金日成主席『回顧録 世紀とともに』

5 『鴨緑江の歌』


 1923年の初め、父はわたしを前に座らせて、小学校を卒業する日も遠くないが、この先どうするつもりかとたずねた。

 わたしは、上級学校に進んで勉強をつづけたいと答えた。わたしを上級学校へ上げるのは父や母の平素からの希望でもあった。それなのに、改まって将来の抱負を聞かれたのだから、わたしはちょっといぶかしく思った。

 父は慎重な面持ちでわたしを見つめ、これからは朝鮮に行って勉強をするのがよいといった。

 その言葉もやはり、わたしには思いがけないことだった。朝鮮に帰って勉強をするには親の膝元を離れなければならない。わたしはそんなことを考えたことがなかった。

 そばで針仕事をしていた母が驚いて、まだ年端もゆかないのに、どこか近くの学校へやってはいけないだろうかといった。

 父はすでに決心をしているようだった。当分はさびしかろうが、ぜひ成柱を朝鮮にやるべきだ、と父はくりかえした。父は一度いったことはたやすく取り消すようなことをしなかった。

 おまえは小さいときから親について歩いて苦労した。これから朝鮮に行けばもっと苦労するだろう。それでもお父さんは、おまえを朝鮮に送ろうと決心した。朝鮮に生まれた男児なら当然、朝鮮をよく知るべきだ。おまえが朝鮮で、わが国がどうして滅んだかをはっきり理解するだけでも大きな収穫だ。故郷へ帰って、人民がどれほど悲惨な暮らしをしているかを体験するがいい。そうすれば、おまえは自分のなすべきことをおのずと悟るだろう。

 父はこのようなことを真剣な表情で語った。

 わたしは父の志を体して、朝鮮に行って勉強すると答えた。そのころは、朝鮮でも金持ちの子弟は先を争って外国へ留学したものだった。アメリカや日本のような国に行ってこそ、知識が開け、学問も修められるというのが、一つの風潮となっていた。それで、われもわれもと外国へ行っているとき、わたしは朝鮮へ帰ることになったのである。

 父の考え方は一風変わっていた。わたしはいまも、あのとき父がわたしを朝鮮に送ったのは正しかったと思っている。いずれにせよ、父は11歳にもならない息子を人跡まれな100里の道のりを一人で旅立たせたのだから、尋常な性分ではなかった。それがかえって、わたしには力となり信頼となった。

 正直にいって、あのときの気持はそう単純なものではなかった。祖国へ帰って勉強せよというのだから異存はなかったが、父母や弟と別れるのがつらかった。それでも故郷へ行ってみたいという気持は強かった。祖国にたいするあこがれと、一家だんらんの雰囲気から離れたくないという未練が執拗に交差する複雑な心のうねりのなかで、わたしは落ち着かない気持で数日をすごした。

 母は父に、せめて少し暖くなってから行かせてはどうかといった。幼い子に一人で100里の旅をさせるのだから、母が心配するのももっともなことだった。

 父はそれにも同意しなかった。

 母は100里の旅をするわたしのことを内心気にかけながらも、父が計画した日にわたしを発たせようと、夜を明かしてトゥルマギ(周衣)とポソン(朝鮮の足袋)をつくった。父がいったん決心したことだったので、母はなにもいわなかった。それが母の気性でもあった。

 出発の日をひかえて父はわたしに、八道溝から万景台まで100里だが、一人で行けるかとたずねた。わたしは行けると答えた。すると父は、わたしの手帳に路程図を書いてくれた。厚昌、和平(ファピョン)などと地名を記し、各地点間の里数も書きこみ、電報は2度打つことにし、1度は江界で、その次は平壌で打つようにといった。

 わたしが八道溝を発ったのは、陰暦正月の晦日(陽暦3月16日)だった。朝から吹雪で、風がたいへん強かった。八道溝の友人たちがわたしを見送ろうと、鴨緑江を渡って厚昌の南側まで12キロもついてきた。道づれになってやるといってどこまでもついてくるのを、やっと説得して帰した。

 いざ旅に発ってみると、さまざまな想念が一度に頭の中で渦巻いた。100里の道程のうち、50里は人跡まれな山や峰のつらなる険しい地帯である。それらの高い山を一人で越えるのはたいへんなことだった。厚昌から江界にいたる道の両側に広がる樹林には、昼間も猛獣が出没した。

 あのとき、100里の道を歩いた苦労はたいへんなものだった。直嶺や狗峴(明文峠)のような峠を越えるときはさんざんな目にあった。五佳(オガ)山嶺は一日がかりで越えた。歩いても歩いても果てがなく、峠の向こうに次々と峠があらわれた。

 五佳山嶺を越えると足に水ぶくれができた。幸いに嶺の下で会った老人が、足の裏のまめをマッチの火で焼いてくれた。月灘(ウォルタン)をへて五佳山を越えたあと、和平、黒水(フクス)、江界、城干(ソンガン)、前川(チョンチョン)、古仁(コイン)、清雲(チョンウン)、熙川、香山(ヒャンサン)、球場(クジャン)をすぎ价川まで来て、そこから汽車に乗って万景台にたどり着いた。

 价川から新安州までは、ニキーシャというイギリス製の小さい機関車が引く軽便鉄道が敷かれ、そこから平壌までは現在のような広軌鉄道が敷かれていた。价川から平壌までの運賃は1円90銭だった。

 わたしは100里の道を歩きながら、多くの親切な人たちに会った。あるときは、あまりにも足が痛んで通りすがりの農民のソリに乗せてもらった。別れるときお金を出すと、その金で飴を買ってくれた。

 なかでも忘れられないのは、江界旅館の主人だ。

 夜遅く江界市内に着いて宿屋を訪れると、彼が門の外で親切に出迎えてくれた。新式の髪形をして、パジ、チョゴリを着た背の低い人で、親切でうちとけやすかった。彼は父から電報をもらって、わたしを待っていたといった。

 わたしの父を「金先生」といって尊敬していた宿屋の老婆もわたしを見ると、4年前、父に手を引かれて中江に向かっていたときは小さかったのに、こんなに大きくなったのかと孫にでも会ったかのように喜んだ。老婆はとっておいた牛のバラ肉の汁を温めたり、ニシンを焼いたりして、自分の孫たちにも食べさせないでわたしをもてなした。晩には新しい布団を出してくれた。このように、宿屋の人たちはわたしに誠意をつくしてくれた。

 翌朝、わたしは江界郵便局で、父にいわれたとおり八道溝の父母に電報を打った。電文1字につき3銭で、6字を越すと1字ごとに1銭ずつ割増し金を払わなければならないといわれたので、発信紙に「강계 무사도착(カンゲ ムサトチャ・江界 無事到着)」の6字を書きこんだ。

 あくる日、宿屋の主人はわたしを車に乗せて送ろうと自動車事業所へ行ってきた。彼は、車の故障で10日ほど待たなければならない、予約をしておいたから親戚の家に来たつもりで待つようにと勧めてくれた。わたしは、好意はありがたいが早く発たなければならないと答えた。彼はそれ以上引きとめようとせず、わらじを2足くれ、狗峴の方に行く牛車を世話してくれた。

 价川駅前の西鮮(ソソン)旅館の主人も心のやさしい人だった。

 そこで宿をとったわたしは、15銭の食事を頼んだ。宿屋の食事にも等級があって、そこでは15銭のものがいちばん安かった。主人はそれには関係なくわたしに50銭の食事を出してくれた。わたしは、金がないので、50銭の食事はとれないというと、彼はお金のことは心配しないで食べるようにといった。

 宿屋ではまた、客に敷布団と2枚の毛布を出して50銭ほど取った。ふところに残った旅費を計算してみると、毛布を2枚もかけるゆとりはなかった。それでわたしは、毛布を1枚だけくれといった。主人はそのときも、他の客がみな布団を敷き、毛布を2枚かけて休むのに、1枚だけかけるのはよくない、金はいらないから安心して使うようにというのだった。

 朝鮮人は国を奪われて亡国の民となり、貧しく暮らしてはいたが、祖先伝来の人情と良風美俗はそのまま受け継がれていた。今世紀の初めにしても、わが国には無銭旅行者が少なくなかった。自分の家や村を訪ねてくる旅人には、金を払わなくても、食事をもてなし泊めてやるのが朝鮮の風習だった。そんな風習は西洋人もうらやましがったものである。わたしは100里の道を歩きながら、朝鮮民族が善良で道徳的な民族であることを痛感した。

 西鮮旅館の主人も江界や中江の宿屋の主人と同様、父の指導と影響をうけた人だった。7つのとき中江に移っていくときも感じたことだったが、父にはそのような同志や知己が行く先々にいた。

 わたしは、わたしたち一家を身内のように喜んで迎え、世話をやいてくれる人たちを見ると、父はいつ、あんなにたくさんの人と親しくなったのだろう、あのような同志を得るためにどれだけ足を運んだことだろうか、と思った。

 各地に友人がいたので、父は旅先で、なにくれとなく彼らの世話になった。わたしもずいぶん彼らの世話になった。

 100里の道を歩いたときの印象のうち、いまも忘れられないのは、4年前まで灯油をともしていた江界市に電灯が明るくともっていることだった。江界の人たちは電気が引かれたと喜んでいたが、わたしは日本化が進む町の風景を見ると、うらさびしい思いをおさえられなかった。

 祖国にわたしを送るとき、朝鮮を知らなければならないと切々と語った父の言葉の意味がひしひしと胸にくいこんできた。わたしは父の言葉をかみしめながら、悲運にとざされた祖国の姿に目をこらした。

 わたしにとってこの100里の道のりは、祖国を知り、人民を知るようにしてくれた立派な学校だった。

 八道溝を発ってから14日目の1923年3月29日の夕暮れ、わたしはついに生家の庭に足を踏み入れた。

 とっつきの間で糸車をまわしていた祖母が履き物もはかずに庭に飛びおりて、わたしを抱きしめた。

 「誰と一緒に来たんだい?」

 「なにに乗ってきたんだい?」

 「父さん、母さんは達者かい?」

 祖母はわたしに返事をするいとまも与えず、一気にいろいろなことをたずねた。

 部屋でむしろを編んでいた祖父も飛び出してきた。

 祖母は、一人で歩いてきたというわたしの返事がすぐには信じられず、「なんだって、ほんとうに一人で来たというのかい? おまえの父さんは虎よりもこわい人だよ」といって舌打ちした。

 その日は家じゅうの者が集まって、わたしの話を聞きながら夜を明かした。
 山河は変わりなく情趣にあふれ、美しかったが、村のすみずみには貧困の色が以前より濃くにじみでていた。

 わたしは万景台で何日かすごしてから、外祖父が学監を勤めている彰徳(チャンドク)学校の5学年に編入し、祖国での勉強をはじめた。わたしは、チルゴルの母の実家に寄宿して学校に通うことになった。

 じつは、母の実家はわたしを世話するだけのゆとりがなかった。そこでは、外伯父の康晋錫のことでとりこんでいた。外伯父が投獄されてから警察の監視と迫害が厳しくなり、獄中の外伯父の健康も思わしくなかったので、家じゅうの者が心を痛めていた。暮らし向きも、引き割りがゆやおからを混ぜたご飯で口すぎをしている有様だった。2番目の外伯父は百姓仕事だけでは暮らしが立たないので、牛車を引いてかろうじて生活難を打開していた。

 しかし母の実家では、わたしの前では生活の苦しさをそぶりにも見せず、わたしが勉強に打ちこめるよう気をつかった。わたしのために、母屋の奥の間をあけ、石油ランプをつるし、ござを敷いてくれた。わたしの友達が3人、4人と、おしかけてきてもいやな顔をしなかった。

 彰徳学校は、外祖父をはじめ、チルゴル一帯の先覚者が愛国文化啓蒙運動の時勢に乗って、国権の回復につくそうとして建てた進歩的な私立学校だった。

 旧韓国末期と「韓日併合」後、わが国では救国闘争の一環として愛国的な教育運動が猛烈に展開された。国権喪失の恥ずべき本源が国の後進性にあることを痛感した先覚者や愛国志士は、教育こそ国家発展の礎であり根本である、教育の振興なくしては国の独立も社会の近代化も望めないと悟り、各地で私立学校設立の運動をくりひろげた。

 この運動の先頭には、安昌浩、李東輝、李昇薫(リスンフン)、李商在(リサンジェ)、吉浚(ユギルジュン)、南宮檍(ナムグンオ)などの愛国的な啓蒙運動家が立っていた。各地に組織された学会でも教育運動をおし進めた。

 全国を巻きこんだ教育文化運動の熱風のなかで、数千校の私立学校が生まれ、封建のきずなのなかで眠りこんでいた朝鮮の知性を呼びさました。孔子、孟子の教理を説いた書堂が新式学問を教える学堂や義塾に改編され、青少年に愛国心を鼓吹したのもそのころだった。

 民族主義運動の指導者たちは例外なく、教育を独立運動の出発点とみて財力と情熱をそそいだ。テロリズムを独立運動の基本方策にして、李奉昌(リボンチャン)、尹奉吉(ユンボンギル)の義挙のような世人を驚かす事件をたえず背後で指揮してきた金九(キムグ)も、初期には黄海道一帯で教育事業にたずさわっていた。安重根も南浦(ナポ)地方で学校を設立し、青少年を教育した知識人だった。

 西朝鮮地方の有名な私立学校は、安昌浩が主管した平壌の大成学校と李昇薫が私費を投じて設立した定州(チョンジュ)の五山(オサン)学校だった。これらの学校からは、著名な独立運動家や知識人が輩出した。

 外祖父は、彰徳学校から安重根のような人物が一人だけ出ても光栄だといい、わたしに熱心に勉強し、立派な愛国者になるようにと励ました。

 わたしは、安重根のような有名な烈士にはなれないまでも、国の独立のために身を投げ出す愛国者になると答えた。

 彰徳学校は西朝鮮地方の私立学校のなかでもかなり規模の大きい近代化された学校で、200人以上の子供たちが学んでいた。当時としては小さい学校でなかった。学校が一つあれば、それをよりどころにして周辺の住民を速やかに啓蒙することができた。それで、平壌地方の住民と有志は、彰徳学校を重視し、各方面から学校の後援を惜しまなかった。

 白善行(ペクソンヘン)も彰徳学校に巨額の資金を寄付した。本名よりも白後家という通り名で知られている彼女は、解放前、平壌の慈善事業家として名声が高かった。20歳前に夫に死に別れた彼女は、80歳の老齢になるまで独身ですごし、小銭を集めて金持ちになった。金のもうけ方が大胆、独特で早くから話題になった。現在、勝湖里(スンホリ)セメント工場に属している石灰石鉱山の土地も、一時は彼女の所有地だったという。彼女が見捨てられていた禿山を捨て値で買い取り、日本の資本家に買い値の数十倍の高値で売ったのが、現在、勝湖里セメント工場に属している石灰石鉱山の土地だという。

 一枚の文書で国土を日本帝国主義者に売り渡した逆臣を弾劾する声が天を衝いているとき、ソロバンすらはじけない平凡な女性が、勘定高い日本の資本家と取り引きして莫大な利益を得たといううわさを聞いて、人々は武勲談を聞くように痛快がった。

 白善行が人々の尊敬をうけたのは、彼女が社会のために多くの有益なことをしたからだった。彼女は巨富を得たが富貴な生活を好まず、きわめて質素に暮らし、一生をかけて蓄えた財産を社会のために惜しみなく使った。その金で橋をかけ、公会堂を建てた。彼女の金で建てた平壌公会堂の建物は、いまも練光亭(リョングァンジョン)の前に原状のまま残っている。

 勉強をはじめて数日後のある日、外祖父はわたしに5学年用の新しい教科書を持ってきてくれた。わたしは一かかえもある本をもらって、胸をときめかせながら教科書を1冊1冊広げてみた。ところが、『国語読本』をめくってみて気分が悪くなった。それは日本語の教科書だった。

 日本帝国主義者は朝鮮民族の「皇民化」をはかって、日本語の常用を強制した。占領初期すでに、彼らは、官公庁や裁判所、学校における公用語は日本語にすると公示し、朝鮮語の使用を禁じた。

 わたしは外祖父に、日本語の本をどうして国語読本だというのかとたずねた。外祖父はなにもいわずに溜息をついた。

 わたしは小刀で『国語読本』の文字のうち「国」の字を削りとり、そこへ「日」の字を書き入れた。『国語読本』が簡単に『日語読本』になってしまった。日本の同化政策にたいする抵抗心がわたしにそうさせたのである。

 彰徳学校にしばらく通っているうちに、教室や道路、遊び場などで日本語で話をする子らに行きあうことがあった。友達に日本語を教える子もいた。それを恥としたり、悪いと思う子もいなかった。国が滅んだので、朝鮮語もなくなってしまうと思ったのだろう。

 わたしは日本語を習おうとあくせくする子に、朝鮮人は当然朝鮮語をつかうべきだと言い聞かせた。

 わたしが八道溝から祖国に帰り、チルゴルへ行った日、村人たちは時勢の話を聞こうと母の実家に集まってきた。そして、満州で何年も暮らしたので、中国語が達者なはずだから、ひとつ聞かせてもらおうかといった。彰徳学校では、子供たちが中国語を教えてくれとせがんだ。しかしわたしは、立派な自分の国の言葉があるのに外国の言葉をつかう必要はないと断った。

 わたしは祖国に来て、たった一度中国語をつかったことがある。

 ある日、外伯父が城内へ見物に行こうとわたしを誘った。いつもは仕事に追われて見物などに出かけることのない外伯父だったが、その日は、わたしのためにわざわざ時間を割いたのだった。久しぶりに帰郷したのだから、きょうは外で一緒に昼食でも食べようといって、わたしを平壌城内へ連れ出したのだった。

 わたしたちは市内をひとまわりぶらついてから、昼食をとろうと西平壌の中華料理店に入った。いまの烽火山(ポンファサン)ホテルの界隈には中華料理店が数軒あった。

 料理店では売り上げをあげようと、店の主人が出入口に立って「いらっしゃい」「いらっしゃい」といって、愛想よく客を迎え入れた。彼らは金をもうけるために、他の店と張り合って客を誘っているのである。

 わたしたちが入った料理店の主人は、たどたどしい朝鮮語でなににするかとたずねた。わたしは主人がはっきり聞きとれるように、中国語で焼餅(シヨビン・中国風の焼パン)を2皿注文した。主人は目を丸くしてわたしを見つめ、中国人の子ではないかとたずねた。

 わたしは、そうではないが何年か満州に住んでいたので中国語を少し話せると答え、中国語でしばらく話した。料理店の主人は、幼いのに中国語がたいへん上手だといって喜んだ。そして、満州に住んでいた子に会えたので、祖国が思い出されてならない、といって涙ぐんだ。

 主人は焼餅のほかにも、注文もしていない料理を食卓に並べ、たくさん食べてくれといった。わたしたちは最初は遠慮したが、結局主人からふるまわれた料理も食べた。食事を終えてから勘定をしようと金を出すと、主人は焼餅代も受け取らなかった。

 外伯父は家に帰る道すがら、きょうは自分がおごるつもりで出かけてきたのに、おまえのおかげで思わぬご馳走になったなと大声で笑った。この話は外伯父を通して村じゅうに広がった。

 わたしは、希望どおり康良U先生が受け持つ学級に編入された。

 わたしがチルゴルに行ったのは、康良U先生が崇実学校を中退し、彰徳学校に就職して間もないころだった。先生は、学費がつづかず中退したといって残念がった。

 暮らしがあまりにも貧しいので、先生の夫人(宋石貞・ソンソチョン)が実家へ逃げ帰ったほどだった。夫人の両親は、おまえは人徳に乏しく「糟糠の妻」とはたたえられないまでも、貧乏が辛抱できないで夫を捨てるとはあきれた女だ、それくらい貧しくない朝鮮人がいまどきどれほどいるというのだ、嫁にいけば飽食暖衣の結構な身分になるとでも思ったのか、つべこべいわずに早く帰ってわびを入れるのだ、と厳しく叱責して夫人を追い返したという。この話だけでも、康良U先生一家の暮らし向きのほどかおしはかれるであろう。

 わたしは先生の夫人を、粛川(スクチョン)のおばさんと呼んだ。夫人の故郷が平安南道の粛川だったからである。わたしが遊びにいけば、粛川のおばさんはいつもおから飯を炊いてくれた。それがまた、たいへんおいしかった。

 解放直後、康良U先生の誕生祝いにいったわたしは、夫人と彰徳学校時代のおから飯を思い出したことがある。

 「おばさん、わたしはいまでも、チルゴルでおばさんが炊いてくださったおから飯のことを折にふれて思い出します。あのころは、ずいぶんおいしくいただいたものです。20余年も他郷で暮らしたものですから、お礼もいえませんでしたが、きょうはそのお礼をいわせてください」

 わたしの言葉に夫人は、「貧乏なものでお米がなく、おからのご飯しか出せなかったのに、お礼だなんてとんでもないことです。おからのご飯がおいしいといったところで、知れているではありませんか」といって涙ぐんだ。そして、彰徳学校時代に将軍のもてなしをおろそかにした償いをするといって、手づくりの料理をもてなしてくれた。

 ある年、夫人はわたしの誕生日を祝って、手ずから仕込んだ百花酒という酒を贈ってくれた。百花酒とは100種の花でつくった酒のことである。

 その風流な名には好奇心をそそられたが、わたしはすぐには杯を傾けることができなかった。一椀の白米のご飯さえ食べることができず、いつも腹をすかせていたあのころの夫人の姿が目の前に浮かんで、杯をあげることができなかったのである。

 国を失った民族の悲哀を骨身にしみて体験したわたしには、故郷の1本の草木や1株の穀物が以前より何倍も貴重に思えた。それに、康良U先生が子供たちにたえず民族意識を鼓吹したので、わたしは家庭でも学校でも愛国的な影響を多くうけたわけである。そのころ、先生は子供たちに愛国心を植えつけるため、たびたび遠足や修学旅行を催した。なかでも黄海道の正方山(チョンバンサン)への修学旅行が印象深かった。

 解放後、康良U先生が、最高人民会議常任委員会の書記長や共和国副主席を歴任した関係で、わたしは先生と仕事のうえで会う機会が多かった。そんな機会に、われわれは彰徳学校時代の修学旅行や、正方山の成仏寺(ソンブルサ)、南門楼(ナムンル)について感慨深く回想したものである。

 彰徳学校時代の追憶のうちでいま一つ忘れられないのは、康良U先生の唱歌の授業である。それは、わたしたちが待ち遠しく思う時間の一つだった。

 先生は玄人はだしのテナーだった。その美声で先生が『前進歌』や『少年愛国歌』をうたうときは、子供たちは息を殺して聞きほれたものだった。

 いまにして思えば、先生が教える唱歌のメロディーは、わたしたちに愛国的な情緒を育んでくれたのである。わたしはその後、抗日武装闘争の時期に彰徳学校時代に教わった歌をしばしばうたった。あのころ教わった歌の歌詞やメロディーは、いまでもはっきり覚えている。

 祖国に帰ってみると、故郷の人たちの暮らしは以前よりもはるかに苦しくなっていた。

 毎年、春の種まきの時期になると、極貧家庭の子供たちは学校に来られなかった。農作業が忙しいうえに食糧が切れ、ツルボ、ナズナ、ヒルガオなどの根を取って食糧の足しにしなければならなかった。市日には山菜を売って食糧を買おうと市内に行く子や、親の手伝いで幼い弟の子守をする子もいた。貧しい家の子は、アワやモロコシ、ヒエの飯で弁当を包んできた。それさえなくて弁当を持たずにくる子も少なくなかった。

 チルゴルや万景台には、家庭の事情で学校へ通えない子が大勢いた。わたしは学校へ行けずに家にいる子を見ると、気の毒でならなかった。

 わたしはそんな子供たちのために、学期末休暇に万景台へ行って夜学を開いた。学校へ通えない子供たちを夜学に集めて読み書きを教えることにしたのである。最初は1学年用の『朝鮮語読本』を使って朝鮮語からはじめた。そのあと課目を増やして、歴史、地理、算数、唱歌も教えた。それは、わたしの一生で最初の素朴な啓蒙活動だった。

 わたしは友達と連れ立ってたびたび城内に行っては、平壌市民の暮らし向きも万景台やチルゴルの人たちとあまり変わらないことを知った。

 平壌の人口は10万だったが、そのうち生活を楽しんでいるのは少数の日本人とアメリカ人だけだった。アメリカ人は平壌でも景色がいちばん美しい新陽里(シンヤンリ)一帯に邸宅を構えて豪奢な生活をし、日本人は平壌一の繁華街といわれる本町や黄金町一帯に居住地域をしめてぜいたくに暮らしていた。

 アメリカ人の住む「西洋村」や日本人居住地域にはレンガ造りの家屋や商店、礼拝堂が増えたが、普通江一帯やペンテ通りには貧民窟が増えた。

 いまは普通江の岸辺にチョンリマ通り、慶興通り、烽火通りといった近代的な街が建設され、人民文化宮殿、平壌体育館、アイススケート・リンク、ヘルス・センター蒼光院(チャングァンウォン)、超高層住宅のような大きな建物がそびえて、昔の姿を探すすべもないが、わたしが彰徳学校に通ったころは、そのあたりに掘っ立て小屋がひしめきあっていたものである。

 わたしが祖国に帰った年は、平壌地方に伝染病まではびこって市民が難儀をしていた。そのうえ洪水の被害まで重なって、全市民が筆舌につくしがたい苦しみをなめた。『東亜日報』はその年の水害の惨状を伝え、平壌市内総戸数の半数におよぶ1万余戸の家屋が浸水の被害をこうむったと報じた。

 いま、普通江広場の裏手に世界最大の105階建て柳京(リュギョン)ホテルが建設中であるが、その一帯でわたしたちの祖父母がどんなにみすぼらしい小屋に住み、苦しい生活をしたか、いまの若い人たちには想像すらできないであろう。

 わたしはあの当時、そうした現実にふれながら、勤労人民が豊かに暮らせる社会を渇望し、日帝侵略者と地主、資本家をいっそう憎むようになった。

 わたしが彰徳学校に通っていたころ、日本で関東大震災があった。そのうわさがチルゴルにも伝えられて、生徒たちを激昂させた。朝鮮人が地震をよいことにして暴動を企てている、というデマを流した日本の右翼が軍隊を動員して、数千人の朝鮮同胞を虐殺したというのだ。この事件はわたしに大きな衝撃を与えた。

 わたしはそのうわさを聞いて、日本は口先では「一視同仁」とか「日鮮融和」を唱えているが、実際は朝鮮人を犬畜生のように見ていることを改めて痛感した。

 それからというものは、わたしは日本の巡査が乗りまわす自転車を見ても黙っていなかった。板に何本も釘を打ちつけて道路に埋めておけば、どんな自転車でも間違いなくタイヤをパンクさせることができた。

 日帝を憎み祖国を愛する思想と感情は、わたしたちがつくった音楽遊戯『13の家』にも表現されている。その音楽遊戯は、13人の児童が舞台にあがって歌をうたいながら、ボール紙でつくった13道の地図を張りつけて朝鮮地図を仕上げていく踊りである。

 1924年秋の運動会ではこの音楽遊戯を上演したのだが、公演の最中に運動場に巡査があらわれて、すぐ中止しろと怒鳴った。小さな運動会をするにもあらかじめ警察当局の許可をうけなければならなかったし、たとえ許可をうけたにしても巡査の立ち会いのもとでしなければならない時世だった。

 わたしは康良U先生に、自分の国の山河を愛し、歌や踊りをするのがどうしていけないのか、彼らがなんといおうと公演をつづけるべきだと主張した。

 康良U先生がほかの教師たちと一緒に巡査の不当な干渉に抗議したので、『13の家』の公演をつづけることができた。

 わたしたちのような小学生ですら、このように強い愛国心と反抗心をいだいていたのだから、大人たちのことは言わずもがなである。

 わたしが祖国に帰った年の夏、平壌では靴下工場労働者のストライキがあった。新聞がこの争議を大々的に報道した。

 わたしはそのニュースを聞いて、日本は欺瞞的な「文化統治」にしがみついているが、いまに3.1人民蜂起よりも規模の大きな抵抗にぶつかるだろうと思った。

 このように2年をすごし、彰徳学校の卒業を数か月後にひかえたある日、外祖父から、父が再び日帝警察に逮捕されたという思いがけない知らせを聞いた。天が崩れ落ちる思いだった。わたしは激しい憤怒と敵愾心に襲われた。チルゴルでも万景台でも、大人たちは顔色を変え、わたしの様子をうかがった。

 わたしは父の敵、わたしたち一家の敵、朝鮮民族の敵を討つために生命を賭してたたかおうと決心し、出発の準備をした。

 わたしが八道溝へ行くといいだしたとき、母の実家では、学校を卒業してから行くようにと勧めた。万景台の祖父もわたしをいろいろと説得した。何か月かすれば学校も卒業だし、天気も暖くなるから、そのときに行くようにというのだった。

 わたしはそうすることができなかった。父に不幸が襲ったのに、わたしがどうして安閑とここで勉強をつづけていられようか。一刻も早く行き、幼い弟たちを連れて苦労している母を助けなければならない、わたしはこれからどこへ行こうとも無駄には死ぬまいと思った。

 わたしの決心をひるがえすことができないと知った祖父は、それでは決心どおりにするがよい、父が獄につながれたのだから、これからはおまえが出る番だといった。

 あくる日、わたしは身内の人たちに見送られて故郷をあとにした。その日、祖父母も泣き、叔父も泣き、家族みんなが泣いた。

 わたしを平壌駅まで見送った外伯父(康昌錫・カンチャンソ)もむせび泣き、チルゴルの同級生康允範(カンユンボム)も泣いた。

 彰徳学校時代の同級生のうちでいちばん親しかったのは康允範だった。彼も気の合った友達がいなかったので、よくわたしの家に遊びにきた。わたしたちは、なにかにつけて城内に出かけたものだった。

 発車時間になったとき、康允範はわたしに弁当と一枚の封筒をくれた。そして、君とここで別れたらいつまた会えるかわからない、別れるのがさびしくて2、3行したためた、汽車のなかであけてみるようにといった。わたしは彼にいわれたとおり、汽車が動きだしてから封筒をあけてみた。封筒の中には短い手紙とお金が3円入っていた。

 わたしはそれを見て胸が熱くなった。よほどの友情がなければ、とてもそんなことができるものではない。あの時節、子供が3円の金を工面するのはまず不可能ともいえた。わたしは父の敵を討とうと出発はしたものの、じつは旅費が心細かった。

 康允範は、そのわたしを窮地から救ってくれたのである。彼がそれだけの金をこしらえるのはたいへんだったに違いない。解放後、彼がわたしを訪ねてきたとき、さっそく20年前餞別をもらって大助かりしたと礼を述べると、彼は、実際、金を工面するのが容易でなかったと打ち明けた。それは全く財産家の100万円にもまさる金額だった。清らかで美しい友情のこもったあの3円の値打ちをいったいなんで測れようか。金から友情は生まれないが、友情からは金でもなんでも生まれるものだ。

 康允範はそのときわたしに、将軍は山で国を取りもどそうとして戦ったが、自分はとりたててなにもしたことがないといった。それでわたしは、これから力を合わせて新しい国を建設しようではないかといった。わたしは彼に、建国事業で最大の難問は幹部が足りないことだが、学校を建てる仕事をなにか引き受けてくれまいかと頼んだ。彼は喜んで承知した。しばらくたって趙村(チョチョン)に学校を建てた彼は、その名をつけてほしいといってきた。わたしは三興(サムフン)中学校と名づけてやった。三興とは、知・徳・体の3つを興すという意味で、深い知識、気高い道徳品性、壮健な体力をそなえようということである。

 康允範はその後、総合大学建設の重責を担い、その任務を立派に果たした。いまでは大学一つ建設するのはたいして問題にならないが、あのころは資金や資材が乏しく建設技能者も足りなかったので、困難が少なくなかった。彼は隘路にぶつかるとわたしを訪ね、わたしの家に泊まって夜通し相談をした。

 彼は、解放の道に向かうわたしを見送ってくれた忘れえぬ同志であり、親友であった。わたしはいまでも、あの日、平壌駅でわたしを見送って涙ぐんでいた彼の姿が忘れられない。

 成柱! 君と別れるのだと思うと涙が出てたまらない。いま別れたらいつまた会えるだろうか。ぼくたちは千里離れていても彰徳学校時代を思い出そう。故郷を思い、祖国を思おう。

 彼がくれた手紙には、こんな文章がしたためてあった。

 わたしはそのような友情と信義に励まされ、険しい峠を一つひとつ踏み越えていった。万景台を発ってから13日目の夕方、葡坪に到着した。わたしは渡し場に着いてからもすぐには鴨緑江を渡る気になれず、土手の上にたたずんでいた。八道溝へ渡ろうにも、わたしが通ってきた祖国の山河がしきりにまぶたに浮かんで、わたしを引き止めるのだった。

 わたしが故郷を発つとき、しおり戸の外でわたしの手をなで、上着の襟を合わせてくれ、吹雪を心配して目をうるませた祖母や祖父の姿がまざまざと脳裏によみがえって、歩みを移すことができなかった。土手を越えて川を渡ったら、とめどなく涙があふれでそうに思えた。

 冷たい風が吹き荒れる国境に立ち、苦しみもだえる祖国の山河をふりかえって見ると、なつかしい故郷へ、故郷の家へ駆けもどりたい衝動に駆られた。

 祖国ですごした歳月は2年にすぎなかったが、その間わたしは多くを学び、体験した。

 最も貴重な体験は、朝鮮人民がどのような人民であるかを深く理解したことだった。朝鮮人民は素朴で勤勉、しかも勇敢で剛毅な人民である。困難や試練に屈しないたくましい人民、礼儀正しいうえ人情に厚く、しかも不義にたいしては決して妥協しない人民であった。民族改良主義者は研政会の看板をかかげて反動的な「自治」運動をくりひろげていたが、労働者、農民、青年学生など広範な人民大衆は血を流して日本帝国主義に抵抗していた。わたしは彼らの姿から、いかなる力をもってしても傷つけることのできない民族の尊厳と鋼鉄のような独立の意志をはっきり読みとった。それ以来、わたしは朝鮮人民をこの世で最も立派な人民だと思い、そのような人民を正しく組織し動員すれば必ず国を取りもどせるということを確信するようになった。

 わたしは「文化統治」の名のもとに増えてゆく日本の軍隊、警察、監獄や、祖国の財貨を洗いざらい奪い去る貨車や貨物船を見て、日帝こそ朝鮮人民の自由と尊厳の凶悪な圧殺者であり、朝鮮人民にたえがたい貧困と飢餓を押しつけるあくどい搾取者、略奪者であることを悟った。

 祖国の息づまるような現実を見たわたしは、朝鮮民族はもっぱらたたかいによってのみ日帝を駆逐し、独立した祖国で幸せに暮らせるということを確信した。

 祖国を一刻も早く取りもどし、それらすべてを永遠にわれわれのもの、朝鮮のものにしたいという願望がわたしの胸に炎のように燃えさかった。

 わたしは警官の目を避けて、葡坪渡し場の下手の方にもう少しおりてゆき、早瀬のあたりで鴨緑江の氷の上へ重い足を踏み出した。幅が30メートルそこそこの川を渡れば八道溝の市街があり、その川沿いの通りにわたしの家があった。しかし、わたしは川を渡ることができなかった。祖国を離れたら、いつまた、この川を渡ってこられるだろうかという思いが胸をえぐった。

 わたしは、後ろの土手に転がっている小石を一つ拾って握りしめた。祖国のしるしとなり、祖国を思い出させるものであったら、なんでも大事にとっておきたかった。

 その日、わたしは鴨緑江のほとりで、苦しい心理的体験をした。その体験はわたしの胸にいやしがたい傷跡を残した。それで、わたしは祖国に凱旋したとき、国内の愛国者がわたしを歓迎して催した宴会の席上でも、真っ先に鴨緑江を渡ったときの気持ちを語ったのである。

 わたしは誰かがつくった『鴨緑江の歌』をくちずさみながら、ゆっくりと川の向こう側へ足を踏み出した。


 1919年3月1日
 この身鴨緑江を渡りし日
 年ごと この日きたりても
 誓い果たさずんば われ帰らず
 鴨緑江の流れよ 祖国の山河よ
 故郷にまみえるは いつの日
 死しても忘れえぬ 誓いあり
 祖国をこの手に 帰りなん


 悲憤やるかたなく、わたしは祖国の山河を何度もふりかえった。

 朝鮮よ、朝鮮よ、わたしはおまえのそばを離れてゆく。おまえと離れてはしばしも生きていけないわたしだが、おまえを取りもどすため鴨緑江を渡ってゆくのだ。鴨緑江を渡れば他国だが、他国に行ったとておまえを忘れられようか。朝鮮よ、わたしを待っていてくれ。

 こんなことを考えながら、再び『鴨緑江の歌』をうたった。

 わたしはその歌をうたいながら、いつまたこの地を踏むことができるだろうか、わたしが生まれ育ち、祖先の墓があるこの地に再び帰る日は、いったい、いつのことであろうか、こう思うと幼い心にも悲しみをおさえることができなかった。わたしはそのとき、祖国の悲惨な現実を目の前に描き見、朝鮮が独立しなければ再び帰ってはくるまい、と悲壮な誓いを立てたのである。                             



 


inserted by FC2 system