金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 朝鮮共産主義青年同盟


 「トゥ・ドゥ」(打倒帝国主義同盟)のメンバーと秘密読書グループの活動によって、マルクス・レーニン主義思想が急速に伝播すると、青年学生の思想意識には質的な変化が生じはじめた。先進思想にふれた彼らはしだいに、歴史と民族にたいする自己の任務を深く自覚するようになった。

 われわれは青年学生の意識化をうながす活動をつづける一方、彼らをいろいろな組織に結集していった。組織を通じてのみ、マルクス・レーニン主義思想のより広範な普及と、中核力量のより急速な育成も可能であった。

 わたしの革命活動は、青年学生運動からはじまった。われわれが革命活動を青年学生運動からはじめ、そこにきわめて大きな意義を付与したのは、わたしが学生であったということもあるが、それよりも労働者、農民をはじめ、広範な大衆を意識化し、組織化するうえで、その運動が果たす役割と位置がきわめて重要であったからである。

 マルクス・レーニン主義理論では、青年学生運動を橋渡しの役割にたとえている。言いかえれば、青年学生運動は、先進思想を普及し、大衆を啓蒙し自覚させ、革命運動へと導く橋渡しの役割をすると定義づけている。われわれもその理論を肯定した。

 革命の発展にともない、青年学生の役割についてのわれわれの見解と立場には質的な変化が生じた。われわれは、革命の原動力を労働者、農民本位に定義づけていた従前の古い視覚から脱却して、革命闘争において青年学生もりっぱな主力をなす、と定義しなおした。それは、これまでの青年学生運動の歩みが立証している。

 3・1人民蜂起(1919年)と6・10 万歳運動(1926年)、光州学生事件(1929年)など、解放以前のわが国反日愛国闘争のピークをなす主な歴史的できごとにおいて、青年学生はつねに先頭に立って勇敢にたたかった。われわれは共産主義運動の新しい歴史も青年の力で開拓し、15年にわたる抗日武装闘争も青年学生を根幹にして展開した。今日も、朝鮮革命においては青年学生が突撃隊の役割を果たしている。

 南朝鮮革命においても、主力は青年学生であるといえる。4・19(1960年)蜂起の産婆役をつとめたのも青年学生であり、光州人民抗争(1980年)の主役も、「第5共和国」政権を打倒した6月抗争の旗手も青年学生であった。

 中国人が新民主主義運動の起点とみている5・4運動の最先鋒に立ったのも青年学生であったということは、世に広く知られている事実である。

 前人未到の道をふみわけ、不断に新たな経験を積み重ねてきた朝鮮人民の豊富な長期にわたる闘争の歴史は、青年学生を一つの階層とさえみなかった従前の理論がわが国の実情に合わないことを示している。

 1920年代前半期までのわが国の青年学生運動には、階級的立場と反帝的立場が不透明で、大衆のなかに深く浸透していない欠点があった。運動の上層部はほとんどがインテリ出身であり、運動の主力も啓蒙運動にかたよっていた。

 われわれは、こうした青年学生運動の欠点が、二度とあらわれないように強く警戒しながら、正しい第一歩を踏み出そうと努力した。

 ところが、いざ組織を結成し、青年学生を結集しようとすると、複雑な問題がもちあがった。

 青年学生を組織化するうえでもっとも困難な問題は、民族主義者と分派分子によって結成された青年組織がすでに存在している状況のもとで、いかなる方法と形式でわれわれの組織を結成すべきかということであった。吉林には吉林青年会、朝鮮人旅吉学友会、少年会などいろいろな既成団体があった。

 そうした組織がなければ、空き地に家を建てるように容易に新しい組織がつくれるのだが、さまざまな既成団体があって、青年学生にはたらきかけている状況のもとでは、それをまったく無視するわけにいかなかったのである。

 われわれは慎重に討議した末、既存組織のうち、看板を掲げているだけで活動していない団体は無視して新たに組織し、多少なりとも活動している団体は存続させて利用し、再編する方法をとることにした。

 われわれが吉林で最初に結成した組織は、朝鮮人吉林少年会だった。当時、吉林には民族主義者の組織した少年会があったが、それは名ばかりで、吉林市内の朝鮮少年はそういう組織があることすら知らなかった。われわれは1927年4月、孫貞道の礼拝堂で朝鮮人吉林少年会という合法団体を組織した。

 わたしは、金園宇、朴一波(朴宇天=パクウチョン)といっしょにその会合を指導した。会合では、組織部と宣伝部、文体部(文化体育部)などの部署を設け、学校別、地域別の班も組織した。

 当時のことについては、少年会宣伝部の責任者であった、吉林女子師範学校出身の黄貴軒がよく記憶していると思う。

 少年会には、労働者、農民、中小商工業者、民族主義者の子弟など、吉林市内の朝鮮人少年はすべて参加させた。朝鮮人吉林少年会の目的は、少年を反日思想で教育し、革命の後続隊としてしっかり育てることである。

 朝鮮人吉林少年会は綱領のなかで、会員が新しい先進思想を学び、それを広範な大衆のなかに広く宣伝することを重要な課題としてうちだした。

 同年5月、われわれは朝鮮人旅吉学友会を朝鮮人留吉学友会に再編した。

 朝鮮人旅吉学友会は、会員も多く、一定の影響力をもっていた。もともとこの学友会は、吉林で勉強している朝鮮人青年学生の親睦をはかる目的で組織された団体で、民族主義者の後援をうけていた。旅吉学友会の顧問には孫貞道も名をつらねていた。

 旅吉学友会を留吉学友会に再編する問題がもちあがると、なかには朝鮮人旅吉学友会が民族主義者の主管する純然たる親睦団体であることを問題視し、それをおしつぶそうと主張する人もいた。本体そのものが民族主義であるからには、異質のものを量的にいくら多く加えても、それは結局、民族主義化するほかないというのである。その主張の本質は、古い思潮としての民族主義を打倒しようというものであった。

 当時は、大衆獲得競争がはげしかった。共産主義者と民族主義者が、たがいに対立して負けずおとらず大衆を引きつけているかと思うと、共産主義運動内部でも各派閥がそれぞれ大衆をかちとろうとやっきになっていた。ソウル派がきょう朝鮮共産主義青年同盟の指導部を掌握すれば、あすは火曜派がそれに対抗して漢陽青年会をつくりだし、あさって火曜派が朝鮮労農総同盟をつくりだせば、今度はソウル派がその向こうを張って京城労農会をつくりだすといったふうに、それは一つの流行になっていた。分派分子は他派を牽制するため、テロ団まで競いあって組織した。

 しかし、われわれ新しい世代の共産主義者は、そうした前轍を踏むわけにいかなかった。

 もし、われわれが分派分子のように朝鮮人旅吉学友会を無視して、吉林に別の青年組織をまた結成するなら、民族主義者との関係で複雑な問題が生じかねないし、学生青年の隊伍を分裂させる恐れがあった。そうするのは、どの角度からみても百害あって一利なしであった。

 われわれは、朝鮮人旅吉学友会のなかにはいって本来の合法性を維持しながら、徐々にそれを純然たる親睦団体から革命的な組織へと再編していくことにした。共産主義者のわたしが名誉会長ということになったが、民族主義者を表面に立たせていたので、中国軍閥当局の注意もそれほど引かなかった。わたしは朝鮮人旅吉学友会を指導し、やがてそれを朝鮮人留吉学友会に再編した。

 朝鮮人留吉学友会は、表向きは朝鮮人青年学生の親睦を標榜していたが、実際には「トゥ・ドゥ」の理念を実現する革命的な学生青年組織として活動した。朝鮮人旅吉学友会を朝鮮人留吉学友会に改称し、それを純然たる親睦団体から革命的組織に再編したのは、われわれが青年学生運動を通じて得た一つの貴重な経験であった。

 われわれの組織が動きだすと、吉林市内の風潮が変わりはじめた。

 青少年学生の日課が目に見えて変化した。少年会と留吉学友会に加わった青少年は、毎朝、地区別に早起き会をした。日曜日になると、吉林市内の全会員が隊列を組んで北山に登ったり、歌唱行進をしたりし、北山のふもとの運動場で体育競技もおこなった。

 われわれは青少年学生との活動において、彼らの趣味と意識水準に応じていろいろな形式と方法を活用した。

 少年会のメンバーのなかには、キリスト教信者の子弟が少なくなかった。彼らは、両親から宗教的影響を強くうけていたため「神様」がほんとうにいると信じていた。彼らには、「神様」はいないし、宗教を信じるのは愚かなことだ、といくら言い聞かせても効果がなかった。

 ある日、わたしは、われわれの影響下にあった朝鮮人小学校の女教師に頼んで、信者の子どもたちといっしょにミサに参加してもらうことにした。

 女教師は、わたしに頼まれたとおり、子どもたちを連れて礼拝堂に行き、一日中「全知全能の父なる主よ、ひもじいわたしたちに餅を与え、パンを恵みたまえ」と祈らせた。しかし、彼らに餅やパンが恵まれるはずはなく、依然として空腹にさいなまれるだけだった。今度は、女教師が取り入れのすんだ小麦畑に子どもたちを連れていって、落ち穂拾いをするようにさせた。女教師は、子どもたちといっしょに畑からたいへんな量の落ち穂を拾い集めてきた。そしてそれを脱穀し、パンをつくって子どもたちに分け与えた。子どもたちはパンを食べながら、「神様」を拝むより実際の労働によって食べ物を得るほうがましだと考えるようになった。

 単純なようだが、青少年の思想意識を改造し、古い因習をなくすためには、それも一つの方法だったのである。

 われわれが、青少年に礼拝堂に通わないよう戒め、迷信のとりこにならないようたえまなく教育したのは、決して宗教そのものを打倒するためではない。青少年が迷信を信じ、キリストの教理を絶対視するようになると、革命にとって何の役にも立たない、ひよわい無気力な存在になってしまうので、それを未然に防ぐためだった。信者だからといって革命に参加できないという理由はないが、世界にたいする科学的な理解に欠けている青少年の場合、宗教がもつ無抵抗主義的な要素から否定的な影響をうけるおそれがあったのである。

 吉林に行ってみると、少年会員のなかに街を歩きながら賛美歌をうたう者がいた。それほど、宗教は青少年に強い影響力をもっていたのである。しかし、賛美歌をうたうようでは、敵の銃眼めざして突進することはできない。われわれには、賛美歌をうたう信者よりも、決戦歌をうたう闘士が必要だった。

 そこで、われわれは青少年に革命的な歌をさかんに普及した。こうして、賛美歌をうたいながら街を歩いていた少年会の子どもたちも、やがて『少年愛国歌』や『朝鮮人吉林少年会の歌』をうたいながら威勢よく街頭行進をするようになった。

 朝鮮人吉林少年会と朝鮮人留吉学友会の結成後、われわれの進めた活動のうち、いまも忘れられないのは、その年の夏休みにおこなった国語講習会である。講習会には、中国人小学校に通っている朝鮮少年をはじめ、朝鮮の文字を知らない子どもたちを全部参加させた。彼らのほとんどは出生地が満州であった。満州生まれの少年たちは、朝鮮語より中国語のほうが上手だった。

 われわれは、そのときから「朝鮮人は朝鮮を知るべきだ」というスローガンを掲げたのである。

 桂永春、金園宇、朴素心が交替で講義を担当した。当時、われわれには専任の教員がいなかった。組織の中核が、すべて教員であり講師であった。

 20日のあいだ講習会をつづけると、それに参加した少年は誰もが少年雑誌を読めるようになった。

 少年会と学友会は、青少年の好みに応じて、竜潭(りゅうたん)山への遠足や江南公園でのレクリエーション、文化遺跡の参観や踏査、それに講演会、討論会、学習会、弁論大会、読書発表会、歌の普及、演芸公演などの課外活動も活発におこなった。

 われわれは、秘密活動の場所として江南公園と北山をしばしば利用した。江南公園は、綾羅島(ルンラド)のように美しい松花江上の島だった。吉林の資本家は、ここに木をたくさん植えて島を植物園のようにきれいにととのえ、入場料をとって利益を得ていた。空き地には、落花生のようなものも栽培されていた。この公園で、われわれはレクリエーションの名でたびたび秘密会合を開いた。

 江南公園より格好の秘密会合の場所は北山だった。主として草木の茂る夏季に利用した江南公園にくらべ、北山は季節にかかわりなく、一年中、自由に利用できた。吉林で人がいちばん大勢集まるのは北山遊園地である。したがって、北山とその周辺は、市内でもサービス施設がもっとも密集しているところでもあった。北山に向かう通りの両側には、飲食店、氷糖(ピンタン)屋、玩具店、タバコ屋、雑貨店、茶店、娯楽場などがずらりと並び、洋品専門の大きな京広商店もあった。

 北山に人が大勢集まるのは、景色がよいことにもよるが、そこに薬王廟のような名勝古跡が多いからだった。薬王廟というのは、薬神の祭祀をする社という意味だ。

 吉林では、毎年6月4日から6日までの3日間を廟会期間とし、省政府の主管のもとに北山で薬神霊の誕生を祝う官制行事をおこなった。この行事には庶民はもちろん、官職についている人もみな参加した。廟会中の3日間は休日とされた。

 警察当局は、この行事がおこなわれるときは、決まって北山のふもとの大道路の東側に臨時派出所を設けて電話を引き、山上には警察分班を配置して商店街の秩序維持にあたる一方、薬王廟、関帝廟、娘々廟で焚く香の火が山火事にならないよう警戒し、取り締まった。3日間の行事期間は、馬丁や車夫にもふだんの十倍もの実入りがあった。

 この3日間の廟会を商人は利益を上げる好機としたが、都市の有志や先覚者は省立通俗講習所の看板を掲げて、大衆を啓蒙する社会教育の演壇とした。相異なる職業に従事する啓蒙活動家がいたるところにあらわれ、こぶしを振り上げて、愛国、道徳、法の遵守、美感、実業、体育、衛生など種々のテーマで熱弁をふるうさまは、北山でなくては見られないめずらしい光景だった。

 こうした複雑な合間をぬって、われわれも大衆のあいだで先進思想を植えつけ、ときには秘密会合ももった。薬王廟の地下室は、われわれの専用会議室といってもよいくらいだった。寺の僧はわれわれが味方にひきいれた人であった。

 わたしは吉林で学校に通っていたとき、講演もたびたびおこなった。民族主義者が催した討論会にでむいて演説をしたこともある。呉東振、李鐸(リタク)など正義府のリーダーは国恥日(8月29日)、3月1日、檀君(タングン)誕生日(10月3日)など、主な記念日がめぐってくるたびに、市内の同胞と青少年学生を集めて講演会や討論会を催した。

 留吉学友会のメンバーのあいだでは、李儁のやり方が正しいか、安重根のやり方が正しいかという問題をめぐってさかんに論争が展開された。いくら論争しても決着がつかないので、われわれは旅吉学友会が留吉学友会に再編された年の夏、孫貞道の礼拝堂に市内の朝鮮人学生全員を集めて、その問題を討論にかけた。この討論会を通して吉林の青少年は大いに覚醒した。彼らは、テロではだめだ、請願ではなおさらだめだ、強大国が助けてくれるだろうと思うのは妄想だ、ということを初めて自覚し、朝鮮独立のためには新しい進路が探求されなくてはならないということを等しく認めた。

 当時、吉林でおこなわれた討論会や読書発表会では、朝鮮革命の実践と関連した問題がしばしば論議された。

 われわれは毎年、5月の第一日曜日を「少年会の日」とし、この日に吉林市内の朝鮮人青少年とその父兄、有志や独立運動家が参加する運動会を催して団結の雰囲気をつくりだした。

 このように青少年の団結をはかったうえで、大衆の教育・啓蒙活動に彼らを参加させた。10歳前後の少年会員たちも学期末休暇になると、江東、六大門、新安屯、大荒溝など周辺の農村にでむいて、野良仕事を手伝いながら農民を啓蒙した。

 派閥争いがはなはだしかった吉林で、さまざまな息をついていた青少年に一つの息をつかせるようにしたのは、たしかにわれわれの貴重な成果であり、体験であった。

 朝鮮人吉林少年会、朝鮮人留吉学友会、マルクス・レーニン主義読書グループの活動が活発になると、吉林一帯では「トゥ・ドゥ」のメンバーを中核とする新しい世代の革命勢力が急速に成長していった。

 吉林駐在の日本総領事もこれをかぎつけ、われわれの活動に注目するようになった。吉林一帯での新しい革命勢力の台頭とその急速な拡大におそれをなした総領事は、本国の外務大臣あての公式報告のなかで、その隊伍は組織力が強く、やがておそるべき存在として出現する可能性があるゆえ特別の注意を要する、と警告した。

 日帝は、内部が統一されず四分五裂の状態にあった朝鮮共産党の分派集団や、実行力と大衆への浸透力が弱い民族主義勢力よりも、派閥争いとは絶縁し、誰の顔色もうかがおうとせず、人民大衆のなかに深く浸透して、独自の方法で革命の道を開拓していくわれわれの存在をおそれたのである。

 吉林に新しい運動ネットがあらわれたといううわさは、満州各地はもちろん、国内と中国関内にまで伝わっていった。そのうわさは主として、吉林の留学生とその家族によって遠くまで伝えられたのであった。

 われわれの運動ネットに合流しようと、国内と日本、沿海州、満州などの各地から、数多くの青年が吉林に集まってきた。独立軍に関係した青年、日本で苦学していた青年、白衛軍と戦っていた青年、黄埔軍官学校をでて広州暴動に参加した青年、国民党反動派の追跡をさけて転々と居所を変えていた青年、レーニンの崇拝者、孫文の崇拝者、ルソーの崇拝者など、政見と所属、生活経緯を異にする千差万別の青年がわれわれを訪ねてきた。金赫、車光秀、金俊(キムジュン)、蔡洙恒(チェスハン)、安鵬(アンプン)などもそのころ、われわれを訪ねてきたメンバーである。

 われわれは彼らを教育して「トゥ・ドゥ」にうけいれる一方、市内の各学校に組織を拡大していった。

 その過程で、われわれは「トゥ・ドゥ」より大きな器をもってより多くの人を結束する組織が必要であると感じた。そうした必要から、1927年8月27日、「トゥ・ドゥ」を反帝青年同盟に再編し、その翌日は、「トゥ・ドゥ」の精粋分子で朝鮮共産主義青年同盟を創立したのである。

 反帝青年同盟は、「トゥ・ドゥ」のスローガンをそのまま掲げ、綱領も同じものを継承した、反帝的で大衆的な非合法の青年組織であった。組織の基本的構成は朝鮮青年だったが、反帝的立場の確固とした中国青年も加盟させた。

 反帝青年同盟は、広範な反日青年大衆を革命隊伍に結集し、反日闘争の大衆的基盤をかためるうえで大きな貢献をした。

 この組織は、文光中学校、吉林第1中学校、吉林第5中学校、吉林師範学校、吉林女子中学校、吉林法政大学など、朝鮮人学生が在学している市内のすべての学校に根づき、江東、新安屯をはじめ、吉林周辺の農村地域と柳河県、樺甸県、興京県一帯にも根をおろした。朝鮮青年のいるところには例外なく結成した。

 反帝青年同盟はやがて、謄写版で宣伝用資料もプリントするようになった。

 われわれはより多くの青年を結集するため、土曜日は授業が終わりしだい、周辺の農村にでかけていった。そうすると、用をたして日曜日の午後には帰ってくることができた。

 われわれが「トゥ・ドゥ」を反帝青年同盟に再編し、ついで共青を創立したのは、半年余りのあいだに吉林と撫松一帯に青年学生を結集した、合法、非合法の各種大衆組織が育ったので、それらの組織を統一的に指導し、統率する組織が切実に必要になったからである。

 青年の新しい前衛組織をつくるのは、青年運動発展の合法則的な要請であった。

 それまでは、わたしがどの組織ともつながりをもっていたので、わたし個人の活動をとおして組織相互の連係が保たれていた。崔昌傑、金園宇、桂永春といった人たちの場合は、個人としての青年共産主義者の資格で学生青年組織に関与していたにすぎなかった。

 新しい前衛組織をつくるのは、当時の情勢からしても緊切な要請であった。

 当時、日帝は満州侵略を急いでいた。日本帝国主義者は、朝鮮人民にたいする弾圧を強める一方、満州の反動軍閥と結託して、朝中人民の反日気勢を抹殺しようと狂奔していた。

 朝鮮青年はいたるところで、日帝と中国の反動軍閥にたいするたたかいに決起した。そうした実情で、青年学生を組織に結集して統一的に掌握し、彼らのたたかいを巧みに導いていく強力な前衛組織が切実に必要となったのである。

 固陋(参考:見聞が狭くてかたくなであること。古いことに頑固に執着し、新しいものを嫌うこと)な民族主義者と分派分子のヘゲモニー争いのため、四分五裂の道を歩んでいる青年運動の実態からしても、青年を分裂の危機から救い、統一団結の道へしっかりと導く前衛組織の誕生は、新しい世代の共産主義者にとって一日も遅らせることのできない時代的課題となっていた。

 当時、中国の東北地方には、非合法の青年組織として満州朝鮮共産主義青年団が、合法的青年組織として、南満州青年総同盟、北満州青年総同盟、東満州青年総同盟、吉林青年同盟、吉会青年同盟、三角州青年同盟などの団体が組織されていた。

 相異なる系列の分派分子がこれらの青年団体をひきあい、相異なる勢力の民族主義者が競いあって、これらの団体に手をのばしていたので、そこに属している人でさえ、自分の所属団体が共産主義団体なのか、民族主義団体なのか判断できないくらいだった。青年学生はこのようにいくつもの派に分かれていた。M・L派や火曜派の影響下にある学生がいるかと思うと、民族主義者の子弟までが、父親の所属によって、正義府側、参議府側、新民府側に分かれ、それがまた保守派と革新派に分かれている始末だった。見解が異なり所属団体が違うので、彼らはいつも反目していた。

 分裂状態にあった青年運動をたてなおし、青年を民族主義勢力と分派分子の影響からひきはなし、正しい共産主義革命の道に導くためには、新しい前衛組織がどうしても必要であった。

 正直にいって、当時、朝鮮共産党がまがりなりにも自己の役割を果たしていたなら、われわれまでが、そういう心配をしなくてもすんだはずである。共産主義を理念とする党があり、多くの青年組織があるにもかかわらず、全然そのおかげをこうむることができなかったのであるから、それ以上もどかしく胸の痛むことはなかった。

 朝鮮革命は、それ自体の特殊性のため、複雑な問題をかかえていた。幾多の障害がことごとに前途をさえぎった。

 分派分子との関係、民族主義者との関係、中国人民との関係、コミンテルンとの関係などで複雑な問題が常時もちあがった。そのうえ、満州で活動する朝鮮の共産主義者は、日帝と中国反動軍閥の二重の脅威にさらされていた。

 こうした状況のもとで、革命を巧みに導いていくには、それを担当しうる洗練された指導中核と正しい指導理論が必要であった。

 「トゥ・ドゥ」の理念を実現するたたかいの過程で、数多くのすぐれた青年共産主義者が育った。派閥争いや事大主義を知らず、権力欲がなく、旧弊に毒されていない新しいタイプの青年共産主義者が、わが国の青年運動と共産主義運動を新たに開拓する中核となったのである。

 樺甸と吉林で新しい思潮を探求し、「トゥ・ドゥ」とともにたたかいの道をきりひらいていくなかで、われわれは朝鮮革命の実践と関連した一定の指導理論ももつようになった。

 わたしは、この指導理論を具現した前衛組織として、共青の創立を決心し、その綱領と規約の作成に着手した。

 綱領では、共青が朝鮮革命の実践と密接に結びついた理論によって指導され、分派を徹底的に排撃することがとくに強調された。

 われわれは、こうした準備にもとづいて、1927年8月28日、北山公園の薬王廟の地下室で、朝鮮共産主義青年同盟を結成する会合をもった。

 会合には、崔昌傑、金園宇、桂永春、金赫、車光秀、許律(ホリュル)、朴素心、朴根源、韓英愛(ハンヨンエ)など、反帝青年同盟の中核と青年共産主義者が参加した。

 報告はわたしがしたが、その内容はすでにパンフレットで出版されている。

 その日、われわれは「トゥ・ドゥ」を結成したときのように、肩を組んで『インターナショナル』をうたった。

 朝鮮共産主義青年同盟は、反帝青年同盟の中核を根幹にし、各革命組織で鍛えられた点検ずみの青年によって結成された、反帝民族解放と共産主義をめざしてたたかう非合法の青年組織であった。

 朝鮮共産主義青年同盟は、朝鮮の青年共産主義者の先鋒隊であり、各階層の大衆団体を組織し、指導する前衛組織であった。

 われわれは共青を創立したあと、隊伍の純潔を守り、その組織的思想的統一団結を強めることに特別な関心をはらった。これを確かなものにしておかずには、憲兵、警察、特務の蠢動と反動分子、分派分子の破壊行為がはなはだしい実情で、組織を保持することができないのである。

 共青は同盟員の思想教育に大きな意義を付与し、彼らの政治理論水準と指導水準を高めるための学習に力をそそいだ。同盟員のあいだでは、そのころ「帝国主義論」「植民地と民族問題」「朝鮮革命における当面の闘争課題」といった問題の研究や討論が真剣に進められていた。

 われわれは、共青員の組織生活をとりわけ重視した。共青は毎月1回、性格検討会を開いて共青員の生活を総括した。共青員は組織生活を通じて鍛えられ、そのなかで共青は組織性と規律性の強い集団に成長した。

 われわれは共青員に、下部組織の指導、青年学生と大衆の啓蒙、農村の革命化といった多様な任務分担をおこない、実践活動を通じて彼らを不断に鍛えた。

 同時に、各革命組織で鍛えられたすぐれた青年を迎え入れて、共青の隊伍をたえまなく拡大していった。こうして、共青は短期間のうちに吉林市とその周辺はいうまでもなく、敦化、興京、樺甸、撫松、安図、磐石、長春、ハルビンなど、満州の広大な地域と北部朝鮮一帯をはじめ国内深くに拡大された。

 共青は、朝鮮革命において前衛の役割を果たした。党が大衆組織を指導するのは、共産主義運動において一つの常識となっている。だが、わが国では党が相応の役割を果たせなかったため、共青が党の役目までうけもち、傘下の青少年組織の指導とともに、労働者、農民、女性の各組織の指導まで同時におこなわなければならなかったのである。

 われわれは共青の創立後、うわさを立てず静かに大衆のなかにはいっていった。たとえ認めてくれるものがいなくても、それが革命の利益になり、人民の利益になりさえすれば、それでよいのである。それが、われわれの立場であり、決心でもあった。ヘゲモニーに目がくらんだ者が、みずからを「正統派」と称して立ちまわっているとき、新しい世代の青年共産主義者は、そうした虚栄の世界とは絶縁して、革命の道を一歩一歩進んでいったのである。

 共青は、青年の組織的結束をうながし、中核を育て、朝鮮革命の主体的力量を強化するうえでめざましい役割を果たした。共青の創立は、新しいタイプの党組織の結成をめざす青年共産主義者の活動を強くうながし、その偉業をはやめる中軸として根本的な役割を果たした。1930年夏に結成された最初の党組織の大多数のメンバーは、共青によって鍛えられた前衛的な青年闘士たちであった。

 最近、われわれは、共青創立の日にあたる8月28日を青年デーと定めた。      



 


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