金日成主席『回顧録 世紀とともに』

2 父と朝鮮国民会


 父は生涯「志遠」を座右の銘にしていた。

 家庭はもちろん、順和学校や明新学校など、いたるところに「志遠」の2字を大きく筆で書いて張り出していた。

 いまでも父の筆跡がいくらか残っているが、父は筆字が上手だった。

 当時は書道がもてはやされて、名士や名筆の書を手に入れ、掛け軸や額にしたり屏風をつくつたりしては自慢にした。わたしもまだ物心がつかないときは、父のそれをそのような一般的な書だと思っていた。父はそれに表具もせずに、よく目のつくところに張った。

 わたしが物心がつくと、父はわたしに国を愛するよう教え、国を愛するためには大志をいだかなければならないと語った。

 「志遠」とは文字どおり、遠大な志をいだけということである。

 父親がわが子に遠大な志をいだけと教えたからといって、何も不思議なことはない。何事であれ、高い理想と抱負をいだき、ねばり強く努力しなければ成功はおぼつかないものだ。

 しかし「志遠」の思想は、個人の栄達や身を立てて名をあげることをめざした世俗的な 人生訓ではない。それは祖国と民族のためにたたかうことに真の生きがいと幸福を求める革命的人生観であり、代をついでたたかっても必ず国の解放をかちとるべきだという不屈の革命精神である。

 父はなぜ大志をいだかなければならないのかということについて、多くのことを語ってくれた。それを一言で表現すると、朝鮮人民の反日闘争史といえた。

 …朝鮮はもともと強大な国だった。武芸が発達して戦いに敗れたことがほとんどなく、早くから文化が開けて、その光が海を渡って日本にもおよんだ。ところが李朝500年の腐敗した政治のために、それほど栄えた国が一朝にして滅んでしまった。

 おまえがまだ生まれていなかったとき、日本人は銃剣でわが国を占領してしまった。日本に国権を売り渡した逆臣を「乙巳五賊」といっている。しかし、逆臣たちも朝鮮の魂だけは売り渡せなかった。

 義兵は槍を取って「倭滅復国」を絶叫した。独立軍は、わが国を侵略した敵を火縄銃で撃ち倒した。ときには各地で蜂起した人民が万歳を叫び、石つぶてで敵を倒し、人々はみな大声で人類の良心と世界の正義に訴えた。

 対馬に捕われていった崔益鉉(チェイクヒョン)は、敵の与える食べ物を拒んで食を断ち、国に殉じた。李儁(リジュン)は帝国主義列強の代表たちの面前で割腹してわが民族の真の独立精神を見せた。安重根(アンジュングン)は、ハルビン駅頭で伊藤博文を射殺して独立万歳を叫び、朝鮮人の気概を示した。

 還暦がすぎた姜宇奎(カンウギュ)老は斎藤総督に爆弾を投げた。そして李在明(リジェミョン)は、亡国の恨みを晴らそうと李完用(リワンヨン)を刺している。
 閔泳煥(ミンヨンファン)、李範晋(リボムジン)、洪範植(ホンボムシ)らの愛国忠臣は、国権守護を訴えて自決した。

 いっとき朝鮮民族は、国債補償運動という涙ぐましい運動までくりひろげた。国債というのは日露戦争後、日本から借りた1300万円の借金のことだ。この借金を返済するため全国の男子がタバコをやめた。高宗(コジョン)皇帝までが禁煙してその運動に合流した。女性たちは、おかず代を切りつめ、装身具類を拠出した。結納品を差し出す娘もいた。財産家の童僕や針女、餅売り、もやし売り、わらじ売りたちも国の負債を返すのだと、汗のしみた小銭を惜しみなく差し出した。

 しかし、わが国は独立を保つことができなかった。

 要は、全国の人民を国を取りもどそうという一つの心に結びつけて奮起させ、敵を撃ち退ける力を養うことだ。決心さえすれば力を養うことができ、力を養えば強敵もゆうに退けることができる。

 全国の人民を覚醒させ、決起させてこそ、国権を回復することができるのだが、それは短時日では成就できない。だから遠大な志をいだかなければならないのだ…
 父はわたしの手を取って万景峰に登るようになってから、しばしばこんな話をしてくれた。父の教えは愛国主義思想につらぬかれていた。

 いつだったか、父は祖父母の前でこんなことをいったことがある。

 「国の独立をかちとれないようでは、生きていてもなんにもなりません。わたしは体が引き裂かれて粉になろうとも、日本人とたたかって勝たなければなりません。わたしがたたかいに倒れたら息子がやり、息子がたたかって果たせなかったら孫がたたかってでも、わたしたちは必ず国の独立をなし遂げなければならないのです」

 後日、3、4年あればけりがつくと思った抗日武装闘争が長期戦に移行したときに、わたしは父の言葉を想起したし、解放後、北と南に分断されて相反する道を歩むようになった民族分裂の長年の悲劇を体験しながら、その言葉にこもる深い意味に改めて粛然とならざるをえなかった。

 その言葉は、父のいだいていた「志遠」の思想と信念、祖国解放の思想と志向であったといえる。

 あれほど暮らしが苦しかったとき、父がなみなみならぬ決心をいだいて崇実中学校に入学したのも、「志遠」の志を成就するためだった。

 甲午(1894年)改革後、乙巳(1905年)条約が締結されるまでの十年余は、内政改革の波に乗って、遅ればせながらわが国に近代的教育制度を樹立するための力が傾けられていた時期だった。新教育の烽火をかかげてソウルで培材(ペジェ)学堂、梨花(リファ)学堂、育英(ユギョン)公院という学校が設立され、西洋の新しい文物を教えていたころ、アメリカ宣教師が伝道活動の一環として西朝鮮地方に建てたのが崇実中学校である。

 崇実中学校は、全国から生徒を募集した。新学問を志向する多くの青年がこの学校を志望した。歴史、代数、幾何、物理、衛生学、生理学、体育、音楽といった崇実中学校の近代的な課目は、国の後進性を克服し、新しい世界の潮流に足並みをそろえようと願う青年たちの関心を引きつけた。

 父も新学問を学ぶためにこの学校に通ったのだといっていた。四書五経など書堂で教える難解な古い学問は父の気に入らなかった。

 宣教師の教育目的とは裏腹に、崇実中学校は後日、独立運動線上で大きな役割を果たした著名な愛国人士を輩出した。上海臨時政府議政院初代副議長をへて議長を歴任した孫貞道(ソンジョンド)もこの学校の出身であり、臨時政府末期の国務議員として活動した車利錫(チャリソ)も同校の卒業生であり、すぐれた愛国詩人尹東柱(ユンドンジュ)も同校に通い中退した人である。

 康良U(カンリョンウ)先生も崇実学校の専門部に通った。当時はこの専門部を崇実専門学校と呼んでいた。崇実中学校は、崇実学校付属の中等部である。崇実学校から反日独立運動家が輩出したので、日本人はこの学校を排日思想の策源地だといった。

 「学問をしても朝鮮のために学び、技術を学んでも朝鮮のために学び、天を信じても朝鮮の天を信じるべきだ」

 父はこのような思想で学友を説き、愛国的な青年学生を結集した。

 父の指導で崇実中学校には読書会と一心親睦会が組織された。これらの団体は学生たちを反日思想で教育するかたわら、平壌とその周辺一帯で積極的な大衆啓蒙活動をおこない、1912年12月には、校内で学校当局の非道な虐待と搾取に抗議して同盟休校を起こした。

 父は勉強をしながら学期末休暇には安州(アンジュ)、江東(カントン)、順安(スナン)、義州(ウィジュ)など平安南北道と黄海道一帯をまわり、大衆の啓蒙と同志の獲得に努めた。

 父が崇実中学校在学中に得た最大の収穫は、生死をともにしうる同志を数多く獲得したことだといえる。

 崇実中学校の同窓生のなかには、父と人間的に親しく付き合い、国と民族の運命について志を同じくする人が多かった。彼らは、度量が大きく、識見が広く、人格がすぐれた人望の高い青年先覚者たちであった。

 それらの同窓生のうち、平壌の人としては李輔植(リボシ)がいる。彼は読書会にも一心親睦会にも関係し、後日、朝鮮国民会を組織するためにも大きく寄与し、3.1人民蜂起のさいも大きな役割を果たした。

 わたしたちが烽火里(ポンファリ)に住んでいたとき、彼は父に合いにしばしば明新学校へやってきた。

 平安北道出身の同窓生のうちでは、白世彬(ペクセビン=白永茂・ペクヨンム)という枇峴(ピヒョン)の人が父と親しく付き合った。父が平安北道に行けば、彼が主に道案内をした。彼は朝鮮国民会の国外連絡員だった。1960年12月に南朝鮮で民族自主統一中央協議会が結成されたが、白世彬はその委員として活動したという。

 朴仁寛(パクイングァン)は、崇実中学校時代に父と同じ寄宿舎にいた人である。入学当初、しばらくのあいだは父も寄宿舎にいた。

 1917年春、朴仁寛は黄海道殷栗(ウンリュルル)で光宣(クァンソン)学校の教師を勤め、朝鮮国民会に加入した。彼は松禾(ソンファ)、載寧(チェリョン)、海州(ヘジュ)などをめぐりながら同志を糾合中、逮捕されて1年間海州監獄で苦労をした。彼が光宣学校の教師を勤めていたとき、子供たちの書いた『半島とわれわれとの関係』という作文がいまも殷栗事績館に展示されている。その作文を読めば、朝鮮国民会の影響下にあった学校の生徒の思想動向や精神世界の一端をかいま見ることができる。

 独立運動家のうち、父と最も深く親交を結んでいた人は呉東振(オドンジン)だった。

 彼がわたしの家にしばしば出入りしたのも、父が崇実中学校に通っていたころである。呉東振は当時、安昌浩(アンチャンホ)が設立した平壌大成(テソン)学校に通っていた。たんなる人情関係を越えた思想のうえでの交際だったので、二人の付き合いは最初からひたむきで、熱ぽかった。呉東振が父の思想にはじめて共鳴したのは、1910年の春、慶上谷(キョンサンゴル)の兵隊広場(李朝末期の兵営の前にあった練兵場)で開かれた運動会のときであったという。

 この運動会には、平壌、博川(パクチョン)、江西(カンソ)、永柔(ヨンユ)などから1万余の青年学生が参加した。

 父はその日、運動会が終わったあとの弁論大会で、わが国が文明国になるには日本の文明を受け入れるべきだという一部学生の主張に対抗して、わが国の近代化はわれわれの力で実現すべきだという趣旨の演説をし、聴衆の耳目を一身に集めた。その演説を聞いた聴衆のなかに、後日の正義府司令呉東振がいたのである。当時を回想するたびに呉東振は、「あの日の金先生の演説はわたしに大きな刺激を与えた」と感慨深く述懐したものだ。

 彼は1913年ごろから貿易商(卸売り商)というふれこみで、ソウル、平壌、新義州(シンウィジュ)など国内の主要都市と中国を往来し、そのつど父を訪ねて独立運動の前途を語り合った。

 最初、わたしは呉東振をたんに善良な商人だとばかり思っていた。だが後日、八道溝と撫松に移ったときはじめて、彼がたいへんな独立運動家だということを知った。

 そのころ、松庵呉東振といえば知らない人がいないほど、彼は広く名を知られていた。財産やバックを見ると、困難な革命運動などしなくても暮らしていける人だったが、彼は銃をとって日帝と戦ったのである。

 呉東振はわたしの父をたいへん尊敬し、深い友情をいだいていた。義州にある彼の家には多くの人が出入りした。それで離れはそっくり来客の宿所にあてていた。客があまりにも多いので、そこへ女中をおいて客をもてなした。しかし、わたしの父だけは離れではなく母屋に講じ入れ、彼の夫人が手ずから台所で食事をこしらえたという。

 あるとき、呉東振が夫人同伴でわたしの家を訪れたことがあった。そのとき祖母は、記念として真鍮の食器を彼らに贈った。

 わたしが呉東振のことをくわしく書くのは、彼が父の親友であり同志であったということもあるが、わたしの青年時代と深いかかわりがあったからである。わたしは幼いころから彼に格別な親しみを覚えていた。わたしが吉林で勉強していたころ、呉東振は日帝に逮捕された。ずっとあとになって、わたしが反日人民遊撃隊の組織をはかって間島一円をまわっていた1932年3月の初め、彼は新義州地方法院で裁判にかけられた。ガンジーの予審記録文書が2万5千ページになると聞いて驚いたものだったが、呉東振のそれは、なんと3万5千ページ、64冊にもなるという。

 裁判当日、数千人の傍聴者が法廷におしかけ、午前の開廷が予定されていた裁判は午後1時すぎになってやっと開かれた。呉東振は審理をいっさい拒否し、裁判長席に駆け上がって朝鮮独立万歳を叫び、法廷を揺がせた。

 ろうばいした日本の裁判官は、あわてて公判を中断し、被告が欠席した法廷で早々に判決をくだした。上訴審で終身刑を言い渡されたが、呉東振はついに解放の日を迎えることができず獄死している。

 われわれが遊撃隊の組織に向けて困難なたたかいをくりひろげていたころ、彼の高潔な節操と闘志をうかがわせる公判の記事と、平壌監獄に護送される編み笠をかぶった彼の写真が新聞に載った。わたしはその写真を見て、呉東振の不屈の愛国心を感慨深く回顧したものである。

 このように、崇実中学校時代に父と親交を結んだ人たちは、少なからず不屈の革命家に成長し、後日、朝鮮国民会の根幹となった。

 崇実中学校を中退したあとも、父は万景台の順和学校と江東の明新学校で教鞭をとり、次代の教育に力を入れる一方、同志を集めるために心血をそそいだ。父が崇実中学校を中退したのは、革命活動の舞台を広げ、本格的な闘争をおこなうためだったという。

 父は1916年に休暇を利用して間島に行ってきた。どういう線をたどったのかはわからないが、間島をへて上海に行き、孫文の国民革命派とも連係を結んだ。

 父は、孫文を中国ブルジョア民主主義革命の先駆者として高く評価していた。父は、中国で男が弁髪を切り、毎週一日休む制度が実施されたのも、ブルジョア改革派が尽力した結果だといった。

 父は特に、孫文が中国革命同盟会の綱領としてうちだした民族、民権、民生の3民主義と5.4運動の影響をうけて新たに提示した連ソ、容共、労農援助の3大政策を称賛し、彼を度量が大きく、意志が強く、先見の明がある革命家だと評価した。しかし、孫文が中華民国の建国後、共和政治制度の樹立と清国皇帝の退位を条件に、蓑世凱に総統の地位を譲ったのは失策だったと指摘している。

 わたしは幼いころ、父が朝鮮のブルジョア改革運動について語るのもたびたび聞いた。父は金玉均(キムオキュン)が指導した甲申(1884年)政変が「三日天下」に終わったことをたいへん残念がり、開化党の革新政綱のうち、人権平等、門閥廃止、人材登用、清国にたいする従属関係の廃絶を暗示した独立思想などは、すべて進歩的なものだったと評価した。

 わたしは父の話を問いて、金玉均をすぐれた人物だと思い、彼の改革運動が失敗しなかったなら、朝鮮の近代史が変わっていたのではなかろうかと思った。

 われわれが金玉均の改革運動と政綱の制約性に注意を向け、それを主体的な観点から分析したのはのちのことである。

 われわれに朝鮮史を教えた先生は、ほとんどが金玉均を親日派と決めつけていた。解放後、わが国の学界でも長いあいだ、金玉均を親日派扱いした。彼が政変を準備するさい日本人の援助をうけたことが親日の証拠とされた。だが、わたしはそれを公正な評価とはみなかった。

 それでわたしは歴史学者に、もちろん金玉均の改革運動で人民大衆との連係に関心を払わなかったのは過ちである。しかし、日本の力に依拠したということで親日と評価しては虚無主義に陥る。彼が日本の力を利用したのは親日的な改革をするためではなく、当時の力関係を綿密に検討したうえで、それを開化党に有利に変えるためだった、当時としてはやむをえない戦術だったと指摘した。

 父は、金玉均の政変が「三日天下」に終わった主因の一つは、改革派が人民の力を信じようとせず、もっぱら宮廷内部の勢力を頼りにしたためだとして、彼らの失敗から教訓をくみとるべきだと語った。

 父が間島と上海に行ってきたのは、それまでうわさにしか聞けなかった海外独立運動の実態を確かめ、新しい同志を獲得して、今後の活動方針を立てるためだったと思う。

 世界的に見て、当時は植民地民族解放闘争にかんする問題があまり成熟していないときであった。それらの国での独立運動の方式や方法はまだ明らかでなかった。

 父が間島と上海に行ったとき、中国革命は軍閥の蠢動と帝国主義列強の干渉によって一進一退の深刻な紆余曲折をへていた。中国革命でも基本的な障害は、アメリカ、イギリス、日本などの外部勢力であった。このような事態にもかかわらず、海外に亡命した少なからぬ独立運動家は帝国主義者にたいする幻想にとらわれ、どの大国の力を借りるべきかといった空理空論にふけっていた。

 父は間島の実態を見て、朝鮮の独立は朝鮮人の力によって達成すべきであるという信念をいっそうかたくした。間島から帰った父は、大衆啓蒙と同志糾合のために寝食を忘れて奔走した。

 それは、わたしたちが万景台から江東郡烽火里に転居したあとからだった。父は万景台にいたころのように、昼は明新学校で教え、夜は夜学で大衆啓蒙活動をおこなうなどして、夜遅く帰宅した。

 わたしも父に原稿を書いてもらって、ある学芸会で反日演説をしたことがある。

 父はそのころ、革命的な詩や歌をたくさんつくつて子供たちに教えた。

 大勢の独立運動家が、烽火里に父を訪ねた。父も同志たちを訪ねて、しばしば平安南北道や黄海道一帯をまわった。そんななかで中核が育成され、大衆的基盤がきずかれていった。

 このような準備にもとづいて、父は、張日煥(チャンイルファン)、裴敏洙(ペミンス)、白世彬など愛国的な独立運動家とともに1917年3月23日、平壌学堂谷の李輔植の家で朝鮮国民会を結成した。朝鮮国民会に参加した青年闘士たちは指を切って、「朝鮮独立」「決死」と血書した。

 朝鮮国民会は、全朝鮮民族が一致団結して朝鮮人自身の力で国の独立を成就し、真の文明国家を樹立することを目的とする秘密結社で、3.1人民蜂起を前後した時期、朝鮮の愛国者たちが結成した国内外の組織のうちで最も規模の大きい反日地下革命組織の一つであった。

 1917年といえば、国内に秘密結社がほとんどないときである。「韓日併合」後に組織された独立義軍部や大韓光復団、朝鮮国権回復団のような団体は、日帝の弾圧にあって、そのころ残らず解散させられていた。地下運動をして発覚すれば容赦なくつかまる時期だったので、よほどの決心がなくては、そんな活動に参加することなど思いもよらないことだった。志のある人も国内ではどうしようもなく海外へ亡命し、あれこれの反日団体を結成する程度だった。そんな勇気もない人は、朝鮮国内で総督府の許可をうけ、かれらの忌諱にふれない程度の消極的な活動をしていた。

 朝鮮国民会は、そんなときに誕生したのである。

 朝鮮国民会は、反帝・自主の立場に徹した革命組織であった。

 朝鮮国民会の趣旨書は、将来、欧米が東洋に勢力を扶植し、日本がそれと覇を争う時期が到来するのは必至である、その機会に朝鮮人自身の力で朝鮮独立の目的を達成するため、同志の結束をはかり、その準備を進めるべきである、としている。

 趣旨書を通してわかるように、朝鮮国民会は外部勢力に期待をかける人たちとは違って、朝鮮の独立は朝鮮人自身の力で成就すべきであるという自主的な立場をとっていた。

 朝鮮国民会は間島に同志を派遣して、当地を独立運動の策源地にする遠大な計画も立てた。

 朝鮮国民会の組織は極めて緻密であった。朝鮮国民会には準備のできた点検ずみの愛国者だけを厳選して受け入れ、縦の組織体系をもち、会員相互のあいだでも暗号を使った。秘密文書も暗号で作成された。朝鮮国民会は毎年、崇実中学校の新学年度の最初の登校日に、定期的に全員の会合をもつことにした。朝鮮国民会は、その後組織された学校契、碑石契、郷土契といった合法的外郭団体でしっかり偽装した。そして、傘下に各区域長をおき、海外人士との連係を保つため、北京と丹東に連絡員を配置した。

 朝鮮国民会は、強固な大衆的基盤の上に立った組織であった。朝鮮国民会には、労働者、農民、教師・学生、軍人(独立軍)、商人、宗教者、手工業者など各階層が参加し、その組織は国内はもとより中国の北京、上海、吉林、撫松、臨江、長白、柳河、寛甸、丹東、樺甸、興京など国外にも広く伸びていた。

 朝鮮国民会を結成し拡大する過程で、父は張戊M(チャンチョルホ)、康済河(カンジェハ)、康鎮乾(カンジンゴン)、金時雨(キムシウ)など多くの同志を獲得した。それら一人ひとりの同志を見つけるために傾けた父の労苦は筆舌につくしがたい。父は一人の同志を得るためには百里の道も遠しとしなかった。

 あるとき、呉東振が黄海道地方に行く道すがら、前触れもなくわたしの家に立ち寄って、父に合ったことがあった。その日、彼はいつもより晴々とした顔をしていた。

 呉東振は、立派な人を一人見つけたと自慢した。

 「孔栄(コンヨン)といって碧潼(ピョトン)の人だが、まだとても若いんだ。見識が高く、6尺の大男で美男子ときている。性格は重厚で、それに拳法までやるそうだから、昔だったら間違いなく兵曹判書(国防相に相当する)というところだ」

 彼の言葉に父も喜び、「昔から人材の功よりも人材推薦の功を高く評価するといわれているが、そうしてみると、今度の呉先生の碧潼旅行はわれわれの運動に大きな軌跡を印したわけだね」といった。

 呉東振が帰ると、父は叔父にわらじをいくつかつくるようにといった。そして翌日、叔父のつくつたわらじをはいて旅に出た。

 父はひと月ほどして帰ってきた。どんなに遠い道を歩いたのか、わらじの緒がほとんどすり切れていた。それでも父は疲れた様子を見せず、笑顔でしおり戸を開けて入ってきた。

 父は孔栄という人に会えたので、たいへん満足していた。

 わたしは幼いころから、このように父から同志を愛し大事にすることを学んだのである。

 朝鮮国民会は、「韓日併合」後の数年間、国内外で父がおこなった精力的な組織・宣伝活動の結実であった。父がこの組織を通して大規模な活動をくりひろげようと計画したのはたしかだった。

 ところが、国民会は日帝の過酷な弾圧をうけた。日帝が朝鮮国民会の存在を察知したのは1917年の秋だった。

 風のはげしいある日、3人の警官が不意に明新学校を襲って、授業中の父を有無をいわせず逮捕した。麦田(メチョン)渡し場まで父を追っていった許(ホ)氏が、渡し場で父からひそかに伝言をことづかり、母のもとへ駆けつけてきた。母は父にいわれたとおり、屋根へ上がって秘密文書を取り出し、かまどの焚き口に入れて焼却した。

 父が逮捕された翌日から、烽火里のキリスト教信者たちは朝早く明新学校に集まって父の釈放を祈った。

 平壌と江東一帯の人たちは、平壌警察署におしかけて、父の釈放を要請する陳情書を提出した。

 父が裁判をうけるという知らせを聞いて、万景台の祖父が亨禄叔父を警察署へ行かせた。裁判に弁護士を雇うべきかどうか父の意向をたずねるためだった。叔父が家産を売って弁護士を雇うつもりだというと、父は叔父の言葉をさえぎった。            
 「弁護士も口でものをいい、わたしも口でものをいうのに、わざわざ金を出して弁護士を雇うことはない。なんの罪もない者に弁護などいらない」

 日帝は、平壌地方法院で3回にわたって父の裁判をおこなった。そのつど父は、朝鮮人が自分の国を愛し、自分の国のためにしたことがなぜ罪になるのか、わたしは当局の不当な審理を認めることができない、と強く抗議した。

 それで裁判が長引いた。日帝は3回日の公判で強引に刑を言い渡した。

 父が逮捕されたあと、亨禄叔父がわたしたちを万貴台に連れ帰ろうと、2番目の外伯父(康用錫・カンヨンソ)と一緒に烽火里にやってきた。

 しかし、母は烽火里で冬を越したいといった。母が万景台に帰らなかったのは、そこへ訪ねてくる朝鮮国民会の会員や反日運動家と連係を保ち、跡始末をするためである。

 母はすっかり跡始末をすませたあと、翌年の春、わたしたちを伴って万景台に帰った。祖父が外祖父と一緒に牛車を引いて烽火里に来て、引っ越し荷物を運んだ。

 その年の春と夏、わたしはたいへん憂うつにすごした。

 幾晩寝たらお父さんが帰ってくるの、とわたしがたずねるたびに、母は「じきにお帰りになるわよ」といつも同じ返事をした。母はある日、わたしを万景峰のブランコ場へ連れていった。そして、わたしを抱いてブランコに腰をおろし、こういった。

 「ツンソニ(曾孫のこと)、あの前の大同江の氷がすっかりとけ、木の葉が青くなってもお父さんは帰っていらっしゃらないのね。お父さんは国を取りもどすためにたたかったのに、それがなんの罪になるというの。おまえは早く大きくなって、お父さんの仇を討つんだよ…大きくなったら、きっと国を取りもどす英雄になるのよ」

 わたしは、きっとそうすると答えた。

 その後、母はわたしに黙って何度も監獄に行ってきた。そして、帰ってからも監獄でのことはいっさい話さなかった。

 あるとき母は、パルゴルに綿打ちに行こうといって、わたしの手を引いて城内に向かった。そして、チルゴルの実家に立ち寄って綿をあずけると、平壌監獄へ向かった。

 外祖母は、わたしをおいて一人で行くようにと何度も勧めた。物心のつかない子を連れて監獄に行くなんてとんでもない、ツンソニが鉄格子の中のお父さんを見たらどんなにびっくりするだろう、といって強く反対した。そのときわたしは6つだった。

 わたしは普通江(ポトンガン)の木橋を渡ったとたん、一目で監獄の建物をそれと見わけた。監獄の建物を教えてくれた人はいなかったが、建物の異様なたたずまいと周辺の殺風景な雰囲気を見て、あれが監獄だと一人で判断したのだった。

 監獄の外観は人の度肝を抜くほどいかめしく、恐ろしいものだった。鉄門、塀、望楼、鉄格子はもとより、警備員の黒ずくめの服装や目つきにも殺気と毒気がただよっていた。

 わたしたちが入った面会室は、日の射しこまない薄暗い部屋だった。部屋の空気は息づまるほどうっとうしく、よどんでいた。

 父はそんななかでも、いつものように笑っていた。わたしを見るとうれしそうに、よく連れてきてくれたと母にいった。

 囚衣を着た父はやつれていて、すぐには見わけがつかなかった。顔、首、手、足と体じゅうにあざや傷がついていた。

 父はそんな体で、かえって家族の心配をした。父の毅然とした不屈の気概を見ると、くやしいなかにも、誇らしい気持を禁じえなかった。

 「大きくなったな。家に帰ったら大人のいいつけをよく守り、しつかり勉強するんだよ」

 父は看守には目もくれず、泰然としてわたしにこういった。声も以前と変わりなかった。

 その言葉を聞いたとたん、涙がこみあげた。わたしは大きな声で「はい、お父さんも早く帰ってきてください」と答えた。父は満足げにうなずいた。それから母に向かって、筆売りや櫛売りが来たら面倒をみてやってほしいといった。それは革命同志を念頭においた言葉だった。

 わたしはその日、父の不屈の姿を見て、一生忘れられない感銘をうけた。

 その日の印象のうちもう一つ忘れられないのは、面会室で李寛麟(リグァンリン)に会ったことだ。彼女は平壌女子高等普通学校技芸科に通いながら朝鮮国民会の会員として活動していたのだが、幸いにも警察の魔手が彼女にはのびていなかった。

 李寛麟は、朝鮮国民会の会員であるクラスメートと一緒に父に面会に来たのだった。封建色の濃かったそのころ、若い女が、監獄、それも思想犯を訪ねるというのは並大抵のことでなかった。監獄に出入りしたと知られたら、嫁にも行けない世の中だった。そんなときに、モダンガールが思想犯に面会に来たので、看守も驚いて彼女に慎重な態度をとった。李寛麟は明るい表情で父と母を慰めた。

 そのとき監獄へ行って父に合ったのは、わたしにとっては一大事件だった。わたしを監獄に連れていった母の気持も理解できた。父の体の傷跡は、悪魔のような日本帝国主義の存在を肌で感じさせた。わたしは父の傷跡から、世界の多くの政治家や歴史家が日本帝国主義について分析し評価したよりもはるかに生なましい、たしかなイメージを得た。

 そのときまで、わたしは日本の軍隊や警察からそれほど乱暴をされたことがなかった。万景台に戸口調査や清潔検査に来た日本の警官が、言いがかりをつけて障子紙を鞭で突き破り、障子戸を釜にたたきつけて蓋を割ったりしたのは見たことはあったが、罪科のない人の体に負わせたそんなむごい傷は見たことがなかったのである。

 その傷跡は抗日革命闘争のあいだ、ずっとわたしの脳裏から離れなかった。そのときの面会でうけた衝撃はいまもわたしの心に大きな痕跡を残している。

 父は1918年秋、刑期を終えて出獄した。亨禄叔父が祖父と一緒に担架をかついで監獄に行き、村人たちは松山里(ソンサンリ)から万景台におれる道の入口で父を待った。

 めった打ちにされて体じゅう傷だらけになっていた父は、かろうじて足を運び、監獄の門を出てきた。

 その姿を見た祖父は歯ぎしりし、父に、早く担架に乗るようにといった。

 しかし父は、「自分で歩いていきます。命があるかぎり、どうして敵の前で担架に乗っていけましょうか。それみよがしに自分の足で歩いていきます」といって、毅然と足を踏み出した。

 家に帰った父は、叔父たちを前に座らせてこう語った。

 「わたしは監獄で、水でももっと飲んできっと生きて出獄し、あくまでたたかおうと決心した。世の中でいちばんあくどいのが日帝だというのに、そんな奴らを放っておくわけにいかないではないか。亨禄や亨権も日帝とたたかうんだ。死んでも仕返しをしなくてはいけない」

 わたしは父の言葉を聞きながら、将来、わたしも父のように日本帝国主義者と命をかけてたたかおうと心に誓った。

 父は病床にいても本を読んだ。父はしばらくのあいだ、眼病をよく治すという大おじの金承鉉(キムスンヒョン)の家で保養をしながら、監獄ではじめた医学の勉強をつづけた。その家から父は立派な医書をたくさんもらってきた。父は崇実中学校に通っていたときからその家で医術を教わり、医書を熱心に読んだ。

 父が表向きの職業を教師から医師に変える決心をしたのも、おそらく獄中にいたときだったと思う。

 父は健康が回復する前に、平安北道に向けて旅立った。破壊された朝鮮国民会の組織を立て直すためだった。

 祖父は、一度決心したことはあくまでやりとおすのだ、と父を励ました。

 父は故郷を発つ前に「南山の青松」という詩を残した。それは、体が引き裂かれ粉になろうとも代をついで屈せずにたたかい、三千里錦繍江山(朝鮮の美称−麗しい山河)に独立の新春をもたらそうという父の誓いを詠んだものである。



 


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