金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 組織の拡大をはかって


 反帝青年同盟と共青を結成したのち、われわれは活動舞台を広い地域に拡大していった。共青と反帝青年同盟の中核は、組織を拡大するため続々と吉林をあとにした。

 わたしも学生ではあったが、あちこちの村に出むいた。吉林から数十里離れたところにもたびたび行って新しい活動舞台を切り開いた。土曜日の夜行で吉林を発ち、蛟河、卡倫、孤楡樹などの村へ行っては翌日の夜行で帰ってくるのだったが、やむをえず学校を欠席することもあった。李光漢校長と尚鉞先生以外の大多数の教師はそのことをたいへん不審がっていた。父親のいない貧しい家庭だから、アルバイトでもしているのではないかと推測する人もいた。

 学生の身なので、なにかと束縛され、制約をうけた。授業をうけ、課外学習もしながら、その合間あいまに各組織の活動を指導しなければならなかったので、わたしはいつも時間の不足を感じていた。

 時間に拘束されず自由に活動できる時期は学期末休暇のときだった。われわれはふだんから準備をしておいて、休暇になるとあちこちの村に出むいて組織活動や大衆啓蒙活動をした。

 人民のなかに入っていくのは、国内でも一つの社会的風潮となっていた。学期末休暇に入ると、多くの学生が農民のなかに入って啓蒙活動に従事した。わたしが華成義塾に通っていたその年の夏、国内では『朝鮮日報』社が夏休みに帰省する中等学校以上の学生で啓蒙隊を組織し、彼らに講習をおこなって農村に送り出した。啓蒙隊に加わった学生は故郷に帰ると、新聞社が提供した朝鮮語教本で文盲退治をした。

 日本で勉強していた学生も、学期末休暇には祖国に帰り、留学生巡回講演隊を組織し全国各地を巡り歩いて啓蒙活動を展開し、天道教やキリスト教青年会も農民のなかに入って農村振興活動を進めた。

 しかし、国内の学生による啓蒙運動は、民族意識の啓発をめざすいっさいの国民的運動を日本の植民地政策にたいする反抗とみなしていた総督府当局の徹底的な弾圧と、リーダーの思想的制約のため、大衆を革命化、組織化する段階にまで発展せず、民族の後進性を克服する純然たる改良主義的運動にとどまり、それさえ1930年代の中ごろにいたっては下り坂をたどるようになった。

 その運動が純然たる改良主義的運動として展開されたのは、農村での彼らの活動内容を見ても明らかである。彼らの活動の中心は、文盲退治と農村の生活環境を衛生的に改善することだった。キリスト教青年会の活動内容には、料理法の改善運動や井戸を清潔にする運動からはじまって、養鶏法、養蚕法、それに当局の発行する証明書、申請書の使用法にいたるまで、農村住民を近代的生活に導くさまざまな文化啓蒙の問題が含まれていた。

 われわれは、日帝の弾圧が直接にはおよんでいない有利な状況を利用して、農村啓蒙活動を大衆の組織化、革命化の活動と密接に結びつけ、それを積極的な政治闘争の一形態に昇華させることに大きな関心を払った。われわれの大衆工作は、愛国主義教育、革命教育、反帝教育、階級的教育を基本とし、人々を意識化し各種の大衆組織に結集する方向で進められた。

 われわれが大衆の革命化のためにこのように全力をつくしたのは、大衆を愚昧で未開な啓蒙の対象としかみなかった従来の思考方式から脱皮し、人民こそわれわれの教師であり、革命の基本的原動力であるという観点に立って、それを絶対視したからである。

 われわれはこうした観点に立って、人民のなかに入っていった。

 「人民のなかに入ろう!」

 それ以来、このスローガンはわたしの全生涯にわたって座右の銘となった。

 わたしは、人民のなかに入ることで革命活動をはじめ、こんにちも人民のなかに入ることで革命をつづけている。そして、人民のなかに入ることで人生の総括をしているのである。一度でも人民との交わりを怠り、一度でも人民の存在を忘却する瞬間があったとしたら、わたしはすでに10代のころに形成された人民にたいする純潔で真実の愛をこんにちまで守りとおすことができず、人民にたいする真の奉仕者になることができなかったであろう。

 人民の権利が最大限に保障され、人民の知恵と創造力がかぎりなく発揮されているこんにちのわが国の社会を思うたびに、わたしは、われわれを「人民行き列車」にはじめて乗せてくれた吉林時代に感謝したくなる。

 われわれが本格的に人民のなかに入りはじめたのは、1927年の冬休みからであった。

 資産家の学生にとって、冬休みは文字どおり暇つぶしの期間だった。彼らは、冬じゅう家に閉じこもって恋愛小説を読んではぶらぶらと時間をつぶしたり、汽車で長春やハルビン、北京などの大都会を遊覧したりした。そして旧正月になると、ご馳走をつくり、爆竹をはじかせて遊びたわむれた。本来、中国人には旧正月の元日から2月2日まで、まる1か月間遊びつづける風習がある。彼らは旧暦の2月2日を竜台頭(竜が頭をもたげる日)と称して、正月につぶした豚の頭をぜんぶ煮て食べて、はじめて正月祝いを終えるのである。

 しかし、われわれは、彼らのように遊び歩いたり、景気よく正月を祝ったりすることができなかった。その代わり、冬休みのあいだ、どうすれば革命のためにより多くのことができるだろうかと思案した。

 冬休みになると、わたしは演芸宣伝隊を引き連れて長春へ行き、そこから帰る早々撫松に向かった。朴且石と桂永春も一冬をわたしの家ですごす約束で同行した。

 その年の冬休み、われわれはまったく忙しい時間を送った。

 わたしは、家に到着するやいなやセナル少年同盟員に取り巻かれた。彼らは、同盟がなめている活動上の苦渋を洗いざらいぶちまけた。同盟委員長の説明を聞いてみると、解決を待つ問題が一つや二つではなかった。

 われわれは彼らの難問を解決するため、セナル少年同盟員との活動に多くの時間を割いた。同盟の幹部に演芸宣伝隊の活動方法や社会活動の方法、大衆工作の方法、同盟の内部活動方法などを教える一方、政治討論会や性格検討会にもたびたび参加してみた。

 少年同盟の活動をもりたてたあと、撫松地方の中核青年で白山青年同盟を組織した。白頭山周辺の青年組織という意味で白山青年同盟という名称にしたのだが、それは事実上、反帝青年同盟の変身であった。組織の名称を白山反帝青年同盟とせずたんに青年同盟としたのは、敵を惑わせ、組織を偽装するためである。白山青年同盟は、民族主義の影響下にある団体であるかのようにカムフラージュして、合法的に活動した。

 われわれは白山青年同盟員を動かして、清窪子など周辺の農村に夜学を設けた。

 青年組織が増え、その隊伍が拡大されていくと、広範な青年と大衆の思想的糧となる新聞が必要だと、わたしは考えた。新聞の発行は、まったくゼロの状態からはじめなくてはならなかった。欲をいえば、毎号100部ほどプリントしたかったが、われわれには謄写版もなければ用紙もなかった。

 撫松に中国人の経営する小さな印刷所が一つあったが、われわれのつくりだす新聞の内容からみて、そこへ依頼するわけにはいかなかった。

 わたしは思いあぐねた末、筆写した新聞を出すことにし、それをセナル少年同盟のアクチブと白山青年同盟の中核にまかせた。100部を筆写するのには1 週間余りかかった。

 1928年1月15日、われわれはついに『セナル』というタイトルの新聞創刊号を発行した。

 あのとき、どこからあんなエネルギーが湧いてあれほどの文字が書けたのか、いまになって考えるととても信じられないほどである。あのころの血気と若さを懐かしく思うときが多い。われわれはそのころ、自分をそっくり革命にささげることにまたとない幸せを感じていたのである。

 夢もなく、胆力もなく、情熱も、覇気も、闘志も、ロマンもない青春は青春ではない。若いころは高遠な理想をかかげ、その実現をめざし万難を排して頑強にたたかわなくてはならない。清新な思想と健全な肉体をもった青春の血と汗によってもたらされたすべての実りは、祖国の貴い富となるのであり、その富をもたらした主人公を人民は永遠に忘れないであろう。

 年をとって若いころを懐かしむのは、そのときが一生のうちでいちばん旺盛に働ける時期だからである。仕事をたくさんできるときがもっとも幸せである。

 その後、わたしは父の知人から苦労して手に入れた謄写版で新聞『セナル』を刷った。

 1927年の冬休みの活動のなかでもっとも異彩を放ったのは、演芸宣伝隊の活動だった。撫松の演芸宣伝隊には、セナル少年同盟員と白山青年同盟員、婦女会員らが参加した。演芸宣伝隊は、撫松とその周辺の農村集落を1か月ほど巡回して公演した。われわれは巡回公演の途上、各地に組織をつくり、大衆啓蒙活動を進めた。『血噴万国会議』『安重根、伊藤博文を射つ』『娘からの手紙』などの演劇はいずれも、その年の冬にわれわれが撫松で創作し、公演した作品である。

 演芸宣伝隊が巡回公演に出る前に、撫松で数日間、公演をしていたとき、軍閥当局は理由もなくわたしを逮捕して留置場に拘留した。われわれの公演内容を快く思わない何人かの封建主義者が、わたしを軍閥当局に密告したのであった。

 そのとき、小学校の同級生だった張蔚華がわたしの釈放のために奔走した。彼は父親を説き伏せて、警察当局がわたしの家を捜索しないよう圧力を加えた。

 張蔚華の父親は、わたしの家へ治療に通っているあいだに意思が疎通し、父と親しくなった人である。彼は富豪だったが、良心的な人だった。撫松で白山学校の復活を発起した父が、認可をもらえずに気をもんでいたときにも、彼が仲介の労をとったことがあった。

 張蔚華の父親のような勢力家に圧力を加えられると、なんの端緒もつかんでいない軍閥当局はそれ以上どうすることもできなかった。

 一方、撫松在住の朝鮮人も軍閥当局に押しかけて、わたしを釈放せよと集団的に抗議した。わたしの母が、組織を動かし、大衆を立ち上がらせたのだった。中国人の有志も軍閥当局の措置を非難し、わたしの釈放を要求した。

 しばらくして、軍閥当局は仕方なくわたしを釈放した。警察署から出てきたわたしは、演芸宣伝隊を引き連れて蒲春河村へ向かった。演芸宣伝隊は蒲春河村で、3日間公演した。そのとき隣村の人たちまでわれわれの公演を見たので、そのうわさは周辺の集落にも広がった。杜集洞の人たちもわれわれを訪ねてきて、演芸宣伝隊をぜひ招きたいといった。われわれはその招きを喜んで受け入れた。

 杜集洞での公演は大盛況だった。われわれは村人の要請で、予定の滞在期間を何回も延ばさなくてはならなかった。

 初日の公演が終わったとき、セナル少年同盟の委員長が舞台裏に駆けつけてきて、村の長老がわたしを呼んでいると伝えた。

 火皿の大きいキセルを口にくわえた風采のよい中老の男が、公演場にした家の垣根の外でわたしを待っていた。老人は、濃い眉毛の下からわたしをしげしげと見つめた。われわれをこの村へ案内した地元の青年が、わたしに近寄って、「車千里(チャチョンリ)老人ですよ」と耳打ちした。

 わたしは、車千里という名前を聞いて、すぐおじぎをした。

 「ご老人、ごあいさつが遅れて申しわけありません。隣村へお出かけだとのことでしたので、ごあいさつにうかがえませんでした」

 「ちょっと出かけたところだったが、演芸隊のうわさを聞いたもんで、急いでもどってきたんじゃ。おまえが金亨稷先生の息子だというのは確かかな?」

 「はい、そうです」

 「おまえのような息子がいるんだから、金先生は草葉の陰でも心が安らぐことじゃろう。こんなにりっぱな演芸を見るのははじめてじゃ」

 老人が丁重な物腰で応対するので、わたしはすっかり当惑してしまった。

 「ご老人、恐れ入ります。息子のような者の前でそんなふうにされては困ります」

 老人はその日、わたしを自宅に招いた。

 わたしは老人と一緒に歩きながら、さりげなくたずねた。

 「ぶしつけな質問ですが、ご老人が一日に100里を歩かれるというのはほんとうでしょうか?」

 「ハッハハ。おまえもそんなうわさを聞いたのか。わしは若いころ、100里は無理だが、50里は歩いたもんじゃ」

 わたしはその返事を聞いて、老人がうわさにたがわぬたいした独立運動家だと思った。

 彼の姓の下に本名の代わり千里(朝鮮の10里は日本の1里にあたる)という別名がついたのは、いわれのないことではなかった。

 その千里という名前のせいで、老人は満州地方の朝鮮人のあいだで謎の人物として知られていた。

 わたしの父も生前、老人の健脚ぶりに感嘆したことがあった。父の話によれば、老人に千里という別名がついたのは、彼が江界(カンゲ)地方で義兵活動をしていたときからだったという。

 車千里は、満州に来てから参議府に所属し、沈竜俊(シムリョンジュン)の下で活動した。参議府が上海臨時政府の傘下に入るとき、それに断固反対したのが車千里だったといううわさもよく聞いた。事実、独立軍団体が臨時政府の枠内に吸収されるのをよしとしなかった正義府の一部の人たちは、老人の立場を強く支持した。指導部の大多数が軍人出身である正義府の人物のなかには、文官本位の臨時政府を好ましく思わない傾向が支配的だった。

 その日、車千里老人は、教訓に富んだ話をいろいろと聞かせてくれた。老人は、朝鮮民族は、日本帝国主義侵略者を十分に撃退し、独立国家の堂々たる人民として発展できたはずだが、腐敗した無能な封建支配者のために国を奪われてしまったと痛嘆した。そして、独立運動をするなら口先だけではだめで、銃をとって日本侵略軍を一人でも多く倒さなくてはならない、といった。彼は、日本帝国主義者は狡猾きわまりないから、警戒心を高めなければならないといって、つぎのような話を聞かせてくれた。

 「京城マッチ工場がつぶれたいきさつを知っているかな? この工場の“猿”印マッチはとても有名だった。マッチもマッチだが、レッテルが特別なんで人目を引いたんじゃな。猿が桃の枝を肩にかけているレッテルじゃ。日本人は朝鮮に来てろうマッチ工場を建てたが、そのマッチのために売れ行きがかんばしくなかったそうじゃ。そこで、あれこれと頭をしぼったあげく、“猿”印のマッチを数万箱買い入れ、ある無人島に持っていって全部水につけ、それを乾かしてから市場へ持ち出して売りさばいたというわけじゃよ。それ以来、マッチを買った人は火がつかないといって、日本人のろうマッチだけ買うようになったそうじゃ。こうして、京城マッチ工場は、レッテルを日本人の会社に売って破産してしまったんじゃ。日本人というのはそんなやからじゃよ」

 真偽のほどはつまびらかでないが、日本帝国主義を知るうえでは貴重な話だった。

 老人は、若いころは日本軍が5連発銃で5発を撃つあいだに、火縄銃で3発撃ったものだが、いまは年をとって戦うこともできず、家にじっとしているのがうっとうしくてたまらない、というのだった。

 老人は、その日、われわれが公演したうちでも『団結紐』という歌舞がいちばんよかった、以前、義兵活動がうやむやになったのは、力を合わせることができなかったからで、独立軍が意気消沈して日本軍に迫いまわされているのもやはり、力を合わせず、てんでんばらばらに行動しているからだ、と慨嘆した。

 「朝鮮人は3人集まっても、団結して日帝と戦わねばならん」

 老人は激してこういった。車千里老人の言葉は正しかった。団結すれば勝ち、分裂すれば滅びるという真理を痛切に体験した人でなくてはいえない言葉だった。

 自分は年をとったので朝鮮独立のために戦えそうにないから、若い世代にりっぱに戦ってもらいたい、といって老人はわたしの手をかたく握りしめた。そのときわたしは、朝鮮の息子として人民の期待に背かぬよう、革命に邁進しなければならないという崇高な使命感にとらわれた。

 その晩の車千里老人の話は、わたしに大きな感銘を与えた。朝鮮人は3人集まっても団結して日帝と戦わねばならない、といった老人の言葉は、その後のたたかいにおいて大きな教訓となった。

 演芸宣伝隊を引き連れて人びとのなかに入れば、大衆を啓発するだけでなく、このように大衆から学ぶこともできるのである。いまもそうだが、当時もわれわれの教師はやはり人民だったのである。

 それで、わたしは幹部たちに、人民のなかに入れと口ぐせのようにいっている。人民のなかに入るのは強壮剤を服用するのと同じであり、入らないのは毒薬を飲むにひとしい、とわたしは日ごろから強調している。人民のなかに入れば車千里のような老人に会うことができる。人民のなかには哲学もあり、文学もあり、政治経済学もあるのである。

 車千里老人は、参議府の警護隊長を勤めているうち、上官の沈竜俊に暗殺されたという。

 わたしはその悲報に接して、朝鮮人は3人集まっても団結して日帝と戦わねばならない、といった車千里老人の言葉を噛みしめ、悲憤慷慨した。老人のいったとおり、参議府のリーダーが心を合わせていたなら、こうした痛嘆すべき不祥事は生じなかったであろう。

 われわれは、その年の旧正月を杜集洞ですごした。

 旧正月をすごしてから、わたしは演芸宣伝隊員を撫松に帰し、桂永春、朴且石と連れ立って安図へ向かった。

 安図県には、朝鮮人だけが住む内島山村があった。天にいちばん近い村といわれていた白頭山麓のこの村は、うっそうとした森林にとりかこまれた僻村である。内島山というのは、樹海に浮ぶ島のようだということから生まれた名である。中国人は、山の形が乳首のようだといって奶頭(ないとう)山とも呼んでいる。

 この山村には、以前から朝鮮の独立運動家が出入りしていた。独立軍の百戦の老将といわれた洪範図や崔明禄もひところはこの村にこもっていた。

 われわれがすでに「トゥ・ドゥ」のメンバー李済宇を内島山に派遣し、その一帯の青年を組織に結集したのは、将来、白頭山周辺を大きな革命基地につくりあげる構想によるものであった。

 李済宇(李宇=リウ)は、黄海道の出身だった。彼の父親は長白にいたときから、わたしの父との連係のもとに独立運動に参加していた。そういう因縁で李済宇も自然にわたしと手を握るようになった。

 樺甸で別れてからわたしが李済宇と再会したのは、撫松で白山青年同盟を結成するときだった。そのとき、わたしは彼と、内島山村に白山青年同盟の支部を設ける問題を話し合った。彼は冗談まじりに、任務ばかり与えようとしないで、一度来て助けてくれ、といった。

 撫松から内島山までの道のりは120キロ余りだった。中国の方から見れば満州のさいはての村であったが、朝鮮の方から見れば白頭山を越えた最初の村だった。この内島山の10里四方には人家がなかった。

 夕方、村に到着したわれわれは、李済宇の案内で漢方医の崔氏の家に宿をとった。

 崔氏の話によると、われわれが世話になる部屋に張戊Mが2度泊まり、李寛麟も泊まったことがあるとのことだった。父が足跡を残し、父の友人たちが開拓した村に、きょうはわれわれが革命の鋤を打ちこむのだと思うと、いまさらのように粛然とした気持ちになった。

 内島山村に何日かとどまってみると、李済宇がぜひ来てくれといった気持ちが理解できた。この村はよそ者にはちょっと取っ付きにくいところだった。

 村に住んでいるのは、主として崔氏、金氏、趙氏の姓をもつ人たちで、彼らは外界とは垣をめぐらし、三家同士の婚姻を結んでいた。崔氏の娘は金氏の家に嫁ぎ、金氏の娘は趙氏の家に嫁ぎ、趙氏の娘は崔氏の家に嫁いだ。狭い村でこのように婚姻が結ばれるので、村全体が親戚になり、互いに「兄さん」「おじさん」「あいやけ」(参考:婿・嫁双方の親どうし)と呼びあっていた。

 村民は、ほとんどが天仏教徒だった。彼らは、99人の天女が白頭山の天池で水浴びをして天に舞いもどったという伝説にちなんで、そこに「トンドククン」という99間の寺を建て、年に2度参拝していた。天仏教徒は、村にも天仏寺を建てて、10日か週に1度ほど参拝していた。

 われわれが内島山に到着した翌日は、ちょうど天仏教徒のお寺参りの日であった。その日、われわれは李済宇に案内されて寺の近くへ行ってみたのだが、それは見た目にも壮観だった。教徒は、男女を問わず昔の高句麗人のように髪を結い上げ、色とりどりの装いをして集まり、鉦(しょう)や銅拍子を打ち鳴らし、太鼓や木鐸(ぼくたく)をたたくのだが、そのトンドククン、トンドククンという音がじつに荘厳だった。それで寺の名もトンドククンと命名されたそうである。

 李済宇によれば、内島山一帯では、その天仏教が頭痛の種だった。彼は、宗教はアヘンという単純な観念から、天仏教を厄介な存在とみていた。撫松で彼の説明を聞いたときは、わたしもそう思っていた。だが、儀式をとりおこなう天仏教徒の真剣な姿と壮大なトンドククンを見てからは、考え直さざるをえなかった。

 その日、わたしは、崔氏の案内で、李済宇と一緒に天仏教教主の張斗範(チャンドゥボム)を訪ねた。

 張斗範はひところ独立軍に参加した人だったが、独立軍が衰勢に陥ると銃を投げ出して内島山に隠遁し、日帝に天罰を下し朝鮮民族に福を垂れたまえ、と白頭山の天機に祈りながら、それを信仰とする天仏教を開いたとのことだった。

 わたしは、教主と話をしながら、天井につり下げてあるキビの穂から目を離すことができなかった。崔氏の家で見たキビの穂が、教主の家にも同じ形でつり下げてあるのだった。種にするためなのかと李済宇に聞いてみると、彼は供養のときに使うキビだと眉をひそめて答えた。

 米づくりのできないこの地方の人たちは、お供え用の白米の飯をキビで代用していたので、どの家でも柱や天井にキビの穂をつり下げていたのである。食糧を切らして食事を抜くことがあっても、彼らはそれには絶対に手をつけなかった。ただ、白頭山の寺に供養に行くときだけ、それをうすで丁寧について箕でふるい、木製のさじで砕けたキビ粒や草の種、籾、わらくずなどをよりだしてから、同じ大きさのキビを一粒一粒集め韓紙に包んで保管しておき、きれいな湧き水でお供え用の飯を炊くのである。

 「あのけったいな天仏教に踊らされて内島山の住民はみな頭が変になってしまった。宗教をアヘンだといったマルクスの言葉はまったく名言中の名言だ。そんな教徒を新しい思想で改造する必要はないし、その可能性もないだろう」

 李済宇はこうぼやきながら、内島山住民の魂を抜いてしまう「トンドククン」寺を焼き払ってしまおうという衝動に駆られるときもある、というのだった。

 わたしは、それは偏狭な考えだとたしなめた。

 「宗教をアヘンだといったマルクスの命題をわたしはもちろん否定しない。しかし、その命題がいつでも適用できると考えるのは間違いだ。日本に天罰を下し朝鮮民族に福を垂れたまえと祈る天仏教をアヘンだときめつけられるだろうか? わたしは天仏教が愛国的な宗教であり、教徒もみな愛国者だと思う。われわれにすべきことがあるとすれば、それはこの愛国者たちを一つの力に結集することだ」

 わたしは李済宇と真剣に意見を交わした。その過程で、天仏教を打倒するのでなく、その反日感情を積極的に支持すべきだという結論に到達した。それで、われわれは10日ほどそこにとどまって村人に働きかけた。宗教を信じるだけでは祖国を解放できない、というわたしの解説を天仏教徒たちは容易に受け入れた。

 その年の冬、内島山の村人は、われわれを心からもてなしてくれた。村人の主食はジャガイモだった。サヤマメを混ぜたジャガイモ飯の味は格別だった。桂永春は、おならが出すぎてオンドル床に穴があきそうだ、と冗談口をたたいた。

 もしあのとき、われわれが内島山へ行かず、吉林にいて李済宇の報告を聞くか、ただのうわさを聞くだけで事態を判断していたなら、天仏教にたいしてよい印象がもてなかったであろう。内島山へ行って「トンドククン」を見、祈りをささげる教徒の真剣な表情や民家の大梁はりにつるされたキビの穂を見たからこそ、天仏教とその教徒を公正に判断することができたのである。

 人民的品格と人民の利益に合致する人民的思考方式は、決して机の前に座っていておのずとそなわるものでなく、まして空論によって身につくものではない。それは、人びとの肉声はもとより、息づかい、目の色、表情、言葉づかい、手ぶり、動作まで自分の目と耳でじかに確かめる、人民との血の通った接触を通じてのみ身につくものである。

 われわれは、まず村人を啓蒙する政治活動をおこない、そのあとで、この村に白山青年同盟の支部をつくり、少年探検隊を組織した。

 わたしが吉林にもどったあとは、わたしの叔父(金亨権)が、白山青年同盟の活動を担当し、李済宇と一緒に徳水、瓶谷、寺谷、薬水洞、任水谷、芝陽蓋など長白一帯と新坡、晋天、恵山、甲山、三水など国内の各地方にその支部を組織した。

 同盟は、李済宇に白山青年同盟長白地区責任者の任務を与えた。李済宇はその重責をりっぱに果たした。亨権叔父と李済宇は、白頭山一帯を革命化する過程で少なからぬ試練をなめた。けれどもそのかいがあって、後日、われわれがこの一帯で革命闘争を展開したとき、大衆の積極的な支援をうけることができた。

 学業を一時中断して休むのが学期末休暇だが、この年の冬休みに、わたしは書物では得られない多くのことを学んだ。

 冬休みを終えて吉林にもどったあと、われわれは、共青と反帝青年同盟の半年の活動を総括し、各階層の青年と大衆を結集する階層別の大衆組織をより多く結成する課題を提起した。

 この課題を実行するため、金赫、車光秀、崔昌傑、桂永春、金園宇などの共青の中核が興京県、柳河県、長春県、伊通県、懐徳県一帯と国内へ向かった。彼らはそれらの地域で、共青や反帝青年同盟をはじめ各種の大衆組織を急速に拡大していった。

 わたしは吉林に残って、新安屯に農民同盟を組織する活動を進めた。農民を組織に結束するのは、彼らを革命の原動力として準備させるためである。とくに、農民が人口の絶対多数をしめているわが国の実情では、彼らをかちとる問題が革命の成否を左右するカギともいえた。

 われわれは、江東村で農民同盟、反帝青年同盟の支部、そして婦女会を組織し、ついで卡倫と大荒溝でも反帝青年同盟の支部を組織した。

 蛟河地方でも反帝青年同盟の支部を組織した。わたしが蛟河の青年と親しくなったのは、麓新青年会の組織部長姜明根(カンミョングン)と出会ったときからである。彼は、わたしのことを張戊Mからいろいろと聞いていたようだった。蛟河は、張戊Mの中間停留所ともいえるところである。彼は吉林と撫松のあいだを行き来するたびに、蛟河の姜明根の家に立ち寄って、吉林の青年学生運動の模様を知らせ、吉林に帰ると、蛟河のニュースを詳しく伝えてくれた。こうして姜明根はわたしのことを知り、わたしも蛟河地方の青年運動に関心をもつようになった。

 ちょうどそんなときに、姜明根がわたしを訪ねて吉林にやってきた。わたしが東大灘の張戊Mの家に寄宿して学校に通っているときのことである。

 わたしより10歳余りも年上の人が、わたしに「先生」「先生」といって、活動上の悩みをこまごまと打ち明け、協力を懇願するのであるから、すっかり彼に同情したばかりか、吉林から70キロ余りの蛟河から、一介の中学生にすぎないわたしをわざわざ訪ねてきたその革命家らしい情熱に頭が下がった。

 当時、蛟河県では、拉法山を境にして、西北方では麓新青年会が、東南方では拉法青年会が活動していた。蛟河一帯の朝鮮青年はおおむねこの2つの青年団体に加わっていた。

 青年たちは大きな抱負をいだいて組織に加入したものの、地位争いに没頭するとか、軍資金の調達にきゅうきゅうとしている民族主義運動のリーダーたちを見ると、しだいに幻滅を感じた。

 同時に、「プロレタリア革命」とか「ヘゲモニー」とかいって騒いでいる、えせマルクス主義者の空理空論にも嫌気がさした。

 進路が定まらず右往左往させられるという姜明根の気持は十分理解できた。

 わたしは、吉林一帯の青年学生運動の実態と、われわれの活動経験を彼に話した。そして、蛟河へ帰ったら反帝青年同盟支部結成の準備を十分にしてほしいと頼んだ。彼が帰るときは、マルクス・レーニン主義の書籍を何冊か持たせてやった。

 自分なりに誠意をつくして助言を与えたつもりだったが、彼が帰ったあとになって、蛟河のことが気にかかった。

 わたしは折を見はからって、老一嶺の向こうの蛟河を訪れた。1928年春のことだったと思う。

 姜明根はわたしに会うと、それでなくてももう一度吉林に行くつもりだったといってたいへん喜んだ。彼は、吉林を発つときは万事うまくいくだろうと思ったが、いざ帰って活動に着手すると、難問が一つや2つではなかったというのである。

 蛟河の農村青年は、まず組織をどう発足させるかという点で意見を異にした。麓新青年会は民族主義者の組織だからいまただちに脱退して、志をともにする者だけで反帝青年同盟を組織しようという者もいれば、あたまから麓新青年会を解散してしまおうという者もいた。

 加盟対象についても、彼らは正しい見解をもてず、誰それは「敵対分子」だし、誰それは「動揺分子」だから加盟させるわけにいかないといって、おおかたの青年は最初から除外してしまった。

 その日わたしは、たまり部屋で彼らと一緒に木枕を並べて横になり、組織をつくるには一人でも多くの大衆を獲得すべきだが、そのためには人びとを敵味方に分ける前に地道に教育し、説得するのが大切だとさとした。

 青年が民族主義者や分派分子の影響をうけないようにし、麓新青年会と拉法青年会内の先進的な中核青年の役割を高めることについても話し、彼らのなすべきことについて一つひとつ相談にのってやった。

 こうした下準備のあと、麓新青年会員のうちから中核青年を5人選んで、反帝青年同盟蛟河支部を結成した。

 わたしは、その後も蛟河地方にたびたび出かけて、反帝青年同盟の活動を指導した。

 わたしは、東満青総内の青年もわれわれの組織に引き入れはじめた。当時、竜井で苦学していた朝鮮青年は、大半が東満青総に加入していた。彼らは火曜派の影響をうけていた。

 ところが、この団体の組織部長をしている東興(トンフン)中学校の学生金俊が、吉林でわれわれが発行している雑誌とパンフレットを読んで、わたしを訪ねてきた。わたしは、彼を通じて竜井一帯の青年運動の実態をくわしく知ることができた。金俊はその後、われわれと連係を保って、大成中学校、東興中学校、恩真中学校など竜井市内の各学校の青年学生のあいだでわれわれの思想を宣伝した。われわれは、彼らを通じて間島地方をはじめ会寧、鐘城(チョソン)など六邑関内の青年を先進思想で教育した。

 この時期、わたしは、労働者にたいする活動にも関心を向けた。

 当時、吉林には、火力発電所、鉄道機関区、マッチ工場、紡織工場、精米工場といった大小の工場があったが、労働者階級を結集した組織といえるものはなかった。ただ、1927年の春、朝鮮人労働者の就職と生活上の便宜をはかる目的で汗誠会が組織されていただけである。

 われわれは、吉林火力発電所をやめて農村で働いていたある青年を教育して反帝青年同盟に加盟させ、彼を吉林火力発電所に再就職させた。彼が吉林火力発電所に腰をすえて先進的な労働者を糾合しはじめてから、われわれの足場もできあがった。

 われわれは、留吉学友会のメンバーを動かして、松花江の船着き場を中心に労働者の夜学を開き、3・1人民蜂起の記念日やメーデー、国恥日などを契機に彼らを訪ねて、演説をしたり演芸公演を催したりした。こうした準備にもとづき、1928年8月、反日労働組合が結成された。その責任者は、反帝青年同盟の中核メンバーであった。

 青年学生を主な対象として意識化、組織化を進めてきたわれわれが、活動範囲を労働者のなかに広げ、彼らを組織に結集したのはこれがはじめてだった。

 朝鮮人労働者を中心に組織された反日労働組合を通じて、合法団体の汗誠会にも働きかけた。汗誠会はしだいに政治的傾向を鮮明にしていった。後日、汗誠会は、元山(ウォンサン)労働者のゼネストを支援する資金カンパをして元山労働連合会に送り、1930年夏の朝鮮の水害のさいは、各朝鮮人団体と協力し救済会をつくって水害被災民に送る義援金を募り、また吉会線鉄道敷設反対闘争でも重要な役割を果たした。

 吉林と蛟河一帯を中心に、民族主義者と分派分子の影響下にあった青年団体を革命的組織に再編する過程で、われわれはきわめて有益な経験をつんだ。

 革命家の生命は大衆のなかに入るときにはじまり、大衆から離脱するときに終焉を告げるといえる。

 「トゥ・ドゥ」を結成した華成義塾の時代がわたしの青年学生運動の始発点であったとすれば、共青と反帝青年同盟を組織し拡大していった吉林毓文中学校時代は、学生の枠を離れて労働者、農民をはじめ各階層の大衆のなかに深く浸透し、いたるところに革命の種を播いた、わたしの青年運動の全盛期であったと思う。

 この時期、新しい世代の青年共産主義者の活動とその影響力を、世の人びとは「吉林の風」と表現した。



 


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