金日成主席『回顧録 世紀とともに』

4 新しい活動舞台にあこがれて


 華成義塾は学校運営資金の不足で、さまざまな困難に直面していた。

 義塾の学生数は100人にみたなかったが、独立軍の実情でそれだけの学生を養うのは容易なことでなかった。正義府が主人であったが、資金は十分にあてがえなかった。民衆から1銭、2銭と集めた軍資金で、行政、軍事、民事などの枠組みをととのえ、国家なみの体裁をなんとか保たなければならない正義府にとって、学校に大金を投ずるのは無理であった。

 華成義塾当局は資金難を打開するため、周期的に学生たちを学校運営資金の募集工作に送り出した。

 学生たちは20人が1組になって出身中隊に帰り、武器を受け取っては2か月のあいだ正義府の管轄区域をまわって資金を集め、期限になると他の組と交替した。

 そのようにして金を集めても、何か月もたたずに底をついた。すると今度は吉林へ出むいて、正義府に支援を要請するのだった。

 あるとき、崔東旿塾長が越冬用の資金を受け取るため、塾監を正義府本部へ送った。ところが塾監は空手で帰り、第3中隊長はひどい男だといって憤慨した。華成義塾用にとっておいた金を第3中隊長が横領し、自分の婚礼費に使ってしまったというのである。どんなに多くの金をつぎこんだのか、村じゅうの人に何日も飲食物をふるまってもまだ余ったので、近隣の村人たちまでもてなしたという。それを聞いて、わたしは怒りをおさえることができなかった。

 正義府の金庫にある金だからといって、天から降ってくるわけではない。それらの金は、民衆がかゆをすすり、食事を欠かしていながらも、祖国を取りもどしてもらやっと小銭をため、軍資金として納めたものである。金がないと、わらじをつくって売ってでも軍資金を納めてはじめて心が安らぐ朝鮮人民だった。

 第3中隊長はそんなことは眼中にもないようだった。私利私欲にどれだけ目がくらんで、中隊長ともあろう者がそんな汚らわしい横領行為をするのだろうか。

 銃をとって敵と戦う使命を担った指揮官がそんな不正をはばかりなく働いているのは、独立軍の上層部が変質している一つの証拠といえた。

 「乙巳条約」(1905年)後、崔益鉉の指揮する淳昌(スンチャン)義兵の敗報を聞いて数百人の義兵を集め、全羅道一帯で猛活躍していた一義兵隊長は、部下が民衆の財産を略奪したことを知ると、慨嘆のあまり部隊を解散して山中に隠遁してしまったという。その義兵隊長が民衆にたいする侵害をいかに大きな恥辱、罪悪としていたかは、この一事からもよくおしはかれるであろう。

 第3中隊長の非行は結局、人民にたいする侵害だといえた。

 わたしは臨江にいたころ、何人かの独立軍隊員が朝鮮へ渡り、農民の牛を奪って帰ったことで後ろ指をさされるのを見たことがあった。その部隊の指揮官はわたしの家を訪れたさい、父から厳しく叱責された。

 当時、独立軍が軍資金を集めに管轄区域の朝鮮人居住地にあらわれると、その地域の責任者は、金や米を割り当てた書付けをつくって村じゅうの家にまわした。住民はそこに記されているとおり、金や食糧を軍資金として納めなければならなかった。貧しい農民にとって、それは大きな負担だった。

 ところが独立軍の方ではそんなことにはおかまいなく、1銭でも多くの資金を集めようとあくせくし、それぞれ管轄区域を定めては、負けず劣らず勢力範囲を広げた。独立軍のなかには、軍資金を集めて帰る他の武装グループを脅迫して金を奪い去る者もいた。

 大小の武装グループが競い合って人民の金をかき集めた。彼らは民衆をたんに納税者、金や食糧、宿所を提供するしもべとしかみていなかった。そうした非行は封建社会の官僚の行為と少しも変わらなかった。

 玉貫子(纓に通す玉製の小環)をつけた朝鮮の封建支配層は、王宮で人民を搾取する新しい税制をつぎつぎと考案しては、あくことなく民衆のふところをはたいた。

 かつて、封建政府は景福宮を建てるために莫大な金を使い、それを補うために門税(通行税)というものまで考え出した。そのようにして集めた金でせめて大学や工場でも建てていたなら、後世の人から感謝されたであろう。

 華成義塾の進歩的青年は、中隊長がそんなに堕落したのでは、独立軍ももうおしまいだと嘆いた。しかし、彼らはただ非難し、慨嘆するだけだった。こんにちのように公正な社会なら、軍人や人民が世論を高めて提訴するとか、同志裁判にかけてこらしめてやれるだろうが、法もなく軍紀も乱れていた当時では泣き寝入りするほかなかった。

 正義府には民事を担当する機構があるにはあったが、それは看板だけで、軍資金を払えない人を連行して鞭打つことはあっても、中隊長のような者の違法行為には目をつぶっていた。彼らの法には上層部の人間だけがくぐれる抜け穴があったのである。

 わたしはこの出来事を機に、独立軍とすべての独立運動家に警鐘を鳴らそうと決心した。けれども、それをどう鳴らすかが問題だった。

 崔昌傑は、ただちに学生代表を選び、第1中隊から第6中隊まで残らず抗議してまわろうといった。

 正義府が出している『大東民報』のような出版物に投稿して、独立軍の官僚行為を暴露しようという者もいた。それも一つの方法とはいえたが、第3中隊長と同じような立場にある正義府本部や他の中隊長、出版物の編集者たちが、それを受けとめるかどうかが問題だった。

 わたしは、確信のない方法で日時を長引かせることなく、独立軍の各中隊に檄を飛ばそうといった。みな賛成し、わたしに檄文を書けといった。

 それは「トゥ・ドゥ」結成後、われわれが民族主義者に加えた最初の批判であった。

 はじめて書く檄だったので、意に満たなかったうらみはあるが、みんなの賛同を得たので、金時雨に頼んで、正義府の連絡員が来れば渡してもらうことにした。檄は連絡員によってすぐ各中隊に伝えられた。

 反応はかなり大きかった。軍資金を横領して婚礼費に使った本人はもとより、自尊心を傷つけられたり、正義府が非難されたりするのを黙っていない呉東振さえ、檄を読んで大きな衝撃をうけたらしかった。

 翌年の初め、わたしが吉林で勉強するようになったとき、彼はわたしの前で檄の件をもちだした。第6中隊に寄ったとき、中隊長や小隊長と一緒にそれを読んだというのである。

 「その檄を読んでわしは第3中隊長をこっぴどく叱りつけた。中隊長の地位からはずそうかとさえ思った。そんなやからが独立軍の体面を汚しているのだ」

 呉東振は独立軍の上層部が変質していることを率直に認めながらも、その収拾策が立たないのをもどかしがったら

 わが目で見、肌で感じながらも独立軍の堕落が防げず、ただ腕をこまぬいて見ていなければならないのだから、あの激しい気性の呉東振がどんなにやりきれない思いをしたことだろうか。

 わたしは呉東振の話を聞いて、独立軍の腐敗が、われわれ若い世代を悩ませているばかりか、良心的な民族主義者をも悩ませていることを知った。けれども、一枚の檄をもって独立軍の政治的・道徳的堕落を防ぐことなどとうてい不可能であった。

 独立軍は、ますます救いがたい下り坂を歩んでいた。資産家階級の利益を守り、それを代弁する民族主義軍隊としての独立軍の運命はもはや決まっていたのである。

 人民をないがしろにし、彼らに過度の経済的負担をかけている点では、華成義塾の学生も独立軍とさほど変わるところがなかった。彼らも軍資金調達の工作に出ると、管轄区域をまわってわれ先に財物や食糧をかき集めた。

 軍資金の提供をしぶる人には愛国心がないと言いがかりをつけ、独立軍をばかにするのかと脅かしては豚や鶏のような家畜でも納めさせた。

 彼らは、学校では粟飯ばかり食わせている、おかずがどうだなどといって不平をならした。ある日、寮の食堂で夕食をとっていた学生が、また粟飯に菜っ葉汁だ、こんなものしか食わせられないのか、と難癖をつけ、舎監の黄世一(ファンセイル)と言い争った。黄世一は職務に忠実な人だった。ところが食事の質が少しでも落ちると、学生たちは、舎監はなっていないと非難するのであった。

 わたしは解放直後、義州で郡人民委員会副委員長を勤めていた黄世一と会って華成義塾時代の思い出話をしたことがある。そのとき彼は笑いながら、自分は華成義塾時代の教訓が忘れられず、里へ行っても食事のことでは絶対にとやかくいわないことにしているといった。

 わたしは、華成義塾で粟飯に不平をならすような人間は、卒業後、独立軍にもどっても食事に文句をつけるだろうし、とどのつまりは金や権力に目がない醜悪な人間に転落するほかないだろうと思った。

 問題は、そのような人たちが2年後、将校となり、独立軍の中隊や小隊を指揮するようになることである。飢え死にする覚悟はおろか、粟飯を食べる覚悟すらできていない軍隊に、はたしてなにが期待できようか。

 独立軍運動を中心とする民族主義運動一般にたいする失望と華成義塾の教育にたいする幻滅は、わたしの胸の中でいよいよ大きくなった。華成義塾はわたしの期待を満足させることができなかったし、わたしは華成義塾の期待にこたえることができなかった。華成義塾がわたしの望む学校になれないように、わたしも華成義塾が期待するような学生にはなれなかった。華成義塾にたいするわたしの不満と、わたしにたいする華成義塾の不満は正比例の関係にあった。

 わたしは、マルクス・レーニン主義の先進思想に心酔すればするほど、華成義塾の教育から遠ざかり、ますます深く苦悩の深淵に落ちていった。わたしが義塾を遠ざければ、わたしをそこへ送った人たちの信頼を裏切り、彼らにわたしの将来を託した父の遺志にも背くのではなかろうか。父の葬儀に参加するため数十里の遠くから駆けつけてわたしを慰め、旅費を持たせて旅立たせた呉東振、義塾に来たわたしに酒までついでくれた金時雨、そして崔東旿や康済河のことを思うと、申しわけなさで胸がいっぱいになった。

 そのような人たちへの義理を欠かさないためには、不満があっても華成義塾の教育を受け入れなければならない。我慢して2年間の学業を終え、配属された中隊でおとなしく独立軍生活をすれば、彼らにたいする面目も立つであろう。独立軍で生活するからといって、新しい思潮を研究し、「トゥ・ドゥ」の基盤を広げる活動ができないわけでもなかった。

 しかし、そのような体面のために、みずから保守的だと断じた教育となれあって、いいかげんにすごすなど考えられないことだった。わたしはそんなふうに古い教育と妥協したくはなかった。

 ではどうすべきか? 家へ帰って叔父から薬局の仕事を受け継ぎ、家計を助けるべきだろうか。さもなければ瀋陽かハルビン、吉林のような都市で上級学校へ進むべきだろうか。

 このような複雑な心理的葛藤の末、わたしは華成義塾を中退し、吉林の中学に入ろうと決心した。吉林を樺甸につぐわたしの運命の停車場として選んだのは、そこが満州各地から朝鮮の反日独立運動家や共産主義者が大勢集まる政治的中心地だったからである。実際、そういう意味で吉林は「第二の上海」と呼ばれていた。中国本土では、上海が朝鮮革命家の集結地であった。

 わたしは、樺甸という狭い枠を越えてより広い舞台に進出し、「トゥ・ドゥ」の結成によって第一歩を踏み出した共産主義運動を、より高い段階に引き上げて本格的にくりひろげてみたかった。それが華成義塾を中退する主な理由だった。

 わたしが華成義塾を半年後に中退して吉林へ移ったのは、わたしの生涯における最初の大勇断であった。第二の勇断があったとすれば、それは南湖頭会議後、新師団の編制にさいして「民生団」の文書包みを焼き払ったことだといえよう。

 わたしはいまでも、あのとき華成義塾を中退して吉林へ行き、青年学生のなかに入る勇断をくだしたのは正しかったと思っている。わたしが華成義塾を適時に去らず、その枠のなかに閉じこもっていたとしたら、その後、朝鮮革命を急速な高揚へと導いたあのすべての行程はそれだけ遅延したであろう。

 わたしが義塾をやめて吉林へ行くというと、「トゥ・ドゥ」のメンバーは驚いた。わたしは彼らに、「トゥ・ドゥ」を結成したからには、その組織と理念を四方に広げなければならない、華成義塾にとどまっていてはなにもできそうにない、こんな学校に通ったところで意味があるとは思えない、わたしがここを去ったあと、君たちも機会をみて独立軍部隊やその他適当なところへ行き、そこに腰をすえて「トゥ・ドゥ」のネットを広げ、大衆のなかへ入るのだ、君たちはみな組織のメンバーなのだから、どこで活動しようとも組織の統一的な指導をうけなければいけない、といった。何人かの同志とは吉林で再会することを約束した。

 華成義塾の中退問題については、すでに金時雨とも相談してあった。

 「家へ帰ってからも相談してみますが、じつのところ華成義塾での勉強はどうもわたしの気持ちに合いません… お金はなくても吉林へ行って中学に通ってみたいのですが、どうすればよいでしょうか」

 わたしがこんなふうに胸中を打ち明けると、総管はたいそう残念がった。それでも義塾の中退には反対しなかった。

 「君がそのつもりなら、友人たちと相談して斡旋してあげよう。人間は誰でも自分に合う馬車があるものだ。華成義塾の馬車が気に入らなければ、自分の馬車に乗っていくがいい」

 わたしの華成義塾への入学を誰よりも喜び、歓迎した金時雨がそのように理解してくれたのでへ わたしの重い気持ちはひとしお軽くなった。総管は、崔東旿塾長が悪く思わないように、中退してもあいさつはきちんとし、お母さんに会ってから吉林へ向かうときは、必ずここに寄るようにといった。

 金時雨を納得させるのは思いのほかスムーズにいった。

 けれども、崔東旿塾長との離別はたえがたい苦痛をともなった。最初、先生は怒って長々とわたしを責めた。男児が一度志を立てたからにはそれを貫くべきだ、中退するとは何事だ、義塾の教育が気に入らないから中退するというが、この乱れた時代に万人の要求をかなえてくれる学校がどこにあるというのか、と声を荒らげた。そして、くるりと背を向け、窓の外に目をやった。

 先生は、窓ぎわに立って、雪の降る空をうつろに見やっていた。

 「成柱のような秀才が気に入らないというのなら、わしもこの学校をやめる」

 先生の爆弾のような言葉に、わたしはたじろぎ、一言も返せなかった。塾長先生に向かって学校の教育がどうのこうのと非難したのは、ひどすぎるような気がした。

 やがて崔東旿先生は怒りを静め、わたしに近づいて肩の上に手を置いた。

 「朝鮮を独立させる主義なら、民族主義だろうが共産主義だろうがわしはとやかくいわん。とにかく、きっと成功するんだ」

 先生は運動場に出てからも、かなり長い時間、教訓とすべき話をいろいろとしてくれた。先生の頭と肩に雪が降り積もった。

 わたしはその後、大雪に打たれながらわたしを見送ってくれた先生の姿を思い浮かべるたびに、先生の肩の雪を払おうとしなかった自分のいたらなさを胸痛く思い返したものである。

 それから30年たって、わたしは平壌で崔東旿先生と感激的な再会をした。わたしは首相で、先生は在北平和統一促進協議会の幹部であったが、その対面はあくまでも師と弟子とのそれだった。樺甸でかかげた「トゥ・ドゥ」の理念は、戦争の試練にうちかったこの地で、社会主義として開花していた。

 「結局、あのとき、成柱首相が正しかったのです!」

 先生が顔をほころばせてわたしの幼名を呼んだとき、わたしの追憶は数十年の歳月をさかのぼって、雪の降りしきる華成義塾の運動場へともどっていった。

 波乱に富んだ政治生活のうねりのなかで一生を生きてきた老師は、なんの説明も注釈もないこの短い表現で30年前のわたしとの対話をしめくくつた。

 わたしが華成義塾を中退したことでは、母も賛同してくれた。最初、学校をやめたと聞いて、母は顔色を変えた。しかし、わたしが中退したわけを包み隠さず話すと、胸をなでおろした。

 「おまえはいつも学資の心配をしているけれど、お金のことでくよくよするようではなにもできやしない。学資はどんなことがあっても送ってあげるから、必ず志を遂げるのですよ。新しい道を進む決心をしたからにはさっそうと歩くんです」

 母の言葉は、抱負を新たにして撫松に帰ったわたしを大いに力づけた。

 撫松に帰ってみると、小学校時代の多くの友達が貧苦に追われて上級学校へ進めず、先の見通しも立たずに家庭に埋もれていた。わたしは彼らを革命の道へ導こうと思った。

 「トゥ・ドゥ」を結成したばかりで、その根を四方へ広げようと決心していたやさきだったので、なんなりと早くはじめなければという気持ちだった。

 わたしは少年たちを先進思想で教育し、革命の道へ導くために、撫松市内と周辺の愛国的少年を集めてセナル少年同盟を結成した。1926年12月15日のことである。セナル少年同盟は文字どおり日帝を打倒して祖国を解放するセナル(新しい時代)、古い社会をうちこわして新しい社会を築く明るい未来をめざしてたたかう共産主義的少年組織であった。

 セナル少年同盟の結成は、打倒帝国主義同盟の活動範囲を広げる重要な契機となった。同盟がうちだしたスローガンも雄大なものだった。われわれは朝鮮の解放と独立をめざしてたたかおうというスローガンをうちだすとともに、それを実現するために新しい先進思想を学び、さらにそれを広範な大衆のあいだに広く宣伝することなど、当面の課題を示した。

 わたしはセナル少年同盟の課題を実現するための組織原則と活動体系、同盟員の生活規範を定め、吉林へ向かう日まで同盟員の生活を指導した。

 1926年12月26日には、「トゥ・ドゥ」とセナル少年同盟の組織経験を生かし、母を助けて反日婦女会を結成した。

 母は、父の死後、革命闘争を積極的に進めていた。母は撫松県の城内はもちろん、近隣の広範な農村地域までまわって各地に夜学を開き、朝鮮の女性に国字を教え、革命的に教育していた。

 撫松にしばらくいたあと吉林に向かうとき、わたしは約束どおり樺甸に金時雨を訪ねた。

 金時雨は、金史憲先生がわたしの父と親しい間柄だったといって、手紙を書いてくれた。わたしが訪ねていけば入学の労をとってもらいたいと記した紹介状だった。金時雨と会ったのはそれが最後であった。

 金時雨はわたしの忘れがたい人たちのなかでも、最も印象深い人物の一人である。彼は寡黙な人だったが、国の独立のために多くのことをした。大衆の啓蒙と次代の教育から武器の購入、資金の調達、国内工作員の道案内、秘密文書や秘密資料の伝達、武装団体の統合と行動の統一にいたるまで、彼が関与しない分野はほとんどなかった。

 彼はわたしの父の活動を積極的に助けたばかりでなく、わたしの活動も誠意をもって後押ししてくれた。われわれが「トゥ・ドゥ」を結成した日、外で見張りに立ち、誰よりも喜んでくれたのも金時雨だった。

 彼はわたしと別れてからも永豊精米所の経営をつづけて独立軍に食糧を送り、朝鮮人学生を熱心に後援した。中国で内戦が起きたときは、革命後援会の委員長となって、日本軍や蒋介石軍の侵害から樺甸在住朝鮮人の生命、財産を守るために苦闘した。

 彼が祖国に帰ったのは1958年のことである。生涯、民族のためにあれほど多くのことをしながらも、彼はそのことを誰にも話さなかった。そのためにわたしも彼の行方がわからなかった。

 彼は前川で重病を患い、臨終が迫ったと知ってはじめて、子供たちに、わたしの父やわたしとの関係を話した。

 それを聞いた息子が驚いて、そんな深い因縁がありながらどうして一度も将軍を訪ねなかったのか、将軍がお父さんに会ったらどんなに喜ぶだろう、将軍はいま前川を現地指導中だからいまからでも遅くない、お父さんが身動きできないなら、わが家へお招きするのが道理ではないか、と促した。

 そのとき、わたしはたしかに前川郡を現地指導していた。

 金時雨はこの言葉を聞いて、かえって息子を叱った。

 「わしが死ぬ間際に昔のことを話すのは、おまえたちになにかそのおかげをこうむらせたいからではない。わが家にはそういう来歴があるのだから、おまえたちも将軍によくお仕えしろといいたかったのだ。国事に多忙な将軍をたとえ片時でも引きとめてはいけない」

 彼は昔から一徹な性分だった。息子の言葉に従っていたら、彼とわたしは再会できたであろうに、残念というほかない。それはわたしにとって生涯晴らすことのできない痛恨事となった。

 わたしは華成義塾時代を思い、「トゥ・ドゥ」時代をかえりみるたびに、いつも金時雨のことを思い出す。彼を抜きにしてわたしの樺甸時代について語ることはできない。われわれが樺甸で新しい思想を普及し、「トゥ・ドゥ」を結成した忘れえぬ日々に、陰でわたしの力になって最大の援助をしてくれたのが金時雨なのである。

 「トゥ・ドゥ」が不敗の隊伍に成長しえたのは、彼のような誠実な人たちから多くの支持をうけたからである。

 わたしはそのような人民の期待を胸に秘め、大きな抱負と決心をいだいて吉林へ向かった。



 


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