金日成主席『回顧録 世紀とともに』

1 華成義塾


 葬儀のあと、父の友人たちは撫松に数日間とどまって、わたしの身の振り方を相談した。

 彼らの保証と紹介で、わたしが華成義塾に向かったのは1926年の6月中旬のことだった。

 それは、わが国で6.10万歳示威闘争が起きた直後のことである。

 6.10万歳示威闘争は、3.1人民蜂起後、民族解放闘争の舞台に新たに登場した共産主義者によって指導された、大衆的な反日示威闘争であった。

 わが国の民族解放闘争が民族主義運動から共産主義運動へと方向を転換するうえで、3.1人民蜂起が分岐点となったのは世人の知るところである。この3.1人民蜂起を通じて、ブルジョア民族主義がもはや民族解放闘争の旗印になりえないと痛感した先覚者たちのあいだで、新しい思潮を追う気運が急激に高まり、彼らの活動によってマルクス・レーニン主義が急速に伝播しはじめた。

 3.1人民蜂起の翌年、ソウルでは労働共済会という労働団体が出現し、ついで農民団体、青年団体、婦人団体などの大衆組織が続出した。

 それらの組織の指導のもとに、わが国では1920年代の初めから無産民衆の権益を守り、日帝の植民地政策を排撃する大衆闘争が力強く展開された。1921年には、釜山(プサン)埠頭労働者のゼネストが断行された。その後、労働者のストライキが、ソウル、平壌、仁川(インチョン)などの産業中心地をはじめ、多くの地方で次々に起きた。労働運動の影響のもとに、日本人大地主や悪質な朝鮮人地主にたいする農民の小作争議が、載寧ナムリ原や岩泰島(アムテド)などで起こり、植民地的奴隷教育に反対し、学園の自由を要求する青年学生の同盟休校が各地でくりひろげられた。

 「武断統治」の銃剣のうえに「文化統治」のベールをかぶせた日本帝国主義者は、「中枢院」に親日派を何人か引き入れて朝鮮人の政治参与を奨励しているかのように見せかけ、「民意暢達」の美名のもとに朝鮮文字による新聞、雑誌の発行を数種許可しては、福祉社会が到来したかのように喧伝したが、朝鮮民族はそのような欺瞞に惑わされることなく反侵略闘争をつづけた。

 労働運動をはじめ大衆運動の発展は、それらを統一的に導く強力な政治的指導勢力の出現を求め、その歴史的要請にこたえて、1925年4月、ソウルで朝鮮共産党が創立された。当時は、ヨーロッパ諸国でも労働者階級の政党が数多く出現していたときである。

 朝鮮共産党は、現実に対応した指導思想に欠け、隊列の統一を保てず、大衆のなかに深く根を張れないなどの根本的制約によって、労働者階級の前衛としての役割を十分に果たせなかったが、その創立は新旧思潮の交代と民族解放闘争の質的変化を示す意義ある出来事として、労働運動、農民運動、青年運動などの大衆運動と民族解放運動の発展を促した。

 共産主義者は、新たな全国的反日示威を準備した。

 そのようなときに、李朝最後の王純宗が死んだ。彼の死は、朝鮮民族の反日感情を強く刺激した。王の訃に接した朝鮮人は喪服をまとい、老若男女の別なく声をあげて痛哭した。国の滅亡後も純宗は最後の王として李王朝を象徴していたが、その彼が亡くなったのだから、積もりに積もった亡国の悲しみが号泣となってほとばしったのである。楽隊の吹奏に合わせて学生たちのうたう歌声に、人々の悲しみはさらに深まった。


  さようなら昌徳宮(チャドクン)よ
  永遠に いつまでも
  われは行く 北邙の山河
  さびしいところへ
  いま行けば いつ
  ふたたび帰れようか
  2千万白衣の同胞
  無窮なれ

 民衆の慟哭は、日本の占領者たちを強烈に刺激した。

 朝鮮人が群がって泣いていると、ただちに日本の騎馬警察隊が出動し、銃剣やこん棒を振りかざして強制的に解散させた。小学校の児童にまで容赦なくこん棒の洗礼が浴びせられた。国が滅んでも悲しまず、王が死んでも泣かずに口をつぐんでいろというのだ。これがほかならぬ「武断統治」から「文化統治」へと衣替えした総督政治の実態であった。

 彼らの極悪非道な弾圧は、炎のように燃えあがる朝鮮人民の反日感情に油をそそぐ結果となった。

 共産主義者は人民大衆の反日気勢に乗じて、純宗の葬儀を機に、全国的規模で反日示威闘争をくりひろげることを計画し、ひそかにその準備をおし進めた。

 ところがその秘密が、示威闘争準備委員会に潜入していた分派分子によって日帝側に漏れ、反日示威の準備は仮借ない弾圧をうけることになった。

 しかし、愛国的人民は示威闘争の準備を中断しなかった。

 6月10日、純宗の柩輿が鐘路を通っていたとき、数万のソウル市民が「朝鮮独立万歳!」「日本軍は帰れ!」「朝鮮独立運動家は団結せよ!」と叫びながら、大衆的示威をくりひろげた。「文化統治」の7年間、積もりに積もった恨みと怒りがついに「独立万歳!」の喊声となって爆発したのである。

 12歳前後の普通学校の子供たちも隊伍を組んで示威に参加した。示威者たちは、武装した軍警とはげしいたたかいをくりひろげた。

 だが6.10万歳示威闘争は、分派分子の策動によって日帝の野蛮な弾圧をはねかえすことができずに失敗した。ブルジョア民族主義者の事大思想が3.1人民蜂起の失敗をまねいた根本原因の一つであったとすれば、初期共産主義者の分派行為は6.10万歳示威闘争を破綻させた禍根であった。 火曜派はこの闘争を分派的立場から指導し、ソウル派はそれに対抗して妨害工作をおこなった。

 6.10万歳示威闘争が発端となって、朝鮮共産党指導部の主要メンバーはほとんどが検挙された。

 6.10万歳事件を契機に「文化統治」の欺瞞性と狡猾さは余すところなく暴露された。この運動を通して、朝鮮人民はいかなる逆境のもとでも必ず国を取りもどし、民族の尊厳を守る不屈の意志と闘争精神を誇示した。

 もし、共産主義者が派閥観念を捨てて統一的にたたかいを組織し、指揮していたならば、6.10万歳運動は全民族的な闘争へと拡大し、日帝の植民地支配により強力な打撃を与えたであろう。

 6.10万歳運動は、分派を克服せずには共産主義運動の発展も、反日民族解放闘争の勝利もありえないという深刻な教訓を残した。

 わたしは当時、6.10万歳運動の結果を自分なりに分析してみた。わたしが不審に思ったのは、この闘争の組織者たちが、なぜ3.1運動当時の平和的方法をそのままくりかえしたのかということだった。

 「千日養兵、一日用兵」という言葉もあるが、人民大衆を一度たたかいの場に立たせるためには、彼らをめざめさせ組織化し、十分な訓棟をほどこさなければならない。

 ところが、6.10万歳運動を組織し指導した人たちは、徹底した事前準備もなしに、銃を手にした軍警の前に赤手空拳の大衆を数万人もくりだしたため、悲惨な結果をまねくほかなかったのである。

 立ち上がるたびに大勢の死者を出し挫折を余儀なくされる反日運動の実情を思うと、無念で眠ることもできなかった。その失敗はわたしの血を沸かせ、日帝を打倒して祖国を取りもどそうという意志をかためさせた。

 わたしはそうした思想的衝動を胸にいだき、華成義塾でしっかり勉強して父の遺訓、母の念願、民衆の期待にこたえようと決心した。

 華成義塾は独立軍の幹部養成を目的に、1925年初に設立された正義府所轄の2年制の軍事政治学校であった。

 民族再生の道を実力の培養に求めた独立運動家と愛国的啓蒙活動家は、一般校の設立とならんで軍事人材の養成を目的とする武官学校の設立にも積極的に取り組んだ。彼らの努力によって満州各地には、新興講習所(柳河鼎)、十里坪士官学校(汪清県)、小沙河訓練所(安図県)、華成義塾(樺甸県)をはじめ、いくつもの武官学校が設立された。

 これら武官学校の設立運動には、梁起鐸、李始栄(リシヨン)、呉東振、李範奭(リボムソク)、金奎植、金佐鎮(キムジュァジン)など独立運動の巨頭が中心的な役割を果たした。

 華成義塾の入学対象は、正義府傘下の各中隊から選ばれた現役軍人であった。上部から入学生数が割り当てられると、中隊別に優秀な青年を選抜して送り、2年間の教育課程が終われば、その成績によって新しい地位を与え、出身中隊に送りかえすのである。独立軍以外から個別人士の紹介で入学する青年が若干いるにはいたが、そんな例はまれだった。それで血気にはやる若い人たちは、ひそかにこの学校への入学を志望したものである。

 現在、華成義塾時代の同窓生のうち、当時を回顧できるほどの人はほとんどいない。

 父の生存中、わたしは自分の前途や家庭の暮らしについてあまり気を使わなかった。しかし、父の死後は、わたしの身の振り方や家の暮らしをめぐる複雑な問題におのずと関心を向けざるをえなかった。

 わたしは父を亡くした悲しみと悩みで茫然自失の状態にありながらも、ぜひ父の志を受け継いで一生を独立運動にささげようという一念と、事情が許せば、母には負担となっても上級学校に進もうという抱負を秘めて前途の問題を熟考した。

 父は死を前にして、わたしを中学まで送れと遺言したが、家庭の状態を考えると、上級学校に進みたくてもそれをいいだせなかった。わたしが進学すれば、学資を工面する重い負担が母一人の肩にかかるが、母が洗濯や裁縫などの賃仕事で得るわずかの収入では、貧しい家計をやりくりしながら、わたしに毎月学資を送るのは無理であった。

 父が世を去ると、その助手役をつとめていた亨権叔父もたちまち職を失った。父が残した薬局には薬がいくらもなかった。

 そうしたときに、父の友人たちが、わたしに華成義塾で勉強するようにと勧めてくれたのである。父が世を去るとき母に残した遺言には、わたしの進学問題も含まれていた。わたしを上級学校へ送るときは、手紙を出して父の友人たちの援助をうけるようにというのが、母と叔父に残した父の最後の頼みだった。

 母はそのとおり何人もの人たちに手紙を書いた。人情に支えられずには一日として生きていけないせちがらい世の中だったので、母は気後れしながらもそうするはかなかった。こうして、わたしの身の振り方が、父の葬儀後、撫松に残っていた独立運動家のあいだでおのずと取りあげられたのである。

 呉東振は、義山崔東旿(ウィサンチェドンオ)に招介状を送ったから華成義塾へ行くのだ、華成義塾で軍事を学ぶのがおまえの抱負にも合うだろう、口論では独立が達成できないというのがおまえのお父さんの考えではないか、学校を卒業すれば、その先の問題も自分たちが責任をもって解決するから、義塾でしっかり勉強するのだ、というのだった。

 父の友人たちは、将来、わたしを彼らのあとを継ぐ人材に育てようと計画していたようである。独立軍の指導者たちが後進の育成に関心を払い、人材の養成を重視するのはよいことだった。

 わたしは呉東振の申し出に快く応じた。わたしの前途をそれほど深く考えてくれる独立運動家たちの真情が、わたしにはほんとうにうれしかった。わたしを武官学校に送って独立運動の人材に育てあげようという彼らの意図は、一生を祖国解放偉業にささげようというわたしの志向にも合っていた。軍事的対決によってのみ日帝を打倒でき、軍事に通じてこそ独立運動の戦列に立つことができるというのが、当時のわたしの見解だった。いまやその夢を実現する道が開かれたのである。

 わたしは、華成義塾で学ぶのが反日独立闘争の舞台へ進む近道であると考え、明るい気特で樺甸へ出かける支度を急いだ。

 外国のある政客がわたしに、主席は共産主義者であるのに、どうして民族主義者の運営する軍事学校へ進学したのか、とたずねたことがあった。もっともな質問だと思う。

 わたしが華成義塾に入学したのは、まだ共産主義運動をはじめていないときだった。わたしの世界観は、マルクス・レーニン主義を理念とするほど完全に成熟した段階にあったのではない。当時まで、わたしが共産主義を知識として摂取したものがあったとすれば、撫松で『社会主義大義』と『レーニン一生記』というパンフレットを読んだことだけであり、社会主義の理念が実現した新生ソ連の発展した様子をうわさで聞いて、社会主義・共産主義社会にかぎりないあこがれをいだいていただけである。

 わたしのまわりには、共産主義者より民族主義者のほうが多く、居住地を移すたびに通った各学校の教師も、共産主義思想より民族主義思想を鼓吹した。われわれは、いずれ新しい思潮にとってかわられる運命にありながらもまだその影響力は無視できない、半世紀以上の歴史をもつ民族主義の包囲の中にあったのである。

 義塾には前途有望な青年が多く、そこでは政治教育とならんで軍事教育をおこない、授業料を取らず無料で勉強させるということが、わたしに樺甸へ向かう決心をさせたのだった。学資を工面する力がないにもかかわらず上級学校へ進みたいという希望と、父の遺志を継いで祖国解放の通へ踏み出そうという抱負を同時にいだいていたわたしにとって、それ以上理想的な教育環境と条件を考えることはできなかった。

 正直にいって、当時、わたしは華成義塾の教育に少なからぬ期待をかけていた。2年のあいだ義塾で教育をうければ、中学の課程を終えるだけでなく、軍事を余分に学べるという喜びもあった。

 いざわが家をあとにすると、わたしは何度も後ろをふりかえった。父の亡骸が葬られている陽地村を眺め、遠くでわたしを見送る母や弟たちの姿を見ると心が乱れ、軽い足どりで道を急ぐことができなかった。

 幼い弟たちの面倒を見ながら苦労する母のことが気にかかった。撫松のような不案内な土地で、母が独力で暮らしを立てるのは、当時の実情では容易なことでなかった。

 旅に発つ者は後ろをふりかえってはいけない、という母の言葉を噛みしめながら、わたしは気をとりなおした。

 撫松から樺甸までは陸路で120キロほどの道のりだった。金のある人なら箱馬車に乗って容易に行き来できる道のりだったが、旅費の乏しいわたしには、そんなぜいたくは許されなかった。

 樺甸は松花江と輝発河の合流点から20数キロ離れたところにある、吉林省管内の山あいの町で、南満州では指折りの独立運動中心地の一つだった。

 わたしが家を発つとき、撫松のある独立運動家が、華成義塾はひどい財政難に陥っているから苦労するだろう、と心配してくれた。独立軍の財政が全般的に窮迫しているだけに、華成義塾の生活条件もよくないであろうが、そんな困難などは問題でなかった。幼いころから木綿の服を着、引き割りがゆをすすって育ったわたしには、華成義塾がいかに貧しくても万景台のわが家よりはましだろうと思えたのである。

 わたしがわずかながら不安を覚えたのは、年が幼く、軍人の経歴も皆無というわたしを華成義塾がどう迎えてくれるだろうか、ということだった。しかし、樺甸には金時雨がおり、義塾にも康済河のような父の友人がいると思うと心強かった。

 わたしは樺甸に到着すると、母にいわれたとおり、まず金時雨を訪ねた。彼は正義府に属する樺甸総管所の総管だった。総管所とは、管轄区域内に居住する朝鮮人の生活上の便宜をはかる自治的な機構である。そのような総管所は撫松にもあったし、磐石や寛甸、旺清門、三源浦などにもあった。

 金時雨は慈城郡にいたころから父と連係を保っていた独立運動家だった。3.1人民蜂起後、中国に渡って臨江や丹東一帯で活動したが、1924年からは樺甸に移っていた。彼は樺甸の町に精米所を設けて独立運動資金を調達する一方、大衆の啓蒙に努めた。

 彼が設けたのが南大街にある永豊精米所だった。彼は総管の職務を遂行するかたわら精米所を経営し、そこからあがる収益で独立軍に食糧を送り、華成義塾とその付近にある朝鮮人模範小学校に財政的な後援もしていた。

 わたしは臨江にいたころから、金総管の北国の人らしい豪放な気質と剛直な性格に引きつけられて、彼を心から慕い、尊敬していた。金総管もわたしに息子や甥のように目をかけてくれた。

 庭で鳥小屋の手入れをしていた金時雨夫妻は、わたしを見ると歓声をあげ、懐かしげに迎え入れてくれた。庭には足にぶつかるほど鶏が多かった。

 わたしは金時雨の案内で華成義塾を訪れた。

 金時雨は精米業者に特有なぬかのにおいの発散する上衣を着て、わたしを華成義塾に連れていった。

 義塾は輝発河のほとりにあった。満州のどこでもよく見られる勾配の急なわらぶきの屋根と青レンガ造りの黒みがかった壁が、ケヤキ林の合間から見えた。校舎の裏手に運動場をはさんで寮があった。

 校舎も寮も思ったよりみすぼらしかった。だが、建物がみすぼらしいことなどどうでもいい、建物は貧弱でも立派なことをたくさん学べればそれでいいではないか、と自分に言い聞かせた。

 それでも、運動場は大きくて立派だった。

 わたしは校舎に向かいながら、期待と好奇の目で義塾の全貌を注意深く眺めた。

 わたしたちが八道溝にいたとき、呉東振が寒い冬の目に防寒帽もかぶらずに訪ねてきて、父と華成義塾の設立問題について話し合ったことが思い出された。その義塾に入学することになって校舎を眺めるわたしの胸に熱い感慨がよみがえった。

 小柄で額のはげあがった、中年の印象のよい塾長が自室でわたしを迎えてくれた。彼が義山崔東旿先生だった。

 義山先生は、三十三人衆と呼ばれる3.1人民蜂起主導者の一人である天道教第三世教主孫秉煕(ソンピョンヒ)の弟子であった。彼は孫秉煕が設けた講習所を卒業すると、故郷の義州に帰って書堂を開き、天道教徒の子女を教育することで独立運動をはじめた。3.1運動に参加した彼は、その後中国に亡命して天道教宗理院を設立し、亡命同胞のなかで愛国的な布教をおこなった。

 塾長は、父の葬儀に参加できず一生の悔いを残したといって非常に胸を痛めた。彼は総管と長時間、父の思い出話をした。

 その日、崔東旿先生がわたしにしてくれた訓戒はきわめて印象的だった。

 「成柱はちょうどよいときに義塾に来た。独立運動は秀才を求める新しい時代を迎えている。洪範図や柳麟錫のようにがむしゃらに戦う時代はもうすぎた。日本の新式戦法、新式武力を制圧するには、われわれにも新式戦法と新式武力がなければならないが、それを誰が解決するのか? ほかでもない成柱のような新しい世代が解決しなければならないのだ…」

 塾長先生はそのほかにも教訓になることを多く語ってくれた。彼は、宿所や食事の条件がよくないことを再三強訴し、あれこれと困難は多かろうが、朝鮮独立の将来に期待をかけてそれをたえ忍ぶのだ、と激励してくれた。初印象からして温厚で、驚くほど話上手な人だと思った。

 その日、わたしは金時雨の家で夕食のもてなしをうけた。質素だが主人夫妻のまごころのこもった食膳の前で、父の世代に属する人たちと向かい合ってみると、感慨無量だった。

 膳には酒も一本置いてあった。金時雨の晩酌用だろうと思っていると、総管は意外にも、杯に酒をついでわたしに勧めるのだった。

 わたしは恐縮し、あわてて両手を振った。生まれてはじめて大人扱いをされてすっかりとまどってしまった。父の葬儀のとき、わたしがひどく悲しむ様子を見て、張戊Mが酒を勧めてくれたことがあるが、それは喪主としてうけた酒であって、それ以上のものではなかった。

 ところが金時雨は、わたしを成人のように扱うのだった。言葉づかいも以前とは違って、対等な者にたいするそれだった。

 「君が来ると聞いて、お父さんのことが思い出されてならなかった。それで酒を一本用意させたのだ。君のお父さんは樺甸に見えると、いつもこの膳の前でわたしが勧める杯をうけたものだ。きょうは、君がお父さんに代わってこの杯をうけてくれ。君ももう家長ではないか」

 総管はこういって気さくに酒を勧めるのだが、わたしは軽々しく杯を受け取ることができなかった。指先でつまめるほどの小さな杯だったが、そこにははかりしれない重みがあった。

 金時雨がわたしを成人として過してくれたその場で、わたしは国と民族のために、今後、立派な大人としてふるまわなければならない、と厳粛な使命感で胸を熱くした。

 彼は、塾長先生とは相談ずみだから、寮へ入らずここにいるようにといって、わたしに寝室兼書斎の自室をあけてくれた。

 金亨稷先生が臨終を前にして、成柱をよろしく頼むと手紙を書いてよこしたのだから、自分にはそれを守る義務がある、というのだった。

 撫松でも樺甸でも、父の友人はこのようにわたしのために誠意をつくしてくれた。父にたいする義理を守ろうとすればこそ、誰もがみなそうしたのであろう。わたしは当時、そうした誠意や義理について多くのことを考えた。その底には、国の独立に立派につくしてほしいと願う、父と同世代の人たちの切々とした期待があった。その期待はわたしに、朝鮮の息子、新しい世代としての重い責任を感じさせた。わたしは、父の遺訓を深く胸に刻んで学習と訓練に励み、民衆の期待にこたえようと、かたく心に誓った。

 翌日からわたしは、華成義塾でなじみのない軍官学校の生活をはじめた。崔東旿先生がわたしを教室に連れて入った。学生たちはわたしを見ると、小さい独立軍が来たといって珍しがった。どこかの中隊で使い走りでもしていて転がりこんできた若造だろうと思っている様子だった。

 40人余りの学生のなかで、わたしと同じ年ごろの者は一人も見あたらなかった。ほとんどが20前後の青年で、なかには黒いひげづらの子持ちという人もいた。みなわたしの兄とも叔父ともいえる人たちだった。

 塾長がわたしを紹介すると、みないっせいに拍手をした。

 わたしは先生が決めてくれた、窓ぎわのいちばん前の席に座った。わたしの横には、第一中隊から来た朴且石(パクチャソク)という学生が座っていた。彼は授業がはじまるたびに、教室に入ってくる教師の経歴や性格上の特徴を、かいつまんで教えてくれた。

 彼がもっとも尊敬の念をもって紹介した教員は、軍事教官の李雄だった。李雄は正義府の軍事委員で、黄埔軍官学校出身だということだった。当時は、黄埔軍官学校の出身だといえば、誰でもたいした人物としてかつぎあげられるころだった。父親がソウルで大きな薬局を経営しているので、彼はそこから送られてくる多くの朝鮮人参を補薬として使っている、いささか官僚風を吹かせるのが欠点だが、博識で多芸多才なので学生たちの受けがいいということだった。

 朴且石は、華成義塾では朝鮮史と地理、生物、数学、体育、軍事学、世界革命史などの課目を教えているといって、紙に義塾の日課を書いてくれた。

 後日、武装闘争を進めていたとき、わたしの胸にいやしがたい痛手を残した朴且石との因縁はこのようにして結ばれたのだった。彼はのちに道を踏み誤ったが、華成義塾時代はわたしと肉親のように付き合い、格別な友情を分かち合ったものである。

 その日の午後、第6中隊出身の崔昌傑(チェチャンゴル)が十数人の仲間と一緒に、わたしを訪ねて金時雨の家にやってきた。おそらくわたしの初印象がよかったのだろう。それに、わたしがそんな幼い年で入学したことに好奇心がわき、語り合ってみたいと思ったのであろう。

 崔昌傑は頭に大きな傷跡があった。広い額と黒い眉毛がなかなか男性的だった。長身で体格のよい彼は、頭の傷跡さえなければ美男子ともてはやされたに違いない。彼の話しぶりや物腰には人の心を引きつける気さくなところがあった。最初の対面で早くも彼は、わたしの胸に消しがたい印象を残した。

 「成柱は14にしては大人びているよ。その幼い年でどう独立軍の生活をし、華成義塾にはどうやって入学したんだ?」

 崔昌傑の最初の質問だった。彼は長年同じ屋根の下でともにすごし、友情を結んだ10年来の知己にでも会ったかのように、終始、口もとに笑みを浮かべて、わたしの顔から目を離さなかった。

 わたしは、彼が知りたがっていることをありのまま手みじかに答えた。

 わたしが金亨稷の長男だと知ると、彼らは驚き、羨望のまなざしを向けた。そしていっそう親しみを見せながら、わたしが体験した祖国の様子を知ろうと、いろいろと質問を浴びせた。

 やがて、わたしは崔昌傑の独立軍時代の生活をたずねた。

 彼は、自分の頭の傷跡がどうしてできたかということから話をはじめた。ユーモアをまじえておもしろおかしく語るその話しぶりが傑作だった。彼の話しぶりの特徴は、自分をつねに三人称の位置において話すことである。彼は、「おれがそうした」「おれがだまされた」というところを「崔昌傑がそうした」「崔昌傑がだまされた」といっては、聞き手を笑わせた。

 「崔昌傑が梁世鳳(リャンセボン)の下で兵卒をしていたときのことだ。ある日、開原方面で密偵をひっとらえて帰る途中、旅館に泊まったのだが、間抜けな崔昌傑は、密偵を前にこっくりこっくり居眠りをしたんだ。数里もの道を歩いたもんで、疲れていたんだね。そのすきに密偵は縄をほどき、斧で崔昌傑の頭をなぐりつけて逃げたんだ。幸いに急所をはずれていた。崔昌傑の頭にできた″勲章″はそんなあきれた歴史を秘めてるのだ。人間たががゆるむと、崔昌傑のようにならんともかぎらん」

 1、2時間、腹を割って話し合ってみると、彼はじつに愉快な人間だった。青年時代に付き合った友人は数百、数千人にのぼるが、崔昌傑のように自分をいつも三人称の位置においてよどみなく話す、そんな傑作な人間を見るのははじめてだった。

 その後、生活をともにするなかで、わたしは彼の経歴をくわしく知ることができた。彼の父親は撫順で小さな旅館を経営していた。父親は息子に家業を手伝ってもらいたいと望んだが、崔昌傑は国を独立させるのだといって家を飛び出し、軍隊に入った。彼が独立軍にいたとき、祖母が孫の気持ちをひるがえそうと何度も三源浦に面会に行ったが、崔昌傑はそのたびに、国が滅んだいま、そんな旅館にしがみついている場合ではないといって志を曲げなかったという。

 わたしは、崔昌傑、金利甲(キムリガプ)、桂永春(ケヨンチュン)、李済宇、朴根源(パククンウォン)、康炳善(カンビョンソン)、金園宇(キムウォンウ)のほかにも、南満州や国内の各地から反日運動を志して華成義塾に集まってきた多くの青年と知り合った。

 彼らは午後になると、わたしと語り合うため毎日のように金時雨の家にやってきた。わたしはそんなに大勢の学友がわたしを訪ねてくれるのがうれしくもあり、驚きもした。こうしてわたしは最初から、同年配でもない、5つも10も年上の人たちと付き合うようになった。青年学生運動と地下革命活動をしていた当時、わたしの戦友のなかに年長者が多かったのはそのためだった。

 わたしは華成義塾に入学して何日もたたずに、義塾の財政が撫松の独立運動家が話していたよりもずっと苦しいことを知った。華成義塾で財産といえるほどのものは、古びた机と椅子、いくつかの運動器具だけだった。

 しかし、わたしの抱負は大きかった。建物は狭くうす汚れていても、その朽ちたわらぶきの屋根の下で育つ青年たちはなんと頼もしいことか! 金はなくても、前途有望な青年が大勢集まっているという点では、華成義塾は長者だといえた。

 わたしは、それがなによりもうれしかった。



 


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