金日成主席『回顧録 世紀とともに』

3 独立万歳のこだま


 父はたいへん寒い日に家を出た。

 わたしは、いまかいまかと春を待った。衣食に事欠くわたしたちには寒さも大敵だった。

 多少暖かくなると祖母は、もうすぐツンソニの誕生日だね、といって心配そうな表情をした。わたしの誕生日のころは花が咲き、北国へ行った父も寒さのために苦労することはあまりなくなるだろうが、春の端境期にわたしの誕生日をどう祝おうかと心配するのだった。

 わたしの家では食糧の切れる春でも、わたしの誕生日には、白米のご飯とアミを入れて焼いた卵を膳に乗せてくれた。かゆすら腹いっぱいすすれないわたしの家では、卵一個もたいしたご馳走だった。

 しかしその年の春は、誕生日などに気を遣うゆとりがなかった。父の逮捕事件がわたしを驚かせたうえ、遠くにいる父が気がかりでならなかったのである。

 父が家を発ってからしばらくして、3.1人民蜂起が起こった。3.1人民蜂起は、日帝の10年にわたる野蛮な「武断統治」のもとで蔑視と虐待をうけた朝鮮民族の積もり積もった恨みとうっぷんの爆発であった。

 「併合」後の10年は、朝鮮を一つの巨大な監獄に変えた中世的恐怖政治の銃剣のもとで、朝鮮民族が、言論、集会、結社、示威の自由など、いっさいの社会的権利と財貨を奪われ、苦痛をなめた受難の時代、暗黒の時代、飢餓の時代であった。

 「併合」後、秘密結社運動と独立軍運動、愛国文化啓蒙運動などによって不断に力を蓄積してきた朝鮮民族は、暗黒の時代、収奪の時代を甘受することができず、憤然と決起したのであった。

 天道教、キリスト教、仏教など宗教界の人士と愛国的教師、学生の主導下に3.1人民蜂起は綿密に計画され、推進された。甲申政変、衛正斥邪運動、甲午農民戦争、愛国文化啓蒙運動、義兵闘争と連綿と受け継がれ、昇華した朝鮮人民の民族精神は、ついに自主独立を叫び、火山のように噴出したのである。

 3月1日、平壌では正午の鐘の音を合図に数千人の青年学生と市民が将台丘(チャンデク)にある崇徳(スンドク)女学校の運動場に集まり、「独立宣言書」を朗読し、朝鮮が独立国家であることを厳粛に宣言した。そのあと、「朝鮮独立万歳!」「日本人と日本軍隊は帰れ!」というスローガンを叫びながら激烈な街頭示威を断行した。示威隊列が街頭に進出すると、数万人の群衆がこれに合流した。

 万景台とチルゴルの住民も隊伍を組んで平壌におしかけた。わたしたちは朝早く食事をとり、家族みなが独立万歳のデモに参加した。出発するときは数百人にすぎなかった示威隊列は、やがて数千人にふくれあがった。群衆は太鼓とどらを打ち鳴らしながら「朝鮮独立万歳!」を叫び、普通門に向かって行進した。

 7つだったわたしも、すりきれた履き物をはいて示威隊列に加わり、万歳を叫びながら普通門の前まで行った。わたしは城内に向かって怒涛のように前進する大人についていくのが難儀だった。それで、ときどきばたついて邪魔になるわらじを脱いで手に持ち、駆け足で隊伍に追いついていった。大人たちが独立万歳を叫べば、わたしも一緒に万歳を叫んだ。

 敵は騎馬警察隊と軍隊を出動させて、いたるところで群衆に刀を振りまわし、銃弾を乱射した。おびただしい人が倒れた。

 しかし、群衆はひるまずに肉弾となって敵とたたかった。普通門の前でも熾烈な乱闘がくりひろげられた。

 その日は、わたしが生まれてはじめて、人間が人間を殺すのを見た日であり、朝鮮民族の流血を目撃した日でもあった。幼いわたしの胸は怒りに燃えたぎった。

 日が暮れてあたりが暗くなると、村人たちは松明を持って万景峰に登り、ラッパを吹き鳴らし、太鼓やブリキ缶をたたきながら独立万歳を叫んだ。

 こうした闘争が何日もつづいた。わたしも母や亨福叔母と一緒に万景峰に登り、万歳を叫んで夜遅く帰った。母は、群衆の飲み水や松明用のおがらを運ぶために忙しく立ちまわった。

 ソウルでは、高宗の葬儀に参加するため地方から上京した農民が合流し、数十万の群衆が命がけで示威を展開した。

 長谷川総督は示威を鎮圧するため、竜山駐屯第20師団の兵力を動員した。彼らは銃弾を浴びせ、刀を振るって示威群衆を野蛮に虐殺した。瞬時にしてソウルの街は血の海と化した。

 しかし、示威参加者は、前列が倒れれば後列が、後列が倒れればその次の隊列が進み出て前進をつづけた。

 他の地方でも人民は、銃剣で示威群衆を弾圧する敵の野蛮行為にもひるまず、血を流して英雄的にたたかった。

 幼い一女生徒は、国旗を振りかざしていた右手を切り落とされると左手に持ちかえ、左手まで切られて動けなくなるまで前進をつづけ、「朝鮮独立万歳!」を叫んで日帝の軍警を戦慄させた。

 ソウルと平壌での示威を発端にして、蜂起は3月中旬には全国13のすべての道を震撼させ、満州、上海、沿海州、ハワイなど、海外にいる朝鮮同胞にも波及して全民族的な抗争に発展した。民族的良心のある朝鮮人は、職業、信教、老若男女の別なくこぞって蜂起に参加した。

 封建的道徳に縛られて外出さえままならない民家の婦女子や、最下層の賎民扱いされていた妓生(キーセン)たちも隊伍を組んで示威に決起した。

 蜂起が起きてから1、2か月のあいだは、全国が独立万歳の声にどよめいた。しかし、春が去り、夏になると、その気勢はしだいに衰えていった。

 何か月か万歳を叫び、気勢をあげれば、敵も思い直して手を引くだろうと多くの人は信じていたが、それは甘い考えだった。それくらいの反抗にぶつかったからといって、日帝がやすやすと朝鮮を手放すはずがなかった。

 日本は朝鮮を手に入れるために、大きな戦争を3回も強行している。

 すでに400年前、豊臣秀吉の臣下である加藤清正と小西行長らが数十万の大軍を率いてわが国に攻め入った。これを「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」という。

 また19世紀中葉にいたり、明治維新によって開化の道に入るやいなや、日本支配層のなかで真っ先に唱えられたのが「征韓論」だった。「征韓論」は、日本の繁栄と帝国の威力伸張をはかって武力で朝鮮を征服すべし、という日本軍国主義集団の侵略的な主張であった。

 「征韓論」は、日本の政界や軍部内部の意見の不一致で、当時は日の目を見るにいたらなかったが、「征韓論」者は反乱を起こして半年以上も内戦をつづけた。

 このように、帝国政府に反旗を翻して大規模の反乱を起こした「征韓論」の首唱者西郷隆盛の銅像は、いまもなお日本にでんと立っているという。

 日本は、朝鮮を併呑するために清国と、そしてロシアとも戦争をした。アメリカとイギリスが日本の後押しをした。

 日本の軍閥がどれほど冷酷非情かということは、次のような話を通してもうかがい知ることができる。

 日露戦争で旅順での戦いを指揮したのは乃木だった。彼が203高地を占領するさい、日本軍は山頂まで死体を積み重ね、それを梯子がわりにして高地に這い上がっていった。旅順の白玉山の祠堂には戦没者の一部が葬られたが、なんとそれは2万5千体を上まわったという。

 多大な犠牲を払って戦争には勝ったが、最初のふれこみとは違って、シベリアも満州も手に入れることができなかった。うかつにも軍閥の宣伝にのせられて後家や孤児になった日本人がむしゃくしゃしていたおり、乃木が帰還するといううわさを聞いて彼らは埠頭に集まってきた。せめて腹いせでもしようとしたのである。

 ところが、船から降りる乃木の胸に遺骨箱が3つも抱かれているのを見て、彼らは口をつぐんでしまったという。乃木もその戦いで3人の息子を一人残らず失ったのである。

 この話の真偽のほどは定かでないが、日本の占領者が朝鮮をやすやすと手放さないだろうということだけは明白だった。

 ところが3.1運動を指導した上層部の人たちは、こうした歴史の教訓を忘れ、人民のもりあがった闘争気勢とは裏腹に、最初から運動の性格を非暴力的なものと規定した。そして、「独立宣言書」を作成して朝鮮民族の独立意志を内外に宣言することで満足した。彼らは、運動がそれ以上拡大し、民衆主導の大衆的闘争に発展するのを望まなかったのである。

 甚だしいことに、民族運動の一部の指導者は「請願」の方法で朝鮮の独立を達成しようとした。ウィルソンの「民族自決論」が発表されると、彼らはアメリカなど連合国代表がパリ講和会議で朝鮮の独立を決議するかもしれないという途方もない幻想をいだき、恥ずべき請願運動をおこなった。金奎植(キムギュシ)など数人が「独立請願書」をたずさえて列強代表の宿所を訪ねまわり、訴えもし、哀願もした。

 しかし、連合国の代表たちは、少しでも多くの分け前にあずかろうと神経を使うだけで、朝鮮問題などは眼中にもなかった。

 そもそも民族主義運動の上層部が、ウィルソンの「民族自決論」に期待をかけたこと自体が間違いだった。「民族自決論」は、アメリカ帝国主義が十月社会主義革命の影響力を防ぎ、世界をぎゅうじるために打ちだした偽善的なスローガンにすぎなかった。アメリカ帝国主義は、「民族自決」の欺瞞的なスローガンをかかげて多民族国家であるソ連を内部から瓦解させ、植民地弱小国の人民が独立闘争で団結できないよう分離させる一方、戦敗国を犠牲にしてその領土をせしめようと画策したのである。

 20世紀の初期すでに「桂−タフト協定」で、日本の朝鮮侵略を「承認」したアメリカ帝国主義が、朝鮮の独立を支援するはずがなかった。歴史には、強大国が小国に同情し、弱小国の人民に自由と独立をプレゼントした前例などない。民族の自主権は、もっぱらその民族自身の主体的な努力と不屈の闘争によってのみ保全し、獲得することができるのである。これは世紀と世代をへて、歴史によって検証された真理である。

 高宗皇帝は日露戦争のときとポーツマス講和会談のとき、アメリカに密使を派遣して、日本の侵略戦争を暴露し、朝鮮の独立保全に協力してくれるよう訴えた。しかし、アメリカは日露戦争で日本が勝つよう八方から支援を惜しまなかったし、戦後処理の問題を討議するポーツマス講和会談では、会談の結果が日本に有利になるよういろいろと援助した。ルーズベルト大統領は、公式文書でないといって高宗皇帝の密書を黙殺した。

 高宗は、ハーグの万国平和会議に再び密使を派遣して「乙巳条約」を不法と宣言し、世界の正義と人道主義に訴えて国権を保全しようとはかった。しかし、日帝の執拗な妨害工作と各国代表の冷淡な反応によって、会議に送った皇帝の書簡は効を奏さず、列強に同情を訴えた密使の涙ぐましい努力は挫折の苦汁をなめさせられた。高宗は日帝の圧力で、密使派遣の責任を負い、純宗(スンジョン)に王位を譲った。

 ハーグ密使事件は、封建支配層の根強い事大意識を揺さぶる一つの大きな警鐘となった。万国平和会議場を赤く染めた李儁の血は、のちの世代に、世界のどの強大国も朝鮮の独立をもたらしてくれないということ、他人のおかげをこうむって独立を成就することはできないということをはっきり警告した。

 民族主義運動の上層部が、この教訓を銘記せず、再びアメリカと「民族自決論」に期待をかけたのは、彼らに崇米事大主義思想が根深く残っていたからである。無能な封建支配層は、かつて国が危険に陥るたびに大国を頼りにし、彼らの力を借りて国運をもりかえそうとした。この悪癖が民族主義運動の上層にもそのまま移ったのである。

 3.1人民蜂起は、ブルジョア民族主義者がもはや反日民族解放運動の指導勢力になりえないことを示した。

 3.1人民蜂起を主導したリーダーたちの階級的制約性は、彼らが日本の植民地支配秩序を真っ向から否定するまでにいたらなかったところにあらわれている。彼らは日本の支配秩序を認める枠内で、自己の階級的利益を保つ若干の譲歩をかちとることに運動の目的をおいていた。それは後日、かなり多くの人が改良主義者に転落したり、ひいては日帝と妥協して「自治」を提唱する思想的基盤となった。

 そのころ、わが国には改良主義を打破する先進思想がなかったし、そのような先進思想を階級の指導理念にしてたたかえる産業プロレタリアートの大軍もなかった。歴史の浅いわが国の労働者階級はまだ、マルクス・レーニン主義を新しい時代思想として定立し、その旗のもとに広範な勤労者大衆を結集する使命を担った自己の党をもっていなかった。

 日帝の悪政に苦しむわが国の人民大衆が真の闘争の進路を見いだし、自己の利益を正しく擁護する前衛をもつまでには、さらに遠く険しい道を歩みつづけなければならなかった。

 3.1人民蜂起を通して、朝鮮人民は強力な指導勢力なくしては、いかなる運動も勝利しえないと痛感した。

 何百万もの大衆が国を取りもどす共通の志向をいだいて抗争の巷に馳せ参じたが、労働者階級の指導、党の指導がなかったために、彼らの闘争は分散性と自然成長性をまぬがれず、統一的な綱領と戦闘計画にもとづいて闘争を展開することができなかったのである。

 3.1人民蜂起は、人民大衆が民族の独立と自由をめざすたたかいで勝利するには、必ず革命的な党の指導のもとに正しい戦略戦術をもち、闘争を組織的におし進め、事大主義を徹底的に排撃し、自己の革命勢力をしっかり準備しなければならないという深刻な教訓を残した。

 3.1人民蜂起を通して、朝鮮人民は、他人の奴隷となって生きることを欲しない自主精神の強い人民であり、国を取りもどすためにはいかなる犠牲も恐れない不屈の気概と熱烈な愛国心をもった人民であることを全世界に誇示した。

 この蜂起によって、日本帝国主義者は手痛い打撃をうけた。日本の占領者は、朝鮮人民の反日感情をなだめるために3.1人民蜂起後、形式上ではあるが、「武断統治」を「文化統治」に変えざるをえなかった。

 3.1人民蜂起を契機として、わが国におけるブルジョア民族主義運動の時期は終焉を告げ、朝鮮人民の民族解放闘争はしだいに新たな段階に進みはじめた。

 暗雲の垂れこめた祖国の山河を揺るがし、世界万邦に響き渡った独立万歳の声は、夏じゅうわたしの耳から消え去らなかった。その万歳の声は、わたしをして年にくらべてずっと早く物心をつかせた。示威群衆と武装警官の激闘で火花を散らした普通門前通りで、わたしの世界観は新たな段階へ跳躍した。大人たちにまじり、つま先立って独立万歳を叫んだそのとき、わたしの幼年時代はすでに終わったといえるであろう。

 3.1人民蜂起は、わたしを人民の隊伍のなかに立たせ、わたしの網膜にわが民族の真のイメージを焼きつけた最初の出来事であった。わたしの心に雷鳴のように響き、長いあいだ消え去らなかった独立万歳のこだまに耳を傾けるたびに、わたしは朝鮮人民の不撓不屈の闘争精神とヒロイズムにたいして大きな自負を覚えるのである。

 その年の夏、わたしたちは父の手紙を受け取った。

 父は、手紙と一緒に「金不換」という中国の墨と筆を送ってよこした。習字の勉強をするようにと、特にわたしに送ってくれた贈り物だった。

 わたしは硯に「金不換」を濃くすって、どっぷり筆につけ、白紙に「아버지(アボジ・父)」という3字を大きく書いた。

 家族たちは夜、灯火の下で手紙をまわして読んだ。亨禄叔父は3回もくりかえして読んだ。鷹揚な叔父だったが、手紙はいつも年寄りのように丹念に読んだ。

 母はざっと目を通すと、手紙をわたしに手渡し、大きな声で読んで祖父母に聞かせるようにといった。学齢前だったが、父から朝鮮語の読み書きを教わっていたので、わたしは字が読めた。

 わたしがよどみなく手紙を読むと、祖母は糸車をまわしていた手を休めて「いつ帰るといっていないかい?」とたずねた。そして、わたしの返事を待たずにひとりごちた。

 「ロシアに行ったのやら満州に行ったのやら… 今度はずいぶん長い旅なんだね」

 わたしは母が手紙をじっくり読まなかったのが気になって、床に入ってから、父の手紙の内容を記憶をたどりながら小声で話した。母は、祖父母の前では決して手紙をゆっくり読むようなことをしなかった。そのかわり、チョゴリのおくみに手紙をしまっておいて、畑仕事の合間に一人で読んだものである。

 わたしが手紙の内容を記憶をたどって話すと、母は「もういいから休みなさい」といって頭をなでてくれた。

 父はその年の初秋、家族を連れに帰ってきた。わたしたちが父に会うのは一年ぶりのことだった。

 その間、父は、義州、昌城(チャンソン)、碧潼、楚山(チョサン)、中江(チュンガン)など平安北道一帯と満州地方で朝鮮国民会の組織を立て直し、同志を獲得し、広範な大衆を結集する活動を精力的にくりひろげた。

 父が青水洞(チョンスドン)会議(1918年11月)を招集したのもそのころだった。平安北道の朝鮮国民会組織代表と各地域の連絡員が参加したこの会議では、破壊された国民会の組織を速やかに立て直し、広範な無産民衆を組織にしっかり結集する活動方針がうちだされた。

 父は、満州の消息とともに、ロシアやレーニンの話、十月革命が勝利した話などを特にくわしく語ってくれた。父は、ロシアは、労働者、農民をはじめ、無産大衆が主人となる新しい世の中になった、とうらやましげに語るかと思えば、新生ロシアが白衛軍と14か国の武力干渉者の攻撃をうけて試練をなめている、といってもどかしがったりもした。

 それらの話は生き生きとしたディテールと事実に裏打ちされていたので、わたしは、その間、父が沿海州に行ってきたのではないかとさえ思った。

 満州同様、沿海州も朝鮮独立運動の一つの基地であり、重要な集結地であった。3.1運動当時、極東地方に居住する朝鮮人は数十万に達していた。この地方には、朝鮮から亡命した愛国志士と独立運動家が多かった。李儁一行がここを経由してハーグへ行き、柳麟錫(リュウリンソク)とリサンソルもここ(ウラジオストック)で13道義兵連合司令部を結成している。李東輝(リドンフィ)をリーダーとする韓人社会党が朝鮮最初の社会主義グループとしてマルクス・レーニン主義を普及しはじめたのも当地であり、大韓国民議会という露領臨時政府が組織され、内外にその存在を宣言したのもやはりこの地方だった。洪範図(ホンボムド)と安重根もこの地域に拠点を置いて軍事活動を展開した。

 沿海州地方に亡命した朝鮮の独立運動家と愛国的人民は、各地で自治団体と反日抗争団体を結成し、国権回復をはかって猛烈な活動をくりひろげた。沿海州に基地があった独立軍部隊は、慶源(キョンウォン)、慶興(キョンフン)をはじめ咸鏡北道一帯に進出して日本軍警を襲撃し、敵の統治と国境警備を大きな混乱に陥れた。一時、満州地方から移動してきた独立軍がここで大部隊を編成し、赤軍と協同してソビエト共和国を擁護して戦った。

 帝国主義連合勢力とそれに追従する国内の敵が、誕生したばかりのソビエト政権を圧殺しようと四方八方から執拗に攻撃していたとき、数千人の朝鮮青年がパルチザンや赤軍に加わって手に武器を取り、人類が理想として描いてきた社会主義制度を守るために血を流し、生命をささげた。国民戦争の英雄を追悼して建てた極東地方の記念碑には、朝鮮人の名前も大きく刻まれている。

 ソ連の極東地方を舞台に一時、精力的な独立運動をくりひろげた洪範図、李東輝、呂運亨(ロウンヒョン)などは、民族解放運動にたいする支持をとりつけようと、レーニンにも会った。

 沿海州地方における朝鮮独立運動家の活動は、外部勢力の介入と派閥同士の対立によって黒河事件のような悲しむべき惨事もあったが、朝鮮の民族解放運動線上に無視できない足跡を残したといえる。

 同志を得るために父が沿海州に行ってきたのではないかというわたしの推測は、あながち根拠のないものではなかった。

 父は家族たちに北部国境地帯人民の示威闘争の話をしてくれたし、家族は父に、3.1人民蜂起のさい古平面(コピョンミョン)の人たちが勇敢にたたかったことを話した。

 その日の父の話のなかで、次の言葉はいまもわたしの記憶にはっきり残っている。

 「強盗が家に押し入って刀を振りまわしているのに、いくら大声で命乞いしても、強盗が聞き入れてくれるはずはない。家の外にいる者も強盗だとしたら、わめき声を聞いても駆けつけてきて助けてくれはしないだろう。殺されないためには自力で強盗とたたかわなければならない。刀を持った者とは刀を持ってたたかわずには勝つことができない」

 父はすでに、独立運動にたいする新たな見解と決心をいだいていた。あとで知ったことだが、3.1運動当時とそれを前後した時期に、父は北部国境一帯と南満州地方に活動の拠点を設け、国内外の出来事を注視しながら民族解放の進路をたえず模索していた。父は、わが国の社会階級関係の変化過程にも深い関心を向けた。

 3.1運動の教訓が示しているように、示威をやったり万歳を唱えたりするだけでは侵略者は引き下がらない。だからといって、独立軍のたたかいだけでも国は取りもどせない。全土が日帝の監獄と化し、銃剣の林におおわれたのだから、各地で全民族が立ち上がり、力を合わせて侵略者とたたかわなければならない。そのためには、われわれもロシアのように民衆革命をやらなければならない。民衆が銃剣を手に立ち上がって敵とたたかい、国を取りもどし、搾取と抑圧のない新しい世の中をうち立てなければならない。

 それは、父が苦心の末に到達した結論だった。それがほかならぬ無産革命方針である。

 おびただしい流血の痕跡を残しただけで、独立運動が沈滞から抜け出せなかうたとき、そんなやり方ではいけないと悟った父は、民衆革命を主張した。

 ロシアで十月社会主義革命が勝利してから、父は共産主義思想に共鳴しはじめた。そしてその後、3.1運動を契機に自分の思想を定立し、わが国の民族解放運動を民族主義運動から共産主義運動へと方向を転換させようという確固とした決心をいだいたのであった。

 父は1919年7月、青水洞会議で無産革命の歴史的必然性を論証し、それにもとづいて、8月には中国の寛甸県紅通溝で朝鮮国民会の各区域長と連絡員、独立運動団体の責任者会議を招集し、わが国の反日民族解放運動を民族主義運動から共産主義運動へと方向転換する方針を正式に宣言すると同時に、時代の変化に足並みをそろえ、民族自体の力で日本帝国主義を打倒し、無産民衆の権益を保障する新たな社会を建設する課題を示した。

 民族主義運動から共産主義運動へ方向転換するという方針をうちだしたことは、反日民族解放運動線上における父のいま一つの業績である。

 父は無産革命にたいする自分の理念を、常々、食べ物のない人には米を与え、着る物のない人には衣服を与える新しい世の中をつくることだ、と素朴な言葉でいいあらわした。そして、実践活動を通して労働者、農民をはじめ、勤労民衆に先進思想を教え、各種大衆団体を組織してそれらを拡大し、彼らを一つの革命勢力に結集していった。

 いま一つの父の業績は、新しい武装活動を準備し、武装グループを団結させる活動でおさめた成果であった。

 父は「請願」や「外交」ではなく、武装活動によってのみ国を取りもどせるという確信をいだき、新たな武装活動の準備をおし進めた。

 父の構想は、無産階級出身の愛国的青年を選抜して軍事幹部に育成し、既成の武装団体の指揮官や下層兵士の思想を改造して、その隊伍を無産革命のできる労働者、農民の武装力に転換させようというものだった。

 父はこうした方針を提起し、独立軍の各部隊に朝鮮国民会の会員を派遣して、武装隊のあいだでの先進思想の普及、武器の購入、軍事幹部の養成、軍隊の戦闘力の強化などの活動をいろいろと指導した。

 一方、武装グループの団結をはかって大きな力をそそいだ。当時、父の最大の苦衷は独立運動隊伍の団結問題であった。

 間島と沿海州地方には、多くの独立軍部隊と独立運動団体があった。一夜明けると、韓族会だの、大韓独立団だの、太極団、軍備団だのと称する団体が出現した時期であった。こうした独立運動団体が南満州地方だけでも20余りあった。それらが連合し団結していたとしたら、いずれも大きな力を発揮したであろう。しかし、分派分子は最初から他の団体を嫉視排斥し、ヘゲモニー争いにふけった。
 こうした事態を正さなければ、独立運動の隊伍は分裂して人民から見捨てられるか、敵に各個撃破されるおそれがあったし、方向転換の大業もおし進めることができなかった。

 そんなわけで、父は大韓独立青年団と広済青年団の軋轢が激化しているということを聞くと、寛甸へ急行し、そこに何日もとどまって両団体の指導者を説得し、統合を実現させた。父の尽力によって、興業団や軍備団など鴨緑江(アムノカン)沿岸一帯の武装団体は国民団として統合を果たした。

 既成の武装団体を労働者、農民出身で組み直し、共産主義運動をめざす武装活動の道に新たに進出させ、さまざまな系統の武装グループを統合して活動上の分散性をなくそうというのが、新しい武装活動を準備しながら父がいだいた志向であったといえる。

 父は晩年まで、方向転換方針を実践するために心を砕いた。そうしているうち難治の病気にかかってしまった。

 寛甸会議で共産主義運動への方向転換方針が宣言されたのち、民族主義者のあいだでは思想的分化過程が促進された。

 父が病床に伏せっていたとき、同志の一部は逮捕され、一部は変節し、一部は離散していたので、あくまで共産主義運動を進めようと東奔西走する人はあまりいなくなった。

 民族主義者のなかでも、保守的人間は相変わらず古い枠にこだわって新しいものを受け入れようとしなかったが、先進層のかなりの人物は新しい道を選択して、後日、われわれと手をたずさえて共産主義革命を進めた。

 共産主義運動をすべしという父の思想は、わたしの成長にとって豊かな滋養分となった。



 


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