金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 打倒帝国主義同盟


  華成義塾の時代的立ち後れは、わたしに古い方式を踏襲すべきではないという考えをいだかせた。何挺かの銃を手にして、小規模の武装グループが鴨緑江を行き来しながら日本の巡査を何人か射殺し、軍資金を集めてまわるやり方では、国の独立は果たせないという考えが、日とともに強くなった。

 わたしは、新しい方法で祖国解放の道を切り開かなければならないという決心をもちはじめた。新しい道を歩むべきだという点では、学友たちの見解も同じであった。

 しかし、そのような見解をもっている学生は多くなかった。大多数の学生は新しい思潮を容易に受け入れようとせず、警戒し、排斥した。

 華成義塾では共産主義の書籍を読むことすら禁じられていた。

 わたしが『共産党宣言』を学校へ持っていくと、学友はわたしのわき腹をこづいて、そんな本は家で読め、と忠告した。学校当局が何よりも警戒し、重大視しているのが赤色系の本であり、その軽重によっては退学処分もありうると脅されたというのである。

 わたしは、統制がこわくて読みたい本も読めないようでは大事を果たせない、真理と認めた本は退学させられるようなことがあっても読むべきだ、と主張した。

 『共産党宣言』は金時雨の書斎にあったものである。書斎には共産主義関係の書籍が多かった。彼の書斎は、民族解放運動が民族主義運動から共産主義運動へと方向を転換していた当時の時代相と、時代の流れに乗ろうとする金時雨自身の立場を物語っているといえた。

 華成義塾当局がそんな本を禁じているので、わたしは不満を覚えずにいられなかった。義塾の戒律がどうであろうと、新しい思想に心酔し、それを深く知ろうとするわたしの情熱をおさえることはできなかった。わたしは当局の要求を無視して共産主義書籍を耽読した。そのうちに、そういう本を読みたがる学生が列をなすほどふえたので、わたしたちは読書の順番と時間を決め、期限内に返納するようにした。新しい思潮を学ぶ学友のあいだで、無言のうちに決められたこの読書規律は概してよく守られた。

 ところが、性格が大まかな桂永春は規律をきちんと守らなかった。彼は読書期限をよく守らず、読書の場を選択するうえでも慎重さを欠いた。『共産党宣言』を一人で10日間も持ち歩いたので、ほかの友達に早くまわすようにと促すと、少し書き抜きをしたいから、もう2日だけ待ってほしいと言った。

 桂永春は翌日、登校もせず、ひそかに寮を抜け出した。午前の授業が終わって昼食の時間になっても彼はあらわれなかった。わたしたちは、輝発河の岸辺の茂みの中で腹ばいになって一心に本を読んでいる桂永春を発見した。

 わたしは彼に、本に熱中するのはよいが、講義をサボろうとせず、時と場所を選んで読むようにと穏やかに忠告した。

 彼は注意すると答えたが、翌日の歴史の時間に本をそっと読んでいるところを教師に見つかった。本は塾長先生の手に渡り、大騒ぎになった。

 学校当局はそれがわたしを通じて金時雨の書斎から持ち出されたと知ると、わたしと総管のところへ歴史教員をよこして抗議した。

 彼は金時雨に、華成義塾を援助すべき総管ともあろう人が、左翼の本を読んでいる学生を見ても見ぬふりをするのは総管らしくない行為だ、これからは学生がそんな本を読まないよう取り締まってほしい、と言った。そしてわたしには、成柱も気をつけるのだ、と脅した。

 わたしは学校当局のやり方に憤慨した。

 「人間が健全な人格をそなえようとすれば、多方面にわたる知識を摂取すべきではありませんか。学校当局は何のために新しいものをさかんに摂取すべき青年から、世界的に公認されている先進思想を研究する権利まで奪おうとするのでしょうか。マルクスやレーニンの書籍は町の本屋でも買えるし、字を読める人なら誰でも読んでいるのに、なぜ華成義塾だけはそういう本を読んではいけないというのか、理解できません」

 わたしは華成義塾への不満を、金時雨にこうぶちまけた。

 彼はため息をつき、それは正義府の施策であり、学校当局の方針でもあるのだから、自分の力ではどうすることもできない、と答えた。

 人間の価値を決める基本的尺度が思想であれば、教育の価値、学校の価値を決める基本的尺度も思想である。ところが華成義塾当局は、時代の流れに合わない陳腐な思想をもって新しい思潮の波を防ごうと、無駄な努力をしているのである。

 この事件を機に、学生たちは、校内にマルクス・レーニン主義を探究するグループがあることに気づいた。当局は退学だ、厳重処分だと騒ぎたてたが、それはかえって進歩的青年の間で共産主義思想への憧憬と好奇心をあおる結果となった。

 事件後、わたしのところへ左翼書籍を借りにくる学生の数が急激にふえた。

 わたしはそれらの青年のなかから、志を同じくし、生死をともにできると思える人たちを選んで、一人ひとり会いはじめた。

 父が生前、常に強調していたことは、同志とよく交わり、多くの同志をもてということだった。いかに正しく、立派な目的をもっていても、生死をともにする同志がいなければその遠大な志は成就できない、といった父の言葉をわたしはいつも肝に銘じていた。

 わたしは多くの学生と付き合ったが、そのなかには第1 中隊出身の李という青年もいた。彼は頭がよく、実力があり、性格も温和だったので学友から愛されていた。ところが、意外なほど思想は保守的だった。

 世界革命史の時間に王政復古を真っ先に主張したのも彼だった。

 平素、通りすがりに一言二言、言葉を交わす程度だった彼とわたしが胸襟を開いて付き合う仲になったのは、朝鮮人模範小学校の高等班とサッカーの試合をしたときからである。その日、フォワードとして活躍した彼は、相手の選手と衝突して足を痛めた。

 わたしは寮に入って寝食をともにしながら、10日余り、彼の看護をした。そうしているうちに彼とうちとけた仲になったのである。

 彼は、世界革命史の時間に自分が王政復古を主張したのはばかげたことだった、成柱がいうとおり、わが国は独立後、働く人たちが豊かに暮らせる社会へ進むのが正しいようだ、早く日本侵略者を追い出し、みんなで幸せに暮らしてみたいものだ、と言った。

 わたしは彼に、いま、華成義塾でしている教練をうけるくらいで日本軍に勝てると思うのか、日本を世界5大強国の一つに数える人たちもいるのに、小銃一つまともなものがない独立軍の力だけでそんな強敵を倒せるだろうか、と聞いてみた。

 すると彼は、敵と戦うには身体を鍛え、射撃に上達すべきであって、ほかにどんな方法があるというのだ、長年独立運動をしてきた人たちのやり方に従うのが当然で、それ以外に方法はないではないか、と答えるのだった。

  わたしは、そうではない、そんなやり方では独立はできない、いま、その方法を見つけるためにマルクスやレーニンの本を読んでいるのだが、学ぶべきことが多い、日本帝国主義者が共産主義思想を中傷し、頑迷な民族主義者も社会主義を排斥しているが、金持ち連中が社会主義をそしるからといって、労働者、農民の子であるわれわれが、共産主義がどんなものであるかを確かめもしないで頭から悪いと決めつけるのはよくない、真の独立運動家、愛国者となるにはマルクス・レーニン主義を深く学ぶべきだ、と言った。

 わたしの言葉を聞いて深く考えこんでいた彼は、共感を覚えたのか、自分にもそんな本を貸してもらえないかと言った。

 わたしは、傷が治ったら本を貸してやる、いまは治療に努め、早く床を上げるようにと励ました。

 新しい思潮に対する憧憬はとどめがたい力となって華成義塾内に広がり、民族主義にしがみついているかたくなな学生を除いて、全校生のほとんどが先進思想を信奉するようになった。

 わたしは、進歩的な青年学生を仲間に語らって読後討論会をしばしば催した。討論会は、金時雨の家か塾監の康済河の家、または輝発河の岸辺などで行なった。

 総管の書斎で討論会を開くときなどは、金時雨が何くれと気を配って、客はもちろん家族も書斎に出入りできないようにした。ときには縁側に座って雑用をしながら、見張り役もつとめてくれた。そんなときわたしは、彼の無言の行動に厚い人情と支持を感じたものだった。

 わたしたちが康済河の家を討論会の場に選んだのは、彼の息子の康炳善がわたしと親しいからでもあったが、康済河自身が父の友人であり、思想的傾向もよかったからである。

 康済河は民族主義者であったが、共産主義を排斥しなかった。むしろ、わたしが訪ねていくと前へ座らせ、共産主義の宣伝さえした。自分たちは年をとっているのでもうだめだが、君たちは共産主義的な方法でもいいから戦って勝利しなければならない、と言うのだった。それがわれわれには少なからぬ力となった。彼の家には共産主義書籍も何冊かあった。

 いま、振り返ってみると、あのとき、われわれは朝鮮革命と関連した実践的問題をもって、かなり高いレベルの討論をしたものだと思う。そのような討論を通して、青年たちは朝鮮革命に対する見解と立場を統一させることができたのである。

 ある日、金時雨の家でそのような討論をしていると、わたしの看護をうけていた李君が松葉づえをついて訪ねてきて、約束の本を貸してくれと言った。彼は、友人たちがみな新しい道を歩んでいるとき、自分一人寮で寝ていると、落伍者になりそうに思えてやってきたというのである。こうして、彼もわれわれと同じ道を歩むようになった。

 資本家は金もうけが格別の楽しみだというが、わたしにとっては同志を集めることがまたとない楽しみであり、喜びであった。同志一人を得る喜びがどうして一個の金塊を得る喜びにくらべられようか。同志獲得のたたかいは、このように華成義塾時代に第一歩を踏み出したのである。それ以来、わたしは生涯を同志の獲得にささげた。

 立派な同志がたくさん集まってくると、わたしは、彼らをどのように組織的に結束し、活動の規模を広げるべきか、と思い悩んだ。友人たちにもわたしの考えを打ち明けた。それは、おそらく9月末ごろの会合だったと思う。

 わたしはそのとき、組織の必要性について多くのことを語ったように記憶している。

 国を解放して勤労民衆が幸せに暮らせる世の中をつくるためには、遠く険しい道を切り開かなければならない。われわれが隊伍を拡大し、頑強に血戦を繰りひろげていくならば十分に勝利できる。組織をつくり、大衆をそのまわりに結集して覚醒させ、彼らの力で国を解放しなければならない。

 そんな意味のことを話すと、みな喜んで、早く組織をつくろうと言った。

 わたしは、組織をつくるには準備を十分にしなければならないし、われわれと思想を同じくし、ともにたたかえる同志をもっと多く吸収しなければならない、と言った。

 会合では、今後、組織のメンバーとして受け入れる対象を定め、誰それは、誰を受け持ち、また、誰それは誰を担当して工作する、というふうに任務分担もした。

 ところで、われわれが新しい組織をつくれば、もう一つの派が生まれるではないかと憂慮するむきもあった。

 わたしはそれに答えた。われわれがつくる組織は、民族主義者や共産主義者の分派とは全然異なる新しい型の革命組織だ。それは派閥争いをしようという組織ではなく、ひたすら革命をめざしてたたかう組織だ。われわれは革命に自分たちのすべてをささげてたたかい、またたたかうことで満足するだろう…

 われわれは準備期間をへて、中国の国慶節=双十節(10月10日)に組織結成の予備会議を開き、そこで組織の名称と性格、綱領、活動規範などを討議し、それから1週間後の1926年10月17日に金時雨の家で正式に組織を結成した。

 演台もない質素なオンドル部屋で、会合は静かに進められた。だが、その部屋にみなぎっていた活気と情熱は、60数年の歳月が流れたきょうも忘れることができない。

 その日は、同志たちも興奮し、わたしも興奮した。組織を結成する場に実際に臨んでみると、なぜか世を去った父が思い出され、朝鮮国民会のことが頭に浮かんだ。父は、朝鮮国民会を結成するために何年ものあいだ数千里の道を歩いて、各地に散在する同志を糾合した。国民会の結成後は、その理念を実現するために生涯をささげ、この世を去った。そして、果たせなかった志を息子たちに託した。

 骨が砕け身が粉になろうとも国を必ず取りもどさなければならない、といった父の遺志を継いでいく途上で、ついに最初の実が結んだかと思うと、胸が高鳴り、涙が流れた。

 われわれが結成した組織の綱領には、父の理念も含まれていた。

 その会合に参加して熱弁を吐いた青年たちの顔がいまもありありとまぶたに浮かぶ。崔昌傑、金利甲、李済宇、康炳善、金園宇、朴根源… のちに裏切りはしたが李鍾洛(リジョンラク)と朴且石も、革命に血も肉も惜しみなくささげる、と戦闘的な盟約をした。

 話上手な者もいれば口下手な者もいたが、みな立派な発言をした。わたしも当時としてはかなり長い演説をした。

 会合でわたしは、われわれが結成する組織を打倒帝国主義同盟、略称「トゥ・ドゥ」とすることを提議した。

 打倒帝国主義同盟は、反帝、独立、自主の理念のもと民族解放、階級解放を実現するために、社会主義・共産主義を志向する新しい世代の青年が歴史の陣痛のなかで創造した、純潔かつ清新な新しい型の政治的生命体であった。

 われわれは社会主義・共産主義建設を目的としてこの同盟を結成したが、民族主義者から過度に左翼的な組織だという疑念をいだかれないように、組織の名称を打倒帝国主義同盟としたのである。われわれは、それほど民族主義者との関係を重視していたのである。

 組織の名称を打倒帝国主義同盟としようという提案は、全会一致で可決された。

 わたしが発表した「トゥ・ドゥ」の綱領も無修正で採択された。「トゥ・ドゥ」は、文字どおり帝国主義一般の打倒をめざす組織であったから、スローガンも雄大なものであった。

 打倒帝国主義同盟の当面の課題は、日本帝国主義を打倒して朝鮮の解放と独立を成就することであり、最高目標は朝鮮に社会主義・共産主義を建設し、ひいてはすべての帝国主義を打倒して世界に共産主義を建設するというものだった。

 われわれは、この綱領を実現するための活動方針も採択した。会合の参加者たちには謄写した規約も配付した。

 会議では、崔昌傑がわたしを打倒帝国主義同盟の責任者に推薦した。

 われわれは手に手をとって輝発河の岸辺に走っていき、歌をうたい、祖国と民族のための革命の道で、生きても死んでも運命をともにしようと、悲壮な誓いを立てた。

 その日、わたしは目がさえて一睡もできずに夜を明かした。感激と興奮のあまり眠ることができなかった。正直にいって、われわれはあのとき、全世界をたたかいとったかのような感激と喜びに包まれていた。金の山の上に座った億万長者の喜びと、この喜びとをどうして比較できようか。

 当時、共産主義運動内部には派手な看板をかかげた組織が多かった。

 われわれは組織をつくったばかりである。規模のうえでは、まだそうした組織に比肩できなかった。世間では、「トゥ・ドゥ」が出現したことさえ知らないときであった。

 にもかかわらず、われわれが「トゥ・ドゥ」を結成して、あんなに熱狂的な気分にひたったのは、それが従来の組織とは完全に異なる、新しい型の共産主義的革命組織であるという誇りからであった。

 「トゥ・ドゥ」はある派閥から分かれてできた組織ではなく、そのメンバーも分派に加わっていたとか、亡命団体から抜け出てきた人たちではなかった。文字どおり白紙のように清く汚れのない新しい世代であった。「トゥ・ドゥ」の血には不純なものがまじっていなかった。

 そのメンバーもいずれ劣らぬすぐれた人たちだった。演説をしろといえば演説をし、論文を書けといえば論文を書き、歌をつくれといえば歌をつくり、拳法をやれといえば拳法もする頼もしい若者たちだった。いまの言葉でいうと「一当百」「一騎当千」の青年たちである。そんな青年が集まって新しい道を切り開こうと奮い立ったのだから、その意気たるやたいへんなものだった。

 「トゥ・ドゥ」のメンバーはその後、われわれが切り開いた革命偉業が困難にぶつかるたびに、おのれを犠牲にして血路を開いた。彼らは、朝鮮革命の中核部隊として常に先導的役割を果たした。金赫(キムヒョク)、車光秀(チャグァンス)、崔昌傑、金利甲、康炳善、李済宇など「トゥ・ドゥ」の申し子たちは、その多くが闘争の先頭に立って英雄的にたたかい、潔い最期をとげた。だが、なかにはそうでない者もいた。

 せっかく立派なスタートを切りながら、革命闘争が深まるなかで「トゥ・ドゥ」の理念を放棄し、裏切り者に転落した者たちを思うと、残念でならない。

 いまは、「トゥ・ドゥ」時代にわたしと手をたずさえてたたかった人が、一人も残っていない。祖国の独立と無産民衆の社会を描き見ながら水火をいとわずたたかった数多くの「トゥ・ドゥ」の息子や娘が、このすばらしい世の中を見ることができずに、若くしてみなわたしのそばを離れていった。彼らは、青春をささげてわが党と革命の礎をきずいたのである。

 わが党の歴史では、「トゥ・ドゥ」を党の根源とみなし、「トゥ・ドゥ」の結成を朝鮮共産主義運動と朝鮮革命の新たな出発点、始原とみている。その根源からわが党の綱領と、わが党の建設と活動の原則が生まれ、わが党創立の根幹が育った。「トゥ・ドゥ」が組織されたときから、朝鮮革命は自主性の原則に基づいて新しい歩みを踏み出したのである。

 われわれがかかげた打倒帝国主義同盟の理念と気概については、解放直後、崔一泉(崔衡宇・チェヒョンウ)が『海外朝鮮革命運動小史』の中で「『トゥ・ドゥ』と金日成」というタイトルでその一端を紹介していると思う。

 その数年後、革命軍が創建され、ついで祖国光復会が生まれて2000万の総動員を声高らかに叫んだとき、さらに、その隊伍を数千、数万の支持者、共鳴者が衛星のように取り巻く革命の全盛期が到来したとき、わたしは、樺甸で「トゥ・ドゥ」を結成したころを感無量の思いでふりかえったものである。



 


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