金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 先進思想の探求


 わたしは1か月ばかり家にいて正月を家族とともにすごし、1月中旬、撫松をあとにした。吉林に着いたのは人通りの多い日中だった。道をたずねるたびに父の知人の住所をメモした手帳を取り出し、凍えた手でめくってみるのがおっくうで、あらかじめ街の名前と住所を覚えておいた。古い歴史を誇る大都市の盛況は一目見た瞬間から、静寂な農村地帯ですごしたわたしを威圧するかのようだった。

 わたしは改札口を出てからも、こみあげる興奮で歩みを移すことができず、わたしを新しい生活へといざなう新天地の躍動する姿に長いこと見入っていた。

 その日、わたしが見た都市の風景のなかで最も印象的なのは、街に水売りの多いことだった。水の都とうたわれ、かつて船着き場とも呼ばれた都市が、飲料水の不足であんなに水売りが繁盛しているのだから、吉林の都会生活も苦しくなるばかりだ、と道行く人たちがぼやいていた。一杯の水にもそろばんをはじかなければならない都会生活の重圧が、わたしの胸にもひしひしと迫ってくるような気がした。しかし、わたしはかぶりを振って胸を張り、都心に向かって歩き出した。

 吉林駅から北山方面にのびた岔路街をしばらく行くと、都市を城内と城外に分ける城壁があらわれた。そこには朝陽門という扁額のかかった城門があった。近くには新開門と呼ばれる城門もある。吉林には朝陽門と新開門のほかに巴虎門、臨江門、福綏門、徳勝門、北極門などの城門が10もあって、それらを張作相の軍隊が守っていた。風化作用でところどころ崩れた古色蒼然とした吉林の城壁は、この都市の古い歴史を物語っていた。

 吉林ははじめての都市だったが、なじみのない感じはしなかった。以前から一度来てみたかったし、父の友人も多いところだったせいかもしれない。手帳にはあいさつをしなければならない父の友人や知人の住所が10余も記されてあった。呉東振、張戊M、孫貞道、金史憲、玄黙観(ヒョンムクファン=玄益哲・ヒョンイクチョル)、高遠岩、朴起伯、黄白河らはいずれも吉林に住む父の友人で、訪問を予定した人たちだった。

 わたしはまず呉東振にあいさつすることにし、岔路街と尚埠街のあいだにある彼の家を訪ねた。実のところ、そのときわたしはかなり緊張していた。父の友人がせっかく斡旋してくれた華成義塾を中退したのだから、呉司令の機嫌を損ねるのではなかろうかと思ったのである。

 ところが、彼は以前と変わりなくわたしを喜んで迎えてくれた。華成義塾を中退して吉林に来たわけを話すと黙ってうなずくだけで、しばらくはなんともいわず慎重な面持ちをしていた。

 「前ぶれもなく吉林に来たおまえを見ると、お父さんのことが思い出される。お父さんも崇実中学校をそんなふうにいきなりやめてしまった。そのことを聞いたときは残念でならなかった。けれども、ずっとあとになって、お父さんの決心が正しかったと思うようになった。とにかく、わずか6か月で義塾をやめ、吉林に来る決断をくだしたのには驚くほかない。吉林が理想に合うなら、ここで自分の井戸を掘るんだな」

 わたしの説明を聞いて、彼がいった言葉はこれがすべてだった。さすがに呉東振らしい闊達な考え方だと、わたしはひそかに感謝した。

 彼は、吉林で勉強するつもりなら、お母さんや弟たちも引っ越してくればよかったのに、といって残念がった。父の葬儀のさいも彼は、金先生の友人が多い吉林へ転居してはと、何度も母に勧めた。母はそれに感謝しながらも、撫松を離れようとしなかった。陽地村に父の墓を残して、どうして吉林へ行けようかという気持ちからである。

 呉東振は自分の秘書崔一泉をわたしに紹介した。呉東振から彼の自慢話をよく聞かされていたので、わたしは彼の人となりについてはある程度知っていた。彼は正義府で文章家として知られていた。その日の対面以来、わたしと崔一泉は特別な同志的きずなで結ばれる仲となった。

 その日の午後、呉東振はわたしを三豊桟に連れていき、独立運動家たちにあいさつさせた。そこには、金時雨が紹介状を書いてくれた金史憲や正義府の警護隊長をしている張戊Mもいた。三豊桟とは、三豊旅館という意味である。中国では旅館のことを「桟」ともいっている。金史憲や張戊Mのほかにも、そこにはわたしの知らない独立運動家がたくさんいた。

 三豊旅館は、太豊合精米所とならんで独立運動家が宿泊兼連絡所として利用している吉林におけるかれらのいま一つの拠点だった。朝鮮からやってくる移住民も三豊旅館をよく利用した。

 旅館の主は孫貞道牧師と同郷の人であった。平安南道の甑山(チュンサン)に住んでいた彼は孫牧師の勧めで吉林に移り、三豊旅館を経営した。看板は旅館だったが、寮か公会堂といった感じの建物である。

 旅館から日本領事館までは100メートルほどしかなかった。吉林地方のスパイ活動の総本山ともいえる日本領事館のつい目と鼻の先の旅館に、密偵や警察が血眼になって探している反日独立運動家が大勢出入りするのは危険でなかろうかと思った。しかし、独立運動家は「灯台下暗し」だといって、ひっきりなしに出入りした。不思議なことに、三豊旅館で愛国者が逮捕される不祥事は一度も起こらなかった。それで、われわれも組織の結成後、この旅館をしばしば利用したものである。

 金史憲は金時雨の紹介状を見ると、自分の親しい金剛(キムガン)という朝鮮人が吉林毓文(いくぶん)中学校の教師をしているから、そこへ入ってはどうかといった。市内の新興社会系によって設立された私立学校で、吉林ではかなり傾向のよい学校だとのことだった。

 吉林毓文中学校が傾向のよい学校だということは各界に広く知られていた。それは『吉長日報』が、この学校の紹介記事を何度も載せたからである。『吉長日報』はすでに1921年に、毓文中学校について、経営は苦しいが学業成績が非常にすぐれ、各界の賛助を得ている学校だと紹介している。

 学校の経費と校長の職権乱用などの問題をめぐっての内紛で、毓文中学校では校長がたびたび更迭されていた。わたしが吉林に到着したのは、南京金陵大学出身の張蔭軒にかわって李光漢が校長に赴任して間もないころである。

 校長が4回も交代していることからも、毓文中学校で正義と秩序がいかに重んじられているかがうかがわれた。毓文中学校のその革新的な校風がわたしの気に入った。

 金史憲は翌日、わたしを毓文中学校の金剛先生に引き合わせた。金剛は英語がよくできた。

 わたしは彼の案内で李光漢校長に会った。李光漢は中国民族主義左派に属し、周恩来総理とは中学の同窓で、少年時代から周総理の影響をうけた良心的な知識人だった。わたしが周総理と李光漢校長の縁故関係を知ったのは数十年後のことである。いつだったか、わたしはわが国を訪問した周恩来総理と会って青年時代を回顧したことがあるが、そのとき、わたしをいろいろと援助してくれた中国人のことにふれ、李光漢校長の名もあげた。すると、周総理はたいへん懐かしがり、彼は天津の南開大学付属中学校時代の同窓生だというのだった。

 李光漢校長はわたしに、学校を卒業したらなにをするつもりかとたずねた。わたしが、祖国の解放につくしたい、とためらいなく答えると、彼は、それは立派な抱負だ、とほめてくれた。

 わたしの率直な話しぶりが幸いしたのか、李光漢校長は、1学年を飛ばして2学年に入れてもらいたいというわたしの要望を快諾した。

 青年学生運動と地下活動に従事していたころ、わたしはたびたびこの先生の援助をうけた。彼は、わたしが革命活動のためによく欠席するのを黙認し、軍閥当局に買収された反動教員がわたしに手出しできないよう、なにかとかばってくれた。軍閥当局や領事館警察がわたしを捕えにくるときは、事前にそれをわたしに知らせて校外に抜け出させてくれることもあった。校長が良心的な知識人だったので、その下で多くの思想家が安心して活動することができた。

 わたしが毓文中学校の入学手続きを終えて帰ると、呉東振夫妻はわたしに、卒業するまで寮に入らず、自分たちの家にいるようにと勧めてくれた。わたしにとって、それは願ってもないことだった。

 わたしは母の仕送りに頼って勉強しなければならなかったが、母は病弱だった。母は冬も夏も終日休むことなく、洗濯や裁縫などの賃仕事をして、月に3円ほど送ってくれた。それで月謝を払い、ノートや教科書を買うと、もう履き物も買えないほどだった。

 そんな状態だったので、わたしは父の友人たちの好意を喜んで受け入れた。わたしは吉林で、最初は呉東振の世話になり、彼が逮捕されると張戊Mの家でおよそ1年、玄黙観の家で数か月、それに呉東振の後任の正義府の司令李雄のもとでもしばらく厄介になった。

 そのころ、吉林にいた名士はほとんどが父と親しい間柄だったので、いろいろとわたしの力になり、目をかけてくれたのである。わたしは父の友人の家をしばしば訪問するうちに、多くの独立軍幹部や独立運動の指導者を知り、吉林に出入りするさまざまな人たちに会うことができた。

 当時、正義府の幹部はほとんどが吉林に常駐していた。正義府は、行政、財務、司法、軍務、学務、外交、検察、検督など、ものものしい中央機構に地方機構までそなえ、管轄区域の朝鮮人から税金まで徴収して、さながら独立国家のようであった。その膨大な機構を守るために、正義府は150余人の軍人からなる常備の中央護衛隊まで持っていた。

 吉林は、中国の省都で、奉天、長春、ハルビンとともに満州地方の政治、経済、文化の中心地の一つであった。

 吉林督軍署は張作霖の従弟にあたる張作相の指揮下にあったが、彼は日本人の指図を嫌った。日本人が、誰それは共産党員で、誰それは悪い男だと知らせても、あんたたちが関与することはないといって、彼らの要求を一蹴するのがつねだった。彼がそんな態度をとったのは、彼に政治的な見解があったからではなく、無知で自尊心が強かったからである。それが革命家や社会運動家には有利に作用した。それに、満州地方に移住した朝鮮人はほとんどが吉林省に居住していた。

 そんなわけで、日本の軍警ににらまれている朝鮮独立運動家や共産主義者は吉林に多く集まってきた。したがって、吉林は自然に朝鮮人の政治活動舞台となり、その中心地となったのである。「東北三省における排日の策源地は吉林」だという日本人の評価は、それなりの理由があったのである。

 1920年代後半期の吉林は、満州における朝鮮民族主義運動の基本的勢力である正義府、参議府、新民府などの首脳の集結地であった。独立運動家は新聞の発行や学校の設立などは、主として樺甸や興京、竜井などでおこなったが、リーダーたちが集まって活動したのは吉林だった。

 M・L派、火曜派、ソウル・上海派などの分派がそれぞれ勢力の伸張をはかって活動したのも吉林だった。共産主義運動の指導者を自称する「大物」たちもほとんどが吉林に出入りした。そこには、民族主義者、共産主義者、分派分子、亡命者などさまざまな人たちがたむろしていたのである。

 新しいものを志向し、真理を求める青年学生もこの城市にやってきた。

 一言でいって、吉林にはありとあらゆる思想潮流が渦巻いていた。わたしもそこで共産主義の旗をかかげて革命活動をはじめたのである。

 わたしが吉林に到着したときは、「トゥ・ドゥ」の何人かのメンバーが樺甸で約束したとおり、すでにこの都市に来て、文光中学校をはじめ、市内の各学校や機関区、船着き場などに籍を置いていた。

 彼らはわたしが吉林に到着したと知ると、さっそく呉東振司令の家に駆けつけてきた。「金と水と薪には困るが、本が多くていい」というのが彼らの吉林印象談だった。

 わたしは、本が多ければ空腹とも妥協できる、と冗談をいった。それはわたしの真情でもあった。

 彼らも毓文中学校に好感をもっていた。教職員のなかには国民党の右派もいるが、ほとんどが共産党系か三民主義の崇拝者だというのである。彼らの話を聞くと、わたしも一安心した。

 あとで知ったことだが、尚鉞先生や馬駿先生も共産党員であった。

 われわれは新しい土地で革命の真理を思う存分探求し、「トゥ・ドゥ」の目的を実現するために全力をつくそうと誓い合った。

 樺甸に残っていた「トゥ・ドゥ」のメンバーも活動舞台を求めて、撫松県、磐石県、興京県、柳河県、安図県、長春県、伊通県など満州一帯の朝鮮人居住地域へ移っていった。なかには出身中隊にもどって、再び独立軍に服務した者もいた。

 吉林のような複雑な都市で、わずか数人の中核をもってわれわれの声に大衆の耳を傾けさせ、「トゥ・ドゥ」の理念を実現するためにたたかうのは容易なことではなかった。

 しかしわれわれは、各自が一点の火種となってまわりの10人、100人を呼び起こし、その100人がまた1000人、万人の心にくいこんで世界を変革しようという、かたい決意にみちあふれていた。

 吉林におけるわたしの活動は、マルクス・レーニン主義をさらに深く研究することからはじまった。わたしは吉林に移るとき、樺甸ではじめたマルクス・レーニン主義を本格的に掘り下げて研究しようと決心した。吉林の社会的・政治的雰囲気は、新しい思潮をより深く研究しようというわたしの決心を助長した。わたしは学校の課目よりもマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの著作を熱心に読んだ。

 当時の中国は大革命の時代で、ソ連や日本で発刊される良書をいろいろと翻訳出版していた。北京では雑誌『翻訳月刊』が出されていたが、そこに青年学生の興味をそそる進歩的な文学作品がよく掲載された。撫松や樺甸では見られない書物が吉林にはいくらでもあった。しかし、わたしには書物を買う金がなかった。いまこんなことをいえば信じられないだろうが、そのころ、わたしは登校するときだけズック靴をはき、帰宅してからはほとんど裸足ですごした。

 牛馬巷通りの図書館では1か月の閲覧料が10銭だったので、わたしは毎月閲覧券を購入して、放課後、図書館へ寄って何時間も本や新聞を読んだ。そうすれば、わずかの金でいろいろな出版物が読めるのだった。

 書店によい本があっても金がなくて買えないときは、裕福な学生に買わせて、それを借りて読んだものである。彼らのなかには読みもしないのに見栄で本を買い、装飾用に書架にはさんでおく者もいた。

 当時、毓文中学校では、学校の管理が民主主義的におこなわれていた。図書主任も半年に一度、学生総会で選んだ。図書主任は、図書館の運営計画を立て、本を買い入れる権限をもっていた。

 わたしは毓文中学校時代、図書主任に2度選ばれた。その機会にマルクス・レーニン主義書籍をたくさん買い入れた。

 本が多い反面、時間は足りなかった。わたしは読書時間を1分1秒でも余計に見つけ、1冊でも多くの本を読んでその本質をつかもうと努めた。

 幼いころから、父はわたしに本を読ませては、その中心的な内容や学んだ点を必ず書きとめる習慣をつけさせた。その習慣が大いに役立った。中心をとらえて精読すれば、いくら複雑な内容でも明確に把握でき、短い時間に多くの本が読めた。

 わたしが中学時代に夜を徹して本を読んだのは、学究的な趣味や探求心のためではなかった。わたしは、学者になったり出世するために本を読んだのではない。どうすれば日帝を駆逐して国を取りもどせるか、どうすれば社会の不平等をなくして勤労人民に幸せをもたらせるか、わたしが知りたかったのはそうした問題にたいする解答だった。どこでどんな本を読んでも、わたしは常にその解答を求めた。

 マルクス・レーニン主義をドグマとしてでなく実践の武器とし、真理の基準を抽象的な理論でなく、常に朝鮮革命という具体的な実践のなかで求めようとするわたしの立場は、そのようななかで芽生えたといえよう。わたしはそのころ、『共産党宣言』『資本論』『国家と革命』『賃労働と資本』などマルクス・レーニン主義の古典とその解説書を読みあさった。

 政治書とならんで革命的な文学作品も多く読んだ。当時、最も興味をもって読んだのはゴーリキーと魯迅の作品である。撫松や八道溝にいたころは『春香(チュンヒャン)伝』や『沈清(シムチョン)伝』『李舜臣(リスンシン)伝』『西遊記』など昔の生活を描いた本をたくさん読んだが、吉林では『母』『鉄の流れ』『祝福』『阿Q正伝』『鴨緑江上』『少年漂泊者』などの革命的小説や当時の現実生活を描いた進歩的な小説を数多く読んだ。

 後日、抗日武装闘争のなかで苦難の行軍などの試練に遭遇すると、わたしは吉林時代に読んだ『鉄の流れ』のような革命的小説の内容を思い起こしては、力と勇気を奮い起こしたものだった。文学作品は人々の世界観の確立において重要な役割を果たす。それで、わたしは作家に会うといつも、革命的な小説をたくさん書くようにと勧めているのである。いまでは、わが国の作家も革命的な大作をいろいろと世に出している。

 われわれは、当時の不条理な社会現象と人民の悲惨な生活境遇を目撃し、それを通じても政治的に覚醒したものである。

 当時、朝鮮から満州にやってくる移住民のなかには、吉林をへて他の地方へ流れていく人が少なくなかった。われわれは、彼らから国内の惨状をいろいろと聞いたものだった。

 鴨緑江を渡った移住民は、丹東から南満州鉄道で長春へ、そこからまた東支鉄道を利用して北満州に向かうか、吉長線を利用して吉林に寄り、そこから付近の奥地へ入る人たちもいれば、奉天から奉海線、吉会線を利用して敦化、額穆(がくぼく)、寧安方面へ行く人たちもいた。

 寒い冬から初春にかけて、吉林駅や旅館では朝鮮人移住民を多く見ることができた。彼らのなかには数奇な運命に翻弄された人が少なくなかった。

 ある日、わたしは学友と一緒に「京劇」を観覧した。公演が終わったとき、一人の女優がわたしたちのところへやってきて、崔(チェ)なにがしという人がここに住んでいないかとたずねた。自分の愛人だという。彼女が朝鮮語をつかったとき、わたしたちは驚いた。朝鮮には「京劇」がなかったからである。

 玉粉(オクプン)というその女優は慶尚道の生まれだった。彼女の父親がある日、隣家の友人と酒を飲みながら、おまえの家で息子が生まれたらおれの婿にし、おれの女房が娘を生んだらおまえの嫁にしよう、もし、どちらも息子か娘を生んだら、義兄弟にさせようと約束を交わした。

 やがて、彼らはそれぞれ男の子と女の子をもうけた。両家では子供たちを結婚させるしるしとして、絹のハンカチを裂いて一切れずつ分け合った。

 その後、両家はともに生きる道を求めて故郷を捨てることになった。男の子の家族は、吉林にやってきて暮らし、息子は大きくなって文光中学校に入学した。彼の一家は吉林で家を一軒持ち、小さな精米所を設けてさほど不自由のない生活をしていた。ところが、女の子の家族は丹東で旅費が切れ、中国人に幼い娘を売るほかなくなった。玉粉は鞭で打たれながら「京劇」を仕込まれ女優になったが、大きくなるにつれて故郷で親から決められた夫のことを考えはじめた。彼女は巡回公演の先々でひそかに朝鮮人に会っては、夫の行方をたずねていたのである。

 その日、玉粉は文光中学校に通う夫と劇的な対面をした。

 玉粉が 「京劇」 をやめて夫のもとに残りたいと申し出ると、興行団の女主人は莫大な金を要求した。それで玉粉は、給料を何年か積み立てて身代金を払い、そのあとで吉林に帰ってくるといった。わたしは怒りに胸がふるえた。学友たちは金に目のくらんだ、血も涙もない興行団の女主人を「蛇のような女」だとののしったものである。

 数十万の人間が群がり集まって、生存競争に勝ち残ろうとあくせくする大都市の生活は、階級社会の悪臭をただよわせていた。

 熱い日が照りつけるある夏の日、学友と一緒に北山から帰ってくる途中、わたしは、道端で車夫が金持ちと口論している場面に行きあたった。人力車に乗ってきた金持ちが、車夫にまともな代金を払わなかったようである。車夫は金持ちに、いまは「三民主義」の時代だから、「民生」に関心を向け、もう少し出してほしいと哀願した。金持ちは、金を出そうとはせず、「三民主義」は知っていても「五権憲法」は知らないのかと怒鳴って、ステッキで車夫を殴りつけた。

 憤激したわたしたち学生は、その金持ちを取り巻いて、金をもっと払うようにと圧力を加えた。

 このような体験を通してわれわれは、この世にはなぜ、人力車を乗りまわす人とそれを引く人とがいるのか、なぜ12の門を持つ豪壮な屋敷でぜいたく三昧に暮らす人間がいる一方、乞食になって街をさまよう人間がいるのかという疑問をいだき、強い不満を覚えた。

 革命的世界観は、人々が自己の階級的立場と利害関係を認識することからはじまって、搾取階級を憎み、自己の階級の利益を守ろうとする思想をもち、ひいては新しい社会を築こうという覚悟をもって革命の道に臨むときに確立されるといえよう。

 わたしもマルクス・レーニン主義の古典など革命的な書物を読んで自分の階級的立場に目覚め、さらに社会現象を通してこの世に不平等の多いことを知って搾取階級と搾取社会を憎悪する思想が強まり、結局、世界を改造し変革すべきだという決意をいだいてたたかいの道に立つようになったのである。

 マルクスとレーニンの著書を熱心に読み、それに心酔すればするほど、わたしはその革命学説を青年学生のあいだに早く広めようという衝動に駆られた。

 毓文中学校でわたしが最初に出会った友人は権泰碩(クォンテソク)という朝鮮人学生だった。そのとき毓文中学校には朝鮮人学生が4人いたが、共産主義青年運動に関心を向けたのは権泰碩とわたしだけで、あとの二人は政治運動に無関心だった。彼らは金しか念頭になく、卒業すれば商売でもしようということばかり考えていた。

 わたしと権泰碩は、志向も社会を見る目も似通っていて、最初から息が合った。中国人学生のなかでは、章新民という青年がわたしと親しかった。彼はいつもわたしと一緒にすごし、政治問題についていろいろと意見を交わした。社会の不平等から帝国主義の反動性、日帝の満州侵略企図、国民党の反逆的罪業など、話題はつきなかった。

 当時、吉林では、マルクス・レーニン主義はまだ青年学生の興味の対象にとどまっていた。マルクスは偉い人間だというが、どんな人物か見てみようということで古典に目を通したり、マルクス主義を知らずには時代後れになると思う程度だった。

 わたしは樺甸での経験を生かして、志を同じくする数人の学友を誘い、まず毓文中学校内に秘密読書グループをつくった。進歩的な青年学生をマルクス・レーニン主義の思想と理論で武装させるのが目的であった。読書グループは急速に広がり、間もなく文光中学校、第1中学校、第5中学校、女子中学校、師範学校など吉林市内の各学校でもつくられた。

 読書グループの規模が大きくなると、われわれは独立運動家が経営する精米所の一室を借りて、留吉学友会の名義で図書室を運営した。

 いまでは国内のいたるところに図書館があり、その気にさえなれば宮殿とも見まがう人民大学習堂のような大図書館でも建てられるが、当時、素手のわれわれが自力で図書室をつくるのは容易なことでなかった。図書を購入し、書架をつくり、机や椅子も用意しなければならなかったのだが、われわれには金がなかった。そこで、日曜日になると鉄道工事場で枕木の運搬をしたり、川の砂利を運んだりして金をかせいだ。女学生は精米所で籾を選り分ける仕事をした。こうして得た金で本を買い集めた。

 革命的な本を保管する秘密の書架も別に設けて、図書室ができあがると、人々の気を引くような簡潔な図書案内を書いて、市内の各所に貼り出した。すると、大勢の学生がわれわれの図書室を訪ねてきた。

 われわれは読者を引きつけるため、図書室に恋愛小説の本もそなえた。

 青年の多くは、恋愛小説を読むのが楽しみで図書室を訪ねた。こうして、読書に趣味をもちはじめると、社会科学書を少しずつ貸し出した。そして、彼らがそれらの本を読んで興味を覚えるころを見計らって、秘密書庫からマルクス・レーニン主義の古典や革命的な小説を持ってきて見せた。

 われわれは青年学生たちに、李光洙の小説『再生』『無情』『開拓者』なども読ませた。李光洙が3.1運動の前夜に東京で「2.8独立宣言書」を作成して独立運動につくし、進歩的な作品を多く書いていたときだったので、青年は彼の本を愛読した。しかしその後、彼は変節し、教育的価値のある作品はおろか、結局は『革命家の妻』のような反動的作品を書くまでになった。わたしは抗日遊撃隊の創建後、部隊を率いて南満州に向かう途中、しばし撫松に立ち寄ったときにその小説を読んでみたことがある。『革命家の妻』は、ある共産主義者が病気を治療しているとき、その妻が、夫を治療していた医学専門学校の学生と痴情関係を結ぶ醜悪な生活を描いた作品で、共産主義者を冒涜し、共産主義運動を中傷する思想で一貫していた。

 わたしたちは土曜日や日曜日に、しばしば吉林礼拝堂や北山公園で読書発表会を催した。最初のうちは、恋愛小説の読後感を述べる学生もいた。すると、そんなつまらない話はよせ、という声がかかったりした。そんなふうに恥をかかされると、恋愛小説に熱中していた学生も革命的な小説を読むようになった。

 われわれは、青年学生と大衆のあいだに革命思想を広げるため講談も利用した。

 ある日、わたしは喉を痛めて、湿布をするために授業を休んだことがあった。下校中、北山に寄ってみると、大勢の人たちが盲人を取り囲んで、その話を聞いていた。

 近寄ってみると、その盲人は『三国志』のあるくだりを語っていた。彼は、諸葛孔明がはかりごとをめぐらして敵陣を一撃のもとに攻め落とすところでは、太鼓まで鳴らして人々の興味をかきたてた。そして、いよいよ佳境に入ると急に話をぷつんと切り、見物人に金を出せといって手を差し出すのである。講談は人々を引きつける格好の方法だった。

 その後、われわれもそれを利用して革命思想を普及した。われわれの仲間に、冗談好きで話し上手な青年が一人いた。われわれから任務をうけて信者のあいだで活動していた彼は、祈りをしたり、バイブルを暗唱したりしても決して牧師にひけをとらなかった。その彼に講談をやらせてみると、バイブルをそらんずるよりも上手だった。彼は人々のたまり部屋や公園で、思想傾向のよい小説を身ぶり手ぶりよろしく語って人気を呼んだ。盲人は講釈料を取ったが、彼は取らなかった。そのかわり、聞かせどころに入ると物語をうちきって、扇動演説を一発ぶち、あすの何時から続きを聞かせようといった。すると、人々は小説の続きが聞きたくて約束した場所に集まってくるのであった。

 そのころ、書物が仲立ちとなって交わった友人のなかで、わたしに深い印象を残したのは朴素心(パクソシム)であった。

 吉林の目抜き通りに「新文書社」という大きな書店があって、わたしは数日おきにそこへ通った。朴素心も書店の常連だった。彼はいつも社会科学書のコーナーで新書を探していた。そんなわけで、わたしたちはそのコーナーでよく顔を合わせた。長身でやせ型の知性的な感じのする青年だった。

 わたしが学友たちと一緒に学生図書館にそなえる本を何冊も買うのを見ると、彼はそれが自分の本ででもあるかのように満足げな表情で、その本は内容がこうだ、あの本は読む価値があるからきっと買うようにと口添えするのだった。このように書物がとりもちになって、わたしと朴素心は親交を結ぶようになった。わたしが東大灘にいたころ、彼はしばらくわたしの宿所で一緒にすごしたこともあった。

 朴素心はソウルから来た人だった。健康がすぐれないので共産主義運動には参加せず、新聞や雑誌に短い文章を書いて寄稿している程度だった。彼の文章は、たしか『海潮』紙や『朝鮮之光』などにも掲載されていたと思う。運動にはさほどかかわらなかったが、分派分子を非常に軽蔑していた。彼は剛直で識見が高かったので、吉林に出入りする運動家は誰もが彼を自分の側に引きつけようとした。

 朴素心は日本語訳の『資本論』を夜を徹して読んだ。金がないと衣服を質に入れてまで本を買って読むほどの篤学家だった。彼は通俗的な入門書を何冊か読んでマルクス・レーニン主義の理論家を気取る人たちとは違って、マルクスやレーニンの主な著書にほとんど精通していた。

 朴素心はわたしに『資本論』の案内をし、解説をしてくれた忘れがたい師であった。概してマルクスの著作は難解な点が多いが、『資本論』もその例にもれない。それで、朴素心はわれわれに『資本論』の解説講義もしてくれた。古典を理解するにはやはり入門書やガイドが必要だった。朴素心はそのガイドの役割を誠実に果たした。彼はじつに広い知識の持ち主だった。

 わたしはあるとき彼に、プロレタリア独裁にかんするマルクス・レーニン主義創始者の命題について質問したことがある。

 朴素心は、マルクス・レーニン主義創始者が歴史発展の各段階でプロレタリア独裁にかんして説いたさまざまな命題をすらすらとそらんじるのだった。理論や知識のうえでは、それこそマルクス主義の大家といえた。ところが、そんな彼にも知らないことがあり、解明できないことがあった。

 わたしが、マルクス・レーニン主義の古典では労働者階級の階級的解放が先で、民族の解放はそのあとの問題だと見ているが、わが国ではなによりも日帝の支配から抜け出さなくては、労働者、農民が階級的にも解放されないのではないか、とたずねたことがあった。これは当時、わたしたちのあいだで深刻に論議されていた問題である。

 当時はまだ、労働者階級の階級的解放と民族的解放の相互関係について、マルクス・レーニン主義の学説は理論的な解明を十分に与えていなかった。植民地諸国における民族解放闘争については、科学的な解明が待たれる問題が多かった。

 朴素心は、わたしの質問に明快に答えることができなかった。

 わたしは、マルクス・レーニン主義の古典には、一般的に宗主国の革命と植民地国の革命が有機的に結びついているとして、宗主国における革命勝利の意義のみを強調しているが、それなら、わが国の場合は日本の労働者階級が革命で勝利しなければ国の独立は果たせないのか、われわれは彼らが勝利するまで腕をこまぬいていなければならないのか、とたずねた。

 朴素心はそれには答えられなかった。彼は驚いた表情でわたしを見つめた。彼は古典にあるとおり、労働者階級の階級的解放を民族的解放に先行させ、宗主国の労働者階級の闘争を植民地諸国における民族解放闘争より重視するのは、世界的に公認された国際共産主義運動の路線上の問題だといった。

 わたしが納得できずに首をかしげると、彼はもどかしげに、自分はマルクス・レーニン主義を学術的に研究しただけで、それを朝鮮の独立と朝鮮における共産主義建設という具体的な革命実践と結びつけて考えたことはなかった、と率直に告白した。

 わたしは彼の話を聞いて残念でならなかった。彼のように実践と遊離し、学術的に共産主義学説を研究するだけではなんの意味もなかった。

 そのとき、われわれがマルクス・レーニン主義先進思想を研究しながら感じた最大の苦衷は、われわれもロシア人のように革命を起こして社会を変革し、国を解放しなければならないのだが、朝鮮の実情と十月革命当時のロシアの実情は同じではないということである。

 立ち後れた半封建国家である朝鮮のような植民地国で無産者革命をどう起こすべきか、日帝の過酷な弾圧のため祖国を離れ中国の土地でたたかわなければならない状況のもとで、中国など隣国の革命とどう連係を保ち、朝鮮革命にたいする民族的任務と世界革命にたいする国際的任務をどう遂行すべきなのか、といった複雑な問題が提起されていたのである。

 われわれがそうした問題にたいする正しい解答を得るまでには長い歳月を要したし、また高価な代償を払わなければならなかった。

 朴素心はマルクス・レーニン主義を研究する日々に、わたしと人間的に親密になり、われわれの革命的志向に強く引きつけられた。

 彼は反帝青年同盟と共青にも加入し、われわれと一緒に、青少年を教育、啓蒙する活動にも献身的に参加した。書物の中に埋もれていた人物が決心して実践の場に飛びこむとなると、その情熱はたいへんなものだった。

 その後、われわれは彼を卡倫地方に送って、結核の治療にあたらせた。

 朴素心は賈家屯から2キロほど離れた霧開河の川べりに草小屋をつくり、一人ひっそりと自炊をしていた。

 わたしは卡倫と五家子の一帯で活動したさい、時間の都合をつけて彼を訪ねたことがある。彼はわたしに会ってたいへん喜んだ。われわれはその間のことを語り合い、いろいろな問題について意見を交わした。

 そのとき朴素心は、はじめてわたしに夫人の写真を見せてくれた。夫人が死亡したか離婚したものとばかり思っていたわたしは驚いた。その写真からも、彼女が非常に美しく教養のある現代女性であることがわかった。

 朴素心は、ソウルにいる妻から最近手紙をもらったというのである。なぜ夫人を呼ばないのかと聞くと、彼女は金持ちの娘だという返事がかえってきた。

 そこでわたしは、では金持ちの娘だと知らずに結婚したのかと聞いた。朴素心は溜息をついて、結婚後に自分の世界観が変わったのだといった。

 わたしはどうにも納得できず、ほんとうに彼女のことをきれいさっぱり忘れたのかと問い返した。すると、忘れたつもりだったが手紙をもらってみると、やはり彼女のことが思い出されてならないと正直にいうのだった。

 そこでわたしは、彼女を愛しているなら、呼び寄せるべきではないかと心から勧めた。自分の妻一人教育できずに、どうして古い世の中をくつがえして新しい世界を築けるというのか、彼女がそばにいれば、病気の治療にもよいではないかと話した。

 彼はそうするといいながらも、さびしそうに溜息をついた。

 「成柱同志の忠告だから、そうしよう。でも、わたしの人生はもう傾いてしまった。しくじった人生なんだよ」

 彼には子がなかった。次代に残す財産も精神的遺産もなかった。自分はマルクス・レーニン主義の研究に一生をささげ、労働者階級のためになる本をきっと書こうと思っていたが、それもかなわなくなった、本を書こうにも、元気旺盛なときは真理に目覚めておらず、真理を悟ったときは健康が許さない、と嘆息するのだった。

 それを聞くと、わたしももどかしかった。彼は、学問に誠実で、地道で、探求心に富んでいた。書物の中に埋もれず、もう少し早く実践に乗り出していたなら、労働者階級の革命偉業に役立つ価値ある理論を世に出し、実践的な業績もつんだであろう。実践のなかで理論が生まれ、その正しさも実践を通して検証されるのである。われわれが瞬時として忘れてはならない実践は、朝鮮の独立であり、朝鮮人民の幸福である。残念なことに、朴素心はその真理に目覚めて間もなく、われわれのもとを去ってしまった。

 彼はその後、ソウルから妻を呼び寄せて治療に専念するかたわら、小論文や断想などの執筆をつづけ、卡倫で息を引き取った。

 朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり、という先人の言葉があるが、朴素心のように有能な人物が、真理に目覚めただけで世を去ったのは痛嘆にたえないことである。

 わたしは吉林で3年余りをすごした。吉林はじつに、わたしの一生に忘れがたい軌跡を残した土地である。

 その吉林でわたしは、科学的学説としてのマルクス・レーニン主義を理解し、それによって朝鮮の独立と人民の幸福のための実践的真理を深く把握することができたのである。

 わたしが新しい思潮の真髄を早く悟れたのは、亡国の民族の子として生まれた悲しみと憤りのためであったといえよう。朝鮮民族に強いられたたえがたい不幸と苦痛は、わたしの精神的成長を促した。わたしは、受難にあえぐ祖国と同胞の運命をわが運命としてうけとめた。それがわたしに、大きな民族的義務感を担わせたのである。

 わたしの世界観は吉林時代に確立して揺るぎないものとなり、わたしの生涯の思想的・精神的糧となった。

 吉林での蓄積と体験はその後、わたしの自主的革命思想の骨組みをつくる礎となった。

 学習は、革命家の自己修養にとって欠かせない基礎工程であり、社会の進歩と変革の元手として一日の中断をも許さない必須の精神労働である。吉林時代の先進思想の探求過程を通して得た教訓から、わたしはいまでも、革命家にとって学習は第一の任務であると強調している。



 


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