金日成主席『回顧録 世紀とともに』

6 安昌浩の時局大講演


 1927年2月、吉林の同胞たちは前例を見ない歓迎の雰囲気にわいた。上海臨時政府の要職をしめていた独立運動の元老安昌浩先生が北京経由で吉林に到着したのである。

 吉林の同胞は、安昌浩を国家元首なみに盛大に迎えた。われわれも『去国歌』をうたい、彼を心から歓迎した。『去国歌』は、安昌浩が外国に亡命するさい、祖国に別れを告げながらつくった歌である。「さらば さらば いざさらば、なんじをおいてわれは行く」という文句ではじまり、「われが去るとて悲しむな、わが愛する韓半島よ」という文句で終わるこの歌は、「韓日併合」後、とりわけ青年学生のあいだで広く愛唱されていた。亡命者が好んでうたう歌だというので、ひところは『亡命者の歌』ともいわれた。

 朝鮮人は『去国歌』を愛したように、その歌をつくった安昌浩をもたいへん尊敬し崇拝した。安昌浩の人柄と実力を一言で「未来の大統領」と表現する人が多かったが、それはあながち大げさな表現ではなかった。臨時政府を好ましく思わない独立軍団体のリーダーたちでさえ、安昌浩個人にたいしては「独立運動の先輩」とあがめていた。

 安昌浩の人気のほどをよく知っていた伊藤博文が、一時彼を手なずけようとして、日本の政策に対する支持と引き替えに島山(トサン=安昌浩の号)内閣の樹立をもちかけたのは周知の事実である。

 平安南道江西といえば、いまはチョンリマ(千里馬)の発祥地、テアン(大安)の事業体系とチョンサンリ(青山里)精神、チョンサンリ方法を生んだところとして知られているが、日帝植民地時代は島山安昌浩のような独立運動家を輩出した土地として知られていた。安昌浩が江西出身だったので、西部朝鮮の人たちは概して自分は彼と同郷だと自慢したものである。

 安昌浩は、わが国が日本帝国主義者に併呑されたのは民族の資質が低劣なためだとして、共立協会、新民会、青年学友会、大韓人国民総会、興士団といった独立運動団体を組織し、漸進(チョムジン)学校、大成学校、太極(テグク)書館などの教育・文化機関を設立し、『独立新聞』を発刊して民族の啓蒙にも寄与するところが大であった。

 独立運動の元老のなかに、南崗(ナムガン)李昇薫という著名な教育者がいた。李昇薫といえば誰でもまず五山学校を連想する。五山学校は彼が設立し、彼個人の資金で運営した有名な私立学校だった。

 李昇薫は次代の教育につくした功績により、隆熙皇帝の接見をうけた人物である。400年来、西部朝鮮の平民で皇帝に謁見した人は一人もいなかったが、李昇薫がその前例を破ったのだから、彼の名声がどれほどであったかは想像にかたくない。

 このように、高名で人望の厚い人として知られた李昇薫も、もとは金もうけの野心にとりつかれて鍮器の行商をはじめ、ついに50万円余りの不動産をもつ豪商にのしあがった人間だった。

 ところが、その彼が平壌で、教育による実力培養こそ独立救国の基礎であるという安昌浩の演説を聞いて、いたく感服し、まげを切り落として郷里にもどり、教育運動をはじめたのであった。愛国愛族の一念に燃える安昌浩の雄弁が、大貿易商の人生観に新しい帆をかけたのである。これは、民族運動の先駆者としての安昌浩の影響力と感化力を証明する事例の一つである。

 『東亜日報』や『朝鮮日報』など国内の新聞は、安昌浩の吉林到着ニュースを大見出しで報じた。

 青年学生たちは彼が泊まった三豊旅館を訪ねて、吉林の同胞学生のために講演を懇請した。独立運動家も引きも切らず宿所へ押しかけて講演を要請した。安昌浩はそれに快く応じた。

 独立運動家たちはいろいろなルートを通じて、安昌浩の時局大講演会がいつどこそこで開かれると宣伝し、尚埠街、岔路街、通天街、河南街、北大街、牛馬巷街など市内あちこちの街角に大きく広告を張り出した。広告を見た吉林の同胞はひとしく胸をはずませ、会う人ごとに「島山先生が来たそうですね」という言葉をあいさつ代わりにするほどだった。

 講演前日の晩は、わたしも呉東振を相手に安昌浩のうわさ話に花を咲かせた。異郷の空の下で17年ぶりに大成学校時代の恩師に会った松菴(ソンアン)呉東振の感慨は、ひとしお切々たるものがあった。呉東振は、大成学校の師範科に入学するとき安昌浩の面接試験をうけ、入学後も彼からとくに目をかけられたと、当時の思い出をこまごまと話した。そして島山先生がつくった『青年学徒歌』をうたって、若い世代の独立精神の啓発につくした彼の労苦を深い尊敬の念をこめて回想した。彼はとくに、安昌浩の弁論術のすばらしさを実感をこめて語った。

 安昌浩の弁論術については、父も生前にたびたび話したことがある。わたしは万景台時代、すでに父から安昌浩の独立運動は雄弁にはじまり、雄弁をぬきにしてはその名声も考えられないということを聞いていた。

 安昌浩が演説をすると、巷の女性までがそのよどみない弁舌とユートピア論に感動して、指輪や銀かんざしを抜いて献金に応じたといわれているが、それは事実だろうか? それが事実だとすれば、彼の演説が人びとの心を揺さぶる秘訣はどこにあるのだろうか? 安昌浩のような大人物がアメリカや上海でなく、この吉林にいつも来ていたらどんなにいいだろうか。

 「国が独立して、わしに大統領を選ぶ権限が与えられるなら、いの一番に安昌浩先生を推すだろう」

 これはその晩、呉東振がわたしにいった言葉だった。彼のその言葉は、安昌浩の時局大講演にたいするわたしの期待と好奇心をいっそうあおった。

 安昌浩は朝陽門の外にある大東工場で烈士羅錫疇の追悼会を催し、かねて講演をおこなうことになった。

 追悼会参加の3府の代表をはじめ、市内に住む独立運動家や有志、青年学生のほとんどが会場に集まってきた。会場は超満員で、大勢の聴衆が壁際に立って聞かなければならないほどだった。

 安昌浩の演題は「朝鮮民族運動の将来」というもので、さすがに演説は堂に入っていた。彼のさわやかな弁舌は、最初から聴衆の賛嘆を呼び起こした。彼が古今東西の歴史を該博な知識を織りまぜてひもとき、朝鮮民族の活路にかんする自説を力説したとき、場内にははげしい拍手がわきおこった。ところが、その内容が問題だった。

 安昌浩は「民族人格完成論」とユートピア論を説いた。「民族人格完成論」は、「自我人格革新論」と「民族経済確立運動論」の2つの内容からなりたっていた。

 「自我人格革新論」というのは、わが民族が後進国として日本の植民地に転落したのは人格と修養の欠如に起因している、したがって、各人が正直に生き、まじめに働き、和睦をはかれるよう、その人格を高めなければならないというものである。

 安昌浩の主張はどこか、「自我完成論」に表現されたトルストイの思考方法、あるいは自分自身を改造し鍛えることなしには、人間は自由でありえないというガンジーの見解と似通ったところがあった。

 当時は世界的な大恐慌の兆しが生活の各分野にあらわれて、人びとを不安と恐怖に陥れているときだった。極度にファッショ化した帝国主義の台頭によって、人間の自主性が銃剣や首かせをもって容赦なく圧殺されていた。

 プチブルインテリは、鉄のよろいで武装した帝国主義の威力の前に戦慄した。こうした時代的雰囲気のなかで、彼らがすがりついた精神的逃避手段がほかならぬ無抵抗主義だったのである。無抵抗主義は、革命的意志の薄弱な者が帝国主義の攻勢におじけづいて転がりこむ最後の安息の場であった。反革命に立ち向かう力も意志もないので、結局は無抵抗を唱える破目になるのである。

 わが国では、無抵抗主義が改良主義の形であらわれた。民族運動の一部のリーダーは、3.1人民蜂起後、積極的な抗争によって日本帝国主義の植民地支配を一掃しようという革命的立場から離脱し、教育振興運動と民族産業振興運動を民族運動最大の旗印にして、人民の精神的資質と経済生活水準の向上をはかる民族実力養成運動を猛烈に展開した。民族運動の中心指導層をなしていた近代知識人は、土産品の愛用と民族企業の育成によって民族を経済的破滅から救い出そうとした。彼らは「自分の暮らしは自分のもので!」というスローガンをかかげ、経済的自給自足の道を打開する汎国民的な物産奨励運動を起こした。

 この運動の指導者であっだ晩植(チョマンシク)は、土産愛用のシンボルとして、一生、木綿織りのパジ、チョゴリとトゥルマギ(周衣)など朝鮮式の衣服で通した。彼は名刺も国産紙で刷ったものを使い、靴も外国製のものではなく朝鮮製のものを履いた。

 民族改良主義の流布において、李光洙の「民族改造論」は大きな作用をした。この論文を読めば、改良主義の本質がわかり、その危険性を容易に判断することができる。

 わたしが「民族改造論」を読んでもっとも不快に思ったのは、李光洙が朝鮮民族を劣等民族と見ている点であった。わたしは、わが国が後進国だと考えたことはあっても、朝鮮民族を劣等民族だと考えたことは一度もなかった。

 朝鮮民族は、世界ではじめて鉄甲船、金属活字などをつくりだした文化的で聡明な民族であり、東方文化の発展に大いに寄与した誇らしい民族である。また、われわれの先祖は、日本文化の開拓にも少なからず貢献している。外敵の侵害を許さない朝鮮民族の剛健な自衛精神は、早くからアジア諸国に勇名をとどろかせ、白紙のように清楚な朝鮮人民の道徳は世界の賛嘆を呼んでいた。

 朝鮮人民の因習や風俗にはもちろん欠点がないわけではない。だが、それは部分的で二次的なものであって、本質的なものではなかった。二次的なものをもって民族性ということはできない。

 李光洙は「民族改造論」で、朝鮮人が「劣悪な民族性」のために滅んだかのようにいっているが、朝鮮が滅んだのは立ち後れた民族性のためでなく、支配層の腐敗と無能のためなのである。

 朝鮮民族の「劣等」を嘆く李光洙の論調は、日本帝国主義者の論調と軌を一にしていた。日本人は、ふたこと目には朝鮮民族を「劣等民族」だと中傷した。そして「劣等」であるがために日本が「保護」「指導」「統制」しなければならないのだと宣伝した。

 「民族改造論」は、李光洙が日本帝国主義占領者に差し出した公開転向文にひとしいものであった。この転向文を書いた代償として、彼はかつての独立運動参加者としての制裁をうけることなく、総督府のすぐそばで悠然と恋愛小説などを書くことができたのである。

 小説家としての李光洙は、その初期、読者に大いに愛された。大衆が彼に好感をいだいたのは、彼が読者の好みに合う進歩的な作品を書いたからである。彼は、わが国の現代小説の開拓者といわれたほど、新しいスタイルの小説をたくさん書いている。

 だが、「民族改造論」のため、李光洙にたいする大衆の好感にはひびが入りはじめた。彼の小説にかいまみられる改良主義的要素が、この論文では完全な形体をなしてあらわれたのである。

 民族運動を改良主義の方向に誘導した近代知識人は、はなはだしいことに、国債補償運動によって集めた資金で朝鮮人主管の民立大学を設立しようとさえした。しかし、総督府は、独立人材養成の温床となりうる民立大学の設立を許可するはずがなかった。

 非暴力的な物産奨励運動もまた日帝の妨害に直面した。朝鮮人が、日本の商品を使わず、国産品のみを使用するのを総督府が黙認するはずがなかった。彼らは、最初からこの運動を日本商品排斥の反日運動と見て悪辣に妨害した。

 実力養成の看板のもとに進められた改良主義運動は、理念のうえでは愛国愛族を標榜したが、方法のうえでは非暴力を前提とする保守的で消極的な抵抗運動であった。総督府から許容される範囲で民族の経済力を育成し、日帝の経済的侵略に対抗しようとする彼らの思考は事実上、妄想にひとしかった。日本が自分の首を締めつける民族産業の振興を許さないであろうことは、初歩の初歩といえる常識であるにもかかわらず、企業を創設して国産品を愛用すれば、民族の活路が開かれると考えたのだから、これをどう説明すべきだろうか。

 改良主義に落ち込んだ民族運動家は、帝国主義の属性を見抜けなかったか、またはそれから顔をそむけていた。彼らの武力抗争が方向転換をして平和的な文化運動に移行したのは、闘争方法における後退を意味した。その運動は、植民地主義者との平和共存か妥協を前提とする運動であった。平和共存や妥協の過程では、いずれにせよ変質現象が起こるものである。事実、改良主義者のうち、後日、民族運動の隊伍から逃避したり、転向して日帝の手先になった者が少なくない。

 自強論の変種である安昌浩の実力養成論(準備論ともいう)は、民族改良主義者の理論的なよりどころであった。

 彼は朝鮮民族が世界でもっとも精神的修養の欠けた民族だとして、わが民族は少なくともアメリカ人かイギリス人程度に洗練されなくては自主独立国家が建設できない、とまで主張した。

 会場の雰囲気を見ると、ほとんどの聴衆が彼の主張に共鳴しているようだった。彼の演説を聞いて感動のあまり涙を流す人さえいた。もちろん、彼の講演内容は一言一句、すべて愛国の精神で貫かれていた。

 しかし、わたしは、彼の発言に民衆の闘争意欲を眠りこませる危険な要素を発見して失望した。総体的に見て、彼の主張には疑問を呼び起こす点があった。

 各自が自己修養に努めて人格を高め、それにもとづいて民族の実力を養成すべきだという安昌浩の主張にはわたしも同感だった。だが、わが民族を世界でもっとも精神的資質の劣る民族だとみる彼の見解と、実力養成のための改良主義的方法論にはとうてい賛成しかねた。実力養成は、あくまでも独立闘争を推進する一つの過程となるべきであって、それ自体が革命全体にとって代わるわけにはいかないのである。

 ところが、安昌浩は独立闘争を実力養成で置き換えようとした。実力が養成されるからといって独立闘争がおのずと進展するはずはない。ところが彼は、民族の力を組織しそれを最終的勝利に向けて動員する方法については一言半句もふれなかった。とくに、民族解放闘争の基本的形態となるべき暴力闘争については一言も口にしていない。

 満州で独立の基礎となる産業の振興をはかるというのも、やはり問題だった。国権を失った民族に発電所建設の借款をくれる者が、いったいどこにいるというのだろうか。国土全体が日帝の掌中にある状況で、たとえ列強の借款が得られたとしても、他国でどのように発電所を建設し、稲作を着実に営むことができるというのだろうか。また、朝鮮人がそうするのを日帝が黙認するとでもいうのだろうか。

 わたしはいたたまれなくなって、講演の最中につぎのような質問状を書いて安昌浩に出した。

 ―産業と教育の振興をはかって朝鮮民族の実力を培養すべきだとの意見だが、日帝に国をそっくり奪われた状況でそれが可能だとみるか。
 ―わが民族を精神修養に欠けた民族だというのは、どういう点なのか。
 ―講師のいう列強とはアメリカやイギリスのような国だが、われわれは彼らに見習わなければならないのか。また、われわれが彼らの「援助」で独立できるのか。

 質問状は、わたしの前に座っている学生たちから司会者の手をへて安昌浩に伝えられた。反発心をこらえきれず思いきって書面で質問をしたものの、司会者が不安げな表情で学生たちの座席を注視するのを見ると、わたしの心中もおだやかではなかった。この質問に講師が不快な思いをするなら、安昌浩を崇拝している独立運動家や数百人の聴衆に大きな失望を与えることになりはしまいかと心配になった。安昌浩の講演が不成功に終わるなら、講演の世話人として人一倍誠意を尽くした呉東振も、質問状を提出した張本人のわたしを快く思わないだろう。

 いうまでもなく、わたしはそういう結果を望んだのではなかった。わたしが安昌浩に質問状を出したのは、彼がわたしの質問をうけて多少なりとも自分の主張を検討し、民族の自尊心と自主精神に反する有害な思想をそれ以上押しつけないでほしい、という期待からである。そして、独立運動の大先輩として尊敬されている安昌浩から、まだ聴衆に話していない独立運動の新しい指針や方略をぜひ聞かせてもらいたかったからでもあった。

 ところが、事態は思いもよらぬ方向に急転した。

 質問状にしばらく目を通していた安昌浩は、司会者に一言二言なにかたずねた。あとで孫貞道から聞いたところでは、そのとき安昌浩は、質問状に金成柱と署名されているが、それは誰なのかと聞いたそうである。

 あれほど自身満々として場内をわかせていた安昌浩の演説は急に味気ないものとなってしまった。安昌浩は、それまで懸河の勢いで説き進めていた講演を早々に切り上げて、そそくさと演壇を下りてしまった。

 弁士は質問を深刻にうけとめた様子だった。多少の刺激にでもなればと思って出した質問であったが、彼はなんの反駁もせず、講演を中途で切り上げてしまったのである。

 がっかりした聴衆は、島山先生がなぜ急にしおれてしまったのかわからない、といって出口の方へ流れだした。

 そのとき、思いもよらぬ出来事が発生した。吉林督軍署が数百人の憲兵と警察を駆り出して講演会場を急襲し、300人余りの参加者を逮捕したのである。弁士の安昌浩はもちろん、玄黙観、金履大(キムリデ)、李寛麟をはじめ数多くの独立運動家が一挙に検挙され警察庁に拘禁された。

 この大検挙事件を裏で操ったのは、朝鮮総督府警務局の国友であった。安昌浩の吉林到着と時を同じくして奉天にあらわれた国友は、中国憲兵司令官楊宇霆(よううてい)に、数百人の朝鮮共産主義者が吉林に集まったから逮捕してほしいと要請した。

 楊宇霆の命令をうけた吉林督軍署の警察と憲兵らは、国友の差し金で朝鮮人の家宅を捜索する一方、大東工場を襲って空前の大検挙を強行した。

 安昌浩の講演には失望させられたが、われわれは彼を含めた数百人の同胞が逮捕されたことには憤激した。まして、質問状のために講演が中断され、それと同時に安昌浩が逮捕されるという事態が生じたのだから、わたしとしては、そうした連鎖反応の責任が質問をした自分にあるような気がして、心苦しい思いをしなければならなかった。

 中国の東北地方を支配していた軍閥張作霖は「三矢協定」によって日本と手を結び、朝鮮の共産主義者と反日独立運動家を過酷に弾圧していた。この協定は、満州地方における朝鮮民族解放闘争の根源を除去しようとする悪辣なものだった。

 協定によって、朝鮮人愛国者を捕えた者には賞金が与えられた。中国の反動的官憲のなかには、賞金めあてに虚偽の密告をするものさえいた。

 大東工場での集団的な検挙も、軍閥張作霖が日帝にそそのかされて強行した反動的な弾圧だった。

 われわれは即刻、「トゥ・ドゥ」メンバーの会議を開き、逮捕された人たちの救出対策を真剣に討議した。そして、その足で独立運動家を訪ねてまわり、逮捕された人たちの救出方法を相談した。だが、彼らはただ呆然としてなす術を知らなかった。

 われわれは、すべての人が団結し吉林督軍署に圧力を加えれば、安昌浩先生はもちろん、逮捕された全員を釈放させることができると主張した。大衆の力を動員するのがもっとも効果的であることを再三強調した。

 ところが独立運動家たちは、徒手空拳の君らがどうやって無法きわまる督軍署の連中をおさえられるというのか、大衆が集まって騒ぐよりは金か賄賂のほうが効き目があるのではないか、というのであった。ここでも大衆の力を信じようとしない習癖があらわれたのである。

 わたしは、金で解決できないことでも大衆の団結した力で十分解決できる、と彼らを懸命に説いた。それから孫貞道の吉林礼拝堂で市内の独立運動家と朝鮮人有志、青少年学生の大衆集会を開いた。われわれは集会参加者に、督軍署が日帝とぐるになって朝鮮の愛国者と罪のない同胞を大勢逮捕していったことを説明した。そして、彼らがなにがしかの金をつかまされ、逮捕した人を全員日本の警察に引き渡すおそれがあると警告した。朝鮮の愛国者が日帝の手に引き渡されれば容赦なく処刑されるに違いないから、同胞を愛し国を愛する朝鮮人は一体となって、愛国者を救援する大衆的釈放運動に立ちあがろうと訴えた。

 われわれが安昌浩の釈放運動をはじめると、首をかしげる人が少なくなかった。

 民族主義者はいうまでもなく、共産主義運動家や、さらには、われわれの影響下にある青年学生のなかにさえそんな人たちがいた。安昌浩に質問状をつきつけた人間が、今度はなぜ彼を救出しようとして骨をおるのか、というのである。

 わたしはそういう人たちに、われわれは安昌浩の思想を問題にするのであって、安昌浩という人間自体に反対するのではない、安昌浩も同じ朝鮮人であり、朝鮮の独立のためにたたかっている愛国者であるのに、なぜ彼を救い出してはいけないのか、と説得した。わたしは、受難に際会した朝鮮民族は困難なときに力を合わせなくてはならない、ということを大義名分にかかげた。

 わたしが安昌浩の主張に反駁したのは、彼が事大主義と民族虚無主義、改良主義の立場から脱却して、祖国解放の聖なるたたかいに積極的に身をていしてほしいと望んだからである。われわれが民族主義者と思想上の闘争をしたのは、彼らを打倒するためではなく、彼らを自覚させて一人でも多く反日の旗のもとに結集するためだった。

 安昌浩の釈放を要求する大衆集会が開かれたあと、吉林市内の塀や電柱には「中国警察が根拠なく朝鮮同胞を逮捕、拘留して迫害している」「中国官憲は日帝の奸計にだまされるな!」「拘留中の朝鮮同胞を即時釈放せよ!」といった内容のビラや檄が張り出された。

 われわれは、中国の各新聞社にも投稿して世論を喚起した。吉林市内の青少年と大衆は連日督軍署に押しかけて、拘禁した人たちを釈放せよと叫んだ。督軍署の前でデモも展開した。われわれは、中国の反動軍閥が逮捕した朝鮮の独立運動家を日帝の手に渡さないように、全力をつくした。

 督軍署は大衆の圧力に屈して、20余日目に安昌浩をはじめ拘束者全員を釈放した。緊張した闘争の末に安昌浩の釈放をかちとっただけに、わたしはとてもうれしかった。われわれは、自由の身になって同僚たちのもとにもどった安昌浩に会おうと独立運動家を訪ねた。彼が質問状にもりこんだわたしの気持を少しでも理解してくれれば、と心ひそかに期待した。

 しかし、安昌浩は釈放されると早々に吉林を去ってしまった。彼がどんな気持ちで上海へ帰ったかは想像しがたいが、わたしは彼が気持ちを入れ替え、新たな気分で吉林を去ったものと確信する。愛国者の名を汚すことなく、最期の瞬間まであらゆる試練にたえぬいたその後の彼の生活がそれを証明している。

 安昌浩が吉林を去ったのち、わたしはとうとう彼に会うことができなかった。

 10余年がすぎて、われわれが白頭山で武装闘争を展開していたとき、安昌浩は日帝の手に捕われ、獄中で得た病がもとで死去した。

 その報に接したわたしは、一生涯、民族の啓蒙と団結につくした彼が、独立の日を見ずに世を去ったことを残念に思った。だが、奇妙な縁で結ばれた安昌浩との関係は、それでまったく切れてしまったのではない。

 安昌浩は逝ったが、その妹の安信好(アンシンホ)が解放後、朝鮮民主女性同盟中央委員会の副委員長として、われわれとともに働いたからである。

 解放後、祖国に凱旋したわたしは、国内で活動していた愛国志士たちを通じて、安昌浩の妹が南浦方面にいることを知った。

 当時、南浦地区では金京錫(キムギョンソク)同志が派遣員として活動していた。そこで彼に安信好を捜すよう指示した。数日後、南浦から安信好を捜し出したという通報があった。電話で金京錫同志に彼女の傾向についてたずねると、年中、聖書を手放さない人で、篤実な信者らしいとのことだった。

 わたしは、安信好は高名な愛国烈士の妹なので、宗教は信じても愛国心はもっているはずだから、党が影響を与えて正しく導いてみるようにといった。

 金京錫同志はわかったと返答はしたものの、その口ぶりはあまり乗り気ではないようだった。信者といえば頭から白い目で見る時分だったので、わたしが再三強調したにもかかわらず、信者たちを敬遠視する弊害はまだなくなっていなかったのである。

 数か月後、金京錫同志は、安信好が入党したということと、彼女が聖書に党員証をはさんで携帯し、新朝鮮建設に献身しているといううれしい便りをよこしてくれた。

 わたしはその便りをうけて、安昌浩の愛国の魂は決して草葉の陰にのみとどまっているのではないと思った。

 祖国と人民のために誠実に働く安信好の姿を見るたびに、わたしは独立志士としての安昌浩の波乱に富んだ人生を思い、生前に彼が民族のためにつくした労苦を思って、深い感慨にうたれたものである。

 一生涯、反共をモットーとした金九は、南北連席会議のさい北半部に来て、安信好と会って驚いた。共産主義者たちが上海臨時政府の巨頭の妹を女性同盟中央の副委員長に登用するとは、想像だにしなかったようである。安信好は、彼の若いころの愛人であり、婚約者であった。

 安信好にたいするわれわれの信頼は、とりもなおさず安昌浩にたいする信頼でもあった。それはまた、理念や信教を超越した民族という一つの枠のなかで、愛国愛族のきずなによって血縁的に結ばれている、独立運動のすべての先輩にたいするわれわれの礼節であり、義理でもあったのである。



 


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