たに補強された。

 われわれの運動圏に、朝鮮共産党の大物とも実力を競えるうそうたる理論家が登場したわけである。

 それ以来、車光秀は3年余り、われわれと苦楽をともにした。彼は、青年学生運動の開拓と大衆の革命化の促進、抗日武装闘争の基礎構築に不滅の貢献をした。新安屯、江東、蛟河、孤楡樹、卡倫、五家子、柳河地方の革命化は、彼の名と切り離して考えることはできない。

 車光秀は最初、吉林周辺の朝鮮人村落を革命的に改造する活動に参加し、その後は吉林を軸にして南満州の柳河と卡倫、孤楡樹、五家子など中部満州の朝鮮人居住地で金園宇、桂永春、張蔚華、朴根源、李鍾洛、朴且石などとともに青年を結集する活動に参加し、最後のころは、安図一帯で反日人民遊撃隊の創建に参加した。

 彼は、どの土地へ行っても人びととすぐなじんだ。大衆性があったからである。人びとは、性格がおおらかなうえ、知識が豊かで弁の立つ彼を非常に慕い、尊敬した。車光秀が担当した社会科学課目の授業は、三光学校(孤楡樹)の生徒がいちばん大きな期待と興味をもって待ち遠しく思うほど、人気のある時間の一つだった。彼は青年学生と農民のために講演をたびたびおこない、歌も大いに普及した。

 白信漢(ペクシンハン)の追悼式でおこなった彼の追悼の辞は有名だった。

 車光秀がもっともよく通ったのは新安屯である。彼は、新安屯の吉興学校の教員を勤めていたとき、この学校の学監の家に寄宿して、村の農民や青年、女性を革命的に教育し、彼らを反帝青年同盟、農民同盟、婦女会、少年会などの各組織に加入させて村を革命化した。

 新安屯は、民族主義者と分派分子の影響下にあったところだった。分派分子がときどきあらわれては、「無産階級革命論」だのなんだのと、わけのわからないことばかり並べたてるので、封建的因習の強いこの村の老人や大人たちは、社会主義といえばうむをいわせずかぶりを振った。

 そんな土地柄だったので、車光秀も最初はなかなか足がかりがつくれなかった。彼はある家の一間を借りて壁紙をきれいに貼り、そこを村人のたまり場として開放し、物知りの老人を二人ほど選んで村の年寄りたちに宣伝活動をさせた。

 老人たちは、晩になるとキセルを腰にさして、そのたまり場に集まってきた。すると車光秀が準備させた老人があれこれとおもしろい話を聞かせ、最後に「いまの世の中は悪い世の中だ。こんな世の中をなくすには地主からなくさにゃならん」といったふうに、革命につながる話をちょっぴりつけ加えてからみこしをあげた。

 こうして老人から先に啓蒙したあとで夜学を開き、講演をおこない、村人と一緒に歌や踊りにも興じて村の雰囲気を明るくした。それで村人たちは、車光秀先生のやるような社会主義なら反対しないといって、革命活動に積極的に参加するようになったのである。

 わたしは、車光秀が新安屯に腰をすえてから、土曜日の授業が終わると、彼のところへよく出かけていった。

 当時、われわれは敵の目をそらすため、吉林郊外のコウリャン畑やトウモロコシ畑の中で学生服を農民服に着替えた。

 新安屯へ行っては、車光秀の活動経験を聞き、仕事の手伝いもした。

 そのような過程で、わたしは車光秀をより深く理解し、彼もわたしをいっそうよく知るようになった。

 われわれが車光秀を通じて新安屯村の革命化を進めていたある日のことである。車光秀が吉林にあらわれ、わたしを北山公園に連れ出した。公園の木陰に並んで座ると、彼は許律という注目に価する人間がいると切り出した。竜井の東興中学校に在学していたときから革命活動に関係していた許律は、最近、法政大学に進学しようと吉林にやってきたのだが、学費の工面がつかず断念したという。

 車光秀が許律に関心をもつようになったのは、彼の背後関係のためだった。車光秀の話によると、許律を吉林に送ったのは金燦だったという。そのときまで、車光秀は金燦に幻想をいだいていた。

 わたしは彼の話を聞いて驚いた。

 金燦といえば、わが国の初期共産主義運動の大物の一人である。彼は第1次共産党の宣伝部長を勤め、第2次共産党結成のさいにも主導的役割を演じた。その後、逮捕される危険にさらされると、上海へ逃れて朝鮮共産党上海部を組織した。金燦は火曜派の代表的人物で、朝鮮共産党「満州総局」の実質上の組織者だった。

 彼が自分の影響下にある青年を吉林に送りこんだのは、われわれに目をつけたからだった。吉林でわれわれが共産主義の旗をかかげて青年学生運動を展開しているといううわさが広がると、彼もわれわれに注目するようになった。そして、われわれの勢力が大きくなるのを見て、しっかりした者を送って彼らの影響力をおよぼそうとしたのである。

 金燦自身も吉林にやってきて青年学生と接触し、たびたび講演もした。わたしも彼の講演を聞いたことがある。「マルクス主義大家」の講演だというので、車光秀と一緒に彼が泊まっていた大東門外の李琴川(リグムチョン)の家を訪ねてみたが、革命に有害なたわいのないことをいうので失望させられた。

 金燦は、自派を朝鮮革命の「正統派」だとして他派をこきおろした。はなはだしいことに、朝鮮革命は無産革命だから、その原動力は、労働者と貧農、雇農で、その他いっさいの非プロレタリア的要素は革命の原動力になりえない、という不当な主張までした。

 わたしは彼の演説を聞きながら、そのような主張は人民大衆の頭を混乱させ、革命実践に莫大な弊害をおよぼす危険な詭弁であり、そういう詭弁とたたかわずには共産主義運動の正道を進めないであろうと痛感した。車光秀も同感だといって、自分はそうとも知らずに金燦をあがめてきたといった。

 当時、分派分子は自派勢力の拡張をはかって、各地で青年に触手をのばしていた。

 そのころ、M・L派の安光泉(アングァンチョン)という人物も白いトゥルマギ(周衣)姿で吉林にあらわれ、共産主義運動の「領袖」気どりで自派勢力の拡張に奔走した。彼はひところM・L系共産党の責任書記を勤めたこともあって、自尊心がたいへんなものだった。吉林には彼を「マルクス主義の大家」としてまつりあげる人が多かった。

 車光秀が、安光泉は理論家として知られている人物だというので、われわれの活動に有益な話を聞かせてもらえるかもしれないと思い、わたしは2度ほど彼と会ってみた。彼も金燦に劣らず演説は上手だった。

 最初は、彼の演説を聞いてみな感嘆した。だが、その印象は間もなく崩れ去った。彼は大衆運動を無視する暴言を吐いた。コミンテルンや大国の力を借りれば、大衆闘争をせずとも革命の勝利を得ることができるというのである。朝鮮のように小さい国は大衆闘争などして無駄な血を流すことなく、大国の力を借りて独立を達成すべきだと力説するのだった。まったく空中楼閣にひとしい詭弁であった。

 それでわたしは、この人間もやはり金燦と同じ空論家にすぎないと思い、彼に、先生のお言葉はとても納得できないといった。

 先生は大衆闘争をないがしろにしながら、なぜ共産党を組織し、共産主義運動をするのか、吉林に来て革命に決起せよと大衆にアピールするのはなんのためなのか、と反問した。そして、大衆を自覚させ、結集して闘争に奮い立たせず、幾人かの共産党指導部の力だけで勝利することはできない、人民を信頼せず、他人の力を借りて独立を達成しようとするのは妄想だと反駁した。

 安光泉はわれわれを小馬鹿にした態度で、それを理解するには酸いも甘いもかみ分けなくてはならない、と空笑いをしながら席を立った。それ以来、われわれは彼を相手にしなかった。

 当時、分派分子は、「朝鮮革命はプロレタリア革命」だの「満州の朝鮮人居住地域でまず社会主義を建設してみよう」といった左傾日和見主義理論をもちだすかと思えば、「朝鮮革命はブルジョア民主主義革命であり、民族解放が当面の目的であるから、革命のヘゲモニーは民族ブルジョアジーが掌握すべきだ」といった右傾日和見主義理論を唱えたりしていた。

 分派分子のなかには、朝鮮のように政治的条件の不利な特殊環境では思想運動はできても政治運動はできないという者もいれば、「独立が先で革命はあと」だという者もおり、「資本主義に反対し世界無産革命を完遂しよう」という超革命的なスローガンで大衆を唖然とさせる者までいた。

 わたしと車光秀は、申日鎔のような人とも論戦した。

 いろいろな分派分子に会ってみたが、彼らは例外なく功名主義とプチブル英雄主義に毒されたはったり屋であり、徹底した事大主義者、教条主義者であった。

 その日、わたしは車光秀に、金燦がいかにうわさの高い人物だとしても、分派の悪習にどっぷりつかった人物だから幻想をもつべきではない、われわれは誰であれ、名声や経歴、地位を見る前に、その思想と革命にたいする立場、人民にたいする観点を先に見るべきだと忠告した。

 すると車光秀は、自分たちは共産主義運動の第1歩を踏み出したばかりなので、金燦のような大物と対立するより手を結ぶほうが有利だと判断したのだが、甘かった、許律とは即刻手を切る、といった。

 彼の態度が一変したのを見て、わたしは慎重にならざるをえなかった。

 許律が分派に染まっている人間ならただちにいっさいの関係を断つべきだが、一時的に道を踏みあやまったのなら、過ちをさとして手を結ぶべきであった。われわれは許律に会ってみることにした。

 ある日、わたしは車光秀の案内で許律のいる江東村へ行った。吉林から松花江橋を渡って敦化方面へ少し行くと竜潭山という山があるが、その山のふもとの村が江東だった。われわれは、そこに反帝青年同盟を組織し、大衆を啓蒙して、やがては新安屯のように革命化された村にする計画だった。

 許律に会ってみると、着実でまじめそうだった。どう見ても、分派の泥沼に落ちこむのを放っておくには惜しい青年だった。

 わたしは彼に車光秀をつけて影響をおよぼす一方、わたし自身も江東村へたびたび行って、いろいろと援助を与えた。

 許律は、われわれの信頼に背かなかった。分派の地ならしをしようとした彼が、しまいには分派に反対して金燦に背を向けるようになった。われわれは、ついに江東村に革命組織をつくり、それにもとづいて村全体を革命化し、許律を「トゥ・ドゥ」の中核に、のちには反帝青年同盟と共青の指導メンバーに育てあげたのである。



 


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