金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 幻 滅


 わたしはすぐ華成義塾の生活にとけこんだ。2週間ほど学んでみると、学課も別段むずかしくはなかった。

 義塾の学生が最も苦手とする課目は数学だった。ある日の数学の時間に、何人か指名されて誰も解けなかった長い四則計算問題をわたしがすらすらと解くと、彼らは目を丸くした。何年も正規の教育をうけられずに独立軍生活をしたのだから、無理もないことだった。

 それからというもの、わたしは数学のために往生させられた。頭を使うのが嫌いな何人かのひげづらの青年が、数学の宿題を出されるたびに訪ねてきては、手を焼かせるのである。

 その代償といおうか、彼らはわたしにいろいろな体験談を聞かせてくれた。そこには聞く価値のあるものが多かった。

 激しい肉体的負担が要求される教練のときも、彼らはいろいろとわたしの力になってくれた。

 そうしたなかで、わたしたちは、深い胸の内をつつみかくさず打ち明ける親しい仲になった。ちびの新入生が年長者の荷にならなければ幸いだと思っていたわたしが、学習や教練で学友たちに負けることがなく、また、日常生活でも自他の区別をつけずみんなのなかにとけこんだので、彼らも年齢の違いを越えてわたしと親しんだ。だから、わたしを取り巻く環境は恵まれていたといえる。

 しかし、その後、いくらもたたずに華成義塾の教育がわたしの気に入らなくなってきた。父の友人たちが設立した学校であり、父の縁故者が主管し運営する学校ではあったが、わたしはそこに前の世代が残した、思想と方法における古いものを発見したからである。

 ブルジョア民族主義運動の歴史は数十年を数えるが、義塾の教育にはそれを集大成し、批判的に分析、総括する理論がなかった。ブルジョア民族主義者は数十年ものあいだ民族主義運動を指導したが、その運動の指針となり教訓となりうる論文や教科書一つまともに書いていなかった。華成義塾を訪れる独立軍の巨頭や愛国の志士も、演台をたたいて漠然と独立を達成しようと叫ぶだけだった。革命勢力をどう編成し、大衆をいかに動員し、独立運動隊伍の統一団結をどのように実現すべきかという方法もなければ、武装闘争の教範や戦術なども満足なものがなかった。朝鮮史の課目は王朝史本位のもので、世界革命史もブルジョア革命史が中心であった。

 華成義塾で教えるのは、民族主義思想と、旧韓国の臭気がただよう旧式の教練だけだった。

 民族主義思想にどっぷりつかった教員たちは、反日と民族の独立について多くを語ったが、彼らの主張する闘争方法は立ち後れたものだった。学校当局は、戦歴のある独立軍隊員を招いていろいろな武勲談を聞かせた。ところが、その武勲談を通して鼓吹するのは、安重根、張仁煥(チャンインファン)、姜宇奎(カンウギュ)、李在明(リジェミョン)、羅錫疇(ラソクチュ)などの烈士が適用したテロリズムであった。

 学生たちは、独立軍の幹部を養成する軍官学校ともあろうものが、口先ばかりで実弾射撃用の弾もなく、いつも木銃で訓練しているのだから、どうして日本軍を追い出せるのかと不平をならした。

 あるとき、一人の学生が、いつになったらわれわれも新式銃を扱えるのか、と軍事教官に質問したことがあった。教官は困惑し、いま独立軍の幹部が軍資金を集め、アメリカかフランスから武器を買い入れる計画で猛烈に活動しているから、間もなく手に入るだろうと言いつくろった。何挺かの銃を得ることすらままならず、何千キロも離れた欧米諸国に期待をよせる有様だったのである。

 教練の時間に、脛に砂袋をつけて走るたびに、わたしは、こんなことで日本軍を打ち負かせるだろうかと疑問をいだいたものである。

 かつて数万にのぼる全琫準(チョンボンジュン)の東学軍は、牛金峙(ウグムチ)峠でわずか1000人の日本軍を抑えられず、粉砕されてしまった。当時、日本軍は新式銃で武装していた。東学軍は100人が1人を倒すだけでも、公州(コンジュ)を落としソウルまで一挙に攻めこめる有利な形勢にありながらも、あの貧弱な装備と軍勢では惨敗するほかなかったのである。

 義兵の武力も東学軍にくらべて、特にまさっている点はなかった。義兵にも新式銃がいくらかあるにはあったが、その数は限られ、大半の兵士は刀や槍または火縄銃を使っていた。義兵闘争を、火縄銃と三八式小銃との戦いだったと歴史家が評しているのもそのためだと思う。銃弾を一発撃つたびに火をつけなければならない火縄銃をもって、毎分十発以上も発射できる三八式小銃を制圧するには、いかに苦しい忍耐力を要し、どれほど困難な戦いを展開しなければならないかは、想像にかたくないであろう。

 火縄銃の性能が義兵だけの秘密であったあいだは、日本軍はその銃声を聞いただけでも胆をつぶして逃走したものだが、その性能を知ってからは、恐れるどころかばかにしてかかったのだから、戦いの結果はいわずと知れたことである。両班の道徳と戒律に縛られていた儒生出身の義兵は、冠をかぶり、不自由な道袍(トボ=男子の礼服)姿で戦ったという。

 そのような義兵たちを日本軍は大砲と機関銃でなぎ倒した。

 日本の軍事力が当時とはくらべようもなく強大になっているのに、砂袋をつけて訓練をしていて、はたして戦車や大砲、軍艦、飛行機などの近代兵器や重装備をどんどんつくりだしている帝国主義の強力な軍隊を撃破できるだろうか。

 わたしがなによりも失望したのは、華成義塾の思想的な立ち後れだった。

 学校当局が民族主義一点張りで、他の思想はすべて警戒していた状況では、学生もおのずとその流れに従うほかなかった。

 華成義塾には王朝政治に未練をいだいたり、アメリカ的民主主義に幻想をもったりする青年もいた。

 そうした傾向は、世界革命史の学科討論の時間に最も顕著にあらわれた。教師から指名された学生は、講義で学んだ内容をそのまま反復し、資本主義の発展について長々と述べた。

 彼らのそのような教条的な学習態度が、わたしには不満だった。政治課目でも、朝鮮の独立と朝鮮の民衆という生きた現実を考察することがまるでなかった。ただ、教科書や教授要綱にもられている内容を機械的に教え、反復させるだけなのである。

 実践的問題、朝鮮の将来にかかわる問題で討論を進めるべきだと考えたわたしは、いましがた発言した学生に、わが国では独立後、どのような社会を築くべきだろうかとたずねた。

 彼は、資本主義の道に進まなければならない、とためらいもなく答えた。朝鮮民族が日本に国を奪われたのは、他の国々が資本主義の道を歩んでいるとき、朝鮮では封建支配層が風流韻事にふけって無為に歳月を送ったためだから、そのような過去をくりかえさないためにも資本主義社会を築かなければならない、というのである。

 ある学生は、封建王朝を再建すべきだと主張した。

 民主主義社会をうち立てるべきだとか、勤労人民が主人となる社会をうち立てるべきだと主張する学生はいなかった。民族解放運動が民族主義運動から共産主義運動へと方向転換をしているときであったにもかかわらず、そうした時代の思潮にはまるで関心をよせていないようだった。

 独立後、どのような国を建設するかというのはそのときになって決めることで、独立する前から資本主義か王政復古かを論ずるのはばかげたことだといって、腕をこまぬいている学生もいた。

 わたしはそんな討論を聞きながら、華成義塾でおこなっている民族主義教育が時代後れであることをいっそう痛切に感じた。封建王朝を再建するというのも、資本主義へ進もうというのも、ともに時代錯誤ではないかと思うと、わたしはもどかしくてならなかった。

 わたしはたまりかねて立ち上がり、わが国ではヨーロッパ諸国のようにブルジョア革命をすることもできなければ、古い封建支配機構をそのまま復活させてもいけないといった。

 資本主義や封建社会は、いずれも富める者が勤労者大衆を搾取してぜいたくをする社会だ。独立後、朝鮮にそんな不公平な社会をつくるわけにはいかない。機械文明の発達に目を奪われて資本主義の病弊を見ないなら、それは誤りだ。封建王朝を再建するというのも論外だ。国を外部勢力に売り渡した王政になぜ未練をもつのか。いったい歴代の王がやったことはなにか。民衆を搾り、正論を吐く忠臣を流罪に処し、首をはねたことのほかになにをしたというのか。

 われわれは朝鮮の独立後、祖国に搾取と抑圧のない社会、労働者、農民をはじめ、勤労者大衆が幸せに暮らせる社会を築かなければならない…

 多くの学生が、わたしの主張に共鳴した。搾取と抑圧のない万民平等の富強な社会を築こうというのに、誰が反対するだろうか。

 崔昌傑も授業が終わるとわたしの手を握り、立派な討論だったといって支持してくれた。わたしが共産主義という言葉を一言もつかわずに共産主義思想をみごとに吹きこんだと痛快がるのであった。

 華成義塾のもつ制約性は、民族主義運動自体の制約性を物語っていた。わたしは、華成義塾を通じて民族主義運動の全貌をうかがうことができた。

 そのころ独立軍は弱体化し、勢力争いをこととしていた。1920年代の前半期に国内や鴨緑江沿岸でしばしばくりひろげられた実際的な軍事活動はほとんど影をひそめ、管轄区域に閉じこもって軍資金を集めるだけというのが実情であった。

 「朝鮮民族を代表する挙国政府」と自称していた上海臨時政府の人たちも、「自治派」や「独立派」といった派閥をつくって、激しい地位争いをくりひろげていた。臨時政府の首班が頻々と交替したのもそのためだった。ときには、年に2回も内閣が改造されることすらあった。

 臨時政府の要人は、パリ講和会議のさい、「朝鮮独立請願書」がアメリカをはじめ、連合国代表の悪辣な妨害によって、上程すらされなかったことから当然教訓をくみとるべきであるにもかかわらず、民族の尊厳を傷つけながら卑屈きわまる「請願」をつづけていた。

 甚だしいことに、「米国会議員東洋視察団」が上海をまわってソウルを訪れたときは、国内の親米事大主義者を動かして、それらの議員たちに朝鮮人参や銀製品など各種の高価な物品を贈らせるようなことまでした。

 しかし、その臨時政府も1920年代の中ごろになると、資金難で形骸すら維持しがたくなり、しまいには蒋介石重慶政府の食客になりさがってぶざまに生き長らえた。

 政治的動揺の激しい資産家階級出身の民族運動指導者のうち、少なからぬ人たちは勤労人民大衆の革命的進出に恐れをなして敵に投降し、変節した。彼らは「愛国の志士」から日帝の走狗、民族改良主義者に転落し、民族解放運動を阻害するようになった。

 日帝は「文化統治」を標榜し、朝鮮人が国の独立を望むならば政治的に日本の統治に反対しないで協力すべきだ、日本の植民地支配下での自治権を獲得するためにつとめ、文化を向上させ、経済の発展をはかり、民族性を改良しなければならない、と説いた。

 それをうのみにしたのが、ほかならぬ資産家階級出身の民族運動指導者たちであった。彼らは、「民族改良」と「実力養成」のベールをかぶって教育と産業の「振興」、各個人の「自我修養」「階級協調」「大同団結」「民族自治」などを唱えた。

 そのような改良主義の風は、華成義塾にも吹きよせた。

 金時雨の家の奥の間はいつも、わたしと政治問題を論じ合おうとして訪ねてくる青年たちでにぎわった。わたしが金時雨の書斎にあるマルクス・レーニン主義の書籍を熱心に読んでいたときだったので、話題はおのずと政治問題へと移ったのだった。

 わたしは撫松にいたとき、『レーニン一生記』や『社会主義大義』のような本を何冊か読んでいたが、樺甸ではさらに多くの本を読んだ。以前は本の内容を理解することにとどまっていたけれども、華成義塾に入学してからは、本を読んでも常に、それらの古典にある革命の原理を朝鮮の現実と結びつけて考えた。朝鮮革命の実践との関係では知りたいことが一つや二つではなかった。

 日帝を打倒して国を取りもどさなければならないのだが、どのような方法で目的を実現すべきか、祖国を解放するたたかいでは、どの対象を敵と規定し、どの階層と手を握るべきか、国の独立後はどのような道のりをへて社会主義・共産主義を建設しなければならないのか… わたしにはこのすべてが未知の問題であった。

 そうした問題の解答を得るため、本を手にすると類似した内容が見つかるまで、根気よく読み進んだ。特に、植民地問題が述べられているくだりは十度、二十度とくりかえして読んだ。そんなわけで、友人が訪ねてきても話題には事欠かなかった。

 わたしたちは新しい思潮やソ連についての話を最も多くした。そんな話をした日は、学生たちもみを搾取と抑圧のない新しい世界を描きながら、なかなか帰ろうとしなかった。彼らは王政復古や資本主義、民族の改造などを主張する理論より、そんな話のほうがはるかに興味があるといった。その日その日をなるがままにすごしていた学生たちのあいだで、しだいに新しいものにたいする憧憬が芽生えはじめた。

 しかし、校内ではレーニンや十月革命について自由に話をすることはできなかった。学校当局がそれを禁じていたのである。

 わたしの心の中では、華成義塾にたいする期待がしだいに崩れていった。



 


inserted by FC2 system